5-1 決戦前夜
──カイラス岳遊撃区の兵たちに告ぐ。
午前四時頃、セルク島沖に大規模敵艦隊接近中。
敵艦隊は沖にて停泊後、上陸艇をカイラス浜に向けて出航させると予想。
予定通り敵部隊をカイラス浜に無血上陸させ、戦車隊が山岳沿いの軍路を通過次第、縦深陣地への侵入を阻止する。
その後歩兵部隊がカイラス岳へ侵入し、遊撃区は血の海に染まる。屍と肉片が壕内に溢れかえる地獄絵図となる。
セルク島防衛軍の諸君、いよいよ決戦の時が来た。近々、ここは貴様らの墓場となる。
諸君、今のうちに遺書を認めておけ。貴様らの遺書は敵に見つからない地下深くに隠し、戦後に調査隊が発掘し家族に届けられるようにするとしよう。
それでは──健闘を祈る。
遊撃区長の演説が、壕内に張り巡らされた音声パイプから響いた。空気を振動させて遊撃区全体に伝わるパイプの穴から聞こえる遊撃区長の声は、葬式で故人に思いを伝える者のように重苦しい響きがあった。
死の訪れを宣告する演説を聞きながら──島兵たちは遊撃区の歩兵壕の通路にて、最後の突撃訓練を行っていた。
薄暗い壕の壁沿いを、腰を屈めて歩兵銃を握りながら歩兵たちが一列になり進んでいく。
──近々、ここは貴様らの墓場となる。
一人の島兵は、電灯の明かりに照らされる赤い水溜りを見下ろした。水面に映る自分の顔が、半分爛れたばけもののように見えた。ヒッと小さく悲鳴コシチャイム上げ、前を向いてまた歩き出す。
「おい、遺書書いたか?」
後ろの島兵が声をかける。
「⋯⋯おらは農民だ。字が書けねぇだよ」
「農民学校は?」
「俺の村にはねぇ。というか書いたところで親元には届かねぇだろうさ。戦後? ははっ、いつになったら来るんだそんなもん」
「⋯⋯知らねぇわ」
「だいたい遺書なんて、どうせ湿気で腐る。意味ねぇよ、書いたって。だが、骨は残る。⋯⋯俺は、《《骨を遺書》》にする」
二人の会話は、ぽたり、ぽたりと水滴の滴る静寂の中に響いて消えた。
◆ ◆ ◆
ラフマンは、岩壁に肋骨ペンを突き立てて絵を描くウタリの背を見つめていた。
「ファディル! キノコ食べてる!」
デカデカとした丸い眼鏡と、ドングリのような形の帽子を被った下手なファディルの絵をウタリは楽しそうに描いていた。鼻歌混じりに、ファディル、ファディルと会いたがっているように呟き続ける。
岩壁に描かれていく複数の雑な顔。そのどれもがファディルばかりだ。頭の中がファディルでいっぱいになり、はち切れて外へ溢れ出ているかのように、ウタリはひたすらファディルの顔を描き続ける。
おそらくウタリの中には、もうファディルしかいないのだ。心の中であいつが彼女に無機質な声で囁きかけ、脳も手足も全て操り人形のように動かして、ファディルの絵を描かせている気がした。
ラフマンはウタリから目を逸らし、苦情した。
(ヴィシュヌ様、ウタリもファディルも、俺とはあまりにも距離が遠すぎますよ)
九次元からヴィシュヌがこちらに顔を覗かせ、ラフマンに突き刺すような視線を送っている気配が全身にまとわりつく。
二人の従者になれと言われたのに、ウタリとファディルとの距離はあまりにも遠すぎる。ヴィシュヌのお告げ通りにするのは、無理不可能だ。
このままでは、ヴィシュヌに殺されてしまうとラフマンは息を呑み──暫ししてから、ふと気づく。今までヴィシュヌに殺してほしいと懇願していたのに、いつの間にか殺されるのを恐れていた。
その心境変化のきっかけは、間違いなくウタリを守るという動機が生まれたこと他ならない。生きなければ、ウタリを守ることはできないからだ。
