4-13 恐怖のキノコパーティー
その場に膝をついて怯えるように表情を引きつらせるファディルを、ラフマンは唖然としながら見つめた。
「ファディル⋯⋯?」
ファディルは顔を背け、唇を震わせながら「キノコが、キノコが⋯⋯」が呟く。
眼鏡越しの眼球の動きも異常に激しく、動揺しているのが見て取れる。
ノリが「班長、班長」と声をかけながらファディルの肩を揺らす。だが彼は微動だにせず、壕から視線を逸らしている。
ファディルはひきつりすぎて皺の寄った口を動かし始めた。
「理解不能、情報処理不能、解析不能、分類不能、演算不能、キノコ構造繊維密度数億パーセント、演算機能停止、脳機能に深刻な障害発生、脳神経伝達物質過剰分泌、強制停止命令、繰り返す強制停止命令、全機能稼働停止せよこれ以上の脳神経稼働は不可──」
まるで通信オペレーターのように早口でベラベラ呟いた後、事切れたファディルはがくりと頭を垂れた。肩はガタガタ震え、指はひっくりが返った虫の足のようにうにょうにょ気色悪く動く。
明らかに怖がっている。キノコに対して──
ウタリがファディルに訊いた。
「ファディル何してるの? 何でお手々ぐにゃぐにゃしてるの?」
(本当に⋯⋯)
最初はイルハムの言ったことに半信半疑だったが、ファディルの怖がる様子を見て確信する。彼がキノコを酷く恐れるのは本当だったのだ。
(キノコ、怖ぇんだな)
だが、なぜ神がキノコを恐れる? ヴィシュヌはキノコが嫌いなのか? 世界を見守る神なのに、たかがキノコが怖い? にわかには信じ難い。
それともファディル個人特有の恐怖症なのだろうか。ヴィシュヌの分霊とはいえ、彼は今まで自身を人間だと信じて疑わずに生きてきたから、何かキノコに対し強烈なトラウマ体験をしたゆえ、恐怖するようになったのか。
ノリなら何か知っているだろうと思いラフマンはノリに訊いた。
「ノリ一等兵殿、ヴィシュヌ様ってキノコ怖──」
ノリはシーッと指を口に当てた。ファディルに自身の正体をばらしてはいけないということだろう。ラフマンは口を閉じた。
「じゃあ、班長」
ノリは【全機能稼働停止】したファディルをおんぶし、壕の中に入ってきた。
おんぶされたファディルが、ノリの肩に顔を埋めながら呟く。
「ノリ、キノコへの接近は精神性ショック死を引き起こします。ただちに降ろしてください」
「これはラフマン二等兵と班長にとって必要なことだから、却下」
「私の生存を最優先事項と致します。繰り返します、ただちに降ろしてください」
「却下」
ノリはキノコの前にファディルを降ろした。ファディルはキノコから顔を背け、「生存率三十パーセント低下」と呟く。
ウタリが俯いて動かないファディルの顔を覗き込む。
「ファディル壊れちゃった。おめめ動いてない」
ノリが答える。
「うん、キノコが怖くて壊れちゃったみたい」
ウタリは目をまんまるにしてノリを見た。
「ファディル、キノコ怖いの?」
ノリは苦笑しながら頷く。
「そう、ファディルにとってキノコはお化けみたいに怖いんだ」
「えー! キノコかわいいのに! お化けと一緒にしたらキノコかわいそう!」
ラフマン、ウタリ、ファディル、ノリが焼きキノコを盛られた皿を囲う。
数分前、イルハムがまた何個か食べられるキノコを持ってきた。その後、今度は壕に青い炎のような精霊が入ってきて、ノリが精霊を通じて遠隔念話してきた。
『今からキノコ焼くね』
そう言ってノリは精霊火でキノコを焼いた。こんがりいい匂いのするキノコができあがり、ラフマンは皿に盛った。
『班長連れてくるから、待ってて』
どうやらノリがイルハムにキノコをラフマンに渡せと指示しているらしい、となんとなく察した。
キノコパーティーでファディルをビビらせて主導権を奪い返してやりたい、という心の中を読まれていたのだろうか。
そして今、恐怖のキノコパーティーが開催された。
