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3-2 再生経過観察

 ファディルは茂みの中に立ち、手のひらに乗せた一枚の薄っぺらい肉片を見下ろした。ぬらりと濡れたそれは、まるで誰かの舌の切れ端のようだった。 


(何の肉でしょうね、これ)


 ファディルは元肉屋の発言を思い出す。


 ──俺、マタギの取ったイノシシ、鹿、狼も捌いてきたが、こんな肉は見たことねぇ。匂いも、切ったときの音も、繊維も、ぜんぜん違う。兵長、何の肉を取ってきた?


 セルク島に生息する主な大型野生動物は、イノシシ、鹿、狼に限られる。空から降ってきた臓物は、手のひらほどの大きさだが、どの動物にも該当しない。


 では、何の肉か。ファディルは純粋な好奇心から肉の正体を分析することにした。


 ファディルは双眼鏡を目に当て、最大倍率に切り替えた。赤い瞳が微かに光り、レンズの先にあった肉の断片が鮮やかに浮かび上がる。


 筋、赤身、白身、目視では判別できなかった繊維が、はっきりと形を持って迫ってくる。


 脳内で自然と数式が立ち上がった。筋肉構成式。密度、構成比率、温度変化による収縮反応──。


(構成に乱れはない)


 まだ足りない。


(細胞を見なければ)


 視界が、ぐん、と深く沈む。双眼鏡を通じているはずの視界が、いつの間にか肉体の内部へ侵入していた。これも眼の『拡大視』によるものである。


 まるで光子顕微鏡が双眼鏡に組み込まれたかのように、肉の壁が拡大され、密集する赤白のつぶつぶが視界いっぱいに現れる。 


 それは細胞壁だった。


 一粒の細胞に視点が絞られる。焦点が収束し、さらに拡大。正方形に近い構造の内部に、核、細胞小器官のゴルジ体、細胞活動のエネルギーを生み出すミトコンドリア、微細な網目構造が浮かび上がる。 次の焦点は、細胞核へ絞られる。 


(染色質、核小体──)


 そこから先は、人の目など決して届かない世界だ。


 顕微鏡ですら視認できないほどの、微細な微細な領域。


 だが、ファディルには見える。


 極小の細胞も、それ以下の小さな物質も。


 核部分が拡大される。透明な膜に包まれた核の内部に、四本足に枝分かれした構造体がいくつも浮かんでいる。染色体だ。その本数こそが、この肉の正体を決定づける情報になる。


 ファディルの脳が、視認と同時に演算を始めた。染色体の構成を解析していく。


 やがて、結果が出た。


(二十三対、四十六本──)


 その瞬間、寒気にも似た快感が、脊髄を伝い全神経に奔った。


(まさか⋯⋯それの肉でしたか) 


 疼くような快感が全身を駆け巡る。


 もっと観察したい。


 そんな知的欲求が湧いた瞬間、レンズ越しに映る染色体から青い光が飛び出す。ファディルの視界の中で、青い光は徐々に毛糸を巻き付けた塊のような、染色体の形に変わっていく。目が、染色体の形状を完全コピーした模倣物を幻覚で作り出したのだ。


 光の模造染色体が毛糸を解くようにばらけ、一本の線になっていくのが見えた。塊から一本の直線になった光が、レンズいっぱいに拡大されていく。


 拡大された線は、二重螺旋を描いていた。螺旋の帯に挟まれるようにして、階段の足場のような構造が見える。


 生命情報の記録装置──『デオキシリボ核酸』だ。


 屋敷の使用人や士官学校の同級生たちの毛髪、動物の毛、植物の葉などから細胞を採取し、そこに含まれたデオキシリボ核酸の情報を解析するのがファディルの趣味であった。 


 これまで分子生物学や細胞学の文献を貪るように読んできたが、そのどれにも

デオキシリボ核酸の形状や仕組みについて書かれたものはなかった。


 何せ現在の科学においてデオキシリボ核酸の扱いは、『細胞核内には生命情報を子孫に引き継ぐ遺伝物質がある、しかしそれの具体的な形状は不明』というレベルに留まる。


 つまりデオキシリボ核酸の姿は、特殊体質者のファディルにしか見えないということだ。


 デオキシリボ核酸の中を、さらに拡大した。階段の足場に焦点が当たる。二重螺旋の捻じれが解かれ、二本の平行線に変形し、内包された階段の足場一つ一つが梯子の手摺りのように並ぶ。ファディルはこの足場部分に『螺旋階段』という独自用語を付けていた。


