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2-1 カラリヤ湿原の戦い

 ラフマンたちは一列になってカラリヤ原へ突入した。木々の間を通り抜けると視界が開け、広大な湿地が目の前に広がった。


 フキのような形状の大きな葉が、泥の上に密集して生えている。日の出を淡く反射させた朝靄がうっすらと遠くに立ち込め、葉の上を滑るように流れていく。湿原の周りには林の黒い影が見えた。


 葉の背丈は約五十センチほど。ラフマンの太腿ぐらいまである。ラフマンは足元を見下ろした。


 これがカラリヤ。名前は聞いていたが、想像以上に大きな葉だ。幅は一メートル以上あるだろう。


 カラリヤは葉と茎に大量の水を含んでおり、切れば水が垂れ落ちるという。葉は食用にもなり、煮込めば野菜のような味がする。根に付く芋は蒸せばほんのり甘い。


 カラリヤ湿原で猟をする時は、カラリヤが飲料水と食糧になる──と、村の猟師がそう言っていた。


 既に前にいる島兵がカラリヤの葉を切り取り、葉から滴る水を飲んでいた。ラフマンも喉がからからに渇いているが、ウタリがいるため屈めない。嗚呼畜生、何でこんなやつ拾っちまったんだとラフマンは激しく後悔する。


 苛々して深呼吸する。息を吸い込むと肺にひんやりした空気が満ちる。冷たい朝靄が心地よい。


(戦場なのに⋯⋯いい場所だなぁ)


 遥か遠くまで続く壮観なカラリヤ原を見て、少し救われたような気分になった。


(偵察機、来ねぇよな)


 急に緊張が走る。遮蔽物のない開豁地では、昼間の移動は偵察機の格好の的だ。そのため、偵察機を飛ばせない夜間から薄明辺りまでしか歩けない。薄明はギリギリセーフな時間帯だ。


 とはいえ、湿原には底なし沼や泥の深い箇所が点在しているため、夜間の移動は命取りになる。視界がある程度確保され、かつ偵察機にも発見されにくい薄明こそが、湿原通過には最適な時間帯だった。


 ラフマンは時々薄暗い空を見上げては機影を探し、見えないと安堵した。


 どれぐらい歩いただろう。ラフマンから見て右手に山のような丘陵が見えてきた。 


 地上とは違い、丘陵は隙間なく重なり密集したカラリヤに覆われ、地表は全く見えない。


 右手の丘陵の向かいには、さらに背が高く幅の広い丘陵がある。左手には、登れそうにない岩肌の急陵が聳えている。


 平らな湿地に出来た異様に大きな丘陵群、急陵をラフマンは食い入るように見つめた。壮観な眺めだ。


「お山! おっきい!」


 カラリヤを傘のように握りしめるウタリが騒ぎ出し、ラフマンはげんなりする。捨てたいが、命令に従順な身体はそうさせてくれない。


 いきなり目の前の島兵が立ち止まり、ラフマンは奴の背中にぶつかる。 


「勝手に止まるな馬鹿」


「いや、あのさ⋯⋯」


 後ろでさっさと歩け! 止まるな! と罵声が飛ぶ。


「何か、線が」


 島兵はカラリヤの葉をめくった。回線のような線が一本、重なった葉の間を通っている。悪寒が背筋を駆け抜けた。湿地に人工物? なぜ⋯⋯。


 島兵は葉を裏返す。すると茎と葉の間に、機械のようなものが結びつけられていた。小さなマイクのような形状だ。


(マイク?)


 これは一体何かと頭が下がるより先に、本能的が何かを予期して悪寒で訴えていた。


 パン、パパパパッ──突然どこからか乾いた銃声が鳴り響き、後列から悲鳴が上がる。 


「何だっ」


 銃声音がこちらへ近づいてくる。肩越しに振り返ると、細切れな肉片と血が宙を舞って飛び散っていた。


(敵!?)


 ラフマンは咄嗟にカラリヤ原へ飛び降る。一瞬、頭上を風切り音が飛んでいった。


 カラリヤの下の泥に倒れたラフマンは、伏せたまま顔を上げた。突然の敵襲に敏感な身体はすぐさま回避してしまった。撃たれればよかったのに、と少し後悔する。


 隣で呻き声がした。見ると、頭部が半壊した前列の島兵を見て絶句する。脳汁と血が泥を濁らせていた。


(一体どこから?)


