五.願う水虎
組み合う衛兵と姉の声を背景に、針を動かしていると。いつの間にか、縫い目が見えなくなるほど辺りが暗くなっていた。
「あなたたち、いい加減にして夕飯にしましょう!」
料理包丁を持った燈が間に入らなければ、きっと二人はいつまでも互いを投げ合っていただろう。
「応、もうそんな刻限か!」
やっと姉から離れた大男――衛兵の雄勇は、豪快な笑い声とともにこちらへ向かってきた。一方姉は、「母屋でいただくわ」と、雄勇との同席を避けいる。
「気にしないでください……姉はちょっと過保護で」
「心配するな! 俺は何も気にしちゃいない。都の大臣どもに、妹を渡したくないのだろう」
血気盛んな筋肉男かと思ったが、意外と話は分かるらしい。
それに、やはり。王宮の門前で最初に見た時から、彼の瞳は不思議な色をしていた。
まさか妖とは思わなかったが――。
「雄勇、お前はこちらに座れ」
「応!」
妙な面子で食卓を囲むことになったわけなのだが――母屋の縁側で器を手にしている姉は、雄勇を監視するように睨んでいる。
「やはり、貴様の作る飯は美味いな!」
姉の視線を気にせず、刀削麺を吸い込むように飲む雄勇。
白い指先で、丁寧に箸を扱いすする燈。
せっかくの食事なのに、妖に囲まれているせいか味がよく分からない。
「ところで……聞いてもよろしいでしょうか?」
そもそも、燈の黄泉縫いを依頼したのは雄勇だ。いったいどういう関係なのか――。
「俺たちは同位の妖だ! 燈……否、饕餮、そして俺の真名は渾沌という」
妖の中でも特に妖力が強い彼らは、「王」の称号をもつ三体に数えられるという。
「それって……」
現皇帝、印と相討ちになったのは、たしか「妖の王」だったはず。
「印という男を殺したのは、俺だ」
「そんな……!」
印が妖退治に向かったのは、前皇帝が「悪行を成す妖の王を討伐しろ」と詔を出したからだ。
「俺を殺しにきたあの男……この身を守るため、いささか本気を出さずにはいられなかったわけだが」
「燈が、印を……」
それでも、燈に対する怒りや悲しみは湧いてこなかった。
燈の言葉が、真実だと信じられるから――。
人になりたいと願い、人と妖がともに生きる未来を目指す彼のことを知った、今ならば。
「殺されたと聞いたときは『貴様も腑抜けた』と怒ったものだが……仇の元許嫁を奪うとは、やるな!」
雄勇の言葉に、燈は目を見開いた。
どうして今それを言うのか――。
「雄勇様……!」
豪快に笑う妖を睨みつける間にも、隣から「そうか」と、静かな声が響いた。
「俺を討った男の許嫁に、俺は助けられたのか……そして二度も、お前に無用な黄泉縫いをさせてしまった」
「燈……」
討たれたもの、討ったもの。
その間に個人の想いはなかった。
印は王命に従っただけ。燈は己を守ろうとしただけ。だからこそ、二人を蘇らせた私に後悔はない。
そうはっきり言えればよかったのだが――深い影を帯びた横顔に、声をかけることができなかった。
「俺らは人間の伝承に語られる『三凶』のふた角でな。昔は天災と同等に恐れられたものよ!」
宮中の文官として働いていた燈の正体が、どこからか漏れた。『三凶』の存在を知っていた元皇帝は、問答無用で燈を討たせたという。
「……知らなかった、です。宮中にいたのに」
「針子は知らなくて当然だろう! あの地下に饕を誘い出し、腕利きの親衛兵に討たせようとしたのだからな」
その親衛兵が、印のことか――。
「でも……燈はどうして、人間に化けて文官を?」
冷気が漂う横顔へ、恐る恐る声をかけると。
燈はようやく息を吐き出し、こちらに向き直った。
「当然、人間の営みを識るためだ。宮中には人間の政治、文化、医術……その頂が集結しているからな」
三凶の最後のひとり、聡い妖が燈へ宮中入りを勧めたたという。
「今や奴は、『学問の神』として祀られる神獣だ。我々は元より何も変わっていないのだがな」
「妖が神獣に……?」
崇めるべき神や討つべき妖と判断するのは、常に不安定な人間側。