 螺旋階段の一つ一つが赤く染まっていく。脳が螺旋階段を解析し、肉物の持ち主の性別、人種、生物学的年齢、先天的形質、細胞分裂の頻度傾向、免疫構造を割り出す。


 それは生命情報の海を直接覗き込む行為だった。


 この肉の持ち主の詳細な情報を入手したファディルは、元来た獣道を戻っていく。


(それにしてもイルハム兵長、なぜわざわざこの肉を)



 ◆ ◆ ◆

 


「ウタリちゃん、ご飯だよ。お口開けてね」


 ノリの声がして、ラフマンはふと彼のほうを見た。衛生兵たちに囲まれる中、ノリはウタリに煮込んだ肉を食べさせていた。


 ノリは干からびたウタリの頭を膝に乗せ、スプーンで皿上の細かく砕いた肉片をすくい、ウタリの口へと運ぶ。


 ウタリは虚ろな目のまま、ゆっくり口を開けて肉片をもごもごと噛む。ノリは穏やかな笑みを浮かべて、ウタリを褒めた。


「上手、上手。よく噛んで、ごっくんしようね」


 ノリの声は、あたたかい。戦場で聞くにはあまりにも不釣り合いな、やさしい声色だった。


(⋯⋯なんか、母さんみてぇだな)


 ご飯を嫌がって、泣きながら首を横に振る妹。


 無理やり食べさせるため、母さんは膝に乗せて、笑いながらスプーンを運んだ。


 膝枕のあの角度。

 スプーンを口元へ持っていく手の高さ。

 同じだった。

 ノリと母さんが、重なって見えた。


 ラフマンは頭を軽く振って、その映像を追い払う。


(魔女だぞ、あいつは⋯⋯)


 ──だけど。なぜウタリを見ると、妹のことを思い出してしまうんだろうか。


 茂みの揺れる音がして目を向けると、草むらから出てくるファディルが見えた。待ってましたと言わんばかりのノリの嬉しそうな声が聴こえる。


「おかえり、班長」


 ファディルはノリのそばにしゃがみこみ、ウタリを見下ろした。


「肉物の経口投与を観察させてください」


「はいはい、いいよ」


 ファディルは眼鏡に双眼鏡を添えた。


 なぜわざわざ双眼鏡で観察するのか。目が悪いからなのか? とラフマンは眉をひそめた。



 ◆ ◆ ◆


 

(再生経過観察、開始)


 双眼鏡のレンズ越しに、医薬品の乾燥した皮膚が映る。


 眼の倍率を一段上げる。


 水分の抜け切った皮膚組織が見えた。表面が突き出たガラス片のようにささくれ立っている。さらに視野を沈め、細胞がはっきり見えるレベルへ拡大する。


 皮膚を日差しや刺激から保護する表面の膜が減少。膜の剥がれた部分から、細胞と細胞を繋ぐ脂質の層が丸見えになっている。


 脂質の層では、乾燥した各細胞から鱗片が剥がれ落ち、飛び散っていた。白く透き通った鱗片が隙間なく降り積もり、レンズ越しに雪原を見ているようであった。


 ひび割れから、さらに奥の皮下組織の乾燥が透けて見えた。


 表面の膜の下層には、水と油分を溜める貯水槽のような役割がある。貯水槽が本来含有する水分と油分も全て消失し、完全に乾ききっていた。これでは干し肉同然である。


(これは保湿で回復する段階ではありません。重症)