 どこにも敵の気配なんてなかった。


(なぜ後列を? 退路を立つためか?)


「ねぇ、花火の音するよ? 何かな?」


 すぐそばでウタリの声がした。何が起きているのか何もわかっていない無邪気な問いに、ラフマンは苛立つ。


「黙ってろ、化け物っ」


 自分は役立たずだ。せいぜいここで泥に浸かり魔女のお守りをする他ない。


 ◆ ◆ ◆


 ラフマンとウタリから数メートル離れた地点──


 ファディルはカラリヤの葉からそっと顔を覗かせ、泥の中を散開し走る島兵たちを見た。彼らはみんな、悲鳴を上げて全速力で走っている。 

 ファディルはカラリヤの葉からそっと顔を覗かせ、泥の中を散開し走る島兵たちを見た。彼らは、悲鳴を上げて全速力で走る。 


 ファディルは双眼鏡で遠くの林を見た。暗い木立が点々と発光している。


「まさか、湿地に潜んでいたとは」 


 普通、湿地に伏兵などあり得ない。何の意図があってこんなことを。情報不足の今では考察不可だ。双眼鏡越しに光る発火点と島兵たちの血と肉片を、ファディルはじっと見つめる。


 飛び散った肉片と血が視界が映るたび、ファディルはそれらから青白く光る『数字』が放たれるのを見た。


 ファディルは目に映るもの全てが数字を放って見える。


 ファディルは生まれつき弱視で、視界がぼやけていた。度の弱い眼鏡では、輪郭のにじみを完全に防げない。だが、数字が補ってくれる。


 島兵たちの体温、脈拍、歩幅、数値の差異が、彼に像を結ばせる。視界は曖昧でも、数式は明確だった。


 眼鏡で外界を縁取り、数式で中身を補う。それが彼にとっての現実だった。


 視認された各数字が脳内で組み合わさり、数式化される。倒れた島兵、破壊された部位、血と肉の数字から脳が自動的に損耗率を割り出す。


(損耗率、3.269%)


 ファディルにとって、死は損耗率という数字でしかない。ファディルの意識は死んでいく島兵たちではなく、彼らの散らす肉物に向いていた。


 ガザガサと隣で音がして、ファディルは顔を上げる。隣の葉の隙間から顔を出したのはノリだった。


「班長、これ見て」


 ノリが差し出したのは小さなマイク状の機械だった。二本の千切れた回線が垂れている。ファディルは機械を受け取り、正体を察した。


「これは⋯⋯『集音マイク』ですね」


 足音や話し声を拾うための聴音機器だ。ジャングルや泥地は音が聞こえにくい。そのため、敵は集音マイクを仕掛けていたのだろう。


 ノリは震えた声で呟く。


「ということは僕たち、ずっと敵に監視させれていたってわけか。ジャングルを通っている時も、話し声とかも、全部」


「そういうことでしょうね」


 ファディルは再び双眼鏡を覗き、逃げていく兵隊たちを見た。彼らは浅瀬を駆け抜け、丘陵のほうへ逃げていく。


 丘陵の麓と斜面は見渡す限り草地のように見えたが、ふと違和感を覚える。葉が風に揺れる角度も、反射の強度も、あまりに不自然だ。


(草地? いや、違う)


 ズームすると、草地ではなく、葉だけをすっぱりと切られたカラリヤの茎の群れだった。


 ──刈られている。人の手で。 


 喉の奥が冷たくなる。


 混乱し発狂する島兵たちはそれを疑いもせず、草刈りされた緩やかな丘陵を登っていく。


 高台に上がれば安全と信じている島兵の本能からだろう。中腹まで登った途端、島兵たちが血しぶきを上げ、手足、肉片、内臓を撒き散らしながら倒れていく。ノリの悲鳴がこだました。ファディルは息を呑んで視線を泳がせる。


(一体、どこから⋯⋯?)


