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1-4 だいぼうけん

 瞼に眩い朝陽が差し込み、ウタリは目を覚ました。夜の時と景色が変わっている。


(朝⋯⋯?)


 月が沈めば、太陽が昇って朝が来る。光の満ちる空間に世界が変身する、それがウタリにとっての『朝』だった。


 傘のように大きな緑の葉っぱの隙間から、淡白い光の柱が零れ落ちている。光の筋が、三つ編みのように幹の絡み合った木、たくさんの細い木が寄り集まった変な木を白く染めていた。


 大きな葉っぱの間には、ウタリの顔の大きさと同じぐらいの岩みたいな木の実がたわわに実っている。


 木々の間の間にはツタがカーテンのようにたくさん絡み合っていて、そこに止まっている真っ青な鳥がギーギーと不気味な鳴き声を上げていた。


(ここが、森)


 小屋から遠く離れた、ウタリの知らない森の世界がそこにはあった。


 森には魔物や魔女がいるから入っちゃだめだと、村に住んでいた時注意されていたから、ウタリは森の中がどうなっているかなんて知らなかった。


 心臓が太鼓のようにドンドンと鳴り出して、全身がウズウズした。森には怖い魔物や魔女がいるというのに、身体はなぜか弾むような感じになってきた。この感覚が何なのか、言葉をあまり知らないウタリにはわからなかった。


 ウタリは額から汗が垂れ落ちるのを感じた。額を拭うと、ぐっしょり濡れていることに気づく。そういえば、何だか身体がとても熱い。夜は肌寒いほど涼しかったのに、今はお風呂のように空気がじめじめしていて蒸し暑かった。


「ラフマン二等兵!」 


 鋭い声が響いてウタリは声の主に注目した。アリフチュウタイチョウドノと呼ばれていたあのおじさんが島兵たちの群れから出てきて、誰かを探すように辺りを見回すのが見えた。


「ラフマン二等兵! さっさと娘を運べ!」


 ラフマン二等兵、と呼ばれたお兄さんが飛び出てきてこちらへ駆け寄ってきた。


(お兄さんの名前、ラフマン・ニトーへーっていうのね)


 ラフマンという名前の村人は三人いる。よくある名前らしい。でもニトーへーという名字は珍しい。


 ラフマンはウタリを軽々と持ち上げ、肩の上にちょこんと乗せた。急に視界が高くなり、ウタリはこちらを見上げる島兵たちを見下ろす。


「およ? しまへーさんより背が高くなった? はは、なんじゃこりゃ!」


 見たことのない光景に全身が浮き上がるような気分になり、ウタリはラフマンの肩に乗せた両足をぱたぱたさせる。が、ラフマンからも激臭がしてくることに気づき、ウタリはおぇっとまたえずく。


 ラフマンというこのお兄さんも、島兵たちも全身真っ黒で、吐き気のするような臭いを漂わせている。


 ウタリは顔をしかめて鼻を押さえた。どうしてみんなウンチまみれなのだろう?


 ウタリは口で呼吸して、ウンチ臭を嗅がないようにした。


「重っ⋯⋯これで強行軍とか、死ぬ⋯⋯」


 下からラフマンの苦しそうな呻きが聞こえた。


 ウタリはラフマンの平たい帽子を掴みながら、軽く身体を上下を弾ませる。


「よろしくね、ラフマン」


 おじさんが「総員整列!」と鋭い声で言うと、みんな駆け足で二列に並び出す。


「ねぇねぇラフマン、みんなどこにいくの?」


 訊くとラフマンは無愛想に答えた。


「あんたには関係ない」


「えー! 関係ないのにウタリ連れてくの? そんなのおかしいわ!」


「やかましい、黙ってろ」


「ちぇ!」


 アリフチュウタイチョウドノというやたら長い名前のおじさんは、小屋には戻るわけにはいかないと言っていた。たぶんウタリが前に住んでいた村には返してもらえない。いじわるなおじさんに腹を立て、ウタリは唇を尖らせる。


(いいもん! 他の村に連れて行ってもらって、ウタリお馬さん乗ってくもん! そうしたら村行けるもん!)


