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「ウタリちゃん、ウタリちゃん!」


 ヴァレンスは茂みに入り、衛生兵たちとともにウタリを探していた。


 小休止終了時間になってからウタリがいないことに気づき、島兵全員で彼女を探した。


 集音マイクを警戒し、声を抑えてウタリを呼ぶ。


「いるなら返事をしてくれ!」


 今頃、茂みに隠れて怯え震えているのかもしれない。


 全身が乾燥しミイラのような姿になったウタリが、泣き喚き暴れる姿がふと脳裏を過る。


 ──かゆい、かゆい、かゆいかゆいかゆいかゆいかゆいぃぃぃっ!


 頭蓋骨の中で繰り返しウタリの金切り声の悲鳴が再生され、ヴァレンスは額を片手に当てて呻いた。


 頭の中で、ウタリが泣き叫んでいるかのよう──


 ヴァレンスは額に当てた手の指先を、頭に食い込ませる。鉛のような重いものが胸に落ち、内臓を軋ませるような感覚を覚えた。


「⋯⋯ウタリちゃん。私は、君になんてことを」


 カラリヤ湿原の戦闘後、敵が敗走し安全が確保された後、衛生隊は負傷兵の回収をした。


 次々と運び込まれる負傷兵の四割が重傷で、助かる見込みはなかった。残り六割の軽傷者も、放っておけば傷口から雑菌が入り高熱や破風症にやられてしまう。ガマン軍医の命令で重傷者たちにはサイレンスを、軽傷者たちにはウタリの血を投与することになった。


 ウタリの血を搾り取ったが、子供の血管は細くなかなか全員分を確保できなかった。その間に軽傷者の泥だらけの傷口には大量のハエが卵を産み付け、高熱病の菌を媒介する蚊が集り出した。血の臭いを嗅ぎつけて狼の群れが来る可能性もあった。


 一刻を争う状況の中、ヴァレンスはウタリのことよりも、目の前で死を待つ命を助けることしか考えられなくなっていた。


 ウタリが暴れ悲鳴を上げることより、大勢の命のほうが何より最優先であった。


 ウタリが乾燥状態から回復しなくなった時、救命行為をしただけだという自己正当化と、周囲から重大な過失を突きつけられたような重圧に板挟みされ、「血を抜いたらなぜか乾燥してしまった」と言い訳するような言葉を吐いてしまった。そうでもしなければ、精神が押し潰されてどうかしてしまいそうだった。


 自分は何も間違ったことをしていないと、自己保身ゆえに釈明したかった──。


 だが、ウタリが心的外傷による感情発作を引き起こしてから、自分の行いが一人の幼い少女の心を取り返しがつかないほど傷つけてしまった現実を突きつけられた。


 それがきっかけとなったのか。ヴァレンスを責めるように、ウタリの泣き声が突発的に脳内で再生されるようになった。


「私は虐げられる君の苦痛を、完全に無視していた⋯⋯」


 ヴァレンスは固く目をつむり、両手の拳を握り締める。あの時、泣き叫ぶウタリに対し「血が足りないんだ」と言って血を搾り抜いた自分を、この手で押し潰してしまいたかった。


「ヴァレンス衛生隊長殿⋯⋯大丈夫ですか」


 一人の衛生兵が背後から呼びかける。彼の「大丈夫ですか」には、重苦しい響きがあった。ウタリが乾燥状態になってから、衛生隊は罪悪感に囚われていた。


 ヴァレンスは振り返らずに言った。


「このまま、見つけなくていいかもしれん」


 見つければまた、ウタリの血を抜かなければならないだろう。軽傷者も時間が経てば高熱や蛆虫で重傷者と化す。


 しかし、心的外傷を負った幼子をさらに搾取することを、今の自分ができるかどうかはわからなかった──


 ⋯⋯いや本音としては、できればしたくない。


「いたぞ!」


 遠くから声がして、ヴァレンスの淡い逃避願望はすぐさま崩れ去った。


 ヴァレンスは項垂れ、呆然と茂みに埋もれた足元を見下ろす。ウタリはまた『献血体』として血を搾り抜かれるのだ。


 献血体──衛生隊が勝手に付けた非人間的ラベルでウタリのことを呼ぶのは、ヴァレンスの心を深くえぐる。だがそう呼ばないと今度は、ウタリちゃんという一人の少女を意識してしまい、衛生兵たちも余計に疲弊する。