 ファディルは丘陵を上がった島兵たちを撃つ敵陣地を探した。超高速で飛ぶ機関銃弾を自動的に目が補足し、射線を青白い光線で表す。


 宙に描かれる光線の発生源を辿ってみると、百メートル離れた位置にある丘陵に行きつく。


 丘陵の地表は密集するカラリヤの葉に隙間なく覆われ、敵の姿はおろか機関銃の発火点や煙すら見えない。


 敵はカラリヤの葉と葉の僅かな隙間から、向かいの丘陵を定点射撃しているようだ。


 完全に遮蔽された機関銃壕。その向かい斜面の草刈りされた部分は、遠目には自然な草地にしか見えない。


 自分も双眼鏡で見て、初めて草刈りされていると気付いたのだ。斥候が「敵影なし」と誤認したのも、当然といえば当然だろう。


(丘陵に布陣したのは⋯⋯)


 泥地で戦えば銃が詰まって故障。足も取られる。だからあえて丘陵に布陣し、草刈りして射界が確保された斜面へアリフ隊を誘導する必要があった、とファディルは推測する。


 集音マイク、丘陵に伏兵。不明瞭だった状況が徐々に明確になってゆくが、まだ不確定要素が多すぎる。


 情報が欲しい。高台に登り、観測し情報収集すべきだと判断したファディルは、草刈りされた丘陵の向こうに広がる林に注目した。


 双眼鏡を向けると、ズームをしていないのにレンズ先の視界が拡大される。これも脳がファディルの意思と無関係にやっていることだ。


 脳の奥がずきりと痛む。射線距離の計測並びに生体ズームは脳のエネルギーを消耗する。使い過ぎれば頭痛と集中力低下を伴う。エネルギーリソースの維持には、双眼鏡を使いズーム距離を短縮するなどの工夫が必要だった。


 林に埋もれた丘陵の側面は草刈りされていない。敵は丘陵を誘い込むことを意識し、林に面した側は手入れしていなかったのだろう。


 機関銃の射線は丘陵の中腹に向けられている。機関銃陣地側の麓へレンズを向けると、カラリヤが密集していた。あの茂みを通って林まで行けば、安全に天辺へ行ける。


「ノリ、あの林から丘陵の側面へ登り、天辺の茂みを目指します」


 ファディルは丘陵の天辺の茂みを指差す。


「ねぇ班長、僕を殺す気? いくらなんでもあそこは⋯⋯」


「機関銃の射線は中腹に定点されているので弾は天辺まで飛んできません。観測場所には最適です」


 背後から声がする。


「班長、俺らはどうするの?」


 振り返ると、砲兵たちが不安げな顔でこちらを見ていた。


 ファディルは草刈りされた面を射撃する陣地から、斜め向かいの丘陵を見た。機関銃陣地から丘陵までの距離を、青白い光線が示す。線は丘陵の中原に当たっていた。


 丘陵の標高は高く、カラリヤは部分的に生えているだけで、断崖や土の突き出た急峻な坂が多い。こうした地形で布陣するのは難しく、丘陵上に敵の気配はないと見ていい。


 ズームして見ると、丘陵の麓には一部、平坦な岩地があった。布陣するならそこだが、周囲は泥沼で移動は困難。砲撃後の転進は不可能で、何より敵の観測兵に見つかれば即座に狙撃や砲撃を受ける。岩地への明確な布陣は不適切だ。


  しかし、敵陣地から死角になっているのはこの丘陵の麓しかない。岩地周辺のカラリヤの茂みに、砲兵隊を一時的に隠匿するという選択肢以外なかった。

 

「あの丘陵は死角になっています。砲兵隊は私の指示があるまで、あそこの麓の岩地付近のカラリヤに隠れていてください。布陣すれば敵に見つかります。通信班二名は私達に同行し電話線を引いてください。あと、歩兵隊の通信兵を呼びに行き、観測班と中隊長が連絡を取れるようにしてください」


