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3-1 ノリの不思議な焚き火

 アリフ隊は空になった敵陣地で野営し、翌朝、準備を整えてジャングルへ向かった。  


 カイラス山岳までの進路は、ファディルの星読みによって正確に割り出された。


 もはや地図も道標も当てにならないなか、それは唯一の拠り所だった。


 ただし道中で敵と遭遇しなければ、の話だが。







 薄明のジャングルは、深い霧に閉ざされていた。白い靄が木立の隙間を這い、すべてを飲み込むように漂っている。視界は数メートル先すら覚束ない。


 島兵たちは二列縦隊を組み、薮に閉ざされた道なき道を、ひたすら歩かされた。足元のぬかるみに足を取られ、鋭い枝が肌を裂く。


 それでも止まることは許されない。進め、とだけ命じられている。


 ウタリは衛生隊が担架に乗せて運び、ラフマンは彼女の世話から解放されていた。


 ラフマンの脳裏にはあれからずっと、解剖されるウタリの叫ぶ姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。


 台に拘束され、衛生兵たちに囲まれて、泣き叫んでいたウタリ。


 ──いやぁぁぁ! かゆい! かゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいぃぃぃー!


 ──離して! 離して!


 あれは、痛みと絶望を濃縮して吐き出す子供の悲鳴であった。なんてひ弱な魔女なのだろう。


(あれだけの仕打ちを受けたのに、誰も呪われていない。血を抜かれ、内臓までいじくられたというのに)


 ひ弱だから呪えないのか、そもそも呪う気がないのか。


 そしてもう一つラフマンの心を苛立たせるのが、負傷兵の大半が魔女の血によって回復したことだ。呪われた力が、アリフ隊を存続可能とした。


 何より気に入らないのは、あのクソメガネだ。


 魔女の穢らわしい血で回復させられたことに憤る者たちは、ファディルの説得によりすっかりウタリをただの子供と見なすようになってしまった。


 ──行軍中、医薬品はミントを食べていた私に向かって『その草は何というのか』と聞いてきました。ごく身近に生えているミントすら知らない者に、薬を作る知識があるとは思えません。


 ラフマンは唇を噛みしめた。思わぬ盲点を突かれ、反論の余地がない。確かに、そこらにたくさん生えているミントすらも知らない調薬師など、よく考えてみればおかしな話だ。


 伝承にある「秘薬を作る」という言葉をただ鵜呑みにして、そこに調薬知識などの背景は一切意識していなかった。


 ウタリをただの子供と見なす周りの変化に居心地の悪さを感じ、ますます孤独感は深まる。


(誰が魔女に感謝なんかするかよ)


 ウタリへ感謝することは、死後村人たちに「魔女の呪いを受けて穢れた一家」と侮辱された、亡き家族を更に冒涜するに等しい。


(妹が死んだとき、誰も助けてくれなかった。魔女の祟りだって、犬の餌にして──)


 犬に食われ、醜い肉塊になっていくユサの姿を思い出してしまい、ラフマンは首を横に振る。


 ラフマンにとって、死者への冒涜だけはどんなことがあろうと許せなかった。


 霧で表面のぬらつく歩兵銃を、ラフマンは握り締める。


(だからせめて俺だけは、魔女から父さん、母さん、ユサを守らなきゃ)