(⋯⋯逃げてくれ、ウタリちゃん)


 今度こそは、と密かに心の中で祈る。


 どの道アリフ隊は、あと数日もすれば壊滅することだろう。そんな余命わずかな集団のために、これ以上ウタリが苦痛を味わう必要はないのだから。


 やって来た別の衛生兵が「行軍開始」とだけ言って去っていく。


 ヴァレンスは身のうちにどす黒い何かが溜まっていくのを感じながら、踵を返して隊列に戻った。


 茂みに出来た一本の獣道に、島兵たちが列を成している。彼らの顔向きが一点に集中していた。列の横、そこにいたのは──


 ファディルとウタリ、銀髪赤目の二人だった。


 二人並ぶと、異質さが際立つ。


 ファディルがこちらを見た。人形のように整いすぎた不気味な顔を見た時、怒りよりもぞわりと鳥肌が立つ。


 自分より十三も年下の若造ごときに動揺するな、と自分を奮い立たせてヴァレンスはファディルの前に立った。


「見つけてくれて光栄だ、少尉。ウタリちゃんは衛生隊が預かる。貴様は持ち場へ戻れ」


 ウタリからこの青年を早く引き離したい一心でヴァレンスは威圧感ある声色でそう命じたが、ファディルは目を背けた。


「おい、聞いているのか少尉」


 ファディルはヴァレンスを一瞥することもなく、棒読みで言った。


「医薬品を暴行したスティーブ二等兵、フレイド二等兵はこちらへ来てください」


 医薬品、確かファディルが付けたウタリへの蔑称だ。つまり──


 最悪極まりない事態が起きたことに、ヴァレンスも衛生兵たちも言葉を無くして呆然とする。


(ウタリちゃんが、暴行されただと⋯⋯?)


 ウタリは泣き腫らした真っ赤な顔で、片手で唇をつまみしゃっくりをするようにヒッヒッとくぐもった声を繰り返している。着物に付着している血は赤く、酸化していないのを見るに新しいものだ。暴行された後らしいのは一目瞭然だった。


 こんな、小さくてか弱い子供を。


 黒いもやに満ちていた胸のうちに、燃えるような熱が広がっていく。


 やがてスティーブ二等兵とフレイド二等兵二名が、緊張に表情を強張らせながらファディルの前にやって来た。


 爆発しそうになる怒りをなんとか堪えながら、ヴァレンスは二人に命じた。


「貴様ら、並んで歯を食いしばれ!」


 鉄拳制裁では済まされない。拳銃の銃弾を撃ち込んでやっても構わなかった。


 ファディルが手でヴァレンスを制し、二人に言った。


「スティーブ二等兵、フレイド二等兵、医薬品を暴行して頂き誠にありがとうございます」


 ファディルが何を言ったのか一瞬理解できず、ヴァレンスは唖然として握りしめていた鉄拳を解いた。


「少尉。貴様、今なんと言った? ありがとうございます、だと?」


 二人も驚きを隠せないような表情で、ファディルを見つめていた。


 沈黙の中、ウタリのヒッヒッという苦しげな声が響く。


 静寂を裂くように、ファディルが口を開いた。


「ヴァレンス衛生隊長殿」


 ファディルが眼鏡越しの赤い瞳でヴァレンスを見て、言った。


「医薬品の泣き声が集音マイクに拾われ、敵兵を誘き寄せることを知りながらあなたは何の対策もしなかった。衛生隊に医薬品を預ければ、アリフ隊は危険に晒されます」


 図星を突かれ、身体の中を鋭い何かで刺されたような衝撃が走り、ヴァレンスは僅かに肩を跳ね上がらせた。


 確かにウタリの甲高くて大きな泣き声が集音マイクに拾われるリスクを、ヴァレンスも知っていた。それでも何もしなかったのは、心的外傷による感情発作は止めようがないからどうしようもないという諦めがあったからだ。


 ヴァレンスは視線を足元に落とし、言葉を詰まらせながら弁解する。


「ウタリちゃんは泣きたくて泣いているんじゃない⋯⋯心的外傷性の神経症で勝手に泣き声を上げてしまうんだ。この神経症は投薬と度重なるカウンセリングを受けても一時的に症状を抑えられるだけで、根本的な治療にはならない一生ものの後遺症だ。対策の取りようなど──」


