4-9 神の理
ファディルが、ヴィシュヌの分け御霊。
ノリの言葉を何度反芻しても、頭が理解することを拒絶する。
今までファディルが何度も繰り返してきた鬼畜の所業と、島の護り神ヴィシュヌという神秘の存在が、どうしても結び付かない。
『受け入れられない? 思い出してみなよ。あいつの顔や声を』
ラフマンはファディルの容姿を思い出す。
常に一片たりとも表情の変わらない、仮面のような顔。
一切の感情が宿らない、棒読みのような無機質な声。
焦点のさだまらない、いつも遠くを呆然と見ているような赤い瞳。
まるで人形のような奴だ、と何度か思った。
人間の姿なのに、どこか人間らしくない要素が濃縮されていた。
思い出そうとするたび、胸の奥がざわざわと泡立ち、背筋が凍る。
頭の奥で、今まで見ないふりをしてきたおぞましい何かが、ゆっくりと姿を現した。
あの人間らしくない容姿や言動は、人ならざるものである証だったのか。
思考の半ば吹き飛んだ脳内に、ノリの淡々とした声が響く。
『班長は自分が神だなんて知る由もなく、生まれてからずっと自分を人間だと疑いもせずに生きてきた。人間の脳味噌も付いているからちゃんと喜怒哀楽もあるし、たまに人間らしさの片鱗も見せるけれど、人格はほぼ異形そのものだ。人肉が平気だったり、平然と小さい子を解剖できるのは、鬼畜じゃなくて異形だからなのさ』
戦慄すると同時に、妙な納得も胸に広がる。
「あいつ、人でなしじゃなくてそもそも人間じゃなかった、のですね」
『そういうこと。わかった?』
「ああ⋯⋯は、い⋯⋯」
腑に落ちたのに、頭ではまた理解しきれない。
ファディルのやってきたことは、ラフマンの知る神の印象とは程遠いものばかりだ。一観測兵のくせにしゃしゃり出て隊長に文句を言い、冷笑し嫌味を垂れ、言葉で人を支配し、幼女を解剖し内臓を食う。これの一体どこが神なのか。
自分が信じてきた神々は人々に恵みをもたらす優しい者たちであり、あんな非道なことをするはずがない。
ノリの笑い声が、くすぐったさを伴って頭の中に響く。
『まだ信じられないようだね? じゃあヴィシュヌ本人に訊いてみるかい?』
「え⋯⋯」
ヴィシュヌ本人という言葉が呑み込み切れずに、何も答えられなかった。
神が慌てたように言った。
『おいノリ、待て。人霊を九次元に飛ばすつもりか?』
『はい、そうですけど』
『あそこは人霊など到底行けぬ神域だ。こやつ消滅するぞ?』
『大丈夫大丈夫、僕と契約しているヴィシュヌ眷属に彼の魂を守護させますので。まぁー、大丈夫です。たぶんね。じゃあ、召喚してみるね』
壕内の地面の真ん中が、青白く光りだした。
光が波紋を広げるように拡大し、輪の内側で魔方陣に似た複雑な模様が描かれる。
絡み合う光の線の隙間に、見たことのない文字がびっしり埋め込まれていた。
輪から太陽のような眩い光の玉が浮かび上がる。風が巻き起こり、地面の石ころが木の葉のように舞い上がって、光の玉のほうへ吸い寄せられていく。
風は徐々に勢いを増し、横殴りの暴風に身を煽られたラフマンは地面から突き出た岩にしがみつく。
「ノリいっ⋯⋯何をっ⋯⋯」
突然、視界が閃光し、真っ白に染まる──。
ラフマンの網膜を強烈な光が突き刺した。目の前で照明弾が瞬いたような衝撃が眼球の奥を殴るも、不思議と痛みは感じない。
目もくらむような閃光が壕の中を包みこんでいき、自分の腕すら見えなくなる。
『じゃあ九次元へ行ってらっしゃい、ラフマン二等兵』
凄まじい突風に全身を殴りつけられ、身体がふわりと宙に浮き上がり、上下感覚が失われる。ラフマンは悲鳴を上げながら宙で手足をバタつかせた。
左手が右手にぶつかった時、するりとすり抜け、ラフマンは思わず目を開ける。一面が白い霧に包まれた空間の中に、透き通った自分の両手が浮かんでいた。
手を重ねてみると、左右の手の甲がすり抜けた。
(腕が透けている⋯⋯?)
