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3-10 外道指揮官

 アリフ隊は夕暮れのジャングルを行軍していた。


 橙色の木漏れ日が降り注ぎ、地上に広がる落ち葉の絨毯に陽だまりを広げている。茂みや低木はほとんどなく、所々に倒木が倒れているのを見かける。


 木々が広い間隔を開けてまばらに生えており、ジャングルの遥か遠くまで見渡せる。


 ラフマンは危機感を感じていた。自分たちにとって視界良好な環境は、敵にとっても都合がいい。もしこんなところで、側面挟撃でもされたら──。


 頭を横に振り、嫌な予感を拭う。


 後列の二名の雑談が聞こえた。


「あとちょっとで小休止時間だ」


「こんなところで? まずいだろ」


「アリフならやりそうだな」


 ごくりと固唾をのむ。確かにあいつならやりかねない。開豁地をちゃんと避ける脳味噌は付いているのだから、こんなところで止まらないでくれとラフマンは必死に祈った。


(中隊長殿、ヴィシュヌ様、小休止をお避けください)


 ラフマンは、一本の木に目を引かれた。地上すれすれのところで、斜め上に向かって二つに分かれた木の幹。幹の間から機関銃の銃口が伸びているような光景を想像してしまい、思わず目を背けた。


 地面はフカフカの落ち葉の絨毯。もしこの場所に機関銃をもし置くとしたら、あの木が最適だ。


 ラフマンの心臓は、戦闘時並みに破裂しそうなほど高鳴っていた。


 嫌な予感は、数分後に起きた。


 小休止命令が、前列から下ってきた。

 前列から小さな動揺の声が沸き上がる。


「まじかよ」


「やりやがったなあの馬鹿!」


 カラリヤ湿原でのことがあり、もう完全にアリフ中隊長の信頼は地の底に落ちていた。


 後列から誰かの足音がする。振り返ると、ファディルがか細い両足を早足で進めながら歩いてくるのが見えた。


 相変わらず感情の読めない無表情だが、早足で進んでいるのを見るに内心相当苛立っているとラフマンは察する。


「ファディル少尉殿、あの馬鹿の説教よろしくお願いします!」


「頼みましたよ!」


 やったれ、やったれコールが起きる。

 ファディルは立ち止まり、口を開いた。


「──いいえ」


 水を打ったようにコールが収まり、葉擦れの音が静寂の中に響く。


「ここで行軍停止します」


 は? と島兵たちが動揺したように声を上げる。


「どういうことです?」


「疎林で止まったら危ないでしょう。偵察機が来たらどうするんです?」


 ファディルは開けた木々の隙間を見上げた。


「そのリスクを承知での行軍停止です」


 そう言ってファディルは去っていってしまった。


「ちょっと、ファディル少尉殿!」


「待ってください!」


 ラフマンは遠ざかっていくファディルの背を見つめた。


(クソメガネの奴、何しやがる気だ? アリフ中隊長を止めてくれるんじゃねぇのか?)


 行軍停止からすぐに、前方から横並び整列の命令が伝ってきた。


(整列?)


 ラフマンたちは隊長命令を聞く時の横四列に並んだ。列の先頭にはアリフ中隊長ではなく、ファディルが立つ。


(⋯⋯クソメガネ? 中隊長は?)


 ファディルは呆と遠くを見ながら言った。


「これより、アリフ隊の指揮権は一時的に私に移譲されます」


 動揺する者は一人もいなかった。周りに流れる静寂が、やっと優柔不断中隊長の指揮から逃れられた安堵のように感じられる。今やアリフ隊の隊長は、実質ファディルになったようなものだ。


 その現実に、ラフマン一人だけが唖然としていた。


(クソメガネ、何企んでやがる)


 ラフマンの隣にいるウタリが、不思議そうに訊いてきた。

 

「ねぇ、ファディル何してるの?」


「あいつが隊長さんになるんだ」

 