自分たちは昔から変わらない――燈は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「だが貴様、三百年前は――」
「渾沌」
雄勇が何かを言いかけたところで、燈は立ち上がった。
「もう寝る。出ていけ……獣の姿になれるお前ならば、その辺の竹林でも寝られるだろう?」
「応! 邪魔したな」
別にひとり泊めるくらい構わない、と提案しようとしたところ。燈はこちらに背を向け、居間の床に横たわった。
「今日はそこで寝るんですか?」
「なんだ、共寝したかったのか?」
妖しい笑みに、顔が一瞬で熱くなった。
「べ、べつに! ただいつも人の寝台に入ってくるじゃないですか」
「……元許嫁を殺した男と寄り添うなど、お前も嫌だろう」
「え……」
気にしていないのに――などと、私が言うのも変な気がした。
しかし印は生きているし、もう私の人生とは関係のない場所にいる。燈が印と相討ちになったのも、元はといえば前皇帝の詔のせいだ。
「燈……」
珍しくしおらしい妖の背に近づき、膝を折った。
「……なぜ隣に寝る」
「燈の背中が、寂しそうだったので……」
暖かいような冷たいような、不思議な感触の身体に寄り添うと。ため息の直後、身体をふわりと持ち上げられた。
「寝るなら寝台だ。身体を痛めるぞ」
声は暗いが、私を抱える手は優しい。
「……ありがとうございます」
私より何年も、何百年も長く生きてきた妖が、私を憂い気遣っている――人か妖かでは測れないその心に、身体の芯が暖かくなった。
翌朝。
一度都へ戻るという渾沌――雄勇を見送りがてら、柏陽寺ヘ向かうと。
真紅の平服に身を包んだ夫婦が、御堂の前で僧侶に頭を下げていた。
「あれ? たしか……」
見覚えがあると思えば、旦那の方は柏陽を治めるお役人――孫家の主だ。
「いなくなった子どもを探しているようだ」
「えっ、この距離で聞こえるんですか……?」
さすが妖、というのはさておき。お役人夫妻は、一週間前から子を探しているという。
「親子喧嘩をして家を飛び出したそうだが。ここまで見つからんとなれば、妖の子らが悪戯しているのやもしれんな」
学ぶ子どもたちの中に、妖が混ざっている――燈はさらりと指摘した。
「えっ! それって――」
危険なのでは、と口走りそうになり、慌てて口をつぐんだ。
「案ずるな。ただ『学びたい』と願う童どもだ」
「燈のように……?」
寂しげに微笑む、子どもの姿の燈。
昨夜の話を気にしているのだろうか――。
「ひゃっ!?」
背筋を駆け上る冷たい何かに、思わず変な声が出てしまった。
手だ。
紅葉のような手が、私の背中に触れている。
「お、女の子……?」
ふたつの団子結びを頭につけ、くりんとした瞳でこちらを見上げている。
でも――この子の手、服の上からでも冷たく感じた。しかも布が肌へ張り付くほどに濡れている。
「大王さまっ」
「水虎か。どうした?」
燈に向かって、たどたどしくお辞儀をした後。
その水虎という妖は、私を見上げ微笑んだ。
「大王さまを蘇らせたの、あなただって聞いたよ」
「え……?」
縫ってほしいものがある――そう言って、少女は濡れた手で私の手を引いた。
戸惑いつつ燈を振り返ると、「行ってやってくれ」と頼まれた。
私に縫えるものなんて、限られているのだが。
「こっちこっち、早く」
手を引かれるままやって来たのは、柏陽を横断する長い川だった。
「ここは……」
十年前のことを思い出し、足が震える。
「花鈴、どうした? 顔が真っ青だが」
しっかりとした腕に身体を支えられ、なんとか気を保てた。
あの時印がいなければ、私はあの妖に――川の中から獣のような頭を出し、こちらへ迫ろうとしていた妖の記憶が蘇る。
「すみません……昔姉とここで釣りをしていた時、水の妖に襲われて」
「もしかして、それはこんな妖だった?」
幼い声を振り返ると。
水面に、虎のような頭が浮かんでいた。
「ひゅっ――」
記憶の中の恐ろしい妖が、目の前のものと重なる――。
「ひひっ! あの時の子だったんだ」
あの時――?
