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3-14 私の忠犬

 イルハムを人肉の運び屋にするチャンスは、今しかない。


(もう、逃がしませんよ)


 イルハムを惑わす言葉を、演算式は引き出す。


「食人衝動がおありで?」


 イルハムの肩が少し跳ね上がった。図星らしい。導入は成功した。ファディルはさらに詰める。


「お辛そうですね? それは、止められないのですか?」


 同情しつつ、衝動についての情報を質問で引き出す。


「お前に何がわかる⋯⋯」


 イルハムの声の波長パターン、心理学的分類「悔しさ」に該当。言語、否定形。心理構造パラメータは食人衝動の原因の隠匿、あるいは心理学的分類「羞恥心」を示す。 


(──分析するに、これは『罪悪感』ですね。食人衝動に対し、罪悪感を抱いている)


 使える材料を引き出せた。


「わかるとは、何が?」


 なるだけ声を柔らかく、相手の内面へ踏み込むような雰囲気を匂わせる波長に調整する。ファディルはイルハムに迫り、なおも問い詰める。


「教えてください。今まで、誰にも打ち明けられなかったのでしょう?」


 私なら話を聞きますよ、といえばかえって相手は心を閉ざす。疑問形に留め、相手から打ち明け出すのを待つ。


 イルハムは顔を背け、しばらく黙り込んでから答えた。


「本当は⋯⋯食いたくない⋯⋯」


 罪悪感の詳細を引き出す。否定も肯定もせずに、淡々と質問をする。


「食べたくないのに、食べたいと思ってしまうのですね?」 


「⋯⋯そうだ」


「食人衝動は、いつから始まったのですか?」


 一陣の風が吹き、森の木々がざわめく。


 騒音が静まってから、イルハムは深く息を吸って口を開いた。


「少し長くなる」


「はい」


「⋯⋯一年前。俺はセルク島戦線の前哨戦になった隣のロベル島で、嫁と子供の二人で暮らしていた。アブラヤシが主要生産の農村で、四人で毎日朝から晩まで農作業を漬けだった。開戦後に召集されて、ロベル島のジャングルで迎撃に備えた。艦砲射撃で島が焼け野原になって、ジャングルや畑で採れる食えるものは全部無くなった。その後に上陸部隊が来て、俺たちは遮蔽物のない洞窟や岩山で必死に抵抗した。だが、長くは持たなかった。島全体が敵艦に包囲されて、ロベル島迎撃部隊は兵糧攻めにあって、俺たちは骨と皮一枚、内臓にガスが溜まって妊婦みたいに腹が膨れるほどの飢えに苦しんだ」


 イルハムは溢れ出そうな感情を必死に抑え込むように、一言一言噛みしめながら語る。


「迎撃部隊はとうとう武器を捨てて洞窟に立てこもった。その中にはロベル島の難民、俺の嫁と子供もいた。みんな真っ黒に汚れて、痩せ細って、石をかじってその場に垂れ流し放題、死臭も混じってすげぇ激臭だったよ。迎撃部隊は難民に混じって、敵に見つかって死ぬ瞬間を待った。⋯⋯その洞窟で、俺は『あいつら』にあった」


 イルハムは長髪の隙間から見える目に片手を当てる。


「俺さ、祖母が霊媒師のせいか生まれつき霊感が凄くてさ。イルハムって名前、『霊感』って意味なんだ。洞窟に何百年も住んでいたあいつらが俺には見えたし、声も聞こえた」


 あいつら。イルハムに人肉を要求する奴らと、ロベル島で出会った。


 イルハムは自分の手を見る。鱗のようにささくれだった奇妙な皮膚構造をしていた。


「あいつらは俺に言った。──生きたいか、と。そりゃあ、生きたかったさ。生きて、生まれ育ったロベル島を出てまた家族四人で暮らしてぇって思った。その代償に、こんな身体になっちまった。食人衝動を抑えられず、俺は、俺は⋯⋯」