「タイチョー? アリフチュウタイチョーってお名前と違うの?」


「隊長っていうのは⋯⋯えーと、みんなの先生のことだ」


「何でファディルがみんなの先生になるの?」


「⋯⋯俺も知らん」


 答えようがなかった。

  

 場違いなほど明るい声でウタリはキャッキャと笑う。


「みんなでお勉強するのかな?」


 重苦しい静寂の中、見る者を射抜くような赤い瞳をみんなに向けながらファディルは命じる。


「今から私があなたがたの指揮官です。総員、私の命令に従ってください」


 反対する者はいなかった。沈黙が「了解」と言っているようであった。


「では、今から円型防衛陣を組んで頂きます」


 ファディルの提案した『円型防衛陣』──歩兵で二重の同心円を描き、外周には全方位に銃を構える戦闘兵、内側には観測班、通信兵、衛生兵、負傷兵、非番の砲兵などの非戦闘員が配された。


 万が一の接敵時には、外周の兵が攻撃を担い、弾切れや疲労が限界に達した際には、内周の兵が交代して防衛線を維持する。


 この構造はただの防衛陣ではない。崩れてはならない核を囲う、生ける盾の構造だった。


 そして、防衛陣を解いて撤退する際のフォーメーションもファディルから手短に指導された。


 前から順に、偵察班、前衛、前衛左右翼、中央に非戦闘員、後衛左右翼、後衛、殿が並ぶ。撤退陣形は本来はもっと複雑らしいが、人数が少ないのでかなり簡略化されている。


 撤退フォーメーションの演習が終わると、またラフマンたちは円形防衛陣を組んだ。


 二重丸を描くように並んだ歩兵たちの視線は交わらない。彼らの目は周囲をよく観察している。


 ラフマンはジャングルの果ての暗闇に敵影を探していた。何か蠢くような気配を感じるたびにぞっとするも、ただの枝の揺れだと察して安堵するのを繰り返す。


 ウタリは外周に立つラフマンの正面、円の外から少し離れた場所に配置された。理由は説明されず、ラフマンはウタリを引き戻したくてもできなかった。


 ──クソメガネ、絶対ウタリを使って何かするつもりだ。


 ラフマンはウタリに何か起きた時必ず助けられるよう、身構えていた。


 外周にウタリを置くのは危険だと、先程ヴァレンスはアリフ中隊長に訴えていた。


『中隊長、なぜウタリちゃんを外側に置くのですか! 危険です!』


 アリフ中隊長は突っぱねた。


『指揮権は少尉に移譲した。意見があれば少尉に言え』


 アリフ中隊長があっさり指揮権を移譲したのは、恐らくファディルのほうが自分より部隊統率が優れていると諦めたからだろう。隊長としてあるまじき行いだが、アリフ中隊長に率いられて不安に襲われるのはごめんだった。


 ⋯⋯クソメガネに率いられるのも、十分嫌なのだが。


 背後からぶつぶつ呟く声が聞こえて、ラフマンは後ろを振り返る。背後の円の中央にはファディルとノリの観測班がいる。ノリは目をつむって地に膝をつき、ファディルは周囲を見回して何かを呟いている。


 ファディルは神眼とやらで索敵しているのだろうが、ノリは何をしているのか。神や精霊と交信しているのだろうか。


 防衛陣形を組んでから、十五分後。


 木々がざわめき出し、ウタリが「あっ」と声を上げた。


「声よ⋯⋯声が聞こえるわ」


 ラフマンは訊いた。


「誰の?」


「精霊の声よ」


「なんて言っているんだ?」


 ウタリは無邪気にきゃはははと笑った後、言った。


「ここにいるみんな、もうすぐ肥料になるねって!」


 ラフマンの喉を冷たいものが伝い落ちていく。


 背後からノリの緊迫した声がした。


「森のあちこちから猛烈な憎しみを感じる⋯⋯凄い殺気を含んだ生霊が、こっちにたくさん飛んできてる」


 生霊? ラフマンはノリを振り返る。うっ、と呻いてノリが肩を抱くのが見えた。手の甲に、うっすらと赤黒い痣のようなものが滲んでいた。


「肩やられた。いってぇ」


 見えない何かがノリの肩を攻撃した。ラフマンは震え上がる。


(い、生霊?)


