1-1 治癒の血
木漏れ日の降り注ぐ森の中を、一匹の鹿が歩いていた。
よろめき、転びそうになりながら、それでも震える四肢を動かして背の高い茂みの中を進んでいく。
草が身体にこすれる度、背中に刺さったたくさんの硬くて鋭いものが草にひっかかり、激痛が走る。
刺さった鋭いものは酷く熱く、鹿の斑模様の表皮は真っ赤に爛れ、煙を上げていた。
鋭いものの熱は身体の中まで伝わり、臓器をも焼き付け、呼吸が苦しい。動物の鹿には、自分を痛めつけるこれが何なのかわからない。
だが確実に、命を削っていることだけはわかる。
──早く、あそこへ行かなくては。この命が尽きる前に。
頭上をギューン、と腹の中が震えるような轟音が通り過ぎていく。
上を見上げると、枝々の隙間から三つの影が飛んでいくのが見えた。
森の中が一瞬暗くなるほどの、大きな影。
突然、木の上にいた鳥たちが一斉に悲鳴を上げて飛び立ち、みんな力尽きたように落下してくる。木々の間を黒い粒を撒くように鳥たちが落下してきた。
鹿の足元に小鳥たちが落ちていた。暴れることも、羽ばたくこともしない。あの影が通り過ぎた途端、一瞬にしてみんな死んでしまったのだ。
いつ頃からだろう。あの影が森の上を飛ぶようになってからずっと、森がおかしい。
鳥たちは死に、そして時々奇妙な轟音が遠くで鳴る。
ドンッ、ドンッと森の遥か遠くで何か大きな音がする。地が微かに揺れ、鹿の蹄が少し浮き上がる。
あの大きな音のしたそばでは木々が一瞬でなぎ倒され、鋭く熱いものが飛び散る。鹿はそれに刺されてしまった。
もうここは、鹿の知る森ではなかった。
鹿は道なき茂みを進み続けた。
目的地までの行き方はわかっている。
親鹿とはぐれてカラスに突かれ、怪我をした時から何度も助けてくれた者が、この森の奥にいる。
匂いをたどっているわけでもないのに、鹿は本能的に場所がわかる。
やがて視界が開け、小さな草原が現れた。
何も無いが、しばらく進み続けると透明な膜がゆらゆらと揺れているのが見えた。
そこを通り抜けると、全身をふわりと風のようなものに包まれ、突如何も無い草原にぱっと動物たちの群れが現れた。
視界に突然彼らが飛び込んできたわけではない。あの膜をくぐった途端、同じ草原だけれど草原ではない世界へ繋がることを鹿は知っている。
動物たちは鹿と同じく、みんな怪我をしていた。破片が突き刺さった猪、耳の千切れた狼、翼の折れた鳥、腕の千切れた猿、数え切れないほど寄り集まる彼らの真ん中に、一軒の小屋があった。
あれが、助けてくれる者がいる場所だ。
群れに近づいていくと、動物の間に銀色の長い毛を持つ小さなニンゲンがいた。
ニンゲンの毛は頭から足の途中あたりまで伸びていて、背丈は鹿と同じぐらい。
そのニンゲン──助けてくれる者は地団駄を踏み、甲高い声を上げていた。
「ウタリ、こんなに治せなーい!」
ウタリ、という名の助けてくれる者は手に鋭く光るものを持ち、腕に突き刺す。鹿は本能的に、あれが痛いものだとわかっていた。
ウタリは痛がらず、表情を歪めることなく、平気で腕をすぱっと切る。みんなと違って、痛みを感じない不思議な身体を持つ。
ウタリは破片を引き抜き、付いた血を眺めた。
あの血こそが、鹿の求めていたものだった。
「あ、ツノちゃん!」
ウタリがこちらを振り向き、駆け寄ってくる。銀色の毛越しに覗く赤い瞳を見た途端、全身から力が抜けて鹿は倒れた。
◆ ◆ ◆
「ツノちゃん! ツノちゃん!」