 間髪入れずファディルは言う。


「唇を縫合するか、声帯に異物を詰める。泣き声を抑える方法など、いくらでもありました。医薬品は不死身で無痛覚、腹を裂いても平気なのです。ならば、縫うことも詰めることも何ら問題ではありません」


 ファディルの言葉を聞いた瞬間、胃の底が裏返るような吐き気が走った。この青年の頭蓋の中には、人間の思考が本当に詰まっているのか。


 島兵たちが口々に言う。


「そうですよ、衛生隊長殿。ファディル少尉殿の言う通りです」


「ウタリちゃんは不死身で無痛覚なんでしょう? 飯も食わないみたいだし、だったら口縫ったって全然平気でしょうよ」


 背後で島兵たちが小さな笑い声を上げて、ファディルを援護する。


 その瞬間、隊列全体へ嘲笑が伝染っていくような気配を覚えた。


 そういうことではないと反論をぶつけたい衝動に駆られるも、だがリスクを鑑みながらも何もしなかった事実を無視できず、ヴァレンスは喉に突き上げた言葉を飲み込む。


 衛生兵たちも、冷笑に呑み込まれたように黙り込んでいた。まさか彼らもファディルに同意したのか、という疑念が頭をもたげる。


 ファディルを援護する者たちに包囲されるような孤立無援感に襲われた。そんなヴァレンスを更に追い詰めるかのように、ファディルはウタリのほうを向いて言った。


「彼らが医薬品を暴行してくださったおかげで、見ての通り、医薬品は自ら口を押さえて泣き止むことができたのです。何もされなければ、医薬品はひたすら泣き続けていた。泣き止ませるのに、暴行は非常に有効な手段です」


 ファディルは横目でヴァレンスを一瞥し、問う。


「⋯⋯そうでしょう、ヴァレンス衛生隊長殿?」


 あなたはウタリを暴行した島兵より役立たずで無能ですね、という冷笑がその問いに含まれていた。焼けるような熱が全身の毛穴から噴き上がるも、脳内で言葉が繋がらず、ヴァレンスは唇を固く結んで沈黙するしかなかった。


 突然、周りから声を押さえた小さな囁き声が聞こえてきた。


「よくやった、スティーブ、フレイド」


「これでうるせえ泣き声聞かずに安心して寝れるよ」


 ファディルがヴァレンスの無策を指摘して口ごもらせたことにより、島兵たちはずっと胸のうちに押さえ込んできた鬱憤を晴らす機会を得て、称賛を送ったのだろう。


(まさか、最初からこうさせるために⋯⋯)


 全てファディルの打算の上で起きている出来事なのでは、とヴァレンスは薄っすらと察する。


 島兵たちに褒められた二人は、子供のように照れ笑いを浮かべていた。その笑顔を見た瞬間、ヴァレンスの背筋に寒気が這い上がった。


 怒りを忘れ、ヴァレンスはただただ怖気に呑まれることしかできなかった。


 ヒッヒッと呻いていたウタリが口から手を離し、拍手を送られる二人のほうを向く。


「しま、へ⋯⋯さ、ん⋯⋯」


 ひっくひっくと発作の前触れのしゃっくりをし、涙を流しながらウタリは掠れた声で言った。





「ウタリを⋯⋯いじめて、くれ、て⋯⋯ありが、と⋯⋯」





 ヴァレンスは首を横に振り、ウタリに向かって手を伸ばす。


「ウタリちゃん、違う⋯⋯それは、違う⋯⋯っ」


 それしか言葉にできなかった。


 島兵たちがまた拍手する。


「ウタリちゃん、こちらこそありがとう!」


 ウタリがヴァレンスのほうを向き、にっこり笑みを浮かべて言った。


「おい⋯⋯しゃ、さんも、ウタリのお腹開けてくれて、ありが、と⋯⋯」


 ヴァレンスは呆然とウタリを見つめることしかできなくなっていた。


 ウタリの瞳は涙で濡れながらも、どこか安心したように澄んでいた。



 ◆ ◆ ◆


 