 アリフ中隊長と連絡が取れない時は一部指揮権の代行として、少尉のファディルが軍曹の砲兵隊長に直接指示を出すのが規則となっている。


 連絡が取れるまで何もせずにいれば、味方が敵に包囲されて無駄死にする。一部指揮権を代行せねば、配置も通信も砲撃も、全てが手遅れになる。


 とはいえ砲兵隊や歩兵隊との調整を経ずに砲撃指示を出すことはできないので、ファディルの任務は砲兵隊の配置指示、観測及び電話線の接続支援などに限定される。


 アリフ中隊長と繋がった場合、ファディルは指揮権を返上し、上の命令通りに任務遂行する。


(歩兵隊と合流できなければ、砲撃すらろくにできません。生きててくださいよ、臆病者)


 砲兵たちは迫撃砲を担いで死角の丘陵へ向かった。通信兵の一名が歩兵隊と連絡を取るために移動し、残った二名がファディルのそばへ寄ってくる。


「麓の茂みに隠れながら林を目指します。付いてきてください」


 ノリと通信兵たちは了解と答え、カラリヤの茂みに身を潜めながらファディルたちは林を目指した。


 ファディルが先頭を行き、ノリがその後ろに続き、一人の通信兵が背負った電話線を引き、もう一人がカラリヤの茎にすばやく被覆線を巻きつけていく。頭上のカラリヤの葉を、島兵たちの撒き散らす血と肉片が叩く。


 体液が葉の隙間から滴り、眼球や指が泥に落ちる。茂みの中に腐った魚のような臭いが立ちこめており、ファディルは顔をしかめる。


(ああ、生臭い)


 生きていた人間が解体される臭いは死臭より生臭く、胃から酸っぱいものが込み上げてくる。


 背後でノリの嘔吐する音が聞こえた。


 右側から葉の揺れる音がした。黒い影が視界の端に映る。


 顔に泥を塗り、殺傷ナイフを片手に持った敵兵だった。


 奴は獲物を追う獣のごとく目をかっと見開き、襲いかかってくる。ノリの悲鳴が轟く。


「班長、危ないっ!」


 敵兵の横を影が横切り、奴の喉から血が大量に噴き出る。


 影の正体は、黒い外套を纏い、片手に軍刀を握る一人の男。軍刀の矛先が敵兵の喉を貫いている。


 黒い外套の裾がぬらぬらと濡れていた。血か泥か分からない。


「あなたは、イルハム兵長」


 歩兵銃を持たず、軍刀で白兵戦を行う特異な島兵だ。


 イルハムは顔に垂れかかる長い髪の隙間からファディルを見て、掠れた静かな声で言う。


「茂みに白兵どもが潜んでいる。俺が全部殺るから、早く行け」


 濁った黒い瞳が、ファディルを凝視する。光の届かない、暗い水底のような瞳だ。目を合わせていると、謎の目眩を覚えた。


「はい、お気遣いありがとうございます」


 ファディルは再び進み出す。途中、茎の下に転がる敵兵の死体が見えた。喉に噛み切られたような深い傷跡がある。野獣に噛まれたのだろうか。


(野獣まで出てこられたら、厄介です)


 林に出る。ファディルは立ち止まり、双眼鏡で林の中を確認する。ふと、レンズに青い炎が見えた。 


 遠くのシダの葉に集音マイクが仕掛けられていた。脳の自動捕捉で、機械が青い光を放っているように見える。


(林にも集音マイク⋯⋯?)


 集音マイクから視線を逸らすと、林の更に奥に青い光の群れが見えた。視界が自動的に拡大される。


 青い光を放つ鉄帽が茂みに潜んでいた。脳が敵の生体反応を感知したようだ。ファディルは小声でノリに言った。


「ノリ、林にも伏兵がいます」


「何だって!」


「私たちが迂回することも想定して伏兵を忍び込ませていたようです」


 つまりアリフ中隊長が仮に大隊本部の命令を無視して迂回、待機、撤退したとしても伏兵に攻撃される運命だったのだ。


「機関銃の音に私たちの物音がある程度掻き消されていると思いますが、集音マイクに拾われれば厄介です。なるべく音を立てないように」


 ファディルは丘陵側面を登った。剥き出しになったカラリヤの太く頑丈な根を掴む。鋭利な木の皮が手袋を突き破り、手のひらに突き刺さる。激痛に歯を食いしばり、ファディルは上へ向かう。


