4.
先ほど、あろうことか自らの主君に手を上げた臣下の女性が、再び口を開いた。
「陛下。お話に興じられるのはよいのですが、御身にはこの後もご予定があることをお忘れなきようお願いします」
するとその視線が、今度は神官女に向けられる。
「〈白の神官女〉さまにおいても、人前でイチャイチャされるのはお控えくださいますよう」
あらぬ指摘を受けて、〈白の神官女〉はとっさに言い返した。
「イチャイチャなど、していません!」
「していなかったのですか?」
「え?」
さも不思議そうに問い返されたので、神官女は不安になり、周囲に確認を取る。
「していなかったですよね……?」
首を傾げつつたずねるが、誰もが顔を背けているのを目にして、察した。
「……やっぱり……していたかも……しれないです……」
〈白の神官女〉は素直に、自分の過失を認めることにした。
あるいは無意識のうちに、自分は〈赤の王〉と違い、分別があることを言外に示したかったのかもしれない。
神官女の答えに、場に沈黙が満ちる。
誰もが何もいえずにいる中で、ただ一人。
部屋の外から衣服を持ってきた臣下からそれを受け取った王が、その身にまといながらいった。
「なに、少しからかっただけだ。気にすることはない」
開いた口が塞がらない様子で、神官女は着替えを終えた王を見た。
「……ごほん」
このままでは話が進まないと思ったのか、〈赤の王〉がわざとらしく咳払いをした。
仕切り直しのためだろう。〈白の神官女〉もまた、表情を切り替える。
そうだ。自分は何も見ていないし、何も覚えていない。
若さゆえのあれとか。男性特有のそれとか。一切見ていないし、覚えてもいない。
自分に言い聞かせていると、従者より最後に受け取った月桂冠を頭に被った〈赤の王〉がいった。
「今日はそなたら神殿の者たちに見舞いを持ってきたのだ。存分に使うがよい」
先ほどまで諧謔を弄していた人物はどこへ行ったのか。至極真面目くさった顔を浮かべて、〈赤の王〉は自身の背後に控える臣下へと声を掛けた。
「アレキサンドリアよ」
「――は」
先ほど殴り付けてきた臣下の名を呼ぶ。名を呼ばれた相手はうやうやしく応じた。
「陛下のご命令だ。持ってきていいぞ」
アレキサンドリアが部屋の外に向けて声を発する。と、扉の向こうからいくつかの人影が入ってきた。
彼らもまた、王とともに神殿を訪れた従者たちなのだろう。荷物の乗った台車を引いている。
その台の上には、麻袋がいくつも積み重ねられていた。
それらを〈赤の王〉の隣まで運ぶと、地面に置く。袋がどさりと音を立てた。
荷物を運び終えた従者たちが国王へ礼を取って、早々に部屋を退室する。
〈白の神官女〉は一連の光景を眺めつつ、運ばれてきた荷物に目をやる。
麻袋の隙間から、種々様々な品物が入っていた。
中身は塩漬けした魚と野菜、豆類、果物が見られた。台車の上には丁重に固定された壺も。
食材以外にも、生活に使用する品々が多くあった。
見舞いとは、月に一度王の宮殿より神殿に贈られる、物資のことだ。
中でも多く入っているのは、オリーブの実。緑、赤、紫、黒と、多彩な色合いが見て取れる。
その用途には、食材として使うのはもちろん。灯油や香油、薬としても使われ、余すところのない材料として、市街でも販売されている。
オリーブはこの国でも特別な意味を持っており、ありがたがられていた。
それが象徴する意味は、平和である。
「……〈白の神官女〉さま。よだれが出ています」
「はっ」
傍らに控えていた〈神殿従女〉の一人にたしなめられて、意識を取り戻す。
いけない、いけない。いつの間にか俗物的な側面が出てしまっていた。
あやうく、うちのあるじは俗すぎると白い目で見られるところだった。もう手遅れかもしれないが。
優しい従女たちに限って、そんなことはないと信じることにした神官女は、あらためて感謝の意を示すべく、頭を下げた。
「陛下の御恵みに感謝します」
「うむ」
〈赤の王〉は満足そうに頷いた。
「残りは神域の下にあるため、後ほど持ってこさせよう。流石に全てをここまでは運び切れんからな」