 日が沈んでいき、頭上から見える空が橙色に染まっていく。


 ラフマンはウタリを背負いながら、背を屈めて老人のように歩いていた。極度の疲労が蓄積した身体にウタリの体重がのしかかり、擦り減った関節に重圧をかける。何度も転びそうになったが、落伍兵になったらウタリを背負ってやれないと自分を奮い立たせ、ラフマンは額から脂汗を垂れ流し歩き続けた。


 周りの島兵たちも木の棒を杖代わりし、或いは仲間の肩を借りてよたよたと歩いている。時々誰かが茂みの中に倒れるも、みんな無視して進んでいく。落伍兵のことを誰も気にしていなかった。ラフマンも茂みに倒れた奴を見ても、歩くことでいっぱいいっぱいで、手を差し伸べる余裕はなかった。

 

 ウタリは全体重をラフマンに預け、背中に顔を埋めていた。まるで、世界を見たくないというように。


「ウタリちゃん、血くれよ」


 どこからか島兵の声がした。


 ウタリがヒッと小さく声を上げ、両足が激しくガクガクと震え出す。発作の前兆だ。刺激しやがって、怖がるだろうがとラフマンは舌打ちし、背中越しに感じるその震えを必死で受け止めた。


 ウタリはヒッヒッとくぐもった声を上げた。手で自分の口を押さえたらしい。泣いたらいけないと必死に堪えているのが背中越しに伝わってきて、無力感と苛立ちにラフマンは歯を食いしばることしかできなかった。


「ウタリちゃん、泣いたらまた身体バラバラにしてカサカサにするぞ」


 疲れきって乾いた、笑い混じりの声が上がる。


 静かにしろボケ、と誰かが突っ込む。


 集音マイクを恐れるあまり、泣き止ませるためならウタリに何をしてもいい、という空気がアリフ隊に流れていた。


(俺が倒れたら、ウタリはこいつらに虐待される)


 ウタリを守ってやらなきゃ、とラフマンは決意を新たにした。



 ◆ ◆ ◆



 行軍開始から四時間後の夕暮れ。


 隊列の後方に並ぶファディルは、青い光の柱が浮き立つ地図を見ながら現在地を確認していた。光の柱が示す現在地は、昼の月と太陽の角度、木々の影の傾きから目が割り出したものだ。


 アリフ隊は、西側を大蛇のようにくねる河と、東側を連峰に挟まれた林を進んでいた。ここを抜ければ、最短距離でカイラス岳の麓に出られる。


 周囲の木々の密度は低く、見上げれば空がところどころぽっかりと開いている。偵察機が通り過ぎれば、すぐさま場所を特定させる恐れがあった。


 それでも迂回できないのは、林帯を広範囲に渡って包囲する河と山が障壁になっているからである。河は幅広く、舟がなければ渡れない。疲弊しきった部隊では山を越えることもできない。


 林帯を回避するには長い河に沿って長距離の迂回をする他ないのだが、これでは島兵たちに無駄な消耗を強いるだけだ。


 リスクを承知でも、最短ルートを進むべきだ。


 しかし、別の大きな問題が一つ──。


 ファディルは周囲を見渡した。腰が隠れるほどの濃厚な茂みが、林の遥か彼方まで広がっている。


(ここでは、撃退作戦を遂行できません)


 撃退作戦は、機動力の出せる地形でなければ効果を発揮できないデメリットがあった。茂みがほとんどなく、木々も林以上に少ない場所が最適である。だが遮蔽物が極端に少ない場所に出れば偵察機に見つかり、軽爆撃機が飛んできてアリフ隊が一掃される可能性があった。


 薄暮は昼間に比べれば視界不良とはいえ、まだ爆撃機は飛べる時間帯である。


 一番メリットのある場所に大きなデメリットありという、ジレンマに頭の演算が全く機能しなかった。デメリット解消の対策を演算しても数式が途中で途切れ、霧散し、式が全く繋がらない。頭痛と疲労に身体を押し潰されてふらつき、ファディルは頭を抱える。


(一体、どうすれば⋯⋯)