 草刈りされた斜面を島兵たちの叫び声がこだまする。


「茂みへ! 茂みへ向かえ!」


「撃たれるぞ! 早く隠れろ!」


 彼らはどれだけ撃たれても、なお頂上の茂みへ逃げ込もうとする。その逃避心理を利用して、敵はあえて天辺の茂みを残しておいたのだろう、とファディルは推測した。登れば動きは遅くなり、その間に狙撃される。


(転がり落ちれば、死んだと勘違いされて狙われないでしょうに)


 だが混乱状態の島兵たちにそのような思考は不可能なのだろう。


 天辺の茂みにたどり着いた。通信兵の一人は砲兵隊に戻るため下山した。


 天辺にはカラリヤの太く頑丈な根が地表に張っており、ところどころに深い窪みが出来ている。カラリヤ湿原の丘陵には、天然壕が多い。観測壕には最適な場所だ。


 ファディルは腰嚢から黒い遮光布を取り出し、身を隠した。窪みに入り、茂み越しから双眼鏡で機関銃壕を見る。


 機関銃陣地は丘陵の中腹にある。下から突撃、または手榴弾を投げ込まれにくく、上からの砲撃を防ぐには丁度よい位置だ。


 射線だけ青い光として見える。だが葉と葉の隙間が狭すぎて敵の姿、発火点、煙は見えない。ファディル以外の観測兵であれば、恐らく座標の特定すらできない。


 敵の生体反応粒子も、分厚い遮蔽物があれば全く見えない。


 ファディルの目には、一つ欠点がある。


 透視は、不可能。


 見えないものは、普通に見えない。


 ファディルは中にまっすぐ線を引く青い光に焦点を当て、拡大する。機関銃がすぐそばにあるにも関わらず焦げ一つ付いていないカラリヤの葉を見て、ファディルはうんざりする。


 葉が密集したところで機関銃を撃てば普通は火災が起きるが、カラリヤの場合は訳が違う。


 開戦間近の作戦会議で読んだ、地質学会によるカラリヤ湿原の調査資料によれば──


 カラリヤは葉と茎の水分量が九十五パーセントもあり、火炎放射を長時間あててやっと焦げるぐらいの耐火性を誇る。火花や薬莢の熱くらいでは燃えず、焦げることもない。


(煙による酸欠も、ある程度は回避可能)


 煙は密集する葉の下を上へ向かって流れていると思われる。葉と地表の間隔が五十センチ空いていれば煙を吸うことなく、機関銃兵が窒息死することはないだろう。


 ファディルは射線を示す青い光の線の根元へレンズを向ける。葉と葉の間に出来た小さな隙間が見えた。あれが機関銃の銃眼である。


 あれほどの小さい銃眼を襲撃にはどうすればよいか。地上から機関銃で銃眼を狙っても、平均五十センチのカラリヤ下の壕に隠れている敵には、角度的に当たらない。


(砲撃も、メリットなし)


 風速や重力の影響で、弾道は数メートルもズレる。試射を重ねて本射撃に入ったとしても、掩蔽壕に一発で当てるのは現実的に不可能だ。迫撃砲の破片が飛び散っても、数メートル離れた地点から斜面の掩蔽壕へ直撃するのは超低確率である。


 それに、破片は遠くへ飛べば飛ぶほど威力も減退する。何層にも重なった厚さ八ミリの葉が、天然のクッションとなって砲弾の威力をさらに半減させ、破片を食い止めるだろう。地表に潜む敵までは届かない。


(土砂崩れも、迫撃砲の威力では不可能)


 カラリヤの根は木の幹並みに頑丈で、頂上から地下深くまで複雑に張り巡らされている。絡み合ったその根には大量の水分が蓄積されており、衝撃を分散、吸収する。コンクリートの壁さえろくに破壊できない迫撃砲で土砂崩れを引き起こすのは、無理である。

 榴弾砲があれば余裕で陣地を破壊できたが、今ここにはない──


(爆風による即死も、期待できない)


 数メートル離れた場所から発生した爆風の威力は、各掩蔽壕に届くまでにはアロエ並みの水分保有量を誇る葉と茎で分散される。密集する天然の水筒のせいで、内臓を破裂させるほどの圧は届かないだろう。せいぜい鼓膜が破れるか脳震盪を起こす程度だ。


