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4-4 英雄の子

 カイラス岳遊撃区の麓を伸びる、敵を通過させるための交通路。その道を見下ろせるよう、また砲撃を避けるため、山の頂上より少し低い場所に、観測壕が設置されていた。


 斜面に埋め込まれたコンクリートのトーチカはぼうぼうと生い茂る草木とツルに遮蔽され、外部から見るとただの草むらにしか見えない。


 天井には緩衝材の丸太、土嚢、土が積み上げられ、榴弾などの重砲でないと破壊できない頑丈さを誇る。鉄壁の天井にも草木がびっしりと植えられ、緩衝材は完全に覆われている。


 トーチカには必要最低限の細さしかない小さな銃眼があり、そこには分厚い遮光布がかけられていた。


 内部の遮光布が、わずかな光さえも漏らさない。


 この暗闇が、観測班の生命線である。

 わずかな光、わずかな反射、それすらも、死に直結する。


 遮光布の僅かな隙間から、動物の光る目のような赤い光が漏れ出ていた。勿論、これは誰にも見えない光だ。布越しに立つ、ファディル本人にすらも。


 銃眼の向こうに広がる世界は、光るグリッド状の網目に覆われていた。


 麓に生い茂る何万何億もの木の葉一つ一つがグリッドの網目の中で揺れ、宙に青い揃い数字を浮き上がらせる。


 その数字の間を、風速と気流を表す淡白い光の粒子が川のようにいくつも流れていく。


 光の粒子が、雲のように重たく立ち込める湿気のカーテンを揺らす。


 これが観測時に見える世界だった。 脳内には、風速、湿気、気圧、空気抵抗の数え切れないパラメータと数式が、濁流のように流れていく。 


 ファディルの隣ではノリが速筆でノートにメモを取っていた。数億もの膨大な観測データから必要最低限のものを選び抜いてノリに伝え、それを記述させていた。取得したデータは後に、壕の下の記録室にいる観測兵たちにまとめさせる。


 目眩がしてファディルは目を閉じる。それでも、脳内を駆け抜ける莫大な数式の濁流の流れは止まらない。


(──コーヒーぐらい、静かに飲みたいものです)


 ファディルはカップの取っ手を指揃えて摘み上げ、音を立てずに一口啜る。三ヶ月ぶり飲む香ばしく芳醇なコーヒーの香りが、無量大数の演算でエネルギーを消耗する脳の集中力を、わずかに支えてくれた。


 観測壕は真っ暗闇だが、コーヒーカップの表面が少しでも反射しないよう銃眼の縁ではなく、足元に置く。片手に持つ皿の上に置かれたジャムクッキー一枚を四つに分割する。


 一口サイズにした欠片を、粉が落ちないよう口に含む。ぱりっと噛むと、小麦粉の香ばしい味と、ツルイチゴジャムのさっぱりとした酸味と甘みが舌に染み込む。その甘みには、指にぎっとりこびりついた医薬品の血の甘味もわずかにまじっていた。


 指についた粉は、皿に敷いたノートの紙で拭く。


(──戦場でも、作法だけは捨てられませんよ。ばあや)


 観測中も、ばあや仕込みの食事作法は抜けきれない。


 エプロンドレスを着たばあやと父が話す記憶が、ふと蘇る。


 ばあやの声がする。


『ファル坊ちゃまは、小さい頃に子猫を解剖したことがありましたね。あれは苦しむ者をいかに助けるか、という天性の才からやったこと。医学部を志す者としては、素晴らしい才能だと私は思います。旦那様、どう思われますか』


 父はばあやの言葉を全否定する。


『この家に生まれたからには、ファディルは将官を目指す道を歩まなくてはいけないんだ』 


『ファル坊ちゃまは、軍には向いておりません。あの子は、一人部屋にこもって顕微鏡を覗くのがお好きです。読まれている本も医学、細胞学、解剖学、病理学、薬学、生物学のものばかり。研究者向きの性格です。医学部へ進むのが正解と思われます』


『やかましいっ』  


 父は去っていった。


 ファディルを無視する実母に代わる、血の繋がらない母のようであったばあやはもういない。二年前に病で亡くなってしまった。ばあやの声を思い出すと、胸の奥が潰れて苦いものが広がる感覚を覚え、二つの数式が現れる。


