2-3 原理不明砲撃
ノリの必死な声で少しばかり現実に意識を引き戻されたファディルは、彼から受話器を受け取った。音声穴からノイズが響き、暫くして砲兵隊長が出た。
「班長、観測完了したか?」
砲兵隊長もノリと同じくタメ口である。
「砲兵隊長、今から非現実的な報告をします。落ち着いて聞いてください」
動揺を堪えようとしても勝手に早口なり、声の震えを抑えられなかった。
対して砲兵隊長は落ち着いた声で返す。
『お前らしょっちゅう非現実的なことやってるじゃねぇかよ』
「これから、六つの掩蔽壕を試射無し一発で撃ち抜きます」
電話の向こうに沈黙が広がる。数秒後、砲兵隊長の呆れ返った声が聞こえた。
『はぁ? 試射無し一発だぁ? 頭狂ったかクソメガネ!』
「信じていただけないのは承知です。しかし現在、敵陣地周辺の風速・気流・空気密度が、演算時と誤差ゼロの状態で完全一致し、時間が止まったかのようにループしています。私自身、信じられないのです。これは、もう──」
ファディルがこれまで一度も口にしたことのない非科学の象徴が、喉奥をこじ開ける。
「魔法、のような光景です」
受話器の向こうが再び沈黙する。やがてノイズまじりに微かに砲兵の驚くような声が聞こえた。
『風速計がずっと同じ動きをしている! 何だこれはっ!』
『あ、有り得ない⋯⋯こんなの⋯⋯』
暫しの騒ぎが向こうで起きた後、砲兵隊長の声がした。
『やはり、魔法が起きているようだな。班長、とうとう魔法まで使えるようになったか?』
「原理不明の現象ではありますが、ノリ曰くこれは制限時間十分以内だそうです。今から試射無し一発という非現実的な砲撃を実行します。よろしいですか?」
『⋯⋯ああ、頼むよ』
諦めとも感心とも似つかぬ返事だった。
ファディルは歩兵隊の通信兵のほうを向き、伝えた。
「中隊長宛、砲撃可否」
伝達形式で伝えると、通信兵は受話器に向かって「中隊長宛、砲撃可否」と復唱する。しばしして通信兵は「可」と答えた。
アリフ中隊長から許可は降りた。
これより、砲撃開始。
ファディルの脳内には、既に砲撃作戦の内容が浮かんでいた。
(陣地を撃ち、観測壕並びにタラップを破壊)
観測壕とタラップを直接砲撃するのではない。『あるもの』を使えば二箇所は一気に崩壊する。
ファディルは砲兵隊長に言った。
「砲撃タイミングは私。あなたは指示を」
『了解した。絶対失敗すんなよクソメガネ』
ノリが余裕げな笑みを浮かべて言った。
「班長、試射は不要だから本射撃可能範囲の座標でいい。ミリ単位の調整は、僕がなんとかするから」
あり得ないことをさもできて当然というような物言いに、ファディルの思考が一瞬吹き飛びそうになる。
頭を抱えながら、超精密演算の時に割り出した本射撃可能範囲の記録をファディルは呼び起こす。
脳内に赤線グリッドで構成された丘陵の立体絵図が浮かび上がり、斜面中腹の陣地に対する本射撃可能範囲を示す青い範囲が表示される。
本射撃可能範囲の情報を元に、ファディルは砲兵隊長に迫撃砲六門それぞれの座標と仰角を伝えた。
(ミリ単位は⋯⋯)
ファディルはノリをちらと見た。
(なんとか、なるのですよね?)