銀髪赤目の幼い少女──ウタリは白い着物の振り袖を振り回しながら、鹿に駆け寄った。
ツノちゃんは常連の鹿だ。子鹿の時に助けてからずっと、怪我をする度にウタリのもとへ訪れる。
鹿の身体に刺さっていたのは、鋭く尖った硬くて薄っぺらい物だった。
「なぁにこれ?」
ウタリが薄っぺらい物を引き抜くと、ツノちゃんは四肢を跳ね上げて暴れ、甲高い悲鳴を上げた。
「ご、ごめんねツノちゃん⋯⋯」
ツノちゃんの水玉模様の毛皮は、ところどころ赤く爛れていた。火傷をしている。
腕を切っても何ともないウタリには、ツノちゃんの暴れる理由はわからなかったが、苦しそうな様子なのはわかる。
「身体の壊れたところ、治してあげるね。ツノちゃん、いい子にしててね」
ウタリは四肢を振り回し暴れるツノちゃんをなだめながら、身体に刺さった破片を一つずつ引き抜いていく。
破片を握った瞬間、じゅっと音がして、皮膚が溶けるみたいに赤黒くただれた。
「ありゃ?」
この破片、ほかほかと温かい。皮膚をすぐ焼いちゃうぐらいだから、たぶん火ぐらいの温度はありそうだ。
「だから火傷してたのね」
ウタリは刃物で腕を切り、血をツノちゃんの切り傷や火傷部分に垂れ落とすと、傷がすぐさま塞がり跡形もなく綺麗になる。
ウタリの手の火傷も、爛れた部分が少しずつ消えていき、元の白い肌に戻る。
ウタリの身体はどんなに傷ついても苦しくないし、壊れてもすぐ元に戻ってしまう。
動物たちとは全然違う、不思議な仕組みの身体だった。
ツノちゃんは首を後ろに向けて自分の身体を仕切りに舐め回した後、四肢を弾ませるように森へ帰っていった。
「ばいばい、ツノちゃん!」
ツノちゃんのように、ウタリの傷を治す不思議な血を求めて、傷ついたり病気になった動物たちが時々やって来る。
最近はだんだんと怪我をした動物たちの数が増えてきて、ウタリはみんなを治しきれなかった。
ウタリの血はたくさんあるわけじゃない。使えれば使うほど減ってしまう。片手を見ると、指先がふやけたようにしわしわになってた。血を使いすぎたら、干からびてしまう。
「かゆい⋯⋯」
指先に不快なかゆみが走り、ウタリは指を擦り合わせた。
治しきれずに死んでしまった動物たちもいた。横たわる動物の傷口の周りに、ハエの群れが飛び交っている。
ツノちゃんは友達だ。友達を失いたくなくて、優先してしまった。たぶんツノちゃんに使った分で、三匹治せず放置することになるだろう。
だがまだ幼いウタリは、ツノちゃんが治ったことだけで大満足だった。
急に視界が揺らいで、猛烈な睡魔がウタリを襲った。血をたくさん流すと、身体が新しい血を作り出すために、必ず眠くなってしまう。
ウタリは小屋の窓から、窓辺の寝床に飛び降りる。動物たちが、助けを求めるように窓から首を覗かせていた。
「だーめ! ウタリ寝るの!」
ベッドに横になると、そばに置かれた絵本やぬいぐるみが目に入る。
ウタリのもとへ訪れるのは、動物たちだけではない。
森の向こうにある村の人々も、ウタリの元を訪れて怪我や病気を治してもらいに来る。絵本は農村学校から譲ってもらったもの、ぬいぐるみは村人の手作りらしい。
贈り物の中には、刀という大きい包丁もあった。包丁を振り回す、全身鉄が鉄で出来た不思議なおじさんからもらったものだ。鉄で出来ているのに、彼は怪我をしていた。
ウタリは小屋へ訪れる者たちを血で癒し、お礼にプレゼントをもらうのだった。
村人たちは怪我や病気を治したら、ウタリの頭を撫でて褒めてくれる。
『ウタリちゃん、ありがとうねぇ』
