三.隠居したい妖
「……嗚呼、こうなってしまうのか」
明らかに大人の男の――それも艶を帯びた声が、夜の静寂に溶けていった。
隣にいるはずの“少年”は、もうどこにもいない。
少しの戸惑いとともに私を見下ろすのは、ぼんやり光る白髪と、貝紫の瞳を持つ青年。
「燈、やっぱり……」
妖だったのか――。
震える声を吐き出した途端、燈はにっこり微笑んだ。
「力を吸われ幼体となっていただけだ。俺は元より人ではない。が……【黄泉縫い】とやらの影響で、今は限りなく人間に近い身体になっているようだ」
「そんな……」
妖に禁術を使うと、そんなことが起こるのか――父からも聞いたことがない。
「妖力はそのまま在るようだが。この身体の方が、お前の役に立てるだろう」
こちらを見下ろすのは、白い肌に儚さをまとった男――人間ではない。でも、逃げ出そうという気は起きなかった。
あれほど恐れていたはずの「妖」、なのに――。
手のひらに絡む太い指の熱を、払えない。
「ひとつ信じてほしい。お前がくれたこの命で、俺は人間として生きたいのだ」
「え……?」
思ってもいなかった告白に、それ以上声が出なくなった。
燈は、「以前からそう願っていた」と静かに続ける。
「『反魂』の術は禁忌の域。お前も相当な代償を払って俺を蘇らせてくれたのだろう?」
「それは……」
もう、私の人生に意味はないから――少しでも誰かの役に立てれば。そう思っただけだ。
「望みを叶えてくれたお前に、恩を返したいという言葉は『誠』だ」
人と関わり、人として生きてみたい――燈の言葉は、高鳴る胸へまっすぐに沁みた。
「私は……」
なぜ妖の遺体が、宮中の地下にあったのか。
あの衛兵の男も、妖だったのではないか。
なにより燈が人を襲わない保証はあるのか――。
尋ねたいことはたくさんあるが。
強く密かな願いを携える瞳を前に、私は小さく頷いていた。
「……信じます、とりあえず」
怖くないと言えば嘘になる。
しかし数日過ごした燈の目に、十年前川で襲ってきた妖のような、冷たい悪意は感じない。
「よし。では、さっそく契りを交わすとするか」
「……はい?」
帯を解きにかかる手を、とっさに掴むと。
「なんだ?」と余裕の笑みが返ってきた――人間を惑わすような色香を放つ顔面を、直視できない。
「なんだ、じゃないですよ……! そういう恩返しはいらないですから!」
「夫婦となれば、人と混じり生きるには都合が良――いや、お前により手厚い“恩返し”ができると思ったのだが」
あぁ、やはりこの妖――完全に信じるにはまだ早いらしい。
戸惑う間にも帯を解かれ、胸の痣が少し見えてしまった。
「花の刺青……いや、痣か?」
まずい――。
素早く着物の前を合わせ、目元に影を落とした燈に向き直った。
「でっ、できれば少年の姿のままでいてもらえませんか……?」
とにかく、姉にバレることが何よりまずい。妖を連れ込んだと発覚すれば、『妖退治用の針』を持ち出してくるに違いないのだから。
「家事をする分には不便ない。が、大人の方がより稼げるだろう」
「いえ、私が稼ぎますから……!」
私の手仕事で養うから――と、宣言したものの。
ようやく人の上から退いた燈は、ククッと喉を鳴らした。
「お前、宮中では『白娘』と呼ばれていたのだろう。このまま喪服の縫い仕事だけで、十分な銭を得られるのか?」
「な、なぜそれを……」
しかし、やるしかない。
妖とはいえ、私の繋いだ命を脅威から守るため――そして、残り短い生を精一杯歩いていくために。
翌朝。
姉と燈が作ってくれた肉入り包子をいただいた後、李家に受け継がれる半透明の針を構えた――が。
「だめだ、針目が歪んでる……」
同じ糸、そして針を使っているというのに。白布以外の着物縫いになると、なぜか指先が狂ってしまう。
離れの縁側でうなだれていると、湯気を立てる茶器が目の前に出てきた。
「仕方ないわ。父さんもそうだったもの〜」
「姐姐……」
代々【黄泉縫い】を継ぐ針師として、私にだけ技を授けた父――今思えば、父も喪服しか縫うことができなかった。そのため我が家は、鍼医師の母が稼ぎ頭だったらしいが。
「お金の心配なんてダメよ。母さんの技を継いだお姉ちゃんが、あなたがお腹いっぱいになるまで稼ぐのなんてわけないわ」
「でも……」
姉に甘えて生きてきたせいで、家事は満足にできない。本業まで中途半端なままでは、本当にただの「饅頭喰らい」になってしまう。
「花鈴ちゃんは、お姉ちゃんの隣で息して笑ってくれているだけでいいのよ! だって花鈴ちゃんは――」
『俺にとっても、花鈴は必要だ』
いつか聞いた印の言葉が、姉の声に重なった。
「……嘘つき」
「花鈴ちゃん?」
体調が悪いのか、と肩に添えられた頑丈な手に、自分のものを重ねた。
これ以上、心配させるわけにはいかない――。
「ご安心ください! 僕が稼いできますから」