(──身体沈着式)


(──胸部圧縮式)


 口の中でクッキーがほろりと溶ける。その甘さに、ばあやの声の記憶と同じだけの苦さが、じわりと滲んだ。


 この苦みと記憶の関連性は、計測不能。


(まさか、将官の贅沢品を頂けるとは夢にも思っていませんでしたよ)







 三十分前のことだ。医薬品の実験後、勤務時間が迫って観測壕へ戻ると、入口前に伝令兵が立っていた。


『ファディル少尉殿、遊撃区長殿がお呼びです』


 カイラス岳の地下壕五階の奥深く、複雑に入り組んだ迷路のような通路の突き当たりに、遊撃区長のいる指揮所があった。地上から数えて五層目。空気は重く、湿り気を帯びている。 ここまで潜れば、たとえ重砲だろうが艦砲射撃だろうが吹き飛ばすのは難しい。


  指揮所への通路には、重たい布が垂れ下がっているだけだった。ドアはない。もし閉じ切れば、たちまち湿気がこもり、書類も制服も水浸しになるからだ。 通路の奥からは、じめっとした空気に混じって、カビと紙のにおいが漂ってくる。


 奥の壕に、机に向かって座るシャツとパンツ姿の初老の男がいた。遊撃区長だ。肩辺りまで伸びた白髪と胸元辺りまで伸びた髭から、汗雫がだらだら垂れている。顔は険しいが、格好だけ見れば浮浪者そのものだった。


『やぁ少尉。暑いな。──ではさっそく、これを』


 差し出されたのは、銀色に輝く鷹を象った勲章だった。それを見て、胸に苦く重苦しい何かがのしかかると同時に、頭に数式が浮かび上がる。


(──胸部圧縮式)


『カラリヤ湿原の逆転勝利、並びに森での包囲網突破の栄誉を讃え──』


『必要ありません』 


 遊撃区長は唖然とした顔を浮かべたが、すぐに笑顔に戻る。


『ハッハッハッ、そういうところがフォディルに似ているな』


 フォディル陸軍中将。ファディルの父親の名である。名前を聞いた途端、頭の数式が三重に折り重なった。胸の奥に重しが乗ったような圧迫感、身体が鉛のように沈む感覚、そして腹の中からじわじわと灼けるような熱。


 そのすべてが、数式として脳内に焼きつけられていく。


(──胸部圧縮式)

(──身体沈着式)

(──身体加熱式)


 遊撃区長は机の引き出しからインスタントコーヒーの瓶とクッキー箱を取り出す。


『勲章がいらんなら、代わりにこれを持っていけ。将官のみに支給されているものだ。フォディルの元戦友のよしみだ』


『⋯⋯ありがとうございます』


 自然と唇がぎゅっときつく結ばれた。


 まさかこんなところで、自分を勘当した父の名を聞くとは思ってもいなかった。


 インスタントコーヒーとクッキーを抱えて観測壕に戻る途中、ファディルの脳裏では、思い出したくもないあの日の映像が浮かんでいた。






 二年前のことだ。士官学校を卒業してからまもなく、父に陸軍大学へ飛び級入学しろと説教をされた。


 赤い絨毯の床、金の装飾が施された白壁、高級な家具で彩られた豪華な一室で、熾烈な親子喧嘩が始まった。


 父が机を拳で叩き、鬼の形相でファディルに罵声を浴びせる。


『ファディル! 陸軍大学へ行かないとはどういうことだ!』


『そのままの意味です、お父様』


『なんだと! 我が家に泥を塗る気か! お祖父様も曾祖父様も、代々将官になり国防に勤めてきたのだぞ! お前もこの家に生まれたからには将官を目指さなければいけない。お前は一族の伝統を汚すようことを──』