ラフマンは宙を漂いながら、辺りを見回した。四方八方、真っ白な世界が遥か彼方まで広がっている。
「ここはどこだ? 俺はどうなったんだ? ノリ一等兵殿! 俺はどうなったんです!」
叫んでも声がこだまするだけで、返事はなかった。
代わりに身体が見えない何かに引っ張られるように動き出し、ラフマンは白い世界の奥へ引き寄せられていく。徐々に動きは速くなり、水中を素早く泳ぐ魚のごとくラフマンは無重力空間を駆けていく。
無地の白だった周りが、少しずつ水色と白の斑模様に変化していく。現れたのは、遥か彼方まで続く空の中。ラフマンは白い雲海と青空の境界を鳥のように駆け抜けていく。飛ぶのが速すぎて、雲の形が歪んで見えた。
「空⋯⋯?」
空の光景が突然消え、今度は果てしない青い海が視界いっぱいに広がり、ラフマンはうねる波の上をかもめのように飛ぶ。
──ラフマン。あなたの魂は今、森羅万象に溶け込んでいます。
何者かの声が凛と響き渡る。人間の声ではない、無機質で柔らかな不思議な声──
水平線の彼方を目指して突風のごとく飛行し続けていると、身体が降下して海面に潜り、陽光の差し込む深い海を突っ走っていく。笛の音のような音を轟かせる鯨の巨影と、銀砂をまいたような光を放つ魚の大群、海底のサンゴ礁をさまよう色鮮やかな魚たちが視界を横切る。
──海は全ての命を産んだ母胎です。ヒトもここから始まったのですよ。
また視界が途切れたように光景が代わり、緑一面の世界が現れる。蔦と大きな葉に覆われた広大なジャングルの木々をすり抜けながら飛び、一本の木に吸い込まれる。木目の繊維の更に細かい組織の中へラフマンは吸い込まれ、ツブツブの寄せ集まった壁の一粒に入る。
──一つの生命の構造は、何千何万の『細胞』という小さな命の集合体で出来ているのです。あなたも生命の小宇宙なのです。
粒の中は液体で満たされ、虫のような線や豆に似た丸い塊が漂い、その中でも一番大きな塊の中にラフマンは飛び込む。
透明な壁を抜けると、中では二重螺旋を描いた長い長い紐が毛糸の束のように絡み合っていた。
驚くほど長い胴体を持つ細い虫が絡み合っているように見え、ラフマンは表情を強張らせて慄く。
「なんだこれ⋯⋯?」
問いに答えるように声は言った。
──生命の設計図です。あなたもこの設計図通りに構成されています。
だんだんと二重螺旋が目前に迫り、二本の線の間に挟まれた階段のような連なりの一つにラフマンは入り込む。
視界が突然暗くなり、真っ黒な世界に無数の光の粒が瞬きはじめる。無限の星空だった。石の塊の群れや、赤や青の巨大な丸い塊が視界の端を流れていく。
やがて正面に、青い光の巨大な球体が迫ってきた。ラフマンよりもずっとずっと遥かに大きい、青い玉。青い表面には所々に白い筋や緑色の模様があり、宝石のように綺麗だった。
「すげぇ⋯⋯」
ラフマンの身体はようやく静止し、巨大な青い球体の上に浮かぶ。下方に、眩い青い大地がどこまでも広がっていた。
球体の遥か遠くには、眩く光り輝く光の玉が浮かんでいた。その光を浴びて、ラフマンの足元の青い玉も淡白く輝いている。
「ここが、九次元?」
ノリが言っていた、人間は行けないという神域なのだろうか。
『⋯⋯ラフマン』
目の前で、ずっと語りかけてきたあの声が響いた。
ラフマンは声の主を探した。
「誰だ?」
青い球体の向こうで輝く光を背景に、白い炎のようなもやが現れる。
もやは、少しずつ大きくなり、姿を変えていった。
二つの丸い大きな目と、ギザギザに尖った牙が並ぶ口の描かれた布が、顔に垂れ下がっている。
頭からは木の枝に似た角が、髪の毛のように何本も生えている。
着物を纏っており、背中から人間の腕が六本、袂からは鋭い鉤爪が伸びている。
