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1-3 島兵たち

(眠った、のか⋯⋯?)


 いくらか空気が緩んだものの、まだ警戒心を解けないラフマンは歩兵銃を握りしめたまま、木にもたれかかり眠る少女を見つめていた。


 少女はラフマンの腹の傷に血を注いだ後、眠った。あれは血を流すと起きる現象なのだろうか。


 少女が寝返りを打ち、頭から倒れてうつぶせになった。むにゃむにゃと寝言を言い始める。


「ん⋯⋯むにゃ⋯⋯さ、むい⋯⋯」


 少女は両腕を擦って縮こまった。ラフマンも肌に冷気が染み込むのを感じ、鳥肌の立つ片腕を擦る。


 この島は、昼は灼熱地獄、夜は一気に気温が下がって肌寒くなる。 


「おいグズ」


 背後から仲間に声をかけられ、「なんだよ」と振り返らずに返す。


「あの化け物に掛け布団をかけてこい。寒がってまた目を覚ましたらどうすんだよ。んで仲間が化け物の魔法で死んだらどうする? 役立たずのてめぇごときのへまで無駄死にするのはごめんだぜ? 死んだら戦死通告書に『ラフマンのやらかしが原因で死亡』って書かれちまう」 


 ははは、と小さな笑い声が上がる。


 反感をぶつけたかったが、自分は部隊内最弱の落ちこぼれだ。拒否したところで待っているのは鉄拳制裁か飯抜きの懲罰である。


 だが、魔女に近づくよりむしろ懲罰で済んだほうがいいような気がした。


『魔女は攫った人間の人肉で秘薬を作る⋯⋯』


 万が一、人智に及ばぬ方法で解体されて人肉にされ、秘薬の材料にされてしまったらという妄想がラフマンの体温を更に下げ、身体の芯まで冷えてゆく。


「さっさとしろ!」


 何かを被され、ラフマンは小さく声を上げる。被されたものを手に取ると、軍服だった。これをかけてこいというらしい。


 ラフマンは軍服を持ち、子鹿のごとく震える足で歩き出す。


 畜生、畜生と落ちこぼれの身の程をわきまえずに愚痴を吐きながら、おぼつかない足取りで少女に接近する。


 一歩、二歩、三歩と近づくたび、より歩みは重く遅くなる。


 お願いだから、俺を人肉にしないでくれ。頼む、頼む──と願いながら、少女から三歩ほど離れたところからばさりと軍服を投げつけるようにかけ、ラフマンは弾かれるように踵を返し駆け出した。勢い余って転び、顔に泥を被る。仲間の嘲笑が響いた。


 ラフマンは悔しさとやりきれなさを手に込めて、泥を指の隙間からはみ出るほど強く握り締めた。


 戦場はただでさえ毎日が命取りなのに、魔女にまで命の危険を脅かされなければならないなんて。


 やっぱり、生き残りたくなかった。


(ヴィシュヌ様、俺を殺してください)


 顔を上げると、月光の降り注ぐ光の中に掌大の小さな木像が転がっていた。転んだ時に胸ポケットから出てきたのだろう。ラフマンは咄嗟に木像を掴み、手のひらに包まれたそれを見る。


 小さい頃、今はもう亡き母からもらったお守りだった。


 それは、異形の存在を精密に象った木像。

 二つの丸い大きな目と、ギザギザに尖った牙が並ぶ口の描かれた布が、顔に垂れ下がっている。

 頭からは木の枝に似た角が、髪の毛のように何本も生えている。

 着物を纏っており、背中から人間の腕が六本、袂からは鋭い鉤爪が伸びている。

 

 これがヴィシュヌ──セルク島で古代から崇められている数多の神々の頂点に立つ至高神であり、島の護り神である。


 セルク島の各地にヴィシュヌを崇める祠や神殿が点在する。ラフマンを含む農民階級の人々は、豊穣祈願のために毎日村の祠に供物と祈りを捧げていた。


 ラフマンは小さな木像を地面に立て、両手を合わせて再びヴィシュヌに祈りを捧げた。


「俺を殺してください、ヴィシュヌ様」



 ◆ ◆ ◆



(ラフマン二等兵、転倒。石につま先が引っかかっただけ。異常なし)


