十二.その命を縫うべきか
半年ぶりに見た印は、少し痩せていた。
あの皇帝の跡を継いだのだ。きっと肉体的でなく、精神的な苦労が多いに違いない。
「それで、印兄さま……王様はどうしてこんなところに?」
正直、もう二度と会うことはないと思っていたというのに――三人の護衛がすぐそばで見守る中。客間で正座した平服の彼は、申し訳なさげに俯いている。
「実は……」
印が重い口で話し始めたのは、「正室が病で死にかけている」ということだった。
『印様の大切な人として、あなたを側室の中でも一番丁重に扱うと約束するわ』
そんな言葉を、試すように言われたことを思い出した。
あの彼女が、病の床に臥している。そして皇帝自ら私の元へ来た理由は――。
「非常に身勝手な願いだと分かっている……が、失えない人なんだ!」
万が一のとき、私に【黄泉縫い】をしてほしい――印は消え入りそうな声で言った。
なぜ、私にそんなことを頼めるのか――。
再び、印を玄関前で見た時と同じような静寂が辺りを包んだ。
「李家の禁術の代償は分かっている。お前はすでに、代償を承知で俺を救ってくれた……その上さらに助けを乞うなど、いかに厚かましいかも……だが」
それをすべて分かった上で、私に縋りたい――もはや皇帝となった彼は、躊躇いなく私に頭を下げた。
「そんな……」
宮中にいて、印は変わってしまったと思っていた。しかし誠実でまっすぐな目は、昔のままだ。
その目は私ではなく、国の未来を選んだ。その結果結ばれた皇帝の娘を、彼はここまで愛するようになった――息が苦しい。今すぐここから逃げ出したい。
「貴様は分かっているのか?」
護衛たちが一斉に立ち上がったかと思えば、少年の姿の燈が客間の入り口に立っていた。
席を外すと言っていたのに、しっかり話を聞いていたみたいだ。
「燈、私は……」
大丈夫、という声は、珍しい怒鳴り声に掻き消された。
「その禁術が、この娘にどれほどの代償を払わせる代物か! 貴様は本当に知っているのか?」
まずい――頬にひびが入っている。
本性を出しかけている燈の胸を押さえ、客間から出そうとしていると。
「分かっている」
背後から、迷いのない声がした。
印はほんの少し目を見開き、どす黒い気を放つ燈を見つめている。
「この人は……お前、その歳で養子をとったのか?」
「いえ、この方は――」
「近々夫になる予定のものだ」
低い声で断言する燈に、「違う」とは言わせてもらえなかった。
「この男は、かつてお前を『側室に』と言い裏切ったのだろう!?」
そんなの理不尽で都合が良すぎる、絶対に断れと、燈は有無を言わさない口調で連ねる。
「当然です」と、答えたいが――声が出ない。
「……分かっているんだ。禁術は、花鈴を犠牲に他を生かす……分かっている、が……」
それでも、印は震える声で話した。
正室が彼にとって失い難い存在になったこと。そして何より、彼女の腹の中には、印の子どもがいると。
「二人分の命……」
左胸に手を添え、命の残量を思い起こす。
正室と腹の子を助ければ、私の行使できる禁術の残り二回をいっぺんに使い尽くすかもしれない。そうすれば、私自身がいつ亡くなるかも分からない――。
「……少し、考えさせてください」
「花鈴!」
なぜ即答で断らないのか――そう言って声を荒げる燈をなだめるように、手を握ると。
「……花鈴、これは『命令』ではない」
お願いだ。
そう言って、燈は離れを去っていった。もし頼みを聞いてくれるのならば、都に来て欲しいと言い残して。
「王様……」
二人きりになった途端。
燈は家中の戸を閉め、私を寝台に座らせた。
薄暗い中でも、見たことのない顔で怒っていることが分かる。
「お前は……許嫁を奪った女を助けるというのか? ましてや奴自身、一度お前に助けられている身。よくもこんな依頼をしてきたものだ」
同じ柏陽の田舎出身、幼なじみでもある印は、禁術に代償が伴うことを分かっている。そして私が人の命を守りたい性であると知って、縋っている――都合が良すぎると言う燈を、「でも」と見上げた。
「私だって分かっています……でも! 私は……私は!」
私より大義をとった印、そして印を奪った皇女。
どうして彼らを助けたい気持ちがあるのか、私自身まだ言葉にできない。
禁術を継ぐものの使命に、自分の身を案ずる思いが反発する。そして燈が、私よりも私を想う気持ちが手の温度から伝わってくる――そのあまりの暖かさに、涙があふれた。
「ごめんなさい、私……どうして」
助けたいと思うのか――そのわけを言葉にできないまま、燈の手に縋っていると。
「……花鈴」
少し苛立った手に、あごを掴まれた。
頬を包む指の温度に驚く間にも、燈の顔が近づいてくる――。
「燈……」
金木犀が香る。
いつかの衣についた匂いの記憶が、蘇った瞬間。
唇に、吐息と熱が触れた。
それが一瞬だったのか、とても長い間だったのか――分からないうちに、息ができるようになっていた。
「あっ……」
離れてしまった。
その思いが、つい声に出た瞬間。
再び唇が重なった。今度はより深く。触れた部分が、溶けるように――。
今度こそ、甘い熱が離れていくと。
「そんな顔もできるのだな」
「え……?」
燈は深く呼吸を繰り返しながら、こちらを睨むように見つめていた。
知らない表情に出会い、顔と胸が同時に熱くなった。激しい鼓動が、とろけた頭の中にまで響いている。
「お前は俺のものだ……いや、違う。お前という人間は、お前自身のものだ」
