序章.黄泉縫いの針子
白菊が香る、「大英雄」の葬列。
誰も喪服の袖を揺らすことがない静寂の中、ひとり列から抜け出した。
「『白娘』、どこへ行くの!?」
本来ならば、誰も動くことは許されない。
それでも私は――誰が何と言おうと、“彼”を縫い留めなければ。
同じ下働きたちの制止の声を聞き流し、祭壇の棺へ向けて、真っ直ぐ一歩を踏み出した。
「あの子……喪服しか縫えない李家の娘よ」
女官たちの噂話を、棺へのまっすぐな瞳で受け流す。
「無礼者! ただの針子が、あのお方に触れるなど……!」
狐顔の大臣の叱責も、純白の死装束で翻す。
何も怖くない――。
これから私は、命を懸けるのだから。
衛兵の手をすり抜け、ようやく彼の元へ辿り着いた。
棺を見下ろし、白菊に囲まれた許嫁へ微笑む。
「印兄さま、迎えに来ました」
その顔は、昔から変わらない。
誰もが「英雄」と呼ぶにふさわしい、凛とした顔立ちに逞しい身体。
それでも、私にはずっと違和感があった――この人はいつも絵画のように美しく、どこか遠い。
「待っていてください、今……」
王宮の兵士として戦った末、妖の王と相討ちになった彼の、傷ついた身体――その固く冷たい四肢へ、そっと手を添えた。
(もう一度だけでいい。あの熱に、声に触れたい……)
もう時間がない。
名残惜しくも手を離し、丹精込めて縫い上げた白衣を、遺体の上へ被せた。
『禁術の代償はお前の命そのものだ』
亡き父の声がこだまする。
でも、今はためらっている場合ではない。
私を排除しようとする大臣や兵士たちが迫る中――中指と同じ長さの針を構え、深く息を吐いた。
瞼を閉じた瞬間、周囲の音が消える。
濃密な静寂の中。
かすかな脈を響かせる光の玉が、遺体の周囲を漂っていた。
「……あった」
気高く燃える、印の魂。その端には、解れた未練の糸が光っている――糸を逃がさないよう、針の先端ですくい上げた。
今だ。
「【黄泉縫い】――『彼に立つ者の命を、縫い留めよ』」
針を持つ手が熱い。
けれど、離せない。
この手は、彼の命を縫い留めるためにあるのだから。
「お願い、繋がって……!」
光の糸を掴み取り――白衣へ縫い留める。
もう決して離れないように。
彼の御霊を、彼の身体へ。
「おお……なんということだ……」
周囲のざわめきが戻ってきた。
くっついたように重い瞼を開けると。
「花鈴……?」
私の生きる意味だった彼が、瞼を開けていた。
魂を縫い留めるための依代となった白衣は、溶けて無くなっている。
「印兄さま……!」
良かった――涙で胸が詰まり、安堵の言葉は出なかった。
ただ。
「俺は、いったい……そうか」
その声は驚くほど静かで、痛みも迷いもなかった。
まるで、自分が一度死んだことすら他人事のように。彼はぼうっとした様子で、私の手にある半透明の針を見つめている。
「……あれを使ったのか?」
禁術――その代償を知る彼は、呟きつつ深いため息を吐いた。
それでも、もう済んでしまったことと諦めたのだろう。かすかに熱を取り戻した手が、そっと頭に触れる。
「俺のために、覚悟してくれたんだな」
【黄泉縫い】
死者の魂を縫い留める縫製術。
私自身を擦り減らす、李家相伝の道術――そう気軽に使えるものではない。
ましてや、こんな大勢の前で。
でも。
「印兄さまは私にとって、それにみんなにとっても、必要な人なんです! だから……」
幼い頃からの許嫁にして恩人。
ためらう理由はなかった。
この人に生かされた命は、この人のために――。
そう信じて、二十歳になるまで生きてきたのだから。
「……ありがとう。俺にとっても、花鈴は必要だ」
「印兄さま……」
あの時はまだ、知らなかった。
幼い頃から私を撫でてくれたこの大きな手が、私だけのものではなくなるなんて。