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2-2 神眼のファディル

 ノリの声が背後から聞こえた。


「それにしても、湿原に伏兵なんておかしくねぇか? 普通、こんなとこに布陣するかよ」


「そうですね。敵はまさにその裏をかいたのでしょう。大隊本部もまさか湿原に伏兵がいるなどとは想像できず、通過を命じてしまった」


「でもさ、何で敵は僕らが湿原を通過するって知ってたんだ?」


「我々の行軍経路を、敵はあまりにも正確に読んでいました。これは偶然ではありません。命令を傍受されていたとしか思えません」


 前線部隊は全て有線通信だが、後方の指揮系統では無線が使われる。敵側の諜報部隊が優秀であれば、暗号を使っていても解析される可能性はある。


「傍受⋯⋯? つまり、本部の無線が漏れてたってことかよ?」


「はい。おそらく大隊本部、もしくは連隊本部の無線です」


 ノリの声の振動が増す。


「そ、そんな⋯⋯じゃあ、僕たちが一週間前に命令を受けるよりずっと前から、敵は⋯⋯」


 ファディルは俯き、視線を落とす。


「予測していたのでしょう。命令変更を見越して、敵は偵察機でジャングルを通る私たちの進路を予想、行く先に集音マイクを仕掛け、私たちの動向を監視していた。追撃部隊が追っていたのは、おそらく湿原へ誘き寄せるための囮でしょう」


「じゃあ、追撃部隊が僕たちの到着十分前に音信不通になったのは。最後の通信に悲鳴が混じっていたってことは⋯⋯」


「囮の反転攻勢を食らい、音信不通になったのでしょう。悲鳴は、その時の混乱」


「なんで追撃部隊は偽装撤退を疑わなかったんだよ!」


 焦燥、怒り、後悔その全部が混ざったような声でノリは憤る。


 ファディルはわずかに眼鏡を上げてから、静かに答えた。


「挟撃せよ、という命令が下ったのはちょうど一週間前でした」


「一週間前⋯⋯」


「偽装撤退だとするなら、期間としてはちょうどいい。長すぎても短すぎても疑われる。ちょうどいいというのが、盲点だったのです。加えて退却方向が湿地だったことも大きい。まさかあんな場所に伏兵を置くとは、普通は考えない。湿地では銃は詰まるし、火器も使えない。泥に沈んで行軍できるとも思えない」


 ファディルは淡々と続ける。


「つまり追撃部隊にとって、偽装撤退を疑う要素がない。それが最大の罠でした。⋯⋯で、集音マイクと電話線の高度な通信網インフラで敵は私たちの到着予定時刻を読み、タイミングよく追撃部隊に反転攻勢を仕掛けたと思われます」


 湿原にも林にも集音マイク。範囲が広すぎる。となれば、どこかで情報を集約しているはずだ。観測地点までの伝達手段も必要になる。考えられるのは、電話線。


 有線式なら隠匿が容易で、水分や泥にも強い。湿地に適している。奴らは電話線と集音マイクを駆使し、湿原と林と泥の中を精密な通信網に作り変えているのだろう。各丘陵陣地がおそらく通信網の中継ポイントだ。


 この通信網の電力は、湿地帯の外から来ているはずだ。後方の大規模な基地、そこからなら発電設備も維持できる。そうでなければ、ここまでの精度はありえない。


「そして何も知らずに来た私たちは、湿原の伏兵隊に各個撃破された。あくまで私の推測に過ぎませんが」


 敵は想像以上に大規模で高度な技術を持っており、大掛かりな方法でセルク島防衛軍を潰しに来ている。本格的な上陸に備えて、島のゲリラ部隊をあらかじめ除去しておきたいのだろう。


