六.優しい化けの皮
『駄目だ。禁術は使わせん』
こちらが口を開く前に、燈は刺すような視線を送ってきた。
やすやすと命を削るような選択をするんじゃない――怒りのにじむ貝紫の瞳が、そう訴えている。
『でも……』
『残りの生に意味を見出したいのならば、「お前の命は俺のために使え」と言ったはずだ』
燈の願い。人と妖の子が、手を取り合う未来。
しかし燈の仕事着すら満足に縫えない私が、彼を助けることなどできるのか。
やはり、私にしかできないことが他にあるのでは――。
『では、せめて確認だけでも……』
水に揺らぐ少女の遺体を見つめ、そっと目を閉じた。
さらに息を吸って、止める。
そうして暗闇の中に漂う、「魂の縫い目」を探すが――遺体の側には何も見当たらない。
『……もう、亡くなってから七日以上経過しているみたいです』
『え? するとどうなるの?』
縫い留めるべき魂の糸がないと、【黄泉縫い】はできない。
はっきりとそう告げると、水虎は耳と尻尾を丸めた。
『……そうなんだ。阿青とは、もう遊べないんだ』
一方燈は、安心したように泡を吐きだしている。
『爸爸と媽媽も、子ども思いのいい人間なのに。早く阿青と会わせてあげたいけど……悲しませたくないよ』
あたしが阿青の代わりになれたらいいのに――。
水虎の低い呟きに、胸が締め付けられた。
『水虎……』
せっかく私を頼ってくれたのに。
人と友情を築いた妖の子に、何もしてあげられないのだろうか――。
『お前は、他者のために何かせずにはいられないのか?』
『……え?』
『顔が「せめて何か……」と言っていたぞ』
さすが老師をする妖。人のことをよく見ている。
しかし私にできることは、もうないのかもしれない――。
「お前の扱う禁術は、いわば死と生を繋ぐもの……俺の妖力と合わせれば、或いは」
「え……?」
燈の思いつきに、一時は期待したものの。内容を聞いた途端、背筋が震えた。
私に、阿青の髪を織り込んだ、特別な死装束を縫えという。その衣に燈の妖力を与えれば、衣を纏ったものは死んだ少女の姿になれると。
『我々が人の形を保ち続けるのには限界がある。が、死者の姿を写す衣ならば――』
水虎は望み通り、阿青の代わりになって、ずっと両親のそばにいられる。両親も娘の死を知らず、悲しまずに済む。
『これで皆、幸せだろう』
確かにそうだ。
でも――。
『本当に、それで良いのかな……』
燈の考えは、妖ならではだ。
遺髪を織り込んだ衣を纏い、死者のふりをするなんて――私には、死者を冒涜しているように感じられる。
ただ、「誰も悲しむことはない」という言葉は否定できない。
『……水虎さんは、どうしたいですか?』
すると、沈んでいた虎頭が喉を鳴らした。
『あたし、それ着たい。阿青の代わりに、あの家族が生きてる間は家族ごっこを続けるよ』
『うむ。よく決断したな、水虎』
燈は「これで解決だ」、と満足げだが。
それが本当に、水虎と阿青の家族のためになるのだろうか――。
疑問を引き連れたまま帰宅し、すぐに死装束を縫いはじめた。
燈の仕事着とは比べ物にならないほど、やはり白衣を縫うのは迷わず速い。正確な縫い目に阿青の遺髪を織り込む間も、「本当に良いのだろうか」という思いは消えなかったが――。
「ありがとう花鈴! あたしずっと阿青と遊んできたんだから、完璧になりきってみせるよ」
ひと晩で縫い終えた、死者写しの衣。
それを川で渡すなり、水虎はさっそく大切そうに抱えた。
衣に妖力を与えた燈も、満足げに頷いている。
「うむ、さすがは『白娘』。喪服の出来は国一だな」
「だからそれ、褒め言葉じゃないんですって……」
衣を纏った水虎の姿は、どこからどう見ても阿青。水の中に沈んだままの彼女の生き写しだった。
しかし、水虎はあくまで水虎。
いつかボロが出てバレるか、あるいは家族が真実を知らないまま死んでいったら――偽りの子を愛し続けることが、はたして孫夫妻にとって幸せなことなのだろうか。
「花鈴」
「……はい?」
珍しく真剣に名を呼ぶ燈を、ゆっくり振り返ると。
「我々は、人と妖の絆とやらを繋ぐことができたのだろうか?」
少年の燈は、不安げに、それでも誇らしげに笑っていた。
燈が喜んでいる。
水虎も。そして孫夫婦が悲しむことは、ひとまずない。
「……そうだ。心配しすぎ……だよね」
そのまま燈に手を引かれ、李治療院の佇む竹林へと帰宅した。
姉は、「雄勇とかいう衛兵さんはお帰りになったの〜?」と周囲を警戒している。それに燈が答えているが――なんだろう、音が聞こえない。
夕飯を食べている間も、湯に浸かる間も、「本当に良いのだろうか?」が消えなかった。
死者写しの衣を渡してから、一週間後。
師として勤める燈に同行して、何度か柏陽寺を訪れたが――。
「阿青、お迎えに来ましたよ」
「はーい、媽媽!」
軽やかな声とともに、阿青――ではなく、死者写しの衣を着た水虎がお堂から走り出てくる。ふたつに結ばれた髪が揺れるたび、水に濡れたような光を帯びていたが。孫夫人は気がついていない。