何をどうすればそんなことができるのか、原理不明である以上はわからない。
砲兵たちの『設定完了!』という声が受話器の向こうから響く。
「では、最適なタイミングに合わせて私が砲撃の指示を出します。一秒の誤差を出した場合、あなたがたを砲身に突っ込みます。よろしいですか?」
砲兵隊長の笑い声が聞こえた。
『おう、やれや』
「それと、砲撃をすればあなたがたの元へ報復弾が飛んでくるでしょう。突撃する歩兵隊のために、死んでいただけますか?」
暫しの沈黙が流れ、『⋯⋯お望み通りに』という押し殺した砲兵隊長の声がした。
「私たちもいずれ観測壕を特定され、敵にやられることでしょう。再会するときはお互い戦死記録の中で」
『ははっ、天国で、じゃねぇのかよ』
ファディルは上下に三個ずつ並んだ掩蔽壕のうち、下段右側の穴を見た。
(まずはあそこから)
ファディルは深呼吸し、砲兵隊長に告げた。
「一門、撃て」
受話器の向こうから、砲兵隊長の威勢の良い号令が轟く。
『一門、てっ!』
ファディルたちのいる丘陵の斜め向かいの砲兵陣地から爆音が轟き、下段右側の掩蔽壕に落下する。退路のタラップ付近だ。双眼鏡で見てみると、土埃とともにカラリヤが宙を舞い、掩蔽壕が踏まれた砂山のように崩壊する。
やった! とノリが叫ぶ。
陣地付近の草が一斉に揺らめき出す。天然壕に隠れていた敵が出てきたのだ。葉の隙間から火の粉のような赤と青の粒子が大量に噴出し、宙を舞う。赤は興奮、青は恐怖を示す生体反応粒子だ。
粒子を放つ敵たちは天辺へ向かっていき、観測壕へ突入する。赤と青入り混じるくすんだ紫色の粒子が、噴水のように天辺から空高く宙へ噴き上がった。
紫色の中に、黒い色が混じってより色彩が暗くなる。黒は死を示す生体反応粒子だ。観測壕に押し寄せた無数の敵が、観測兵を踏み倒し、圧死させたのだろう。
(退路を塞がれれば、彼らは本能的に天辺を目指す。そこに観測壕があろうとも)
これで指揮所への観測情報が途絶え、現場は大混乱へ陥る。
ファディルは続けた。
「二門、撃て」──上段中央。
粒子が観測壕から降りてくる。いくつかの粒子が物凄い速さで斜面を落下していった。敵が複数人、タラップを踏み外して斜面を転がっていったのだろう。
「三門、撃て」──下段左側。
三角包囲殲滅陣により、敵陣が燃えるように真っ赤な粒子の濃霧に包まれ、混乱が広がっていく。
粒子は退路と観測壕へ続く二つの階段を結ぶ狭い通路で、あたふたと動き回っていた。包囲され行き場を失った敵たちは、通路に閉じ込められ激しく恐慌している。
まだだ、まだ混乱が足りない。
さらなる恐怖を与えなければ。
「次、逆三角包囲殲滅陣」
これで、完全に閉じる。
最後の仕上げをファディルは告げた。
「四門、撃て」──上段左側。
「五門、撃て」──下段中央。
「六門、撃て」──上段右上。
爆音とともに残りの掩蔽壕が吹き飛び、土と破片が散る。
これで機関銃陣地は完全に機能しなくなった。
敵は葉の下でなおも激しく動き回る。
そして──
ゆっくりと、粒子の濃霧が斜面下へと沈み始める。
大勢の敵の体重と、散々走り回ったことでタラップの部品に負荷がかかり、軋み始めたのだ。
(さぁ敵のみなさん、滑り台で遊んでください)
ファディルの祈りが通じたように、粒子を放つ敵たちが崩壊したタラップとともに、一気に斜面を転がっていく。
彼らに残された唯一の退路は、もはや落下死への滑走路でしかなかった。
タラップは斜面のカラリヤを削りながら土埃を巻き上げて、麓の茂みまで落下していった。
麓からも青い粒子がいくつか立ち昇り、混乱した伏兵たちが飛び出しては、島兵たちに次々狙撃されていく。これで突撃の邪魔になる伏兵は皆殺しにされた。
下のほうから島兵たちの声が響く。
「軽機隊、撃て! 早く!」
「形勢逆転だ! いっけぇーっ!」
味方の射線が伏兵に向かって伸びていく。
ファディルは歩兵隊の通信兵に告げた。
「敵陣地侵入口、タラップ落下地点から左三・五メートル付近に斜面に穴あり」
通信兵が復唱する。突撃可否は中隊長が決める。
やがて機関銃が止まり、下から突撃命令が驚いた。
「歩兵隊、突撃ー!」
──終わった。ようやく。
ファディルはうつ伏せになり、締め付けられるように痛む頭を抱える。演算で力を使いすぎた。
「班長、お疲れ様」
振り向くと、ノリがこちらを見て笑みを浮かべていた。人懐っこい、いつもの笑顔。
「無事、終わったね。僕、もうここで死ぬかと思った」
いつも見ているその笑顔が、得体の知れない何かの微笑みのように見え、腹の奥に冷たいものが広がる。脳内に数式が書かれた。
(身体冷却式──)
目の前のノリが、ノリそっくりな別人に入れ替わったような違和感を覚える。
「ノリ、あなたは⋯⋯」
喉がからからに乾いて、声が出なくなる。
(あなたは、一体何者です?)