 二時間歩き続けると、段々と霧が晴れてきてジャングルの木立や茂みの葉の輪郭が明瞭になってきた。前列から伝令が伝わってくる。小休止命令だ。 


 島兵たちはその場に座り込み、眠るなり虫を食うなりした。


 集音マイクを警戒してか、談笑する者は一人もいなかった。風が枝を揺らす音が、薄闇の中で静かに響くだけ。


 足元の水溜りを、蛙が一匹、跳ねていった。ラフマンは指で掴み上げ、何の躊躇もなく口へ放り込んだ。 


 ぷちっ──ぷちぷちっ。


 粘り気のある肉が歯の間で潰れ、舌にぬるりとした内臓の感触が広がる。胃酸で溶けた虫の残骸だろうか、腐った土のような異臭が口中に満ちた。


 だが、吐き気はなかった。


 死んだネズミ、腐った芋、泥水。この身体は、もう「臭い」程度では動じない。腹に入れば、なんでもいい。


 森の中へ誰かが歩いていくのが見えた。観測班のノリ一等兵だった。いつもファディルに引っ付いている、人懐っこそうな顔が特徴の少年兵だ。


 小便だろうかと気にしなかったが、茂みの奥からノリのぶつぶつと呟く声が聞こえてきてラフマンは彼のほうを見た。


 呪文を唱えるように早口で、何を言っているのかわからない。ラフマンは眉をひそめ、重い腰を上げ、そっと茂みを掻き分けて進み、背後からノリの様子を窺った。


 ノリは古株の下に生えた一本の花の前に座り、両手を合わせてぶつぶつとひたすら呟いている。


 耳を済ませて盗み聞きする。現地の言葉ではなかった。聞いたことのない、異国の言葉。


 がさがさ──。 


 ノリの足元で、青い蕾を付けた花が、突風に煽られているかのごとく揺れている。森の中は、無風なのに。


 ラフマンは思わず息を呑んだ。


 何だ、あれは。風はない。葉も枝も動いていないのに──あの花だけが、何かに憑かれたように、暴れている⋯⋯。


 現実感のない光景に、周囲のものが目に入らなくなり、ラフマンは揺れる花に釘付けになる。


 ノリは呪文を唱えながら、小さな小袋から乾燥イチゴを取り出して花の前にばらまく。


 その瞬間、音もなく、イチゴはすべて霧のように砕け散り、赤い粉を辺りに撒き散らした。


 まるで自ら爆ぜたかのように。粉の粒子が空気を染め、地に降りて溶けていく。


 ラフマンは声にならない悲鳴を上げて腰を抜かし、その場に倒れた。


(今のは、爆発? いや違う、何が⋯⋯何が起こった?)

 

 ノリが立ち上がり、頭を抱えて悩ましげに呟く。


「あー、まいったな。ただでは助けてくれないってことか。全く、こっちは命かかってるっていうのに、代償が重すぎるよ。よりにもよって、あの『肉』かよ。容赦ないわぁ、ほんと」


 ノリは上を見上げて、睨むような表情になった。


「ああ、あなたですか。どうしました?」


 ラフマンはノリの見上げるほうへ目を向ける。木の上には、何もいない。


(誰と、話しているんだ?)


 ノリは嫌悪感と怒りともわからぬ不快感を滲ませたような声で、見えない何かと会話を続ける。


「お願いできますか? あの肉は、あなたなら手っ取り早く獲ってこれるでしょう。よろしく頼みます」


(──肉?)


 茂みからノリが出てきて、ラフマンは飛び上がるように避けた。


 そんなラフマンを気にすることなくノリは先頭のアリフ中隊長のもとへ向かい、しゃがみ込んで話し出す。


 異常な状況が気になって仕方ないラフマンは列を外れ、そっと二人のもとへ向かい、茂みに隠れて会話を聞く。


 アリフ中隊長とノリの会話が聞こえた。


「肉?」   


「はい。イルハム兵長が調達してきてくださいます。ウタリちゃんの回復に最適だと、班長が言ってましたので。班長の目による分析結果ですので、まず間違いないかと」


 アリフ中隊長は納得したように頷いた。


「なるほど、了解した」


 ラフマンは開いた口が塞がらなかった。──クソメガネ、あいつ肉の成分までわかるのか? 見ただけで?


 ファディルには、確か『神眼のファディル』というあだ名があったはずだ。


 以前、島出身の兵たちが言っていたのを思い出す。


 星を見ただけで、現在地を正確に割り出す。魔法じみた観測の才があると。 


 事実、自分たちは一度も迷うことなくカラリヤ湿原にたどり着いた。もしあれが本当に彼の目の力によるものだったとしたら──。


(そういえば、あいつ⋯⋯)


 ラフマンの脳裏で、ファディルとウタリの姿がふと重なった。  


(目の色も、髪の色も、まるで同じじゃねえか)


 今まで気づいていなかったことに、ラフマンは自分自身驚いた。ファディルは観測兵。人間。あの異様な銀髪と赤い目も、ただの色素異常。ずっとそう思い込んでいた。


 だが、星だけで道を測り、肉の成分を見抜く。人間業じゃない。そう思った瞬間、認識がぐらりと揺らいだ。


(もしかして、あいつも⋯⋯ウタリの同類か? だとすれば、あの赤い目も、ただの目じゃねえ)


 どこかで「まさか」と思ってしまう。ファディルが『人間ではない』という考えが、ラフマンの中でゆっくりと芽を出しかけていた。


 ラフマンは頭を横に振り、嫌な妄想を掻き消した。


(いやいや、あいつは人間だろ。士官学校を卒業したエリートだ。⋯⋯ウタリとは、全く違う)