ラフマンは再びウタリの背へ視線を向けた。
自分は、ウタリにどんなに嫌われても彼女を守ると決意したのではなかったか。
自分に裏切られた気分になり、ラフマンは唇を噛んで頭を叩く。この、いくじなしめ。
その時、通路の方から足跡が聞こえてきて幕が捲られ、ヴァレンスが入ってきた。光を宿さない濁った黒い瞳、餓死寸前のごとく痩せこけた頬。血と脂肪を整髪代わりに塗り固めたような赤黄色いガビガビの髪。もはや赤衣と表現するに相応しいほど血に染まった白衣──。
限界を超えいつ死んでもおかしくないところまで追い詰められた哀れな医師は、虚ろな眼差しでラフマンを見下ろす。
自分と同じく、ファディルに首輪を繋がれた忠犬をラフマンも見返す。生気の失せた目に、救いを求めるような色が浮かんでいた。
「ヴァレンス衛生隊長殿、何のご要件で?」
「ウタリちゃんを預かる」
腸に火が付いたような熱が広がるのを感じ、ラフマンはそれが爆発しないよう息を潜めてヴァレンスに訊いた。
「献血機関にするのですか?」
「それ以外にあるか?」
つべこべ言わずにさっさとウタリを寄越せ、と冷たく突き放すような口調にラフマンはそれ以上問うのをやめた。せり上がる熱とともにあらゆる罵声も溢れ出そうになるも、口の奥をぎゅっと狭めて抑え込む。
ヴァレンスだって、医療逼迫に悩まされているのだ。だからウタリを献血機関にするのは必須と考えるのは、彼にとっては当然のこと。そう自分に言い訳して、内なる声を鎮める。
「お医者さん、何しに来たの?」
ウタリはパッと顔を綻ばせてヴァレンスに問う。
「ウタリちゃん、またお店屋さんごっこをしよう」
「ほんと!?」
ウタリは嬉しそうに声を弾ませて立ち上がり、ヴァレンスのもとへ駆け寄る。
「ファディルは来るの?」
「ファディルは忙しいからこないよ」
ウタリは唇を尖らせて「なぁんだ」と不満げに言う。
ヴァレンスはラフマンを見た。
「ラフマン二等兵」
「はい⋯⋯」
「ウタリちゃんが献血機関になったら、手を握りしめてやってくれ」
ウタリを献血機関にする方針が変わることはないらしい。何が手を握りしめてやれだ、ふざけるなという罵声が飛び出そうになるのを、ラフマンは堪えた。
ヴァレンスの背後にファディルの影がちらついたのが見えて、胃のだるくなるような嫌悪感を覚えた。
「献血機関になれば、全身から大量出血でありとあらゆる穴を突き破って血が溢れ出し、およそ全体の八割の皮膚は破裂、目の穴と口から噴水のように血が出て呼吸困難に陥る。ウタリちゃんは呼吸をしている。死ねないまま酸欠状態が続く地獄を味わうだろう。そうなれば、貴様が言った通りウタリちゃんの精神は今度こそ取り返しがつかなくなるほどズタズタになる」
まるでファディルのようにおぞましい言葉を淡々と羅列するヴァレンスに、胃に満ちる気持ち悪さが増し、酸っぱいものが喉を伝い上がってきた。
ヴァレンスの心にもファディルが宿り、囁きかけて手足を脳を操作しているのだ。
「⋯⋯呼吸、困難?」
かゆみとは、また別の苦痛。
「溺れたことはあるか?」
「いえ」
「激痛ともかゆみとも違う、肺が酸素を欲して暴れまわるような苦しみと、息を吸いたくても吸えない猛烈な恐怖感。まぁ、実際に体験しないとわからないが」
ヴァレンスは苦笑混じりに続けた。
「何千何万人の命のために、ウタリちゃんの魂を殺さなければならない。《《最大多数の最大幸福》》、というやつだ。ウタリちゃん一人を犠牲にして、多くの兵を救うのが最適解なのさ。人道にすがっていては、誰も救えない⋯⋯私はそう悟った」