 双眼鏡越しからラフマン二等兵を見ていた銀髪赤目の将校は、彼がただ間抜け面を晒しただけと判断して興味を無くした。ズレた眼鏡の位置を直し、再び少女のほうへレンズを向ける。


 月光の柱が、闇の中で眠る少女を鮮やかに映し出していた。


「腕を噛み切って眠るまで、約五分三十四秒五三」


 隣でカサカサと素早く何かを擦る音が鳴っている。暗くて見えないが、一人の兵隊がノートに速筆でメモを取っているのだ。


「ノリ、今のちゃんと書きましたか?」


 銀髪赤目の将校──観測班長のファディル少尉は、冷淡な声で訊いた。


「はいはい、約五分三十四秒五三、ばっちり書いたよ班長」


 手元がほとんど見えない真っ暗闇でも、ノリは字を書くことができる。暗視訓練を受けた者でも不可能な神技である。


 ファディルは「ありがとうございます」と返し、再び観察を続ける。


 再生能力以上に興味をそそられるのは、自分と同じ、銀髪赤目の奇妙な容姿。


 ファディルの意識は、すっかりレンズの向こうの少女に吸い込まれ、木々のざわめきも、島兵たちの雑談も、他のものは何一つ知覚不可能になっていた。


 普段はずっと穏やかな心臓が、この時は骨を突き破るのではと思うほど激しく高鳴っている。


 ファディルはズームし、少女の閉じた瞼の一・五ミリの隙間から見える赤い瞳をレンズ越しに見つめる。


 脳内を一瞬、数式が流れていき、結論が弾き出される。


 ──色彩濃度、100パーセント一致。


(瞳の色彩濃度、私と完全一致⋯⋯そんな馬鹿な)


 指が震えて力が入らなくなっていき、双眼鏡を落としそうになる。


(これはもう、幻でも見ているとしか⋯⋯)


 他人なのに、生体組織が完全に同じものなど、あり得ない。双子でも瞳の色には微妙な差異があるというのに、これではまるで同一人物ではないか。あまりに非現実的な事実を前に意識が吹き飛びそうになり、ファディルはふらつく頭を抱えた。


(なぜ、私と同じ姿をしているのです。あなたは、何者です)


 思考が飛びそうになるような衝撃に頭を掻き乱されつつ、それでもファディルは好奇心をそそられるままに、眠る少女を双眼鏡で観察し続ける。


 アリフ中隊長もファディルと同じ疑問を抱いていたのか、口を開いた。


「あいつは貴様の姿にそっくりだな」


「さぁ、なぜでしょうね」 


「他に何かわかったか」


 アリフ中隊長は得体の知れない少女の情報を少しでも欲しているとファディルは察した。淡々と知り得た情報を述べていく。 


「まずわかったことは、少女は血を流せば眠ってしまうこと。血を流して約五分三十四秒五三に眠りに落ちたこと。ただし血の量と、怪我が治るまでの時間は不明。再生と治癒の仕組みを調べるための実験をして──」


