四.姐姐と使者
燈の瞳に合う、上質な紫の布を調達したは良いが――。
「はぁ……また解き直しだ」
李家の禁術を継ぐものへの呪いなのか、やはり喪服以外は手が震える。
寺子屋の講師となる燈のため、立派な仕事着を縫ってあげたいというのに――縁側に座ってから、ひとつも進んでいない。
「いててっ……肩攣ったかな」
悪いことは重なるものだ。
変に力の入った腕を、ぐるぐる回していると。
「あら、そんな乱暴に動かしちゃダメよ〜」
採れたてキノコを干していたはずの姉が、すかさず針を取り出していた。
「姐姐、もしかして……」
「さぁ、花鈴ちゃん。痛くしないからおいでなさいな」
確かに姉の鍼治療術は痛くない。が、あの太く長い針が自分の中に入るのだと思うと――やはり何度やっても慣れない。
「へぇ、不思議ですね! 針を身体に刺して不調を治すなんて」
キノコ狩りでついた泥を落とし、燈までこちらに寄ってきた。
人の間では一般的な治療法だが、妖にとっては物珍しいのだろう。
「体に張り巡らされた、気の流れの通り道――『経絡』へ針で小さな傷をつけて、自己治癒力を高めるのよ」
「ふむふむ、『経絡』……素晴らしい技術ですね」
興味津々の燈が見守る中、姐の指示通り片腕を脱いだ。
「花鈴ちゃんの縫製術と違って、これは特別なことなんて何もないわ〜」
姉は謙遜しているが、この治療技術を応用した「妖退治の針」は十分特別なものだ。
そんなことを思いながら、肩と腕へ異物が入り込む感触に耐えていると――やがて、「終わりよ」と柔らかい声が響いた。
「ん、軽くなってる。ありがとうございます、姐姐」
「いいのよ〜! 花鈴ちゃのためなら、お姉ちゃん……あら?」
突風のような風に、笹が激しく鳴る。
門代わりの竹林をくぐり抜け、『李治療院』の敷地へやって来たのは――。
「あなたは……!」
見覚えのある甲冑に、不思議な色の瞳。
燈を見つけ笑った彼は、私に黄泉縫いを依頼した衛兵だ。
「邪魔するぞ!」
「こ……雄勇」
燈と視線を合わせ、雄勇と呼ばれた衛兵は歯を見せて笑った。
「おっ、元気そうにやっているな!」
どうやら彼は、即位した皇帝の遣いで来たらしい。
もう印は、完全に手の届かない存在となった――でも、後悔はない。あのまま宮中で後宮に入ったところで、私は『籠の中の鳥』になってしまっただろう。
「特異な術によって皇帝を蘇らせた娘に、届け物が――」
雄勇と呼ばれた衛兵が言いかけたところで、「させないわ!」と声が響いた。
「えっ……姐姐?」
いつの間にか、姉が妖退治用の長く太い針を構えている。
「姐姐、違います! 彼は……」
「大丈夫よ花鈴ちゃん。燈ちゃんと点心でも食べて待っててね〜」
顔にはいつもの笑みを浮かべているが、腕の太い血管が脈打つほど、手先へ力が入っている。
まずい。
完全にやる気だ――。
「構えに強者の気配有り! 手合わせ願おうか!」
「あの戦馬鹿……五百年前から変わらんな」
真剣に見合う二人を見守りつつも、燈の呟きを聞き逃さなかった。
やはり燈を助けるよう頼んできた雄勇も、妖なのだろう。だが、今はそれより――。
「いざ、参らん!」
大男、そして体格では負けていない姉の気迫で、竹林の笹が揺れる。
風が止んだ瞬間、両者が同時に動いたが――姉の方が一歩早い。
「……っふん!!」
姉の勇ましい掛け声の直後。
勝負は一瞬で決した。
「うぉっ!?」
目視できない速さで、姉が大男を宙へ放り投げたのだ。
さすがに人相手だと思っているからか、針は使わなかったらしい。
「見事な柔術だ。やるな、お前の姉」
「感心しないでください……!」
仁王立ちする姉に拍手を送る燈はさておき、地面に伏した妖衛兵は――笑っている。あごから頬にかけて、ヒビの入った顔で。
「奴め、強者に出会って人の擬態が剥げかけているな」
「えっ……!? は、早く止めてください!」
ただでさえまずい状況だというのに。
雄勇が妖だと姉にバレれば、ウチが修羅地獄となりかねない。
「ああ、致し方ないな」
「少しだけ元に戻る」と口にした燈から、肌を刺すような気配を感じた。
「雄勇、俺の方を見ろ」
「……っ」
何をしたのかは分からないが、燈の低い声を聞いた大男の顔が元に戻っていく。
「今のは……」
「なに、少し妖力をあててやっただけだ」
こんな時、燈が人ならざるものだと改めて認識する。
恐ろしいはずなのに――いつもの笑顔を見るだけで、ざわめく胸が落ち着いてきた。
雄勇は戻っている。あとは姉だ。
「姐姐、聞いてください! この人は燈の知り合いなんです」
「えっ、燈ちゃんの?」
ようやく、姉の鬼神化が解けたところで。
「お茶を汲んでくるわね」と態度を変えた姉を見送り、印のお遣いを離れの縁側へ案内した。
腰掛けただけで床板を軋ませる雄勇へ、訪問の詳しいわけを尋ねると。
彼は喋るより早く、懐から大量の袋を取り出した。
「きゃあ! 花鈴ちゃん、お金よ!」
戻ってきた姉の目が、銭色に輝いていた。
お金――それも、一家が当分は遊んで暮らせそうな額だ。
彼は皇帝の命を受け、これを届けに来たという。
「もしかして……」
「『黄泉縫い』の礼だそうだ! これからも時々届けるよう仰せつかっているぞ」
