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2-5 カサカサ

 砲兵陣地横の岩地では、衛生隊による懸命な治療が行われていた。 


 戦闘終了後に衛生隊は負傷兵を回収した。重傷者、軽傷者多数で、岩地はあっという間に負傷兵で埋め尽くされたり


 ウタリの世話係以外何も任されていないラフマンは、衛生隊拠点である作業を衛生隊長から任された。


『負傷兵の腰嚢から安楽死剤を取ってこい』


 ラフマンは忙しなく走り回る衛生兵たちに混じって、安楽死剤回収のために走っていた。


 かんかん照りの岩地に負傷兵たちが雑魚寝させられ、彼らの呻き声と悲鳴が砲撃音に負けないほど激しく響き、耳を塞ぎたくなる。


 砕けた四肢を鋸で切断される者。


 千切れた手足を汚い布で巻かれる者。

 

 飛び出た内臓を腹の中へ押し込まれる者。


 腹を麻酔無しで切開され、内臓に埋もれた弾を抜き取られる者。


 激痛で、或いは死に際の者は失禁し岩地を糞尿で濡らしていく。感染症予防のために衛生兵が糞尿をゴム手袋をはめた手でかき集めてバケツに入れ、泥沼に投げ捨てていた。


 ラフマンは砲兵陣地前に聳える丘陵を見上げた。黒煙の流れる茂みの中を縫うように、負傷兵を乗せた担架の行列が下ってくる。


(もう全滅だ、こりゃ)


 乾いた笑いが込み上げてくる。


 ラフマンは衛生兵の邪魔にならないよう、放置されている負傷兵のところへ向かった。


 片手と両足のない兵隊だった。軍服の上に【26番】という紙札が貼られている。負傷兵に割り当てられた番号だ。


 ラフマンは26番の腰嚢の浅い側面ポケットに手を突っ込んだ。


 小さな小瓶が指に触れた。取り出すと、親指ほどの大きさのガラス瓶に【沈黙】というラベルが張られており、中に透明な液体が揺れていた。


 安楽死剤だ。


 衛生兵はこれを通称『サイレンス』と呼んでいる。


 文字通り、命の沈黙である。死に際でも取り出しやすいよう、腰嚢の浅い物入れに入れることを義務付けられている。


 小瓶の蓋に糸が頑丈に巻き付けられていた。糸を引っ張ると、一枚の小さな厚紙の束がくくりつけられていた。


 遺言だろうか。厚紙を抜き取ると、写真が現れてラフマンは息を呑んだ。


 軍服を着た男、まだ五歳、六歳頃の女児を抱きしめる着物姿の女。足元にいる負傷兵と写真の中の男の顔を見比べると、そっくりだった。彼の家族写真なのだ。


 ラフマンは唇を噛んだ。きっと26番は、自分の最後が来たとき、この写真を眺めながら死にたいと願っていたのだろう。


(⋯⋯卑怯者)


 こんなもの、見てしまったら。


 手が止まっていたことに気づいて、ラフマンは小瓶に巻き付いた紐を外していったが、26番が赤く濡れた手で瓶を取り上げてしまった。


「頼む、殺さないでくれ」


 26番は懇願するように目を見開き、青白くなった唇を震わせながらもう一度言った。


「殺さないで、くれ。家族がいるんだ」


 殺すか殺さないかは、衛生兵が決めることだ。


 26番はラフマンの軍服の胸辺りに縫われた名前の刺繍を指差した。


「⋯⋯もしかして君は、ウタリちゃんを背負っていたラフマン二等兵?」


 ラフマンが頷くと、26番は微笑んだ。


「やっぱりそうか。覚えてないかもしれないが、僕はあの子に助けられた間抜けな落伍兵だよ。青い蝶々が飛び交う滝壺のところで、ばったり倒れた。あの子の血、甘いジュースみたいな、不思議な味だったなぁ。おかげで三日ぐらい元気に行軍できた。あの子には『おつかれおじさん』と呼ばれていたよ」