「阿青、走ってはいけませんよ。本当にお転婆なんだから」
「えへへ、ごめんなさい」
娘の頭を撫でる孫夫人の目尻には、小さな皺が寄っている。
その後ろには、孫さんまで控えていた。
「帰るか、阿青」
「爸爸もお迎えきてくれたの? 嬉しい!」
親子三人が手を繋ぎ、寺を出ていく。
穏やかで、何の変哲もない家族の風景――それでも、胸に刺さる小さな棘は消えなかった。
「花鈴、我々も帰ろう」
「燈……ちょっと、先に帰っていてください」
偽の親子が気になって仕方ない。
こっそり後をつけていくと――談笑しながら歩く彼らに、なんとか追いつくことができた。
「あら、阿青。昨日と同じ服にしたのね」
「うん、阿青はこの色が好きだったから……あっ」
阿青――水虎の表情が一瞬止まり、笑顔が数拍遅れて戻った。
ここ一週間様子を見ていて、水虎が何に失敗したと気づいたのかは分かっている。
ふだん彼女は、自分のことを「わたし」と称していたのだ。
しかし孫夫婦は互いに目を伏せ、何も言わなかった。
「……っ」
水虎は懸命に、阿青であろうとしている。
言葉遣いも、歩き方も、仕草も――たぶん、孫夫婦が違和感を覚えないほどにはよく似せているのだろう。
でも――。
「これで良いの……?」
悲しみの代わりに、温かい笑顔がそこにある。
しかし彼らは、『本当の家族』ではない。
いつか、この絆がほつれてしまうのではないか――遠くから見ているだけでも、息が苦しくなった。
水虎は懸命に笑っているのに。
「ねえ媽媽、あの話もう一回してよ」
「うふふ、阿青は本当にあの話が好きですねぇ」
きっと、水虎は無理をしている。
笑いながらも、微かに震える背中を見て、そう思った。
私はもう、目を背けてはいられない――。
燈の待つ家に帰った後も、孫一家のことが頭から離れなかった。
「……っ」
「どうした、眠れないのか?」
心配してくれている燈に、「何でもない」と背を向け、寝台に横たわった瞬間。
ふと、印の顔が浮かんできた。
私の生きる意味だった人。今はもう届かない、届かなくていいと思えた人。
『側室にならないか?』
あの提案をされた時は、息が止まるかと思った。
印の許嫁として生きたそれまでと、印を追いかけ耐え抜いた宮中での日々を、すべて否定されたような気がしたから。
でも――。
「……そっか」
私は誰よりも知っていたはずだ。
人はどんな絶望に出会っても、いつかは必ず立ち直れると。
「燈……話があるんです」
「ん、なんだ?」
子どもの姿の燈は、目を開けてこちらを見つめていた。どうやら寝ていなかったらしい。
私が寝台の上で正座をして向き直ると、燈も身体を起こした。
「孫夫婦に、真実をお話ししようと思うんです」
震えないで言えた。
燈は目を丸くしたまま、「何故だ」と囁く。
「あの夫婦は娘が帰ってきて幸福そうだと和尚から聞いた。習いに来た水虎も、『無理はしていない』と言っていた。お前は、今の平穏を壊すというのか?」
燈の疑問はもっともだ。
それでも、「偽り」の上に成り立った幸せは、所詮「偽り」でしかない。
「どんな苦しみや悲しみからも、いつかは立ち直れる……それが人間の強さだから」
憎くも、印が教えてくれたこと。
そう呟くと。
「……そうか。お前は、すごいな」
「え?」
「お前は強い。俺は、ずっと“何も変わらないもの”でいようとした」
「燈……」
それは燈が妖だからか――。
皮肉めいた笑みに対し、問いかけることはできなかった。
「俺はまだ、変われない……だがお前は傷ついて、それでも前を向く」
燈の小さな手が、そっと私の手の甲を包んだ。
今思えば。この寄り添うような触れ合いを重ねるたび、私は少しずつ前を向けるようになってきた。
燈がいるから。
私は今、立ち上がれている。
暗闇でもぼんやり光る、貝紫の瞳をじっと見つめていると――。
「たしかに、妖にはない強さだ」
信じる、と燈は口にした。
「……ありがとう、ございます」
燈が信じてくれると言うのならば、きっと私は真実を告げられる。今の彼らの幸せな時間を、奪うことになったとしても――。
翌朝。
燈の妖力で、川の底に沈んだ阿青の遺体を引き上げた。彼女が綺麗な状態で保たれているのは、水虎のおかげだという。
その水虎は、真実を話すと言ったら何というだろうか――胸に錘をつけた心持ちで、孫家の屋敷を訪れると。
「阿青〜、昼食の支度ができましたよ」
「はい、媽媽!」
どこにでもある親子の風景。
この幸せを、私は壊しに来たのだ――。
「やめておくか?」
棺を背負う燈の問いかけに、一瞬喉が詰まった。
でも、もう後には引けない――。
「ううん……言います、ちゃんと」
人の良いお役人夫妻は、棺を負って現れた私たちに戸惑いつつも、話を聞いてくれた。阿青に化けた水虎も一緒に。
「彼女は……実は、阿青ではないのです」
この棺の中に、本物の阿青が眠っている――すべての悲しみを背負う覚悟を胸に、そう告げた。