 生霊、それは生きている人間が放つ怒り、憎しみ、恨み、妬みなど負の感情が霊体となったものだと聞く。


 ということは。ラフマンは生霊の正体を察する。


「まさか⋯⋯人間⋯⋯──敵兵かっ」


 ラフマンは正面の夕闇に沈む森を見る。


 緊迫した状況を淡々と実況するようなファディルの声がした。


「全方位半径約百メートル内に生体反応確認。合計百五十名。散開はしていますが、この数で包囲とは。部隊統率も戦術も取れていませんね。もはや部隊とは言えません。蛮族の集団です」


 島兵たちが、獲物を前にした野獣の咆哮のごとく、腹の底から叫び声を上げる。


「きやがったか!」


「かかってこい!」


 島兵たちは血相を変え、全身の血管を浮き上がらせ、歩兵銃を構える。


 彼らが『死兵』へと変わった瞬間だった。


 逃げ場がないと知った瞬間、人は本能を剥き出しにして戦い出す。


 ただ死を見据えた位置取りの中、血反吐を吐きながら全方位に抵抗するのみ。


「お祭りするの?」


 正面に立つウタリが無邪気に訊いてくる。


 ラフマンは答えた。


「⋯⋯そうさ、死の祭りだ」


 子犬のようにいすくむラフマンは歩兵銃を構え、銃剣を夕闇の向こうへ向ける。はるか遠く、橙色の闇が満ちた空間に、黒い人影の群れが見えた。


(きやがった⋯⋯)


 生霊を飛ばしてきた張本人たちが。


 島兵たちの咆哮が収まるのを待っていたように、ファディルが言った。


「敵部隊は百五十人。こちらは負傷兵を含めて五十三人、明らかに兵力差があります。敵は数で押してくるでしょう。正面からでは確実に押し負けます。ならば撹乱しかありません」


 戦闘態勢に切り替わった島兵たちが、拍子抜けしたように訊いた。


「か、撹乱⋯⋯?」


「どうやって?」


 防衛陣形で敵共を滅多刺しにするのではなかったのか、と言いたげに。


 全員が沈黙する。荒い息を吐いていた隣の島兵たちも、唖然としたように口を閉ざしていた。


 彼らの不安を払拭するように、ファディルは淡々と説明する。


「敵の統率を乱し、混乱を誘うのです。敵兵を混乱させるには、彼らの精神を直接揺さぶる必要があります。そうするためには、医薬品と皆さんの協力が必要です」


「え? ウタリもきょーりょくするの?」


 ウタリが意外そうに声を上げる。


 ファディルは命じた。





「医薬品に命じます。今すぐ自分の身体を解体してください。可能であれば顔面半壊、皮膚剥離、内臓露出、眼球摘出もお願いします。損壊箇所は多ければ多いほど良いです」

 