 染色体レベルにまで倍率を上げると、二本鎖も螺旋階段も損傷していた。螺旋を描いていた二本鎖は千切れ、階段の踏み板が一枚ずつ外れてバラバラに漂っている。


 医薬品の身体は、生命情報が崩壊したただの肉塊と化していた。


 ノリの声が横から聞こえた。


「班長、何かわかったの?」


「水分補給でも保湿でも回復不可能なレベルです」


「ふぅん⋯⋯ほぼミイラだね」


「ノリ、なぜこの肉が医薬品に最適だと思ったのですか」


「それは⋯⋯なんとなく、です」


 なんとなく、という直感には必ず根拠がある。ファディルは問い詰めた。


「なんとなく、の根拠は?」


 ノリは困ったように答える。


「それ言われちゃあなぁ」


「虚偽報告はもう許しませんよ」


「はいはい。えっとね、イルハム兵長が、この肉が最適だって」


 先ほど、肉を持ってきた黒い長髪の島兵だ。


「兵長はなぜ最適だと仰っていたのですか?」


 ノリはわからないというように唸る。


「うーん、説明難しくてよくわかんなかった」


 言葉を濁すばかり。ノリは何かを隠している。また虚偽報告か、とファディルは呆れる。


 いつも正確な報告ばかりをしていたノリが、今日は驚くほど隠蔽を繰り返している。


 なぜ隠蔽する必要性があるのか問い詰めても、隠さなければならない根拠が解消されない限り、おそらくノリは虚偽報告を続けるだろう。


 連携力、低下継続中──。


(このまま連携力が低下し続けては、業務に支障が出ます)


 連携力低下数値演算、一時停止。


(とにかく⋯⋯詳細は、後で兵長に聞いてみるしかなさそうですね)


 ファディルは双眼鏡から顔を上げ、イルハム兵長を探す。七十名の中にも、半径百メートル内の九百三十七本の木の上にも、いなかった。


 そういえば、彼は木の上から突然姿を消した。まるで存在自体が空間から消滅したように──。


 あれを見た途端、脳内の演算が混乱し数字と記号が乱れ、思考停止したのを覚えている。


 思い出すだけで全身の毛穴約三千五百七十一本が開き、青い生体反応粒子が薄い煙幕のように身体を覆っていくのが視界に映る。


 あれは、何だったのか。


 脳疲労による幻覚だったのか。


 だが、イルハム兵長が内臓を持ってきて、木の上から落としたのは確かだ──


 経口投与から十分が経過した。


 白い粉を吹いていた皮膚が、瑞々しさを取り戻していった。脂質の層の水分油分の含有量が上昇し始めたのだ。乾いた貯水槽に体液が満ち始め、層の厚みが増していく。


 乾燥細胞の雪原は、みるみるうちに果実の表皮のごとく潤いに満ちた大地へ変わっていく。


 ファディルの脈拍数が上昇する。


「ノリ、皮膚が再生に転じました」 


「ほんと!?」


(螺旋階段も修復されましたかね)


 デオキシリボ核酸レベルへ倍率を上げる。二本鎖は切断部で再接続を開始し、螺旋階段が一枚ずつはめ直されていく。


(やはり⋯⋯)


 経口投与した肉には、医薬品の乾燥状態を治癒する効果があったのだ。


(イチゴもだめ、コンビーフもだめ、しかしこの肉であれば再生可能であった)


 その根拠は、医薬品が肉を消化しているところを直接観測しなければ得られない。


(消化⋯⋯?)

