終章.継承
“皇帝虐殺を企てた妖王”の事件が都中を震わせる中、私はまだ宮中にいた。それも、黄泉帰った彼女に呼ばれて。
「あなただったのですね、私とお腹の子を救ってくださったのは……! 私、あんなことを言ってしまったのに」
現皇帝である印の正室は、深々と頭を下げてくれた。
『まるで万年葬式ね』
私の平服である白衣を見た彼女が発したあの言葉は、今でも地味に頭から離れないが――。
今は何より、彼女が目を覚ましてくれたことが一番喜ばしい。
ただ。
「あの、お妃様……私はいつ家へ帰ることが許されるのでしょうか?」
「あら、もう少しいればいいじゃない。ね、王様?」
妃の微笑みに対し、部屋の隅でこちらの様子を見守っていた印は苦笑いをした。
「すまない花鈴。妃もそうだが、宮中や都の者たちがお前に礼を言いたいと詰めかけていてな」
ありがた迷惑なことに、今の私は「国を救った聖女」として、幾人もの人々から礼を受けている。実質、窮奇を止めたのは印で、私は妃の【黄泉縫い】をしただけ。
それに――。
「失礼します、次のお客様がいらしておりますよ」
毎刻、ひっきりなしに訪れる客人を、皇帝夫婦と一緒にもてなす合間。
針入れの中にしまっている、銀色の羽に手を添えた。
羽から感じられる脈が、日に日に弱っている――。
「……燈」
早く、彼を探しに行かなければ。
「人でありたい」と願いながらも、私のために本性を現した、愛しい妖。
彼を早く見つけに行かなければ――私の髪に、近々白髪が混じるようになった。
「本当に、もう行ってしまうの? ここにずっと居ればいいのに」
「はい……せっかくですが」
またお茶を飲みに来てほしいと言う妃に愛想笑いを向け、宮殿に背を向けた。
申し訳ないが、私に残された時間で燈を見つけ出したい。
そして、華やかで残酷な宮中ではなく、穏やかで大切な人のいる柏陽で生きていきたいのだ。
「さよなら、印兄さま……」
宮中の門前で、深く頭を下げた瞬間。
最後に印へ伝えた言葉が、ふとよみがえった。
『どうか、人と妖が手を取り合える未来を目指してください』
燈のように、人を愛することのできる妖はたくさんいる。そんな彼らのために、皇帝となった印が働いてくれれば――私の払った代償に、十分な釣りがくる。
約束が実現するよう手を合わせ、ついに宮中から一歩踏み出した、その時。
「おい、燈の番!」
肩が跳ねるほどの声を振り返ると。
門前で、鎧の大男が手をふっていた。
「渾沌……雄勇様」
城中の兵士が東の宮殿へ集っていた、あの時。深手を負った窮奇を抱え、どこかへ連れて行ったのは雄勇だった。
窮奇はあの後どうしたのか――。
尋ねる前に、「会いたいか?」と彼は首を傾げた。
「貴様の夫にだ」
夫。
その言葉に、頭の中が真っ白になった。
「え……居場所を、ご存知なのですか?」
燈が残していった羽を手掛かりにして、生きているうちに探し出せればと思っていたのに。
まさか、もう会えるなんて――。
「よし、では行くか!」
「わっ」
突然身体を抱えられ、めまいがした。輿の上に乗せられたかのような高さだ。
「ん? ああ、すまん」
「あ、あの……少し待っていただけませんか?」
当然、今すぐにでも会いたい。
しかしまだ、アレが完成していないのだ。
「ひとまず先に、家へ送っていただけませんか?」
燈に会う前に、完成させたい仕事がある。
そうお願いすると。「どちらにせよ丁度いい!」と、雄勇は走り始めた。
「俺も貴様の姉に会いたいと思っていたところだ」
「……そう、ですか」
安定した馬のように速い彼へ身体を預けながらも、頭に浮かぶのは白銀の鳥。
「燈……待ってて。必ず縫い上げてみせるから」
銀の羽をそっと握り、呟く間にも。雄勇は風にざわめく竹林を疾走していた。
「あれ……? 待って、早くないですか?」
「少しばかり妖術を使った! 貴様の時間、もう僅かなのだろう?」
この戦にしか興味が無さそうな妖が、私のことを心配している――。
彼の目にも分かるほど、やはり私に残された時間は少ないらしい。
「おっ、あの山のような女は!」
「まぁいやだ! 妖がうちの敷地にいるわぁ〜……って、花鈴ちゃん!?」
雄勇を張り飛ばした姉は、宙に浮いた私をしっかりと抱えてくれた。
「姐姐……ごめんなさい」
三度目の黄泉縫いをすると言えば、必ず止められると分かっていた。だからこそ、姉には何も言わずに出てきてしまったのだ。
