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3-3 狂人と兵長

 ──人肉。それも、つい先程まで生きていた人間から取り出した、生の肉だ。


 イルハムは沈黙し、返す言葉がないと言わんばかりに目を逸らす。


 ファディルは手のひらの人肉を見下ろした。


「人肉の部位は肝臓。主の性別は男性、生物学的年齢は推定二十代。人種は白人、敵国に属するタイプですね。つまり、あなたは森をうろついていた伏兵から肝臓を取り出した。そういうことですね?」


 イルハムの肩が震える。彼は動揺するような声色で訊いた。


「なぜ、そんなことまで⋯⋯」


 図星だったようだ。


「私には、細胞に含まれる生命情報が見えるのですよ」


 ファディルは手のひらに置かれた人肉を見下ろす。


「なぜあなたが人肉を選んだのか、理由がわかりました」


 ファディルは論文を読み上げるように、淡々と述べた。


「イチゴとコンビーフで医薬品が再生しなかったのは、おそらく染色体の本数が人間と異なるためでしょう。そのためデオキシリボ核酸が連結されても拒絶反応が起き、再生しなかった。しかし人間であれば本数は同じで、螺旋階段の入れ替えが可能であるため再生することができたのだと予想されます」


 興奮で言葉の端々に震えが混じっていたが、ファディルは至って無表情だった。


 ファディルはイルハムの『功績』を讃えた。


「イルハム兵長、あなたはそれを見抜き、医薬品に動物肉ではなくわざわざ人肉を食べさせようとしたのですね。あなたの素晴らしい発想力に感服致します」


 イルハムは一歩後退し、吐き捨てるように言った。


「お前⋯⋯いかれてやがる」


 言われたことの意味がわからず、ファディルは訊き返す。


「何がです?」


 イルハムは悔しげに歯を噛み締める。唇の隙間から見える歯が、血で真っ赤に染まっていた。


「言っておくが、俺は自分の意思で人肉を持ってきていない。ウタリに食べさせよう、とも思ってない」


 矛盾した発言にファディルは目を見開く。


「は? お望み通り持ってきてやった、と言ったのはあなたでしょうに」


 イルハムは歯を食いしばり、首を横に振る。


「止められなかった。人肉を食わせろ、とあいつらが言うのを。俺は⋯⋯あいつらの声に従うしかなかったんだ。子供にあんなもの、食わせるなんて⋯⋯」


 あいつら──つまり、人肉の調達には複数の誰かが関わっていたことになる。


「あいつら? 誰です?」


 イルハムはファディルと目を合わせずに答える。


「それは、言えない」


「なぜ?」


「説明したってお前には理解できねぇよ」


 イルハムの肩が震えていた。何かしらの爆発しそうな感情を堪えるように──


 血濡れた歯の間から言葉を絞り出すように、イルハムは呟く。


「それより、何でよりにもよって人肉じゃねぇと再生しねぇんだよ、畜生⋯⋯あんなもの、何で⋯⋯」


 戦場ではどこにでも転がっているたかが人間の肉切れ一つに、なぜそこまで感情を乱すのか理解できなかった。


「なぜ人肉ごときでそんなに慄々とするのです」


 イルハムはファディルを見て、ケッと笑う。


「嬉々として人肉を分析する狂人のお前に言われたくないね」 


 狂人、それは『化け物』という罵倒に匹敵する、ファディルにとって許しがたい一言だった。腸が微かに熱を帯びた。 


 ──身体加熱式。


「狂人? 私が狂人ですって?」


 ふと思い出す。幼少期、実家の屋敷の大きな庭で、死にかけの子猫を助けようとした時のことだ。