ファディルとキノコパーティーをすることが、なぜ自分と彼にとって必要なことなのか。その時はノリは教えてくれなかった。
ずっと気になっていた理由を、ラフマンはノリに訊いた。
「なぜキノコパーティーが俺とファディル少尉に必要なのです?」
『ヴィシュヌがラフマンに班長とウタリちゃんの「従者」になれって言ってたよね』
いきなり脳内念話に切り替えられ、ラフマンは頭を押さえて呻く。頭の奥がくすぐったい。
『班長の心の鉄壁をキノコによる恐怖で破壊するんだ』
「心の鉄壁?」
ラフマンはノリが以前言っていた言葉を思い出す。
──僕、霊能力者だから見えるんだ。班長の魂の構造。分厚い鉄壁で、ガッチガチに心を覆っているのが。
──あれはね、きっと、自分で自分を守るための壁なんだよ。心に何重にも巻いた鉄の殻。その殻の名前が、きっと『合理的』なんだと思う。
「その鉄壁を、破壊? キノコで?」
キノコが鉄壁を破壊する凶器となるとは、どういうことか想像も付かない。
『お互いが通じ合えるようにならなければ、従者は務まらない』
「従者⋯⋯」
『班長はね、人間にいじめられすぎて、人間が怖いんだ。だから、心を鉄壁で堅く閉ざして機械みたいな人格になることによって、身を守ってきた。数式で相手を解析して、どうすればうまく他人に傷つけられずに関われるかを計算して接していた。その安全策の一つが、相手の心理を操ることだった』
ウタリ、島兵たち、ヴァレンスをファディルの言いなりさせたのは、あれは自分が傷つかないための対策だったのか。
『班長が操ろうとする相手は、自分を傷つける可能性のある奴。逆に自分を安心させてくれる奴は操ろうとしないし、一旦機械的な人格になるのを解除して、人間らしく振る舞うようになる』
だが彼らを言いなりにさせたのは敵部隊撃退作戦のためであり、自己防衛が目的ではなかったはず。
『傷つくことから自分を守るため、演算器となる。神──いや演算器としての班長は、島兵たちの捧げるヴィシュヌへの祈りに反応し、彼らを助けていた。自分でも知らないうちに、無意識に』
そうか、ヴィシュヌに捧げられた島兵たちの「生きたい」という祈りを受信して、ファディルは祈りを叶えるために、その時は演算器として無意識に振る舞っていたというわけだ。本来自己防衛システムのはずの演算器が、祈りの受信機として機能した。と、ラフマンは拙い解釈をしてみた。──だが。
「祈りを捧げていたのは、ファディル少尉を傷つける者たちでしよう? 守りたくもない彼らの祈りに反応していたとは、どういうことです?」
『そこは、人間の祈りに応えようとする神の分霊として、反応していたってこと。人間が嫌いなのに、神としての本能に逆らえず、助けてしまった。班長自身も、なぜ助けたのか明確な理由が見つからなかった。だから僕を助けるためとか、作戦のためとか、意味をつけようとした。でも実際は、神としての班長が、ただ祈りに反応しただけだったんだ』
ファディルの複雑な心理構造に理解が追いつかず、ラフマンは首を傾げながら訊いた。
「よくわかりませんが、まぁ、人間らしい面と神の面があると? で、神の面──いわば演算器として振る舞っていた時の人間味にかけたファディル少尉を、俺は外道と呼んでいたというわけですかね?」
『そういうこと』
ノリに正解と言われても、やはりまだはっきりとは理解できずラフマンはモヤモヤしながら黙り込む。
(半人半神か。よくわからん)
『だから、ラフマン二等兵は従者となるために「操られない」奴にならないといけない。班長にとっては心の殻を破るための、ラフマン二等兵にとっては従者となるためにキノコパーティーは必要不可欠さ』
「そうですか⋯⋯で、何でキノコが心の殻を破るのですか?」
『キノコは班長にとって、この世で一番不可解で怖いものみたい。植物なのか菌類なのか構造上分類できなくて、解析不能で凄く怖いんだって』