 ジャングルは地の利的に迎撃が有利である。本格上陸後の行軍中、待ち構えていたセルク島防衛軍に包囲されては困る。


 だから敵は先遣部隊を用いてセルク島防衛軍の各部隊を一箇所に吸収、殲滅しているのだろう。


 迎撃とは本来、敵を待ち構えて叩く戦法だ。それに特化したセルク島防衛軍を行軍させた段階で、敗北は決まる。敵はそれを知っていた。


 だからこそわざと、湿原へ移動させた。カラリヤ湿原の陣地も、迎撃戦に長けたセルク島防衛軍をあえておびき寄せ、吸収する設計だったのだ。


(⋯⋯こんな目にあっているのは、きっと私たちだけではない)


 他の部隊も似たような方法でどこかで殲滅されているはずだ。そう思っても、何の慰めにもならないが。


 身体が鉛のごとく重くなり、地に沈んでいくような感覚を覚える。脳内に数式が浮かんだ。


(身体沈着式──)


 前回の作戦で大損害を被った時にも何度か表示された数式だ。  


 精神や身体に変化が生じる時、身体〜式のような数式が現れる。


 ノリが喚くように泣き叫ぶ。


「あぁもうっ! どうすりゃいいんだよ畜生っ! このままじゃ壊滅する! 終わりだぁっ!」


 ファディルは落ち着いた声で制する。


「ノリ、静かに」


 通信兵も諦めの表情で肩を落とし、電話機を整備する手を止めている。


「残念ですが、現状成す術はありません」


 機関銃の音がぴたりと鳴り止む。レンズを向けると、射線が見えなくなっていた。


(射撃終了? なぜ⋯⋯)


「あっ⋯⋯班長、班長!」


 呼ばれて振り返ると、遮光布を被ったノリが手招きしていた。


「こっち側の斜面に大きなクレーターが。みんながそっちに逃げてる」


 ファディルはカラリヤの根の下を這って反対側に向かい、ノリの隣に伏せる。茂みから斜面を見下ろす。緩やかな斜面の中原に、一個の大きなクレーターが空いていた。


 軽爆撃機の砲弾だろう。衝撃波で吹き飛んだのか、周囲のカラリヤが全て薙ぎ倒されている。そのクレーターに入ろうとしている島兵たちが、斜面を登ってきていた。


(⋯⋯クレーター?)


 ふと、ファディルは違和感を覚えた。


 資料によれば、このカラリヤ湿原で地質学会とセルク島防衛軍の共同地質耐久実験が行われたのは開戦の三年前。ならば穴がカラリヤに覆われていないのは不自然だ。


(敵が軽爆撃機で穴を開けた?)


 片方は丁寧に人力で草刈り、もう片方は軽爆撃機での刈り取り。どういうことか。


 クレーターの中に続々と兵隊たちが隠れていく。


「人?⋯⋯まるで鉄のようだ⋯⋯隙がない⋯⋯よほどの、手練⋯⋯どこだ⋯⋯どこにいる⋯⋯」


 身を伏せたノリは目を閉じ、ぶつぶつと呟いている。


 一見奇妙な言動に見えるが、これがノリの索敵行動であるとファディルは知っている。


 ノリは目を閉じたまま報告した。


「向かいの丘陵の真ん中。六人いる。上と下に三人ずついる」


 正面遠くに丘陵が聳えている。向かいの丘陵からここまでの距離を示す線が、視界に映る。距離、およそ八十メートル。


 八十メートルも先の、しかもカラリヤに完全遮蔽された丘陵をノリは目視なしで索敵していた。


 ノリの索敵に根拠はない。だが、彼が敵の存在を言い当てる確率は九割を超える。測距機も地図もないのに、彼は敵の位置をほぼ的中させてきた。並外れた超高度の感知力が、ノリにはある。