 飢えて痩せこけた子猫をわし掴みし、ハサミで頸動脈を切開して出血死させた。子猫を飢えの苦痛から解放しようとしたのだ。


 目で子猫の血液量、心拍数などを計算しながら、ファディルはハサミをもふもふとした首に突き刺していた。


『猫ちゃん、残り三ミリリットルであなたは失血死します。もう少しです、耐えてください』  


 血まみれになって暴れる子猫を微笑ましく見つめながら、ファディルは死の瞬間を待ちわびた。


 庭で怪我や病気をした動物を見かければ、ファディルは頸動脈を突き刺して安楽死させていた。


 安楽死させて苦痛を取り除く、という最適解を示す数式に従って。 


 動物たちをいじめたいから、という欲求は全くもってなかった。


 母の声が遠くから聞こえてくる。


『ファディル! ファディル! ああ、あの子、またやってるわっ!』


 母が鬼の形相で走ってきた。母の後ろをついてきたメイドたちは、驚愕したように口を押さえて悲鳴を上げる。


『何で⋯⋯何で、お前はいつもそんな酷いことをするの⋯⋯っ』


 母はファディルからハサミを取り上げ、頬を引っ叩く。


 ファディルは子猫の返り血を浴びて、真っ赤に染まった顔で笑う。


『お母様、私は飢えて死にそうな子猫を助けただけです』


 母はもう一度ファディルに張り手を食らわせる。


 褒めてもらえると思って笑顔で報告したのに、なぜ叩かれるのか理解できず、ファディルは啞然として突っ立つ。


『助けた? お前がしてきたことは全て動物虐待です! 鬼畜の所業よっ! 猫ちゃん、可哀想に!』


 母の発言は『猫が可哀想』という感情に基づく、あまりにも非合理的なものであった。理屈を理解できず、ファディルは母に問う。


『動物虐待? 演算の結果、死にかけの子猫を失血死させて安楽死させるのが最適解と判断したのです。お母様は、子猫を放置したほうが最適解だと仰るのですか? それならば、お母様のほうが鬼畜ですね』


『お前は狂っています⋯⋯お庭に入ってくる動物たちを、いつも楽しそうにバラバラにして⋯⋯っ』


 狂っている? 何が? きょとんとする幼いファディルに、母は罵声を浴びせた。


『お前は⋯⋯お前はっ⋯⋯狂人ですっ!』


 鋭い刃物が胸の奥まで突き刺さるような衝撃が走った。


 狂人。その発言に子供ながら傷ついたことをファディルは覚えている。


 想像してもいなかった母の罵詈雑言に、ファディルは呆然として立ち尽くす。


 メイドたちが咎めるように言った。


『奥様、おやめくださいませっ』


 メイドの一人が、呆然と突っ立つファディルの顔についた血をハンカチで拭いた。


『ファル坊ちゃま、お顔の血を拭きましょうね』


 メイドの顔は、恐怖に引きつっていた。


 今思い出したこの時も、胸を鋭いもので刺されたような痛みが走った。


 ファディルは今でも思う。あの時の母の叱責は、猫のためではなく、自分の論理と感情を否定されたことへの怒りだったのではないかと。


 母といいイルハムといい、あなたがたのほうが十分狂人ではないかとファディルは内心苦笑する。


「⋯⋯じゃあな、人でなし」


 瞬きした途端、イルハムの姿は消えていた。全身が冷水を浴びせられたように寒くなる。


 ファディルは目の力を用いて、薄闇の中に聳える木立の間を探った。木と茂みが青白い輪郭に縁取られる。草木の飛ばす水蒸気や物質を示す白い粒子が宙を舞う埃のように見えた。


 生物は必ず赤色の生体反応の分子を空気中に漂わせる。だが、イルハムの生体反応の残滓はどこにもなかった。


 それが意味するのは、生体反応ごと空間から突然消滅したという非現実的な現象が起きたということ。


(⋯⋯どこへ消えたのです?)