悔しげに唇を噛み、彼は俯いた。忠犬の仮面を脱いで元のヴァレンスに戻ったような気がして、ラフマンの腸を熱していた熱が冷めていく。
「ファディル少尉にそう吹き込まれたのですか? 何千何万の命のためにウタリを犠牲にしろと」
ヴァレンスは握りしめた両手拳を震わせながら、無言で頷く。
「ウタリちゃんには、申し訳ないと思っている」
汗か涙かわからない雫が、ヴァレンスの顔から滴り落ちる。
申し訳ないという謝罪を聞いて、ヴァレンスを責めたい内なる自分が口を閉ざす。呼吸困難の説明を聞かされたとき、とうとうヴァレンスまでファディルのような人間味の欠片もない人間に成り下がってしまったかと思ったが、まだ彼らしさの一片は残っていたらしい。
手を握りしめてやってくれというあの発言も、ヴァレンスの精一杯の配慮だったのかもしれない。
だが、「はい」とは言えなかった。
ヴァレンスが顔を上げ、再び虚ろな眼差しでこちらを見て、嘲笑うように言った。
「貴様も、ウタリちゃんを『守りたい』と《《虚勢》》を張るのはもうやめろ」
虚勢。せっかく固め直した決意を粉砕するに等しい冷笑に、ラフマンは開きかけた口を閉ざし、そういえば──と思う。
そういえば、ウタリを守れたことなど一度でもあっただろうか?
森で包囲された時は、機関銃弾を避けるため咄嗟に伏せた。
ウタリと川で遊んだ後、彼女が眠っている隙に衛生隊に採血させた。
ファディルからウタリを引き離すため諭そうとしても、迷ってできなかった。
警告書をファディルに突きつけたら、逆に衛生隊は彼の手中に収められてしまった。
ラフマンは項垂れて、首を横に振る。
ウタリを守れていない。一度も。
身体の奥にある見えない空洞に、ラフマンは意識を向ける。その空洞をずっと見て見ぬふりし、『守る』という動機で覆い隠してきたのではないだろうか。
家族を惨殺されて、妹を亡くして、仲間から落ちこぼれ扱いされて、そんな中でウタリと出会って彼女を守ろうと決意したが、それは単に何もかも無くした空っぽな自分を満足させるためだったのでは。
ウタリを守りたいなんて、はじめから本気でそう思っていなかったのだ。その意志は全部、心の空白を埋めるための薄っぺらな大義名分に過ぎなかった。ヴァレンスが言う通り、自分は虚勢を張っていただけだった。
ラフマンは地面を呆然と見つめながら、掠れた声でヴァレンスに告げる。
「⋯⋯その通りです。自分は虚勢を張っていました。ウタリを守る保護者という型に自分を当てはめていました。落ちこぼれの自分を慰めるために、です」
ラフマンは楽しそうにはしゃいで飛び跳ねるウタリを見つめた。
ウタリが献血機関になった時、自分にできることは彼女の手を握りしめることだけ。
ウタリの人格が完全崩壊し、粉々になるその時まで。
ラフマンは苦笑いして、謝罪する。
「⋯⋯ごめん、ウタリ」
──もう、守れない。
◆ ◆ ◆
午前四時半。薄明の朝靄に紛れて、上陸艇に乗った敵偵察隊が海岸隅の雑木林に侵入した。数人乗りの小型ボートを雑木林に隠匿した後、彼らは無人の村落、畑、港、飛行場を念入りに偵察した。
偵察機の事前調査によれば、周囲に防衛軍施設やトーチカはほとんどなく、村が陣地化されてもおらず、不気味なほど敵勢がなかった。そしてもう一つ敵の神経を尖らせたのは、港と飛行場と海岸線に隣接する道路から伸びる、大型車両が二台横に並んで走れるほどのやたら幅の広い道。畑の中を曲がりくねるように伸びる狭い小道ばかりの中、この道路だけが異様に太い。道はカイラス岳に向かって伸びていた。
