3-7 心的外傷
私のせいだ──
まるで罪の告白をするように、重苦しい声色でヴァレンスは言った。
あの時、ヴァレンスたちが泣きじゃくるウタリを拘束し無理矢理採血していたのを、ラフマンは黙って見ていた。そして助けを求めるウタリを無視して、去っていった。
あの時は、ざまぁみろと思った。魔女が苦しむ姿は、むしろ愉快ですらあった。
だが、ウタリが魔女ではないと知った今、無視したことは大岩のように巨大な罪悪感の塊となって胸を軋ませていた。肺が潰れたように息苦しいのは、歩きすぎたせいだけではない。
自分のように罪悪感に押し潰されているのは、ヴァレンスも同じだろう。
ラフマンとヴァレンスのやったことは異なるが、ウタリの苦しみを無視してしまったという全く同じ心境にいる。自分にヴァレンスを咎める資格も、安易に慰める言葉もない。
ラフマンはただ黙り込んで、ヴァレンスと罪悪感の共有に浸ることしかできなかった。
しかし徐々に重苦しい沈黙に耐えられなくなり、ラフマンは口を開く。
「その⋯⋯心的外傷というのは、治るのですか」
ヴァレンスは黙り込んだ後、首を横に振った。
「一度深く傷ついた心が完全に戻ることはない。最悪、一生治らない」
ヴァレンスは、必死に治療をしただけだ。ウタリの痒みを訴える悲鳴を無視してでも、目の前の救える命を優先した。
わかっているのに──。
小さな身体に刻み込まれた見えない傷を、ラフマンは想像してしまう。
自分たちは、ウタリの心を踏みにじった。人格を、人間性を、ズタズタに引き裂いた。
「一生⋯⋯」
「これからずっと、元気そうにしていても、笑っていても、突然思い出して泣き出すだろう」
「そんな⋯⋯」
ヴァレンスはウタリから目を背けた。
「残念だが、心につける薬はない。治す方法は、ない」
ラフマンは拳を握りしめた。
それでも、誰かに治してほしいと祈らずにはいられなかった。
どこからか誰かの視線を感じた。複数の視線の中でも強烈で、肌に突き刺さるような誰かの眼差しを。周囲を回すと、月光の降りそそぐ茂みの遠くから、こちらを双眼鏡で見る銀髪のあいつがいた。
(クソメガネ⋯⋯)
またウタリを観察している。なぜあんなにもウタリに興味を持つのか、ラフマンはわからず鳥肌が立つ。
◆ ◆ ◆
「一度深く傷ついた心が完全に戻ることはない。最悪、一生治らない⋯⋯残念だが、心につける薬はない。治す方法は、ない⋯⋯ですって。医者が言うならそうなのでしょうね」
ヴァレンスの口の動きと発声時の空気粒子の揺らぎから、ファディルは彼の発言を読み取った。
「治らない、とは困ったものです。夜中の医薬品の泣き声の粒子は、約十メートル以上の広範囲に広がります。普通の声の倍以上です。集音マイクに拾われる可能性は非常に高い」
ファディルの足元にしゃがみこみ、ノリは目を閉じて索敵していた。
「それも大変だけど、もっと大変なのは
⋯⋯」
「わかっています。厄介者ども、懲りずに付いてきていますね」
ファディルは木立の向こうへ目を向け、遥か遠くの三キロ以上先まで拡大視する。
茂みの中を、よろよろ草を掻き分けながら進む敵影が見えた。
「医薬品の泣き声もですが、あちらも深刻です」
「どれぐらいで追いつかれそう?」
「そうですね。今のままでは、三日後に追いつかれ、二時間の交戦で壊滅。生存率は百分の一以下です」
「三日か⋯⋯」
「生体反応粒子を見る限りあちらもかなり消耗しているようですし、こちらへの到達時刻が延びる可能性もありますが」
「でも、このままじゃいずれ必ず追いつかれる。どーすりゃいいんだか」
ノリは困ったように頭を抱える。
「追撃部隊のこと、アリフ中隊長に言わないの?」
「部隊の混乱を招きます。島兵たちがもう助からないと自暴自棄になって取り乱し、自決するか仲間を射殺する最悪の事態が発生する可能性があります」
「心の傷も治らない、敵も避けられない、でも⋯⋯それでも逃げ道を考えなきゃ」
「小休止をこまめに挟んで進軍するだけでは疲労が増す一方です。敵を追い払えられればいいのですが、今のところいい撹乱方法が思いつきません」