人懐こい笑みを浮かべた少年が、いつの間にか目の前に立っていた。
「燈……」
「あらあら、子どもは働きになんか出なくていいのよ〜」
家のことをしてくれるだけで十分と、姉は燈の頭を優しく撫でた。
あんなに警戒していたのに、さすが妖――人の心に取り入るのがうまい。
「でも燈、昨日も外に出てましたが……どこで稼いで来たんです?」
まさか人を襲って金品を強奪したわけでは――などと、姉の前で聞けるわけがない。
「そんなに心配なのであれば、見せてさしあげますよ」
「え……?」
堂々とした態度の燈に手を引かれ、連れてこられたのは――町外れの寺、『柏陽寺』だった。
「ここは……」
燈に促されるまま、歴史を感じる立派なお堂の中を覗くと。十人ほどの子どもたちが、年老いた僧侶の前で正座していた。
これは寺子屋、だろうか。
「礼」
「ありがとうございました!」
よく通る声を響かせ、子どもたちは次々と立ち上がる。
「あっ、燈老師だ!」
「老師?」
わけを尋ねる間もなく、子どもたちが一斉に燈の元へ駆け寄った。
「本日は数の練習をしました、見てください!」
「はいはい、ひとりずつ見ますよ」
燈はそれに応えながら、筆の運び方や数の読みを指導している。
これはどういうことなのか――お堂の玄関口で立ち尽くしていると。眉毛と髭で顔が埋もれかかった僧侶が、私に向けて震えるようなお辞儀をした。
「失礼。燈のお姉さんとは、あなたのことでしょうか?」
「え……は、はい」
ここはとりあえず、話を合わせておこう。
「燈はまだ幼くも、本当に賢い……この年寄りの代わりに、教鞭をとることもあるのです」
見ての通り、勉強もよくできる上に礼儀正しい。さらには寺の檀家から得たお布施の管理も手伝っている――僧侶の言葉に、ただ「はぁ」と答えるしかなかった。
まったく知らなかった。
燈に、こんな一面があるなんて――。
「今は小遣い程度の銭しかあげられておりませんが、もしワシの代わりに師として勤めるならば……」
正式に給金を渡そうと思う――そう言ってこちらを見上げる僧侶に、何と答えたら良いのか分からなかった。
町や村の子どもたちに囲まれる燈は、どこか嬉しそうに見えるが――。
こんなに人の多い場所へ妖が出入りして、ボロが出ないか心配だ。
「……本人と相談してみます」
家事に勉学、人心掌握――この妖、できすぎやしないだろうか。
夕陽が染める帰り道、燈に何でもできるわけを訊ねると。
「人に憧れていたからな」
畑仕事から切り上げようとする農夫たちを眺めながら、燈は呟いた。
彼は長い月日、人間の営みを観察してきたという。
「……そうなんだ」
燈はいくつなのか。真の姿はどんな妖なのか――知りたいことが、たくさん溢れてくる。
それでも今一番聞きたかったのは、燈自身が「これからどうしたいか」だった。
「お坊さんが、燈に師として働いてくれないかって」
「どうする」と訊ねれば、すぐに「やる」と返ってきた。
「『柏陽』には、字の読み書きを教えるところが少ないからな」
「……燈は老師になりたかったんですか?」
「いや」
人と妖が交わる未来を願っている――燈はこちらを振り返り、寂しげに微笑んだ。
ふだんは暗い貝紫の瞳に、夕陽の赤が溶け込んでいる。
「そのために必要なのは、幼い頃からの徳深い教育だと思っただけだ。妖も変わる必要がある……このままでは、人の進化の波に飲まれ、我々は消えゆく定めにある」
「……そう、ですか」
尊敬や納得の言葉は出てこなかった。
軽々しく口にすべきではない気がしたから――。
やはり燈は、昔川で私たちを襲ってきた妖とは、まるで違っている。
「燈は……」
「うん?」
彼の瞳に宿る、静かな灯りを見て確信した。
この妖は、ただ私へ恩返しするためだけにここへ来たのではない。今、本当に、ここで生きようとしているのだと。
そんな彼のために、私が役に立てること。燈が人として生きやすいように、仮初でも夫婦になれば――。
『色気より食気』
また、あの言葉が頭に浮かんできた。
仮初とはいえ、私のような女と夫婦になって、それで燈は満足できるのだろうか――。
悩む合間にも、先に燈が口を開いていた。
「お前に頼みたいことがある」
改めて向き直り、何を言うつもりかと思いきや。同じくらいの大きさの手が、私の指先をそっと掴んだ。
少し冷たくて、でも温かい――彼が妖であることを忘れてしまいそうな、熱と感触。
きっと燈の頼みは、私が想像していることと同じ――寄り添うような熱に、そう確信した。
「燈、私も……」
夫婦になってもいい。
そう口にしようとした、瞬間。
「俺の仕事着を縫って欲しいのだが」
「…………はい?」
「色も任せて良いだろうか?」
「……はい」
微笑む少年、もとい妖を前に、ため息を吐くしかなかった。
どうやら私は、盛大な勘違いをしていたようだ――やはり、まともに稼げない饅頭喰らいを娶りたい男なんて、妖だろうといるはずがない。