 彼は自分と同じ特殊体質者だ。


 ファディルは目に見えるものを観測し数式に置き換え、ノリは計算など全くできないがファディルの見えないものを感応能力で伝えてくれる。


 そうしてファディルとノリは、お互いの欠点を埋め合わせ、協力しあいながら観測をしてきた。


「ああ⋯⋯もっと早く索敵能力を展開していればこんなことには⋯⋯」


 ノリの超広範囲索敵能力は常に展開されているわけではない。今やっているように、目を閉じ、集中力を研ぎ澄ませている時だけ発動できる。


「何度も言わせないでください。湿原に敵がいるとは誰も予測できなかったのです」


「わりぃわりぃ、そうっすよね」


 投げやりな口調でそう愚痴を垂れ、ノリは報告を続けた。


「六人衆の周りを誰か歩いてる。うーん、なんか板の上をしゃがんで歩いてる。一人、左下いったわ。ちょっとずつ降りてってる。タラップかな? 斜面に設置されているみたい」


 六人衆の位置は不明なものの、ファディルは中原辺りへ視界をズームさせた。風に煽られるカラリヤの動きとは明らかに異なる葉の揺れを目が感知し、青白い光のマークを視界に表示させる。


 不自然な葉の揺れを示すマークは、ゆっくりと下へ向かっていく。敵が斜面のタラップを降りているのだろう。


 六人衆は葉に隠れて見えないが、周囲を移動する葉の動きでだいたいの座標を掴めた。


 他にも不自然な葉の揺れ動きを感知した。動きを観測すると、どうやら下側へ続くタラップが陣地左側に一本、上へ続くタラップが陣地右側に一本あるらしい。


 下側へ続くタラップは退路、上側は──


 ファディルは丘陵の天辺の茂みを見た。


(観測壕、ですかね)


「ノリ、丘陵の天辺に人はいますか?」


「うん、茂みの中に人が何人か集まってる。観測壕だと思う。僕たちには気づいてないみたい」


 予想通りだ。あそこに観測壕がある。遮蔽布を被っているのに、双眼鏡が反射していないかと背筋に緊張が走った。


(あそこに丘陵があるならば、砲兵隊が布陣すれば角度的に敵の観測壕から丸見えですね)


 ファディルがあの時計測した死角は、草刈りされた面を狙撃する陣地からの角度だ。クレーター向かいの丘陵も陣地だとわかったのは観測壕を登ってからだ。


(その時は間違いなく、向かいの丘陵から報復を食らいますね)


 歯痒さにファディルは溜め息をつく。


 落ち込むファディルの傍らで、ノリは淡々と報告を続けた。


「地下空間に⋯⋯複数人がいる⋯⋯なんか喋ってる⋯⋯えっと、にゅくわみゅく、ひんきゅ、じすけーじゃむ、にし、うちょ、いむぷりゃーとるって。渋いおじさんの声が、超々ゆっくりそう言ったのが聞こえたよ」


 初めて聞いた外国語を復唱するように、ノリはたどたどしく伝えた。ノリの発音の節々からわかる単語を記憶から引き出し、ファディルは翻訳する。


「正確には、ヌムクワム・ヒンク・ディスケーダム・ニシ・ウト・インペラートルですね⋯⋯『私は指揮官としてここを離れることは決してない』という意味です」


 ノリは目を閉じたまま、驚いたように声を上げる。


「すっげぇな班長、何でわかるの?」


「士官学校時代に仮想敵国の言葉を散々習いましたからね」


「じゃあ、あの丘陵の地下に指揮所があるってことか。おじさんの声の主⋯⋯あ! 将校服着てる! 肩と襟に飾緒あるよ! たぶん指揮官だ! 湿原を牛耳っている親玉!」


 ノリには地下に隠れている人物の詳細までわかるらしい。能力の原理は全くもってわからないものの、少しの羨ましさを覚えながら、ファディルは突っ込む。


「早計です。各丘陵を指揮する下位指揮官でしょう」


「あとね、おじさん、金色の花びらみたいなやつに覆われた赤い宝石の勲章付けてるわ。階級高そうだね」


 勲章の詳細で、ファディルは自分の突っ込みを即撤回する。


「それは金色紅華章です。敵国において、佐官以上で、しかも大変優秀な戦績を収めた者にしか与えられない特別な勲章です。あなたの仰った通り、彼はこの湿原陣地全体を指揮している最高指揮官の可能性が非常に高いです」