 村に行ったら、村人たちに小屋をまた作ってくれと頼めばいいんだ。


 それまでは──


 ウタリは目の前に広がる、広大なジャングルへ目を向けた。


 知らない世界が、視界いっぱいに満ちている。


 ラフマンたちと、ちょっとだけ森の中を探検しよう。


 前列から順に島兵たちが出発、出発、出発と言い、ラフマンも「出発!」と声を上げた。最後に「伝令完了」と後ろから声がすると、みんな歩き出す。


 見たことのない森の中をゆく冒険のはじまりだ。全身のざわめきは頂点に達し、ウタリは平たい帽子を太鼓のようにぺちぺち叩き、足をばたつかせてはしゃぐ。


「冒険よ、冒険!」


「⋯⋯はは、いいな化け物は、呑気でさ」


「だからウタリ化け物違うって! そんなことよりみんなのほうがウンチお化けじゃないの! くっさー!」


「俺らがウンコくせぇ? ああ、そうだな。もう、三ヶ月以上風呂入ってねぇからな。俺は全然臭わないけど、部外者にとっちゃ激臭だろうな」


「なるほど、お風呂入ってないからみんなウンチになっちゃったのね」


 ウタリを連れて、兵隊たちの列は深い茂みの中へ入っていった。



 ◆ ◆ ◆



 肩辺りまである茂みと視界を遮る蔦を掻き分けながら、ラフマンは歩き続けた。


 セルク島の熱帯雨林は年中高温多湿だ。森の中は蒸し風呂のごとく熱気が立ちこめており、全身の至るところから絶えず汗が噴き出てきて、五分も立たないうちに喉が渇いてきた。


 ただでさえ過酷な環境な上、腰嚢、歩兵銃、化け物少女も背負うはめになったラフマンは、既に体力が限界に近かった。


 腰の骨が軋み、両太ももに鈍痛が走り、徐々に痛みは増してゆく。


 あと一時間も立たないうちに腰が砕け、落伍者として捨てられるに違いない。


 熱帯雨林の中で飢え死に、蛆虫の餌になりながら腐った肉塊として朽ちていくだけだ。


 獣道には、誰が垂らしたかわからない赤痢だの下痢だのが広がっている。その上を歩いて軍靴に糞が付いても、ラフマンも誰も気にしない。糞も泥と同じだた。


 目の前にいる奴のズボンは、茶色く固まった下痢でガビガビに汚れている。強行軍で中々休めないゆえ、みんなズボンの中で用を足していた。中には尻部分の布を切って直接ぶちまけるやつもいる。


(祟りも呪いもどんと来やがれ。落ちこぼれの俺を殺せばいい)


