十.三凶
夕焼けの野山に立ち、燃える町を見下ろす男。
長い白髪を風になびかせるその姿は、見間違えようがない。
ただ――。
今ここにいる彼の横顔は、どこか鋭く、傷ついているように見えた。
「燈……?」
思わず呼んだが、彼の耳には届いていない。
『ふっふっふ、やっぱり驚いたねぇ』
肩越しの声を振り返ると。有翼の牛の本性を現した窮奇が、黄昏に染まる丘の上で佇んでいた。
「これは……あなたの術?」
『ボクの得意分野、幻術さ。燈の過去が知りたいんだろう? 彼の、すべての始まりを』
軽妙なのに、どこか恐ろしい――。
窮奇の調子に耳を傾ける間にも、過去の燈の背後に鎧の巨人が迫っていた。
『血、肉、酒! ああ愉しいな、饕餮よ!』
祝杯がわりの樽を両肩に担いでいるのは、目、鼻、口のない大男――おそらく渾沌だ。
酒の飛沫を煙たそうに避けながら、燈はまだ燃える町を見下ろしていた。
『あんなに美しかった柏陽の町が燃えているな。だが、なぜだろうか……俺は足りん。奪えば奪うほどに、飢え渇きは増していく』
『ならばより奪え! 飽くことを感ずる前に己を満たすのだ!』
これが、昔の燈と渾沌――「三凶」と呼ばれる強大な妖たちの本性。
以前盗み聞いた渾沌の言葉で、少し予想はしていたが。実際に目の当たりにすると、足が震える。
『じゃーん。これが、ただ本能に従って破壊に耽っていた時代の三凶でーす』
「……あなたはどこに?」
すると有翼の牛の蹄が、燃える町を指した。
妖たちの群れに崩れたあの惨劇の中に、窮奇もいるのだという。
『君たちが生まれる五百年も前のことさ。この頃のボクたちにとって、人なんてただ奪われる弱い生き物でしかなかったんだよ』
柏陽だけではない。
その後も丘から見下ろせる景色は移り変わり、様々な町が襲われていく。ただ一方的に奪うために。
しかし突然、夕方の景色が朝方に切り替わった。丘の上に集まった三凶の二人を前に、人に化けた窮奇が口を開く。
『最近、人間たちに混ざって暮らしているんだ』
燈と渾沌は同時に目を合わせ、窮奇を問い詰め始めた。
妖が人間に混じるなど、何の意味があるのか――。
『どうした貴様。人間の女にでも惚れたか?』
『いや。こいつは人の勉学に興味を持っていたからな。変わったやつだと思っていたが……まさか人間と暮らし始めるとは』
この時窮奇は、燈に「君もどう?」と誘いをかけたが。燈の答えは素っ気なかった。
人に意味などない――そう思っていた燈にとって、窮奇の行動が理解できなかったらしい。
『うーん、この先二百年はあんま変化ないしなぁ。よし、跳躍!』
「え……!?」
突然足元が崩れたかと思うと、丘が消えて落ち葉道が現れた。
深く暗い森林の奥で、燈は脇腹に負った傷をおさえている。
「いったい何が……」
『この頃の彼、まだ血の気が多かったからねぇ。同族と喧嘩でもしたんじゃない?』
「そんな……」
『しっ! ほら見てて』
意識を失いかけ、ふらふらの燈を見つけたのは――籠を背負った中年の男性だった。
『うわぁ! 美丈夫が怪我を……いや、妖か?』
彼は気絶した燈の身体を迷わず抱えて引きずり、山の庵へ連れ帰ろうとしている。
その行動も興味深いが、それよりも気になるものが――。
「あの痣……」
半裸の男性の胸に刻まれている、黒い螺旋模様。
あれは禁術の継承者の証に違いない。
燈を木の寝台に乗せてすぐ、彼は何やら聴き取りにくい言葉を唱えた。
瞬間。禁術使いのはだけた胸に光が灯り、少しもしないうちに燈は起き上がっていた。
『ここは……俺は、なぜ』
『ああ良かった、間に合ったようだね!』
男の微笑みに対し、燈は顔を曇らせている。
ただ、どうやって燈が回復したのか男を問い詰めると。『禁術』という言葉に興味を持った燈は、その男が自らの命を代償に、誰かの命を延ばす術を使っていると知ったのだった。
