十一.花の命は
「姐姐……どうして」
燈が妖だと知っていた――姉の低い声と同時に、赤い笹の葉が鳴った。
夕日を映したままの瞳が静かに伏せられ、「最初から……」と姉は呟く。
「燈ちゃんは、『できすぎている』と思ったの」
十歳前後の童とは思えないほど、知識に深く、家事をこなす――それがふつうに見えなかったと、姉はもっともな理由を口にした。
「妖は人を脅かし貪るものよ。前に川で襲われたこと、忘れたの?」
「燈は違います! 姐姐だって分かっているでしょう?」
燈とこれまで暮らしてきたのだから――。
そう必死に訴えても、姉の表情は暗い。
「生まれもった『本性』は決して変えられないもの。彼が人に寄り添うよう変わったと言うのなら、また元に戻る可能性もあるということ」
「でも、燈は……」
「私は認められないわ」
二人の仲を祝えない。
姉は竹林の奥の闇を見つめながら言った。
分かっていた――きっと姉は、燈との結婚を否定するだろうと。しかしいざ現実になると、言葉が出ない。
「姐姐……」
「でも、花鈴ちゃんの好きにしてほしいの。あなたに残された時間が少ないことは、私もよく分かっているわ」
禁術を継承したのは私。それでも李家に伝わる禁術のことを、姉は私よりもはるかに勉強していた。
「私が変わってあげられたら……ううん、『禁術』を継ぐのが私だったら良かったのにって、何度思ったか」
姉は生まれながらにたくましく、頭も良い。何より長女だ。だからこそ、父は姉を死なせたくなくて、私に禁術を継承させたのではないか――。
昔聞いても答えてくれなかったことを、もう一度姉に尋ねてみると。
「……寒くなってきたわね。帰りましょう」
姉は艶々の黒髪を翻し、落ち葉の地面に足を踏み出した。
「待って! 禁術のことは、今はいいです……でも、燈のことは?」
「しばらくは見逃してあげるわ。他の妖さんたちは追い払うけれど」
突き放すような姉の背中を見て、目の奥が熱くなる。
認められなかったことで、初めて自分の気持ちに気付いてしまった。
「私は……」
燈と歩んでいきたい。
それはもう、燈の過去を見た瞬間から自分の中で決まっていたことだったのだ。
人から学び、人を解そうとしている妖――。
唯一の家族に祝福されなくても構わないと思うほど、残された時間を燈へ捧げたくなってしまった。
「ごめん、姐姐……」
込み上げるものを飲み込み、姉の後を追って駆け出した。
祝福せずとも、姉が黙認してくれるというのならば――私は燈の申し出に、今度こそ答えなければ。
「おっ、帰ってきたか!」
姉を待っていた雄勇は、「俺が貴様の看病をした!」と顔を輝かせているが――。
「はいはい、妖退散〜」
苛立ちの笑顔と共に、雄勇が背負い投げられた。
都へ帰ると言っていた窮奇は――すでに姿がない。玄関の絵もなくなっている。
「花鈴、夕飯だ」
「……はい」
燈は「中に入るか」と呟いた。その横顔はいつも通りのはずだというのに、なぜか緊張して見える。
「燈、あの……」
「なんだ?」
婚姻のこと――言葉が喉から滑り落ちていった。
なぜか言えない。
寂しげに微笑む燈に手を引かれ、離れに入った。
夕飯の時も、寝る前も、結局言い出せず。夜が深まる中――ひとり寝台で、父の顔を思い浮かべた。
なぜ禁術を継いだのが私だったのか。
私の役目は何なのか。
それに。
私を必要としてくれる燈のために、私ができることは――?