都の出来事は柏陽まで流れていたようで、姉はすべてを知っていた。
「……いいのよ。もう花鈴ちゃんの中で、『決まったこと』だったのでしょう? それより」
離れが妖臭くて近づけない。
そう言って、姉は煙たがるように手を振りかぶった。
いったい何のことか――。
ぽかんとする間にも、胸元の針入れが脈打った。弱りつつあった銀の羽の脈が、再び力強さを増している。
「……もしかして」
「ほら、花鈴ちゃん! 早く見てきてちょうだい」
姉に背を押されるまま、震える手で離れの戸を開けると。
『……眩しい』
久々に聞くような声が響いた瞬間――前触れもなく、涙があふれてきた。
「あ……」
居間で丸くなっている、白銀の鳥。
彼の姿がしだいに歪んでいく。
足が、手が動かない。
『花鈴……やっと帰ったのか?』
ただ震えることしかできない身体へ、白銀の翼が伸びてきた。
「どうして、ここに……」
『ここが俺の家だからな』
何でもないことのように言う妖の翼が、私の濡れた顔を拭っている。
二人で暮らしたここに、帰ってきた――燈の姿と言葉が、まだどこか夢のようだった。
『……やはり、この姿は恐ろしいか』
「あ……ち、違います!」
灰色に近い白の毛に覆われた、鳥の身体。人の面影が残る顔の、巨大な妖。
違うものは、正直怖い。
それでも。
貝紫の瞳に灯る熱を見れば、これは燈なんだと分かる――。
「触ってみてもいいですか?」
『……うむ』
頭を下げた燈の、鶏冠のような青毛に触れると。
「ふわふわ……」
肌触りの良い毛が私の腕の中に潜り込み、頬をくすぐった。
可愛い――。
「も、もう少し……」
頭に生えた二本のねじれた角は、冷たくてすべすべ。生暖かい口に嘴はなく、代わりに長く青い舌が覗いている。
人からは離れた姿をしているのに、温かく感じるのは、この妖が燈だから――でも。
「共に生きるには、いつもこの姿ではいられませんね」
ポツリとこぼすと、燈は瞼を伏せて俯いた。
『……これまで通り人にも化けられるが。宮中の時のように、悟い者に正体を見抜かれる危険は否めんな』
それでも燈は、私の元へ帰ってきてくれた。
ならば、私にできることは――。
「燈。少し、時間をください」
離れの縁側に置いたままの、笹籠。その中では、縫いかけだった紫の衣が私を待っていた。
土間でこちらを見守る巨大な鳥の視線を感じながらも、ひと針ひと針を、確かに刺していく。強く脈打つ、燈の羽の毛を縫い目に織り交ぜながら。
「痛っ……」
やはり、喪服以外を満足に縫えない「呪い」は変わらない。それでも、今度は迷いなく糸を通す。
『俺の仕事着を縫って欲しいのだが』
頼まれごとをした後。私はしばらく、「立派に縫わなければ」と思い込んでいた。
でも、違う――。
たとえ不格好になったとしても、燈を想い縫えば良い。私にできる最大の「祝い」を込めて。
「【黄泉縫い】」
『なっ……お前!』
銀の翼に針を吹き飛ばされたが――ちゃんと、できたようだ。
水虎へ「死者映しの衣」を縫った時のことを思い出しながら縫い上げた、「人の皮」。
「安心してください。これは死者の魂を縫い留めるほど、代償をいくらも必要としないので」
『だが俺はこれ以上、一日でもお前の命を縮めたくないのだ!』
こちらへ必死に羽を伸ばす燈に微笑み、その言葉と想いを噛み締めた。
それでも私は、燈の願いを叶えたい――私がいなくなったあとも、彼が人と笑って生きられるように。
「燈、お待たせいたしました」
あふれそうな涙を隠すように、笑って燈を振り返る。
そして天に向けて立った青い鶏冠へ、縫い終えた紫の衣を被せた瞬間。
羽が溶けるように床へ落ち、見慣れた姿の男が現れた。
「燈、おかえりなさい」
「……花鈴」
どこか後ろめたいような瞳の揺れを感じ、燈の大きな手を拾い上げた。
「仕事着、ちょっと不格好になってしまいましたが。似合っていますよ」
「ああ……」
ようやく笑った顔は、今度こそいつもの燈だった。
芯が強く、余裕で構えていて、そして美しい。
妖と人を繋ごうとする、優しい妖。
その顔に見惚れていると、そっと背中に腕が回った。引き寄せられた胸が、温かい――頬に添えられた指も、額に触れた唇も。すべてから、私を想う熱を感じる。
「燈、あの……」
手のひらに絡む指の力が、今までで一番強い。
その熱を嬉しく思いつつも、逃げ出したいような気持ちに耐えていると。
「俺は……人の中で不便な思いをしようと、お前の一生を見送りたい」
