十三.妖王が愛した針子
禍々しい紫の空が照らす東の宮殿には、多くの兵が集まっていた。入り口を守る者の中には、豪奢な鎧に身を包んだ皇帝――燈の姿もある。
「花鈴……! 来てくれたのか」
「印に――王様、お妃様のご様子はいかがですか!?」
すぐさま中に入れてくれた印に続き、妃の寝室へ入ると。少し膨らんだ腹を守るように抱え、うなる女の姿があった。
「脂汗がひどく、顔色もずっと悪い……まだ頑張ってくれてはいるが、医者は皆お手上げだ」
歯痒いことに、私は「死後」でなければ干渉できない。
「どうすれば……」
この宮中を漂う息苦しい妖気が、身重の彼女に障るのだろうか――。
『もう正室の女とやらは手遅れだ』
燈の言葉が、再び頭をよぎる。
分からない――燈は「元より復讐などには賛同していなかった」と言った。そして「状況が変わった」とも。
私が印と正室を助けると言ったから、こうなったのか。
それとも、最初から妖たちは宮中を乗っ取り叛逆するつもりだったのか――でも、燈は違う。
人と妖の共存を願う燈が、そんなことをするはずがない。
「失礼します。王様、ご報告が」
「九か。どうした?」
聞き覚えのある名に、ふと背後を振り返ると。
「あなたは……」
九と呼ばれた、狐顔の大臣――その顔を見た瞬間、ゾッとした。
「李治療院」で最初に彼を見た時、どうして私は気づかなかったのだろうか。
「窮奇……」
彼は最初からここにいた。
私が宮中を出ると決意したその夜、正門前で雄勇と話をしていたのは、この大臣ではないか――。
「コホン。さて、現在城に入り込んでいる妖の数は不明ですが……」
睨みつける私に構わず、窮奇は印に近寄っていった。
「お妃様を蝕む術の元凶は、ワタクシでございます」
「……なんだと?」
唖然とする印へ、窮奇が微笑んだ瞬間。黄金の粉がついた瞼が妖しく光った。
「印兄さま、危ない!」
「……っ!?」
遅かった。
印をはじめ、妃、彼女を世話していた女官、外の兵士、すべてがぼうっと宙を見つめている。
都で見た、精気の抜けたような人々と似た様子だ――これは窮奇の幻術だったのだ。
「窮奇、どうして……」
私だけ術をかけなかった理由を問うと、窮奇はくくっと喉を鳴らした。
「君は饕餮のやる気を引き出すために必要だからねぇ」
「燈の……やる気?」
「うんうん、なるほど。君は何も聞いていなかったと。彼がこっちへ来る前に、暇潰しがてらお話ししてあげようか」
姉が惚れた妖しい美青年から、羽の生えた神々しい牛へ――本性を現した窮奇は、嬉々として語り出した。
『「牙を向いてくることがあれば、躊躇わずに粛清する……それも“彼らのため”」って、追憶の中のボクの言葉、覚えてるかい?』
人間は愚か――そう言って笑っていた窮奇のことなら、忘れていない。あの時の顔が、今のものに重なる。
「牙を向くって……前皇帝が、燈を殺すよう命じたこと?」
『そうさ! いやー、燈が歳を取らないことに気づいた文官がいてねぇ。まったく、ちゃんと調整しろって忠告しておいたのに』
宮中で文官をしていた燈が、妖だという噂が広まった。
彼ら三凶は、人に混じることで人を知ろうとしていたという。何百年にもわたって。
『彼が妖だって噂が立ってからは、あっという間さ。前皇帝は人に混じる妖を排除しようと、腕利きの衛兵に討伐を命じた』
天井を仰いだままの印を横目に、窮奇は「でもね」と声を弾ませた。
『どうして、英雄の彼と相討ちになった妖を隠したんだと思う?』
「それは……」
たしかに妙だ。
なぜ燈の遺体は、あの隠れた地下室ではりつけにされていたのだろうか――。
震える息を吐きながら、窮奇の言葉を待っていると。彼は「不老の薬さ」と声を高くした。
