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5-4 櫓の守り人

 ヤグラノモリビト──理解不能の単語に、ファディルの演算は微塵に吹き飛ぶ。

 

 ノリは血を噴き出しながら、喉の奥から声を絞り出すように言った。


「そう、櫓⋯⋯つまり観測壕の守り人ってことさ」 


 ノリの肌の毛穴が視認できるほどに広がり、そこからも鮮血が流れ落ちる。


 ファディルはウタリの血が入ったバケツを探した。崩れ落ちた壁の端に、倒れたバケツがある。血溜まりが広がっていた。全身出血の理由はわからないが、急がなければノリが失血死してしまう。


「至急手当ていたします」


 ファディルは痛む足を引きずりながら血溜まりに近寄り、両手ですくう。手が震えるあまり、指の間から血が垂れ落ちた。一滴も零してはならないと胸を焦がすたびに震えは酷くなっていく。


「絶対に死なせません⋯⋯」


 生まれてから一度も口にしたことのない言葉を吐き、ファディルは駆け足でノリのもとへ戻る。両手の間を開き、残った血を全てノリの口へ注いだ。これで謎の全身出血は抑えられる。


「ノリ、飲んでください」


 ノリは咳き込みながらも喉を動かす。吐血と違う喉の動きに、ちゃんと血が食道から胃袋へ流されていくのを確認し、ファディルは安堵した。


 だが、数秒、一分経っても血が引かない。皮膚の再生状態を計測しても、蘇生が始まった様子は見られなかった。


「再生しない⋯⋯?」


 内臓の冷えるような悪寒が走る。


 蘇生どころか血の流れ出る量はどんどん増していき、足元が崩れ落ちるような感覚に襲われる。


「なぜ⋯⋯」


 目が自動的に全体出血量を計測する。流血量とノリの身体要素を掛け合わせると、既に二十パーセントの血液を失っていた⋯⋯。五十パーセントにまで達成すれば、もうノリは助からない。


 蘇生しないのは、おそらく症状に対しウタリの血が足りていないからだ。検証なしにそう断定し、ファディルはもう一度立ち上がる。力の入らない足を引きずりながら、ウタリの血溜まりへ向かった。


「ノリ、ノリッ、死んではいけません⋯⋯っ」


 今まで発したことがない、周波数の激しく乱れた不安定な事声が口から飛び出る。


 血溜まりに指を突っ込むも、手に力が入らず、すくった血をこぼしてしまう。急がなければ出血量が三十パーセントを越え、意識障害が発生し取り返しのつかないことになる。


 必死に何度すくいあげても、血は手から逃げるようにぼたぼたと垂れ落ちた。時間の無駄だ。ファディルはノリのもとへ戻り、指から垂れ落ちる血を飲ませた。


 なぜバケツではなく水筒にウタリの血を入れておかなかったのか、と今更後悔する。多くの血があれば安心だと呑気に考えていた自分の迂闊さを、ファディルは歯を食いしばりながら呪った。


 残り二十五パーセント──ノリの命の残量は、もう僅かしかなかった。


 ノリが悲鳴を上げる。白目を向いて上半身を仰け反らせ、今度は膿と吐瀉物の混じった血反吐を口いっぱいに噴出する。


 ファディルは項垂れ、嘆く。


「ああ、ノリ⋯⋯ノリ⋯⋯ッ」


 周波数が限界値まで狂った声で、ノリの名を繰り返す。


「ノリが⋯⋯死んでしまう⋯⋯っ」


『血を注いでも無駄じゃ』


 聞き覚えのある老人の声がして、ファディルは顔を上げた。結界の宙に、緑色に光る二つの瞳が浮かんでいる。


「シヴァ⋯⋯」


『ノリは決して蘇生しない』


「なぜです」


 シヴァは可笑しそうにクククと笑う。






『──ノリはここで死ぬと決まっておる』




 時間が止まったような感覚に襲われた。思考も計測式も全停止し、艦砲射撃の音すら途絶える。ファディルは眼球がこぼれ落ちんばかりに目を見開き、呆然と二つの瞳を見つめる。