だから、すべては私が決められる――。
燈は私の左胸に手を添えたまま、微笑んだ。
「燈、私……」
「だが」
今回ばかりは許さない――そう言って、燈はそっと離れていった。
全身を支配していた熱が、嘘のように引いていく。
「燈、どこへ……?」
「……今お前といれば、俺はどんな手を使ってでも止めようとするだろう」
それだけ言い残し、燈は離れを出ていった。
どんな手を使ってでも――いや、今は印のことだ。
『花鈴、お願いだ……』
寝台の上でひとりになった途端、印の声が蘇った。
印は命の恩人だとずっと思っていたが、実はあの時の妖・水虎は脅かそうとしただけだったと判明している。
それでも、印が身を挺して私たち姉妹を守ろうとしてくれたことは事実。
「でも……」
彼自身の命を縫い留めることで、もう彼に十分な恩を果たしたではないか――。
なのに、引っかかる。
今の印は皇帝。命じれば、なんだって自由にできるというのに。私に「お願いだ」と言った。
「私、本当は……」
燈と一緒に生きたい。
でも。
救える命は、縫い留めたい――。
せっかく収まっていた涙が、再び溢れそうになった瞬間。
「……勝手にひとりで泣くな」
「燈……?」
先ほど出ていったばかりだというのに。
外でも私の独り言が聞こえてきて、放っておけなかったという。
「燈、聞いてください……」
いつも通りの中に、どこか怯えが混じるような表情。そんな彼を見つめながら、言った。「残された命を散らしてでも、正室を助ける」と。
「なっ……お前はもう!」
たしかに印への恩は、【黄泉縫い】で返した。
しかし――。
「最初に誰かを救うって決断する人は、恩返しを期待してはいないと思うんです」
印はそうだった。自分の危険を顧みず、妖から自分たち姉妹を救おうとしたのだ。
たしかに、「側室にならないか?」という印の仕打ちはひどいと思ったが――最初に川で助けてくれた時の印の心を、私は忘れられない。
「恩や義で動くだけではない……そんな人に、私もなりたい。それに“できるのにしなかった”としたら、いつか後悔すると思うので」
揺れる貝紫の瞳を、まっすぐに見つめていると。
燈は顔を片手で覆い、深くため息を吐いた。
「……以前、『お前が生き急ぐのを邪魔する』と言ったな」
「え……? はい」
自分は自分で好きにさせてもらう。
燈は顔を見せないまま、吐き出すように言った。
「この怒りは、俺が妖ゆえのものなのか……いや」
「燈……?」
「行くぞ。都へ」
突然どうしたのか――。
あんなに反対していたというのに。
竹林を発つ時も、田園風景を抜ける間も、ずっと。貼り付けられた妖しい微笑みに、胸騒ぎがする。それでも今は、燈がその気のうちに都へ向かわなければ――妙な不安を背景に、そんなことを思っていた。
早く向かわなければ、【黄泉縫い】が間に合わない事態もあり得る。
「あれ……?」
都の空は、逢魔時のような色。それよりさらに深い赤紫の雲に覆われ、肌がひりつくような気配が漂っていた。
市場の人たちも、役人も、どこかぼうっとしたまま往来を行き交っている。
「燈、これは……」
明らかに何かがおかしい。
そう指摘しても、燈は答えなかった。むしろこの状況を見て、微笑んでさえいる。
「奴らは首尾よくやっているようだな」
「え……?」
こんなつもりではなかった――が、私の決意が燈をここへ導いた。
そんな意味の分からないことを言って、燈は宮中の上に渦巻く黒い雲を見上げた。
「あれは……」
「花鈴。もう正室の女とやらは手遅れだ」
「え……?」
宮中の豪奢な正門には、鎧の大男が仁王立ちしている。あれは雄勇だ。
彼がぞくぞくと中へ招き入れているのは――。
「妖……!?」
人と限りなく近い形をしているが、角や耳、尾など、異形の証が彼らには見られる。
彼らを宮中へ入れて、いったい何をしようとしているのか――冷たい汗が背筋を伝う。
「雄勇様は、いったい何を……?」
燈と同じく、彼も「人間を学ぶため」に人間の中で生活していたのではないのか――。
そう問いかけると、燈は声をあげて笑った。
「俺はそうだったが。奴は最初から違う」
「おお! 饕餮ではないか!」
こちらへ駆け寄る雄勇は、「ようやく決心したか」と燈の背を叩いた。
「あ、あの……いったいこれは」
「ん? なんだ貴様、燈から聞いていないのか?」
燈を殺した現皇帝へ復讐する。
妖の王が受けた仕打ちを、その配下である妖たちが晴らそうとしているのだ――雄勇は誇らしげに胸を叩いた。
「……え?」
とっさに見上げた燈は、綺麗な微笑みとともに「俺は」と囁いた。
「元より復讐などには賛同していなかった。俺を殺した相手といえど、お前が救った命だ。それを無駄にはしまいと思っていたが……」
状況が変わった――私に【黄泉縫い】を頼んできた印を、燈が庇う道理はない。
剥がれかけた人の皮に、足が震えた。
燈のことを信じたいのに。「やめて」と言えば、やめてくれると信じているのに――声が出ない。
彼らはやはり、人間とは違うものなのか。
それとも、人間の所業を返しているだけなのか。
震える足を一歩、また一歩と退げる。
私の力では、彼らを止めることはできない。
でも、私にできることはまだある――。
「おい、花鈴……!」
うまく動かない足を必死に駆り、門をくぐり抜けた。
『もう正室の女とやらは手遅れだ』
走る間も、燈の言葉が頭に響く。
「助けなきゃ……」
足は自然と、正室の宮殿がある東へと向かっていた。