 突然、背後からガサガサと茂みの揺れる音が聞こえ、ファディルは後ろを振り返る。にっこりと微笑むノリがいた。


 彼の顔を見た途端、全身のこわばりがほどけて脱力していく。


「ノ、ノリ⋯⋯」


 ノリは手招きした。


「班長、ちょっと話があるんだけれど、いいかな?」


「⋯⋯はい」


 ノリが歩き出すと、ファディルは彼の後に続いた。





 ファディルとノリは、途中で採集したツルイチゴやジャングルに自生するセルクヤマミカンを手に持ち、木の下に座った。


 ノリがイチゴを口に放り込み、咀嚼しながら話す。


「では、森のフルーツカフェを開きつつ、お話させてもらうよ」


 口に物を入れたままのお喋りはマナー違反です、という言葉が口先まででかかったのを引っ込ませ、ファディルはノリが話し出すのを待つ。ノリの口から放たれるクチャクチャ音が耳障りだった。


 その間、ファディルはフォークでイチゴを一粒刺して口に運ぶ。爽やかな酸味が舌を刺激した後、ベリー類特有の芳醇な甘みが口いっぱいに広がった。脳疲労が三十パーセント解消される。


 ノリはイチゴを呑み込み、口を開いた。


「──衛生隊のみんなに、あの肉が『人肉』だって絶対に言っちゃだめだよ」


「なぜ?」


「そう来ると思った。班長にはわかりづらいと思うけどさ⋯⋯みんな、人肉って聞いたら凄く怖がるし、血液を余剰生産できるとしても二度と使いたくないって思っちゃう」


 ファディルは、医薬品の胃袋を切開して直接胃に肉を入れればいいと提案した時、ヴァレンスたちに咎められたのを思い出す。あの方法が最短最適であったのに、なぜ拒まれたのかわからなかった。


「はい、確かに彼らの言動は非合理かつ非効率でした。極めて理解不能です」


「いや、非合理とか非効率とかそうじゃなくて、その⋯⋯人肉を再生のために利用するとか、食べるとか、そういう行為が嫌なんだ」


 効率ではなく『感覚』の問題なのか。しかし人肉が嫌だと思ったことなど一度もないファディルには、体感的に想像することができなかった。


「よくわからない感覚です」


 ノリは可笑しそうにクスッと笑う。


「だよねぇ。もっとわかりやすく言うと⋯⋯そうだなぁ、同族の肉に嫌悪感を抱くんだよ。ほら、班長は敵を処刑した時、同族殺しの心理的抵抗を払拭するためにわざと敵愾心を持つ島兵をえらんだよね?」


「はい」


「それと一緒。普通、人は人肉に同族意識を持って、雑に扱うことに心理的抵抗を覚えるんだ」


 ファディルは人肉の欠片を入れた飯盒を見下ろし、蓋を開けた。赤黒く塗らついた肉片が錆びた底にへばりついている。それを見たって、肉の持ち主が目に浮かび上がることはない。


 この薄っぺらい肉片のどこに同族意識を感じるのか。人間から切り離されれば、肉はただの肉でしかないのに。


「同族殺しへの心理的抵抗は、殺す相手が自分と同じ見た目だからこそ発生するものです。人肉は同じ形をしていないので、心理的抵抗が発生するというのは理解不能です」  


 ノリは困ったように頭を抱えた。


「あっちゃ〜、そうきたか。こりゃ説明が難しいぞ。うーん、なんていうかね、同じ形をしていても、相手から千切れた部分であればそこに相手を意識しちゃう、みたいな。連想ってやつ。相手の抜け落ちた髪の毛に、『これはあいつものだ』って関連性を意識しちまうんだ。人肉も、それと同じ。わかった?」


 ノリの言葉をなんとか反芻し理解しようとしても、脳の演算は「不可」を表示するのみで答えを出してくれない。相手の付属品に相手を意識するという非論理的な理屈は、ファディルの脳では処理しきれない事柄らしい。


 それでも、理解できないことには知的好奇心をくすぐられる。ファディルは訊いた。


「人肉に、相手を意識する? どういうことです?」


 ノリは「いってぇ」と言いながら自分の毛髪を一本引き抜き、ファディルの目の前にかざす。


「僕の髪の毛に、僕を感じる? これは、僕の髪の毛だって関連性は脳内に浮かぶかい?」

  

 関連性が浮かぶかどうかを問われ、ファディルはノリの毛髪を解析した。毛髪を構成する数億個の細胞、染色体、螺旋階段の情報を同時に脳内で処理していく。結果、ノリの生命情報と百パーセント一致した。当然だが。