 

 違和感を覚える。胃の蠕動運動で食べ物を胃液と混ぜ合わせ、消化が始まる前に皮膚組織が回復し始めた。


 ということは──。


(経粘膜吸収の可能性が高いですね。⋯⋯ということは、粘膜が胃液の代わりに肉物を溶かして吸収しているのでしょうか)


 本来、あり得ない話だ。


 だが、生命史上類を見ない特殊体質者の医薬品であれば、話は別。


 食道を切り開き、肉物が粘膜に吸収されているのかどうか見てみなければ詳細はわからない。


「ノリ、医薬品の食道を切開して肉物の吸収を観察します。よろしいですか?」


 ノリが掌をファディルにかざし、慌てたように制した。


「待って待って! だめだよ班長! 回復途中に喉切って出血してまたカサカサになったらどうするのさ!」 


 観察に気を取られ、肝心なことを忘れていた。確かに喉から出血すれば、最初からやり直しである。肉も無駄になる。


「仕方ありませんね。では⋯⋯」


 ファディルは医薬品の腕のひび割れた部分に、ナイフで小さく削ぎ落とした生肉の欠片を埋めこんだ。


 双眼鏡を覗き込み、肉片と角質層の接面に焦点を当て、細胞レベルにまで目の倍率を上げる。


 背筋を寒気が駆け抜けていき、身体が震え上がる。


「⋯⋯! これは⋯⋯!」


 肉片の細胞膜が溶けて破れ、医薬品の角質層の細胞と融合していた。


 細胞同士が融合している接面を拡大する。肉片の細胞のミトコンドリアが、ゴルジ体が、小胞体が外部へ飛び出し、医薬品の細胞質基質(サイトゾル)(※ミトコンドリアなど細胞小器官を包むゲル状の液体)へ流れ込んでいく。肉片の細胞核までもが溶け出し、お互いの染色体が紐を結びつけるように絡み合っていくのが見えた。


 それらの融合は、細胞とは思えない凄まじい速度で行われていた。


 異なる生物の細胞と細胞が、一切の拒絶反応を起こすことなく溶け合っていく。


 何もかもが、生命の法則に反する非現実的現象だった。


 ファディルは息をするのも忘れて、あり得るはずのない目の前の光景をただ呆然と見つめていた。


(何です、これは⋯⋯)


 融合する細胞と細胞の間で、一体何が起きているのか。


 細胞が膜を崩壊させ溶け合う接面を、分子レベルにまで拡大視する。肉片の細胞の分子の形状が、じわじわと医薬品のものと酷似した形へ変容していった。


 融合した肉片の細胞は、医薬品の細胞にすぐさま変身し、あたらしい膜を形成して閉じる。拒絶反応は見られなかった。


 医薬品の細胞が、肉片の細胞を吸収し取り込み、瞬時に自分のものに作り替えてしまった。


(まるで⋯⋯)


 細胞が、細胞を食べているかのよう──。


(拒絶反応を起こしていない? なぜ⋯⋯)


 原因は、紐状に絡み合っていた染色体にありそうだ。


 染色体に焦点を当て、デオキシリボ核酸レベルにまで拡大視する。


 肉片と医薬品のデオキシリボ核酸が、ツギハギに繋がり合っていた。異なる生物同士の生命情報を無理矢理接合した歪なデオキシリボ核酸に脳が悲鳴を上げ、胃の気持ち悪くなるような吐き気と、地面の揺らぐような目眩を生じさせる。


(何が、起きているのです⋯⋯)


 螺旋階段レベルにまで拡大する。肉片の二重螺旋が千切れ、螺旋階段の足場が核原形質(※核膜の中の液体)の中を漂い、泳ぐように一本ずつ移動して並び順を変えていく。まるで席替えをするように。


 入れ替わった足場が二重螺旋に突き刺さると、千切れた二本鎖が閉じていった。目が、新しく出来上がった二重螺旋を赤い光で塗り潰して解析していく。長い長い全ての螺旋階段を解析し終わると、頭の中に結論が浮かび上がった。


 解析結果──医薬品の螺旋階段の配列と九九九.九パーセント、一致。


 数秒もしないうちに、肉片の生命情報は全て医薬品のものへ完全に書き換えられてしまった。 


 だから細胞間で拒絶反応が起きなかったのだ。


 ファディルは双眼鏡から顔を上げて、頭蓋骨に重りでも入っているかのようにぐらぐらとふらつく頭を抱えた。宙を漂うように、身体も上下左右感覚を失っている。疲れのせいではない。異常すぎるものを連続で見てしまい、自律神経系が狂ったのだ。