『不老の妖の肉を食べれば、不老が備わる……そんな迷信まがいのことを、あの皇帝は信じていたんだ』
「そんな……」
どちらが妖なのか、分かったものではない。
蘇った印を皇帝に指名した前皇帝は、不老の身体を手に入れた後に印を追い出すつもりだったという。
「でも、どうして……」
なぜ窮奇は印と妃を苦しめるような真似をするのか。燈の討伐を命じ、おぞましい所業を成そうとした本人ではなく。
「ん? ああ。そりゃ本人より周りの人間を不幸にする方が、殺すより効くからねぇ」
「……っ」
安心してよ、と窮奇は続ける。
彼ら三凶とその配下は、宮中を解体させるだけだと。
何も、すべての人間を滅ぼそうというわけではない――そう言って、羽の生えた牛は笑った。
「……でも、燈は復讐なんか別に望んでいないって」
『ああ、そうだね。それは少し予定外だったよ。君を利用して彼を復活させたのに、まさか君のせいで腑抜けになっちゃうとはね』
「え……?」
燈の中に残っていた最後の刃を、私が折った――窮奇は、より笑い声を高くした。
『君には感謝しているよ? でも、そんな君が一番邪魔になっちゃったんだ』
まずい――。
窮奇の纏う空気が、「なんとなく嫌な感じ」から「明確な殺意」へと変化した。神々しい光が失われ、翼の骨格が槍のような形に変わる。
『大丈夫、殺しはしないさ! 燈がやる気を出すようにするだけだよ』
「……っ、来ないで!」
窮奇はもはや、口を開かない。
ただ静かに、確実に、私を部屋の隅へ追い詰めるように迫っていた。
「やめて……っ、燈……」
「花鈴!」
目を閉じると同時に、ほっとするような声が響いた。
そして――。
「……え?」
燈が来てくれたと分かり、目を開いた瞬間。
飛び込んできた光景は、燈と窮奇の胸を貫く、一本の長剣だった。
「……印、兄……さま?」
光の戻った瞳は、真っ直ぐに彼らを見据えている。
「思い出した……お前は、俺が仕留め損ねた妖の王だな!?」
印の発した、叫ぶような声の直後。
血の滴る音が消え、目の前が真っ暗になった――どこが上か下かも分からないまま、乾いた嗚咽が喉から出ていく。
『……っ、がはっ……! 花鈴……俺は』
かすかな声に、意識が引き戻された。
「燈……?」
まだ、生きている――。
しかし彼の顔は激しくひび割れ、銀の毛が生えた肌が露出していた。さらに刀が抜けて血が滴る胸には、破れた白布が覗いている。
「あれは……」
私が燈の【黄泉縫い】をした時に縫った、白衣だ。あれが彼の妖の本性を覆い隠し、人に近づけていたのか――。
『俺は、お前の命を、お前だけのために……使ってほしくて……』
「燈! 私、私……いやだ。燈、もう死なないで……!」
同じ魂を二度も縫うことはできない。
そう告げる前に、燈の化けの皮が弾け飛んだ――。
『ああ……死なん。この姿ならば……この程度の傷、造作もない』
鳥と人が混じったような、見上げるほどの異形の姿。
燈の、真の姿――私に晒すことを、彼はずっと避けていたのに。
「……きれい」
黒と白の入り混じる体毛の中に覗く瞳は、私のよく知る美しい貝紫だった。
「花鈴、俺の後ろへ来い!」
「印兄さま……」
印にとって、彼らは宮中を脅かす妖。燈に至っては、仕留め損ねた妖。
でも――。
『……花鈴』
伸ばされた印の手をすり抜け、愛する妖の胸へ飛び込んだ。
頬をくすぐる暖かい体毛の感触は、人とはまったく異なるものだが――その奥でたしかに動いている心臓の音を聞けば、少しも怖くない。
「花鈴、そいつは妖だ! 早くこちらへ――」
「分かっています!」
最初から、すべて分かっていた。
それでも私は、彼を選んだ――。
「印兄さま、どうかお聞きください。私がお妃様を救おうという気持ちと、この妖――燈が人の私を憂う心は、同じものです」
