七.人妖花葬
彼女は阿青ではない――覚悟をもって、そう告げた途端。
「えっ……?」
笑顔の引き攣った孫夫人は、とっさに阿青――もとい水虎の肩へ手をかけた。
「そんな……じゃあ、この子はいったい誰だというのです?」
否定はされなかった。
でも――孫さんは真っ青になって、私の言葉を待っている。
「阿青の姿をした彼女は……」
妖。
阿青の友人で、家族を悲しませたくなくて代わりを申し出たのだと、すべて話した。
「こちらの棺に、本物の彼女が眠っています」
「花鈴、どうして……!」
水虎は怯えていた。
震える夫婦を見て、頭を抱えている。
「お前が殺したのでは」と、疑われることを恐れているのだろう。
「お気持ちは分かります……私もある日突然、家族を失いました。でも」
この阿青は偽物だが、水虎の思いは本物だった。
彼女にかかる疑いも責苦も、すべて私が引き受けるつもりで告白したのだ――水虎を背に庇い、震える孫夫婦の前に出ると。
「阿青……そうか。そうだったのか……」
孫夫婦は私をすり抜け、後ろの水虎に手を伸ばした。
「……っ」
燈が水虎を庇うように動いた、瞬間。
「ありがとう」
「え……?」
涙を流す孫夫人は、水虎を抱きしめていた。
騙していたこともそうだが、子を失った事実が何よりも辛いはずなのに――。
そして孫さんも、「真実を教えてくれてありがとう」と繰り返した。
「この子は、確かにあの子と同じように笑い、私たちと過ごしてくれました……あの子を一番知っていたのはこの子だったのかもしれない……だから」
夫妻を思いやる水虎の心に疑いようはない――そう言って、夫人は水虎を再び抱きしめた。
「妖さん、ちょっと待っててほしいの」
少しの間、家族だけにしてほしい――そう言って、孫夫婦は棺に寄り添った。
「花鈴。帰ろう、川へ」
「はい……」
水虎の声は冷静だったが――。
川へ向かう間、彼女は濡れた手をずっと私の腕に絡ませていた。
「やっぱり人間って、悪いやつばかりじゃないんだね! 媽媽たちみたいに、温かい人間もいるんだ」
「水虎……」
ごめんなさい、と言う前に、「謝らないで」と水虎はこちらを見上げた。
「このほうが良かった。本物の阿青と会わせてあげられたし。それに、媽媽が阿青じゃなくて、あたしを抱きしめてくれたから」
「……うん」
牙を見せて笑う虎頭を見て、罪悪に塗れていた胸が少し軽くなった。
妖は人と違う姿をしている。でも、他を思い遣る心は同じ――。
水虎と並んで川を眺め、沈んでいく夕日を静かに見送る。孫家の屋敷からずっと口を閉ざしている燈は、水面に手を浸しながら一点を見つめていた。
そろそろ、帰らなければ――そう思って、立ち上がった時。
「水虎さん……燈老師に、花鈴さんも」
目を腫らした孫夫婦が、白菊を携えやってきた。
「阿青への手向けに、こちらを流してやってくれませんか?」
「……もちろんです」
孫さんから受け取った花を川へ流し、手を合わせていると。
隣の水虎の呟きが、かすかに聞こえてきた。
「また遊ぼうね、阿青」
他の誰にも聞こえていないであろう、別れの言葉――溶けそうなほどに熱い目を押さえ、孫夫妻を振り返った。
「この度は誠に、申し訳ございませんでした……」
深く頭を下げると、「いいのよ」と静かな声が降ってきた。
「水虎さん。これからも時々、遊びに来てくれないかしら?」
その衣をまとわずに――「阿青」ではなく、「水虎」として。
「聞かせてほしいの。あの子とどんな遊びをしたのか……それに、あなたのことも」
「……っ、いいの?」
「ええ。ねぇ、あなた」
「ああ、待っている」
笑顔は見せないものの、たしかな暖かさを言葉に残し、孫夫妻は去っていった。
その後ろ姿を、水虎はじっと見つめている。
「花鈴。大王さまも、たまに会いに来てほしいな」
「はい……必ず」
川へ沈んでいく虎頭。そして妖の子と絆を繋いだ夫婦の後ろ姿を見送りながら、燈は満足げに微笑んでいた。
「ああ、誠に人は強いな。お前を信じて良かった」
「燈……」
人になりたいと願う燈に、私は何かひとつでも与えてあげられたのだろうか――。
涙をこらえた孫夫婦の顔、笑う水虎、満足げな燈。
静かな夜に、それらを思い浮かべながら寝台へ入ると。何かが足りないことにようやく気付いた。
「あれ……燈?」
水汲みに行くと言ってから、しばらく経つ。
少年の姿とはいえ妖の王なのだから、危険な目に遭ってはいないと思うが――胸騒ぎがして、寝台を抜け出した。
提灯片手に、ざわめく竹林の奥へ踏み入ると。
「貴様は誠に腑抜けてしまったというのか!?」
あの怒鳴り声は――。
「そう感じるのは生来の特性ゆえだ、渾沌。お前にも徳を重んじる心は存在するだろう」
「相変わらず人間のようなことを言うな、饕餮! 俺は妖だぞ!」
雄勇――彼は都へ帰ったのではなかったのか。
はっきりとは聞こえないが、揉めているようだ。
「そも、『徳』とやらが備わっている者が人間という証左はない。暴虐と破壊を性とする者もいる」
「貴様の話は小難しくて分らんが……ようは、貴様を殺すよう命じた『前皇帝』のような人間を言うのだろう!」
印に燈を討つよう命じた、前皇帝――曲がりなりにも宮中に勤めていたのだから、知っている。彼は厳正で、世を治めるには『優れた皇帝』と称されていたが。その実、自分の子孫ですら政治や商売の道具として利用する人でなしだ。