 ファディルはノリの腕の中に横たわる医薬品の顔を見た。瞬きもせず呆然と宙を見上げる医薬品の顔の皺が、少しずつ消滅していた。


(医薬品。あなたは一体何者です)


 再生し始めた影響か、医薬品は目を閉じて眠った。






 経口投与から二時間。干からびたミイラのようだった医薬品の全身は、体液をみなぎらせてふっくらとし、ほぼ元の姿に戻った。


 白い肌の下で血色が広がっていくのが、まるで薄紙に水を吸わせるように見えた。


 老婆のように皺だらけだった顔は、元の幼児らしい丸顔に変化した。くぼんでいた頬はぷっくりと丸みを帯びる。


 赤紫色だった唇も鮮やかな桃色に変化する。


 骨と皮一枚の枝のようだった両腕は、真っ白な表皮を纏う新鮮な手になっていた。


 医薬品を見守っていた衛生兵たちが、声を押し殺しながら泣き出す。


「ウタリちゃん⋯⋯よかった」


 一人の衛生兵が、頬を滝のように伝い落ちる涙を拭っていた。


「ごめんね、ごめんね⋯⋯!」


 衛生兵たちの口から声の周波数を示す粒子が放出される。声調パターン解析式に使用される粒子だ。


 声調パターンが示すのは『罪悪感』。屋敷でメイドが皿を割ったり、島兵たちが仕事でミスしたことを叱責された時などによく観測された傾向の声調を、衛生兵たちも発していた。


 ファディルの視界いっぱいに『悲嘆』の紺色、『快感情』の明るい黄色、『安心感』を示す黄緑色の生体反応粒子が入り混じり、飛び交う。


 特に紺色と明るい黄色が一際眩しく、目の奥を針で刺されたかのように痛くなり、ファディルは双眼鏡の本体で目を覆う。


(感情がやかましいですよ、田舎者ども)


 なぜ医薬品の復活が彼らに罪悪感、悲嘆、快感情を感じさせているのかは、解析不能。


 しばらくして衛生兵たちの感情が収まった後、ファディルはほぼ元の姿に戻った医薬品へレンズを向けた。


(元には戻りましたが、採取できる血液量は従来通り僅か。⋯⋯これでは使い物になりません)


 衛生兵たちは、まだ「よかった」「ごめんね」と繰り返している。乾燥状態から元の「使えない」医薬品に戻っただけなのに、何を喜んでいるのかファディルにはさっぱりわからない。


(負傷兵をまともに治療できない現状を無視して何がよかった、ですか)


 いつもこうだ。他人は合理性より、脳の余剰産物である感情を優先する。思考より感情を爆発させて泣きじゃくるのは、赤ん坊同然である。衛生兵たちは大きな子供さながらだ。


 感情は演算を阻害する厄介者であり、邪魔な感情を素早く排除することがファディルの脳の仕組みになっていた。


(復活したはいいものの、血液量は以前変わらずです)


 ファディルは天を仰いで、現状打開を鑑みる。


(血が足りなければ、結局のところ負傷兵と落伍兵が続出して残り僅かな部隊存続率が低下するのみです) 


 医薬品の血液量が足りなければ、負傷兵と落伍兵は死亡し損害率に加算される一方だ。存続率に分類される残り七十名も、いずれ損害率に割り降られる。


(なんとかなりませんかね)