 イルハムは頭を抱えて、ああああぁっと叫ぶ。罪悪感が、最大限に向上した瞬間だった。さぁ、吐き出しなさいとファディルは期待する。


「洞窟に避難していた難民を、全員食い殺した! 女を、子供を、年寄りを! 何の罪もない人々を! 嫁と子供も骨になるまで食った! 俺は、俺は⋯⋯人食いの殺人鬼になっちまったんだ⋯⋯!」


 罪悪感の根源をようやく引き出せた。ファディルは無表情で、嘆くイルハムをみつめる。


(⋯⋯あと少し煽れば、完璧な駒になりますね)


 ファディルはイルハムの外套に覆われた肩に手を置く。 


「打ち明けてくださってありがとうございます、兵長」


 イルハムの濁った瞳から、涙がこぼれ落ちる。


 声に微かな振動を加え、同情する言葉を投げかける。


「苦しかったですね。怖かったですね。独りで抱えこんで、ずっと、ずっと、本当に辛かったでしょう」


 イルハムは頭を抱えて俯きながら、嘲笑するように言う。


「⋯⋯けっ、やはり狂人だな。こんな話、平気で聞くなんてよ」


 また身体加熱式が生成されるのを感知しつつ、ファディルは最終懐柔調整に入る。


「打ち明けた相手が狂人で、よかったですね」


 イルハムはファディルを見つめた。涙で濡れた瞳が柔らかく、まるく開かれていた。濁った瞳にわずかに光が差し込むのを、神眼が捉えて光量を分析する。


(──懐柔、成功です)


 次はいよいよ、服従関係に落とし込む作業だ。


(私を狂人と罵った罪は重いですよ?)


 空虚な赤い瞳で、ファディルは呆然とイルハムを見つめ、言った。 


「今まで食べてきた人々に、あなたのご家族に、贖罪したいですか?」


「⋯⋯そうしたいけどな。でも、償っても償い切れる罪じゃないさ」


「では、あなたに大罪を背負わせた食人衝動を活かし、大勢の人々を救ってみませんか?」


 イルハムは狼狽えるように「はぁ?

何だそりゃ」と声を上げる。


「あなたは人肉を採集してくるだけでよろしい。医薬品が人肉で回復したあのシステムを利用し、大量採血する『献血機関』を作るのです。医薬品の量産化により、何百何千の兵力を維持できます」


「献血機関?⋯⋯何だそりゃ。ウタリを、機械に⋯⋯?」


「そういうことです。医薬品は血を抜きすぎると乾燥します。だから人肉を投与し続ければ、無限に血と肉を生成し続けられ、兵力を大幅に維持することが可能なのです」


 やれやれと呆れるようにイルハムは頭を抱える。


「外道の発想だな⋯⋯」


「そこで、あなたにお願いしたいのです。これから人肉を調達して頂きたい」


 イルハムの固唾を呑む音がした。


「私に協力して頂ければ、あなたの飢えも罪の意識も、貢献に変わります。あなたは、何百、何千の兵を救う英雄になれるのですよ。これほど素晴らしい贖罪の方法はありません」


 ファディルは、いつしか、屋敷の天井に描かれた英雄の壁画を見たのを思い出す。


 矢と槍に突き刺されて死に絶えた兵士たちの山の上に立ち、旗を振る英雄。


 先祖代々戦場で活躍してきた英雄たちの子孫も英雄たれ、と周囲に期待されていたファディルは、あの壁画を見上げるたびにうんざりしていた。


 英雄とは、屍の上で民の称賛と勝利に踊り狂う愚人なのだと。


 だが、その屍の山を再利用できれば──


「あなたはたくさんの屍の山を積み上げ、その肉で兵力を回復していく。愚かな英雄は屍の上で旗を振るが、あなたはその屍そのものを糧に変えるのです」


 精神に欠陥がある場合、人はその穴を代用品で必死に埋めようとする。イルハムの穴には食人衝動という水が絶えず注がれ続けており、罪悪感で蓋をしようにも、溜まることなく漏れ出してしまう。