 26番の顔はすっかり忘れていたが『青い蝶々が飛び交う滝壺』『甘いジュース』という言葉で、ラフマンは彼がウタリに救助されたあの落伍兵だとわかった。


「あなたは、あの時の」


 26番は情けなさそうに頷いて笑った。


「せっかく命を救ってもらったのに、このざまだ」


 一度救われた身なのにまた負傷し、死にかけている。その現実を自嘲する彼に、胸に染みるような痛みが走る。


「そんなこと言わないでください」


 ここは戦場なのですから仕方ないですよ、と喉元にかかった言葉が無責任な慰めように感じられて、ラフマンは口を閉ざす。


「17番重傷、安楽死!」


 安楽死、という言葉にラフマンは顔を上げ、負傷兵たちを一人一人指差す衛生兵を見た。


「18番重傷、安楽死! 21番重傷、安楽死!」


 重傷者はお荷物だ。安楽死させたほうが部隊としては負担にならず済む。


「23番重傷、安楽死!」


 わぁぁぁっと悲鳴が上がり、若い負傷兵の喚き散らす声が響いた。


「片足と指を無くしただけじゃねぇか! 何でだよ! 俺はまだ戦えるよ!」


 若い負傷兵の叫びを衛生兵は無視して──


「二十三番、取り押さえろ。サイレンス投入」


 衛生兵たちは二十三番の負傷兵を取り囲み、暴れる彼を押さえつけた。


「いやだあああ! 離せ! 離せ!」


 しばらくして彼の悲鳴は徐々に弱まり、衛生兵たちは離れていった。一分もしないうちの出来事だった。呆気に取られながら、ラフマンは両手を合わせた。


 白衣を纏う誰かがそばに来るのが見え、ラフマンはその人に目を向ける。綿飴のようなもこもこした白髪、禿げた頭頂部、しわくちゃの頬。眼鏡越しに見えるギョロ目のような目には眼光を放っていた。


 確か名前は、ガマン軍医といったか。


 ガマン軍医は、安楽死させられた二十三番を見下ろしながら言った。


「敵の海路遮断による補給線断絶を前提とした、我がセルク島防衛軍の教義は『持久戦』と『効率化』だ。サイレンスは、重傷者の安楽死という美名のもと、薬品を節約するための制度化された死だよ。制度という盾に守られているからこそ、負傷兵の虐殺という平和条約違反の穴を、我々は堂々とすり抜けていられるのさ」


 まるで歌を歌うように、場違いなほど弾んだ声でガマン軍医は続ける。


「君たちが制度のもとに静かに死んでくれるおかげで、私たち衛生隊は虐殺者にも戦犯にもならずに済む。⋯⋯なんとも、皮肉な話だ」


 周囲の衛生兵たちは、無表情でその言葉を聞き流していた。


 まるで、これが日常だと言わんばかりに。


 ラフマンだけが、喉の奥に重い鉛を押し込まれたような息苦しさを覚えていた。


 ガマン軍医は二十三番を指差した。


「君は制度のために殺された。制度は誰にも変えられん。君にも、私にも⋯⋯我慢だ、我慢」


 ガマン軍医はどこかへ去ってゆく。


 ラフマンは肩越しにガマン軍医を見る。


(なんだ? あのジジイは)


 ラフマンは二十三番を見た。泥だらけの顔から、大量の膿汁らしき黄ばんだ体液が溢れ出ていた。片手の指が根元から千切れて、どろりとした粘性の液体を垂らしながら落下する。サイレンス投与の効果だろうか。


 明らかに肉が溶けている。


(片手足を失って安楽死ならば⋯⋯)


 ラフマンは26番を見下ろした。


(この人は、間違いなく⋯⋯)


