二.妖しい少年の恩返し
「花鈴お姉さん、荷物持ちます! お腹空いていませんか? お疲れなら背負いましょうか?」
「いえ、自分より小さな子におぶられるわけには……」
衛兵の大男に頼まれた通り、この見目麗しい少年を蘇らせたものの――いつの間にか彼のことは、私が連れ帰る羽目になっていた。
『俺は宮中を離れられん。今のこいつの面倒を見られないからな』
『えっ、でも……あなたはこの子の家族なのでは?』
『家族ではない!』
赤の他人だとしたら、なぜ衛兵の大男は、この少年を救ってほしいと頼み込んできたのか――。
予想外の大金を差し出され、つい了承してしまった。
田舎へ引っ込むために必要な路銀(主に饅頭代)が欲しかったのだ。
「お姉さんのご実家は柏陽の田舎ですか。あそこは……いえ、なんでも」
果てしない田園の小道を先導しながら、燈は常に上機嫌だ。
この少年、「名前以外の記憶がない」と言うわりに落ち着いている。そして口下手な私と違って、よく喋るのだ――ここまで連れて来てしまったが、姉にはなんと説明しよう。
「はい、どうぞ」
「ええと……何?」
突然地べたへ片膝をつき、何をしているのかと思えば。彼はその小さな背中に、私を背負って行く気だという。
「燈は大怪我していたんですから、無理しないで……」
「でも、なんでもいいから恩人に報いたいんです!」
純粋――とは言い難い、何かが渦巻く貝紫の瞳。
しかし彼の「報いたい」という想いに、かつての自分が重なる。印への恩を返そうと、都入りした五年前の自分が。
せっかく都へ就職したのに、まさか出戻ることになるなんて――情けないと思いつつも、今は姉を頼るしかない。
印とよく釣りに行った池、薬草を摘んだ野山。
それらを横目に、跳ねながら先を行く燈に続いた。
やがて、風に揺れる竹林の中に、懐かしい母屋――『李治療院』が見えて来る。
「姐姐……」
すらっと背の高い女が、巨大な斧を振るっていた。
五年見ない間にも、姉は薪割りの速度をさらに上げたようだ――山のような薪が、みるみるうちに積み上がっていく。
「あちらが結鈴様ですか? なんと頼もしそうな方でしょう!」
「……あら?」
こちらの声に気づいた姉は、少し乱れた黒髪をかき上げた。
淡い緑の瞳が、私の姿を捉えた瞬間――。
「……っ!!」
姉の姿が消えた。
斧を置き去りにして。
そして気がつけば、固く優しい腕の中に捕まっていた。
「花鈴ちゃん、本物……なのよね?」
「……うん。帰って来ちゃいました」
泣きそうになるほど温かい、姉の匂い――硬く柔らかい胸に包まれたまま、わけを話した。
妖王との激闘の末亡くなった印を【黄泉縫い】で蘇らせたが、皇帝になりたい彼は「皇女を正室に迎えることにした」と。
ちょっと嫌な言い方になったかもしれない。
しかし、すべて事実だ。
「辛かったわね……あなたは許婚のために、禁術まで使ったというのに」
亡き父と母が知ったら、きっと同じように私を抱きしめてくれただろう――そう言って、姉はなぜか手の指を鳴らし始めた。
「大丈夫よ。お姉ちゃんが皇帝様に、一発報いてくるから」
「えっ……何が大丈夫なの!?」
姉ならきっと、本気で王宮へ殴り込みに行く。
腕にぶら下がる勢いで止めにかかったところで、姉はぴたりと動きを止めた。
「あら、この子は?」
「初めまして、お姉さんのお姉さん!」
そうだ、こちらについても事情を説明しなければ。
「この子は……成り行きで助けることになりまして」
短期間に二度も黄泉縫いをしたことは、やはり叱られた。それでも「助けたかったから」と、思いを口にすると。
「そんなこと言われたら、何も言えないじゃない……」
姉は肩の力を抜き、にっこり微笑む燈を見下ろした。
「でも、本当に一緒に住むの?」
「はい。離れで静かに暮らしますから」
母屋で鍼医師をする姉の迷惑にはならないようにする――そう言ったものの、姉の表情は険しい。
「まだ童だっていっても、もうすぐ戴冠する年齢の男児じゃないの」
「僕、記憶のない哀れな少年なんです! どうか花鈴お姉さんのおそばに置いてください」
「本当に哀れな子は、自分で『哀れな少年』なんて言わないよの〜?」
「……っ」
姉の笑みに震え上がった燈が、腕の中に逃げ込んできた。小鳥でさえ逃げ出す暗黒の笑みだ。いくら大人びていても、やはり子ども――と思ったのも束の間。
「あれ……?」
この子、こんなに大きかっただろうか――。
都を出発する前は、頭が私のあごにもかかっていなかった気がする。
それがどういうことか、頭のてっぺんが口元にあるような――。
「……そんなわけないか」
長い宮中生活で、疲れが頂点に達しているのだろう。しかし、それももう終わりだ。
身寄りがない燈を養うため、そして大飯喰らいのこの胃を満たすためにも、これからは町で積極的に針仕事を取ってこなければ。
「お姉さん、どうかしましたか?」
彼がいるから、私はまだ頑張ろうと思えるのかもしれない――。
こちらを心配そうに見上げる燈に微笑み、「なんでも」と呟いた。