「生命情報を解析したところ、百パーセントあなたの毛髪です」


 ノリは呆然としたような顔で黙り込んだ後、違う違うというように片手を振った。


「いやいや、関連性というのは生命情報とかそういうことじゃなくて、ああもう、説明が難しいなぁ⋯⋯」


 ノリは毛髪を捨て、溜め息混じりに首を横に振る。


「ありゃりゃ、こりゃだめだ」


 これ以上理解できない話をぐだぐだと続けても時間の無駄だ。それより、医薬品の血液を余剰生産させるために人肉が必要だと衛生隊を説得させるのが先決だ。ファディルは立ち上がり、ノリを振り返る。


「衛生隊に人肉のことを打ち明けます。人肉投与を使わないことで損害率を増やすのは、愚か極まりないことです」


「そうはさせないよ、班長」


 ノリは背に回していた片手を引き抜き、掴んでいたものをファディルに見せつける。


 雷で撃たれたような凄まじい衝撃が頭から爪先まで貫き、体温が一気に下がっていく。


 ──身体冷却式×七千四百五十三本生成⋯⋯


 身体冷却式が、凄まじい勢いで脳内を埋め尽くして思考を塗り潰し、ファディルの身体を硬直させる。


「そ、それは⋯⋯」


 ノリが見せつけたのは、真っ赤な傘に白い水玉模様が浮かぶ大きなキノコだった。


 ノリはにっこりと微笑みながら訊いた。


「これ、なーんだ?」


「キ、キキ、キッ、キノコ⋯⋯ッ」


 キノコ、それは菌の群体が寄り集まって形作る、自然界に生えるポリープである。


 植物でも動物でもない、その中途半端で曖昧な存在は、ファディルにとって理屈でも演算でも処理できぬ森の腫瘍だった。


 キノコのような理解不能なものは、脳の演算機能を激しく狂わせ、身体冷却式の生成を加速させる。


 ファディルは踵を返して早足で走り出し、ざくざくと茂みの間を掻き分けていく。背後からノリが迫ってきた。


「こら、待て、班長〜!」


「ノリ、今すぐその醜いポリープを捨てるのです」


 声が自然と早口になる。


「ホイップ?」


「クリームではありません、腫瘍です」


「キノコは腫瘍じゃないよ。⋯⋯班長、衛生隊に『人肉』って言ったら、お前が寝ている間に周りにキノコたくさんばらまいてやるからな」


 自分の周りに腫瘍キノコがちらばっているおぞましい光景が脳裏に浮かび、ファディルは首を横に振って妄想を消した。


「精神性ショック死を引き起こします。絶対におやめください」


「それが嫌なら、衛生隊に『人肉』って言うなよ。班長のせいで損害率増えるからな」


「わかりました決して言わないと誓いますお願いですからポリープを早く捨てて頂けませんか心臓が崩壊しますお願いします」


 ファディルは早口で懇願した。



 ◆ ◆ ◆



 ウタリの周りに島兵たちが集まっていた。


「ウタリちゃん、よかった。回復して⋯⋯」


 一人が涙声で「よかった、よかった」と呟くと、伝染ったようにその場にいる島兵たちも安堵の呟きをもらした。


 まるで葬式のような場面に胸が悪くなるような嫌悪感と、居心地の悪さを覚えてラフマンは目を背けた。


 ラフマンは踵を返し、茂みの奥へ入ってゆく。誰にも気づかれないように、息を殺して。


 こんな光景の中では、ますます居場所がなくなってしまう。


 背後から島兵たちの声が聞こえた。


「ウタリちゃん、ウタリちゃん」


「あ、眉がぴくって動いた」


「起きるぞ」



 ◆ ◆ ◆



 誰かの声がする。


 ウ⋯⋯タ⋯⋯ 


 自分の名前を呼ぶ声がする。


 ウタ⋯⋯リ⋯⋯


(誰⋯⋯)