よくわからない怖がり方だ。
「あいつ、死体や肉片見ても無反応なのに、キノコはダメなんですね⋯⋯訳がわからん」
『はは、そうだね』
ノリは無言でラフマンの肩を軽く掴み、口を開いた。
「受け入れられる? 班長のこと」
ラフマンは俯き、答える。
「でも⋯⋯試してみます」
信仰対象とはいえ、ヴィシュヌの遺志に背いて殺されるのはごめんだ。
「きゃはははは! 何で逃げるの?」
ウタリの笑い声がして、ラフマンは声のしたほうを見た。ウタリが、腰を抜かしたまま後退るファディルに対しフォークに突き刺したキノコを突きつけながら、じりじりと歩み寄っている。
「何でそんなにキノコが怖いの?」
「やめ⋯⋯てっ、くだっ⋯⋯さ⋯⋯っ」
途切れ途切れに抵抗の声を上げるファディルは、壁際まで追い詰められていく。
「こんなにいい匂いするのに」
「腫瘍の、匂い⋯⋯など、ごめん、です⋯⋯っ」
壁に背中を激突させ、ファディルは迫りくるキノコから顔を背ける。
ラフマンは唖然とし、乾いた笑い声を上げた。
「本当に怖いんだな、キノコ」
ノリも堪えきれないという様子で、くすくす笑っている。
「おかしいよね」
「⋯⋯よし」
俺もやってやろう。ラフマンは自分の腰嚢からフォークを取り出し、皿の上のキノコを突き刺してファディルのもとへ接近する。ファディルがラフマンを見上げ、引きつった顔を向ける。ファディルらしかぬ怯えきった顔だった。
(あの顔が、こいつの素顔?)
いや、それとも。
(この怖がり方も、《《演算》》なのか?)
人間らしい振る舞いさえ、計算なのか?
怖がる表情の下にあの無表情が隠れているのを想像し、背筋に冷たいものが走る。
(『かわいそう』と思うように計算して、わざと怯えた顔を演出してるんじゃないのか?)
人を平気で操作する奴である。顔も作り物かもしれない。
この顔も仮面だとして。なら、ファディルの「本心」はどこにある? あの無表情も仮面。怯えも仮面。全部、演算の一部。それでも、ファディルの本音を引きずり出してやる。
仮面を、今から剥いでやろう。
ラフマンはファディルのそばにしゃがみこみ、キノコを唇へ押し付ける。
うっ⋯⋯と吐き気を催すようなえずきを上げ、ファディルはかっと見開いた目でラフマンを見る。
「ファディル少尉⋯⋯」
キノコを絶対に口に入れまいとしているかのように硬く唇を閉ざしながら、ファディルはラフマンを見ていた。
「今後は、俺のすべての要求に従ってもらいます。ここでキノコを解剖し、キノコを味見し、必要ならあなた自身にもキノコを食べていただきます」
服従させられた時にファディルに言われた言葉を真似て、キノコ強制試食の刑を宣告する。
ファディルは小さく首を横に振る。
「や⋯⋯です⋯⋯」
ラフマンはグイッとキノコをさらに押し付ける。ファディルは顔を背け、岩壁に頬を張り付かせて必死の抵抗を見せた。
「俺を犬にしようとした罰を受けてもらいます。さぁ、お食べください。香ばしくて美味しいですよ?」
ウタリが瑞々しい膨らみのある両手をぱちんぱちんと叩きながら連呼する。
「キノコ! キノコ! キノコ!」
ウタリの声援を受けながら、ラフマンは顔を背けるファディルにキノコをなおも押し付ける。
ファディルが閉ざした唇を小さくこじ開けながら、抗議する。
「ラフマン、二等兵⋯⋯これは、わ、私に、対する⋯⋯拷問です。厳重処罰と致します」
ファディルの顔を絶え間なく垂れ落ちる冷や汗が、泥と血を洗い落としていく。
「軍法会議を通さない刑罰は認められておりませんが」
反論不能だったのか、ファディルは悔しげに歯を食いしばる。
こいつ、本当にヴィシュヌの分霊なのかとラフマンは呆れ返る。目の前にいるのは、たかがキノコに死ぬほど怯える阿呆な眼鏡のお兄さんだ。神の要素など微塵にも見受けられない。ノリにはファディルに宿るヴィシュヌの分霊が透視できているのかもしれないが、常人のラフマンにはわかるわけもない。