 26番の前に、魂を抜き取る死神のごとく衛生兵が立ち止まる。


「26番重傷、安楽死!」


 26番はしばし呆然と天を見つめ、やがてゆっくり唇に弧を描いて小さく笑い出す。


「そうか、そうか。仕方ないね」


 笑い混じりにそう呟いて、26番はラフマンを見た。衛生兵たちが集まってきて小瓶を奪い取り、紐を外し、蓋を開ける。


「なぁ、ラフマン二等兵」


 もうすぐ殺されるというのに、彼は不気味なほど明るい笑顔を浮かべている。


「家族の写真、見せておくれ」


 やはり、はじめからそのような意図で写真をくくりつけておいたのだ。


 ラフマンが家族の写真を広げて見せると、26番はにこやかな笑みを張り付けたまま遺言を残すように語りだす。


「僕もな、よく娘を肩車して近所の森の散策路を歩いたんだ。蝶々を見ては金切り声を上げてはしゃいで、花を見てはこれなんのお花なのって訊いてきて。とても可愛い子だった」


 26番はラフマンをちらりと見た。


「あの子も君に肩車されてたろ。鳥さんとか、お猿さんとか、キノコに凄く興味津々だったよな。見る世界の全てが楽しくて、笑ってたんだろうなぁ。俺の娘にそっくりだ」


 26番は続ける。


「あの子は、確かに魔女のような不思議な力を持ってる。でも中身は──ただの、幼い子供なのかもしれないな。人を助けたいと思って自らの血を捧げる、心優しい女の子なんだろう。ラフマン二等兵。あの子をよろしく頼む。あの子は我が隊の天使だ」


 衛生兵の一人が26番の口に安楽死剤を流し込む。彼は涙に声を震わせることなく、再び家族写真に目を向け、淡々と一言── 


「ごめんな、帰れなくて」


 徐々に笑みが消えていく『おつかれおじさん』の顔を見て、逃げ出したい衝撃に駆られてラフマンは立ち上がり、その場を離れた。


 足枷を付けられたように足取りが重い。足を引きずるように歩きながら、次の安楽死剤を取りに行かなければと自分に言い聞かせる。


 背後で衛生兵の声がした。


 「26番、死亡確認」


 ラフマンは立ち止まる。振り返らずに。


 しばしの沈黙の末。


 ラフマンは歩き出す。


「さようなら、おつかれおじさん」


 ラフマンは安楽死剤を集め続けた。


 泣いて「やめてくれ」と何度か懇願されたが、無視して腰嚢のポケットから安楽死剤を取り出す。


 ──サイレンス投入、死亡確認。


 そのような言葉が呻き声と悲鳴の中に時折混じる。


 ラフマンは誰もいない隅へいき、項垂れた。自分が集めた安楽死剤で、次々と島兵たちの命が奪われていく。


 手にした五個の安楽死剤を泥沼に捨てて隠そう、という考えが頭をよぎる。そうすれば五人生き延びられるかもしれない。


「殺して、くれ⋯⋯」


 その呻き声にラフマンは声の主を振り返る。布で身体を覆われた全身火傷の兵隊がいた。天然壕に火炎放射器を噴き込まれ、丸焼きにされたのだろう。


 皮下脂肪で黄色くギトギトになり、赤く爛れた腕を掲げ、殺してくれと繰り返し懇願している。


 ラフマンは自分の愚かさにぎりっと歯を食いしばった。殺して欲しいと願っている者も中にはいるのだ。安楽死剤を五個捨てたら、死を願う島兵が五人苦しむことになる。


 ラフマンは、一度振り上げた腕をゆっくり下げ、手のひらの安楽死剤を握り締めた。結局投げ捨てることはできず、病床に戻り安楽死剤を全て通りすがりの衛生兵に渡してしまった。


 安楽死剤を持っていった衛生兵が去っていくと、やっぱり待ってくれと止めたいような衝動が突き上げてきたが、なんとか食い止めてラフマンは歩き出す。

 

 遠くから甲高い笑い声が聞こえてきて、ラフマンは立ち止まった。


「きゃははははは!」


 ウタリ──魔女の声だ。


「あいつ⋯⋯」


 一体何をしているんだ。まさか魔法でこの場にいる者たちを皆殺しにするのでは、と気になって見に行くと、衛生兵たちが台に乗せられたウタリの手足をメスで切り、血を飯盒に流し込んでいるのが見え、ラフマンは息を呑む。 


(何を⋯⋯)



