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2-6 英雄誕生

 敵本陣が壊滅した後、丘陵に潜んでいた敵兵たちは林の奥へ逃げ込み、姿を眩ませた。


 偵察兵が湿原周辺の林や各丘陵の機関銃壕を調査したところ、敵の姿はなくもぬけの殻になっていた。敵が本陣陥落を伝え、逃がしたらしい。


 激戦が終わり、カラリヤ湿原には静寂が戻った。吹き渡る風が林を揺らし、カラリヤが光の波を走らせながらうねる。


 風の音が響き渡る湿原を、ファディルは歩いていた。


 前方をゆくのは、前かがみになりよろよろと歩くアリフ中隊長である。


 彼はカラリヤの生えていない底なし沼の縁に立ち、ベルトのホルスターから拳銃を取り出し、頭に当てた。


 部隊の安全より上の命令を優先し、カラリヤ湿原に突撃し、結果的に多大な損害を被った。その責任を取るため、自決するようである。


 ファディルはアリフ中隊長の後ろに迫り、止める。


「おやめください、アリフ中隊長殿」


 今ここで自決でもされれば、統率は完全に崩壊する。


 隊長がいなければ命令系統が乱れ、部隊の損耗率が二倍以上になり、 撤退も進軍も不可能。砲兵隊並びに観測班の業務も狂う。


 子どものようにひ弱な隊長でも、部隊に統率がある限り、秩序は保たれる。


 彼は無能ではない。ただあまりにも、現実に対して脆かっただけだ。


 アリフ中隊長は頭に銃口を押し当てながら言った。


「止めるな、少尉」


 自決を止めるには、思い止まらせるのに最適な言葉を選ばなければならない。 


「湿原に伏兵部隊がいると大隊本部は予想していなかったのです。この私でさえも」


 アリフ中隊長の自責を否定する論理により自己肯定上昇率一・二パーセント。


「迂回、待機、選択肢は与えられていた。ただし敵は林に、浅瀬全域に伏兵させていた。何を選んでも、いずれも死への一本道でした」


 選択肢はなかったという論理により免責効果、四十二パーセント。


「アリフ中隊長殿、どうか思い留まってはいただけませんか。どうか⋯⋯あなたがいなければ、我々の生存は不可能です」


 同情を乞う発言により、部隊統率を優先させる思考へ誘導。声に振動を三・二パーセント加え、隊長がいなければ何も出来ない無力さを演出する。


 アリフ中隊長は暫しの沈黙の末、拳銃を頭から話した。


「⋯⋯まさか、少尉に思い留まらさせられるとは思わなかったよ」  


 ファディルは後ろを振り返り、歩き出す。


(あやうく私たちの業務が狂うところでした。本当に危なかったです)


 湿原の風がファディルの軍服を揺らす。


(中隊長生存作戦、成功)  


 脳内に浮かぶ生存作戦の数式、数字と記号入り混じるその中に奇妙な式が並んでいた。


(調和)+(綻び)+(修復)


 変数の名前が+で繋がった式だ。


 調和や綻びなど、いずれも謎の単語。


 ファディルは頭を抱えた。


(何なのですか、この謎の式は)


 医薬品と出会ってから、この式は出現するようになった。


 魔女を恐れた島兵たちが部隊統率を乱そうとしたのを咎めた時にも、(調和)+(綻び)+(修復)の式が現れていた。


 そして今、アリフ中隊長を咎めた時にも。


(⋯⋯全く、気味が悪いものです)

  





 クレーター面より八十メートル先の機関銃陣地丘陵の、その裏斜面の麓にラフマンたちは集合していた。


 島兵たちの目の前には、両足をカラリヤの茎で拘束された敵兵七名と、初老の敵指揮官一名が並んでいる。


 鉄帽子を脱いだ彼らはラフマンたちと違う容姿で、目鼻立ちが掘り深く、目は青く、髪の毛は金髪や橙色など明るい色だった。


 異人種の姿を間近で見た島兵たちは、好奇の目を彼らに向けていた。ラフマンも仲間たちの間に立ち、異様な姿の彼らを見ていた。 


(金髪に青い目、気味が悪いな。⋯⋯まるで妖怪だ)


 敵は死体しか見たことないが、生きている奴を間近に見ると化け物感があり、背筋が薄ら寒くなる。色付きの髪と目が、ウタリに似ていて。 


(で、あいつが指揮官か)