『ええ、その伝統が嫌なのでございます。吐き気がするくらいに』


 父が身を乗り出し、ファディルの胸ぐらを掴む。顔を真っ赤にして憤る父の顔をファディルは無表情で見つめて、反論を続ける。


『私は、医学部の大学へ行きたかった。医者になりたかったのです』


 この時ファディルの脳内には、幼い頃に解剖した子猫の暴れる姿が再生されていた。子猫のように苦しむ誰かを、ファディルは助けたかった。


 ばあやだけは、ファディルの夢に理解を示していた。


 だが、ばあやはもうこの時既に他界していた。


 ここに、ばあやがいれば──言葉で父を援護射撃したはず。


『しかしこの家に生まれたせいで、その夢は潰えました。あなたの敷いたレールの上を走る、つまらない人生を送らなければならなくなりました。英雄の子は英雄たれ。将官の子は将官になれ。勝手な期待をあなたからも周りからも押し付けられて、私の人生は台無しです』


 父の胸ぐらを掴む手が、さらにぐっと持ち上げられる。ファディルは父の手をじっと見つめて、続けた。


『あなたは十年前の会戦で、攻めてきた隣国の敵軍一個師団を壊滅させ大勝利を収めた。メディアも軍部もあなたを英雄と祭り上げた。民衆は大勝利に歓喜した。しかし、その勝利の裏には莫大な損害がありました。数十万人の兵士を使い潰して、あなたは英雄に成り上がり、大いなる功績を収めた。一個師団以上の大損害を出して、ですよ?』


 軍部は戦死者数を公表しなかったが、会戦に出征した兵士の遺族や戦友会が戦死者数を集計し、およそ数十万人もの損害を出していたことが判明した。


 その情報を遺族会、戦友会から得たファディルは、父は決して英雄などではなかったと確信した。


 ファディルは天井の絵を見上げた。


 金箔を貼った壁画には、屍の山の上に立ち、旗を掲げる英雄の姿が描かれている。


 その足元には、矢と槍に刺された名もない兵士たちが、無数に転がっていた。 


『そんなものは英雄ではない。──愚将です』


 父の拳が、ファディルの頰にめり込んだ。 


 英雄は、屍の山の上に立つ。それでも、人は英雄を欲しがる。







 通路を歩き続けた。父と喧嘩した時の記憶が頭から消え、今度は開豁地で『神眼のファディル!』と叫ぶ島兵たちの姿が蘇る。


 彼らは、父を英雄と讃えた愚かな民衆と同じだ。


 虚構に酔う愚民どもの幻想も期待も、反吐が出る。


 観測記録室に戻った。観測壕の地下深くに設置された観測記録室では、電灯の下、机を囲って観測兵たちが記録をノートや書類に書き込んでいた。ファディルが観測した膨大な演算データをまとめる作業だ。 


『皆さん』


 観測兵たちは顔を上げた。 


『班長、それは⋯⋯』


 彼らはファディルの抱えているインスタントコーヒーとクッキー箱を見つめる。 


『遊撃区長が、私の父のよしみだと言ってくださった支給品です。将官しか食べられない贅沢品です。みなさんで召し上がってください』


 ファディルは机にインスタントコーヒーとクッキー箱を置く。それを見つめる観測兵たちの目が丸くなり、きらきらと輝く。


『将官しか食べられない?』


『う、嘘⋯⋯』


『班長、お父様って⋯⋯誰なのです?』


 思い出すのも嫌な名前を、ファディルはまた口にしなければならなくなった。


『フォディル中将です。十年前の会戦で活躍したあの有名人ですよ』


『フォディル⋯⋯? 嘘だろ!』


『でも、同じディルって名前だぞ』


『そうです。我が家の男子の名には代々、将軍を意味する『ディル』を付ける伝統があるのですよ。私も、名前の意味はファ将軍です』


『ファ将軍、ですか⋯⋯はははっ』


 観測兵たちはくすくす笑った。







 ──そして、現在に至る。


 三十分前と二年前の回想から現実に意識を引き戻し、ファディルは内心で呟く。


(美味しいですか? 権威に汚れた贅沢品は)


 観測記録室に続く梯子の下から、観測兵たちの笑い声が聞こえてくる。ファディルが勤務中、観測兵たちは二時間の休憩時間に入る。コーヒーとクッキーを堪能しているのだろう。


「まさか班長がフォディル将軍の御子息だったなんてなぁ」


「すげぇ人が観測壕に来たもんだ。しかもお父様は遊撃区長のよしみだと」


「恐れ多くて舌がびりびりする」 


「とんでもない人物が班長で、作業に集中できねぇよ」


「コーヒー飲んでたら俺まで将軍になったような気分になってきた」


「はははっ」


「はぁ、うまいなぁ。疲れが吹っ飛ぶよ」


 彼らの会話を聞きながら、ファディルは内心で冷笑する。


(あなたがたが喜んでるその味は、階級、血筋、権威の味ですよ?)