「ねぇ、見てファディル!」
ウタリが顔を両手で隠す。
「いないいなぁい〜」
数秒経ち──
「ばあぁーっ!」
ウタリが両手を開いて、変顔をファディルに見せつける。目玉をひん剥いて、舌を出しておどけるウタリのほうを見ながら、ファディルは口をぽかんと開ける。
その隙をラフマンは見逃さなかった。開いた口にキノコを突っ込み、唇を指で挟んでやる。
「んぐ⋯⋯っ」
ファディルは吐きそうな顔で呻いた。
「美味しいでしょう? キノコ」
ファディルは吐き出すことなく、もぐもぐと口を動かす。
ウタリが頬に両手を当てて、驚いたように目をまんまるにして声を上げる。
「あぁ! キノコ食べた!」
おぞましい化け物のように怖がっていたキノコを、今、人間ラフマンによるゴリ押しで無理矢理咀嚼している。神の権威も、これで地に落ちた。
ファディルはキノコを咀嚼した。やがて表情を緩め、ガムを食べるように口を動かし続ける。
「美味しいでしょう?」
暫しの沈黙が流れて、ファディルは無言で頷いた。
「わぁい! やったねキノコさん!」
ファディルはキノコを呑み込み、「⋯⋯味覚刺激指数九十五パーセントです」と答える。
ノリが解説する。
「うまいってことだよ」
ファディルの虚ろな瞳がぱっと見開かれ、ランプの明かりが反射し輝いて見えた。あどけない少年のような瞳に、ラフマンは息を呑む。
ノリの言葉をまた思い出す。
──⋯⋯純粋無垢、だから。
嫌いなやつに何か食わされたら、たとえ美味しくても顔はしかめっ面にしかならないはずなのに、ファディルは子供のような眼差しでキノコを堪能していた。
騙されるな、これも仮面かもしれないとラフマンは自分に言い聞かせて警戒する。味覚指数も騙すために演算で作り出した適当な数値だろう。
「ファディル少尉、本当に美味しかったのですか?」
「はい、とても美味でした」
「証拠は?」
ファディルは無垢な瞳を貼り付けたまま答える。
「私の計算に一切の狂いはありません」
ラフマンはファディルを睨みながらなおも問いただす。
「その計算は、俺を騙すための作為ではないのですか」
人を操作し服従させようとする奴の言うことなど、信じられるわけもない。
ラフマン二等兵⋯⋯と咎めるようなノリの声がした。
「班長は、本当に美味しいって思ってるよ。そういう念を発してる」
ノリも神の寵児の説明に嘘を紛れ込まさせていたのだ。ファディルがラフマンの信仰するヴィシュヌだと知ったら辛いだろうという計らいだったかもしれないが、嘘つき少年の言葉はもう信じられない。
ファディルは目を細め、いつもの冷徹な眼差しで言った。
「ラフマン二等兵、あなたが私に反抗的なのは存じております。私がキノコを美味しいと言って、あなたが私に対し警戒心を解くとは思えません。騙そうと「美味しい」と発言したところで、心理的効果はほとんどないでしょう」
ラフマンは口を閉ざす。確かに、警戒心がある状態では騙しようがない。反論できないラフマンを追い詰めるようにファディルは続けた。
「心理操作とは、対象が操作に乗る前提条件がなければ成立しません。あなたが私を信じない限り、私があなたを欺くことはできません。今の私に、あなたを操作することは不可能です。それより──」
ファディルはどことなく残念そうな顔で俯いた。
「あなたは私をキノコによる恐怖で追い詰めた。これは飼い犬に手を噛まれたというものですね。予想外のこの結果、大変興味深いです」
騙す作戦が失敗に終わったら、普通なら悔しさに憤るはずだが、ファディルは逆に好奇心をくすぐられたようである。
「こ、この野郎⋯⋯」
またも論破されてしまった。腹の奥で火がついたように腸が熱くなり、ラフマンは震える手でファディルの眼鏡を取り上げた。
「あ⋯⋯ラフマン二等兵、何を⋯⋯」