「今、なんと」


『死ぬと決まっておる、と申した』


 二度その言葉が聞こえても、意味は空白になった頭をすり抜けていく。


「私を欺くおつもりですね、ばけもの」


 シヴァは片腹痛いと言わんばかりに高らかに笑う。


『何を言うか。ウタリの血を注いでもノリは治らなかったではないか』


 胸に鋭いものが突き刺さるような衝撃が走る。症状に対し血が足りないのではなく──受け入れがたい現実を直視できない脳が、拒絶した。


『櫓の守り人ノリは、お主を守る代わりに全身出血し、内臓を溶かしながら死ぬのじゃ』


「内臓が、溶けるですって⋯⋯?」


 ファディルは首を横に振り、拳を地面に叩きつける。


「嘘だ⋯⋯嘘だっ⋯⋯そんなことはっ」


 喉奥から、悲鳴じみた声が飛び出た。


『現実は見えぬのか、神の目を持つ英雄よ』


 嘲笑うようにシヴァはファディルを突き刺す。


『ほんと、だ⋯⋯はん、ちょ⋯⋯』


 今にも途絶えそうな声でノリが囁く。


 ファディルは顔を上げ、ノリを見た。いつものお調子者の笑みがそこにあった。


『僕は、櫓の守り人として⋯⋯ここで、死ぬ、運命⋯⋯なん、だ⋯⋯』


 ノリがそれを口にしてしまえば、突きつけられた現実から目を背けるのはもうできなかった。蘇生しなかった理由が否応なく腑に落ち、ファディルはノリから目を逸らし、足元を見下ろす。


「ごめんね、班長⋯⋯」


 ノリは血に塗れた手を、ファディルの頬に当てる。


「班長を⋯⋯悲しませたく、なかった」


 ファディルはノリの手に自分の手を重ねた。手の甲から、体温が急激に下がってきているのを感じた。


 残り、二十七パーセント──


「ノリ⋯⋯」


 喉が痙攣し、言葉が出なくなる。


「僕が⋯⋯死んだら、班長は悲しい? って訊いた時、班長わからないって言ったよね。⋯⋯ちゃんと、悲しんでくれてるじゃん。嬉しいよ、僕」


 血まみれの目縁から、一雫の透明な液体が溢れ出て頬を伝っていく。


「ああ⋯⋯悔しいな。もっと班長に、色んなこと教えたかったのに⋯⋯」


 ノリの目がゆっくりと閉じられていく。失血で紫色に変色した唇を、ノリは微かに開いた。





「⋯⋯班長、⋯⋯いや、ファディル」





 突然名前で呼ばれて、ファディルは肩を弾ませた。


「お前は、僕の生涯一度の、唯一無二のトモダチだったよ」


 トモダチ。今まで誰かにそう言われたことなどなかった。


「これからも、ずっとね」


 ノリの生体反応粒子が白から灰色に変色していく。個体の死亡前に見られる、死の予兆の色──


 残り、三十パーセント。意識障害発生。


 ファディルはノリの肩を揺さぶった。


「ノリ、ノリ⋯⋯」


 ノリは目を覚さなかった。


 灰色の粒子が汚れていくように、蝕まれていくように黒く染まっていき、放出量も減少していく。


 瞼を押し開くと、眼球運動が完全停止していた。


「ああ⋯⋯」


 悲鳴にならない吐息が漏れる。


 脈に触れる。こちらも完全停止。


 ファディルはノリの上に覆いかぶさっる。心臓の音は、聞こえてこなかった──心肺停止。


 ノリは生命維持ラインを越えた。


 黒い粒子がノリの身体を包み込んでいく。まるで生命を食べ尽くそうとしているかのように。

 