「撹乱、ね」
「そして撹乱を実行したとしても、敵が混乱するのはわずかな間のみです。すぐに落ち着いて、攻撃再開してきます。今生き残っている七十名は、あっという間に壊滅でしょう。しかし、撹乱以外やられることはありません」
ファディルは双眼鏡を下ろし、目眩でふらつく頭を抱えた。一睡せず索敵に目を酷使したせいで、体力も気力も限界値に達していた。
「班長、無理しないで」
「いえ、まだ接近速度を測らなければ」
「休んでていいから。少し寝な」
ファディルは腰を下ろし、木に寄りかかる。
ノリを見上げると、彼は目の開いてぐるりと周囲を見回していた。
「⋯⋯斥候が、僕らの周りにたくさんいる」
言葉だけ聞けばふざけているが、ノリの生体反応粒子を見ると高濃度の『恐怖』『緊張』の粒子を発しており、冗談には思えなかった。
(あなたには何が見えているのですか、ノリ)
前列から進軍開始、という指示が伝わってきて、ファディルは疲労困憊で鉛のように重い身体を引きずるように歩き出し、列に戻った。
◆ ◆ ◆
誰かの笑い声で、ラフマンは目を覚ました。頭上から淡い木漏れ日が降り注ぎ、茂みの隙間に陽だまりを映し出している。
一晩中一睡できず睡魔が我慢の限界に達し、小休止命令が出た途端に寝落ちしてしまったようだ。慌てて周囲を見回し、ウタリを探す。
「きゃはははは! 虫さんいっぱい集まってる! ジュース飲んでる!」
ウタリの笑い声がするほうを見ると、彼女は一本の木をしゃがみこんでじっと見つめていた。木の樹液にクワガタ、カブトムシ、カナブンが寄り集まっている。
ウタリのあどけない笑顔に、違和感を覚える。彼女は一生消えないほどの深い心の傷を負ったはずだ。夜中あれだけ暴れて泣きじゃくっていたのに、嘘のようにケロッとしている。
──これからずっと、元気そうにしていても、笑っていても、突然何かをきっかけに思い出して泣き出すだろう。
ヴァレンスの言葉を思い出し、腑に落ちる。
今は元気しているが、何かをきっかけに突然泣き出す。楽しそうに笑っていても、油断はできないということだ。
「何やっているんだ、ウタリ」
這うようにそっと近づいてみると、ウタリがこちらを振り返き、びくりと大きく肩を弾ませた。
ウタリの笑顔がすっと消える。彼女は表情を強張らせながら数歩後退った。目をこぼれ落ちんばかりに見開き、唇を、四肢を震わせ、腹を両手で押さえる。
ヴァレンスにこじ開けられた腹を庇うように。
明らかに酷く怯えた様子で、ウタリはラフマンを黙って見つめる。
発作の前触れかもしれない。まずい。下手に刺激すればまた泣き出す。
俺だ、怖くない。そう声を出しかけたが、それすら刺激になりそうで言葉を飲む。
心臓を高鳴らせ、ラフマンは黙ってウタリを見つめることしかできなかった。
やがてウタリの震えが止まり、ぎこちない笑みを浮かべて訊いてきた。
「ラ、ラフマン⋯⋯どうしたの?」
「いや⋯⋯」
刺激しない言葉を必死に選ぶ。咄嗟に出たのは「遊ぼう」の一言だった。ウタリは目をぱっちり見開き、頷く。
「うん、いいよ!」
花がぱっと咲いたような笑顔に、一瞬ラフマンも表情をほころばせてしまうも、あの笑顔の裏にズタズタの傷跡があるのを意識して笑みを消した。
ウタリが駆け寄って来て、手を握りしめる。
「虫さんたちが木のジュース飲んでるの。見て?」
ラフマンとウタリは並び、木の樹液に群がる虫たちを眺めた。
「何で木からジュース出てるの?」
「これは樹液っていうんだ」
「ジュエキ?」
「ジュエキってのは⋯⋯うーん、何かわかんねぇけど、まぁジュースの名前だよ。甘くて美味しいから虫さん達は好きなんだ」
「そっかぁ。ウタリの血とどっち美味しいかな?」
ウタリは着物の懐から小さな刃物を取り出し、自分の腕に当てる。背筋を悪寒が走った。やめろ、と制止する言葉が出かかるも、ウタリの刃物を持つ手が震え出すのが見えて呑み込む。
「あ⋯⋯ああっ⋯⋯」
ウタリが今にも泣きそうな声を上げた。まずい、発作が起きる。そう察して刃物を取り上げ、ラフマンは優しく「はい、深呼吸、深呼吸」と言う。ウタリは言われた通りに深呼吸を繰り返し、落ち着いた。