考える間にも身体が起きていた。
月明かりの縁側に這い出て、針と糸を取り出す。
「……ふぅ。よし」
燈の寝息を聞きながら、黙々と針を動かしていると。いつの間にか辺りが白み、鳥たちの鳴き声が聞こえてきた。
「……できた」
やはり喪服は、目をつむっても縫い上げることができる。
男性用の大きさの白衣を畳んで抱え、寝ている燈の背中を横目に家を飛び出した。
柏陽の町を見下ろせる丘は、薄っすら霧が漂っていた。
「おはようございます、お父さん、お母さん……」
寄り添う御影石の前に膝をつき、挨拶を終えると。抱えてきた喪服を広げ、父の墓石に羽織らせた。
深く息を吸い、半透明の針を懐の針入れから取り出す。
「……【黄泉縫い】」
目蓋を閉じても少し明るかった周囲が、完全なる闇に包まれた。
「お父さん……どうか、応えてください」
父の死後、すでに何年も経っている。魂はもうここにない。
しかし、まだ話はできる――。
墓に結び付いた記憶の糸を手繰り、「父だったもの」の意識を喪服へ縫い留める。
「お父さん……!」
半透明の輪郭を持った影に、声をかけると。
『……花鈴か? どうした、もう【喚び縫い】はやめろと言っただろうに』
いくら亡き親と話したくとも、これも禁術のひとつ――針子自身の生気を消耗するため、二度とするなと言われていた。
針と糸越しに感じる声の振動を懐かしみながらも、「訊きたいことがあるんです」と、はっきり告げる。
「お父さんは、どうして私に禁術を継承したのですか?」
父は姉を死なせたくなくて、私に禁術を継承させたのではないか――昨晩も姉に尋ねたことを繰り返すと、「痣が」と父はか細く囁いた。
『継承の資格は、生来持つものなんだ。私も、お前も……李家の「祝福」を背負って生まれてきた』
「生まれつき……」
かすかに疼く左胸に手を添え、自身の鼓動を感じた。
この花びら一枚が、約十年。もしかしたら、それ以上の代償を払うかもしれない――父は以前言っていた。
「でも……この力を、これ以上どうすれば良いのでしょうか?」
禁術を封じて余生を過ごすことが、自分自身の生を楽しむためであり、燈のためでもある。
でも――私はこのまま、禁術を封じて生きていけるのだろうか。
雄勇が都の大臣たちから命を受け、私を呼び出そうとしたように。私の命を必要とする人は、きっとこの先も現れ続けるだろう。
「お父さんだって、あんなに『もう使わない』と言っていたのに……」
父は二度、禁術を使用した。どちらも未来ある子どもを助けるため――私たちにとっては、まったくの他人だった。
なのに。
「私はもっとお父さんと一緒に暮らしたかった……寂しかったんです。きっと姐姐だって!」
『お前も、大事な人からそう思われているのでは?』
「それは……」
『お前の隣にいて、生き急ぐお前の邪魔をしてやりたいんだ』
いつかの夜、燈がくれた言葉がこだました。
「私だって……」
本当は燈ともっと長く一緒にいたい。
印と婚約していた頃は、そんなこと考えたこともなかったのに。
『父さんもそうだった。ただ……誰かのために動いてしまう「性」は呪いではない。美徳なんだ』
「お父さん……」
『禁術より大切な想いを継いだお前を、私は誇らしく思うよ』
この力と、今後どう付き合うべきか――答えは私自身が見つけるものだと残し、糸は切れた。
「うん……お父さん、ありがとう」
ぬくもりがあるように感じる喪服を抱きしめ、責めるように押し寄せる涙を堪えた。
だめだ、もう抑えきれない――。
「花鈴」
優しい呼び声を振り返るより早く、温かい何かが背中に触れた。針を持ったまま震える手に、熱い指が絡む。
「……燈?」
彼は応えることなく、ただ私に寄り添っていた。
妖、なのに――家族とも印とも違う温かさを感じる。せっかく止まった涙があふれそうになるほどに、心地良い。
「燈、私……」
朝もやに包まれる墓石から視線を逸らし、首を後ろに回すと。白髪がかすかに揺れたのが分かった。
「燈、ずっと緊張していませんか?」
「……何をいうかと思えば」
昨晩からずっと、こちらを妙に気にしている――そう指摘すると、ため息混じりに「過去のことが……」と返ってきた。