 なんとか、ならないのか──


 電撃が走るように、閃きが頭を過る。


 ファディルは瑞々しい肌を取り戻した医薬品をレンズ越しに見つめる。


 完全回復した状態でさらに肉を投与した場合、血液は余剰生産されるのか。


 ふと、そんな疑問が浮かんだ。


 自分でもなぜそう思ったのか、わからなかった。


「余剰生産」は、生物の法則に反する。


 血液や体液の生産は、基本的に恒常性の範囲で制御される。


 出血などで減った分を補うようには増えるが、必要以上に余剰を生産することはない。


 肝臓や骨髄がフル稼働するのは「損失」や「需要増大」に応じてであって、完全回復すれば止まる。


 本来、あり得ないことだ。


 だが、医薬品は生物の法則を逸脱した人智に及ばぬ存在である。


 もしも、という予感がファディルの中の常識を打ち破ろうとする。


 科学というものは、もしもで常識を破り発展してきた。今ここで、あり得ないと立ち止まらずに可能性を疑い、実行してみる価値はある。


 ファディルは腰嚢から支給品のマルチツールナイフを取り出し、医薬品の腕に刃先を突き刺す。ぷつっと赤い切れ込みが白い肌に現れる。


「ファディル少尉、何を!?」


 一人の衛生兵が慌てたように声を上げる。


「血液の余剰生産が可能かどうか調べます」


 衛生兵は声を詰まらせながら訊く。


「余剰生産、ですって?」


「医薬品の生体リソース生産は、通常の生命体と同じく限界点で止まるのか。それとも生命の法則を逸脱し余剰生産されるのか、確かめたいのです」


「は?⋯⋯何を、言って⋯⋯」


「科学とは、常識を疑うことから始まります。そうでしょう?」


 ファディルは飯盒に入れた肉の欠片を取り出し、ナイフで小さく千切って傷口に埋めこんだ。


 十秒経過。三十秒経過、一分経過⋯⋯何も起きない。やはり医薬品とて、生命の法則に縛られているのか。拍子抜けし、自然と肩から力が抜ける。


(余剰生産、不可。期待外れです)


 毎日体外に余分な体液を垂れ流してしまうような欠陥は、医薬品とて存在しないというわけだ。生物学的には正しいが、医療物資のない今は「使い物にならない」としか言いようがない。


「もうやめておけ、ファディル少尉」


 子供を咎めるような口調でヴァレンスが叱責する。そんな彼にファディルは憮然として嫌味を垂れた。


「あなただって医薬品を損壊したでしょうに。どの口が言うのです」


「なんだと⋯⋯っ」


 ヴァレンスの表情が歪む。怒りの粒子と、罪悪感の発声音域が同時に出る矛盾した反応を感知する。


「⋯⋯あっ」


 隣の衛生兵が声を上げる。


「傷口付近の血管が、膨らんできている⋯⋯!」


 予想外の事態を目の当たりにし打ちのめされたような声色で、衛生兵は呟く。


「そ、そんな、こんなことって」


 ヴァレンスが腕の傷口を覗き込み、呆れたように溜め息をつく。


「傷口に異物を入れて血管が圧迫されているだけだ。騒ぐな」


 血管の膨張は腕全体へ広がっていく。はち切れんばかりに膨れ上がった血管が皮膚から浮かび上がり、ミミズ腫れのようになる。


「ヴァレンス衛生隊長殿、これは⋯⋯」


 答えを求めるように、誰かが問う。


 ヴァレンスは何も答えなかった。無視していないのは、彼から発せられる青い生体反応粒子から明らかだった。否定を覆すような現実を目の当たりにし、彼は恐怖していた。


 ファディルは医薬品の腕を持ち上げ、血管から発せられる僅かな血流の振動を計測する。


(明らかに先程より血液量が増えている)


 ファディルの中で、予感が現実のものに変わった瞬間だった。寒気とともに全身の毛穴が開き、黄と赤の生体反応粒子が光の煙となって立ち昇る。


 傷口から血が溢れ出てきた。最初はちろちろと垂れ落ち、徐々に泡立ち始め、勢いが増していき飛沫を上げながら噴出する。


 飛び散る血飛沫が衛生兵たちにかかり、彼らは悲鳴を上げる。


 それは明らかに、血圧上昇によるものではなかった。 


 腕にポンプが内蔵されているかのように、勢いよく血液が押し出されていた。


(余剰生産⋯⋯)