王が笑うように、神殿は丘の最も高い場所にある。そのため、運ばれてきた全ての物資を地上からここまで持ってくるには、相当な人手と時間が必要だった。
どうやら今回も、その一部だけをここに持ってきたらしい。
最後に、〈赤の王〉は腰元に引っ提げていた革袋を取り出すと、それを見せるように掲げた。
「確か、酒は飲まなかったな?」
その問いに、神官女は頷きをもって返した。神殿に仕える者は、自らに酒を飲むことを禁じているからだ。
「そうか」
その革袋に口を付けて、中身を飲み始める王。
中に入っているのは間違いなく、水で割った葡萄酒であることが察せられた。
それをごくごくと飲み終え、口元を服の袖で拭うと。
「――あらためて、余の女となる気になったか?」
――これだ。これがなければ、素直に喜べるのだが。
〈白の神官女〉は、表情にこそ出さないが、内心で盛大なため息を吐く。
平静を装い、いつも通りの答えを返す。
「ですから、それは叶わない望みと、何度も申し上げているはずです」
「むぅ、やはりそうか」
誘いを断られた〈赤の王〉が唸る。
〈白の神官女〉はこれまでに何度も、先ほどのような誘いを受けていた。
そして、その度に同じ答えで断っている。
毎度のことながら、断る身としては心労に絶えない。
ましてや、相手は〈白の神官女〉自身が生まれた国の王。
――嫌いだからいっているのではない。そういう決まりだから、断っているのだ。
神官女が王の誘いを受け入れない理由。それは、いにしえの時代に王家と神殿の間に交わされた、盟約のためである。
〈白の神官女〉に選ばれた者は、その任に就いている間、神以外の誰のものにもなってはいけない決まりがある。
ゆえに、神官女は例え相手が自国の王であろうとも、その誘いを受け入れることはできなかった。
最も、このしきたりは〈白の神官女〉の者がその役に就いている間だけであるため、任を解かれれば、神のものではなくなり、一般の市民として生活に戻ることができた。
しかし、それが解かれる条件とは、国王が代替わりしたときだけである。
王家と神殿がそれぞれ、俗世と神域をまとめる対等の統治機構であるように。
〈赤の王〉と〈白の神官女〉もまた、表と裏の関係を意味している。
そも、何故〈白の神官女〉という役目があるのか。
それは神殿の設立と王家との関係に起因するのだが。もうひとつ、女性は元来霊的な素質があり、神とのつながりにおいては男性よりも適性があるからであった。
そのため、新たな王が玉座へと座す時。
〈白の神官女〉もまた、次の者を選ぶために、新たな適正者を連れてくる仕組みとなっていた。
それに関わらず。今代の〈赤の王〉はあろうことか、王家と神殿の盟約を無視し。
在任中の神官女を我が物にしようとしているのだから、到底受け入れられることではない。
しかし、当の本人はといえば。
「必ずや、そなたを我が妃として、王家に迎え入れてみせよう」
自信満々にそう返答する。
当初こそ、様々な人間がこの王の発言に目を剥いていたが。〈白の神官女〉以外の面々、〈神殿従女〉、〈赤の王〉に仕える臣下、従者、市民たち。
彼らは皆、王の戯言に聞き飽きたのか。今となっては風がそよぐように受け流すばかり。
そんな、これまでの歴史に類を見ない若き国王は、御年十七の歳。
初めて出会った際。王家と神殿が互いの冠位を証明するために行う継承の儀から、ずっとこんな調子だった。
〈白の神官女〉は当時のことを振り返り、意味ありげな視線を、自分より年下の青年へと送る。
「さて、話すべきところは話したし、今日は帰るとしよう。ではな、〈白の神官女〉よ」
いいたいことはいい尽くしたようで、帰るべく王が背を向ける。
そのまま、部屋の扉口へと足を進めた。
「……〈白の神官女〉さま? 陛下がお帰りになるようですが?」
脇に控える〈神殿従女〉が、あるじに見送らなくていいのかと忠告してくれる。
〈白の神官女〉は意を決した顔で、去ろうとするその背中へと声を掛けた。
「お待ちください、陛下」
呼び止められて、相手の足が止まる。
「恐れながら、あなたさまにお願いしたき議があります」