「三百年前の俺を見て、お前が落胆したかもしれんと思っただけだ」
人間を脅かすことに何も感じず、貪欲な性のままにすべてを奪った――声を落とした燈は、腕の力を緩めてしまった。
早く言ってあげなければ、熱が離れてしまう。
「燈……! 待ってください、私」
燈と添い遂げたい。
そう、震える声で絞り出した。
「燈が私を必要としてくれるように、私にとっても燈は必要なんです。だから……」
婚姻したい――迷いなく告げた途端。
「わっ……!」
突然身体を持ち上げられ、燈と向き合う体勢になった。妖しい色を灯す瞳が、かすかに揺れている。
「……良いのか?」
あんなに堂々と婚姻の申し出をしてくれたというのに。今の燈は、私に後悔がないかを心配しているのだろうか――。
「姉には反対されたのだろう? 誰にも祝福されない結婚を、俺はお前に――」
「いいんです」
燈がいて、その隣で私が生きて――それだけで十分すぎる。
白い頬に両手を添え、「燈と一緒に歩みます」と囁くと。今度は正面から、力いっぱい抱きしめられた。
「燈……っ、苦しいです!」
燈が私に触れる時、加減をしてくれていることは分かっている。しかし今、私の全身を包み込む腕には、燈の想いを伝えるような力強さがあった。
痛くて重いけれど、嬉しい――。
燈が私を求め、慈しんでくれている。
「……こちらを向け」
「え……?」
自然と近づいてきた顔の前に、思わず手を出すと。燈は寂しそうな視線と同時に、「いやか?」と囁いた。
「いや、だから! まだ夫婦ではないと言いますか、心の準備が……」
「共寝しているのにか?」
「へっ……」
ただでさえ発火寸前の顔面が、さらに熱を帯びた。
言い方が良くない、非常に。
「べべ別に燈は、私にそういうアレを求めているわけではないのでは……?」
燈は妖だと明かした夜以来、私に迫ることは一度もなかった。
人生の伴侶として、同じ時を生きたいだけ――だから一緒の寝台に寝ていても、何もなかったのだと思っていたのだが。
「こんな饅頭喰らいに、そういう気持ちになったりなんか……」
疑問をすべて口にしたところ。燈はわざとらしく、深いため息を吐き出した。
「だいぶ誤解があるようだが」
少し怖い微笑みとともに、再び抱き寄せられた。
頬を滑る指先が、先ほどよりもずっと熱い。
「俺は生来貪欲でな。お前の心も身体も、すべてを我が物にしたいと常々思っていたところだ」
「ひぇっ……」
何だろう――これまで忘れていたが。こうして近くで見ると、この妖、綺麗すぎる。
少年の姿ならまだしも、大人の姿の燈をここまで近くで見たことはなかった。いつも寝る時は、少年の姿になっていたのだ。
「それはそうだ。この姿でお前の側にいては、我慢が利かないからな」
「へ、へぇ……知らなかった」
今更ながら、こんなに美しい男と夫婦になるのか――「やっぱり無しで」、と言いそうになる口を封じた。
「さて、誤解も解けたところで。続きといくか」
「えっ? い、いやちょっとだから……!」
唇を探る唇に、背筋がゾクっとした、その時。
「燈! 妹! いるか!?」
地面が割れるような大声に、周囲の小鳥が一斉に飛び立っていった。
鎧を揺らしながら丘を駆け上がるのは、頬を腫らした雄勇だ。どうせ姉にしつこく絡み、一発もらったのだろう。
「お前が息を切らして走るなど、珍しいな。どうした?」
「応! 実は――」
都から緊急の文が届いたと、雄勇は懐から半紙を取り出した。そこには、「参る」とだけ書かれている。
「次期に差出人がやってくるだろう! 早く李家へ帰れ」
「『参る』ということは、ウチへ来るということでしょうか……差出人とは、いったい……」
燈と顔を見合わせつつも、一度家へ戻ることにした。
誰が「参る」のか分からないまま、竹林の中へ踏み入ると。
「あれは……」
簡素な輿が家の前に止まっている。
私たちが近づくと、輿のすだれが静かに上がった。
「久しいな、花鈴」
懐かしい声、顔を目の当たりにした瞬間。
笹の鳴る音が消え、すべての時間が止まったかのような気がした。
「…………印兄さま?」