 奴が何を言ったのか頭の処理が追いつかず、ラフマンは唖然とする。


「な⋯⋯何、言って⋯⋯」


 死兵化の熱が冷めていく中、ファディルは急かす。


「時間がありません。医薬品、さっさと自分を解体してください」


 ウタリはうぅ⋯⋯っと呻き、困ったように首を横に振る。


「ハンカイとかカイタイって何? ウタリわかんない」


「わかりませんか? ではみなさん、代わりにお願い致します」


 隣にいた島兵たちがウタリを方を向き、銃剣を向ける。彼らは泥と赤で真っ黒に染まった顔を歪め、血走った目でウタリを睨みつける。


「ウタリちゃん、ごめんね」


 島兵たちはウタリに接近していく。


「何、するの⋯⋯?」


 ウタリが接近してくる島兵たちを見回しながら、怯えたように顔を引きつらせる。


「ひっく、ひっく⋯⋯」


 ウタリは身を縮こめ、発作の前兆のしゃっくりを上げた。


「や、やめろ!」


 咄嗟にラフマンは駆け出し、ウタリの小さな身体を覆うように抱きしめ、島兵たちから庇う。


 ラフマンの肌に伝わる震えが、極限の恐怖に堪えているのを物語っている。


 ウタリは手で口を覆い、頬を膨らませ必死に声が出ないようにしていた。真っ赤に腫れた目縁からは、大粒の涙が伝い落ちる。


 近づいてきた島兵が言った。


「ウタリちゃんが泣いたせいで、鬼がきちゃったんだよ」


 ウタリはラフマンを見上げ、口の中で声を発する。


「ウ⋯⋯タリが、泣いた、せい⋯⋯だよね⋯⋯」


 島兵の嘘を鵜呑みにして、罪悪感に囚われてしまった。ラフマンはウタリの頭を抱え、誤解を解くように叫ぶ。


「違う! お前のせいじゃない!」


 だがウタリは首を横に振り、涙声で呟く。


「ウタリは、悪い子⋯⋯だね⋯⋯」


 一歩一歩接近してくる島兵たちが、なおもウタリの罪悪感を掻き立てるように言う。


「そうだ、ウタリちゃんは悪い子だ」


「泣いたから、おしおきだ」


 目が潰れそうなほどの怒りを眼球に込め、ラフマンは島兵たちを睨む。


「お前ら⋯⋯っ」


 絶対に解体なんてさせない。ラフマンは身を屈めて、ウタリが決して島兵たちの凶刃に触れぬよう守る。


「ウタリ、大丈夫だ」


 罪悪感がラフマンの胸を押し潰していく。

 この子を魔女と決めつけ、冷たく当たってしまった。

 腹を裂かれて泣き叫ぶ彼女を、無視してしまった。

 まだ幼くて生と死の理解もできない彼女の言葉に腹を立て、喉を突き刺してしまった。


「俺が絶対、お前をいじめさせたりなんかしないから⋯⋯」


 今度こそ、ウタリを守らなければ。


 今度こそ、必ず。


 その時、ファディルの棒読みが聞こえた。


「医薬品、大丈夫です、安心してください。鬼退治のためです」 


(お、鬼退治⋯⋯?)


 意味不明な言葉の解釈はせず、ラフマンは鬼畜の所業を命じた《《外道指揮官》》を睨みつけ、上官と知りつつも罵る。


「ファディル少尉殿⋯⋯何をふざけたことを⋯⋯っ!」


 心外だ、というようにファディルは淡々と返した。


「ふざけてなどいません。すべては戦術上の合理性から導かれた演算結果です」


 たかが二等兵の分際でと思いながらも、それでもラフマンは喉から噴き出た怒りの声を浴びせずにはいられなかった。


「この子を解体することの一体何が戦術ですかっ!」


 島兵たちがラフマンの喉元に銃剣を突き付ける。血なまこの狂った目がラフマンを見据えた。


「どけ、ラフマン」


「ウタリを寄越せ」


「撹乱のためだ、仕方ねぇだろ」


 狂った島兵たちは思考を放棄し、ファディルの言いなりになっていた。


 ラフマンは気づく。


 死兵化すら、ファディルの演算通りだったのだ。島兵たちの理性を潰し、狂気に転じさせた。これで自分の命令が通りやすくなるだけでなく、どんな非情な命令にも服従する作用が働く。


 その上で、ファディルはウタリに自分を解体しろと命じた。解体、皮膚剥離、内臓露出など子供にわかりづらい言葉をわざと並べ、すぐ「わからない」と言わせる。


 その上で『わかりませんか?』とあえてファディルはそう質問し、『では代わりに島兵たちが解体してくれ』と命じる。ウタリの「わからない」を「できない」にすり替え、島兵たちに自分たちが解体をやらねばならないという義務を植えつけた。