 ◆ ◆ ◆



 腕から血を抜くお医者さんたちを見回しながら、ウタリはけらけら笑った。


「ねぇお医者さん、ウタリの血でジュース祭りするの? いいね! いいね!」


 倒れた島兵が、ウタリの血を果汁ジュースみたいだと口にしていたのを覚えている。だからきっと、これは楽しい祭りの準備だ。


「壊れた島兵さんにウタリの血を配って、みんなでジュースで乾杯するんだよね。ね、そうだよね?」


 だがお医者さんたちの顔はひどく暗い。誰も笑わず、ただ無言で、小さな包丁でウタリの血管を探り、切り開く。その態度が気に入らなくて、ウタリはむっと頬をふくらませた。


「ねぇねぇ兵隊さん、ジュース祭り、楽しくないの?」


 隣にいたお医者さんが口元だけで笑ってみせた。ぎこちない笑顔だった。


「あぁ⋯⋯楽しい、と思うよ」


 やっぱり楽しいんだ。照れ屋さんなんだから。ウタリはそう思って、ぱぁっと顔を輝かせる。


「でしょ! ウタリも楽しみ!」


 ウタリはケタケタ笑っていたが、ふと身体に違和感を覚えて笑みを消した。


「あ、れ⋯⋯」


 なんだか手足の先が、ムズムズする。


 ムズムズする手を見ると、指先がカサカサに乾いていた。


 血を抜きすぎると出てくる、身体のサイン──『かゆい』


 弾んでいた胸の中が、冷たいもので満たされていく。


 自分の腕を見ると、皮膚が骨と皮一枚の状態になっていた。真っ白だった肌は、不気味な赤紫色に変わっている。


 まるで干し果物のようだ。


(ウタリの腕が、しぼんでる)


 もう片方の腕を見ると、そちらも同じくカサカサになって木の枝のように細くなっていた。


「か、ゆ⋯⋯」 


 どんどん手足からかゆいところが身体中へ広がっていく。


 全身がシュウウと音を当てて、お腹も胸もぺったんこに縮んでカサカサになっていくのを肌で感じた。


 かゆみは、まるで皮膚の下をたくさんの小さな虫が這うような、おぞましく強烈なものになっていく。


「う⋯⋯っ」


 全身の肌を掻きむしりたくなるような不快感が走るのに、手足は台に縛り付けられて全く動かせない。かゆくてかゆくて皮膚を掻きたいのに、掻けない苛立ちにウタリは縛られた手足をばたつかせて叫ぶ。


「かゆ、い、かゆいかゆいかゆいぃぃーっ!」


 手足をばたつかせると台と皮膚が擦れ、虫がぞわぁっと早足で皮膚の下を駆け抜けていくような猛烈なかゆみが走る。擦れれば擦れるほど全身にかゆみが広がって、頭がぐちゃぐちゃになっていきウタリは暴れながら絶叫する。


「かゆいっ、かゆいよぉぉぉぉーっ!」


 まな板の上で暴れる魚のごとくウタリは身体を上下に弾ませて、そのたびに全身を駆け抜けるかゆみの大波に、顎が裂けそうなくらい叫んだ。


「もうやめてっ! かゆいっ! かゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいっ! かゆいぃぃぃぃぃぃーっ!」


 血を抜くお医者さんたちのざわめき声が頭上で響く。


「何だこれ、水分が抜けてるのか?」


「失血で乾燥?」


「まずくないか、これ!」


 ざわめきが途切れ、静まり返る。


 その静寂を裂くように、お医者さんの中にいた一人のおじさんが低い声で言った。


「手を止めるな、続けろ」


 茶髪のボサボサ髪で、どろどろに汚れた白衣を纏った、厳つい表情のおじさんだった。


 お医者さんたちは戸惑い気味に「はい」と答え、また血を絞り出しはじめる。


「いやぁぁぁ! かゆい! かゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいぃぃぃー!」


 口が裂けそうなほど大きな悲鳴を腹の底から上げて、ウタリは狂ったように絶叫し続ける。


 目の奥から湧いてきた熱い汁が、頬を伝い落ちる。


 ──涙だ。


 前に泣いたのは、いつだったろうか。覚えていない。


「悪いな。負傷兵多数で血が足りないんだ」


 そう言ったおじさんは、さらに続けた。


「血管絞り出しても出なくなったら、内臓からも絞り出せ」

 

 ウタリは絶句する。


(ない、ぞう⋯⋯?)