「ウタリ⋯⋯何でかな? 腕切るの怖い。何で? 何で? できないの、おかしい⋯⋯」
いつも当たり前にやっていたことができなくなっている恐怖に、ウタリ自身も驚いているようだった。
ラフマンは呻くように声を震わせながら、足元の落ち葉をぐしゃりと握り締める。この子に刻んでしまった傷が、こんな形で現れるとは。
ウタリは刃物を通し、涙を流す。
「これじゃあ、お絵描きできないよ⋯⋯」
ラフマンは、行軍途中にウタリが石に血で絵を描いていたことを思い出す。あれは、彼女にとって唯一の癒しだったのだろう。それすらトラウマにより恐怖にすり替わってしまった。
心的外傷の重さをラフマンは改めて思い知り、深い虚脱感に襲われて項垂れる。そんなラフマンを咎めるように心の声が聞こえてくる。仕方なかった、衛生隊も必死だった、と。
多くの負傷兵が助かったのと引き換えに、ウタリの心は取り返しの付かないほど深く傷ついてしまった。
ウタリが呟く。
「お絵描き、怖い⋯⋯」
お絵描き──ウタリの心の安全基地さえ、地獄に変わった瞬間だった。
ウタリはひっく、ひっくと嗚咽を上げて一拍の間を置いてから、火の付いたような勢いで泣き出した。
ラフマンは慌ててウタリを抱きしめ、口を手で塞いで頭を撫でてやる。腕の中でウタリは痙攣するように全身を硬直させ、身体を仰け反らせ、白目をむき、ガクガクと震えながらわんわん泣きじゃくる。
「かゆい、かゆいっ、かゆいかゆいかゆいぃぃぃ⋯⋯っ」
誰かが苛立ち混じりにラフマンを咎める。
「ラフマン、止めろよ」
「泣かすなよ」
「全く毎度毎度うるせぇな」
島兵たちもウタリの泣き声に一晩中神経をすり減らし、限界だった。
一人がみんなを止める。
「やめろよ。ウタリちゃん、まだ小さいのに勝手に連れ回されたあげくお腹切り開かれたんだぞ。そりゃ⋯⋯おかしくもなるよ」
止めた島兵に周りの冷たい視線が投げかけられる。
「てめぇ、ウタリの泣き声でみんな全滅してもいいってのかよ」
「で、でも⋯⋯」
語尾を濁して、優しい彼は黙り込んでしまった。
島兵たちにとって、ウタリも憎むべき敵になっていた。
ラフマンは島兵たちからウタリを庇うように、泣いて暴れる彼女をぎゅっと抱き締めた。
◆ ◆ ◆
ウタリはラフマンにおんぶしてもらいながら、ジャングルの中を進んでいた。
木漏れ日が火のように熱くなり、空気もお鍋の中みたいにほかほかしてきた。ラフマンの泥んこ服があっかくなってくる。ウタリはラフマンの肩に顔を埋めながら、目をぎゅっとつむっていた。
目に入るもの全てが怖かった。ジャングルの中に絡み合うように伸びるツタも、刃物のように尖った葉っぱも、細長くて鋭い枝も、全部ウタリの肌を刷毛で撫でるようにぞわぞわさせる。
ラフマンと出会ってジャングルを冒険した時は、全てが宝物みたいに見えていたのに、今ではおばけの巣食う魔の森のようだった。
ちょっとでも目を開けたら、枝や葉っぱが刃物と重なって見えてしまうかもしれない。
枝に足が擦れて、勝手に足がビクンッと飛び跳ねて、ウタリは自分自身驚いた。擦れた部分から、うっすらかゆみが広がってきてウタリは手で足を激しく引っ掻く。指先が濡れてきた。血が出るぐらい引っ掻いたのだろう。
ラフマンが肩越しからウタリの頭を撫でてくれる。大きくてごわごわした手が、あったかくてウタリは少し身体の強張りを緩めた。
ラフマンの手が、おばけの森を明るく照らすランプのように感じられる。
けれどそのランプも、時々ふっと消えてしまう気がして、ウタリはぎゅっと服を掴んだ。
ショーキューシ、と前から順に声が伝わってきた。お休み時間だ。全員が立ち止まり、ゆっくり腰を下ろす。ウタリはラフマンの背中にぴったり貼り付いたまま、離れなかった。
「あ、いいもの見つけた」
ラフマンがそう言って、草をガサガサする音が聞こえた。
「ウタリ」
鼻先に何かの草を押し当てられた。お花のすっきりした甘い匂いがする。うっすら目を開けると、水色の綺麗な花が目の前にあった。
「これ、なぁに?」
「セルクツユクサ。服に色を付けるのに使われる花だよ」