 いきなり島兵にウタリを解体しろと命じたら、混乱が生じるからだ。


 全て、自発的な暴走に見せかけた誘導だったのだ。


(カラリヤ湿原で敵陣に奇跡的命中した、あの砲撃。あれから、ファディルは みんなに神眼、神眼と讃えられはじめた)


 カラリヤ湿原での逆転勝利で英雄視され、部隊全体の信頼はアリフからファディルに全集中した。島兵たちはファディルに忠誠を誓い、信仰の対象とした。そうした土台をも、ファディルは死兵化による盲目的な服従誘導に利用したのだろう。


 英雄視されているファディルの言葉は、どんなに鬼畜な発言でも島兵たちにとって抗えぬ運命のように感じられてしまう。


(まさか最初から、こうするつもりで円型防衛陣を? ウタリを死兵化した島兵たちに解体させるのも、最初から⋯⋯)


 悪魔以上の何かが目の前にいるようで、ラフマンまでこの狂気に呑み込まれそうになる。


(囚われるな⋯⋯だめだ、だめだ⋯⋯)


 ウタリはすがりつくようにラフマンの腰に小さな手を回し、ぎゅっと抱きしめる。


 その時、ファディルの声が聞こえた。


「十一時の方向、五十メートル先に軽機関銃。十秒後にラフマン二等兵が射線上に晒されます」


 身体が勝手に動き、ラフマンは地に身を伏せた。


「解体が遅れた際の保険として、機関銃の銃口が向く幹の直線延長上に、医薬品を配置した甲斐がありました。丁度いいです、医薬品、あれに撃たれてください」


 頭上を風切り音が通り過ぎ、すぐそばで悲鳴が上がる。


 血と肉片の雨がラフマンに降りかかり、真っ黒に汚れた軍服、歩兵銃を赤く濡らしていく。ラフマンの周りにいた島兵たちが、一瞬にして肉片と化した。


「機関銃で防衛陣に穴を開けてきましたね。でも残念、もう終わりですよ」


 勝利の予感に酔っているようなファディルの傍らで、ラフマンは自分の行動に怯えていた。


(俺は、逃げた⋯⋯)


 ウタリを身代わりにして生き残ったという事実が、胸の奥を焼いた。


 ファディルは解体が遅れた際、ウタリが機関銃に撃たれるようわざと一番危険な外周の離れに配置したのだ。庇うべきだったのに、ウタリを守るより、自分が機関銃に撃たれないことを優先してしまった。


「ラフマン二等兵、生き延びたのですね。医薬品を守る業務はどうしたのですか?」


 罪悪感に追い討ちをかけるようなファディルの声が脳に侵食し、意識を染めていく。ラフマンは耳を塞いで呻いた。私の下僕になりなさい、とその声が誘惑している。


「あ、れ⋯⋯」


 ウタリの声がしてラフマンは顔を上げ、絶句する。


「ウ、ウ、タリ⋯⋯ウタリッ⋯⋯ああ、なんてことを⋯⋯」


 ウタリの顔半分が削げ落ち、片腕はなくなり、右腹部分がえぐれて内臓が飛び出ていた。


 ウタリは欠けた頭を手で押さえる。


「ウタリのお顔、半分ないよ⋯⋯! 目が半分見えない! あれれ、何で? 壊れちゃった。あー、内臓出ちゃってる! 戻んない⋯⋯何で? 何でこうなったの?」


 ウタリは足元に広がる血溜まりを見下ろす。


「ウタリ、お化けみたいになってる⋯⋯」 


 答えるように、ファディルの声がした。


「そうです。私は、あなたに鬼を怖がらせるお化けになってほしかったのですよ」


(お化け?) 