『ウタリちゃんがいるから、助かったよ』
村人たちの褒め言葉を、まるで今聞いたみたいにはっきりと、ずっと覚えてる。
褒めてくれた時は、胸がふわっと柔らかくなるような心地よさを感じて、ウタリは思わず笑顔になって飛び跳ねてしまう。プレゼントをもらった時には、お猿のような叫び声を上げてしまう。
でも村人たちは、たまにしか来ない。ウタリは月と太陽が何度も巡る間、ずっとずっと村人たちが来るのを待っている。村人たちの笑顔は夢の中にも出てくるし、足音が聞こえたと思ったらただの森のざわめきだと知った時は、胸がぎゅっと詰まって泣いてしまう。
(何で村人たちは来ないのかしら)
胸が焦がれるような感じに、ウタリはきゅっと唇を結び、シーツを掴む。
動物たちばかり来て、村人たちは全然来ない。こんなのつまんない。
動物たちが催促するように鳴く。
「んにゃ⋯⋯少し、休ませてよぉ⋯⋯」
寝息を立てて眠った。
どれぐらい眠っただろうか。ドンッと腹に響くような轟音で、ウタリは目を覚ました。
うっすらと瞼を開けて窓越しの空を見上げると、雲一つない青空が森の上に広がっている。
「また、ドンドン鳴ってる」
ウタリは起き上がり、窓から外を見た。晴れているのに、何度も雷のような轟音が空から響いてくる。
ウタリの元を訪れる村人たちは「雷は曇りの日に鳴る」と言っていたけれど、この雷は青空の中で鳴る。
「誰か太鼓叩いてる? お祭りかなぁ?」
ドン、ドン、ドン。空の彼方で何かが弾けるような音が続いている。遠くの森のほうから、乾いた木が折れるような音も混ざって聞こえてきた。
何度も響く轟音に耳の詰まるような気持ち悪さを覚え、ウタリはたまらず両手で耳を塞いだ。
それでも音は止まらない。空は青く晴れているのに、何かがおかしい。空気の匂いも、肌に触れる風の感触も、どこかいつもと違っている。
いつのまにか身体がガタガタ震えだしていた。
しばらくして、ようやく空を引き裂いていた轟音が遠ざかり、ウタリはそっと両耳から手を離した。
静けさが戻ると、森を渡る風の中に、葉擦れの音がかすかに響いていた。
動物たちの呻き声が聞こえて起き上がら、小屋の前を見る。動物たちが何匹か寝転がり、ハエに集られていた。ウタリが寝ている間に、何匹か力尽きたらしい。
「あっちゃあ、壊れちゃった」
動物が何をしても全く動かなくなる状態を、ウタリは「壊れる」と捉えていた。動かなくなった生物は、ウタリにとって物同然だった。
小屋の向かいにある茂みがガサガサと音を立てて揺れた。また動物たちが来た。もう治せない。ウタリは両手で口を囲って帰るように促す。
「もう治せませーん! かえってー!」
茂みの向こうから、人の声が聞こえてきた。ウタリは耳に手を当てて、じっと音を聞く。
「人間⋯⋯?」
小屋を覆う透明な膜越しに──背の高い草を押し分けるようにして、数十人の人影が森の奥から姿を現した。みんな、全身が緑色の変な人間ばかりだった。
上下を覆う緑の服。
頭に被ったぺったんこの平たい帽子。
腰にぶらさげた袋も、全部緑色。
両手には長い木の棒みたいなものを持っていている。棒の先端には、細長い剣が付いている。
知らない服、知らない道具。見たことのない人間たちが列を成して近づいてくる。ウタリは眉をひそめた。
(あの緑人間たち⋯⋯村人じゃない)
列の先頭にいたおじさんが、何かを探すように辺りを見回し、やがて窓辺から顔を出しているウタリを見つけた。
ウタリは首を傾げた。なぜウタリと小屋が見えているのだろう。膜の向こうから小屋は見えないはずなのに。