 もうすべてがどうでもよくなったような気分だった。


「きゃははは! すごーい!」


 頭上で手を叩き騒ぐ少女の声が鼓膜にキンキン響き、目眩を増幅させてゆく。


 化け物への恐怖よりも、死んだほうがいっそのこと楽かもしれないという希死念慮のほうが大きくなってきていた。


「んにゃ!」


 突然少女が悲鳴を上げてぐらつき、ラフマンも倒れそうになる。


 後ろの兵隊がいきなり止まるんじゃねえと叱責してきた。ラフマンは少女の両足を掴み、落下しないよう押さえつける。


「こら、暴れるな」 


「はーい」


 全く反省していない声色にラフマンは溜め息をつく。


 握る少女の両足は棒のように細く、肌はきめ細やかで温かく、人間の少女と何ら変わらない感触とぬくもりがあった。


 どこかでこの触り心地を前にも味わったような気がする。頭が勝手に記憶の糸をたどっていき、ふと脳内に映像が浮かぶ。


『お兄ちゃん! お兄ちゃん!』


 ヤシの木が両端に並ぶ村の小道を、五歳になる小さな妹を肩車して散歩した時の記憶だ。


 畑仕事を終え、山の峰に沈む夕日に照らされる中を二人で歩いた。


 道の向こうにある小さな家屋の前まで行くと、黒髪を腰辺りまで伸ばした着物姿の母と、肩に鍬を立てかけた屈強な父が並んでラフマンたちに手を振っていた。


 五歳の妹──ユサはラフマンの肩の上で飛び跳ねながら叫ぶ。


『お父さん! お母さん! ただいま』


 父と母とユサ。三人はもうこの世にいない。


「わぁ! 綺麗な鳥さん! 全身が虹色よ!」


 やかましい少女の声で現実に引き戻されたラフマンは、重い溜め息をついた。

化け物からも人生からも、解放されたい。



 ◆ ◆ ◆



「虹の鳥さん! 妖精かな?」


 木の上に止まっていた虹色の鳥を見て、ウタリは甲高い歓声を上げた。


 赤、黄、青、緑、紫⋯⋯様々な色の混じった羽毛を持つ鳥だった。


 赤青黄色の立ったトサカは冠の羽飾りみたいで、束ねられた長い尾は空に描かれる虹の帯のよう。


 緑ばかりの世界で、虹の鳥は見るものの目を引く美しさがあった。


 鳥が分厚いくちばしを上げてギャアッと一鳴きし飛び立つと、色とりどりの羽毛が宙から降ってきて、ウタリは大はしゃぎでそれを取ろうとする。


「凄ーい! 花びらみたい!」


 前の方から兵隊たちが何かを伝言する声が聞こえてきた。ラフマンも答える。


「中隊長より伝令。万が一敵に気づかれればまずいのであまり騒ぐなとのことだ。口を閉じろ」


 ウタリは落ちてきた羽毛を取るのをやめ、大人しくラフマンの帽子に掴まった。言うことを聞かなかったら、今度こそ血を全部抜かれるかもしれない。


「はーい」


「お願いだからいい子にしてくれ」


 だが初めて見る熱帯雨林の光景はウタリの好奇心をくすぐるばかりで、気持ちの高まりを止めてはくれない。


 キャッキャと人の悲鳴のような声が頭上から聞こえ、ウタリは顔を上げる。


 白黒縞模様の体毛を持つサルの群れが、蔦を掴みながら軽々と宙を渡っていく。


 お猿さん! とウタリは声を出すのは堪えたものの両足をばたつかせる衝動は止められず、ラフマンの顔面を蹴ってしまった。


「いってぇ」


「ごめんなさい」


「お前、もう降りろ。腰が限界だ」


 ラフマンがウタリの脇を持ち上げ、落とすように地に下ろした。ウタリは早足で進むラフマンの背を一生懸命追いかける。


「ええ⋯⋯ウタリ、歩かなきゃだめ?」


「そうだ歩け。あと、もう喋るな」


 喋るなと言われても、やはりウタリは好奇心に負けてしまった。


 バナナがたわわに実る木を見れば──


「バナナ!」


 と小声で指を差す。


 白い水玉模様のある赤いキノコを見れば──


「かぁいいキノコ! 見てラフマン!」


 とラフマンの注目を誘うように指を差す。


「はいはい⋯⋯キノコだね⋯⋯」


 ラフマンの返事は無愛想だが、ウタリは彼が反応してくれるのを面白がって色んなものを指差した。


 滝の流れる場所に出た。高い切り立った崖から、轟音とともに飛沫を上げて大量の川水が流れ落ちている。


 鬱蒼とした森の上から一筋の陽光が差し込み、滝の霧が満ちているところには虹が輝いている。


 滝壺の周りには赤い花々が咲き乱れ、青く透き通った宝石のような羽を持つ蝶々が踊るように飛び交う。


 昔話に出てくる『楽園』という場所に似ていて、ウタリは目を輝かせながらその絶景を見つめた。


「綺麗⋯⋯」


 ラフマンの首が滝の方に向いた。


「ねぇラフマン、あれ綺麗だよ?」


 ラフマンはしばらく黙り込んだ後、答えずに前を向いてしまった。


「つまんない」


 ウタリが愚痴を吐いた時、前方で重たい何かがいきおいよく倒れる音がした。前を向くと、一人の島兵が草むらに倒れ込んでしまっていた。


 倒れた島兵は草むらに埋もれ、じっとして動けなくなった。ウタリは列から顔を覗かせて島兵の様子を見る。


「しまへーさん、壊れたの?」


 ウタリには、倒れた島兵が人の形をした石のように見えた。頭上からラフマンの気だるげな声が降ってくる。


「壊れた?⋯⋯疲れて、倒れただけだろう」


「疲れた、の? 壊れると違う?」


 倒れた島兵はゆっくり起き上がろうとしたが、自分の体重を支えきれないのかまたぺたりと地面に身体を這わせてしまう。並んで歩く仲間たちは彼をいないもののように無視して進む。


 ウタリが島兵のそばを通りがかった時、彼はおじいさんのようにカサカサな声で言った。


「水⋯⋯くれ⋯⋯」


 水が欲しくて倒れたらしい。


 ウタリの血は、水と同じように喉の渇きを潤すと村人たちは言っていた。この島兵さんも血を飲めば、喉が潤うはず。村人たちに求められるまま血を捧げてきたウタリは、何の疑いも躊躇いも無しにニッコリ笑い、島兵の訴えに応える。