 ラフマンは息を呑んだ。


 ファディルの意図が、ようやく判明した。 


(そうか⋯⋯ただ撹乱するんじゃなくて、ゾンビのような見た目になったウタリを使って、敵部隊を極度の恐怖状態にして戦闘不能にさせるってか)


 人の立ち入らないジャングルの奥地の林に突如現れた、血まみれボロボロのゾンビの子供。見た者が恐怖しないわけがない。


 ウタリを見た敵は息を呑み、銃を下げ、視線が凍りつく。隊列は一瞬で崩れるだろう。


 ラフマンは驚き混じりに呆れる。


 外道指揮官──なんて奴だ。


 幼い子供にもわかりやすいような、平易な言葉でファディルは言った。


「顔が無くなったり、腕がもげてしまった姿をみんなはとても怖がります。もちろん鬼も。だから私は、みんなにあなたをお化けに変身させてほしいと頼んだのですよ」


 ここでわかりやすい言葉に言い換えたということは、やはり最初のウタリへの命令は誘導だったのだ。


 頭の芯が痺れるような感覚に襲われた。


 ウタリはきゃっきゃと笑う。


「ウタリが鬼になって、鬼と鬼ごっこ! なぁんだ、それなら早く言ってよファディル!」


「さぁ、その格好で鬼たちと『鬼ごっこ』をして遊んできてください」


「わかった!」


「あと、そこの飛び散った自分の肉をおなかの中に戻してください。前に、壊れたお皿のお話をしましたよね」


「うん! 覚えてる!」


「早くしないとカサカサになりますよ」


 ウタリは散らばった自分の肉片を拾い、躊躇わずに自分の腹へ戻していく。


 下校する児童を見送る先生のように、ファディルは言った。


「では、いってらっしゃい」


「ウタリ、行ってきます!」 


 ウタリは敵部隊に向かって走り出した。


 ラフマンは怒り半分に問うた。


「班長、なぜ肉片を食べさせたのですか」


「再生コストカットのためです。医薬品が乾燥状態になった時に肉を食べさせたことで再生したプロセスをもとに、自分の肉を食べさせれば眠りまでの時間稼ぎになると推測されたからです」


「コストカット、ですか。道具扱いですね」 


「我が軍の教義は『効率化』『持久戦』です。私はそれに従っただけ。何ら問題はありません」


 遠くからウタリの楽しげな笑い声が響いてきた。



 ◆ ◆ ◆



 ウタリははみ出た内臓の管をなびかせ、きゃははははと笑いながら全速力で走る。半分欠けた頭からは脳汁、脳漿、血が溢れ出し、ウタリの顔をべったり濡らしていく。


 薄暗の中で、人影が立ち止まるのが見えた。島兵たちと同じ逆さ帽子と、長い木の棒を持っている。聞いたことのない言葉も聞こえる。鬼だ。ウタリの遊び相手だ。


 さらに近づくと、鬼の姿がはっきりと見えた。平べったいお顔のラフマンたちとは違う、彫り深い顔立ちだった。髪の毛は金髪や茶色で、目は青や緑。昔村人からもらった、色鮮やかな髪と目を持つ人形にそっくり。顔は真っ黒泥んこだけど。


(お人形さんかな? 可愛いのね)


 ウタリは硬直して動けない鬼に向かって、両腕を上げておちゃらけた声を上げる。 


「お〜ば〜け〜だ〜ぞ〜!」


 鬼たちは大きく目を見開き、一歩ずつ後ろへ下がる。一人が尻もちをついて、おしっこをズボンにしみらせながら後ずさった。


「ギ⋯⋯ギャッ⋯⋯」


 鬼たちは踏まれた猫のような呻き声を上げ、どんどん後ろへ下がっていく。ウタリはじりじりと彼らに近寄り、笑顔の歪みを深めていく。


 どんどん鬼たちの顔も、恐怖に歪んでいく。


「アッ⋯⋯アァァッ⋯⋯!」


「こ〜んにちは〜!」


 怯える彼らに、明るい声で挨拶する。


 恐怖が絶頂に達したかのように、突然鬼たちは大声を上げて背を向け、走り出す。


「ギッ⋯⋯ギャアアアアアアアアアアーッ!」


「きゃはははははははははははははっ!」







 敵兵とウタリの、恐怖の鬼ごっこがはじまった。

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