「花鈴……」
だからどうか、「妖だから」と剣を向けないで欲しい。
私の心は、燈とともにある――そう告げると。
燈の胸に寄り添う私に向けられた、不安げな手が静かに降りていった。
「……ありがとうございます」
床に倒れたままの窮奇を見、そして寝台に寄りかかったままの妃に視線を移した。きっと窮奇の術は解けている。それでも、彼女が動いていないということは――。
「印兄さま、どうかお妃様のお側に」
うなだれる妃の様子に気付き嘆く印の傍で、彼女の手をとると。脈はすでに止まっていた。
ただでさえ腹に子を宿し、負荷のかかっていた母体。きっと妖術にさらされ続け、限界を迎えてしまったのだ――。
「花鈴、すまない……本当に、すまない。俺は二人を……諦めきれない」
妃を抱き、涙ながらに訴える印から視線を逸らした。
窮奇を無言で見つめる白銀の妖に向き合い、深く息を吸う。
「燈、聞いてください」
『……禁術を使うというのは聞けん』
そっぽを向く長い鼻と口先は、凍てつくようなため息を吐き出していた。
それでも、言わなければ――ようやく私が至ったことを。
燈の鋭い爪を両手で握り、貝紫の瞳を見上げた。
「分かったんです。私の力は、未来を縫うためにあるんだって」
【黄泉縫い】――肉体から離れつつある魂を縫い留める術は、私にしかできないこと。
そして生かされた人の未来に向けた歩みは、「私」が生きた証になる。
「だから私、この人たちを助けたいんです」
誰を、ではなく「人」を助けたい――鋭い瞳を真っ直ぐに見つめ、そう繰り返すと。
『俺は……』
燈は口をつぐんだまま、こちらに背を向けた。
白銀の棘に覆われた尻尾が、かすかに震えている。
「ありがとう……ございます」
込み上げるものを堪え、自身の白衣を脱いだ。それを、まだ温かい妃の身体へと羽織らせる。
これで、人生三度目の【黄泉縫い】――それも一度に二人分。いや、腹の子はまだ無事かもしれない。
それでも。
私の命の残量は、もう――。
迷いを振り切るように、半透明の針を取り出した。そのまま目を閉じれば、暗闇に漂う光の玉が現れる。
「私の役目は……」
魂の糸を掴み、そして未来へ縫い留める――。
「【黄泉縫い】」
「……あら、私……どうして」
目を覚ました妃を見て、ほっとしたのも束の間。
妃の宮殿に駆けつけた兵士たちは、燈の姿を見て「妖だ!」といっせいに騒ぎ始めた。
このままでは、燈がまた――。
「鎮まれ! この妖は、この娘と共に妃を救ったのだ!」
「印兄さま……」
私が前へ出るより先に、印は皇帝としての顔を利かせて騒ぎを収めてくれた。
しかし大型の鳥のような姿の燈は、銀翼を広げて飛び立とうとしている。
「燈、待って……どこへ行くの?」
棘だらけの足に構わず縋りつくと、『離れろ』と低い声が響いた。
『お前の紡いだ「人の皮」は、先ほど破れてしまった……俺はもう、人として生きることは叶わないかもしれない』
「そんな……!」
私の言葉を待たず、燈は「それに」と続ける。
『覚悟ができていなかったのは俺の方だった。窮奇らの謀に乗ったふりでもすれば、お前を止められると思っていたが……』
きっと俺が何をしたとしても、お前はこの道を選んだだろう――そう言い残し、燈は窓辺から飛び去った。
「燈……!」
行かないで、と叫んだ声は旋風にかき消される。
燈が必要だと、燈と一緒に生きたいと告白したあの時の想いは、伝わっていなかったのだろうか――。
瞬く間に遠ざかる白銀の鳥が消えても、まだ瞼を閉じられない。
「燈……」
ただ静かに頬を伝う熱を感じながら、銀の残像を目で追っていると。
冷えた手の上に、何かが重なった。
「これは……」
鈍く光る、銀色の羽。
私の持つ針の色とよく似たそれからは、静かな脈が感じられた。