純白の透き通った巨体は、静かにラフマンを見下ろしていた。
布越しから伝わる鋭い眼差しが、ラフマンを矢のように射抜く。人間など目に見えぬ粒子と言わんばかりの凄まじい威圧に呑み込まれそうだった。
強大な存在感に踏み潰されそうな気配にラフマンは気圧され、呆然とし、目の前に現れた異形を見つめることしかできなかった。
その姿は、島の祭りなどで祭られるご神体で何度も何度も見てきたあの神──
「──ヴィシュヌ、様」
神を前にしてその名を呟くのは恐れ多く、畏怖と罪悪感がラフマンの透き通った身体を泥のように黒く濁していくような気がした。
ヴィシュヌは言った。
『私は、あなたを神の寵児たちの従者に選びました。ウタリとファディル、あの二人を導く役目があなたにはあります』
──神の寵児の従者。
ラフマンは言葉を失った。
告げられた『従者』『役目』という役目の重さが、全身に降りかかってくる。
『あなたがウタリを守護する立場になったのも、最初から決められていたことなのです』
ヴィシュヌの姿が歪み、再び白いもやに戻り、徐々に縮んでいく。やがて人型に変形していき──ラフマンは息を呑んで身を引いた。
全身が淡白く輝くファディルが、そこにいた。
「ファディル⋯⋯」
ノリの声が頭の中に蘇る。
『班長はね──ヴィシュヌ、なんだよ』
あの時は受け入れられなかったが、ヴィシュヌ本人がファディルの姿に成り代わった光景を前にして、真実として突き付けられた。
島兵たちに悪口を言っていたのも、
カラリヤ湿原で大勝利を収めたのも、
ウタリを献血機関に改造しようと鬼畜の所業を企んだのも、
全部、ヴィシュヌだったのだ──
ファディルの姿で、ヴィシュヌは言った。
『まだ呑み込めていないようですね、ラフマン』
発せられたのは、ファディルの無機質なあの棒読みの声だった。
『ファディルは私であり、私はファディルです。人の言葉で言うなら、ひとつの魂が二つの姿を持つ⋯⋯とでも言いましょうか』
「魂が二つ、ではなく?」
『ひとつです。ただ、分かれて在るだけ。私の意識の一部が、ファディルという人格として三次元で具現化したのです』
分霊なのに、魂は一つ。人間の脳では理解の範疇を超えてしまう。
「⋯⋯理解が追いつきません」
『ならばそれで良い。理解できぬのが、正しいのです』
ラフマンの視界が歪んでいき、ヴィシュヌも、青く輝く大地も、頭上にあまねく光の群れも全てが形を失い混じり合っていく──。
意識がぼやけていく中、ヴィシュヌの声が響いた。
『従者としての務めを果たしなさい、ラフマン』
目を覚ますと、ラフマンはウタリ壕で膝をついていた。光も風も、消え失せている。
脳内でノリの声が響いた。
『どうだった? ヴィシュヌに会えたかい?』
ノリの声で意識が現実に戻るも、半分はまだ人知に及ばぬ異界に置いてけぼりにされたような感覚が残っている。
夢と現実の中間にいるような感覚の中、ラフマンは答える。
「会えました。ファディルがヴィシュヌだったということも、実感できました」
『そっか。よかった』
「しかし⋯⋯」
一つだけ、どうしても呑み込めない、理解しがたいことがあった。それを答えてしまうのは、まるでヴィシュヌへの冒涜のように感じられて口を開くのが重いけれど、それでも訊かなくてはならなかった。抵抗感を振り払ってラフマンは息を吸い、ノリに訊いた。
「神や精霊は、純粋で清らかなもの者としか繋がれないものでしたよね。ファディル少尉殿が神ならば⋯⋯なぜ嫌味を垂れたり、ウタリの肉を食べたりしたのでしょうか」
『純粋無垢、だから』
予想外の答えにラフマンは閉口する。幼女を解剖したことが、純粋無垢?
