9.
何もいわずにいると、唐突に王が顔を近付けてきた。
「な、何ですか? いきなり……!」
「その顔、さては信じていないと見える。ならば教えてやろうではないか」
「……何をです?」
「余がどれほど、そなたを信じておるかを、だ」
王は言葉を続けた。
「ペンテウス。それが〈赤の王〉となる前の、余の名だ」
「……それは」
しきたりによって、神殿に仕える者は自らの名前を他者に教えることは禁じられている。
それは、国王となる者も同じだった。
これもまた、王家と神殿の盟約によるもの。
〈赤の王〉は、自身が後継者となるのを教えられた時から。〈白の神官女〉は、その務めに選ばれた時から。
その決まりを破って、名前を打ち明けるというのはつまり、その身分を捨てることにも等しい。
連綿と守り継がれてきた、先達の栄誉を否定するかの如き行いと蔑まれても仕方ないほどに。
間違っても、臣下や市民の前では聞かせられない内容である。
だからこそ、それを伝えるということは。身分など関係なく、一人の人間として相対することを意味すると、神官女は直感した。
「どうだ? これでわかったであろう。余がいかに、そなたを信じているのか」
「……そのようなことを伝えられても、困ります」
「そうであったか」
愉快そうに笑う〈赤の王〉に、顔を背ける。
その固く引き結んでいた口が、ぽつりと、言葉を漏らした。
「……ダフネ」
ペンテウスと名乗った〈赤の王〉が、目を丸くする。
〈白の神官女〉は、その言葉の意味を説明した。
「それが、私の名前です」
一瞬の沈黙。
永遠にも思えるその時間を破った、〈赤の王〉は。
「ダフネか、ふむ……」
噛み締めるように、そういった。
「実に心地のよい響きだ。美しいそなたによく似合っておる」
今この限りにおいて、〈赤の王〉であることをやめた青年は、そんな感想を漏らした。
対して、褒められた神官女は顔を背けていた。その耳が真っ赤に染まっている。
と、その青年の目が、じっとダフネと呼んだ相手に向けられた。
「……何でしょう?」
気になって、横目にたずねてみる。
「余は今しがた、そなたの名を呼んだ」
「……そうですね」
「ならば今度は、そちらが名を呼ぶ番ではないか?」
「えぇ……?」
ひどく面倒くさそうな反応を見せたダフネだが、一度口元を閉じ、つばを飲み込んで、意を決した顔でいった。
「では、ペンテウスさま、と。……どうされました?」
その名前を舌に乗せて呼ぶと、それを聞いた相手は何故か肩を震わせていた。
相手の反応に、ダフネは怪訝そうな視線を送る。
それも束の間。顔を上げたペンテウスは、いつもと同じ王の顔で、口を開いた。
「では、ダフネよ」
「……はい」
仕方なく、応じる。こちらから名前を教えたのだから、少なくとも二人だけの時は答えるべきだろう。
「余はこのような場所で死ぬつもりはない。必ずや、そなたを連れて地上へと戻るつもりだ」
決意した顔が、ダフネと呼んだ相手に手を差し出す。
「余と共に参れ。その美しさは地上の光に照らされてこそ、輝くものだ」
差し出された手を取り、二人は迷宮を出るための道を踏み出した。
先を行くペンテウスの後を、ダフネがついていく。
互いに口を閉じていたため、無言が続く。
と、手を引いていた〈赤の王〉が口を開いた。
「神殿での暮らしはどうだ? 上手く従者たちをまとめられておるか?」
「……今のところ、わだかまりはないと思いますが」
「そなたも集団の長たらば、よくよく目を配っておかねばな」
「……はい」
このような状況にあるからだろう。気が弱って、そんな発言がこぼれたのは。
「しかし、私は御身と違って、高貴な生まれではないので、至らぬ点も多く……」
そこで、はっと気付いた。なんて口を聞いてしまったのだろうと、ダフネは悔やんだ。
怒られると思ったからだ。
「……そうだな」
予想に反して、当の発言を受けた本人は、さらりと認めた。
「王とは何か。未だもって余にもわからぬ」
その上で、言葉を続ける。
「余が持っている月桂冠と王剣は、その象徴に過ぎない。もちろん、国をよく治め、よい政をし、民がよく暮らせるようにするのが王の姿であろう。しかし、何ゆえその役割を持って生まれたのが、余であるのか。……そなたにはわかるか?」
「……いえ」
「そうであろう? そなたのいう高貴な生まれの余ですら、それはわからぬのだ。ならばどうして、そなたに自分が至らぬとわかろうか」
「……そう、ですね」
「それにな、余は先代の父王から、十七の歳で死ぬと告げられておる」
「え……?」
息を呑む。
続く言葉が見当たらない。
「もちろん、余とて本当には信じてはおらぬし、そのつもりもない。だが、確実にいえることがある」
そこで王は一度言葉を区切って、いった。
「――この血は呪われておる」
「……呪いなどと、そんな」
ダフネは、二の句を告げられない。
ペンテウスは、足を止めた。自然、ダフネの足も止まる。
「それゆえ、余はこの連鎖を断ち切らねばならぬと考えてな」
相手の目が、ダフネのそれと重なる。
「そこで、そなたというわけだ」
「私、ですか?」
「建国王がこの赤の王国を建てて以来、王家と神殿は表と裏の関係を築いてきた」
王家の系譜によれば、建国王である初代〈赤の王〉は、ある女性との間に子を成した。
子供は娘であり、なんとこの王女が、神との間に次代の王となる子をもうけたとされている。
その血統が今日まで続き、今も流れているのが、目の前にいる〈赤の王〉というわけである。
「両者は互いに背を合わせつつ、決して交わることのない、水と油のような関係であった。余は、それを変えるつもりでおる」
「……具体的には、どのように?」
「〈白の神官女〉(そなた)を我が妃とし、契りを結ぶのだ」
「それで、お望みは叶うのですか?」
「確証はない。だが、これまでの歴史で一度も、そのようなことが行われた例はない。ならば、この連綿と続く呪いにも、何かしらの変化は起きよう。過去を変えることはできぬが、未来を変えることはできる。余と共に、新しい国の礎を築こうではないか」
「……なるほど」
ダフネは頷いた。
しかし心中でもうひとつ、疑問が湧き上がる。
それはつまり、ダフネ自身には興味がないということではないか。
それをたずねるのは、憚られた。
と前方を行くペンテウスの足が止まる。
「あれは……?」
「……陛下?」
ダフネもそちらに目を向ける。
「……光がこぼれている……?」
そのあり得ない光景に、疑問が口を出る。
「もしや、出口かもしれぬぞ?」
自分でも冗談だとわかっている王が、笑って答えた。
「とにかく、行ってみるとするか」
「あっ」
ペンテウスが先行する。その後を、ダフネは追い掛けた。