眼鏡がなくなったことにより、整った切れ長の目縁がはっきりと見えた。光を宿さなかった瞳にランプの明かりがより一層強く反射して、赤い瞳をルビーのように煌めかせる。動揺するファディルを、ラフマンは呆然と見つめた。
いつもの冷徹で何を考えているのかわからない不気味さは払拭され、凛々しく麗しい雰囲気の美青年に様変わりした。
化け物のようにしか見えなかった気色悪い銀髪赤目が、ファディルに幻想的な気配を漂わせ、まるで森の精霊のように見えた。
眼鏡を外すと印象の変わる人間はたくさんいるが、ファディルは変身レベルの変化だ。ラフマン二等兵は暫しファディルの顔を見つめてしまう。
眼鏡を取っただけなのに、こんなにも違って見えるなんて。
ファディルは眼鏡を探すように宙を探りながら、ラフマンに懇願する。
「ラフマン二等兵、眼鏡を返してください。それがないと私は何も見えないのです」
ファディルの声が、どこか幼く揺れていた。普段の無機質な発声ではない、頼るような声色だった。
「眼鏡⋯⋯眼鏡⋯⋯何も見えません⋯⋯」
その様子は、暗闇の中で迷子になった子供のようだった。とても神とは思えない情けなくて滑稽な姿だ。こんな馬鹿に犬化させられた自分までも惨めに思えてくる。この馬鹿と同じ土俵に立たされたことかあまりに馬鹿馬鹿しくて、笑いすら込み上げてこない。
ノリが溜め息混じりに言う。
「ラフマン二等兵、班長に眼鏡を返してあげて」
ウタリもノリに便乗するように言う。
「そうだよ! ファディルが可哀想! いじわるはやめて!」
ウタリまでファディルの肩を持つのか。そうか、ウタリはファディルに懐いているから当然か。ノリとウタリに板挟みされ、居心地が悪くなってきて、ラフマンは肩を縮こまさせる。
半ば嫌悪の色が混じったノリの声がした。
「早く眼鏡を返して。班長、本気で嫌がってるからやめてあげてよ」
胸を突くような痛みが走り、ラフマンは唇を引き結んだ。ノリの明らかに突き放すような声色で、ラフマンのファディル憎きと叫ぶ心が振れる。
ラフマンは手の中の眼鏡を見つめる。
返してやるべきか、と心の片隅から問う声がする。だが、自分とウタリを散々弄んできた奴のあの無機質な瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。
「眼鏡、眼鏡」と宙を地を探っている哀れなファディルを、ラフマンは警戒心を持って見つめる。返したら、こいつは再び無機質な仮面を貼り付けて自分をはめてきそうである。
また犬扱いされてしまうのでは。せっかく奴の首輪から逃れるチャンスを手放してしまうのでは。ファディルへの屈辱感と疑心で、ラフマンの全身の肌も鉄壁で覆われていくような感覚になる。
「ラフマン二等兵、お願いだからさ⋯⋯」
「ラフマン! ファディルをいじめないで!」
二人の咎める声にとうとう心折れ、ラフマンはファディルに眼鏡を返してやった。
「⋯⋯畜生」
負け惜しみを込めてラフマンは呟く。
ファディルは安堵したように息を吐き、眼鏡を押し上げ、ラフマンを見ずに言った。
「ラフマン二等兵、あなたを処罰したいところですが、おかげでキノコに対する恐怖を克服できたのでナシとしましょう」
ノリがびっくりしたように言う。
「え!? もう克服できたの!?」
「キノコ、食材に分類致します」
「ちなみにさ、今までは何に分類してたの?」
「⋯⋯ばけものです」
「ばけもの!?」
ノリとファディルの会話を聞いていたラフマンは呆れて二人から目を逸らした。キノコがばけもの。幼児か。
「でもウタリちゃんをばけものとして認めるのが怖いのに、キノコはばけもの扱いなんだね。へんなの」
「ウタリさんは人型で、生体反応及び知能は人間、私と同じ銀髪赤目ですから、ばけものと認めるのが苦痛だったのです」
ラフマンはファディルを見た。心臓の鼓動が速くなっていく。今こいつ、ウタリを「ウタリさん」と呼んだ? 今までは医薬品呼ばわりだったのに、どうして──?