 軍人という生物がいかに階級、血筋、権威に弱いか、ファディルはうんざりするほど知っている。


(これで私が休憩時間に中抜けしても、あなたがたは上に文句を言えなくなったはずです。これでより、医薬品倉庫に行きやすくなりました)


 ファディルは自分を勘当した父に感謝した。


(親の七光り、大変利用価値がございます。お父様──)






 勤務開始から二時間後。休憩時間になり、ファディルは仮眠室の寝床に突っ伏し観測で疲れ切った頭を休めていた。コーヒーを飲む元気すらない。一時間後に頭を休めたら、また医薬品倉庫へ行って実験の続きをしよう。


「班長〜」


 やってきたノリに肩を叩かれ、呼びかけられる。


「またウタリちゃんのところ行こうって思ってたでしょ? 残念、もう行かせないよ。僕がしっかり班長のこと見張っているからね」


 ノリには唯一誘導がかからないことをファディルは知っている。何せ、ノリはファディルの心をいつも先読みしてくるからだ。ファディルは溜め息をつく。


(ノリだけには敵いませんね)


 だが、それでも胸のうちに荒波が立つことはない。タンポポコーヒーのようにいじられでもしない限り、脳内に描かれる波形は穏やかなカーブを描く。


(──胸部安定式)


 一番波形パターンが緩やかな数式。


 以前はばあや、今はノリ以外には決して発生しない特殊な式だ。


 これから二時間毎に勤務が入る。


 今日は胸部安定式に浸って心身を休めたほうがいい。倉庫へ向かうのは一日一回にしなければ頭が持たない。


「やはり⋯⋯医薬品倉庫に行くのは明日にしましょう」


「その医薬品って呼び方さぁ、ちょっとなぁ。もやもやするなぁ、僕」


「あれは物資です。何か問題でも?」


「医薬品は普通、しゃべりませんし。『僕を使って傷を治してね!』って話す医薬品、班長見たことあります?」


 脳内のノイズが激しくなる。


「班長の言う医薬品、笑うし、しゃべるし、人間みたいですよね? だから⋯⋯」


 ノリはくすっと笑った。


「医薬品って呼ぶの、ちょっと寂しいかなって」


 

 激しい雑音が頭蓋骨の中にこだまし、数式を掻き乱す。ファディルはノイズに満ちた頭を抱えた。


(ノリに誘導されましたね。完全な不意打ちです) 