 だがそこに大義名分という桶をはめ込めば水はきちんと溜まり、イルハムの精神もようやく安定する。


 イルハムはその場に膝をがくりと突き、呻くように嘆いた。


「⋯⋯ふざけんじゃねぇ、畜生」


「何が? 私は、あなたの罪悪感を少しでも払拭できればとご提案したまでです」


 イルハムはファディルの包囲網から逃れるように首を横に振り、子供のように情けなく喚いた。


「贖罪の方法とか言って、結局は俺に人肉採集させるつもりじゃねぇか、畜生め! 結局また人を狩って、それだけじゃなく小さい子供の中に人肉を埋め続けて大量採血だと? それが償い? 冗談じゃねぇ!」


 ファディルはイルハムを見下ろしながら、問い詰める。


「──人肉の運び屋をしていただけますか? それとも、いつまでも惨めったらしく罪悪感に浸り続けますか? 食い殺した人々に贖罪したいのであれば、惨めな自分をさっさとやめることです。あなたの妻子も、贖罪する姿勢を望んでいることでしょう」


 ファディルは霊というものを全く信じていない。だが、他人は霊という見えない、聞こえない、触れられないものを信じ、亡くなった大切な者がそばで見守っているなどと妄言を垂れる。死んだら精神は完全消滅するというのに、イルハムはいもしない死者に贖罪したいと願う。謝っても死者に声は届かないのに。この理解不能で奇妙な心理構造を、利用してみた。


「それと⋯⋯あなたは既に、一人の救える命を見殺しにしました。あなたはそのことに負い目を感じていますよね?」


 イルハムは牙を剥き出しにして、ワァッと獣じみた呻き声を上げる。紺色の粒子が噴水のようにイルハムから立ち昇り、背景の暗い森を青く塗り潰していく。


 人肉を採集してこなかったことで、救えるはずだった負傷兵を見殺しにしたと説得したあの時も、イルハムは罪悪感に身を震わせていた。


 精神に強烈な負荷をかけた今、とどめを刺す。ファディルはイルハムに選択を迫った。


「もう一度聞きます。運び屋をやりますか? 惨めな自分を晒し続けますか?」


 ここで運び屋を否定すれば、食人衝動への罪悪感を緩和する方法をイルハムは失ってしまう。


「どちらを選びますか?」


 地に顔を伏せたまま、イルハムは屈辱的だと言わんばかりに声を震わせて呟いた。


「⋯⋯はめたな、俺を」


 イルハムは上を見上げた。


「⋯⋯レリィ、ルーイ、ロール、お前たちもそうしろって言うのかよ」


 見えない何かと話している。幻覚症状だろうか。


 イルハムは唇を噛み、暫し沈黙してから静かに「⋯⋯運び屋」と答えた。


 彼の中にあった人として越えてはならない一線は、もう無くなった。


 食人衝動の水が大義名分の桶に注がれ、いっぱいになったのだ。


「ありがとうございます、兵長」


 イルハムは地に頭を伏せ、片手拳で床を叩いて負け惜しむように吐き捨てる。


「⋯⋯畜生。外道め」


 ファディルはイルハムの頭を撫で回す。──犬の頭を撫でるように。


(これであなたは、私の忠犬になりました)



 ◆ ◆ ◆



 アリフ隊は夜通しで行軍し続けた。追撃部隊の包囲網を突破できたとはいえ、先遣隊はどこに潜んでいるかわからない。相変わらず、野営は命取りであった。


 早朝。ラフマンはウタリと崖っぷちの小さな野原に立ち、目前に広がる景色を眺めていた。


 雲が空に立ち込め、隙間から泡白い陽光の柱が振り、地上の暗い緑の上を陽溜まりが流れていく。緑の海原の彼方に、天にも届きそうな堅牢な山岳の黒々とした影が聳えている。


 ラフマンは山岳を指差した。


「ウタリ、あれがカイラス岳だ」


 ウタリは眠そうに目を擦りながら、ラフマンのほうを見る。


「カイラスじゃけ?」


「だ、け。大きいお山って意味だ」


 ウタリは驚いたように細めていた目をまんまるに見開く。


「あの真っ黒ででっかいの、お山なの? 夜が置いてけぼりにされたんじゃないんだね」


 どうやら黒い部分を夜の欠片と考え、朝と交代するはずだったのに置いてけぼりにされたと思ったらしい。ウタリは小屋から出たことがないから山を直接見ておらず、そのような発想になったのかもしれない。