 暗い水の底に沈んでいるようだった。

 名前だけが、ぽつぽつと、泡のように浮かんでくる。


 ウタ⋯⋯リ⋯⋯


 その泡に引かれるように、ウタリはゆっくりと意識を浮かせた。


 ウタリちゃん⋯⋯


 徐々に意識が浮上してくる。


 瞼越しに淡い光が差し込み、ウタリは瞼をぎゅっとつむった。


「ウタリちゃん、ウタリちゃん⋯⋯」


 何も見えない闇の中で、自分を呼ぶ声が周囲から聞こえた。


 ゆっくり目を開けると、泥で真っ黒に汚れた島兵たちの顔が目の前にあった。にこにこ笑う顔、涙を流す顔、色んな顔が薄暗い森を背景に並んでいる。


 ウタリは起き上がって彼らを見た。


 彼らの顔を見ていると徐々に、頭の中に声が蘇ってきた。


 ──悪いな。負傷兵多数で血が足りないんだ。


 ──開腹完了。鉗子装着。


 かゆい、かゆいと自分の泣き叫ぶ声も頭の中でわんわんと響くように聞こえる。


 頭の中の声とみんなの泥だらけの顔が頭の中でぴったり重なった時、氷を呑んだような冷たさが腹へ落ちていく。


(あの人たちだ⋯⋯)


 ウタリの身体を裂いて、内臓を取り出したあの人たちとおんなじ泥だらけの顔。それが視界にいっぱいにあって、自然と身体が一歩後ろに動いた。


「いや⋯⋯」 


 肩から爪先まで震え出して、水に浸かったように寒くなっていく。


「ウタリちゃん、どうしたの?」


 島兵の差し伸べた手が、お腹を裂いた銀色の包丁と重なった時、喉が張り裂けそうなほど大きな声が出た。


「いやあああああーっ!」


 自分の意思に反して身体が勝手に動き出し、ウタリは茂みの向こうへ走り出す。


 またカサカサになるまで血を抜かれる。


 お腹を割かれて中身を取りだされてら、頭がおかしくなるぐらいのかゆみに襲われる。 


 そんなの嫌だ。


 誰もいないジャングルの向こうに向かって、ウタリは口が張り裂けんばかりの叫び声を上げる。


「ウタリ、お薬じゃないもんっ!」


 背後から「ウタリちゃん!」と叫び声が響く。


 ウタリは自分より背の高い茂みを掻き分け、時折根に足が突っかかって転びそうになりながら、木漏れ日の降り注ぐ薄暗いジャングルの中を駆けていく。


「追いかけろ!」


 追ってくる! また血を抜くつもりなんだ! ウタリは足をもっともっと早く動かして、追いかけてくる鬼たちから逃れようとした。


 あの人達も島兵が「テキ」と呼ぶ同じ鬼だったんだ。絵本に出てきた、人に悪さをする、怖くて凶暴な鬼なんだ。だから葉っぱが生えた泥んこで、テキという鬼同士と壊し合っていたんだ。


 笑顔を向けて遊んでくれたおつかれおじさんも、あいつらと同じ鬼だったんだ。騙されたような気分になって、ウタリは唇をぎゅっと噛んで涙を拭う。


 木の根に足を取られ、ウタリは転んでしまった。背後から鬼たちの声が聞こえてくる。


「どこ行きやがった」


「いねぇぞ」


 見つかる。見つかったらまた血を抜かれて全身カサカサにされる。ウタリは手で口を押さえて、ガタガタと震えながらその場にうずくまる。


(村に帰りたいよ⋯⋯)


 目の前の茂みが揺れて、黒い影が現れた。島兵たちの放つウンチ臭さとは違う、カビ臭いような、湿気のこもった暗い場所のような臭いが鼻腔に満ちる。


「ウタリ⋯⋯」


 おじいさんみたいなガラガラの不気味な声が頭上から聞こえた。顔を上げた途端、紫色の閃光が視界に満ちて脳が気持ち悪い粘膜のようなものに包まれ、意識が遠ざかっていく。


「許してくれ」


 その声が聞こえた時、ウタリの意識は闇に落ちていった。

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