 ウタリは「ないぞう」の言葉の意味を理解できなかった。


 けれどそれが自分の身体のどこかを差す言葉で、これから「ないぞう」を切り取られてもっともっとかゆいことをされるのは察しがついた。


「やだ⋯⋯やだよぉ⋯⋯!」


 震える声が掠れていく。


 喉も乾いている。


 泣いているのかすらもうわからない。鼻水と涙と汗が混ざって、頬を伝う。


「お願い⋯⋯ラフマン⋯⋯」


 言葉の端に掠れた名を載せてしまったことに、ウタリ自身が驚いた。なんでラフマンを呼んだのか、よくわからなかった。


 ただ、あの人の背中から見る世界は綺麗だった。森も、空も、煙も全部、楽しかった。


 誰かの足音が近づく。黒い影が、胸の上に覆いかぶさる。お医者さんの一人がウタリの着物を剥ぎ、ナイフを片手に、もう片方の手で腹を触る。


 不安げな誰かの声がする。


「ヴァレンス衛生隊長殿、これ以上献血体に損傷を与えたら⋯⋯」


 ヴァレンス・エーセータイチョードノ、呼ばれたおじさんは無視するように続けた。


「血が足りないんだ。体内からも血をしぼりとる」


 頭上にかざされたナイフが光を弾く。ウタリは絶叫しようとしたが、喉がからからに乾いて声が出なかった。音にならない悲鳴が口から漏れる。


 身体の感覚が、薄れていく。視界が、薄く、白くなる。


(ウタリ⋯⋯壊れたい⋯⋯)


 バラバラになれば、かゆいところを切り離せる。


 壊れて、このかゆみから逃れたい。


 でも、壊れられない。


 ウタリはヴィシュヌに呪われて、不死身の身体にされたからだ。


 記憶の断片が浮き上がる。


 月夜の下、大勢の村人たちが草原の真ん中にある小屋──ヴィシュヌの祠の前に集まり、旗を振り、槍や松明を掲げ、踊り狂っている。


『ヴィシュヌ様、怒りをお鎮めください』


 村人たちの間を、ウタリは神輿に乗せられて進んでいく。


『ヴィシュヌ様に、生贄を捧げます』


 ウタリはヴィシュヌに捧げられた生贄だった。


 生贄にされ、森の奥の草原にある祠に閉じ込められ、治癒の血を持つ不死身の身体にされてしまった──


 萎れていく身体の奥に、冷たく黒い炎が灯り腸を炙っていく。


(ウタリ、壊れない。ヴィシュヌのせいよ⋯⋯)


 ウタリの腹に鋭い衝撃が走り、硬くて冷たいものが中に入ってくるのを感じた。腹の皮膚がすぱっと布のように切れて、蒸し暑い湿気がお腹の中に入り込む。


 なに、するの──その訴えは、笛を鳴らすような息の音になって吐き出される。


 腹の傷口をぱっくり開かれ、縁に冷たくて硬い何かを一個ずつ取り付けられていくのを感じた。 


(つめ、たい⋯⋯)


 ヴァレンスが淡々と言った。


「開腹器固定完了。次、鉗子装着」


「了解」


 頭の中は真っ白だが、開かれた腹に付けられた何かの冷たさだけははっきりわかる。


 ヴァレンスがウタリの腹の中に手を突っ込む異物感に、胃を締め付けられるような吐き気を覚えた。


(誰か、助けて)


 身体を仰け反らせて泡を吹き、身体の中をまさぐられる気持ち悪いくすぐったさにウタリは痙攣しながら、声にならない笑い声を上げる。


 天と地がひっくり返った視界の中に、ラフマンの姿があった。


(助けて、ラフマン) 


 ウタリは口をぱくぱく動かして訴えたが、その声なき声が彼に届くことはなかった。


 ラフマンは無視するように踵を返し、去っていった。

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