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4-8 裏切り

 ウタリの血が水溜りのように広がる壕には、果汁や花の香りを混ぜたような甘ったるい香りが満ちていた。


 呼吸をしても苦しくはない。むしろ息を吸うたび、全身の疲れがほぐれていく。血が蒸発して空気中に溶け込み、治癒成分を体内に吸収しているからだろう。 


 血まみどろぐちゃぐちゃの癒し空間で、ラフマンはウタリが絵を壁に描くのを背後から見つめていた。


 ウタリの片手には、ファディルの作った肋骨ペンが握られていた。彼女は床に満ちた自分の血を筆先に付けて、岩壁をなぞっていく。


 ウタリの隣には、真っ二つに折られた黄色い羽根のお絵描きペンが落ちている。ウタリとラフマンの間にようやく気づかれた絆が、ぽっきりと折れて無くなってしまったことを物語っていた。


 あれからラフマンとウタリは、一言も言葉を交わしていなかった。お互いを無視し合うかのような長い沈黙が、友情の終わりを否応なくラフマンに実感させる。


 それでも最高機密保護官として、ウタリの面倒は見なければいけなかった。自分を裏切った者に見張られるのは、ウタリにとっては苦痛かもしれないのに。


「お花!」


 線のぐちゃぐちゃな赤い花が岩の上に咲いた。


「ファディルがお花食べてる! ジンニクのお花! おいしー!」


 ウタリはファディルの似顔絵を描き始めた。大きな丸を二つ並べて眼鏡を描き、ギザギザの髪を丸い頭の上に生やしていく。野菜に眼鏡を被せただけのような絵だった。


「眼鏡でしょ! あとね、白髪!」


 込み上げる吐き気を堪えながら、ラフマンはファディルの絵を見つめる。


 ラフマンにとって、ファディルは幼女を解剖し内臓を食べた鬼畜の外道他ならない。


 だがウタリにとっては、ファディルはただ遊んでくれただけの優しいお兄さんなのだ。しかも、もうカサカサにならなくて済むというトラウマの克服までしてくれたのだ。


 奴を嫌う理由なんて、ウタリには全くない。


「ねぇねぇ、ラフマン」


 いきなり呼びかけられ、ラフマンは目を見開く。ウタリがこちらを振り返った。口元に笑みを浮かべているが、眼差しは冷ややかで不信感に満ちていて、思わずラフマンは視線を逸らしてしまう。