村人は膜を『ケッカイ』と呼んでいた。ウタリはケッカイの向こうへ行くことはできず、ずっと小屋でひとりぼっちで暮らしていた。
彼は小さく息を呑み、一歩下がった。
「おじさん、誰?」
おじさんは目を細め、怒ったような顔つきで、長い棒をウタリに向かって構えた。包丁みたいな尖った刃が、太陽を反射させて光る。
おじさんはウタリに問うた。
「君は⋯⋯村の子か?」
村人と同じ言葉だった。外部の人間だろう。
「そだよ」
おじさんは慎重に、時々空を見上げて何かを確認するように見回しながら、近寄ってきた。
緑の服は泥まみれで、顔も手もひどく汚れていた。
近づくにつれて、ウンチみたいな臭いが鼻をついた。ウタリは顔をしかめて鼻をつまむ。
(このおじさん、くさい)
光を揺らめかせる膜を、おじさんは素通りしてきた。
心臓がドクンと鳴って、足が勝手に下がった。膜の中には、怪我や病気をした村人や森の動物たちしか入れないはずなのに。よそ者の人間は、決して結界を通れず、小屋には近づけないのに。
(おじさん、どうして入れるの⋯⋯?)
ケッカイにも、ウタリが混乱していることにも全く気づいていない様子のおじさんは呟く。
「お嬢ちゃん」
おじさんは困ったように眉をハの字にして訊いてきた。
「ここに薬はないか? 負傷兵がたくさんいる」
「ふしょーへ?」
「怪我をしている人だ」
おじさんの背後の茂みには、緑人間たちがいる。何人かは手や足が千切れていて、汚れた布でぐるぐる巻きにしている。
顔の半分が布で隠された人もいる。みんな顔色が悪く、疲れた目でウタリを見つめていた。
ウタリはおじさんの肩越しに彼らを見つめた。
(身体が壊れてる人、いっぱいいる)
もしかすると、おじさんは村人たちからウタリのことを訊いて壊れた人たちを連れてきたのかもしれない。
長い木の棒に付いているあの剣で村人たちをびっくりさせて、ウタリの居場所をばらさせたとか?
そして壊れた緑人間がたくさんいたから、特別に結界が開かれたとか?
どうしよう。壊れた人をみんな治してあげたら、自分の血がぜんぶ無くなっちゃう。そしたら、ウタリはカラカラに乾いてミイラお化けになってしまう。
ウタリは嘘をついた。
「お薬? ないよ」
おじさんはがっかりしたように肩を落とす。
「そうか、残念⋯⋯」
突然、おじさんの背後で揺らめく結界が消えた。ウタリはぎょっとして目をまんまるにする。
「ケッカイが⋯⋯!?」
おじさんは急に腰を低くし、空を見上げる。ギューンと、唸るような音がまた頭上から迫ってきていた。おじさんはすぐに振り返り、大声で叫んだ。
「敵機だ、下がれっ! 下がれっ!」
緑人間たちが慌てて森へ駆け出す。その瞬間——
空が光った。
目の前が白くはじけ、次いで凄い突風が空気を引き裂くように吹き荒れた。
ウタリの身体が木の葉のように宙に舞い、砂煙の中をふわりと浮かんでから、地面に叩きつけられる。
身体にぽにょん、とした柔らかい衝撃が走る。
全身が砂まみれで、皮膚がザラザラした。
「んにゃあ⋯⋯」
呟きながら体を起こそうとしたそのとき、左腕に奇妙な感覚が走った。ウタリは煙の向こうに、自分の腕を見た。関節から先が、ない。
「ありゃりゃ、ウタリの左腕、壊れちゃった」
砂煙の中から、呻き声が聞こえる。悲鳴も。
やがて風が吹き、視界が晴れてくると、緑人間たちの姿が現れた。
手足が千切れた者、腹から濡れた内臓がこぼれ出ている者、顔が壊れて半分なくなっている者。