「服に、色?」
「花を擦ったら、青い絵の具が出てくるんだ」
「絵の具!?」
ラフマンは花を指で擦った。指先が青く染まり、ウタリは目を丸くする。
「ほんとだ! 絵の具出てきた!」
ラフマンがくすっと笑う。
「青い絵の具なら、血を思い出さなくていいだろう? これなら、腕を切って血を出さなくてもいい」
ラフマンの言葉の意味を呑み込んで、ウタリはハッと息を呑んだ。あの凄く怖い感じが襲ってこないように、ラフマンは血の色とは違う青色の絵の具を見つけてくれたのだ。
それなら、お絵描きできるかもしれない。真っ暗闇に満ちていた胸の中が、日が差したようにパァッと明るくなる。
「ありがとう、ラフマン!」
ウタリはラフマンの肩をぎゅっと抱き締める。
「お休み短いから、やはくお絵描きしよう。ほら、石ころ」
ラフマンは手のひら大の石を見せ、青く染まった指先で表面をなぞる。うっすらと青い線が引かれていき、ウタリの胸が踊った。
「お絵描き⋯⋯できる」
確信を込めてウタリは呟く。
「ウタリもやってみな」
「うんっ」
ウタリは青い花びらを指で擦り合わせ、指先を青くして、恐る恐る石に擦りつけた。滲んだ青色は血の赤よりもずっと優しくて、胸がきゅうっと熱くなった。
怖く、ない。青い色はウタリの心を粟立たせなかった。
「描ける⋯⋯描けるよ」
ラフマンはウタリの頭を撫でてくれた。
「よかった」
でもラフマンは笑みを浮かべたまま、ちょっと俯く。
「どうしたの?」
「⋯⋯何でもない」
ラフマンは石を渡してきた。ウタリはそれを受け取って、指で何本も線を描いていく。石は青空のような淡い青色に染まった。
お空の卵みたいだった。
「お、羽見つけた」
ラフマンは茂みの中に手を伸ばして、一枚の黄色い綺麗な羽をウタリに差し出した。陽だまりに羽根が触れると、羽毛がキラキラと光の粒を放つ。
「綺麗な羽」
「羽ペンにしな」
羽根の先はモフモフしていて、刃物を思い出させなかった。
ウタリはぎゅっと羽を両手で掴んで、胸に押し当てる。手に握りしめた細くて簡単に折れてしまいそうなそれが、宝物のように思えた。
胸の中に火が灯ったように、ポカポカ暖かくなる。
ラフマンからのプレゼント。これがあれば、もうお絵描きは怖くない。
「大切にするね」
ラフマンは無言で頷いた。
しばらくして、シングンカイシの合図とともにまた鬼退治の冒険がはじまって、ウタリはラフマンの背中で石にお絵描きをしていた。
お絵描きに夢中になって、他のものは何も見えなかったし、怖くなかった。
青い石の裏面の何も描かれていないところに、点々二つの目とにっこり笑った口を描く。
「これ、ラフマン!」
石に描いた顔を見せると、ラフマンは笑ってくれた。
「上手じゃないか」
きゃははは、とウタリは笑う。
「⋯⋯うるせぇ」
誰かが呟くのが聞こえて、ウタリは笑みを消した。顔を上げると、斜め向かえの島兵が肩越しからウタリを睨んでいた。胸に冷たい風が吹いたように寒くなって、楽しい気持ちもどこかに消え去ってしまう。
「⋯⋯ごめんなさい」
「気にすんな」
ラフマンがなだめるように言った。
「⋯⋯なぁ、あのクソガキ一発懲らしめてやろう」
誰かが怒りを押し殺したような声で呟いた。
しばらく歩き続けて、またショーキューシの声が前から伝わってきてラフマンは腰を下ろした。今度は邪魔にならないように、ウタリはラフマンから降りる。
「ラフマン二等兵」
誰かが次々と名前を呼ぶ。ラフマンと名前を呼ばれた人たちは立ち上がった。
「食料収集」
みんな茂みの中に入っていく。ショクリョーって何だろう。ウタリはそう思いながら羽ペンでお絵かきを続けた。
「ウタリちゃん」
頭上から声が降ってきて、ウタリは顔を上げた。二人の島兵がニコニコ笑いながらウタリを見下ろしていた。一人は、斜め向かいからウタリを睨んでいた人だった。
「なぁに?」
「ちょっと俺らと遊ばない?」
うるせぇってウタリにそう言っていたのに、何で遊んでくれるのかな? と首を傾げながらも、ウタリはうんと頷く。
「いーよ」
「こっちおいで」