ノリが呻いて片手を押さえる。袖が血で赤く染まっていた。
「怪我をしたのですか?」
「うん、ちょっと。カラリヤの根で擦っちゃって」
ノリはごまかすように笑うが、明らかに袖の出血量は尋常ではない。通信兵が電話線でノリの腕を巻き、止血する。
「ありがとう。でも大した傷じゃないよ」
ノリは宙に向かって、ふわりと片手を振った。その目は、空の一点に吸い寄せられたように固定されている。まるで誰かと別れを惜しむような、静かな仕草だった。
だが、宙には──何も見えない。
誰の姿も、影さえも。
けれど、そこに何かがいたような気配だけが、確かに残っていた。
(異常行動、二回目)
雲が裂け、天から光の柱が降り注ぐ。光の中で青白い数字が花弁のように舞いながら、ノリに向かって降ってくる。その瞬間、ファディルの脳内に数式が刻まれる。数式は滑らかに展開され、拒む間もなく意味が流れ込む。
必要供物:クレーター内の内臓重量 × 破断手足 × 血液量 × 肉片密度)= 813.4キロ
補填供物:ノリ
提供単位:血液
──霊「ケイヤクカンリョウ」
(必要⋯⋯供物⋯⋯?)
ノリの嗚咽が聞こえた。そちらに目をやると、彼は片手で顔を覆い、肩を震わせていた。
「ああ⋯⋯みんなの死体を⋯⋯供物にしてしまった⋯⋯ごめんよ、ごめんよ⋯⋯」
(死体を、供物⋯⋯?)
ファディルの脳内に刻まれていた数式が、崩れていく。砂嵐のように数字がばらばらと零れ落ち、視界には、電波の切れたテレビのようなチラつきが生じる。
疲労が波のように押し寄せた。身体から力が抜け、ファディルは天然壕の土壁にもたれかかる。
脳のエネルギーをほぼ使い果たしてしまった。
半分だけ開いた瞼の奥から、ファディルは泣きじゃくるノリを見つめた。涙を流しながら、謝り続けている。
「班長、砲兵隊長から」
通信兵が受話器を寄越してくる。受け取ると、砲兵隊長の声がした。
『お疲れさん、クソメガネ』
階級差を無視した言葉遣いだが、それはファディル本人の上官命令によるものだ。
──私に対し『タメ口』は絶対です。敬語は厳禁。クソメガネという罵倒も許可致します。ただしこれは観測班と砲兵隊限定のローカルルールですので、他の上官の前で使用する時はご注意を。もし敬語を使った場合、あなたがたを砲身に突っ込みます。
ファディルは、砲撃という繊細な作業においては、「萎縮」は最大の敵だと考えていた。
自然環境の変化、風速や湿度のわずかな揺らぎを即座に報告させるには、部下に話しやすさを感じさせなければならない。
そのためには上下関係を解体し、罵倒すら許容する空気が必要だった。
『さすが神眼のファディルだな。奇跡がお前に味方した』
「あの奇跡のような現象は、ノリが私の手を繋いだ瞬間に起きました。原理は不明です。しかし起点は明らかです。私は、見ました」
『はぁ?』
「目の前で、確かに起きたのです。風が、気流が、湿度が、演算時の時のまま止まったのです」
あれが何だったのか、まだ説明はつかない。だが一つだけ確かなのは、自分の計算では絶対に説明できないということだった。
自然環境が十分間ループするという常識外の現象にも、助けられなかった。
自分はただ、いつも通り演算しただけ。
「奇跡を起こしたのは、ノリです」
『ははっ、何言ってんだか。嫌味もファンタジーすぎると通用しないぞ』
ファンタジー。ファディルが一切信じないその言葉が、今では妙に現実味を帯びて聞こえた。
『まったく、お前はノリに本当に甘いな』
ぷつっ、と通話が切れる。軽く笑ってごまかされたことに、全身の神経が逆なでされるような苛立ちを覚える。
「これは対等評価ではありません」
いつもそうだ。砲兵隊どもはファディルだけを称える。ノリの功績には目もくれない。
評価値に偏差があれば、人事演算はノイズを起こす。そのノイズがファディルを苛立たせる。
「ありがとう、班長。別にいいよ。僕はただの観測補佐だから」
ノリの明るい声がした。顔を上げると、泣き腫らした顔のノリがこちらを見つめていた。唇を噛み締め、無理矢理作ったようなぎこちない笑みを浮かべている。
(表情対比値、不正。⋯⋯演技。こちらの混乱回避対策と推測)
頭の片隅で行われているノリに対する人事演算は、数値が高速で増えたり減ったりを繰り返していた。
ノリとは何者か。今この時はじめて出会った、自分の全く知らない彼をどう再評価すればいいのか。演算を構成する数字がめちゃくちゃになって繋がらず、脳の処理が追いつかない。
(もの当て屋のノリ──あなたに対する評価を、私は全て塗り替えなければならなくなりました)
ファディルの脳内に、ノリと出会った頃の光景が浮かんできた。




