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3-4 かえりたい

 目が覚めて、ウタリは瞼を半分に開けた。たくさんの足が見える。徐々に意識がはっきりしてきて目を開けると、島兵たちが目の前にいて、ウタリは恐慌し身体を弾ませた。


「お、目を覚ましたぞ」


「どうしたんだ? いきなり逃げ出して」


 逃げ出そうと身体が動こうとするも、何かにがっしり固定されていて動けない。なんだかお腹と腕がかゆいし、ぎゅっとしてて気持ち悪い。見下ろすと縄でウタリのお腹を縛られていて、背は木とぴったりくっつけられていた。


「なに、これ⋯⋯」


 どんなに身体をじたばたさせても、ちっとも動かない。


 島兵たちがやったんだ。ウタリを逃さないように。


「いや、離してよ!」


 ウタリは落ち葉と土埃が宙を舞うほど激しく両足をばたつかせ、腹の底から泣き叫ぶ。


「ウタリ、村に帰りたい! 離して! 離してぇっ!」


「⋯⋯やかましいですね。医薬品の分際で」


 島兵たちの間から銀髪赤目のお兄さん──ファディルが出てきた。


 眼鏡越しに、赤い瞳が淡くぼんやりと輝きを放つ。眠たそうに半開きにされた切れ長の赤目は、宙を眺めるように焦点が定まっていなかった。


 おばけの目だ、とウタリは震え上がる。


 ファディルは島兵の持つ木の棒についた包丁を引き抜き、ウタリのそばに寄ってきた。ぶつぶつと独り言を呟くような、気味の悪い囁き声で彼はウタリを罵る。


「集音マイクを仕掛けられているかもしれない森の中で、よくそんな大声を出してくれたものです。今の悲鳴を伏兵どもが聞きつけて包囲してきたら、どう責任を取るおつもりです?」


 包丁で身体をズタズタにされて、カサカサにされる。


 ウタリの毛穴を双眼鏡で覗いてくる、ミントがご飯の面白いお兄さんだと思っていたのに、この人も鬼だったなんて。


 おつかれおじさんやラフマン、ファディル、ノリを信じた自分が馬鹿だった、とウタリは後悔する。


 ラフマンの背中に乗ってジャングルを探検した時の記憶、おつかれおじさんと花冠を作って遊んだ記憶、ノリとファディルとお話した時の記憶が、バラバラに砕けて闇の中へ消えていく。


 人形のように整った生気のない無表情が、ウタリを見下ろす。焦点の定まらない瞳がぎょろりと動いて、ウタリを射抜いた。


「やめて! やめて!」


 ファディルはウタリの喉に銃剣の先を突き付けた。冷たくて鋭い感触が皮膚に当たる。


 言葉を羅列するような起伏のないファディルの声が、頭上から降る。


「銃剣を喉に突き刺してあげましょう。そうすれば再生しても声帯を塞がれて声は出せないはずです」


 島兵たちがファディルにお願いするように口々に言う。


「班長、やめてください!」


「喉突き刺すのは、さすがにっ」


 咎める島兵たちを制するようにファディルは言った。


「医薬品の悲鳴で伏兵が来てもよろしいのですか? 森の中で包囲されれば、逃げ場はありませんよ」


 島兵たちは急に大人しくなった。


 ファディルは銃剣を両手で握って構え、身体を捻るように引いた。刺される! ウタリはぎゅっと目をつむる。


「──では、失礼します」


 背後から誰かが走ってきて、ファディルの手を掴む。ノリだった。


「何です、ノリ」


「あー、班長、班長、それより良い案思い付きました! 一旦それ、やめてもらえますかねー?」


 焦ったようなぎこちない笑みを浮かべて、ノリはファディルの袖を何回も引っ張る。私を庇った? とウタリはなんとなく察する。


「えっとですねー、とりあえず僕のやり方ちょっと試してもいいですか?」


 ファディルは銃剣を構えるをやめ、能面みたいな無表情でノリを見下ろす。


 ノリは後ろを振り返り、みんなに言った。


「ウタリちゃんの血で治療をしてもらった負傷兵、来てくれ」


 沈黙が訪れる。やがて肩から垂れた包帯に片腕を包んだ負傷兵一人に続いて、怪我をした複数人がノリのそばに寄ってきた。


「ノリ一等兵殿、何を」


「ウタリちゃんの前に座ってくれないか?」


「? はぁ⋯⋯」


 負傷兵たちはイタタ⋯⋯と呻きながらゆっくりしゃがみこんだ。その隣にノリが座り込む。何をするのだろう、とウタリは不安になって身を引いた。


「大丈夫、怖いことはしないよ」


 ノリはそばにいた負傷兵の背中に片手を当て、もう片方の手をウタリの額に当てた。


 突然、頭の中に映像が浮かぶ。真っ白な空。それを切り取るように泥だらけの顔の島兵が現れた。


『七番、軽傷。血を投与』


 誰かの呻き声がする。


『いてぇ⋯⋯いてぇよ⋯⋯』


『血を患部に流し込む。大丈夫だ』


 ウタリの片手に、ちくちくするような感じたことのない感覚が生じた。かゆいとも違う、もっと鋭く皮膚をえぐるような感じだ。ウタリは片手を握り、震えた。


「おててチクチクする! 何これ!」


 ノリが答える。


「痛み、だよ」


 イタミ。チクチクするこの感じが、イタミ。そういえばウタリに傷を治してもらおうとやって来た人々も、「イタいイタい」と言っていたような。「イタ」ということは、イタミと関係あるのか?


