10.
穴を通った先。
これまで視界に映ってきた暗闇とは異なり、はっきりとした光源を見て、目に痛さを感じる。
それに段々と慣れてきた視界が、目の前の光景を燦然と映し出した。
「……これは」
眼前の景色に、ダフネはこれ以上ないくらいの驚きを見せた。
夕焼け色の空の下、自生した緑の木々が広がっている。
彼女の隣で、王も同様に、驚愕を顔に浮かべていた。
「一体、どうなっておるのだ。これは……?」
ダフネの隣で、ペンテウスもまた、これまで見たことのない驚きを見せた。
その答えに思い当たったのは、直感という他にないだろう。
「陛下」
「……」
声が届かなかったのか、もう一度呼び掛ける。
「ペンテウスさま」
「どうした?」
今度はちゃんと聞こえたらしく、王は顔を振り向かせる。
先ほどは本当に聞こえなかったのか、それとも振りをしたのか、今問うのは止めておこう。
それより、ダフネは自分が思い至った考えを口にした。
「もしやここが、かの楽園なのでは?」
その答えを聞いて、ペンテウスが納得した顔で頷く。
「……なるほどな。では、余とそなたは、迷宮の最下層へとやってきたわけか」
いつの間にか辿り着いた目的の場所を眺める王の視線には、様々な感情が混ざっているように見て取れた。
「となれば、至上の酒もここにあるはず……ん?」
と、眼前に広がる世界へと向けていたその目が、再び大きく見開かれた。
「あれは……⁉」
「ど、どうされました?」
ダフネが首を傾げ、たずねようとするより早く。その体は動き出していた。
見る間に前へと飛び出したペンテウスの背中を、ダフネの声が追い掛ける。
「陛下!」
それに止まる様子のない相手は、さらに速度を上げて走っていく。
慌てて、ダフネもその後ろ姿を追い掛けた。
息を切らせてようやく追い付いた先は、群生した木々の間の一本だ。
その樹の下で、ペンテウスはまるでかじりついた虫のように立っていた。
「一体、どうしたというのです……?」
ダフネが恨めしげな視線をその背中へと送る。
と、王は振り返った。
その手に、紫色の果実を抱えていた。
「それは……?」
ダフネもまた、その正体を確認して、目を見開いた。
ペンテウスが手に持っていたもの。それは、葡萄の実であった。
「先ほど、そなたといる時に見つけてな。気付いたら体が飛び出しておったわ」
どうやら王はこの実を見つけて、居ても立ってもいられなかったらしい。
正体不明な土地だというのに。勇敢というか、恐れ知らずというか。
と、呆れるダフネの面前に、手が差し出された。
「ほれ、そなたの分だ。いっておくが、余もまだ口にしておらんぞ?」
特に気にしていない言い訳を述べながら、王が手にした果実のひと粒を差し出してくる。
飢えと渇きで苦しんでいた二人にとって、これはまさに降って湧いた幸運と呼ぶべきもの。
「では、いただくとしよう。あー、むっ」
それを受け取ったダフネの前で、ペンテウスが口を大きく開けて運ぶ。
「んむっ! 美味い! これはまこと美味ぞ! 余はかつてこれほどの味を口にした覚えはない!」
喝采するかのごとく、王は歓喜の声を上げた。
「これで葡萄酒を醸造すれば、どれほどの名酒が出来るやら……他国にも売れようぞ」
不敵な笑みをこぼし始めたペンテウスを、ダフネがいさめる。
「ペンテウスさま。ここは伝説に名高き楽園の地。そう勝手にものを取られては、後ほどいかなる天罰が下るやもしれません。恐れ多いことですので、乱獲するのはどうかおやめください」
ダフネの讒言に、ペンテウスは両手を広げて返した。
「何をいうか。見ろ、この辺り一面の木々を!」
まるで、既にこの空間は我がものといわんばかりの態度だ。
「これほどあるのだぞ? そのうちのいくつかなど、取ったところでバチは当たるまい。それとも、そなたらの崇める神は、そんなにケチなのか?」
この答えにダフネは苦い顔で応じた。
「それは……詭弁というものです」
「ほう? いうようになったな?」
「……失礼しました」
「よい。というか、むしろもうそのつもりでおれ。そなたはこの余の隣に侍る女となるのだ。強気でなければ、妃など務まらん」
「……お言葉ですが、陛下。私はまだ、求婚を受け入れたつもりは」
「今その話はよい。それより、食わぬのか? 喉が渇いておったのだろう?」
ペンテウスがダフネの手元を指し示す。
それに目を落としつつ、ダフネは困惑の表情を浮かべた。
「私は……」
断ろうとして、しかし言葉が喉から先に通らない。
まるで、これも喉の渇きのせいだと、体がいいたげに。
ダフネは受け取ったそれを持ったそのまま、固まってしまう。
その視線を目の前で遠慮なくむしゃむしゃと頬張る相手に向けて、不満げな顔をした後、もう一度手のうちにある果実を見下ろした。
そして、祈るような仕草でそれを持ち上げて、天上におわす自身が崇める存在へと感謝を述べる。
「……神よ。あなたの御恵みに感謝します」
そうして、ダフネは一口、おそるおそるといった手付きでその実を口に含んだ。
途端、瑞々しい味が口内へと一斉に広がる。
「……これは」
自然、その頬が緩んでしまう。
その顔を目にしたペンテウスは、ぽつりとこぼした。
「美しい」
「……え?」
「そなたの笑みは、この世のどれよりも輝いておるな」
突然褒められて、ダフネは反応に困り、顔を背けた。
「とりあえずはここで休憩するとしよう。……ん?」
腰を落とそうとした王が、ある方向へと目を向ける。
「……何だ、あれは?」
その目が見開かれる。ダフネもその視線を追った。
途端、二人の目の前に、巨大な物体が落下してきた。
衝撃に、足元の地面が大きく揺れる。
ダフネが倒れる。
呆然と見上げる二人の前に現れたのは、頭に二本の角を生やした生物だ。
見たことも聞いたこともない怪物であった。
その顔は牛や馬ではなく、羊。その背中からは、鳥のような翼が生えている。
牛頭鬼や馬頭鬼よりも体は数段大きく、通常の人間の三、四人分はあると思われるぐらい。
その怪物が、待機を揺るがすような咆哮を上げた。
「――ぁ、え?」
それを聞いて、ダフネは目を白黒させる。恐怖で体が動かない。
目の前に訪れた、はっきりとした死の恐怖を感じた。
「何をしておる! 逃げるぞ!」
ペンテウスが手を引き、ダフネと共にその場から走り出す。
その後を、ゆっくりとした足取りで怪物が追い掛けてきた。
「追ってくるか……!」
背後に目をやり、ペンテウスは辺りに視線を回した。
「もう一度、洞窟に戻るぞ」
そういい、ダフネを連れて自分たちがきた穴を見つける。
息を切らしてその穴へと戻る。
「……あれ?」
「これは、どうなっておるのだ……?」
と、そこは元きた穴ではなく、自分たちが入ってきた迷宮の入り口だった。
「陛下!」
立ち尽くす二人に声が掛けられる。
「よくぞご無事で!」
声の主は、ペンテウスの従者、アレキサンドリアだった。
二人の元まで駆け寄ってくる。
彼女の背後には、ペンテウスに付き従ってきた兵士たちも駐屯している。
とっさに、ペンテウスがダフネに耳打ちした。
「……先程見たことはまた後で、話すとしよう」
ダフネもまた、頷きを返した。
事情はわからないにせよ、自分たちは再び帰ってこれたのだ。
まずは、それを喜ぶとしよう。