壊れて割れた石ころみたいだ。
「んにゃ?⋯⋯ありゃ、緑人間も壊れちゃってる」
草地は血と肉片で真っ赤にぬかるみ、泥と混ざってぐちゃぐちゃになっていた。
突然、みんな爆発してしまった。緑人間は爆弾人間だったのかもしれない。
「まいったなぁ」
ウタリは小さく唸って、頭を抱えた。さっきより、もっと壊れた人が増えてしまった。
「うっ⋯⋯」
足元から微かな呻き声が聞こえ、ウタリは視線を落とした。自分の両足の間に、緑人間が倒れていた。
ウタリよりずっと年上のお兄さん。
お腹にはぽっかりと穴が空き、血まみれの内臓が飛び出している。
「あー、ごめんね。重かったでしょ」
ウタリは彼の上から立ち上がる。ふと気づくと、自分の千切れた右腕が、お兄さんの背中の下敷きになっていた。
「あ! ウタリの腕!」
引っ張ろうとするも、お兄さんが重くてびくともしない。
右肩の関節から先がなくなっていて、そこから「じゅわじゅわ」と千切れた肉が細長い虫のように蠢き治り始めた。
寝てる間に、あのおじさんに血を全部抜かれたらまずい。早く腕をくっつけなければならない、けれどお兄さんが邪魔をする。
ウタリは苛々して地団駄を踏む。
「うー、もぉ〜、なんで私の腕を下敷きにするのよぉ」
悪態をつきつつ、ウタリは頭を抱え、ぎゅっと目をつむって考える。どうしよう、どうしよう⋯⋯。少しの間、じっと考えを巡らせた末、ふうっとため息をついた。
(このお兄さんを治すしかない)
しゃがみ込み、お兄さんの腹からはみ出した内臓を、そっと元に戻していく。お兄さんは苦しそうに顔をしかめ、かすかに身体を仰け反らせた。
「我慢してね、お兄さん」
ウタリは近くに落ちていた鉄くずのような硬い破片を拾い上げ、腕に突き刺す。
血を抜いたら、また眠気が来る。眠ったウタリをおじさんが狙ってくるだろう。
だが今はやるしかない。このお兄さんに早くどいてもらうために。
鋭い破片がすぱっと腿を裂くと、血が勢いよく噴き出して、お兄さんの壊れた腹へと降り注いだ。
腹の中の千切れた内臓を深紅に染めていく。
血の噴射は徐々に弱まり、止まる。
お腹の壊れた皮膚や内臓が、傷の縁から小さな触手をにょろにょろと伸ばし、少しずつ元に戻っていく。
お腹が完全に塞がると、そこだけが出来立てのつるつる、ぴかぴかの白い肌になった。
お兄さんは汗だくの顔をわずかに緩ませ、穏やかな表情を見せる。
「お兄さん、どお?」
問いかけると、お兄さんはゆっくりと目を開け、ウタリを見て訊いた。
「⋯⋯君は?」
「ウタリ。お兄さん、早く起きてよ」
お兄さんは痛みに耐えるように体を起こす。ウタリはすかさず、地面から自分の右腕を拾い上げ、ちぎれた右肩に押し当てた。
肩口と腕の断面から、細く伸びたにょろにょろが絡まり合い、まるでほどけた糸を縫い直すように、綺麗に、なめらかに結びついていく。
ウタリは軽くふらつきながらも、お兄さんを見上げた。
「お兄さん、どしたの?」
お兄さんは、呆然と辺りを見回しながら、低くつぶやいた。
「みんな⋯⋯ああ、なんてことだ⋯⋯」
「うん、そだね。みんな壊れちゃった。お肉いーっぱい!」
ウタリはキャハハと笑いながら、両腕でお腹を抱えて転げる。
でも——
「⋯⋯何が面白いんだよ」
お兄さんの声が、低く、とげとげしかった。怒ってるみたいだった。
ウタリは笑うのを止めて、きょとんと顔を上げた。
「ん? なんで怒ってるの? ウタリ、なんかしたの?」
「何笑ってんだよ」