「イタイは、イタミ?」


「そうだよ。ウタリちゃんが今感じているのは、この怪我した兵隊さんの『イタミ』だよ」


「これが、イタミ?」


「兵隊さんは怪我をして、腕が凄く痛くなったんだ。だから兵隊さんのお医者さんたちが、ウタリちゃんの血で怪我を治そうとしたんだ」


「ウタリの血で、イタミを治したの?」


「そうだよ。だけどね、怪我をした人が多すぎてさ」


 ノリは周囲に座る負傷兵たちを見回した。


「ウタリちゃんの血、たくさん使っちゃったんだ。お医者さんたちも、ウタリちゃんが死なないから、血をたくさん使ってもいいだろうって思っちゃったみたいでさ。まさかウタリちゃんがカサカサになるとは、思ってなかったみたいで」


 ウタリは負傷兵たちを見つめた。


 このチクチクする、いやな感じ。これから逃がすために、お医者さんたちはウタリのお腹を──


 思い出すだけで、手足がかゆくなる。怖かった。すごく、怖かった。


 でも、でも。


 ほんの少しだけ、心に引っかかるものがあった。


「お医者さんはウタリを、いじめるつもりじゃなかったの?」


 ノリは優しく、でも少しだけ申し訳なさそうに頷いた。


「怖かったよね。でも、いじめようとしてやったんじゃなくて⋯⋯みんなを助けようとして、間違えちゃったんだ」


「本当に?」


「信じてもらえないと思う。でも、本当だよ」


 ウタリはおつかれおじさんのことを思い出す。あの時、ウタリは倒れたおつかれおじさんを治そうとした。もしかしたら、お医者さんもうだったのかもしれない。


 たぶん、きっと。でも⋯⋯ちょっとだけ、まだ信じるのは怖い。


 ウタリは半身半疑のまま、小さくうなずいた。


「そうだったんだね」


 胸にはもやもやと、つっかえるものがあるけれど。


 いじめたのかどうか、本当のことをもっと探るには、ウタリには言葉が足りなさすぎた。






 ウタリは、ラフマンに肩車されてジャングルの中を進んでいた。目の前には二列に並んで茂みの中を進む島兵たちが歩いている。


 太陽は真上に昇り、頭上を覆う大きな葉の隙間から、きらきらと陽光がこぼれてくる。


 葉のあちこちに、色んな生き物たちがいた。


 赤、緑、青の羽が混ざった、宝石みたいに綺麗な鳥。


 葉っぱを寄せ集めた布団の上で、木の実をかじる白茶のしましま猿。


 枝に咲いた花にとまり、蜜を吸う、透き通った青い羽の蝶々。


 でも、面白いものがたくさん見えても、ウタリの心は浮かなかった。


 さっきの、怪我をした兵隊さんたちを治したお医者さんたちは、もう反省して何もしてこないのかな。それともまた、血をいっぱい抜いて、ウタリをカサカサにするのかな。


 何も起きなければいいのに。でも、また何かが起きるかもしれない。そんな思いが胸の奥で揺れている。


 まるで、壊れた天秤みたいに──ぎっこん、ばったん。


(帰りたい)


 退屈極まりなかったあの小屋が、今では酷く懐かしく思えてくる。


 でも、あの小屋は鬼に壊されてしまった。ウタリは小屋からとっても遠い場所に連れて行かれてしまった。


 胸の中がぎゅっと詰まって、目の奥が熱くなる。


(⋯⋯ウタリ、もう帰れない)


 ラフマンの平たい帽子をぎゅっと掴んで、ウタリは込み上げる涙を必死に堪えた。泣いたらまた、ファディルに首を突き刺されるかもしれないから。


 急に列が止まり、ウタリはがくんと揺れた。倒れないようにラフマンの帽子を掴むと、傾いて彼の顔を覆ってしまう。


「あ、ごめん⋯⋯」


 ラフマンは舌打ち交じりに帽子を元の位置に戻す。


 前列から島兵たちの声が順番に聞こえてきた。


「行軍停止。偵察待て」


(テーサツマテ?)