「ファディルはどうしてこないの?」


 奴と遊びたがっているように、ウタリが訊いてきた。


「あいつは仕事で忙しいんだよ」


「何のお仕事してるの?」


「えっと⋯⋯爆弾の位置を落とす場所を決めるお仕事だよ」


「バクダン? って何」


「花火みたいなやつ。ドッカーンで爆発するんだ」


「花火? へぇ。ファディルって花火ドッカーンすんだね」


「打上げる場所を決める、ね」


 観測についてはド素人でよくわからないが、聞きかじった知識でラフマンは教えてやった。


「まぁ、爆弾は花火に近いやつだな。で、その爆弾ってのは風に少しでも流されると、飛ばしても簡単にすっごくずれちゃうんだ」


「バクダンって風船なの?」


 風に流される──風船のイメージと結びつけるウタリの発想に思わずラフマンは笑う。


「そう、爆弾は風船みたいに簡単に流されちまうから、落とす場所を決めるお仕事の人が必要なんだ」


「へぇ⋯⋯」


 ウタリはファディルの頭から線を生やし、その上に花の模様を描く。


「花火!」


 苦笑いしかできなかった。一緒にゲラゲラ笑い合えたら、どれだけいいだろうか。


「⋯⋯ん?」


 ウタリが出入口を振り返る。


「どうした?」


「足音聞こえる」


 衛生兵か伝令兵だろう。特にラフマンは気にしなかったが、ウタリは駆け出して遮光布のそばへ近寄る。


「──ファディルの足音!」


「は? なわけねぇだろ」


 衛生隊から「次は軍法会議にかける」と警告書を出されたのだ。いくら外道の奴とて、クビにされたくはないはずだ。


 ファディルに会いたい気持ちが、ウタリを勘違いさせているだけだ。ラフマンは気にせずお絵描きの続きを始めたが、少しずつ近づいてくる足音にふと耳をそばだてる。


 やけに足音が規則正しい。まるで一本道をまっすぐに歩いているかのよう。


 衛生兵と伝令兵は転びそうになり、ヒィだのヒャアだの情けない声を上げながら、よたよたおぼつかない足音を立てて進んでいく。


 だが今聞こえている足音には、それが一切ない。


 石柱の間を、まるで最初から通路を知っていたかのように、滑らかに進んでくる。ありえない動きだった。普通の人間なら、何度も足を引っかけて転ぶはずなのに。 


 そして足音が、もう一つ。こちらはよたよたしている。


 二人の人物が、接近してきている。


 背中の毛穴が開いて、冷たい汗が伝い落ちる。


「誰だ⋯⋯」


 衛生兵でも伝令兵でもない、別の誰か。しかも一人は、上下から突き出た石柱を完全に回避している異常感覚の誰かだ。


(まさか⋯⋯)


 ノリとファディルの会話を思い出す。


『班長、真っ暗闇の中進むの大変では?』


『あなたがたの生体反応粒子をたどれば、帰れます』


 奴なら暗闇の中でも、生体反応粒子をたどれば迷わず進める。


(まさか⋯⋯)


 警告書は出されたはずだ。


 いや、違う。


 警告書を出されたにも関わらず、ここへ来た?


 だが、それならもう一人は誰だ? ノリか? だが、ノリはファディルの無断侵入を批判していたはずだ。彼なら「班長! 行くなぁ!」と素っ頓狂な声で咎めるはず。


「誰だ⋯⋯」


 やがて、遮光布の前で二つの足音が止まる。


「ウタリッ!」


 遮光布から手が伸びて、ウタリを連れて行ってしまいそうな気配を感じ、ラフマンは咄嗟に駆け寄る。


「やめろ!」


「──何を?」


 遮光布の向こうから聞こえた声に、身体中が硬直する。石のように硬く、冷たくなっていく。その声に、本能が警告していた。行くな、と。


 遮光布がわずかに揺れる。


 布の隙間から、覗き込むような赤い瞳が一瞬だけ見えた。脳天を氷で刺されたような寒気が、背骨を駆け上がる。


 ウタリが歓喜するように、化け物の名前を呼ぶ。


「ファディル!」


 布が捲れて、か細い体躯の青年が現れる。ぱさぱさの銀髪が、ランプの光に反射する。ラフマンはもう、息を呑むことも声を上げることもできずに、子鹿のように震えていた。精一杯、唇を押し広げてウタリを呼ぶ。


「ウタリ⋯⋯だめだ⋯⋯こっちにこい⋯⋯」


「おかえり。来てくれたのね」


 ウタリはラフマンの制止を無視して、ファディルの腰にだきつく。ファディルはウタリを抱きとめ、静かに頭を置く。目線はどこか遠く、感情の読めない赤い瞳がランプの光を吸い込んでいた。


 ラフマンの存在など最初から見えていないかのように、ただ無言で、ウタリの頭を撫でる。ウタリが嬉しそうにはにかんで、頬を奴の腰にぎゅっと押し付ける。まるで、甘える子猫のように。


「⋯⋯はぁ?」


 あれほど医薬品、とウタリの人格を無視していた奴が、可愛がるように頭を撫でている光景にラフマンは絶句する。


「なん、で⋯⋯」


「──何が?」


 聞き返され、ラフマンは口を閉ざす。


「すっかり懐いていますね。ラフマン二等兵」


 無表情で無機質な声色なのに、その言葉は勝ち誇ったような色を帯びていた。


 なぜ、そいつを抱きしめている? いつの間にそんな、二人の間で深い絆が結ばれたのか。


(いや、そうじゃない)