 やはりただの色素異常だ、と結論づけてラフマンは無理矢理納得した。


 アリフ中隊長と話し終わったのか、ノリが立ち上がった。


 ──⋯⋯ぼとりっ


 粘性のある、鈍い重量感を伴った音が、静かな森に響いた。


 アリフ中隊長も、周囲の島兵たちも目を見開き、咄嗟に一歩、二歩と後ずさった。


 彼らの視線の先に、赤黒い物体が転がっている。

 

 空気が張り詰め、ただでさえ寒い空気がより凍てついていく。 


 島兵たちが怖気に満ちた声で呟く。


「なん、だ⋯⋯これ」


「に、肉⋯⋯?」 


 内臓の塊だった。かすかに湯気が立ち、光沢が木漏れ日の中でぬらぬらと光っていた。


 管が二本、途中で雑に千切れていて、地面に赤黒い染みを広げている。


「内臓だ⋯⋯」


 一人の呟きが引き金になり、島兵たちは一斉に叫び狂う。


「な、なっ、内臓がっ!」


「うわあぁぁぁぁぁっ!」 


「内臓! 内臓だぁっ!」


「空から? え? えっ?」


 ラフマンは木の上を見た。


(な、内臓⋯⋯? どこから⋯⋯)


 ──いた。葉の隙間から見える、黒い塊。長い髪が枝から垂れ下がり、外套は葉に同化するように溶け込んでいた。


 外套を纏うそいつが、口を開く。


「血をたっぷり含んだ、新鮮な動物の肉。お望み通り持ってきてやった」


 しわがれているのに、どこか艶がある、不快な湿気を帯びた声だった。声だけが、木々のざわめきの間からぬるりと滲み出すように響いた。 


 ラフマンは背筋を強張らせ、じりっと一歩後退する。 


(イルハム⋯⋯兵長⋯⋯) 


 行軍していないのに、ふとどこからか現れる。


 行軍している時、木の影から、喋らずにこちらを見ていた。


 長い髪の隙間から見える目が、紫色に輝いていた。


 死体の眼球や指を外套に縫い付けている。


 そんな怪談じみた噂の絶えない、幽霊部員の謎多い島兵。


 噂でしか聞いたことなかったが、長い髪と外套からするに、間違いなくイルハム兵長本人だろう。


 ノリがイルハムを見上げて、礼を言った。


「はい。ありがとうございます、イルハム兵長殿」


 ラフマンが木の上に視線を戻したときには、イルハムはもういなかった。木から降りる音さえしなかったのに。


「!⋯⋯どこへ?」


 木の上を見渡したが、イルハムはどこにもいなかった。  


(き、消えた⋯⋯?)