一般道にしては大きすぎて怪しい。しかし村内や近隣地域に軍用施設はほとんどなく、この道路が防衛軍の輸送路である確証はない。港と飛行場を結ぶ道路から伸びていることから、一般の輸送路と見なすのが無難であった。
それでも万が一の無血上陸の罠を懸念し、敵は《《やたら太い道路》》に偵察装甲車隊を送り込んだ──。
◆ ◆ ◆
「偵察隊、通過」
観測壕の銃眼の布越しから、軍路を通過していく三台の装甲車を確認したファディルは、カイラス岳下層に待機する遊撃隊に連絡した。
『了解』
受話器から通信兵の声がする。
僅かな陽光のみで森の輪郭が薄っすらと見える程度の暗さだが、ファディルの補正された視界には走行中の偵察車が明瞭に見える。装甲車の色も砲身の形も轍も、全てはっきりと。
隣にいるノリは、レイノウリョクという巫の超感覚で装甲車の中に乗っている敵を観測していた。
「合計六人の偵察兵が軍路の周りを警戒してる」
「偵察兵計六名」
『了解』
「無血上陸を疑わない馬鹿はいませんよ」
「うっせぇなもう、静かにしてよ」
敵艦隊出現により、これから二十四時間一睡もせず敵の動きを監視しなければならない。ファディルは睡魔で垂れ下がってくる瞼を必死にこじ開けていた。
暫しの沈黙が流れた後、ノリは眉をひそめて続けた。
「え、車から降りた? 奴ら森の中入ったよ。警戒心なさすぎだろ」
「周囲に軍用施設はなく、道路は港と飛行場に隣接する道から伸びています。敵の視点で考えれば、『一般道である可能性が高い、しかし完全に安全とも言えない』といったところでしょうか。今のところは、ゲリラ部隊の潜伏を疑うほどの警戒レベルではないと」
偵察隊降車、探索開始──とファディルは連絡する。
「あー、なるほどねぇ。電話機のイメージ映像? あと線──あ、そうか電話線探してるのか」
レイノウリョクとやらは、人間の頭の中も覗けるらしい。自分の脳内も常に見られていたのだろうか、とファディルは思う。数式だらけの、空っぽの頭の中身を。
「遊撃区に繋がる電話線などは全て埋設されています。見つけようがありません」
「そうだね、そのうち諦めて帰るね」
ノリは深く息を吸って入ってから、言った。
「斜面探してる。やっぱりゲリラの潜伏場所の穴とか、怪しいもの探してるみたい」
「遊撃区壕の麓に穴などありません。最下層の入口は標高百メートル地点、入口は土と雑草で覆われています。上空からも地上からも発見不可能です」
「百メートル登るとき、えらい苦労したもんだよ」
遊撃壕に入るルートは、海岸線の反対側のジャングルに面した斜面にある。地上の大きな岩に囲まれた狭い隘路を通り抜け、木々の根に覆われた緩やかな斜面を登っていくと、入口の穴にたどり着く。疲弊した部隊が登るには酷い悪路であった。
「草とか枝とか分けて、必死に探してるよ。困ってるような、焦ってるような念が伝わってくる。上官に『何でもいいからなんか見つけてこい! 手ぶらで戻るな!』とか言われてんのかな。かわいそーに」
「何も見つけることはできません」
「だよねぇ。帰ったらたぶんビンタ確定だ」
ノリはふふふと笑う。帰ったらたぶんビンタ確定──これからこの山を地獄に変える敵を、まるで仲間のように語るノリの精神は理解不能だった。
「お、今度は橋のところ探してるよ」
ファディルは道路を横切る、カイラスの麓を流れる幅八十メートルの川へ目を向けた。川の上に約百三十メートルの石畳の平らな橋がかけられている。橋の内部に複数の爆弾が仕掛けられており、橋脚内部を通る回線と繋がる手動起爆装置で爆破、橋が落ちる仕組みになっている。