 敵兵の中でも一番目を引く、制服姿の初老将校が列の中央にいた。   


 指揮官は島兵の目に怯えることなく、強面の風貌を崩さず、見るものを射すくめるような眼差しでラフマンたちを睨み返していた。

 

 彼の皺深い頬には痛々しい殴打の痣があり、片目は腫れて顔半分が歪んでいる。


 地下深くの天然壕に歩兵隊が突入し、敵兵に守られるようにして隠れていた敵指揮官を見つけ出した。捕らえてが殴る蹴るなどして尋問したが、彼は決して口を割らなかったらしい。どんなに暴行されても、指揮官は歯を食いしばっていたという。


 そして指揮官を含む敵兵たちは横に並べられた。 


 敵兵たちは地に膝をついてすすり泣いていた。指揮官は泣きじゃくる左右の敵兵の肩を、慰めるように両手でそっと抱いた。


 指揮官の右側で泣くのは、ラフマンと年の近そうな青年だった。茶髪に緑色の目を持つ彼は、涙を顎から滴らせ泣いている。  


 表情だけは泣く人間そのものなのに、まるで映像を観ているように何らの感情も沸いてこない。


「アリフ中隊長殿、こいつらを処刑しましょう」  


 抑揚のない声が敵兵の列の端から聞こえた。目を向けると、銀髪赤目の青年が立っていた。観測班長のファディル少尉だ。


 体型はがり痩せでひょろひょろ。だが、眼鏡越しの赤い目は見る者を萎縮させる不気味さがあった。


『妹さんは、高熱による熱せん妄にかかっていただけでしょう』


 何も知らないくせに妹の死をそう断定したあの眼鏡野郎を見た時、腹の奥がかっと熱くなったのを覚えている。


 ファディル少尉は隣に立つアリフ中隊長を見て続ける。


「敵に食わせる食料はありません。寝込みを襲われれば損害が出ます」 


 もっともな理由だ。しかしアリフ中隊長は思い詰めた表情で黙り込んでいる。


 いつもの優柔不断さがまた出て、場を苛つかせているのを肌で感じた。最終決断を下すのは隊長なのに、焦らすとは何事か。 


「では、私が処刑命令を出します」


 島兵たちが一斉にファディルのほうを向く。


「よろしいですか、アリフ中隊長殿」


 暫しの静寂が流れた後、アリフ中隊長が頷く。


 あっさり指揮権を移譲していいのかよ、とラフマンは内心で突っ込む。優柔不断ここ極まれりだ。


 ファディル少尉は島兵たちのほうに赤い目を向け、静かに命じた。


「この中で戦友を殺された者は手を挙げてください」


 指示の意図が読めなかったのだろう、みんな黙り込んでいた。


「仲間を虐殺したこの鬼畜どもに、一発報いる機会を与えます」


 その一言で、数名がゆっくりと手を挙げた。ファディル少尉は挙手した者に命じる。


「手を挙げた者は前に出て、敵の前に一名ずつ並んでください」


 挙手した者たちが一名ずつ敵兵たちの前に並び、歩兵銃を構える。


 すると指揮官だけが一人立ち上がり、後ろを向きうなじで両手を組んだ。


 彼に倣うように次々と敵兵たちが立ち上がり、同じ格好になった。


 茶髪の青年が最後に泣きじゃくなりながら、手を組む。処刑されることを悟ったのだろう。


 案外素直だこと、とラフマンは思った。


 一人が怒りを募らせたような声で叫ぶ。


「死ねっ」


 彼の言葉でラフマンは察する。  


 ファディルは処刑を滞りなく行うため、あえて敵愾心を抱く島兵を選び出したのだ。


 兵隊は敵を間近で殺害することに恐怖心を抱く。


 だが戦友を殺されれば憎しみが恐怖心を掻き消す。その心理をファディルは利用したのだろう。


 感心するとともに、寒気を感じた。


(怖いやつだ。俺と本当に同じ二十二歳か?)