「私と同じ力……?」
『いや、ちょっと違うよ。あれは生者を回復させるものだ。死者を蘇らせる君の力とは別物さ』
窮奇の言葉に、思わず左胸を押さえた。
命を代償にした術を使ってなお、彼は笑っている――その笑顔が父に重なる。
『何故そのような術を使う? お前はただ損をしているだけではないか』
『損とか得じゃあないよ。命が続くことは、それだけで意味があるんだ』
その男の言葉に、燈は少し眉根を寄せた。
『やはり人間は分からん』と呟いているが、何か引っかかるものがあるのだろう。
「燈は、この人と関わって禁術のことを知ったんだ……」
『ほら見て聞いて! このあと、ボクのためになる助言が彼の中に浮かぶんだ』
窮奇が声を弾ませた瞬間、少し時が動いた。
燈が治るまで、この庵で禁術使いと過ごす光景が、矢の如く過ぎていく。
『「恩」と「徳」。人間の中には、そういったものを信じて生きている連中がいると、仲間が言っていたが……それはお前のことだったのか』
『ん? なにかな? 別に恩返しなんかしなくていいんだよ』
真っ直ぐな男の言葉と微笑みに、すっかり治った様子の燈は深いため息を吐いた。
『恩返しなどするはずがないだろう。俺は妖だぞ?』
『ああ、それでいい。それじゃあ元気で』
男と別れ、燈が足を運んだのは――人間の町だった。
市場、町人、寺子屋、家族。
乱雑として重なる人の営みを、燈は貝紫の瞳に映している。
『「愚かで純朴な男のために、仕返してやりたい」……そうやって燈がボクに助言を求めてきたときは、吃驚したよ』
隣で解説を加える有翼の牛とは違う、狐顔の男が燈の傍に現れた。過去の窮奇だ。
『人間が作るものは、みんな美しくて優れているんだ! でも彼ら自身は……残念なことに愚かなんだよねぇ』
また、いつの間にか元の丘に戻っていた。
柏陽の町が燃えている――しかし今度は妖の襲撃ではない。人間同士の争いの結果、町は惨状に見舞われているのだと窮奇は言う。
『だから牙を向いてくることがあれば、躊躇わずに粛清する……それも“彼らのため”ってやつさ』
「それは……」
今度は隣の牛が、昔の自分の言葉に重ねて言った。
人間は愚か。
窮奇がそう言って笑う一方、燈は黙々と人間の営みを学んでいた。きっと本当に、自分を助けた禁術使いへ何かを返そうとしたのだろう。
今の彼が、私へ恩を返したいと言ったように――。
燈が男の庵を出てから数年後。
男の元へ戻った燈は、絶句した。
痩せ細ったその男は、床に臥していたのだ。
『どうした……おい!』
『いやぁ、情けないことに、禁術を使いすぎてしまってね……また会いにきてくれたのか』
心残りがひとつ。息子の墓に、最後に花を添えてやりたかった――男の言葉に、燈は「息子だと?」と訊き返した。
『ああ……そうだ。私には息子が……もう十年も前に、妖に殺された……』
『……っ』
時が止まったようになった燈が、やっと吐き出した言葉。「何故」と、今にも消えそうな声で問いかけている。
『なぜ俺を助けた? お前の息子を殺したのは、俺たちのような――』
『違う。君ではない。君は“違う未来もある”と教えてくれた、立派な妖だ』
市井で学ぶ燈を、彼は遠くから見ていたと明かした。
弱々しく下がっていく男の手を、燈は縋るように握りしめている。
燈の目に涙はない。それでもなぜか、彼が泣いている気がした――。
「ここで、俺はようやく気づいた」
「え……?」
背後からのはっきりとした声を振り返ると。
目の前で、男の死に際を看取っているはずの彼と、瓜二つの男が立っていた。
髪が短い。今の燈だ。
『あちゃ〜、入ってこれちゃったかぁ』
「許可なく他者の過去を見せるな! お前は何度言えば分かる?」
窮奇に文句を言いつつも、燈の視線は真っ直ぐに死に際の男を見つめていた。
過去の自分を通して、かつての想いを追体験しているのだろうか――。