 突然、地図上の光の柱が現在地から少し離れた場所へ移動した。ファディルは目を見開いて、勝手に動いた柱を見つめる。こんなことは今までなかった。


 頭の中に、綺麗に並んだ数式が浮かび上がる。作戦の内容を演算する式だ。その中に──


 調和+綻び+修正


 あの変数が混じっていた。


 まさか、変数が勝手に柱の位置を変えたのかとファディルは察する。これのせいで、通常ではありえない動作を引き起こしたのでは。


 光の柱が示す場所は、林帯から北東に広がる『疎林』地帯であった。林以上に遮蔽物の少ない場所だ。機動力を出せるのは間違いない。


(疎林⋯⋯)


 地図上の疎林地帯には赤字で✕と付けられている。敵から丸見えの地の利状もっとも不利な場所であり、立ち入り禁止区域とされている。行くのはあまりにも危険すぎる。


(調和と綻びと修正の変数よ、疎林へ行けというのですか)


 だが、追撃部隊はアリフ隊と徐々に距離を詰めてきている。状況は一刻を争う。


 その時、脳内の作戦内容の演算式が砂煙のように霧散し、新しい式が現れる。機動力を演算する式だ。


 長い長い式の語尾の=には──


 成功率九九九・九%


 と、書かれていた。


(成功率、九九九・九%⋯⋯)


 つまり、疎林へ行けば必ず作戦は成功するということである。


 機動力の演算式が霧散し、今度は疎林へ行かなかった場合の式が脳内に書かれていく。


 =成功率〇・〇〇〇〇〇〇〇〇一%


 必ず失敗する、ということだろう。


 メリットとデメリットに板挟みされ、身体を狭い場所に閉じ込められるような窮屈感に襲われながら、ファディルは決断を踏み止まる。


(何が何でも疎林へ行け、と? 万が一空から見つかったらおしまいです)


 しかし疎林が機動力抜群であるのは間違いないのだ。


 ファディルは助けを求めるように、隣を歩くノリを呼んだ。


「ノリ⋯⋯」


「演算で混乱してるみたいだね」


 ノリは時々、ファディルの内心を見透かすような発言をする。何も言っていないのに核心を突かれたことに驚くも、ファディルはなぜか内心を見透かされて安心感を覚えるのだった。


「その通りです。医薬品を鹵獲してから、演算式に『調和+綻び+修正』という気味の悪い変数が混じることが増えたのです」


 ノリは暫し黙り込んでから、口を開いた。


「それはね、班長がみんなの『生きたい』という祈りを無意識的に受信して、救済しようとするから出てくるものだよ」


 祈りという非論理的なものを自分が知らず知らずのうちに受け取っている? いつもの意味不明なノリの発言に、ファディルは呆れ混じりの溜め息を付く。


「祈りを受信、ですって⋯⋯?」


「班長には見えないけど、僕には見えるよ。みんなから祈りの念が飛び出して、班長のところへ集まっていくのを。それを班長が知らない間に受け取っているのもね」


 確信でもあるかのように、ノリの声色には芯があった。


「ウタリちゃんと出会ってから調和と綻びと修正の変数が出るようになったのは、生贄の対価が釣り合っているからさ」


「生贄の対価?」


 ノリは何かまずいことを言ってしまったというようにハッと息を呑み、にっこり笑って言った。


「あ〜、ここは言ってもわかんないね。ごめんね、変なこと言って」


 何かをごまかすような言い方だった。


「でしたら最初から言わないで頂きたい」


「ごめんごめん、悪かったよ」


 ノリは苦笑するように言って笑みを消し、俯いて重苦しい声で呟く。


「それにしても、なんとも残酷極まりない救済方法だね。心に傷を負った子供をさらに虐げるだなんて」 


「どこが残酷なのです? 医薬品は不死身ですよ?」


 ノリは首を横に振る。


「そうじゃないよ。心にも傷を負うって、わかんないか。ウタリちゃんは確かに不死身だけど、心までは不死身じゃなくて、傷ついたら二度と元に戻らないんだ。うん、班長の頭じゃあ、理解できないのは仕方ねぇわな」


 これ以上意味不明な話には付き合っていられない。


「とにかく、アリフ中隊長に、疎林へ向かうよう説得するしかありません。作戦内容及び追撃部隊が迫っていることも打ち明けます」


「全部、中隊長にばらすの?」


「はい」


 ノリは顔を上げ、何かを考えるように天を仰いだ。


「ほんとかよ⋯⋯却下されなきゃいいけど」


「アリフ中隊長が、追撃部隊が迫っていると打ち明けられても作戦案を却下するような馬鹿ではないことを祈ります」


 ノリの口元に笑みが浮かぶ。


「そうだね。僕も祈ってる」



 