「ラフマンたち、あのお山に行くの?」


「あのお山の洞窟に、兵隊さんたちのお家があるんだ」


 ウタリは頬を両手で挟んで声を上げる。


「え!? お家!? もしかして、絵本に出てきたお城ってやつ?」


「うん、お城ぐらい大きいぞ」


「ええぇ!? ウタリ迷子になるの怖い!」


 ラフマンは微笑んでウタリの頭を撫でる。


「大丈夫、俺がずっとウタリのそばについているから迷子になんねぇよ」


 ウタリはパッと花のような明るい笑みを浮かべた。


「じゃあ、大丈夫だね!」


 だが、笑顔の裏では相当無理をしている──と思い直し、ラフマンは笑みを消した。


 今この時も、心の中でウタリは怯えて泣いているかもしれない。


(俺は、守れているのか?)


 ふと、そんな疑念が頭をもたげる。消えない心の傷をずっと抱えている彼女を守るとは、どういうことだろう。傷を防げないのに、癒せないのに、何が一体守っているというのか──。


「どーしたの? ラフマン」


 ウタリの声でラフマンは現実に引き戻された。


「いや、何でもねぇ」


 それ以上、何も言えなかった。



 ◆ ◆ ◆



(カイラス岳、近づいてきましたね)


 野原に立つ二人を茂み越しから観察していたファディルは、双眼鏡のレンズをカイラス岳に向けた。険しい山岳の全貌が丸いガラス越しに広がる。


「またあいつらを監視しているのか」


 背後からイルハムの声がした。死臭とは違うカビ臭い不思議な臭いが漂ってくる。


「監視ではありません、観測です」


「何の?」


「生体から発せられるあらゆる反応です」


「はぁ、よくわからんな」


 ファディルは立ち上がり、イルハムの長髪の隙間から見える金色の瞳を見つめて、訊いた。


「──人肉の採集は順調ですか?」


 イルハムは外套の中から瓶を取り出し、見せた。中には赤く濡れた肉片が一つ入っている。生体情報を解析すると、人肉だった。


「よろしいです」


 イルハムが犬に成り下がったことを確認し、ファディルは満足する。


「これで献血機関計画にようやく着手できます」


 何か思い詰めたようにイルハムが目を伏せて、はみ出た牙を食いしばるのをファディルは見た。


「何かご不満が?」


 イルハムは視線を合わせずに首を横に振り、呟く。


「人肉を、あの子の中に入れるんだな。⋯⋯これから、たくさん」


 そんなことで悩んでいたのか、とファディルは呆れる。


「大丈夫ですよ。むしろ医薬品は血が枯渇し乾燥状態になることを恐れています。ですので、人肉を入れれば乾燥状態にならないと教えれば安心するでしょう」


「⋯⋯だけど、あの子は身体を切り裂かれることを恐れている」


「ご安心ください。カイラス岳にたどり着き次第、医薬品のトラウマの抑圧を強化する実験を施し、身体を切開されても発作が起きないよう工作いたしますので」


 イルハムの金色の目が訝しげに細められる。


「ウタリに何をする気だ?」


「それはカイラス岳で実験をする際にお見せします」


「またろくでもないことを」


「ろくでもないことが何のことか存じませんが、とにかく医薬品の抑圧実験をしなければ計画自体が水の泡です。医薬品の発作発生は、献血機関運転の作業員に伝染し操作不能に陥らせます。業務妨害になれば元も子もありません」


「作業員?」


「彼らは医薬品に対しトラウマを与えたことに罪悪感を抱き、あれに対しほんの少しでも損害を与えることを酷く恐れています」


「作業員って、まさか衛生隊?」


「その通りです」


 イルハムは呆れたように、ハァーッと長い溜め息をつく。


「衛生隊も手駒にする気かよ。⋯⋯人間のすることじゃねぇ」


 イルハムの罵詈雑言を聞き逃し、ファディルは踵を返して歩き出す。


(献血機関、いよいよ開発可能になります)


 ファディルは無表情で茂みの中を歩き続ける。


(楽しみにしていますよ、医薬品)

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