「……この男は愚かなどではない。そう気づいたのは、やっとこの時だった」
自分のように「何も生まず壊すだけ」より、「命を育み繋ぐ人間」の方がずっと意味のある存在――燈は静かに続けた。
「そっか、だから……」
燈は人になりたいと言うのだ。
命を繋ぎ、未来を生み出す存在になりたいと。
そう理解した途端。
突然、過去の景色が霧とともに崩れ、一瞬にして母屋の廊下へと戻された。
目の前には、今の燈が立っている。
「……おい、羽牛が。やってくれたな」
「だって、君が背負ってるものを彼女にも知ってほしかったんだも〜ん」
軽口を叩きつつも、窮奇の顔には影が降りていた。
「ところで燈。君は蘇って以来、“人と妖を教育で繋ぐ”なんて理想を掲げているらしいけど」
「ああ。先日、水虎にも会ったのだが」
生まれたばかりの妖は生来の特性に従い、己を律することはない。あるがままに生きようとした結果、人を脅かすのだ――燈は苦い顔で言葉を切った。
「故に、幼い頃からの教育は必要だ」
「でも……」
以前の私を含め、人間も妖を恐れている。妖だけでなく人も意識を変えなければ、両者が共存する未来はないのではないか――。
「だからこそ、お前が必要なのだ」
「え……?」
ふと顔を上げると。
こちらを見下ろす貝紫の瞳には、静かに燃える期待が宿っていた。
「愛や情だけではない。お前という人間が、俺には必要だ」
夫婦になる件について、まだ話は終わっていない――そう言って、燈は座ったままの私へ手を差し出した。
燈を受け入れる勇気がないくせに、この温かい手にいつも縋ってしまう自分がいる。
「私は……」
「良い。ゆっくり考えろ」
この人――いや、妖はいつも私に優しい。
甘い、と言った方が正しいのか。
筋張った手に、指先を伸ばした瞬間。
「お邪魔は退散〜と。でも燈、ひとつ覚えておいて」
「教育」は遅くて弱くて非効率――茶化す口調から一変、窮奇の言葉は刃のように鋭い。
「だから、ボクたちのやり方の方が、ずっと早くて有効だ。渾沌からも聞いているだろう?」
糸のように細い目の奥が、赤く光った。
やはり窮奇を見るたび、言葉にならない不安を感じる――。
「窮奇、お前……」
「さぁて、ボクはそろそろ都に戻らなきゃ。あの絵を連れてね。その前に、結鈴さんが目覚めたか見てこようかなぁ」
窮奇の声が離れていく。
不安を紛らわせるためなんて、燈には申し訳ないが――差し出された手を強く掴んだ瞬間。
「グェッ!」
奥から鈍い声が響いた。
思わず燈と手を繋いだまま声の方へ向かうと、大男が床に伸びている。その前には、拳を突き上げ俯いた姉が仁王立ちしていた。
「姐姐……!」
姉はすっかり調子を取り戻したようだ。
殴られたらしき雄勇が、ピクピクと指先を痙攣させている。
「……花鈴ちゃん、ちょっと」
怖い。
姉の放つ黒い気が、妖よりもずっと冷たい。
その圧に潰されないよう足に力を入れながら、外へ誘う姉についていった。
まだ、燈の過去の像が頭に残って離れないというのに――。
夕焼け色に染まった青竹の間で足を止めた姉は、こちらを振り返ろうとしない。
「あの……九さんが妖だったことについては、その」
頭の中がぐちゃぐちゃのまま、弁明を開始しようとすると。姉は「それはもういいの」と呟き、長い黒髪をなびかせ振り返った。
時々父の面影を見る瞳には、怒りと憂いの色が混ざり合っている。
「花鈴ちゃん。あなた、妖のお嫁さんになるの?」
「え……?」
いったい何のことか。
ひきつった頬を押さえながら、否定を口にしようとした瞬間。
「さっき、聞こえてきたの。それに……知ってたわ。燈ちゃんが妖だって」
姉の「逃がさない」とでもいうかのような瞳に捉えられ、全身が凍りついた。
喉が動かない。
それでも黙っていたところで、もう姉を誤魔化しきれない――。