 しかしそのノイズもいつしか収まり、また胸部安定式が描かれていく。 


「ノリに命じます、休憩時間終了まで仮眠室に滞在」


 胸部安定式に浸る時間を長引かせ、脳疲労と集中力を回復させるためだ。


「ん? いいけど。僕も疲れてるしね」


「脳の回復が優先です」


「はいはいはい」


「はいは一度でよろしいです」


 ノリはカップに入ったアイスコーヒーをずるずる音を立てて飲んだ。ばあやが聞いたら、即「いけません!」と叱責が飛んでくるだろう。


「いけません、ノリ。そのような音を立てて飲むのは、とてもお恥ずかしい態度です。よろしいですか、コーヒーは啜るのではなく、口に少しずつ含むのです」


 ばあやの口真似をして、ファディルはノリを叱る。


「ははっ、いきなりテーブルマナー講座かよ」


「耳障りな音は脳疲労回復率を五十九パーセント下げます」


「ごめんごめん。それでさ⋯⋯」


 ノリは言われた通りにアイスコーヒーを音を立てずに飲み、口を開く。


「何で、ウタリちゃんの内臓食べてたの?」


「献血機関開発のためです」


 観測班業務日誌にその詳細を書いたことは伏せて、献血機関という名称だけを伝える。


「献血機関⋯⋯?」


 ノリの眉間に皺が寄るのが見えた。


「へぇ⋯⋯なんかしらんけど、それの開発のための味見?」


「はい、そうです」


「ウタリちゃん、美味しかった?」


 ファディルは指にこびりついた医薬品の血の匂いを嗅いだ。紅茶のような甘くて香しい匂いだった。


「大変美味でしたよ」


 ノリはカップを皿に置き、呟くように言う。


「やっぱり、人間の姿をしていると時々忘れちゃうな。そういうとんでもないこと平気でやっちゃうの。ラフマン二等兵、さそがしトラウマになっただろうねぇ」


 ノリはぷっと笑い、コーヒーを少し噴き出した。


「どういう意味です?」


「何でもないよ」


 ノリはカップを乗せた皿を床に置き、寝床に横になる。


「ちょっと、寝るわ」


 ファディルも眼鏡を外す。


「おやすみなさい、ノリ」


「美顔が目の前にあって眠れん」


「美顔とは、誰の?」


「⋯⋯しらね」


 ファディルは向かいのベッドで眠るノリを見つめた。ノリとファディルの間に青白く光る数式が浮かび上がる。


「ノリ、あなたが私の隣で寝れば、脳疲労回復が三十分短縮されます」


 ノリはシーツ越しから顔を覗かせ、首を横に振る。


「だめだよ」


「あなたが私の隣で寝ると、胸部安定式が大量発生します。業務効率向上のためです」


「ここで添い寝して、誰かに見つかったら変な目で見られるからだめ。班長と僕が夜伽していた!って大騒ぎされたら大変だからね」


「夜伽⋯⋯夜伽、ああ⋯⋯夜のいと──」


「こら! 検索演算停止!」


 「羞恥心」を示す発声音域でそう言い、ノリは掛け布団を被ってしまった。布団の隙間から「興奮」の生体反応粒子が漏れ出しているのが見えた。



 ◆ ◆ ◆



 ファディルが眠りに落ちてから五分後。彼が眠ったのを確認してからノリは掛け布団をめくり、起き上がる。


「⋯⋯さて、『献血機関』って何かね」


 先程からその『献血機関』とやらを知られたくないという念が、ファディルの寝床に置かれた腰嚢から肌にひりひりと伝わってくるのだった。


 おそらく腰嚢の中に入っている何かに念が残留しているらしい。


「全部、バレてんだよ。何隠してるの?」


 ノリはファディルを起こさないようそっと近づき、腰嚢の蓋を開く。蓋を開けた途端、ふわりと風のような念の気配が吹き上がって、全身の皮膚に浴びた。数十本もの万年筆が無造作に放り込まれている。その中に紛れて『観測班業務日誌』と書かれたノートが二冊の入っていた。


「観測班業務日誌が二つ⋯⋯?」


 ノリは二冊のノートを見比べる。各表紙に書かれた字体が恐ろしいほどほぼそっくりだった。予備の業務日誌だろうか? 片方のノートのほうから、見られたくないという残留思念が強烈に感じられた。