『神を含む精霊の種族──は、とても純粋無垢だ。それゆえに、とても恐ろしい。純粋無垢って、きれいごとだけじゃないんだよ。目的のためなら何でもするとか、相手の痛みを想像しないとか。普通の人間なら絶対ためらうことも、正しいと思ったらまっすぐ実行しちゃう。⋯⋯そういう意味では、班長は本当に神そのものなんだ』
「目的のために手段を選ばない、相手の痛みを想像しないとかは、純粋無垢ではなく、冷酷非道では?」
『ラフマン二等兵は、小さい頃に虫の足を千切ってバラバラにしたことある?』
唐突に関係のない話を持ち出され、ラフマンは困惑する。
「どういうことです?」
『子供ってさ、まだ道徳観が未熟で、虫をいじめたら可哀想って想像できないから、虫を千切るよね。これが、純粋無垢だよ』
「⋯⋯つまり、班長は純粋無垢ゆえ、人間の善悪観念や道徳観が欠けているということですか?」
『欠けてるんじゃない。そもそも、はじめから無いんだ。いくら大人たちが善悪を教え込もうとしても、神の班長には理解できる土台が生まれつき存在しない。子供は時間をかければ分かるようになるけど、班長には、最初からその思考回路自体がないんだよ』
「じゃあ、要するにサイコパスみたいなものなんですね」
『違うよ。サイコパスは自分の快楽や欲望のために人を傷つける。でも神と精霊は、そうじゃない。自然界の調和や秩序のためなら、個人の犠牲も平然と選ぶ。自己本位じゃなくて、世界そのもののために手段を選ばないんだ』
「自然界のために、犠牲を選ぶ⋯⋯?」
『ウタリちゃん、前に言ってたよね。死体が肥料になるねって。あれは、精霊が言っていたことに答えていたんだ』
ラフマンは開豁地でウタリが言っていたことを思い出す。
──よかったね、兵隊さんたちがたくさん壊れて! 血とお肉が地面に染みて、嬉しいね、また芽が出るね! 兵隊さんたち、たくさんバラバラになって、血を出してくれて、ありがとう!
『精霊は、開豁地が森になることを望んでいた。恐らく、森を作るために追撃部隊と敵をあそこで遭遇させ、大地に島兵たちの血と肉をばら撒いた。屍が痩せた土地に栄養を与える肥料になり、草木が生えてくるようにね。自然界が飢えて再生を求めれば、精霊たちは肥料を得るための生贄として動物も人間も殺す。精霊たちは、島兵たちの死を可哀想とは思わない。ただ肥料としての役割を果たしてくれたって受け止めている。緑の均衡が保たれれば、それで良いって考え方なんだ。精霊にとって誰かの死は、自然界にとって必要な生贄かどうか、ただそれだけなんだよ』
ラフマンは絶句し、次の言葉をつむげなかった。神と精霊がそんなにも冷たく、無機質で、残酷な存在だったことに、悲しみとも、寂しさとも、悔しさともつかないものが胸を圧迫した。
(島を守るためじゃなく、森を育てるために? そんな理屈のために、仲間が死んだのか?)
『なんか精霊のこの無慈悲な思考、班長の言動と当てはまらない?』
「え?」
一瞬、思い当たる節なんて――と否定しかけて、
(⋯⋯待てよ)
『たとえば、部隊存続のために自害を図った隊長を説得したこと。森の中で包囲されたアリフ隊の指揮を取って撤退させたこと。⋯⋯あと、多くの兵を救うために衛生隊を懐柔し、ウタリちゃんの血を大量搾取する献血機関を開発、とかね』
ノリが列挙するたびに、胸の奥に刺さるものがあった。
「要は、部隊の秩序と存続を保つのを、班長は神の本能でやっていたということでしょうか」
『正解に、近い』
「近い」
『班長がしていたこと。それはみんなの『生きたい』という祈りを無意識的に受信して、願いを叶えていたことなんだ』
「祈りを受信して、願いを叶える?」
『自然界が飢えれば、精霊たちは肥料を得るための生贄として動物も人間も殺すって僕さっき言ったよね。班長も同じことをしていたんだ。戦場でみんなが生きることに飢え、ヴィシュヌ様助けてとお祈りしてきたよね?』
確かにそうだった。ラフマンも幾度となくヴィシュヌの神像に救いを乞い、島兵たちもヴィシュヌに祈りを捧げてきた。
まさか──頭の中で、ノリの言ってきたことが一つずつぴたりとはまっていき、嫌な真実を浮かび上がらせていく。