岩の転がる川辺に、敵兵らしき人影がいくつか見えた。起爆装置の回線も爆弾も外部から見えず、どれだけ念入りに探そうと発見は不可能である。
「橋付近探索中」
『了解』
やがて三台の装甲車は、諦めたように帰っていった。薄闇の立ち込める道を、三つの黒い影が走ってゆく。
「帰ってったね」
偵察隊、撤退とファディルは連絡する。
全身が緊張で強張っていくのを感じた。カラリヤ湿原でも感じた、死を前にしたあの嫌な硬直──
「戦車隊が通過次第、橋を落とします」
橋が落ちれば進路は断たれ、戦車隊は前進不可能、後続の本隊は徒歩での突入を強いられる。交戦は、その直後に始まる。
じきに遊撃戦が始まる。ノリの生存確率は今のところ五十パーセント。しかし──
ファディルは壕の壁際に置かれたバケツを見た。中にはウタリの血が入っている。何時間経っても酸化せず、深紅を保っている。あれを負傷したノリに使用すれば延命可能だ。
だが不満が一つ──血が足りない。
衛生隊が制度を盾に壊死組織投与に固執したせいで、献血機関の血液生産率は予想より激減した。結果、分けてもらえた血液はバケツ一杯のみ。これだけの量で肉片と化したノリの全身を再生できるのかは、予測不可能である。
(ガマン軍医。ノリが死亡した場合、死因はあなたですよ)
あの老人の顔を思い出すと、腹の奥が熱くなるとともに身体加熱式が頭に浮かび上がる。
「これでは、一体何のために献血機関を造ったのかわからなくなりますね」
思わずそう呟くと、ノリが笑った。
「献血機関は、祭壇だよ。このカイラス岳で《《祝祭》》を開くための」
また妄言かと思いつつ「祭壇?」と聞き返す。
「班長に集まる祈りを捧げて稼働する、ね」
追撃部隊に追われていた時にもノリは「祈り」が何だかんだと言っていたのをファディルは思い出す。
「また、祈りですか」
「班長は『英雄』という概念を、生まれながらに貼り付けられたんだ。戦争の中で信仰を集めるように、最初から神が設計したのさ。班長がフォディル中将の息子に生まれたのも、全て神の意志だったのさ」
神──通路の天井から話しかけてきた、あの非物理知的生命体のことだろうか。
「神⋯⋯? シヴァというあの謎の生命体ですか?」
「シヴァより更に上の、一番偉い神様」
神話に疎いファディルは訊いた。
「誰です?」
「──ヴィシュヌ」
寒気が走ると同時に『身体冷却式』が脳内に浮かぶ。まさか、ヴィシュヌもシヴァと同じく実在すると言うのか。
ヴィシュヌがファディルの生まれも育ちも操作していたのだとしたら、それは人生を掌の上で弄ばれていたも同然。身体冷却式が増殖して他の数式が塗り潰され、ファディルは「演算停止、演算停止」と脳に命じる。
自分の身体を、ヴィシュヌの見えない大きな手が包み込んでいるような錯覚を覚え、全身が萎縮する。巨大な手の指の一本一本がファディルの身体を縄のように締め付け、自由を封じているように感じた。
産まれながらこうして、操り人形のごとくヴィシュヌに拘束されていたのだとしたら。
ファディルは演算によって世界を理解し、自分の行動を操作してきた。自己とは、論理に基づく一貫した演算結果である。過去と因果を自分で積み上げてきた過程こそが、我が人生である。そのすべてが神によって設計されたのだとしたら、自己も人生も偽造の産物ということになる。
私は私である。その自己定義の崩壊が押し寄せてくる気配を感じ、ファディルは呆然としながら首を横に振る。
「今のは、妄言と受け取っておきます」
「いやいや、本当だよ?」
「馬鹿な」
「ヴィシュヌ、カラリヤ湿原で班長に話しかけてきたよね?」