 数分後、イルハムの持ってきた内臓をどうウタリに食べさせるかという会議が始まった。


 ラフマンは少し離れた木陰から、その様子を静かに見つめていた。アリフ中隊長、ファディル、ノリ、衛生兵長たちが輪になり、言葉を交わしている。


 ファディルの一語一語を押し出すような、平坦な抑揚のない声が聞こえた。


「私は、動物の肉が医薬品の回復に繋がるとは一言も申し上げておりません。ノリ、なぜ虚偽報告をしたのですか」


 ノリはびくりと肩を揺らし、視線を泳がせた。ラフマンの目にも、彼が何かを誤魔化そうとしているのが見て取れた。言い訳の言葉を探している。そんな顔だった。


「そ、それは⋯⋯」


 ノリの声が上擦る。ファディルは眉ひとつ動かさず、感情の色を含まない声で淡々と続けた。


「これは、私たちの連携障害として記録される重大事案です」


 並べられる言葉は叱責なのに、まるで台本を読み上げるかのごとく棒読みなのがかえって気味悪い。 


 周囲の空気が冷えていくのを肌で感じた。ラフマンは思わず息を止める。


 虚偽報告? ファディルが肉の成分を調べたという話、あれはノリの作り話だったのか。なぜそんな嘘を。 


「正直に申し上げます⋯⋯」


 ノリは肩を震わせながら言った。アリフ中隊長や衛生隊長の前だからか、敬語だった。


「班長殿が分析した結果だと伝えれば、アリフ中隊長殿に納得していただけると思ったからです」


 沈黙が落ちる。アリフ中隊長が眉をひそめ、穏やかな声で問いかけた。


「虚偽報告はともかく、なぜウタリちゃんに動物の肉が効くと思ったんだ?」 


 ノリは叱られる子供のように俯き、怯えたような声で答える。


「お答えできません」


 即座にファディルの声が重なる。


「やはり、作り話ですね」


 ノリは首を横に振った。


「決して、そういうつもりではございません」 


「では、なぜです」


 しばしの沈黙。ノリは意を決したように顔を上げ、ファディルを鋭い眼差しで見返した。


「こうなっては、仕方ありません。ならば、実際にウタリちゃんに肉を食べさせて、効果を証明してみせます」


 ノリは地面に落ちている内臓のほうへ顔を向けた。


「さすがに生のままでは食べさせられません。火を起こさないと」


「伏兵の潜んでいるかも知れない敵地のど真ん中で焚き火、ですか。愚行の極みですね」


 ファディルは眼鏡を押し上げ、いつもの棒読みで、一言──





「医薬品の胃袋を切開して、直接内臓肉を押し込めばいい。それが最短です」





 誰もすぐには言葉を返さなかった。何を言われたのか、一瞬理解が追いつかなかったのだ。


 空気が凍りつく、というより、時間が止まったような沈黙だった。


 ラフマンは唖然とし、声も出せなかった。


(今、なんて⋯⋯?)


 いくら嫌味と冷笑好きなクソメガネとはいえ、さすがに今のは度が過ぎていた。発想自体が、狂気じみでいて異常すぎる。


 張り詰めた静寂の中に、葉擦れの響きがこだまする。


 アリフ中隊長も顔を引きつらせ、腰を上げて咎める。


「ファ、ファディル少尉⋯⋯? 今、なんと言った?」


 ファディルは全く悪びれる様子もなく、再び口にした。


「胃袋を切開して、直接内臓肉を押し込めばいいと申し上げました」


 ヴァレンスとガマン軍医の二人も立ち上がり、ファディルに詰め寄る。


 ヴァレンスはファディルの肩を振り回すように鷲掴みにし、顔を歪めて叫ぶ。


「ファディル少尉、貴様⋯⋯自分が何を言っているかわかっているのか。胃袋を切開だと!? ふざけるなっ!」


 だがファディルは、まるで怒りが耳に入っていないかのように、人差し指をそっと唇に当てた。


「お静かに。集音マイクに声を拾われます」


 一方で、ガマン軍医は両手をあわあわと宙を描くように引っ掻き回しながら、声を震わせる。


「ファディル君そ、それはさすがにいかん、我慢だ、我慢⋯⋯っ」


 ノリが言葉を絞り出すように言った。


「は、班長。胃を切開して押し込んでも、生肉って消化不良起こしやすいですし、ウタリちゃんお腹壊しちゃいますよ。下痢して余計に体力無くなります。そのためには⋯⋯」


 ファディルは心底興味なさそうな声でノリに訊いた。 


「代案をお持ちで?」 


「⋯⋯はい」


 ノリは目を伏せて答え、皆を見回した。島兵たちはノリに怪訝そうな視線を送っている。


 ノリは皆に呼びかけるように言った。


「誰か、シャベルを持ってきてくれ。あと、ツルイチゴ、肉の臭み消しにミントとかハーブがあれば助かる」

 