お兄さんの声が低く唸り、目尻が釣り上がった。
ウタリはぴたりと動きを止める。怒られている理由が分からず、とりあえず曖昧な笑みを浮かべて取り繕った。
「え? 面白いんじゃん? お肉いっぱいバラバラになるの⋯⋯」
「面白い、だと?」
「うん、お兄さんもそう、思わな──」
言葉の途中で、眠気がどっと襲ってきた。波のような重さに意識が沈んでいく。
お兄さんの傷に血をたくさん使いすぎたせいだ、と朧げに理解する。
視界が暗くなり、ぐらりと身体が揺れる。倒れる前に、ウタリは最後の力を振り絞って口を動かした。
「ウタリの血⋯⋯寝てるとき、おじさんに⋯⋯取られないように、して──」
「おい、どうした! おい!」
お兄さんの声がどんどん遠くなる。ウタリはそのまま、上半身を仰け反らせるようにして崩れ落ち、眠りについた。
◆ ◆ ◆
「起きろ、おい、どうした!」
突然、少女が意識を失った。ラフマン二等兵はその小さな体を抱き起こし、揺さぶる。
返事はない。目も開かず、眉一つ動かさない。息はしている──けれど、まるで人形のようだった。
「⋯⋯くそ、なんなんだよお前は⋯⋯」
ラフマンは少女をそっと地面に横たえ、自分のふらつく足で立ち上がる。頭がガンガンする。
けれど、それ以上に胸の奥がざわついた。
あの異様な笑い声。バラバラになった死体を前にして「お肉いっぱい」とはしゃぐ少女。
──侮辱だった。
死者を、あんなふうに扱うなんて。
怒りと困惑を混ぜ合わせた目で、ラフマンは少女を見下ろす。
改めて見るとその容姿は、どこか現実離れしていた。銀色に輝く長い髪が、膝裏まで垂れている。
うっすら開いた瞼から見える赤い目は、透き通った紅玉を想像させる。
透けるように白い肌は、まるで日差しに触れたことがないようだった。
真っ白な着物には、ほつれも染みも一つもない。
戦場に似つかわしくない、奇妙な少女。
(こいつ、何者なんだ)
少女を呆然と見下ろしているうちに、ラフマンの頭は次第に冴えてきた。
最初に感じたのは、腹の違和感。自分の腹にぽっかりと空いたはずの傷。そこに視線を向けた瞬間、ラフマンは息を呑んだ。
軍服の裂け目から覗く肌は、血の跡も、裂け目もない。まっさらだった。そっと指先で擦ってみる。痛みも、傷跡もない。
ゾクリ、と背中を冷たいものが這い上がる。
(⋯⋯治ってる。どうして)
記憶を遡る。痛みの中で霞んでいた景色に、ひとつの光景が浮かんだ。
──少女が、破片を拾い、自分の太ももを切り裂いた。
──そこから噴き出す血を、自分の腹に注いでいた。
その直後から、激痛は徐々に引いていった。
(まさか⋯⋯そんな⋯⋯)
ラフマンの中で、理性が首を振り、本能が震え上がる。
そのとき、幼い頃に母から訊いたこの島の言い伝えがふと蘇る。
『この島には、傷を癒す魔女がいるんだよ。三つの首を持ち、醜い顔で、攫った人の人肉を使って秘薬を作るんだって』
魔女。血。癒し。
その三つが、今目の前にいる少女と重なる。
(まさか、こいつ⋯⋯)
頭がぐらつく。あり得ないと叫ぶ思考と、魔女を見たと告げる本能が交錯する。
──そのときだった。
ギューン、と低く唸る音が空を裂き、現実が殴りかかってきた。空の彼方から、黒い影。爆撃機だ。
「畜生!」
反射的にラフマンは少女を抱え上げ、茂みへ向けて駆け出した。
背後から響く、地をえぐるような機関銃音。
土と弾丸が飛び交い、髪をかすめる冷風の中、ラフマンは必死に走る。
そして、間一髪。
ラフマンは少女を抱えたまま、茂みに飛び込んだ。