ウタリは二人に付いていき、ラフマンたちが向かったのとは反対側の茂みへ入っていく。
列からずいぶん離れたところで、二人は立ち止まった。
二人はしゃがみこみ、ウタリのお絵描きペンを見る。
「それ、楽しい?」
「うん! 綺麗にお絵描きできるよ」
「じゃあ、お兄さんの顔描いてくれる?」
お兄さんが石を差し出した。ウタリは受け取って、点々の目と口を描く。お兄さんは石を受け取り、じぃっと見つめる。ウタリはニコニコしてお兄さんを見上げた。
「うーん、これ」
お兄さんはいきなり、石を足元に投げつけた。石ははね飛んで、どこかに転がっていった。ウタリの顔からすっと笑みが消え、表情が強張る。
「──へたくそだな」
ぞっとするほど冷たい低い声だった。
下手に描いて、お兄さんを怒らせてしまったんだ。心臓をばくばくさせながらウタリは頭を下げて、謝る。
「ごめんなさい、ごめんなさい⋯⋯」
ウタリの持っていたお絵描きペンを、お兄さんが奪うように取り上げる。
頭上でポキッと何かの折れる音がした。
足元に、ひらひらと黄色い羽毛が飛び散る。少し視線を上げると、真っ二つに折れたお絵描きペンがあった。
「あ⋯⋯」
「あ、ごめんね。俺もお絵描きしたくてペン掴んだら折れちゃった」
二人はゲラゲラ笑った。楽しげな、馬鹿にするような笑い方だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい⋯⋯」
謝りながらウタリがペンを拾おうとすると、お兄さんが足でウタリの手を踏んづけた。ぐりぐり地面に押し付けられてペンを取れない。
いきなり後ろにいた島兵がウタリの口を塞ぎ、抱き締めるようにすっぽり身体を覆った。身体が石のように硬くなって、ウタリは少しも動けなくなる。
助けて、助けてラフマン⋯⋯その言葉は、口を塞がれて呻きにしかならなかった。
「声出させるなよ?」
「わかってるよ」
目の前にいるお兄さんが、木の棒の先に付いた包丁をウタリに向けた。矛先が、木漏れ日に当たってきらりと光る。
「ウタリちゃん、カサカサにしてあげるね?」
途端、包丁がウタリの片目を貫いて、視界の片方が真っ暗になった。
どくどくと、生温かい血が目から漏れ出す。
◆ ◆ ◆
ファディルは茂みの中を進みながら、遠くから漂ってくる『恐怖』を示す青い生体反応粒子をたどっていった。
木立の間に青い濃霧が立ち込めて見えるほどの色に、単純に興味を引かれただけだった。
誰がこんなにも、激しく恐怖しているのか。
(誰ですか、視界が真っ青で迷惑ですよ)
粒子のは流れから発生源をたどると、医薬品の呻き声と、島兵たちの笑い声が聞こえてきた。
(おや、恐怖しているわりには愉快そうですね)
茂みをなるべく音を立てないように進み続けると、ようやく現場が見えてきた。
草の隙間から見えたのは──。
両目の眼球をえぐられ、頬を削がれ、頭皮を剥かれ、血まみれになりながら解体される医薬品の姿だった。
医薬品の口からは嗚咽と、意味不明な言葉の羅列が発せられていた。恐慌状態で精神錯乱が起きているらしい。
ファディルは双眼鏡を眼鏡に添え、医薬品をレンズ越しに眺める。
(ずいぶん、派手にやったものです)
医薬品の全身の毛穴から、沸騰する湯気のように青い粒子が吹き荒れている。
対して島兵たちの身体からは快感を示す橙色の粒子が、ゆらめく炎のように発せられている。
二つの色が彼らの姿をくすんだ赤色のフィルターでぼやかし、恐怖と快感の膨大な周波数が波形を乱し、視覚情報演算エラーを起こす。
(感情が邪魔でなかなかよく見えませんね)
ファディルは島兵たちに気づかれないよう、医薬品の解体作業を観察し続けた。
血だるまの医薬品の姿を見ているうちに、ファディルはあることに気づく。
(あれは⋯⋯)
脳内にすぐさま、敵追撃部隊撃退の作戦内容を演算する数式が描かれていく。
それは撹乱ではなく、敵にトラウマになるほどの凄まじい恐怖を植え付け、二度とアリフ隊に接近させないようにする作戦──。
(敵追撃部隊の撃退作戦、思い付きましたよ。医薬品を暴行して頂き、誠にありがとうごさいます)