迷いない覚悟の言葉に、身体中が震えた。
震えの止まらない身体を、再び、優しい腕が包んでくれる。
「燈……私も。生きている限り、あなたと……」
きっと人と妖は、同じ黄泉の国へは行けないかもしれない。
でも今私はここにいて、燈は私を見てくれている。
それだけで、私の未来は――。
【十数年後:継承】
今日は算術を教えるのだったか――。
何年経っても破れることのない、丈夫な紫の衣へ袖を通し、居間へ向かおうとすると。
「むっ……」
通りがかりの鏡に、人でいうならば三十ほどの男が映った。
「ああ、そうだ。少し歳をとっておかなければな」
見た目を調整しておかなければ、聡い息子に叱られてしまう。「人ではないとバレる」と。
「……妖には生きにくい社会だな」
「やだお兄ちゃん! また爸爸が変な冗談いってるよ!」
居間で饅頭を貪るこの娘は――あれの姉の方に似てしまったようで、朝だろうと関係なく騒がしい。
「おい、つまみ食いは……」
「だってお腹すいてるんだもん!」
性は結鈴だが、食欲と顔は母親の生き写しときたものだ。おかげで俺は、何事も強く言うことができないでいる。
一家の主より先に朝飯をかっ喰らう娘を、ため息混じりに眺めていると。
「あーっ! こら、つまみ食いはだめだって言ってるだろうが」
追加の饅頭を抱えた息子が、「おはようございます、父さん」と恭しく頭を下げた。
「ああ。お前も食え」
妖は人より食べるからな、と付け加えたところ。小さな身体のくせに大飯喰らいな娘は、声を上げて笑い出した。
「だから、妖なんていないよ!」
その冗談飽きた、と頬を膨らませた娘は、縁側から飛び降り行ってしまった。
伯母の鍼治療を見学に行くのだろう。
「もう! 父さんはあいつに甘すぎですよ。いいですか? あいつには……」
「母さんと同じ痣があるのに」――不安げに言う息子に、二の句を継げなくなってしまった。
「まだ半人半妖であることにも気づいていない。その上、禁術のことだって……俺、この先あいつを守れるのかな」
「それは――」
お前ひとりが背負う問題ではない。
そう言っても、息子は俺と同じ色の瞳に影を落とすだけだった。
「父さんはいつまで生きられるのですか?」
「……少なくとも、お前たちが生きている間は生きてみせよう」
妖は不老であり、不死ではない。
俺もだいぶ歳をとった。あれと出会った時から、俺は人でいえば老人だったのだろうが――。
『私の力は、未来を縫うためにあるのです!』
あいつの紡いだ命がどう生きて、どう次へ繋がるのか――それを見届けるまで、俺は生きなければならない。
「父さん、もう時間では? 遅刻しますよ!」
「ああ、それはまずいな……おっと」
毎朝欠かすことない習慣は、こんな時にも忘れないものだ。
棚の上の「半透明の針」に手を添え、「行ってくる」と微笑めば。細く小さな針が、かすかに脈打った気がした。
命を縫うということ――
『黄泉縫いの針子』は、命を縫う禁術を継いだ少女と、かつて人を脅かした妖が、互いを知り、選び合う物語です。
けれど実を言えば、作者は最初、主人公・花鈴に共感できませんでした。
「誰かのために命を懸ける」彼女の姿に、どうしても納得できなかったのです。
はたして物語が終わるまでに、この子を好きになれるのか。
そんな不安を抱えながら、花鈴のそばに立ち続けました。
「これでいいのだろうか」と迷い、時には書き直しながら。
けれど最後には、花鈴と燈がそれぞれに道を選び、たどり着くべき場所へ向かってくれました。
私が針子に込めたのは、「癒し」と「赦し」、そして「繋ぐ力」だけ。
己にとっての「絶望」を縫い留めながら、それでもなお大切なひとと生きたいと願う花鈴。
縫うことをやめない信念の奥には、確かに未来への希望があった。
作者自身、花鈴の姿から多くのことを学ばされました。
花鈴の黄泉縫いは、たしかに「自己犠牲」かもしれません。
それでも、それが「確かな希望」だったこと――
だからこそ燈は、「私の力は未来を縫うためにある」と気づいた彼女を、止められなかったのだと思います。
その想いのいくつかが、読んでくださったあなたの心のどこかに、そっと残ってくれていたなら。
この物語は、「生まれてよかった」のだと、心から思えます。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。