 ノリは目を閉じながら口元に笑みを浮かべた。


「よっしゃ! じゃあ地下に歩兵を突撃させりゃいいな!」


「まだ中隊長とも歩兵隊とも連絡が取れていないのですよ。それに、突撃は極めて危険です。向かいの麓の茂みにも短刀を持った伏兵が潜んでいる可能性は十分にあります。下手に突撃すれば全滅でしょう」 


「あ⋯⋯ほんとだ。茂みに伏兵いるね。だめだこりゃ」


「ところで、指揮官のいる地下空間に繋がる通路などは見えますか?」


 指揮官を捕らえられれば、この戦いは終わる。だが──


 ノリは首を横に振った。


「ごめん、僕は人間相手じゃないとわからないんだ。洞窟なら風の動きでわかるんじゃない?」


「⋯⋯仕方ありませんね」


 ファディルは八十メートル先の丘陵の麓を見た。カラリヤの大きな葉が風に揺れている。だが、風向きに逆らうように、丘陵のある一角の葉群だけがわずかに沈み、浮き上がる動きを繰り返している。


(風向きは南南東、しかし該当箇所だけ葉が北に揺れている。しかも周期が不規則。空気の流れに一致しませんね。あそこに空間が?)


 確かめようにも、カラリヤの葉が邪魔で見えない。ノリに座標を伝えたところで、精密な地形把握のできない彼には理解してもらえない。


 その時、空間があると思しき箇所付近の葉が大きく揺れた。揺れは丘陵の斜面に向かって移動していく。僅かに浮き上がった葉の隙間から、生体反応粒子が漏れ出すのをファディルは見逃さなかった。


 生体反応粒子は、丘陵の斜面で途切れた。あそこに洞窟がある。


「洞窟、見つけましたよ」


「ほんと!?」


 他にも洞窟がないか探ったところ、敵が斜面へ消えていった箇所が三つあった。地下の指揮所に繋がっているかどうかわからないが、敵陣内部への侵入経路は掴めた。


 問題は、茂みの伏兵をどうするかである。


(イルハム兵長は、どこへ行ったのです)


「あ⋯⋯何だ? 六人全員の意識が⋯⋯こっちに来る⋯⋯違うな、もっと下の⋯⋯あっ」


 何かに気づいたように、ノリは目を開けて声を上げる。


「ク、クレーター! クレーターを見てる! まさか、そ⋯⋯そんな、ああ⋯⋯みんな、にげ⋯⋯っ」


 丘陵で六つの発光が瞬くと同時に、斜面から金切り声のような悲鳴が轟いた。血飛沫が、肉片が、骨が、内臓が、細切れになって高く宙に舞い上がる。ファディルの視界いっぱいに、赤い肉物に混じって飛び交う数字が満ちた。