「キノコは植物でも動物でもない異常生命体であり、紛うことなきばけものと認定しておりました」
「ファディル少尉」
ラフマンが呼ぶと、ファディルはこちらを見た。
「なぜ⋯⋯その、今、ウタリさんと呼んだのですか? 今までは医薬品呼ばわりだったのに」
「ウタリさんは私のジビ⋯⋯」
ノリが慌てて駆け寄り、ファディルの口を手で塞ぐ。ノリはごまかすように笑いながら、言った。
「あ、あああの、その、ようやくウタリちゃんを人間扱いする決心がついたんだ、それで⋯⋯」
またこいつ何か隠してるな、とラフマンは舌打ちする。
ウタリが両手の拳を顎の下で合わせ、眉をハの字にしながらファディルに訊いた。
「ファディル、イヤクヒンのあだ名やめちゃうの?」
医薬品の意味を知らないウタリは、ファディルが友になった証として付けてくれたあだ名と認識しているようだ。無知な子供の発想が辛い。
ファディルはノリの手越しからくぐもった声で答えた。
「はい」
「ウタリとファディル、お友達じゃなくなっちゃうの?」
「違います。あなたは私の⋯⋯」
「こらこら、だめだって」
ノリは両手でガッチリとファディルの手を覆った。
何の心境の変化があったのか知らないが、ファディルはとりあえずウタリを人間として認めて「さん」付けしたいと思った、ということだろう。
ラフマンは何度も繰り返した言葉をまた呟く。
「⋯⋯よくわからない奴」
ファディルは立ち上がってキノコの皿の前に座り、腰嚢からナイフとフォークを取り出した。
「⋯⋯では、焼きキノコを頂きます」
ファディルはお上品にキノコをナイフとフォークで細かく切り分けていく。
ウタリが駆け寄り、キノコをつまみ上げて口に放り込む。
「おいしー!」
「ウタリさん、あなたは何も食べないはずでは?」
「うん! いっつもお腹空かないけど、おいしい味は大好き!」
「そうですか」
ウタリは満面の笑みを浮かべた。
「一緒に食べよ!」
「はい」
ラフマンはノリの隣に座り、背後から銀髪赤目の二人を見つめた。嫌われても守ろうと思ったのに、ウタリのそばへ近づいてはいけないような気がして、立ち上がる気になれなかった。
「神の寵児の二人、ようやく仲良くなれてよかったよ」
神の寵児の二人と聞いて、ラフマンは思い出す。そういえば、神の寵児には三人目の『櫓の守り人』がいたはずだ。謎の持つ一人の寵児は、とうとう現れなかった。
「櫓の守り人は、現れてくれませんでしたね」
ノリはくすっと笑う。
「そうだね。今頃、戦争とは無関係の場所で呑気に暮らしてるんじゃないかな」
「だといいですね」
もしかすると戦争とは関係のない、ラグドル本土にいるのかもしれない。羨ましいな、とラフマンは微笑む。
暫しして──
ファディルは皿に盛られたキノコを全部食べてしまった。キノコを押し付けられて冷や汗ダラダラで逃げ回っていたのに、美味しそうに頬張っていた。
「──ご馳走でした」
ファディルは立ち上がり、ノリを呼ぶ。
「ノリ、勤務時間十分前です」
「はいはい」
ノリはファディルのそばへ寄り、ラフマンを振り返って手を振る。
「じゃあね、ラフマン二等兵」
ラフマンは無言で敬礼し、幕をめくり去っていく二人の背中を睨みつける。
人間奴隷化趣味野郎に嘘つき小僧。とんでもない曲者どもである。
(二度とくんな、曲者ども)
ウタリは二人がいなくなってもずっと手を振り続けていた。寂しそうに、名残惜しそうに、ずっと⋯⋯。
◆ ◆ ◆