「かわいい女の子たちを脅かしてあげようと思ったら、男の子に竿で叩かれたんだ! あれは痛かったなぁ」
まさか、あの時の妖が水虎だというのか。
「脅かすって……じゃあ、食べようとしていたわけではない、と?」
燈の背後に隠れつつ、水虎の方を見ると。なぜかふたり揃って笑い始めた。
「人間を食べる連中なんぞ、とうの昔に滅んだが?」
「そうよ! 妖たちの生きがいは、人間をびっくりさせることなんだから」
そうして遊んだり、棲み処を荒らす人間を追い払ったりする――水虎は小柄な虎の風貌を保ったまま、こちらへ近づいて来た。
「中に来てくれない? そこでお願いを話すよ」
「……燈」
これは本当に信用して良いのだろうか。
正直まだ、水虎が直視できないほど恐ろしい。
「お前はどうしたいんだ?」
「助けになってあげたいけど……」
怖い――助けを求めるように、燈を見つめると。
「案ずるな。俺の妖力があれば、水中でも息ができる」
「心配しているのはそこじゃないんですけど……まぁ、いいか」
もし悪い誘いなら、燈が最初から止めているだろう。
覚悟して、燈の妖力に頼ろうとしたのだが――なぜか燈は大人の姿に戻り、私の腰に腕を回した。
「妖力は口移しだが、良いな?」
「そうですか、では早速……って」
この人――ではなく妖、まったく考えが読めない。昨夜は妙に気を遣っていたかと思えば、今日はこの調子なのだから。
「どうした、俺たちは夫婦になるのではなかったか?」
「それは冗談だったのでは……!?」
本当に、分からない――。
鼓動が速いこちらに構わず、燈は余裕たっぷりに微笑み、貝紫の瞳を水面に向けた。
「なんだ。水虎のやつ、もう水中へ潜ったらしいぞ」
『戯れはふたりきりの時にやってよ! 妖力は触れれば渡せるでしょ』
水の中から、こもったような声が聞こえてきた。
「燈、からかったんですか?」
「……参るか」
まったく。
人間に対する冗談は、許されるものと許されないものがあると教えなくては――そんなことを決心する間に、燈の指が喉に触れた。
「……っ!?」
息ができない。
突然、鼻と口が塞がったかのようだ。
「早く飛び込むぞ」
燈に抱えられ、落ちた先は――冷たい川の中。
藻と泡を横目に、身体が沈んでいく。
『……あれ? 息ができる』
『当然だ。お前の身体は今、水中生物と同じように、鰓で呼吸できるように変化している』
『そんなまさか……あっ!』
なんだかくすぐったい耳の後ろに触れると、膜のついた筋が数本並んでいた。
これが、姿かたちを変える妖力――。
『こっちだよ』
水中を飛ぶように泳ぐ虎に続くと、やがて暗い川底が見えてきた。
藻草に絡まれ漂うのは、眠ったように見える少女。ただ、肌は透き通るように青く、唇にも色がない。
『この子は……』
『人間のお友だち! でも、この間死んじゃったの』
あたしがついていたのに――俯く水虎が語るのは、先日起こった事故のこと。両親と喧嘩した少女は、仲直りのために川の藻を採りたがったのだという。
しかしその日は雨で、水の流れも速かった――水虎は囁くように声を落した。
『一週間前って、もしやこの子が孫夫妻の探していた……』
『ああ、おそらくな。川藻は生薬になる。この娘は親を喜ばせたかったのだろう』
手を合わせる燈を見て、慌てて自分もそれに倣った。
こういう時、燈の方が本当に人間らしい。
『だが、お前の願いは聞けんな』
『え。どうして燈が決めるんですか?』
まだ聞いてもいないのに――そう言って振り返った先には、影を帯びた横顔があった。
『あ……そっか』
「大王さまを蘇らせたの、あなただって聞いた」――水虎は初めにそう言った。
つまり、私に縫ってほしいものとは。
『この子を黄泉がえらせてほしいの!』
『やはり、か』
泡を吐き出す燈を横目に、自分の胸へ手を当てた。
禁術を行使できる残り回数は、あと――。