 服越しからでも肌の冷たさが伝わるぐらい、ノリの身体は体温低下していた。


 まるで氷の塊のような冷たさ。


 これが、死。


 ファディルはノリの停止した胸に頬を当てる。


 誰かが死ねば、脳内ログの損耗率に自動でカウントされるはずなのに。


 ノリは、その中に入力されない。


 ──変数:死


 脳内に一つの式が浮かび上がり、闇の中へ消えていく。


 ファディルは遠くを見つめたまま、ノリの冷たさを頬に感じていた。


『さぁ、ノリ。契約通り魂をもらうぞ』


 シヴァの愉快げな声が響き、ファディルは顔を上げた。


「魂?」


 ノリの身体から、青白い光の玉が現れる。玉は宙に浮き上がり、徐々に形を変えていった。手足が、首が生え出し、人間の姿になっていく。


「ノリ⋯⋯?」


 彼そっくりの青い光が、シヴァの瞳へ近づいていった。瞳の間の空間を引き裂くように、牙の並んだ大きな口が開かれる。


 ノリを食うつもりだ。心臓に悪寒が走る。ファディルは歯を鳴らしながら、片手をノリの魂に伸ばした。


「やめてください⋯⋯っ」


『ノリはカラリヤ湿原の土地神に人魂を贄として捧げた。人間風情が自然の(ノリ)を書き換えようとした罪は重い。こやつも贄と同じ墓場に葬られる』


 腕が引きちぎれんばかりに手を伸ばすも、ノリには届かない。


「ばけもの、ノリを返してください⋯⋯!」


『契約は変えられん』


 ノリの魂が、シヴァの口へ吸い込まれていく。ファディルは叫びにならないかすれ声で、ノリの名を呼ぶ。


「嫌だっ、ノリ、ノリッ⋯⋯!」


 牙と牙の間に、ノリの姿が消えていく。


 取り返そうとしても、ファディルの手は届かない。


「返せ、ノリを返せ⋯⋯ばけものっ⋯⋯返せぇ⋯⋯っ!」


 牙と牙が重なり、シヴァの口が閉じられていく。


『契約、完了』


 ノリの自我が消えた。この世から、彼の精神が消滅した──理解した途端、ファディルを身の爆発するような衝撃が襲った。


 視界が破裂し、景色が空間ごと掻き乱されていく。


「ノリッ、ノリ! ノリッ!⋯⋯ああぁ⋯⋯っ」


 シヴァの瞳が消えていく。


 静寂が訪れた。艦砲射撃が止み、砂埃と木屑の舞う音だけが静かに響き渡る。


 力が抜けて上半身が倒れた。ノリの血溜まりに這いつくばい、無様にファディルは懇願する。


「返せ⋯⋯ノリを、返せ⋯⋯」


 瞳の奥から熱いものが溢れ出す。こみ上げてきたものは頬を伝い、地に落ちた。


 それは──十五年間ずっと封じてきた涙だった。



 ◆ ◆ ◆



 人間の放った鋼の雨により、カイラス岳は瞬時に不毛の山へと変わった。


 山の頂上の宙に浮かびながら、シヴァは山の惨状を興味津々に見つめていた。


 四つの厳つい腕に、炎を纏う四本の三叉槍を持つその神の瞳は、歓喜に揺れていた。


『全く、派手にやってくれたものじゃ』


 ククク、とシヴァは牙を浮かせて笑う。


 数千年ほど前からセルク島が戦に巻き込まれる度、このカイラス岳は必ず戦場になった。だが、これほどの破壊力は今まで見たことがなく、破壊神であるシヴァの好奇心をくすぐる。


 海の彼方に浮かぶ黒い鉄の塊の群れをシヴァは見た。


『人間も破壊神を作れるようになったのか』


 鋼の雨を降らせるほどの力を人間が使えるならば、この後どれほどの屍と血がカイラス岳に流れるか、見ものである。同時に供物の生贄もたくさん手に入る。まさに宴だ。期待と興奮のあまり、シヴァは舌で牙をなぞった。


 シヴァの隣に眩い光が生じ、白い着物を纏う六つの腕の神が現れた。


『おお、ヴィシュヌ様ではありませぬか』


 カイラス岳の宴を観るため、わざわざ九次元から三次元へ降りてきたのだろう。


 鋭い牙の並ぶ口と丸い瞳の描かれた布面をこちらへ向け、ヴィシュヌは言った。


『予定通り、櫓の守り人が消滅しました』


『実に美味でした、奴の魂は。ヴィシュヌ眷属の精霊と繋がっている上、すこぶる清い味です』


『それはよかったですね』


 興味なさげにヴィシュヌは返し、カイラス岳へ顔を向ける。


『それにしても、人類の文明の発達は恐ろしいものです』


『あと少しすれば、人類はこの地球を滅ぼしかねんですな』


『はい。だからこそ私は観測と実験を急いでいるのです。人類が戦争で地球の生態系を壊滅させる前に、策を講じなければいけません』


 ヴィシュヌは人類が誕生した数千万年前から彼らを見守り、急激に増えていく彼らが地球を破壊しないよう、観測、調整、実験を繰り返してきた。人類の文明と科学が急加速する今、ヴィシュヌは地球の調和維持に辟易しているようであった。


『神の寵児実験は、予定通り進んでいますな』


『実験は次の段階、祝祭へ移行します』


『次は生贄の聖女、ウタリの出番か』


『はい。我が贄ウタリには、祝祭を開催するための祭壇となって頂きます』


 シヴァは苦笑した。


『もはや寵児とは云えぬ。神の実験道具ではありませんか』


 ヴィシュヌは頷いた。


『厳密には、彼らは神の実験道具です。ファディルは私の演算機、ノリはファディルを殻から解放するためだけの捨て駒、ウタリは演算機を起動する鍵に過ぎません』




 ◆ ◆ ◆



「ノリ⋯⋯ノリ⋯⋯」


 血だるまになったノリの屍を抱きしめ、ファディルは虚ろな声色で名を呼び続ける。


 ファディルの軍服にノリの血が滲み、真っ赤に染まっていく。血は川の水のごとく冷え切っていた。


 ノリの額に自分の額を当て、ファディルは消え入りそうな声で懇願する。


「目を開けてください、ノリ⋯⋯」


 二度と目を覚さないと理解していても、それでも彼の瞳が再び開くと願わずにはいられなかった。


 涙が絶えず落ちては、ノリの血に溶け込んでいく。


 観測壕を包んでいた結界が、紙が千切れるようにばらばらに崩れ、石灰岩の白い霧が二人を包み込んだ。

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