 腸に疼くような熱が生じ、ファディルの発する光の煙が目を開けられないほどの輝きを放ち出す。


(可能、だったのですね)


 ミミズ腫れを見守る衛生兵たちから、恐怖を示す青色の生体反応粒子が青い海の気泡のごとく噴き上がる。 


 一方でファディルは、全身の細胞が沸き立ち熱を発するような、今までにない高揚感に身を震わせていた。自身からは、安心感の黄色と興奮の赤色が入り混じる生体反応粒子が吹雪のように荒れ狂う。


(──身体浮遊式、限界値)


 それは、「恍惚」と表現すべき心理現象か。皮膚に張り巡らされた神経をかけめぐる快感の電流を浴び続け、頭が逆上せてくる。


 無表情で、笑うことも無く、脳が焼ききれそうな興奮の炎にファディルは燃やされていた。 


(ああ、なんということでしょう)


 ファディルの眼鏡の奥で、赤い瞳孔がわずかに震えていた。


(医薬品、あなたはどこまで生命史を塗り替えるおつもりです?)


 皮膚下の血管はやがて芋虫のように膨れ上がり、腹脚のごとく蠕動し、余剰生産された血液を傷口へ押し出してゆく。まるで生産されすぎた物資を慌てて外部へ出荷するように。


 とうとう血液は柱を立ち昇らせるほどに勢いを増し、医薬品の腕を真っ赤に濡らしていく。


 ファディルはふと我に返り、医薬品の腕を反対側へ軽く捻り、飯盒の中へ血液を溜めた。


(私としたことが、忘れていました。せっかく増えた余剰リソースを採取しないのは勿体ないですね)


 血液生産はまだ止まらない。飯盒の底が完全に溜まり、かさは増える一方だ。


「三百ミリリットル。まだ増えますね」


 ファディルは顔を上げて、衛生兵たちを見回した。彼らは生気が抜けたような顔で、呆然と宙を見ていた。


「よかったですね。これで多くの負傷兵を助けられます」


 ヴァレンスが口だけを動かす。口の動きから「奇跡だ⋯⋯」と呟いたのがわかった。


 飯盒に血が溜まっていくのを見つめながら、ファディルは木の上から突然消えたイルハム兵長を思い出す。


(それにしてもイルハム兵長、なぜこの肉が医薬品の再生に効くと知っていたのです)


 余剰生産よりもそちらのほうが気になって仕方なくなり、ファディルは地面に飯盒を置いて立ち上がり、茂みの中へ入っていった。


「イルハム兵長、イルハム兵長」


 視界の中にある合計千五百三本の木の上を見ながら、ファディルはいるのかいないのかわからないイルハムを呼ぶ。


「なぜ医薬品の再生にこの肉が効くのか、どうか教えてください」


「肉の正体、見破られたか」


 突然前方からしわがれた声がし、ファディルは息を呑む。


 茂みの中に長髪を垂らしたイルハムが立っていた。髪の間から覗く黒い濁った瞳が、ファディルを見つめている。


 全身の肌に冷気が走った。


(物音が一切しなかったのに。いつの間に⋯⋯)


 そういえばカラリヤ湿原の戦いでは、イルハムは瞬間移動するように敵の首を跳ねていた。


(原理、不明──)


 ノリの使った不思議な術を見た時と同じような感想をファディルは抱く。それ以上は理解の範疇を超え、何も考えられなかった。


 イルハムは問いかける。


「なぜ憤らない?」


「は?」


「普通なら⋯⋯その肉の正体がわかった途端、憤り、または恐れ慄くはずだ」


「仰っている意味がわかりませんが、大変面白いものを見れて光栄です。感謝致します、イルハム兵長」


 イルハムの濁った瞳に、嫌悪の色が滲む。


「⋯⋯面白いものだと?」


 ファディルはイルハムに向かって、手のひらにのせた肉片を差し出した。









「──これは、()()ですよね」

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