カラリヤ湿原で敵陣地を葬った後、空から数字の雨が降ってきて、謎の声に呼びかけられた。
まさか、あれは実物の声だったというのか。喉が急激に渇いていく。
「あ、あれは⋯⋯疲労による幻覚です」
「違うよ。僕、見えてたもん。空から雨みたいに光が降ってくるの。あれはヴィシュヌが神域から班長に干渉していた証。言ってたよね、『神の寵児、ファディル。神の目を持つ英雄よ。英雄の誕生に、祝福を』って」
心臓が破裂したかのようにはげしく脈打ち、悪寒が全身を駆け抜ける。
「なぜ、それを⋯⋯」
「聞こえてたから」
あれが本物のヴィシュヌの声であれば。
「幻覚ではなく、本物だったということですか」
自分は本当に、ヴィシュヌの操り人形であることが確定する。
「うん、そう」
突きつけられた現実を、はねのけることはもうできない。
「あの愚将の息子に生まれたのも、ヴィシュヌという化け物の意志だったと⋯⋯」
ファディルの動揺を知ってか知らずかノリは頷く。
「そういうこと。英雄という概念を班長に貼り付けて、信仰を集めて神の演算器として機能させるためにね」
「⋯⋯演算器?」
「班長は時々、調和の数式に操られていたよね」
「はい」
「僕、前にも言ったよね。調和の数式は、『班長がみんなの《《生きたい》》という祈りを無意識的に受信して、救済しようとするから出てくるものだよ』って」
「確かに、そうですね」
「班長はみんなの祈りを受信して、無意識のうちに救済行動をしていた。隊長の自決を止めたのも、処刑を代行したのも、追撃部隊を追い払ったのも、献血機関を作ったのも、みんなの祈りに班長自身が《《誘導》》されていたんだ」
誘導とは、相手の無意識に操作者の意思を刷り込むことである。
自分が今までしてきた誘導。あれは、自分を介してヴィシュヌがしていたことなのだろうか。アリフを生かすことで業務効率向上を図ろうとしたのも、自分の意思ではなくヴィシュヌの思考だったのだろうか。
無意識に操作者であるヴィシュヌの意思を刷り込まれ、思いのままに動かされていたのだとしたら──
(誘導されていたのは、私のほうですか⋯⋯?)
脳にまで操り人形の糸が巻き付いてくるような感覚を覚えた。
「つまりヴィシュヌは、私を信仰対象にし、祈りを捧げさせ、無意識的に救済行動をする自動演算器にしたと?」
「そういうことさ。祈りを集める器、もっと言えば、人々の『救済されたい』という衝動を演算して、最善の手段を自動出力する機械さ。班長は、それに選ばれただけ」
「なぜ、私が選ばれたのです」
ファディルは拳を握り締めた。
「さぁ、それは神のみぞ知ることだね」
突き放すように言うノリにもどかしさを感じ、ファディルはなおも問う。
「なぜ私に英雄という薄っぺらい民衆的幻想を貼り付け、祈りの対象にしたのです」
「それも神のみぞ知ることだね」
返答は同じ。それでも噛みつくようにファディルは問うた。
「本当にご存じないのですか? ヴィシュヌが私を選んだ理由を」
「悪いけど、知らんよ」
手のひらに爪が食い込む痛みが、唯一自分が自分であると証明してくれている。
「私は、私です。上っ面だけの英雄でもなく、演算器でもない」
「そう思えるようになったなら、きっと主体性を取り戻せるよ」
「⋯⋯そうしたいところです」
「班長。英雄の立つ屍の山を献血機関を用いて再利用することで、班長は押し付けられた英雄像から脱却できるさ。その時、班長はみんなに操られる人形ではなくなる」
「どういうことです?」
「屍の山の上から降り、屍を生と死の循環の燃料として利用する。英雄とは異なる、新たな概念を班長は手に入れ──」