 ノリが小声で答える。


「おいクソメガネ、やめろ馬鹿」 


 アリフ中隊長が小声でノリを叱責する。  


「ノリ一等兵、貴様っ、少尉にその口の聞き方はなんだっ!」


「やべっ! やっちまった」


 ノリ一等兵は顔を上に向けて制裁を受ける態勢を取る。ファディルは中隊長をたしなめた。


「アリフ中隊長殿、いいのですよ」


「ファディル少尉、貴様もなぜ止めな──」


「ローカルルールです。部外者は口出ししないようお願い申し上げます」


「ロ、ローカルルール、だと⋯⋯」


「それよりノリ、あなたもあれが本当に魔女だと思っているのですか?」


 ノリは首を横に振り、断言するように言う。


「あの子は魔女じゃないよ。みんなにはわからないかもしれないけど、僕にはわかる。あの小屋から出てこれたのも、彼女の宿命さ」


 ノリは時々奇妙なことをいう。


「全く、あなたもくだらないことを言いますね」


「うっせぇ、黙れクソメガネ」


 アリフ中隊長が言った。


「と、とにかく、十五分後に強行軍だ」


 溜め息をつき、ファディルは答える。


「了解」


 我がアリフ中隊は大隊本部に命じられていた。


『7日薄明、アリフ中隊は追撃部隊の追跡中敵部隊を、カラリヤ湿原を通過し背後から挟撃せよ』 


 ファディルは頭を抱えた。


 セルク島防衛軍第三連隊は、前回の作戦で敵先遣隊の襲撃を受け、たったの数日間で二個大隊を失う大損害を被った。


 ファディルたちの所属する第一大隊は一個中隊を失い、今では第二、第三中隊しか残っていない。海路は断たれ増援は来ず、他の連隊も大打撃を受け交代、補充も不可能だ。


 だからといって、たかが二個中隊で作戦遂行を強いるなど、あまりにも酷な話だった。


 攻勢側は防御側の三倍兵力必要なのは鉄則であり、もし敵がこちらと倍以上の兵力差であれば余裕で各個撃破されるというのに。 上層部はそんな常識さえ忘れたのか。


 いや、そうではない。


 沖合から来る敵の本格上陸さえ遅らせられれば、防衛軍がどれほど消耗しようと上層部はそれで構わないのだ。


 二個中隊での挟撃が不可能? 構わん。五分でも長く敵先遣隊を追い詰められるなら、貴様らの命など知ったことではない。


 上層部の考えは、ただそれだけだろう──。 


(たったの二個中隊で挟撃、ですか。もはや作戦ではありません。死地へのお散歩です)


 ラグドル海商連邦本土から本艦隊が来るまで、セルク島は時間稼ぎの付城として戦火に焼かれ続ける運命にある。


 ファディルは隣にいる島兵たちを見た。


 四肢の筋肉はほとんど削げ落ち、木の棒のようにやせ細っている。対して腹は、極度の空腹による内臓ガス滞留ではち切れんばかりに膨れ上がっていた。


 背嚢はみんな行軍途中に投げ捨て、腰嚢だけになっていた。重荷を背負う力すら、島兵たちには既になかった。


 彼らの息は荒く、湿った熱気の中で汗と泥の匂いが漂う。


 ファディルは自身を見下ろした。将校服は擦り切れ放題だった。両袖部分は引き千切れ、糸が垂れている。襟辺りのボタンは外れ、そこから肋骨と皮一枚の痩せこけた胸が覗く。


 寄生虫だかなんだかわからない小虫たちが、泥と垢だらけの肌をぞろぞろ這い回っている。芋虫が首を這い上がってきて、生温い腹脚の蠕動が皮膚に広がる。


 ファディルはそれを摘み上げ、無表情で口の中に放り込む。噛むたびにぷちっ、ぷちっと瑞々しい肉の弾ける音が響く。


 他の兵たちも、帽子を取って底面に溜まったシラミ、ノミ、ダニをスプーンで掻き集め、口へ運んでいた。蠢く米粒のような塊を、彼らは平然と咀嚼する。


 補給線が遮断された今、肌を這う虫は貴重なタンパク源だ。


 誰も顔をしかめなかった。それはもう、日常の食事だからだ。


 頭がくらりとふらつき、ふと一瞬の白昼夢に浮かんだのは──


 香ばしい小麦の香りを立てる焼きたてのブレッド。


 磨かれた陶器に注がれた、湯気立つ黒いコーヒー。


 香しい優雅なモーニングは、今はもう遠い夢の中だ。


 あの朝食を、もう二度と味わうことはないだろう。そう理解しているのに、焼きたての香りは勝手に蘇る。


 ファディルは頭を抱えて、溜め息混じりに呟く。


「寝ても覚めても焼きたてのブレッドは出てきませんね」


 ノリが笑う。


「我慢しろ、贅沢者」


「下々に言われる筋合いはありません」


 ファディルは制帽のつばを摘んで、目深に被り直す。


(こんなにも兵が消耗仕切っているのに強行軍とは、笑わせます) 