 ノリは念を発するノートをみつめる。このノートに、献血機関に関わる何かが記されているようであった。


 溜め息をついてノリはファディルを軽く睨む。


「業務日誌に何書いてんだよ。落書き帳じゃないんだぞ、全くもう⋯⋯」


 恐らく公的文書に私的な記述をしたことがバレたくなかったのだろう。本部に提出しなければならない業務日誌への落書きは、休憩時間に持ち場を離れたこと以上に罪が重い。


「あとで布団の中にキノコ置いてやるからな。覚えとけよ」


 キノコガァ! そう発狂して反省してくれることだろうと思いながら、ノリは業務日誌をめくる。


 普通の字面が続き⋯⋯そして。


 ノリはノートを落とした。


 落下し、開かれたノートに書かれていたのは、小さい子供の解剖図──


 子供の絵には『医薬品』と書かれていた。ウタリのことだ。


 がくりと膝をつき、ノリは解剖図を見つめ、感情の抜け落ちた声で呟く。


「何だよ、これ⋯⋯」


 これが、ファディルの誰にも見せたくなかったもの。


 ノリは脱力した腕を動かし、ノートをゆっくり拾い上げて、なぐり書きされた『献血機関』の設計図を凝視する。


 ──負傷兵から切除した組織を医薬品の開腹部に投与⋯⋯


 目に飛び込んできたのは、そんな一文。


 ジー⋯⋯ッと頭上の電灯の音が静かに響く。


 ノリは無言でノートを閉じ、二冊の業務日誌を腰嚢にしまい、蓋を閉じる。鉛のように重い体を下ろすようにファディルのそばに座り、ノリは彼の整いすぎた寝顔を見つめる。


 押し潰されそうになるような静寂の中、ノリは膝に頬杖をつき、決して彼に言ってはいけない言葉を吐き出す。


「──もう無理だわ、こいつの世話」


 ノリは手で顔を覆い、呻くように嘆いた。


「神よ、僕は巫である前に人間です。僕にも限界ってものがあります。精霊を通じてあなたにウタリちゃんの回復方法が人肉であると示された時も、かなりギリギリでしたよ。その前の、カラリヤ湿原での精霊術による砲撃調整の時も、死者の魂を土地神に捧げてしまって希死念慮が凄かったってのに」


 ノリは歯を食いしばり、身の内側から爆発しそうになる何かを必死に堪えながら恨み言を続ける。


「今度は小さい子供を解剖して献血機関というわけのわからないものに魔改造することも受け入れろと? あのですね、少しは僕の心労ってものを考えて頂けます? このままじゃ、ほんとに僕は狂ってしまいそうなんです。⋯⋯いや、そんなこと神にはわからないでしょうけど。いや、嫌でもわかってもらうしかなさそうです。こっちだって我慢の限界なんですよ」


 ノリは向かいの壁を見つめながら、乾いた笑い声を上げる。


「神よ、あなたのご意志に反逆すれば、僕を殺して頂けるでしょうか?」



 ◆ ◆ ◆



 どれだけの時間が経っただろうか。

 記録室の出入口から足音が響いてきた。


「衛生隊よりファディル少尉へ通達!」

 伝令兵の声が隣接する記録室に響いた。観測兵たちのざわめきが沸き起こる。


「衛生隊?」


「何だ、何だ?」


「班長、何かしたのか?」


 ファディルは咄嗟に起き上がり、眼鏡をかけて仮眠室を出る。


 伝令兵が一枚の紙を広げ、ファディルに見せつけた。


【衛生隊通達書】

 観測班長ファディル少尉殿

 貴殿は本日、

・医薬品倉庫への無断侵入

・設備一部の破壊

・物品の窃盗

 以上の容疑で警告を受けたものとする。

 今後同様の行為が発覚した場合、貴殿を後方憲兵隊本部へ移送し、軍法会議に付すものとする。

 第三衛生隊長 ヴァレンス


 ファディルは無表情で警告書を眺めた。


(おや、ヴァレンス衛生隊長殿からですか。医薬品は最高機密。容疑をでっち上げて警告書を出してきましたか)


 観測兵たちがファディルの背後に集まってきて、更に動揺し声を張り上げる。


「無断侵入!?」


「班長、何してるんすか!」


「何でこんなことを!」


 警告書により、今後医薬品のいる壕へ向かうのは地雷となった。信用の喪失により、観測兵たちに植えつけた権威付与の効果は無くなり、勝手な行動を見せれば上へ報告が行くリスクも高くなった。


(あれほど権威に弱い皆さんが、警告書一枚でこれですか⋯⋯)


 脳内に数式がザーザーと音を立ててノイズ混じりにたくさん浮かび上がっては歪み、点滅し、形もぐちゃぐちゃになる。


(──身体沈着式)

(──身体冷却式)

(──身体加熱式)


 今までにない組み合わせの数式が、脳内で乱雑に羅列されていく。


 ファディルは痛覚指数が向上する額を押さえて、眉をひそめる。


(一体誰が衛生隊に報告を?)


 あの壕は秘匿のはず。ならば、報告した者は一人しかいない。


(ラフマン二等兵ですね。たかが二等兵に、衛生隊へ意見具申する権限が?)


 腸に焼けるような熱が灯り、額を押さえる指が震え出す。


(──やってくれましたね、ラフマン二等兵)

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