「意味が分かりません。もう口を閉じてください」
というより、うわ言のような言葉の羅列を聞きたくなかった。
「はいはい、わかったわかった」
「あともう一つお訊きします。私がお父様に医学部進学を反対され反発したのも、ヴィシュヌが作り出した虚構の感情だったのですか? 私に献血機関を造らせるための無意識的な動機だったのですか?」
「それは知らんよ。普通に医学部進学反対されて嫌だっただけじゃないの?」
その点は自発的感情であるらしい。ファディルは安堵する。
「そうであれば、安心です。医学部進学を反対した父への復讐などという、小物じみた理由で献血機関を無意識に作り上げたのではと、ふと思ったのですよ」
ノリは軽快に笑った。
「ははっ、大丈夫。それはない。班長は復讐なんて全くの無駄と思うでしょ?」
「はい、復讐は一時的な精神的苦痛の発散にしかなりません」
「だよね。そう思えるなら大丈夫」
遥か遠い山の峰から淡路い陽光が顔をもたげ、暗い空を青紫色に染めていく。
薄紫色の空を背景に、鳥の群れの影が横切っていく。
決戦寸前だというのに、山の外は嘘のような静けさに包まれている。
目を閉じていたノリが、ハッと息を呑んだ。
「戦車隊が来る」
「戦車隊接近。爆破準備」
『起爆班、了解』
数分後、鉄の擦れる鈍い音を鳴らしながら七台の戦車が現れた。重厚な鉄の塊の影が列を成し、ゆっくりと橋へ接近していく。
一列目の戦車が橋を通過するタイミングを、脳が自動で演算する。
(接近速度、位置誤差、許容範囲内)
起爆指示は班長ではなく、時刻を正確に割り出せるファディルに任されていた。
「戦車隊通過まで十秒前、九、八、七──」
受話器の向こうで、息を呑む音が聞こえた。
「六、五、四──」
先頭車両が、橋のたもとまで接近する。
「三、二、一──」
合計五台が、橋を通過していく。
ファディルは告げた。
「──爆破」
地上で空気を揺るがすような轟音とともに爆煙が噴き上がる。後続の戦車が慌てたようにブレーキをかけて立ち止まり、静寂が訪れた。
残された二台に乗っていた戦車兵がハッチを開け、崩壊した橋を見つめる。視界をズームすると、青い粒子を全身から放ちながら表情を引きつらせる戦車兵が見えた。突然の出来事に唖然としているらしい。
後続の歩兵輸送車も立ち往生し、トラック運転手も全身を青く光らせながら不安げな表情を浮かべていた。
ノリが呟く。
「そろそろだね、遊撃戦」
「そうですね」
「僕が死んだら、班長は悲しい?」
「悲しい──?」
悲しい。胸に痛覚に似た不快感が生じる通称「傷つく」という現象が発生する感情の一種。その感情は、確か小学校でいじめられた時に感知したような、してないような。ただ、なんとなく思い出せる。胸を鋭い何かで突き刺されたようなあの不快感。母に「狂人」と罵られた時にも感じたのと同じだ。
あれが、悲しい? 演算不可。不確定事項。
「わかりません」
「そっか。でもまた悲しむことができたら、班長は神の操り人形から解放される。ねぇ、悲しんでみたい?」
ファディルは黙り込んだ後、首を横に振った。
「──あなたの死による精神的苦痛は無駄なコストです」
「あら、悲しんでくれないんだ。残念」
十五分ほど敵兵たちが状況確認作業をした後、歩兵輸送車から続々と歩兵たちが降車し、カイラス岳の麓の森へ入ってゆく。
いよいよ、遊撃戦がはじまる。
「歩兵潜入。遊撃隊、攻撃準備」
『了解。これより交戦突入』
通話が切れる。
カイラス岳が、血濡れた墓場と化す時が来た。