 何語だろう、とウタリは首を傾げる。


 よくわからないが、一番前の列で何か起きたらしい。


 続いて『開豁地あり。左向き迂回』という言葉が前から流れてきた。カイカツチ、ウカイはよくわからないが左向きに進め、という意味だろうとウタリは察する。


 遠くに見える前列が、ゆっくりゆっくり左向きに曲がっていくのが見えた。ラフマンの周りの島兵たちも同じ方向に曲がっていく。そのまま進み続けると、右手に木立の隙間から太陽の光が漏れていた。あの向こうに、広い場所がある。


(村、かな?)


 ウタリは希望に胸を高鳴らせる。もしあそこが村ならば、村人たちに匿ってもらおう。行軍中、兵隊さんは隊列を乱さないようにぴっちり歩いているから、ウタリが逃げても彼らは下手に動けないはず。


 心臓が痛いくらい早く脈打ち出す。ウタリは前列を睨み、祈った。


(お願い、止まって!)


 暫くして、願いが通じたように前列から「小休止」と言葉が流れてきた。前の島兵に続いてラフマンが腰を下ろし、またウタリを投げ捨てるようにほっぽりだす。


 ウタリは身を起こし、疲れ切って動けないラフマンを横目に一瞥し、視線を木立の向こうへ向ける。


(ラフマン、おんぶしてくれてありがとう)


 彼は鬼の仲間だ。だが、おんぶしてくれた時、楽しかったのは確かだった。新しい世界を見れて、とても心が踊った。


 ちょっぴり、お別れが寂しい。


(じゃあね、ラフマン。さようなら)


 ウタリは気づかれないように四つん這いになり、音を立てないよう慎重に進み出す。時折少し顔を上げて後ろを振り向き、気づかれていないか確認する。


(まだ、大丈夫)


 さらに進んでいく。根や枝が足と腕に引っかかり、赤い線を皮膚の所々に引いた。


 顔を上げて木立の向こうを見ると、眩い陽光の中で黒い影のようなものが蠢いていた。上下左右にたくさん、動いている。


(人、かな?)


 心臓が胸を打ち破りそうなほどドンドン鳴る。人の影かな? 村があるのかも! 助けてもらえる! ウタリは両手をぎゅっと掴んだ。


 背後遠くから騒ぎ声がする。ウタリがいないと気付いたのだろう。ウタリはそっと顔を上げて背後の様子を見る。


 島兵たちが立ち上がり、動き回り、きょろきょろしていた。その中で一人、立ち止まってウタリをじっと見ている奴がいた。


 薄闇の中で、赤い二つ目がぼんやり輝いている。


 ぞっと、背筋を寒気が駆け上がる。


(ファディル⋯⋯っ)


 ファディルはゆっくりと片手を上げ、ウタリを指差した。


 ──みつけましたよ。


 あの無機質な声が、頭の中で囁くように再生される。


(な、なっ、何でわかるのよっ)


 島兵たちとウタリはかなり距離が離れているし、薄暗いし、辺り一面背の高い草がぼうぼうなのに、どうして見えるのか。


 やがて島兵たちも立ち止まり、全員がウタリのほうを見る。


「いたぞ!」


「また逃げやがって!」


 ウタリは全速力で駆け出し、木立の向こうを目指した。茂みを掻き分ける音が背後遠くからいくつもこだまする。


 ウタリは腕を振り乱しながら、茂みを掻き分けた。肺が掻きむしりたくほどかゆく、呼吸もまともにできないほど荒い。太腿の感覚も薄れていく。


 片腹に何か詰まったようか異物感とかゆみが走り、ウタリは顔をくしゃくしゃにしながら全身の力を振り絞り、逃げる。


 つん、と鼻を嫌な臭いが突いた。生ごみを腐らせたような、息を止めたくなるような臭い。でも呼吸を止められない。息をしないと走れない。


 臭いはどんどん強烈になってきて、ウタリはたまらずえずいた。木立から差し込む陽光が、ウタリを迎え入れるように優しく包み込む。あと少し、あと少し。そこにいる誰かに、助けを求められる──。


「誰かっ!」


 掠れた声でウタリは叫ぶ。


「いませんかっ! 助けて!」


 代わりに聞こえてくるのは、唸るような、耳障りな謎の音。音は大きくて、木立の向こうに唸る何かがたくさんいるのがわかる。


「誰⋯⋯か⋯⋯」


 ウタリの足がゆっくりになる。


 陽光の向こうに、日の当たる広い場所が見えた。そこに黒い霧のようなものが満ちていて、ぶんぶんぶんと唸り声を上げていた。


 蝿の羽音だ。


 ウタリは立ち止まり、目の前の光景にくぎづけになる。


「なに⋯⋯これ⋯⋯」


 黒い霧は、何千何万もの凄まじい蝿の群れだった。


 上下左右に蠢く様は、黒い大きな生き物のよう。霧の下には、人の姿がうっすら見えた。島兵たちと同じ服を着た人間たちが横たわり、顔、身体を蝿に隙間無く覆われている。

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