 ウタリにとってファディルは、トラウマを克服してくれた救世主。救われたウタリから見れば、彼がどれほど素晴らしく優しい存在であったか。ウタリは恐怖から解放されて、どれほど嬉しかったか。懐かないわけがない。いや懐くどころか、ファディルに依存せざるを得ない。


 ウタリが依存していることをファディルは知っていて、わざと頭を撫でている。自分に手懐かせるために。


 寄り添う銀髪赤目の二人は、まるで仲睦まじい兄妹のようで──。


 ラフマンは、自分がこの場にいてはいけない余所者のような気がした。


(俺は、ウタリにとっては何者でもなかったんだ)


 二人だけの世界を作っているような『神の寵児』たちに、自分はとても入り込めない。


 自分が邪魔者でしかないことを思い知らされて、胸の奥が冷たくなった。


「ファディル! 遊ぼう!」


「はい。遊びましょう」


 いつもの無機質な声色が、突然優しく温かいものに変わる。だが、発音がいまいち不自然だった。演技だ、とラフマンは察する。優しいお兄さんを演じているだけだ。そうとは知らずに、ウタリは満面の笑みを浮かべる。


 ファディルの声が本当の優しさじゃないとわかっていても、何もできない自分が情けなかった。


 遮光布が捲れて、もう一人入ってきた。黄色い皮下脂肪と血に濡れた軍服と、隈の出来た目。見たことある顔に、ラフマンは驚愕し腰を抜かして倒れ込む。


「衛生⋯⋯隊長殿⋯⋯」


 ヴァレンスだった。警告書を出したはずの彼が、ファディルの隣に立つ。


「なぜ⋯⋯」


(嘘だ。嘘だろ。どうしてあなたが)


 ヴァレンスは頭を下げるでもなく、俯くでもなく、どこか遠くをぼんやりと眺めながら、一言「すまない」とだけ言った。


 胸の奥から突き上げてくるものがあった。怒り、悔しさ、喪失感、それらが絡み合った激流が、轟音を立てて沸き上がる。


(裏切ったな──)


 警告書を出した者がいとも簡単に寝返った現実を前に、ラフマンは顔を歪めることすら忘れて、ただ拳を握りしめる。


 最後の防壁であったヴァレンスでさえ味方でなくなった。それだけで、全てがぐらつく気がした。


 ラフマンは空笑いした。


(俺に味方なんて最初からいなかったんだ)


 全てをファディルの言葉一つで塗り替えられていく――。


 ヴァレンスはラフマンに目もくれず、重苦しい声色で言った。


「私は、奇跡を見てしまった」


「き、せき⋯⋯?」


「ファディル少尉が多くの重傷者を回復させるのを、私は見てしまったんだ。献血体の血液を増幅させ、大量に手に入れて回復させることができた」


 込み上げていた熱が収まっていき、ああ、そうかとラフマンは静かに納得する。


 ヴァレンスは裏切ったのではない。自分が今まで出来なかったことをファディルがやってのけ、多くの重傷者を回復させた圧倒的奇跡の前に、屈服せざるを得なかったのだ。そう思うと、腑に落ちた。


「貴様を裏切ることになったのは、申し訳ないと思っている。だが、私は⋯⋯自分が間違っていたことを思い知らされた」


 ヴァレンスは両手拳を震わせながら、ウタリを見た。


「すまないが、ウタリちゃんを連れて行く」


「ウタリをどうするつもりですか」


「献血機関を造るためだ」


 機関。自動的に動く装置。冷たく無機質な響きの単語が、ラフマンの体温をさらに低めていく。


「機関⋯⋯? 何ですか、それは。まるで、機械のような⋯⋯」


「そうだ、機械さ。ウタリちゃんを装置化するのさ。大量採血するためのな」


 ヴァレンスのウタリを見る目が、狂った科学者のそれに変わっていた。


「ウタリを⋯⋯装置化⋯⋯?」


「開腹して負傷兵から切り取った人肉を体内に埋め込む。そうすれば高速で再生し、乾燥状態にならず無限に血を絞り出せる」


 まるで説明書を淡々と読み上げるような物言いだった。


「負傷兵から切り取った人肉を、ウタリの腹の中に⋯⋯?」


 頭の中でその言葉と、目の前にある血濡れた寝袋が結びつく。


 そういうことだったのか。ファディルはウタリを高速再生させる方法を見つけ出し、彼女の体内に人肉を埋め込んだ。結果大量の血液を手に入れ、放置されていた重傷者を救うことができた。