「うん、いーよ。ウタリの血、あげるね!」


 ウタリは島兵に駆け寄り、彼が持つ長い木の棒に付いている細っこい包丁で腕を斬った。 


「おい、勝手なことをするな」


 ラフマンがウタリの襟を掴み、島兵から離そうとする。


「血ぃ飲ませるだけよ」 


「重傷者は捨てていけと中隊長から命じられているんだ」


 島兵たちが何事だと思って気になったのだろう、聞こえていた足音が次々に止んだ。


 迷惑がる彼らを意に介さず、ウタリは島兵の口を開けて血を飲ませようとした。島兵はびっくりしたように目を丸くする。 


「な、何を⋯⋯」


「ウタリの血はね、とってもおいしいの。飲むと元気になるよ!」


「やめろ、やめろ⋯⋯」


 嫌がって顔を背ける島兵の口に血をぽたぽた落とすと、彼はペッと一旦吐き出したが、しばらくして舌をぺちゃくちゃ動かしびっくりしたような顔になった。


「甘い⋯⋯? 果汁ジュースみたいな味だ」


 誰かの足音が近づいてきた。顔を上げると、鬼のような顔のおじさんがウタリのそばにいた。アリフチュウタイチョウドノおじさんだ。名前を短くして『アリフおじさん』と呼ぼう。


 彼の後ろでは、銀髪赤目のお兄さんが小さな通帳を開き、ウタリのほうを見ながら筆で何かを書いている。  


 なぜアリフおじさんは怒っているのだろう。ウタリは首を傾げて訊いた。


「アリフおじさん、ウタリ何かしたの?」


「我々は急いでいるんだ。余計なことはしないでもらいたい」


 余計なことというのは、倒れた島兵を助けることだろう。だがそれの何がいけないのかウタリにはわからなかった。


 血で人を癒やすのは、ウタリにとっては呼吸するのに等しいことだから。


 周りから視線を感じてウタリは顔を上げた。ラフマンもみんなも、おじさんのように怒った険しい顔をしている。


 中には眉をハの字にして怖がっているような人もいる。ウタリはがっかりした。


 みんな笑ってくれない。


 こんなのつまらない。


 何か一言くらい言ってほしい。


 村人たちは、笑顔でたくさん褒めてくれたのに。


 アリフおじさんはウタリの片腕を引っ張って、島兵から引き離す。


「とにかく、そいつは置いていくんだ」


「えー、やだ、つまんない」


 アリフおじさんは大きな溜め息をついて首を横に振り、「おい、ラフマン二等兵」と助けを求めるように呟いた。


 その時、銀髪赤目のお兄さんが口を開いた。


「アリフ中隊長殿、予定変更を要請します。血の能力の観察に一分三十秒三十ほどお時間頂けますか?」


 アリフおじさんは肩越しから銀髪赤目のお兄さんを見て、「⋯⋯一分三十秒だけだぞ」と諦めたように言った。


 銀髪赤目のお兄さんはウタリを見て、指差す。


「そこの医薬品、一分三十秒三十以内に治癒作業を終了してください」


(ソコノイヤクヒンイッピュンサンズービョー? 呪文かな?)


 お兄さんの言うことがよくわからないので、無視してウタリは横たわる島兵のほうに向き直った。


「おいしいでしょ? もっとあげるよ」


 ウタリは傷口付近の血管に指を押し当て、島兵の口に血を流し込む。 島兵は、今度は喉を鳴らして素直に血を呑み、ぷはぁと満足げに溜め息をついた。彼の荒い息と表情が穏やかになる。 血管を押さえるのをやめると血が止まった。 