 追撃部隊との挟撃に間に合わせるため、昼夜問わず強行軍をしなければならなかった。特に昼間は敵の偵察機、観測機が飛び交っていて行軍にはリスクが伴う。


 それでも、命じられたからにはいかなければならない。たとえ壊滅ギリギリの部隊であっても。 


 アリフ中隊長はファディルに命じた。


「ファディル少尉、現在地確認を」


「了解」  


 ファディルは腰嚢から地図を取り出し、頭上に開けた夜空を見上げた。


 地面から風が吹き上げたかのように、ファディルの毛先が舞い上がる。


 紅玉のような二つの瞳が煌々と光を放つ。だがその光は、誰にも、本人にすらも見えない。


 ファディルが生来持つ、異能力が発動した瞬間だった。


 光り輝く瞳に映る、月明かりで二つ、三つしか星の見えない夜空。そこに、青白い光の粒子がいくつも浮かび上がった。


 闇に隠れた三等星から十等星が自ら瞬き出したように、ファディルの視界に写る。


(視差、時刻、経緯度、惑星の軌道速度から誤差逆算⋯⋯)


 あまたの天体の動きから読み取った、天文学的な情報量を脳が秒単位で演算していく。


 頭の中を、複雑に絡み合った難解な数式が絶え間なく流れ去っていった。轟々と音を立てて、激しく流れる急流のように──。


 演算に基づき、星々の視覚映像が脳内で写実的に再現され、拡大し、天球図に変化してゆく。


 脳内の天球図に描かれた星々全てが複雑な線で繋がった時、ファディルは手に持つ地図を見下ろした。


 地図の一点に、現在地を表す青白い光の柱が立つ。現在地から✕と書かれた目的地【カラリヤ湿原】まで光る線が伸びていく。現在地からカラリヤ湿原までの最短距離を表す導線である。


 ファディルは星を見ただけで、現在地と目的地の位置を正確に導き出せる。


「現在地、南緯15度16分33.36秒、東経145度18分34.37秒。カラリヤ湿原まで約十五キロ」


 他の人間には、地図上に浮かぶ光は見えないらしい。


 アリフ中隊長が掠れた声で呟いた。    


「十五キロか。まだかかるな」


 隣の島兵たちが溜め息まじりに苦笑する。


「げぇ、十五キロ⋯⋯?」


「もう足、動かねぇのに」


 ファディルは彼らのほうを見ずに答える。


「ご安心ください、落伍兵になれば森の中に放置されて死まで真っしぐらです」


「そうだな⋯⋯確かに死にてぇけど⋯⋯子供の顔が浮かぶと⋯⋯」


 一人の島兵が、片手にのせた蛆虫団子を掲げて祝詞を唱えていた。


「ヴィシュヌ様、ヴィシュヌ様、我らをお助けください」


 蛆虫をすり潰して固めた虫肉団子を供物に捧げる島兵を見て、ファディルは棒読みで突っ込む。


「まだ神というありもしない幻にすがっているのですか?」


 祝詞を捧げる島兵はファディルを無視してぶつぶつと呟き続ける。


 この島の農民は、神や精霊など非科学的なものを本当におり、祈れば助けてくれると本気で信じている。目に見えないものは決して信じない現実主義者、科学主義者のファディルにとって、農村出身の島兵はオカルト馬鹿ばかりにしか見えなかった。


 ファディルは祈る島兵から目を背ける。


(これだから、『田舎者』は)


 農村出身の時代遅れで常識知らずで信仰深い奴らを、ファディルは『田舎者』と心底毛嫌いしていた。


 沈鬱なファディルと島兵とは反対に、ノリが愉快げな声色で言った。


「班長は我が隊の魔法使いだ。神にすがらなくても、班長がなんとかしてくれるさ」


 ファディルは地図を腰嚢にしまい、棒読みのような口調で否定する。


「魔法使い⋯⋯そんな非科学的存在などいません。私は、ただの凡人です」


 自らを凡人と卑下するその異能力者の青年は、アリフ隊を死地へ導く羅針盤であった。

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