三つ編みのような幹の木々が頭上高く聳える山の斜面で、ノリは一人立ち尽くしていた。風が吹くと木々がざわめき、手のひら大の大きな枯れ葉が落ちてくる。
勤務時間を終えて休憩に入り、ノリは観測壕の記録室隣の鍾乳洞を通り抜け、洞窟から外に出た。
「ラフマン、もうすぐ君は僕の代わりに班長の世話をすることになる。押し付けてごめんよ」
独り呟き、ノリは微笑む。
従者役引き継ぎのために、ノリはキノコパーティーを開催した。だがラフマンは結局ファディルを拒絶し、失敗に終わった。もう時間がないのにという焦りに加えてやり場のない悔しさに押し潰され、ノリは歪んだ笑みを浮かべる。
「⋯⋯神よ、従者の引き継ぎは失敗しました」
木々の間に二つの眩い緑色の光が現れる。光は輪の形に広がり、その中に縦向きの細長い瞳孔が開き、ノリを見つめた。
カイラス岳に棲まう破壊神シヴァの目だ。
森に満ちる静かな空気を震わせるような、重圧感ある老人の声が響き渡る。
『仕方ない。あれだけ外道、外道と呼んでいた者に対しそうあっさりと心を開くはずがない』
その声はもちろん、霊能力を持つノリにしか聞こえない。
ノリは笑いながら溜め息をつく。
「⋯⋯ですよね」
『お前も嘘つき小僧だから、ラフマンに信じられておらんしな』
「⋯⋯はい」
ラフマンに嘘を付いてしまった罪悪感で、ただでさえ崩壊寸前の精神がひび割れそうになる。
別にラフマンを騙したかったのではない。神の寵児の説明をした時、ファディルがヴィシュヌであると明かしたらラフマンの信仰心とともに精神も崩壊するだろうと心配して、あえて「選ばれし者」と話を作り変えてしまった。
「ラフマンには、申し訳ないと思っています」
『櫓の守り人のことも嘘をついたのだろう?』
神には何もかもお見通しだ。ノリはくすくす笑う。
「はい、それも嘘です。行方不明、なんて作り話。櫓の守り人は、ずっとそばにいましたよ」
櫓の守り人の正体を、役割を話せば、ラフマンが困惑すると思ってあえてはぐらかしておいたのだ。
『櫓⋯⋯ヴィシュヌ様も中々残酷な趣味をしておられるものよ』
「本当です。班長の一億倍は恐ろしいお方ですよ」
『そうかもしれぬなぁ』
シヴァは乾いた笑い声を上げた。
ノリは、ずっと訴えたかったことをシヴァに言った。
「⋯⋯ヴィシュヌは、僕が献血機関を阻止しようとしても殺してはくれなかったです。神の行いを止めるのは一番の冒涜なのに」
『なに、蟻一匹が人間に歯向かうようなもんじゃ。ヴィシュヌ様も全く気にしておられんわ』
「やはりそうですか。献血機関は、ヴィシュヌの予定した通りに『祝祭』を開く」
『そうだ。人間はあれを医療装置と見なしているようだが、あれは神の祭壇じゃ』
ノリはまたにやつく。ここに敵が来れば献血機関による『祝祭』が開催され、普通の戦場よりもおぞましい光景が繰り広げられることだろう。
シヴァは大きな二つの目を瞬かせた。
『そろそろ、奴らが来たようじゃぞ』
「うん、そうだね。⋯⋯来たね」
ノリは遠隔透視し始めた。脳裏に映像が浮かんでくる。森を、カイラス岳付近の山々を、海岸沿いの村を抜け、遥か遠い海の彼方まで透視の視野を拡大していく。
青い海と空の水平線の向こうから、黒々とした大波が押し寄せてくる。水平線にべったりと黒く太い線を引いたようにも見える。津波ではない。
あれは、何千何万もの敵艦隊だ。
何千万もの兵力を持つ敵の本隊が、この小さなセルク島へ押し寄せてくる──。
ノリの全身の毛穴が開き、冷たい汗が噴き出る。
「⋯⋯終わったな、セルク島」
決戦の時が、迫っていた。