『班長はヴィシュヌとしてみんなの祈りを答えて、自分でも知らないうちにみんなを助けようとしていた。彼の頭の中には、神としてみんなを救済するための方法が『調和の数式』という形で現れていたらしい。班長は本能的に調和の数式に従い、敵の追撃部隊を撃退し、みんなを死なせないために献血機関を開発した。本人はみんなを助けたいとは思っていないのに、神の本能が彼にそうするよう強制してきた。これが、班長が今までしてきたことの真実だよ』
頭では理解できるのに、心が激しく拒絶している。認めたくない。認めてしまえば、ウタリが献血機関になってしまうことを、自分まで受け入れてしまいそうで。
『もう一つ、班長が神の本能に目覚めて調和の数式に操られるようになったのは、ウタリちゃんという最高級の供物と遭遇したから。ウタリちゃんはヴィシュヌに捧げられた生贄だ。班長もヴィシュヌだから、生贄と出会ったことにより調和の数式が現れ、救済行動に出た。僕がイチゴを精霊に捧げたら、言うことを聞いて精霊術を使わせてくれるのと同じ。助けを求める祈りと生贄を捧げる者や自然界の声に、神と精霊は恩恵と調和をもたらす』
『班長がやってきたことは全て、精霊と同じ調和の修復。ヴィシュヌなりの、慈愛だよ』
一線を越えてはならない。ファディル、いやヴィシュヌに支配されかけた自分の頭に、言い聞かせる。
『ウタリちゃんが干からびてみんなが助からないなら、治療不能な負傷兵の肉を詰めて再生ループしてしまおうとか、普通は思いつかない。でも班長は、部隊全体が死ぬよりマシだって判断しちゃう。それがすごく、神っぽい思考なんだよ。神の正しさは、僕達には怖すぎるものなんだ』
(けれど──)
その考えを受け入れてしまえば、ウタリの小さくてか弱い体が『必要な犠牲』と脳内で変換されてしまう。
たとえそれがヴィシュヌの意志であろうと、到底受け入れられなかった。
「ノリ一等兵殿は、どう思うのですか?」
『え?』
「ファディル少尉が正しいと思うのですか?」
『⋯⋯ヴィシュヌの出した最適解、だと思っている』
「最適解、だったら」
ラフマンは手に握ったとんがり石をぎゅっと握り締め、地に叩きつける。石が跳ね跳び、からんからんとどこかへ飛んでいく。
「ウタリが装置化されて、血を搾り取られ続けるのも最適解だと言うのですか! あの子が信じていたお兄さん⋯⋯ファディル少尉に道具扱いされていたと知った時、もう誰も信じられなくなる。心が取り返しのつかないぐらい引き裂かれる。その苦しみも、正解なのですかっ!」
『⋯⋯僕にも、それが正しいのかどうかは、わからないよ』
ノリの心にも、答えられない苦しさが滲んでいるようだった。
長く重苦しい沈黙が、壕内に満ちていく。静寂を裂くように神の嘲笑するような声がした。
『ラフマンと称する小僧よ』
ラフマンは天井を見上げ、睨見つける。
『献血機関が嫌だと言うのなら、なぜあの時ファディルに反抗しなかった。犬のように扱われても、噛みつけばよかったものを』
神の言葉は、ラフマンの脳天を突き刺した。脳内に言い訳が次々と浮かんでくる。味方が全員いなくなったから、ファディルが上官だから反抗なんてできもしなかったから──。
あの時、自分に何ができた? 上官命令に逆らえば殺されるかもしれなかった。ヴァレンスも、誰も助けてくれなかった。全部、仕方なかったんだ、仕方なかったんだ、と言い訳ばかりが頭を巡る。
怒りの熱が覚めていき、ラフマンはまた子犬のように屈するしかなくなっていく。
『所詮、その程度の覚悟しか持てぬ小僧よ』
言葉がラフマンの心臓をえぐる。弁明も反論も出てこない。ただ、うつむいて拳を握りしめることしかできなかった。
ノリの怒りを押し殺したような静かな声がした。
『⋯⋯神よ、それ以上はおやめください』
ノリの立ち上がる音が脳内に響いた。
『勤務時間だ。通信、切るね』
頭の中にノイズが響き、プツンッと切れる。
「ノリ一等兵殿⋯⋯」
呼びかけても、応答はなかった。
『せいぜい、そこに犬のごとく伏せておれ、ラフマンよ』
はっはっはっはっ、と神の軽快な笑い声が遠ざかってゆく。神はラフマンを嘲りながら、どこかへ去っていった。
放置されたラフマンは、また地面とにらめっこしながら、服従した犬のように伏せた。
「⋯⋯ファディル様、万歳」
半分やけくそに、負け惜しみを込めてそう呟いた。




