九.化かしあい
姉の慕う九様――その正体は、窮奇という妖。
絵の中から飛び出た美男子は、「いや〜ひどい目にあった」と絵の女を振り返った。
「ちょっと遊んだら、この子本気になっちゃってさ〜! 絵の中に閉じ込められちゃったってわけ」
この軽妙な喋りに態度――治療に来ていた時の、無口な男と同じとは信じられない。
「相変わらずだな、我が師窮奇よ」
「饕餮に渾沌じゃん! おひさ〜」
いったい何が起こっているのか――。
唖然としていると、燈が「こいつが三凶最後の一角だ」と非常に手っ取り早い説明をしてくれた。
「そゆことですわ〜。花鈴ちゃん? だっけ? ボクはこの子たちのずっと先輩ってわけ」
「だが愚かだ!」
雄勇の補足に、窮奇はヘロヘロと沈んでいった。
少しとぼけた妖だが、こちらを見る目に温度がない――燈とは根本的に違う何かを感じる。
狐のように釣り上がった目を見つめていると、私の視線に気づいた瞳が細くなった。
「この娘が思ったより妖力強くて、閉じ込められちゃってさぁ」
『絵の女』の妖に絵の中へ引き込まれ、夜しか外に出られなかったという。しかし声は発せず、彼の真の名を当てられたら、絵の中から解放される制約が科されていた――しかしなぜ、見ず知らずの姉に治療を頼んでいたのだろうか。
「そりゃずっと絵の中にいたら孤独じゃん?」
女の子と触れ合いたかった――懲りない言い分に、思わず相棒の針を取り出しそうになった。姉には及ばないが、目にチクッとお見舞いする程度なら私にもできるだろう。
「それに、ここに来れば解放されそうな予感がしたからさぁ。絵の持ち主に、『李治療院』へ行くよう唆したってわけ」
「こいつは千里眼をもっているからな。俺か雄勇がいる場所へやって来たのだろう」
事情を知れば知るほど、頭が混乱する。
つまりこの絵は元々女ひとりの妖で、その中に窮奇が閉じ込められていた。その窮奇は脱出するため、昔馴染みの気配があるうちまでやって来た――。
「そういうこと! 満点あげちゃう」
何事もなかったかのように笑う窮奇に、ため息がこぼれる。
危険な妖ではなくて安心したが、まさか燈たちと同格の妖だったなんて――。
「こんなやつだが、俺の師だ」
三百年前に俺を変えた男――燈は呆れつつも、慕うように微笑んだ。
すると。燈が人になりたいと願い、人と妖の未来を作りたいと考えるようになったのは、彼の影響だというのか。
そう考えれば、徳の深い妖であることに疑いはないのだが――。
「姐姐のことはどう責任をとってくださるのでしょうか……?」
「へっ? どうして君のお姉さん?」
どうやら窮奇、姉を惚れさせていることに無自覚だったらしい。
が、「寂しかったから話し相手になって欲しかった」では済まない。
「実は姉が……」
貴方の魅了にかかっています――率直に話すと、線の細い色男は大袈裟にのげぞった。
「ええ〜! ボク、君のお姉さんを惚れさせちゃったの? 昔っから三凶いちモテちゃうんだから、ボクって罪な妖だよね〜」
「いや、老若男女から愛されてきたのはこの俺だろう!」
変なところで張り合っている大男はさておき。
大声で「妖」だなんだと言う男たちを離れへ移動させ、姉がいないところで相談をすることにした。
「では、本性を現したらどうだ?」
「えっ……待ってください。姉に妖であることを明かすということですか?」
「そうだ! さすれば貴様の姉も、諦めがつくだろう」
諦めがつくどころか、針で突く可能性がある――忠告したつもりが、話は先に進んでいく。
「うん、確かにそれなら魅了も解けるね!」
しかしこの色男系妖、「人間の姿で長くいすぎて戻りかたを忘れた」と言い出した。さらに燈たちに、戻りかたを見せろとまで。
「乗った! この姿は窮屈だからな」
「え……?」
突然、雄勇の周囲に暗雲が立ち込めた。どす黒い気が膨らみ、大男の影が、さらに倍ほど大きくなっていく。
寒い――今すぐこの場から逃げ出したい。
「花鈴、こっちへ来い」
「燈……」
いつの間にか大人の姿に戻っている燈の腕に抱かれ、晴れていく霧の中心を見守っていると――現れたのは、黒い肌の巨人だった。
顔の輪郭はあるが、目や鼻、口といった穴が一切ない。
「ひっ……」
水虎のような、子どもの妖とは違う。人を遥かに超える力をもつと、ひと目で分からせられる本物の怪物だ――。
胡坐をかいて座っているが。もし立ち上がられたら、母屋が確実に崩れ落ちるだろう。
『どうだ? 俺様の素晴らしい手本を見て、貴様も戻り方を思い出したことだろう』
「う~ん、なんか違うんだよなぁ。燈もひとつ、やってみてよ」
とっさに燈を見上げると。「今の俺は人間だからな」と、燈は首を横へ振った。
燈を受け入れるということは、妖であった彼の過去、そしていまだ残る妖力もすべて受け入れるということ――彼が元の姿に戻ることを恐れる今の私には、彼の申し出に頷く資格などない。
私の戸惑いが伝わってしまったのか、燈は何度も「大丈夫だ」と頭を撫でてくれた。
『安心しているようだが、そいつも妖だぞ? 俺の時は化け物を見るような目をしていたくせに……』