 ノリが絶叫し、弾かれたように倒れた。


「ノリ?」


 ノリは身体を跳ね上げるように痙攣させ、白目を向いて泡を吹いている。突然の錯乱状態に、ファディルの脳内が離滅裂な数字の羅列で塗りつぶされた。


「ノリ、ノリ。どうしたのです、ノリ」


 ノリはゆっくりと起き上がり、泡を手で拭って腹を擦る。


「シネンが飛んできただけか⋯⋯生きてる、うん」


「シネン?」


「⋯⋯何でもない」


 シネン──理解不能の単語だが、ノリがそれ以上語ろうとしないので追及は断念する。


 ノリは身体を激しく震わせながら、暗く沈んだ声色で呟く。


「クレーター、島兵を溜めて一気に処理するための処刑場だったのか⋯⋯」


 ファディルはクレーターを見下ろした。大穴が血の海になっている。


「そのようですね」


 ノリの隣に座り、受話器を片耳に当てる通信兵が報告した。


「砲兵隊から連絡。歩兵隊の通信兵がそちらへ向かっています。クレーター以外の歩兵隊、並びにアリフ中隊長は天然壕に隠れて無事だと」


「待ってください、茂みには伏兵が⋯⋯」


 バリバリッ⋯⋯と受話器の音声から聞いたことのない激しくノイズが響いた。通信兵が驚いたように握った受話器を見下ろす。


『大丈夫だ、茂みの伏兵は全て殺っておいた。今、歩兵隊の通信班が頑張って茎に電線を巻き付けながらそっちに向かって這ってきている』


 低くしわがれた声──イルハム兵長の声が、受話器の音声穴から聞こえた。


 背中に氷を当てられたような悪寒がぞわりと走る。ファディルは通信兵の握る受話器に注目し、呟く。


「イルハム、兵長⋯⋯?」


 音量調整などできないのに、受話器越しから声が聞こえるなど有り得ない。


「そんなことより班長、演算を。歩兵隊の通信兵が来たら、中隊長に砲撃可否伝えないと」


「了解しました」


 ファディルは双眼鏡を覗き、更に視界を拡大視させ、丘陵の発火点が見えた部分を見た。


 カラリヤの葉と葉の隙間に、木の根に板を打ち付け固定した機関銃が見えた。煙がこもらないようにしたのか、機関銃手は縦掘りの掩蔽壕に潜んでいる。


(あれらを砲撃するには⋯⋯)


 銃眼の位置から、掩蔽壕の天井部分の座標をピンポイントで正確に割り出さなければならない。砲弾は放物線を描き真下に落ちるからだ。


 カラリヤの分厚い壁さえなければ、そんな面倒なことはせずに済んだというのに。


(超精度の演算が必要ですね)


 いつもなら、ファディルは敵陣全体を見渡しながら、砲兵陣地との距離や弾道を概算で割り出し、試射で調整する。


 だが今、補給はない。弾数はわずか。試射で外せば敵砲兵に位置を知られ、報復射撃が飛んでくる可能性がある。


 それでも残り少ない弾数で、一か八かピンポイント砲撃をやるしかない。そのためには、通常より遥かに精密な演算が必要となる。


 ファディルは向かいの丘陵と麓を視界いっぱいに収めた。


 先ほどの射撃の射線で、機関銃兵たちの位置は正確に特定できた。


 静寂の中、ファディルの周りに風が吹き、銀色の毛先が揺れた。


 ファディルの赤い瞳がほのかに輝き出す。


「──演算、開始」


 自身の瞳の輝きに、ファディルは気づかない。


 ──視界が、変質する。


 周囲に広がる全てのカラリヤの葉、その一枚一枚にグリッド状の計測網が投影される。


 網目は滑らかに脈動しながら、葉脈や傾斜、湿度勾配、葉の厚みを即座に測定していく。


 その上を、青白く光る流体粒子が帯のように流れていく。


 それは風だ。


 風速、風向、渦、干渉──あらゆる気流情報が三次元的に可視化され、葉の網面をなぞるように粒子が踊る。


 ファディルの眼には、それら全てが演算対象として自動的に取り込まれていた。


 すでに脳内では、風による弾道の偏差、湿度による空気密度の変化、それに伴う圧力傾斜が膨大な数式として展開されていく。


 六つの銃眼の座標、角度と、砲兵隊を隠匿した地点からの弾道、幅、風の動き、湿気の層、空気抵抗などをたった数秒で数値化する。


 視界に映るもの全てを数値化するこの能力を、ノリや砲兵たちは『神眼』と呼んでいた。 


 神の眼を持つ観測兵、それがファディルである。


 ファディルの眼の輝きが失せる。


「演算、完了」


 ノリの不安そうな声が聞こえた。


「でもさ、あんなところにどうやって砲撃するんだ?」


「あれらを狙うには、斜めの方向からミリ単位込みの超精度の砲撃が必要です。当たり前ですが砲身にミリ単位の調整は不可、撃てば数メートルは余裕でぶれる。たとえ何百何千もの試射を重ねても、あの銃眼への砲撃は不可能です。お手上げです。歩兵を機関銃陣地に突撃させるのを待つしかありません」