燈は時々妙に大人びた表情をするだけで、実際まだ子どもだ。姉の心配するようなことなんて、あるはずがない。
翌朝。
目を覚ますと、隣に寝ていたはずの燈が消えていた。
寝台から床間を見回しても、姿がない。
「燈……?」
窓の外から鼻歌が聞こえる。
簾を上げ、表へ出ると。朝日を浴びながら洗濯物を干す、二人の姿が目に入った。
「あら、おはよう花鈴ちゃん! もうすぐ饅頭も蒸し上がるわよ〜」
上機嫌で竹竿を振るう姉。
「すみません! よく寝ていたので、黙って抜け出しました」
手際よく洗濯物を竿にかける燈。
昨日はあんなに疑っていたというのに、いつの間にか姉は燈を気に入ったようだ。
「働き者は、いくらいても困らないわ!」
どうやら燈は、朝の饅頭づくりまで手伝ったらしい。
まずい――私だけが、寝坊を許される穀潰しになっている。
麻布をタライの中で洗っている燈に聞こえないよう、「あの子の様子、どうでした?」と姉に耳打ちすると。
「妙に言葉がしっかりしているわね。本当に記憶がないのかしら?」
「それは……」
分かっていたことだが、改めて口にされると妙な気がする。
その後も、燈と暮らす中での「違和感」は膨らんでいった。
「もう日が高いな……花鈴さん、僕ちょっと出てきますね」
「えっ、またですか?」
町で受けた依頼の喪服を縫う間、燈は大人しく姉の本を読んでいる。しかし正午が近くなると、彼は決まってどこかへ出かけていくのだ。
そして夕方ごろになると、ちょっとした銭を稼いで帰ってくる。おまけに立派な魚を吊り下げて。
「言ったでしょう? お姉さんへの恩返しですよ」
どこでどう稼いで来たのか、まったく分からない。危ないことをしている様子はないが――毎回夕飯時に尋ねようと思っては、機会を逃している。
「いただきます! ここの魚、美味しいですよね。近くの川で獲ったそうです」
「はい……すり身にして饅頭に入れたら、もっと美味しいかも」
目を丸くする燈に、ふと我に帰った。
食に関することばかり饒舌で、卑しくおもわれたのでは――。
「ふふっ!花鈴さんはたくさん食べてくださるから、作りがいがありますよ」
「あ……」
燈の笑顔に、こちらまで頬が緩んだ。
本当に。妙だと思うことがどうでも良くなるほど燈と暮らす日々は楽しい。
「明日の朝も、結鈴さんと一緒にいっぱい饅頭蒸しますから! 楽しみにしててくださいね」
「はい。あっ、燈、こぼれてます……ほら」
嬉々として話す燈の口元を拭いてあげると、彼は目を丸くしつつ頬を染めた。
妙に大人びて見える時があるものの、こういうところは年相応で可愛らしい。
「ああ、すみません。この身体の感覚にまだ慣れなくて」
「え……?」
さっき確かに、「この身体」と言った気がしたが。
妙な言い回しに首を傾げるも、燈は何でもないような顔で先を続けている。
そういえば。
燈の身体がまた少し大きくなっている気がするが、気のせいだろうか――。
いくら育ち盛りの子どもとはいえ、一週間程度で目に見えるほど成長するはずがない。
「お姉さん、今夜も一緒に寝ましょう?」
その方が温かいという燈に言いくるめられ、今夜もまた並んで寝台へ横になった。
呼吸がすぐそばにあるのは、何だか落ち着かないが――こうして家族のように寄り添えば、燈の記憶も戻るかもしれない。
それに。
印を失った今、この小さな身体の熱だけが、私の「空っぽ」を埋めてくれた。
「ああ……良いものですね、人の熱は」
大人びた態度をとっていても、まだ十歳ほどの子ども――温もりを求めるように伸ばされた腕に応え、細い身体を胸の中に抱きしめると。
「……あれ?」
昨夜こうした時よりも、背中が厚い気がする。
「お姉さん、どうかしました?」
「いえ……別に」
慌てて腕の中の燈を見下ろすと、彼は長いまつ毛を伏せて微笑んでいる。
そして。
貝紫の瞳へ囚われている間に、見下ろしていたはずの彼を見上げる体勢になっていた。
無邪気な笑みが、艶を含んだものに変わっていく――。
「お姉さん。さっきから、身体がとても熱いですよ」
「えっ……!」
熱を帯びた視線と声に、心臓がどっと跳ねた。
印といた頃には感じたことのない、胸の高鳴り。
自分よりも十近く年下の子どもにこんなことを思うなんて、おかしくなったのでは――。
「もしかして、僕を意識しているんですか?」
「まっ……! まさか」
燃えるように熱くなった耳を押さえ、顔を背けると。かすかな呼吸の音が近くなり、透き通るような白髪が目の前に垂れた。
「もしお望みならば。そういった恩返しも、できますよ」
「お、大人をからかわないでください……!」
誘うような声と熱を払うように、身体を起こすと――視線の合った燈の姿は、すっかり別人のようになっていた。
私よりも明らかに体格の良い、青年の姿。
「え……お、大人に……?」
彼は人間ではなかったのだと、ようやく悟ったのに。
貝紫の妖しい瞳から目が離せない――。
あまつさえ、こう思ってしまった。
綺麗だ、と。