拗ねたような声の雄勇に、少しだけ「可愛い」と感じてしまった。黒い巨人の姿を見れば、やはり「恐ろしい」と思うのだが。
「み、見慣れれば平気ですよ……」
説得力のない慰めにも、雄勇は「そうか?」と明るい声で答えてくれた。
やはりこの妖、単純だ――。
「うんうん。やっぱ人からしたら、妖って化け物なんだよね~」
『貴様のためにやっているのだが?』
「じゃ、ボクも~むむっ!」
今度は、白い霧が居間に立ち込めた。
雄勇の時と違い、なぜか嫌な感じはない――甘い匂いのする霧が晴れると。
『この姿、かっこよくないから嫌なんだよね~』
牛だ。
鳥のような白い翼の生えた、柔和な顔つきの牛がこちらを見つめている。
「えっ……素敵、です」
元の姿よりうさん臭さがないどころか、妖とは思えないほど神々しい光を放っている。
もちろん牛に翼は異様だが、つぶらな瞳に胸がくすぐられる。
「お前、趣味悪……いや。独特だな」
「そうですか?」
ちょっと触ってみたい――窮奇の歓迎を受け、おそるおそる手を伸ばすと。羽に伸ばした手を、人の形をした手に握られた。
「それより、戻れたならば行くぞ」
そうだった。本来の目的は、「妖の姿の窮奇をお披露目し、姉を正気に戻すこと」だった。
「でも、気をつけてくださいね」
姉は針の腕を治療だけでなく、妖の退治屋としても生かしている。
なにより十年前の川での一件以来、妖を敵視しているのだ。
「とにかく妖にとって姉は危険な人ですから……あまり刺激しないよう、ゆっくりお願いしますよ」
まずは私が説明して、それから「絵の中の男が妖だった」と明かそう――。
簡単に作戦を立て、先陣を切って家の戸を開けると。
「花鈴ちゃん! また絵の中の男がいな……」
「姐姐!?」
ばったり鉢合わせた姉の視線は、背後で羽ばたく牛の翼に固定されている。
「あの、これは……その!」
慌ててすべてを説明しようとした、瞬間。
絶句したまま、姉は倒れてしまった。
「姐姐!」
「あらー。んじゃ僕が責任もって……」
さすがに私では姉を運べない。
渋々、窮奇に任せようとしたところ。
「俺が母屋まで運んでやろう」
先に倒れた姉を介抱したのは、なんと雄勇だった。
さらに彼は、自分が看病をするという。
「目覚めたならば、すぐにでも知らせよう」
「でも、姉は雄勇様を……」
姉は雄勇を警戒している。
目が合った瞬間殴られるかも――そう忠告したが、「それでも構わない」と白い歯を見せた。
「なに、俺はこの女を気に入っていてな。まぁ任せておけ」
意外だ――。
この純粋系妖、姉をただの好敵手と見ているだけかと思っていたのだが。そういう意味で、気に入っているということか。
うなされる姉の額を手で拭っている彼へ、ひとまず任せることにした。
「姐姐……起きたら何て言うかな」
家の庭先で妖とばったりした時の記憶を、いっそ忘れていると良いのだが――胸騒ぎが治まらないまま、居間へ戻ったところ。
「あれから順調かい? 聞く間でもなさそうだけど」
「ああ、あの娘のおかげでな」
穏やかな声が聞こえてきた。
互いを懐かしむように、人の姿の窮奇と燈が向かい合っている。
「今は……そうかい。寺子屋で人と妖へ勉学を教えているのか。まさか君が教える側に立つとはねぇ」
「こら、勝手に視て話すな」
久々に再会した、妖の師弟――入り込んではいけない気がする。
つい壁の後ろに隠れてしまったが、燈たちは気づいていない。
「窮奇……お前の見立ては変わっていないのか?」
「ん? ああ、ボクの眼で視た『未来』のことね」
あと五百年もすれば、妖はほとんどいなくなる――窮奇の調子を落とした声に、燈はため息を重ねた。
「俺はこの数百年、考えていた……いかにすれば、妖が生き残る道があるのか」
「うんうん、君は意外と真面目だからねぇ。王として責任を負う気持ちは分かるよ、うん」
「お前も王の一角なのだが?」
滑るような妖同士の対談の裏には、同族の未来を憂う呼吸がある。
「生き残る道……」
この世に存在する人間のひとりとして。それに燈が求めてくれる、ひとりの人間として。妖と人の未来は、私にも無関係な話ではない。
しかし燈はなぜ、妖を滅ぼす恐れのある人間に「なりたい」と願ったのだろうか。
それを知ることができれば、燈の申し出を保留にしている今の気持ちが、動き出しそうな気がする。
知りたい――燈のことを、もっと。
そう願った瞬間。
『知りたいかい?』
「え……?」
聞き覚えのある声が響いたかと思うと、私を囲むように白い霧が漂いはじめていた。
ここは屋内のはずなのに、なぜ――戸惑う間にも、霧が晴れていく。
「ここは……」
空気が変わった。
私は確かに、自分の家にいたはずなのだが――熱い風が頬を打つ。
「え……?」
いつの間にか、赤く染まる野山を見渡せる夕焼けの丘に立っていた。
町から煙が上がっている。その光景を、長い白髪をなびかせる男が見下ろしていた。
「……燈?」
呼びかけたのに、返事はない。
見下ろすその横顔は――どこか、今の彼と違っていた。