 疎林付近へたどり着いた頃には、太陽が山の峰へ沈もうとしていた。早くしなければ日没を迎えてしまう。


 小休止命令が出た時、ファディルは最前列のアリフ中隊長のところへ向かい、上申した。


「アリフ中隊長殿⋯⋯重大な報告がございます。隊列から離れた所でお話できますか?」


 アリフ中隊長は無言で立ち上がり、隊列から少し離れたところにある倒れた丸太に腰を下ろした。彼は疲れ切った顔で、ファディルを見上げた。


「少尉、ここは疎林だ。なぜ立ち入り禁止区域へ入った」


 疲弊し掠れた声でアリフ中隊長はファディルを問い詰める。


 ファディルは、彼にずっと隠していた事実を打ち明けた。


「現在、敵追撃部隊が約五百メートル付近まで接近中です」


 アリフ中隊長は目を見開いて表情を強張らせる。


「なぜそのことを言わなかった?」


「部隊が混乱し、自暴自棄になった者たちが自決や争いを起こすと予想したからです」


 ファディルは獣道に延々と続く島兵たちの隊列を見た。総員五十三名。次々と落伍兵が発生し、置き去りにしてきた結果さらに減少してしまった。


「このまま行軍し続ければ疲労困憊で落伍兵が続出し、行軍速度も低下します。そこで──敵追撃部隊を撃退する作戦を疎林にて実行したいのです」


「なぜ疎林なのだ?」


 ファディルはアリフ中隊長を無表情で見下ろしながら、念を押すように言った。


「本作戦には機動力が必須だからです。遮蔽物が極端に少ない、視界良好な場所でなければ絶対に成功できません。疎林が危険なのは存じております。それでも、行軍を続けて追撃部隊に追いつかれるよりはましです。生存率は、作戦を実行したほうが遥かに高いです。いかがなさいますか、アリフ中隊長殿」


 アリフ中隊長は片手で額を押さえて俯く。


「⋯⋯で、その作戦内容とは?」


 ファディルは作戦内容を打ち明ける。話すうちにアリフ中隊長の顔が強張っていき、彼の全身から青い生体反応粒子が炎のように噴き上がった。何を怖がっているのか、ファディルには全く理解できなかった。


 アリフ中隊長の顔から血の気が引き、乾いた唇が震える。


「そんな悪魔のような作戦を、私にやれというのか⋯⋯!」


 彼は嘆くように言った。


「残酷すぎる。あんまりだ。そんな非人道的極まりないことを、口にするのもできん⋯⋯」


 アリフ中隊長は目を頑なにつむり、呻くように言った。


「⋯⋯私には、到底できない」


 到底できない。それは中隊長の機能不全を示した瞬間であった。


「優柔不断なあなたでは無理なようですね。では、私に再度一時的に指揮権を譲って頂けますでしょうか?」


 指揮権の移譲。それはファディルがアリフ隊全員の命運を握ることである。


 アリフ中隊長は頭を抱えたままファディルを見上げ、呆然として黙り込む。いつまでも答えようとしない彼を、ファディルは尚も追い詰めた。


「悩んでいる暇はありません。追撃部隊との距離は、徐々に縮まってきているのですよ。⋯⋯ご決断を」


 アリフ中隊長は俯き、数秒の沈黙の後、「移譲する」と呟いた。


 アリフ隊の指揮権は、一時的にファディルに移譲された。


「少尉、貴様には自決を思い留めさせられた。敵の処刑の際には、代わりに命令を出してくれた。貴様なら、きっと上手くやってくれると信じている」


 自決防止と敵の処刑が、偶然にも指揮権移譲を後押ししてくれたようである。実に好都合だった。


(これで作戦実行可能になりました)


 ファディルは林の遥か遠くを拡大視し、約四百メートルまで迫った敵追撃部隊を見た。


(これより、撃退作戦を実行致します。私たちに二度と近づけないよう、あなたがたに一生消えることのない凄まじい恐怖を植え付けて差し上げます)

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