「はい、おしまいよ」


 島兵はゆっくりと立ち上がり、自分の両手を不思議そうに見て言った。


「力が湧いてきた⋯⋯」


「でしょ? ウタリの血を呑むと元気になるんだよ!」


 島兵は立ち上がると、ウタリに軽く一礼して列に戻った。周りにいた島兵たちが、元気になった彼に問いかける。


「大丈夫か? もう歩けるのか?」


 元気になった島兵は信じられない、というような引きつった笑みを浮かべて答える。


「喉の渇きも空腹感も一瞬で無くなったし、足腰が平時の時に戻ったみたいだ。あの娘の魔法、かな」


 島兵たちはウタリを見た。


「やっぱりこいつ魔女だ」


「間違いねぇ」


「魔法を使いやがった」


「あの、人肉で秘薬を作る不死身の魔女だよ」


「確かに。あの爆発に巻き込まれて、小娘だけ無傷だったしな。不死身としか思えん」


「不死身⋯⋯伝承は、本当だったのか」


 ウタリは島兵たちの中に立つラフマンを見た。


 今まで迷惑そうにしていたラフマンの顔が、まるでお化けでも見たかのように凄く怯えたような表情になっていた。


(ラフマン⋯⋯どうしたの?)


 首を傾げるウタリを見つめながら、ラフマンは呟く。


「やっぱりお前⋯⋯伝説の不死身の魔女か」


 みんな不気味がってはいるけれど、彼らの眼差しに自分たちも血が欲しい、というような気持ちが滲み出ているような気がして背筋に冷たいものが走り、ウタリは身を引いた。


(ウタリ、食べられる?)


 骨になるまで食べられたら、ガイコツのまま歩かなきゃいけなくなる。


「終わったか?」


 アリフおじさんの声で我に返ったウタリは、ラフマンの隣に並んだ。


「うん、しまへーさん元気になったから終わり!」


「全く、挟撃に遅れたら台無しだというのに⋯⋯」


 愚痴を言いながらアリフおじさんが去っていく。銀髪赤目のお兄さんはその場で、通帳に何かを書き込みながらぶつぶつ呟いていた。


「喉の渇きと空腹感解消、疲労回復の効果あり⋯⋯」


 銀髪赤目のお兄さんは鋭い赤い瞳でウタリを一瞥した後、背を向ける。ウタリは咄嗟に訊く。


「ねぇお兄さん、何でウタリと同じ髪と目なの?」


 銀髪赤目のお兄さんは去っていってしまった。


 入れ違いに、別の島兵がウタリのそばにやって来た。ラフマンと同じ年ぐらいのお兄さんだった。片腕に黒い十字架模様の腕章が巻き付けられている。ラフマンたちは着けていない。誰だろう?


「お兄さん、誰?」


 お兄さんはウタリのそばにしゃがみこみ、にっこり微笑む。


「僕は⋯⋯えっと、えいせいへ⋯⋯いや、お医者さんだよ」


「お医者さん?」


「兵隊さんを治す兵隊さんなんだ」


「へぇ。何しに来たの?」


「君の血を抜いてこいって言われたんだ。血、もらってもいいかな?」


 抜きすぎたらカサカサになる。ウタリはぎゅっと身を縮こませた。


「ちょっとだけだよ?」


「うん、ありがとう」


 お医者さんは刃物を取り出し、ウタリの腕の関節辺りを切った。トロトロ出てきた血を、お医者さんは底の深いお皿に入れる。


「これで疲れた人を助けられるよ」


「よかったね」


 お医者さんが遠くへ去っていく。しばらくして、ぎゃあっと馬鹿でかい悲鳴が轟いた。


「やめろ! 魔女の血を俺に浴びせるな! 穢らわしいっ!」


「医療行為です! 従わない場合は放置していきます!」


「魔女の血が身体に流れるぐらいなら死んだほうがましだぁっ!」


 何で騒いでるんだろう、とウタリは首を傾げた。


「あれ、立てる⋯⋯目眩が、治った⋯⋯」


 誰かのびっくりしたような声が聞こえてきた。


 別の人たちの声も聞こえる。


「ヴァレンス衛生隊長殿、落伍兵が五人回復しました!」


「軽傷者、六名回復!」


「いずれも少量で、すぐに回復です」


「凄い効力だ⋯⋯使えるな、これは」


 また前から伝令が順番に伝わってきて、ウタリたちは歩き出した。





 彼らが去っていった後の獣道。


 シダの葉の茂みに、有線式の小型機械が仕掛けられていた。


 ジジッ、ジ──と回線を流れる電気の微かな音が、葉擦れの音に混じっていた。


 その回線は彼らが今まで通ってきた道、そして行軍先のずっと先まで、茂みに隠されつつ伸びていた。


 ケーブルの被膜はまだ新しく、陽に焼けてもおらず、表面の艶が残っている。


 つい先日、何者かの手でここに這わせられたものだった。

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