 ヴァレンスがウタリを盲目的に装置化したがるのも、わかる。


 人を助けるため、ウタリを装置化。それを「正しい」と信じ切ってしまったヴァレンスの瞳は、もうラフマンの知る優しい軍医のものではなかった。


(あなたのお気持ちはよくわかります、ヴァレンス衛生隊長殿)


 だが、しかし──。喉奥から反論が突き上げてくる。


「ウタリの気持ちは?」


 ヴァレンスの息を呑む音がした。ファディルがこちらを振り向いた。


「ウタリの気持ちはどうなるのですか?」


 まだ、間に合う。ここでヴァレンスの残りカスになった良心へ訴えかけて、引き留めなければウタリが装置に魔改造されてしまう。


 ヴァレンスは答えない。俯いたまま、唇を噛み締めている。


 ファディルが、静かに口を開いた。


「医薬品には死なず、痛覚もありません。開腹して人肉を埋め込んでも、何ら問題はありません」


「違う、そうではありません。ウタリは、ファディル少尉⋯⋯あなたを、優しいお兄さんだと信じているのです。今はあなたに懐いている。しかし、そのうちウタリは気づくでしょう。優しいお兄さんだと信じていた相手に、道具として扱われていたと。そのことに気づいたとき、ウタリがどれほど傷つくか、あなたがたは想像できますか?」


 ファディルはまるで興味がないというように、無言でウタリの頭を撫で続ける。 そうだよな、外道に想像できるわけないよな⋯⋯わかりつつ、それでもラフマンは訴える。


「ウタリは三度も虐げられるのです。一度目は腹を切り開かれてカサカサにされ、二度目は切り刻まれる拷問を受けた上にみんなから笑われ、三度目は装置化。今度こそ、ウタリの心は取り返しが付かないほどズタズタにされてしまう」


「採血の効率性とは何ら関係のないことです」  


 相手にするのも馬鹿馬鹿しい、というようにファディルが気怠げに反論する。ヴァレンスは何も答えずに黙り込んだままだ。


 ラフマンはヴァレンスに向かって頭を下げる。言葉が届くように、祈りながら。


「お願いします、ヴァレンス衛生隊長殿。どうか、採血だけに留めて頂けないでしょうか? 採血する際は、ウタリの腹に人肉を埋め込めば彼女も安心できますし、多くの血を採ることも可能です」


「非効率的です。装置化するほうが手っ取り早く大量採血が可能です」


 外道は鬼畜だ。だがこの外道が唯一、ウタリが苦しまずに済む方法を見つけ出してくれたことには感謝しなければならない。


 人肉に頼るなど、本来なら吐き気しかしない。だがウタリが苦しまないためなら、その嫌悪すら呑み込んでやる。


「ウタリが採血を怖がらないなら、人肉だって救世主です。⋯⋯お願いします、ヴァレンス衛生隊長殿。どうか採血だけに留めて頂けないでしょうか?」


 ヴァレンスは黙ったままだ。 


 ラフマンは頭を深々と下げて、情けなく、しかし必死に訴える。


「お願いします、お願いします」


 沈黙が降りる。長い長い張り詰めた静寂が続いた後、ヴァレンスの声がした。


「──却下する」


 全身から力が一気に抜け、ラフマンは頭を上げることすらできなくなった。


 結局、最後の訴えすら聞き入れてもらえなかった。


「貴様は現状を何も知らないから、そんな生温いことを言えるんだ」


 ヴァレンスの突き刺さるような一言が頭上から降る。


「二日連続でこちらに負傷兵を多数押し付けられている。後方の陸軍病院は満床、他の陣地へたらい回しにされているのが現実だ。陣地でも治療を受けられなかった兵士たちは、森に放置される」