 以上のことは、ファディルの卓上理論などではない。セルク島の地質学会が、何十年も前から防衛軍とともに緻密な検証を重ねて判明した事実である。


 地質学会はカラリヤ湿原に点在する丘陵の強度を調べるために、セルク島防衛軍と協力して斜面を爆撃したことが何度かあった。調査資料によれば、セルク島に点在する各カラリヤ湿原の丘陵は全て、軽爆撃機の爆弾ですら崩壊しなかったという。それならば迫撃砲の威力など、もはや取るに足らない。


(これでは⋯⋯)


 砲撃観測は、全く意味をなさない。いやそれどころか、砲撃をしてはならない。


 砲兵隊は丘陵の裏に隠した。そこが唯一の死角であり、砲兵隊に許されたただ一つの安全地帯だった。だが丘陵の周りは泥沼であり、彼らはあそこから一切動けない。


 もしアリフ中隊長と連絡が取れた後、砲撃すれば、敵の観測兵が砲兵隊の位置を特定するだろう。逃げられない砲兵たちは、報復弾で皆殺しにされる。


(まさか、観測や砲撃もさせないことも計算込みですか⋯⋯?)


 双眼鏡を覗き込む自分も、どこかに潜む観測兵の双眼鏡に映っているのではないか。そんな被害妄想が頭を過る。


 双眼鏡を握る手が自然と震え出す。


 視界の全てが葉で覆われ、砲撃も不可能な時点で、観測兵としての自分は死んだも同然だった。


 敵がどこかで、観測? させねぇよとほくそ微笑んでいる姿が目に浮かぶ。


(⋯⋯手段、ゼロ)


 一つの銃眼が沈黙すると、間を置かずに別の銃眼が火を吹く。狙いは正確だ。個々の兵を狙って撃ち抜く、間合いと照準の一発必中型。


 長時間撃ち続ければ銃身は焼け、弾も尽きる。交代制で発射を分散することで、熱も弾も節約できる。この連射ルーティンを維持にする構造を、ファディルは察する。


(昨夜のスコールが災いしましたかね)


 ファディルは手元の湿った冷たい土を握りしめる。敵は昨夜のスコールで大量の冷水を集め、湿った土の天然壕に保存したのだろう。


 湿った土は気温変化しにくいから、天然壕は自然の冷蔵庫になる。天然壕に機関銃を数丁、整備員を複数人配置すれば、機関銃の冷却、装填、掃除、設置の作業をこまめに繰り返せる。


 もしスコールがなかったとしても、敵はカラリヤの根を切って冷水を確保していただろう。 


 調査資料によれば、カラリヤは地中深くに根を張り、粘土層に挟まれた透水性の帯水層から冷たい地下水を吸い上げている。


 地下水は根にたっぷり溜められ、切れば大量に出てくるので、スコールなどなくとも十分に冷却水を確保できる。彼らは、この地を完全に冷却装置として使いこなしている。


 今回に限っては、スコールがあったおかげで運良く大量の冷水を得られたにすぎない。こちらにとっては不運の極みだが。


 腸がじわりと熱を帯びた。ファディルは唇を噛み、表情を崩さぬまま、心の中で悪態を吐く。


(全く、いいところに陣取ってくれましたね)


 それ以上は何も考えられず、ファディルは機関銃陣地からレンズを逸らし湿原に向ける。


(ならばせめて、退路だけでも見つけなければ)


 カラリヤの全く生えていない部分がレンズに写る。底なし沼だ。逆にカラリヤが密集している部分は浅瀬。浅瀬付近には丘陵がいくつもあり、斜面の一部が草刈りされている。


 アリフ隊が浅瀬のどこを通っても必ず狙撃できるよう、各丘陵にも機関銃壕を設置していたようだ。


 浅瀬は唯一の退路だ。そこに陣地を置かれてはもはや逃げようがない。


(泥の深い場所へ踏み出せば足を取られ、時間を稼がれる。その時間で丘から撃たれる。仮に突破しても林には伏兵がいる)


 ファディルは双眼鏡を下ろし、項垂れる。


 もう、この泥沼からは逃げられない。


 胸の中を何かが押し潰すような感覚が、じわりと広がる。


(隙も退路も無し、ですか)

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