 もう終わりだ。ファディルは匙を投げた。


 突撃したとしても、丘陵麓の茂みに潜む白兵たちに皆殺しにされるのは自明だが。


「ミリ単位、か⋯⋯」 


 通信兵が砲兵隊に訊く。


「残り弾数は? はぁ!? 残り六本だぁっ!? 試射不可能じゃないか!」


 ノリが落胆したように笑う。


 絶望は静かに、全員の背に貼りついていた。この場の誰もが理解している。銃眼の殲滅は、もはや不可能だと。


(命運、尽きましたね。どうやらここまでのようです)


 わかりきっていたことだった。


「⋯⋯いや、できる」


「何を?」


 ノリは真っ直ぐ丘陵を見つめていた。その瞳には、揺るぎない決心が満ちていた。


「ミリ単位で、試射なし。一発で。僕になら、ね」


「⋯⋯何を言っているのです、ノリ」


 試射無しでの一発砲撃、それは自然法則に反する。風速、湿度、気圧、地温。空気の密度、地形のわずかな歪み。すべてが砲弾の軌道を狂わせる。だから必ず試射を行い、補正していく。


 ノリの発言は、まるで自分は『魔法が使えます』と断言しているかのよう⋯⋯。


「魔法使いを気取るつもりですか? 何を馬鹿なことを」


 ノリはファディルの手の甲に掌を重ねた。


「手を離さないで」


 重ねた手から青白い光が立ち上がり、ファディルは息を呑んだ。粒子状の光のなかに、無数の数式が浮かび上がる。精密すぎる演算式、座標値、風速変動、振動補正。


「演算記録、想念開始」


 ノリは目を閉じ、聞き慣れない言葉で呟き出す。異国の言語だろうか。聞いていると、脳内に謎の命令式と数式が浮かび上がった。


 ──霊語、解読中。


 霊──の変数記録検索開始。日付け⋯⋯ミリ単位砲撃、風速、地点の⋯⋯座標同期 、受信完了。


 変数凍結実行命令⋯⋯湿度、空気抵抗、気圧、気流軸、風速、熱移動因子⋯⋯霊──にて演算空間展開。


 計測中⋯⋯弾道誤差〇.〇〇〇一%まで修正⋯⋯結論、実行可能。


 ──霊術詠唱『風の⋯⋯たちよ⋯⋯記録⋯⋯を、⋯⋯通、⋯⋯りに風⋯⋯を留めよ⋯⋯』


 変数固定制限時間、十分以内。


 脳内に満ちる、意味不明な言葉の羅列。


(これは、命令式? 何かを、実行させるための⋯⋯)


 文中に散らばる「ミリ単位」「風速」「座標」「演算」という単語からして、何かを計算しているとファディルはなんとなく思う。


 ノリが手を離す。


「変数固定完了。もう一回、演算してみて?」


 再び演算する。視界がグリッド状の網目に覆われた時、心臓が跳ねるように激しく脈打ち、ファディルは声を震わせる。


「こ、これは一体⋯⋯」


 湿度、空気抵抗、気圧、気流軸、風速の動きと数値が、演算時と全く同じ状態でループしている。まるで丘陵周辺の空間の時間が止まったかのように。


 非現実的としかいいようのない異常な光景に、脳内の数式が崩れ去っていく。ファディルは怯える小鹿のごとく身を震わせることしかできなかった。


「し、信じられません。こんなことが、そんな、一体どうして⋯⋯っ」


 ノリは通信兵から受話器を奪い取り、ファディルに渡した。


「班長、環境ループの制限時間は十分以内だ。急いで砲兵隊に弾道演算結果の報告を!」

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