 ラフマンは言葉を失った。反論したいのに、口が動かなかった。


 ヴァレンスの言葉は、ラフマンが甘ったれた無知な小僧であると自覚させるのに十分だった。


「ウタリちゃんを装置化すれば、見捨てられる何千何万もの命を救える。献血機関は必要不可欠だ」


 ウタリの無邪気な声が響く。


「ねぇファディル、何して遊ぶ?」


「あなたの血を、怪我した兵隊さんたちにごちそうするお店屋さんごっこをしましょう」


 献血機関になりましょう、という言葉を子どもにもわかりやすく説明しているのだ。ラフマンは地に這いつくばりながら、弱々しくウタリに手を伸ばす。


「⋯⋯行くな、ウタリ⋯⋯行っちゃだめだ」


 彼らに付いて行ったら、永遠に血を搾り取られるだけの機械に改造されてしまう。


 だがラフマンの訴えも虚しく、ウタリは嬉しそうにケラケラ笑う。


「うん! ウタリもうカサカサにならないし! いっぱい飲んでもらえるし! ウタリの血と内臓、ファディル美味しそうに食べてくれてたもん! みんなも美味しいって言ってくれるよね?」


「きっと、みんな喜んでくれますよ」


 遊びと称してウタリを安心させ、血を大量搾取するつもりなのだ。


「──ラフマン二等兵」


 降ってきたファディルの声が、伏せた身体に突き刺さる。


「あなたには最高機密保護官を続けて頂きます。ただし衛生隊並びにアリフ隊長への意見具申は不可能となります。その代わりに──」


 ファディルが迫ってくる。突然 奴はラフマンの頭を鷲掴みにして撫で回した。まるで犬によしよしするかのような、容赦のない手つきだった。  


「今後は、私のすべての要求に従ってもらいます。ここで医薬品を解剖し、内臓を味見し、必要ならあなた自身にも医薬品の内臓を食べていただきます」


 一片の感情も感じさせない、まるで台本を読み上げるような口ぶりで、ファディルは命じた。


 衛生隊長もアリフ隊長もウタリも、みんなファディルの手元にいる。味方はどこにもいない。


「──ノリ一等兵殿」


 外道のそばにいながら、至ってまともに振る舞うあの霊能力少年兵をラフマンは呼ぶ。彼の索敵感知野に、この声が届くよう願って。


 ラフマンは拳を握りしめる。


「──助けてください、ノリ一等兵殿」


 ファディルはラフマンの髪の毛を掴んで、頭を持ち上げる。虚ろな赤い瞳でこちらを見つめる仮面が、目の前にあった。


「返事は?」 


 承諾すれば、もう後戻りはできない。そうと知りつつ、逃げ場も味方も失ったラフマンはこの外道に服従するほかなかった。


 躊躇うことなく、口を開く。


「──はい」


「よろしい」


 ファディルが髪の毛をいきなり離し、顔面を強打し、鼻に激痛が走る。情けなさで身が潰れそうだった。


 歯をくいしばる気力もなく、ラフマンは呆然と暗い地面を見つめる。


 何もかもがどうでもよくなり、心がぽっきり折れた。


(──とうとう、俺まで外道の犬になっちまった)


 足音が遮光布の向こうへ消えていく。


「ラフマンはどうするの?」


 ウタリの声すら、もう希望のように感じられなくなっていた。


「ラフマンはお腹いっぱいで動けないのですよ」


「そっか。じゃあお店屋さんに行けないね」


 その言葉に、ラフマンはもう何も返せなかった。目を閉じると、ウタリの笑い声がゆっくりと遠ざかっていく気がした。


 ヴァレンスの声がした。


「ファディル少尉、ウタリちゃんは秘匿だ。衛生壕まで行けば人目に晒される」


「ご心配なく。便利な運び屋がいます」


「運び屋?」


 色んな奴を言葉で手懐けているらしい。自分も、ファディルの呪文にかけられてしまったのだ。ラフマンは、地面に伏せたまま、まるでご主人の命令を待つ犬のように微動だにできなかった。