(あれ……? どうして皇帝は、血の繋がっていない印兄さまを皇帝に指名したんだろう)
「『生来の特性』がどうのという、貴様の論に乗っかってやるとだな」
思考を打ち切るように、雄勇の割れた声が響いた。
「300年ほど前の貴様は、『貪欲』そのものだった。人妖関係なく、奪い、貪る強者……俺はそんな貴様に憧れた」
それが昔の燈――妖として生きた、燈の本性だというのか。
『誠に人は強いな。お前を信じて良かった』
昼間耳にした、燈の言葉がこだまする。
昔どうだったかなんて、今は関係ない。
たとえ燈が悪い妖だったとしても、彼は確実に変わっている――人間に寄り添い、人と妖が共存する未来を願う彼のことを、私も信じたい。
でも――。
心臓の音が聞こえてしまう気がして、胸を押さえた。
「一方的に蹂躙され、悔しくはないのか!? 貴様ほどの男が大した抵抗もせずに殺され、このまま黙って人間どもの支配を許すというのか……?」
雄勇の声が――気配が、変わった。
『饕餮。貴様が本気を出せば……人間の軍勢程度、一夜で塵にできるだろう?』
真っ直ぐで純朴な青年のそれではない。老若男女の声色が混ざった、まさに「渾沌」――これ以上、ここにいるのはまずい。
人が踏み込んではいけないことを、彼らは話している――。
痛いほどに鳴る胸を押さえながら、離れへ戻ったものの。
「はぁ……暑い」
もう秋だというのに、緊張と不安のせいか夜着が濡れている。
『貴様が本気を出せば……人間の軍勢程度、一夜で塵にできるだろう?』
締め付けられた頭に、雄勇の声が反響した。
考えてはいけない――今の燈は違う。
私がつまみ食いをしようものなら、「行儀が悪い」と叱り、床で寝ようものなら「身体を痛くする」と運んでくれる。「人間になりたい妖」ではなく、もはや彼は人に相違ないのだから。
「……着替えよう」
新しい夜着を引っ張り出し、帯を解くと。
禁術を習得した時に浮かんだ『花の痣』が、左胸の上に慎ましく咲いていた。
最初に四枚あった花びらが、二枚まで散っている。
「印と燈、あとふたり分……」
命を縫い留めた代償。そして私に残された時間は――。
己の命の残量を、密かに勘定していると。
「それは……」
「わっ!?」
音もなく玄関口に立っている燈を見つけ、慌てて衣を抱き寄せようとしたところ。
一瞬で距離を詰めてきた燈に、腕を強く掴まれた。
子どもの姿でも、拘束された腕はびくともしない。
肌をさらしたままの胸に、視線と指が降りる。
「ひっ……」
「お前、なぜ黙っていた?」
痣に触れた燈の指先は、かすかに震えていた。
何のことか、と問えば。
「俺が分からないとでも思ったか? これは禁術の代償を表す紋だ!」
【黄泉縫い】に限らず、禁術を扱い命を削る人間を見てきた――燈は痣に爪を立て、光る貝紫の瞳で私を睨みつけた。
「この花びらは禁術の使用限度を表している……そうだろう?」
「どうしてそこまで……いっ!」
燈の爪が、二枚の花びらに食い込んだ。
痛い――でも、今は耐えるしかない。
彼は見たこともないような顔で、必死に息を噛み殺していた。
「いいか? これ以上軽々しく禁術を使おうとするな」
「燈……」
長く生きるより、『どう生きるか』――そんな言葉を繰り返したところで、燈はまた聞き入れない気がした。
「【黄泉縫い】への恩返しなら、もう十分ですよ。燈が美味しい饅頭を作ってくれて、仕事をくれて……それに私、宮中にいた時よりずっと笑うことが増えたなーって、自分で気づいたんです。だから」
どうか悲しまないでほしい――。
そう言って微笑むと、燈の指が胸から離れていった。
代わりに、腕を引き寄せられる。先ほどの爪とはまるで違う、優しい力で。
それでも、耳にかかる息は重かった。
「他のため己をいとわないお前の輝きは、何よりも苛立つ……ゆえに惹かれる」
「え……?」
今、相反することを同時に言われたような――。
身体を離し、顔を見ようとした途端。再び強く抱きしめられた。
いつの間にか、私を包み込む身体や、背に触れる手が大きくなっている。
「お前は自分がどうなろうと、『俺には関係ない』と言ったな。だがお前自身の言動が、俺に放っておけなくさせているのだ」
「それは、燈に迷惑をかけているということ……ですか?」
首を傾げると、白く硬い指が頬に触れた。ひんやりした指先から伝わる確かな熱に、身体がこわばる。
こちらをまっすぐに見つめ、なにを言い出すつもりかと思えば――。
「お前の残りの時間を、俺によこせ」
「……ええと?」
これからも一緒に暮らしてほしいということか――そう尋ねると、額を軽く小突かれた。
「水虎の時は驚かされたが……実際お前は鋭いのか鈍いのか、分からんな」
気のせいだろうか。月明かりに浮かび上がる白い頬へ、赤みがさしている。
「燈。心配しなくても、これからも一緒に暮らしましょう」
今と変わらず、ずっと。
安心させるように、震える拳へ手を添えると。その手を痛いほどに強く掴まれた。
「変わらない? それで俺が満足できると?」
獲物を捉えたかのような瞳に、忙しない心臓を射抜かれた瞬間。耳元に、熱い息がかかった。
「だから。誠に夫婦にならないか、ということだ」
「…………え?」