 ファディルは仮面のような無表情で、静かに命じた。


「──⋯⋯撃て」


 乾いた銃声が静寂をつんさぐ。


 敵兵たちは一斉に倒れた。


 血飛沫が宙を舞いファディルの顔に降りかかったが、彼は表情一つ変えない。


 ラフマンは安堵した。もし指名される形で処刑人に任命されていたら、撃つのを躊躇い落ちこぼれと罵倒されていた。肩の荷が下りる。


(⋯⋯無事、終わった)


 ファディルは返り血を浴びた顔で、敵兵たちの死体を見下ろしていた。


 いや、あれは二十二歳の青年を象った人体模型だ、とラフマンは畏怖と冷笑を交えた嫌味を内心で吐いた。


 ファディルは赤く汚れた顔を拭うことなく歩き出し、斜面へ向かう。その後を観測補佐のノリ一等兵が追う。


「おい班長、どこ行くんだよ?」 


「集中力が限界値です。コーヒーを探してきます」


 ノリ一等兵が突っ込む。 


「戦場にそんな贅沢品あるかよ! クソメガネ!」


 二人の漫才のようなやり取りを、ラフマンは内心困惑気味に見つめる。


(コ、コーヒー?⋯⋯で、ノリ一等兵殿はなぜタメ口⋯⋯?)




 作戦終了後、大隊本部から次の命令が来るまで島兵たちには朝の配食時間が与えられた。


 敵陣地の地下食糧庫には乾燥カラリヤの葉、採れたての瑞々しい芋、乾燥イチゴがたくさん箱に詰められていた。島兵たちは夢中になって箱を外に運び出した。居住区に隣接する調理用の竈壕で芋を蒸し、カラリヤの葉を茹で、敵の使っていた銀の皿に盛った。


 尿を飲み、蛆虫や芋虫を食うだけの三ヶ月を過ごし、あばら骨が浮き出た彼らにとって、久々にまともな食事を取れる至福の時間だった。


「飯だー!」


 蒸したカラリヤの芋、煮込んで蕩けた葉、ジャム状に加工したイチゴ。自然の恵みが盛られた銀皿を、島兵たちが板の上に乗せて竈壕から出てきた。


 丘陵のカラリヤの葉の下では、島兵たちが涼しい斜面に座って配食が来る瞬間を待ち構えていた。飯を運ぶ島兵たちの姿を見た途端、彼らは手を叩いて甲高い声を上げる。


 島兵たちは斜面を上がってきた調理担当から銀皿を受け取ると、それぞれ仲間と談笑しながら飯を食べ始めた。 


「味付けされてないが、食えるな」


「芋がほくほくだ。ほんのり甘い」


 カラリヤの密集し音のこもる空間には、島兵たちの楽しげな会話がはっきりと聞こえた。


「そういえばさ、逆転勝利に導いたのは観測班のファディル少尉なんだって?」


「らしいな。砲兵隊長殿が、小さな隙間をピンポイント砲撃できるなんてあり得ないと仰っていたそうだ。ファディル少尉殿が、奇跡を起こしたと」


「すげぇ⋯⋯」


「アリフの野郎の自決を止めたのも、少尉殿だ。自決を図った本人がそう言ってたから本当の話だ。隊長がいなければ部隊は存続できませんからって、咎められたと」


「冷たい人だと思っていたけど⋯⋯優しいんだな、案外」


「敵の処刑も、俺らに配慮してわざわざ敵愾心に燃えてる奴を選んでくれたしな」


「人は見掛けによらず、だな」


「クソメガネって呼んでたが、今度からファディル様って呼ぶわ」


 笑い声が響く。


 声が収まってから、島兵の一人が呟く。


「隊長が、ファディル少尉殿だったらいいのに」


 彼の周りにいる島兵は同意するように頷く。


「本当にそうだ。ファディル少尉殿こそ隊長に相応しい」


「でも観測班だからな。引き抜かれたら作戦不可能になる」


「歯痒いもんだぜ」


 彼らは芋を咀嚼し、沈黙する。


 芋を先に呑み込んだ島兵が、言った。


「──俺たちは、英雄誕生の瞬間を見たのかもしれないな」






 カラリヤ湿原で砲兵隊を率い、ミリ単位の精密砲撃で逆転勝利のきっかけをもたらしたのはファディル──その話は既に島兵の間で噂になっていた。


 本来、現実的にありえない命中率。

 本来、なかったはずの勝利。


 だがそれでも、ファディルの観測により敵陣に混乱が起き、歩兵を突撃へ導いたのは事実。


 島兵たちの間で、ファディルは密かに英雄視されていた。


 奇跡を起こした張本人の少年兵が、讃えられることもなく──。

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