 ノリの代案通り、総員でツルイチゴ、ハーブを探すことになった。ツルイチゴやハーブは、このあたりなら少し歩けばいくらでも見つかる。


 ほどなく、茂みから島兵たちが持ち帰った山盛りの採集物が、大きな葉の上に置かれた。ツルイチゴに、ハーブ。甘酸っぱい香りとハーブの芳香が、漂いはじめる。


「みんな、ありがとう」


 ノリの隣では、元肉屋の島兵が木の皮をまな板にして手早く内臓肉を捌いている。器用な手つきで管を裂き、血を絞り、細かく切り揃えていく。


 ノリは彼の手元を見つめ、穏やかに言った。


「ありがとう。すごく綺麗に捌けてる」


「ありがてぇ。⋯⋯でもな」


 島兵は包丁代わりの銃剣を止めた。


「この肉、なんか変だ」


「変?」


「俺、マタギの取ったイノシシや鹿も捌いてきたが、こんな肉は見たことねぇ。匂いも、切ったときの音も、繊維も、ぜんぜん違う。兵長、何の肉を取ってきた?」


 突然ファディルが島兵に近づいてきて、一枚の肉片を無言で持ち去っていった。


「おい班長、何するでぇ?」


 ファディルは答えずに茂みの奥へ消えていく。島兵たちが去っていく彼の背を見届け、ひそひそとささやき合う。


「⋯⋯それにしても、さっきの発言にはびっくりしたな」


「胃袋を切開して直接肉を詰めろって⋯⋯」


「すげぇ発想だ。どうしたらそんなこと思い付けるんだよ」


 ノリが静かに答える。


「班長⋯⋯あの人はね、一度正しいと信じたら他のことはどうでもよくなる。他人の痛みとか、気持ちとか⋯⋯そういうのもね」


 内臓肉を全て切り終わると、ノリはシャベルで穴を掘り始めた。穴掘り、結局

焚き火をするつもりなのか。代案も嘘かよと内心舌打ちしながら、ラフマンは思わず訊いた。


「ノリ一等兵、焚き火は無しと先程⋯⋯」


「勿論火は焚かないよ。マッチは湿気でやられているから、そもそも火を付けられないし」


 常夏のセルク島の湿度は、平均八十度を超える。マッチなどすぐ湿気って使い物にならなくなる。 


「では、何をするおつもりなのですか」


「秘密」


 このクソガキ、おちょくってるのかとラフマンは罵声を浴びせそうになるのをなんとか堪える。


 ノリは自分の飯盒を、掘った穴の中に据え置いた。その中に臭み消しのハーブ、細切れにされた内臓肉を一緒に放り込み、さらに水筒の水を半分注ぎ込む。


 ノリは飯盒に蓋をし、その上に土をかぶせた。


「これで⋯⋯土の中で、低温調理できる」


「は?」


 ラフマンは足元を指先で触れた。土は調理できるほど熱くない。


 ノリは苦笑いしながら言った。


「ひ、火がなくても、ジャングルの地熱を使えば、時間はかかるけど、まぁ⋯⋯ある程度やわらかくなる」


 ごまかすように、半笑いでノリは説明する。


 島兵の一人が訊いた。


「地熱? そんなんで煮えるのですか?」


 ノリは肩をすくめた。


「うん、大丈夫」


 確信もなさげに言ったその表情に、ラフマンは小さくため息をついた。


(クソガキめ。だが、やるだけやってみるってことか)


 ノリは飯盒を埋めた土の上にツルイチゴをたくさんばらまいた。ラフマンは眉をひそめて訊く。


「ノリ一等兵殿? 一体何を。なぜイチゴをばらまくのです?」 


 ノリはツルイチゴに手をかざし、目を閉じて呪文を唱え出す。


「ハヤラ、サヤマネ、リナリマヤ、マリヤマネリ、マタアシハリマヤラ⋯⋯」 


(何語だ? やっぱり遊びか?)


 ラフマンが苦笑いし、困惑していると、ノリは目を開け、一言──




「──ヴィシュヌ」


 


 凍りついた。


 あまりに唐突に、そして鮮明に。


 ノリの口から確かに、セルク島で畏れ敬われる神の名が発せられたのだ。


 鼓動が跳ね上がる。先ほどまでの、ふざけたまじないごっことは明らかに違う。放たれた「ヴィシュヌ」という言葉が、重く、濃く、場を支配していた。


(今、ヴィシュヌって言ったか?)


「ノリ一等兵殿、なぜヴィシュヌ様の名を」


 突然、土の上のツルイチゴが一斉に、音もなく干からび出した。 


「!?⋯⋯なんだ⋯⋯」


 赤い果肉はみるみる萎み、表面にひびが走る。


 乾いた皮がぱり、と剥がれ、果肉は砂のように崩れて散った。


 甘い匂いだけが、ほんのり香る。


 島兵たちが驚愕の声を上げる。


「イ、イチゴが!」 


「砕けた⋯⋯勝手に⋯⋯」


 ノリはかざした手を離し、微笑む。


「これでよし」


 暫くすると、土の中からカンッ、カンッと蓋の動く音がし始めた。 


「蓋の音だ」  


 一人の島兵が土に耳を当てた。  


「⋯⋯グツグツいってるぞ」


「何だって」


「本当に、煮えてるのか?」


 ラフマンたちは訝しげに土を見下ろす。徐々に、鼻にツンとくるようなハーブの香りがしてきた。 


「火も焚いてないのに香ってきたぞ」


「まさか、煮えてる?」


「信じられるかよ。火がねぇのに」


 ノリは微笑んで頷く。


「煙は出ないから、安心して」


 土から白い湯気が立ち昇る。


「湯気が!」


「煮えてる!」


 ラフマンは手をかざしてみた。熱気が指を焼き、慌ててラフマンは手に息を吹きかけた。


「あっちぃ!」


 唖然としながらラフマンは白い湯気を見つめる。信じられないが、火を使っていないのに煮えているのは事実だ。


「ノリ一等兵殿、一体どうやって火を?」


 ノリは誤魔化すように微笑み「秘密」とだけ答え、茂みの向こうに目を向けた。ファディルが消えていった方向へ。


「班長、どこ行っちゃったの⋯⋯」


 寂しそうにノリは呟いた。

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