 静寂の中、ラフマンは敗北感に打ちひしがれながら阿呆のように涙を流す。


「ヴィシュヌ様は、きっと人選ミスされたんだ。天上界で『神の寵児』の選考会でも開いて、『この子が島を救うのにふさわしい英雄だ』とか無邪気に選んだ結果、うっかりあんな外道を地上に送り込んじまった。今頃選考会に参加した神々は、『やべぇ、やっちまった』って焦ってるに違いねぇ」


 ラフマンは、地面に転がっていたお絵描き用とんがり石を握り締める。


「俺がこうなったのも全部、神々のミスだ。間違いねぇ。ヴィシュヌ様、頭抱えてるだろな。けっ、天上界の人事課、全員異動しやがれってんだ⋯⋯っ」






『──ヴィシュヌ様の人選ミスじゃと? はっはっはっ! 面白いことを抜かすガキじゃ!』







「⋯⋯?」


 ラフマンは静かに顔を上げ、視界端に映る天井を見る。今、天井から老人のようなしわがれた軽快な声が、反響するように聞こえた。


(なんだ、今の)


 目は覚めている。夢ではない。天井の上から人の声が聞こえたわけでもない。まるで天井を這う何かが、反響するマイクを使い頭上からラフマンに声をかけたかのような、異常な響きだった。


 呆とする頭に警戒が発せられ、意識が引き締まる。


 ラフマンは上半身を起こし、天井を見上げた。


 誰も、いない。


『──あっははは、人選ミス? 確かにそう思っても無理ないかも! にしても人選ミスって⋯⋯あははっ、ははははっ、腹痛いんだけど! 笑い止まらねぇや!』


 今度は聞き覚えのある声が頭蓋骨の中にくぐもって聞こえた。ラフマンは悲鳴を上げ、頭を押さえる。


『やぁ⋯⋯ラフ、マン⋯⋯ひぃひぃっ⋯⋯二等兵⋯⋯ぷぷっ、あっひゃっ⋯⋯腹よじれるぅ〜⋯⋯』


 笑いすぎてまともに呼吸が出来ていないようなノリの声が、頭の中に響く。脳を刷毛で撫ぜられるようなくすぐったさに、ラフマンは頭を掻き回す。


「ノリ⋯⋯一等兵殿⋯⋯?」


 霊能力を使って話している? と咄嗟にラフマンは察した。


「ノリ一等兵殿ですか? 頭の中に話しかけているのは」


『うん、そうだよ』


 即、そう返してきた。


 また老人の声が天井から響く。


『わしもじゃ。笑いが止まらぬ。人間風情が神の失策と申すか』


『まぁまぁ、ヴィシュヌ様が班長を選んだ理由なんて僕たち人間風情にはわかりませんて』


『確かにな。こやつ神の寵児を外道、鬼畜と罵りおってるからな』


『そこが人間風情の理解の限界というものです、神よ』 


 神? 確か、神は精霊たちを率いる『大精霊』という上位存在だとノリは言っていた。そんな凄いものが、今天井にいるのか? 巨大な何かの存在が壕内を包みこんでいるような迫力に気圧され、ラフマンは息を呑む。