やはり――。
「これは当然の慰謝料よ、花鈴ちゃん。ごっそりマルッといただいておきましょう」
「姐姐……」
がめつい一面のある姉に対し、何と言ったら良いものか。
とにかく、この銭は受け取れない。
印を蘇らせたのは、ただ恩を返しただけなのだから。
印との繋がりは、それでもう終わりにしたい――。
「せっかくですけど、この銭は……」
「それと、もうひとつだ」
雄勇は声を落とし、ここへ来た「もうひとつの命」について口にした。
禁術を目の当たりにした大臣諸侯から、私を都へ連れて来るよう指示されたと。
高貴な身分の人々が、私を必要としている――彼は皮肉めいた笑顔で言った。
「なんだと……?」
姉より先に低い声を発したのは、燈だった。
そして言葉より先に、姉は指の関節を鳴らしている。
「やっぱり追い返した方が良かったみたいね〜」
「おっ、やるか? 俺は何度でも受けて立つぞ!」
心底楽しげな衛兵に対し、姉は「表へ出なさい〜」と青筋付きの笑顔で答えた。
ここにいたら、大柄人妖の大乱闘に巻き込まれる――。
「逃げなきゃ……」
縫いかけの衣を抱え、燈の手を引いて、母屋の中へ逃げ出すと。私より目線の低い彼に、強く腕を引かれた。
どういうわけか、燈は怒っている。
「その微妙な顔。まさかお前、欲に目の眩んだ連中の元へ参じる気ではないだろうな?」
「え……?」
大臣たちの召集に、実際に応えるかまでは考えていなかった。
私の力を利用しようとするものは、きっと沢山いる。
死後七日間の期限付きとはいえ、この禁術は死を覆す特異なもの――滅多に使うものではないと、父から耳へ染み込むほどに言われていた。
「でも……」
喪服以外満足に縫えない。
誰かの役に立つわけでもなく、生きる意味さえ失った今――。
「それが私にしかできないことなら、期待に応えようかと……」
立ち昇る鋭い気配に、ふと言葉を切った。
燈の身体から、闇色の煙が放たれている。
「すぐに死のうとするな」
怒りと懇願の混じる声に、喉が塞がれる。
燈の姿は、いつの間にか大人に戻っていた。腕を掴む手の力が、痛いほどに強くなっている。
「でも、この術のおかげで燈は蘇ったのでは……」
燈は一瞬黙り、「確かにそうだが」と顔を背けた。
「『反魂』の術は禁忌の域だと言ったはずだ。その代償については、お前自身が一番わかっているのではないか?」
「それは……」
胸に手を当てると、嫌でも感じる。
自分が削れた感覚を。
命を縫い留めた代償は、確実に私自身の命を蝕んでいる。
父もそうだった。病でもないのに四十を前にして亡くなったのは、禁術のせいだと分かっていた。
「継いだものを、無理に使う必要があるか? そもそも禁術は、お前が望んで手に入れたものだったのか?」
違う。
「李家代々の責務」という形で、私はこの禁術を継ぐことになった。
父はなぜ、姉ではなく私に禁術を伝えたのか。
己を犠牲に他者の命を繋ぐ、この縫製術はなぜ存在するのか――。
分からない。
が、分かることもある。
「別に私がどうなろうと、燈には関係ないでしょう」
「……なんだと?」
印のために生きた私。でも、もう印に私は必要ない。
意味を失った「生」に、意味が与えられるのなら――それが禁術の行使だとしても構わない。
「それに、私にとって重要なことは……長く生きるより、『どう生きるか』ですから」
六年前。亡くなる前に父が残してくれた、あの言葉を繰り返すと。
貝紫の瞳が揺らいだ。同時に、腕を掴む手の力が緩くなる。
「そうか……お前にとって『生きる』とは、そういうことなのか」
燈は私に恩を返したいだけ。
私はできることをしたかっただけ。
燈の命を縫い留めたのは、私がそうしたかったから――そう言って微笑むと。
再び、腕を掴む手に力が入った。
「いや、駄目だ。許さない。恩を返させずに生き急ぐな!」
「燈……わっ」
気がつけば、腕の中に引き寄せられていた。
熱いような、冷たいような、不思議な感覚の胸に頬を預けていると。金木犀の甘い香りが、縮こまった肺を満たしていく。
「あ、あの……近いんですが」
胸を押し返したものの、燈の身体はびくともしなかった。
「なんだ、何か不都合なことでもあるのか?」
「え? ええと……匂いが」
「……妖臭いか?」
「そうじゃなくてですね!」
姉と森へキノコ狩りに行った時、衣へ匂いをつけて帰って来たのだろうか――甘く爽やかな花の匂いとは違う、燈自身の匂いも感じてしまう。
腕の力を強めた燈は、「生きる意味が必要なら……」と、耳元で囁いた。
「俺の願いを叶えるのに協力しろ」
「それって……」
「お前に仕事着を依頼したのも、そのひとつだ」
人と妖が種の別なく生きる未来――それが叶うまでは、「私が私自身を蔑ろにすることを許さない」。燈はゆっくり、言い聞かせるように囁いた。
「返事は」
「…………はい」
「うむ、よろしい」
私を優しく抱いているのは、妖。
印ではないのに。
与えられる熱を、身体が拒めない。胸の音が煩い。
命を削った反動で、きっと疲れているだけ――そう納得しつつ、縫いかけの衣に視線を移した。
この衣が完成する頃には「何かが変わるかもしれない」と、期待を込めて。