「神? 何の⋯⋯」


『この山を護っている神だよ』


「はぁ⋯⋯カイラス岳の守護神様ですか」


 そう言われても、神と話しているだなんて全く実感が持てなかった。


『⋯⋯ノリ、そろそろ奴の正体について話してやれ。こやつも奴に振り回されて限界じゃろうて』


『そうですね。僕も丁度限界です。この期に班長について話すとしましょう』


 さっきからノリと神は何の会話をしているのか。しかし人間風情のラフマンに割り込む隙はなく、呆然と聞き流すしかない。


『ラフマン二等兵』


 ノリに呼びかけられ、「⋯⋯何です」と返す。


『僕、持ち場を離れられなくて遠隔念話してるんだよね。頭くすぐったくない? 慣れてないかもしれないけど、ごめんね』


 ノリの温かい声が胸に沁みて、目の奥が熱くなってくる。差し伸べられた救いの手にすがるように、ラフマンは冗談で返す。


「くすぐったすぎてハゲになりそうですよ」


『え、ほんと? あはは、ごめんごめん、念力強すぎたね? 次から微弱モードで送るね』


 脳内に微弱なノイズがかかり、『どう?』とノリの小さな声が聞こえた。くすぐったくはない。最初からそうしろやクソガキ、とラフマンは悪態をつく。 


『安心せよ、決してハゲにはならぬ。ラフマン二等兵よ』


「元々ハゲてるから大丈夫です」


 戦場に来てからは髪の毛が抜け放題で、ところどころハゲ地帯が出来ていた。


 神に冗談を返すのは、畏れ多いが。


 その瞬間、ノリの『ぶはっ』と吹き出す音が脳内に響いた。 


『ラフマン二等兵のそういうところ、好きだよ』


「ノリ一等兵殿のお優しいところも」


 ラフマンとノリは笑い合った。


 誰かと笑い合える瞬間が、少しだけ心を温めてくれる気がした。


『元気になったようじゃな』


『そうみたいですね。よかった』


 このまま潰れそうだった心が、かろうじて踏みとどまった。たった今、ラフマンは異界から話しかけるこの二人に救われている。


『班長に散々いじめられてお疲れのところ悪いんだけどさ、ちょっと僕の話聞いてくれる?』


「話?」


『班長のことについて』


「⋯⋯聞きたく、ないです」


『わかっているよ。でも、誰も班長を止められないし、班長も止まらないからさ、ラフマン二等兵には納得してもらおうと思ってね』


「納得?」


 班長がなぜあのような外道行為をするのか、ノリは説明して納得させようとしているのだ。


『そうでもしないと、ラフマン二等兵の精神がもたないだろう?』


 そうだ。他に精神を維持する方法なんてない。奴に屈服して、納得する以外、もう何もない⋯⋯。


「お願いします」


『まずは、班長の正体について』


「? 神の寵児の一人、神の眼を持つ英雄では?」


『実は、それは表向きの正体。ごめんね、隠してて』

 

「は? では、真の正体は何です?」


『班長は、人間じゃない』


 それは、人でなしという意味だろうとラフマンは頷く。


『そうですよね。あいつ、人でなしですもんね』 


「そうじゃない」


 は? とラフマンはとぼけたような声を出した。人でなしという意味ではない『人間じゃない』という言葉を理解できず、唖然として声を出せなくなる。


『班長はね──』


 空白になった脳内に、ノリの声が響く。





『──ヴィシュヌ、なんだよ』





「⋯⋯え」


 ノリの言葉を処理できず停止した脳内に、更に不可解な言葉が入ってきてラフマンは呆ける。


 一瞬、世界が止まった。何を言われたのか、理解できない。ただ、ノリの声だけが頭の中でぐるぐる回る。


 ──ヴィシュヌ、なんだよ。


「ヴィシュヌ様⋯⋯? ファディルが⋯⋯ヴィシュヌ様?」


 数億年も前からセルク島に棲み、世界を維持し観測する至高神ヴィシュヌが、ファディル?


『厳密には、ヴィシュヌの分け御霊が受肉したものさ。班長は人体を纏ったヴィシュヌの化身、つまり()()()なのさ』


 目の前が霞んでいく。


「か、み⋯⋯?」

 




『あいつは決して外道なんかじゃない。()()()()()()()調()()()()()()()()()()()()()()()だから、人間の倫理は一切通用しないんだ』

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