前編
間もなく太陽が沈み、世界が闇に飲まれる頃。
赤い地平と青い虚空の隙間。年間を通して雨量の少ない大地は、渇いた空気のせいでその明暗をはっきりと分け隔てて見えた。
日没時。人間が自分たち種族の暮らしていけるようにと、建物を密集させた街の中。
最も高く切り立った丘の上に、石造りの建造物があった。
それは、大理石を削って造られた神殿だった。
神殿とはすなわち、神の家であり。それに捧げるための供物を内包した容器のことである。
長方形の箱を思わせる外観。陽の光を遮るための天井を支えるのは、これまた大理石で造られた幾本もの円柱。
その短い面に偶数本。長い面には十と奇数本もの柱が建っていた。
短い部分の片方は神殿の入口で、正面からは東西に先を傾けた二等辺三角形の屋根が見える。
そこは破風と呼ばれ、天上の物語を記す図像が数多く描かれていた。
正面入口の外には祭壇が設けられ、神像が建つ台座も置かれている。日頃の祭儀はそこで行われているのだろう。
また、神殿全体は多彩な色合いが塗られており、おもに朱色や水色といった淡く鮮やかな種類が多い。
昼間であればその荘厳かつ綺麗な景観も堪能できたであろうが、残念ながら今は宵時であるため。それらの美を目にすることは叶わない。
代わりに、一日の終わりをもたらす静寂を破るようにして、神殿の中は騒々しさに包まれていた。
その原因となるのは、一台の台車と、それを取り囲むいくつかの人影である。
柱廊を駆けて走るのは、頭巾を被った人物たちと、台車の上に乗せられた一人の人間。
頭巾を被った者たちは体の線に丸みがあり、その素性は女性であることが察せられた。
もうひとつ、台車に乗った人物もまた、女性であった。
その体には一枚の布が掛けられており、胴体を長い縄で頑丈に巻かれていて。ひどい苦痛に染まった顔の目尻には、流された涙の跡がうかがえる。
「イヤぁァァァァッ‼ 産みたくなぃィィィィッ⁉」
途端、女性は喉が裂けんばかりの絶叫を、その口から吐き出した。
嗚咽と苦悶に呻きながら、必死に何かから逃れようと身をよじっている。
驚くべきは、その腹部が異様に膨らんでいたこと。
それは誰の目にも、女性が身ごもっていることを鮮明なぐらいに示していた。
「もうすぐで着きますから。後少しの辛抱ですよ」
台車を引いて走っていた一人が、あえぐ女性に向けて声を掛ける。
女性たちの正体は、この神殿に仕える者たちである。
〈神殿従女〉と呼ばれており、名前の通り侍女や従者の役割を担っていた。
全員が女性で構成された彼女たちには、あるしきたりが敷かれていた。
それは、他者に自分の名前を教えてはならないという決まりである。
これは神殿に仕える者は俗世との関わりを断ち、線引きをするため。
ゆえに、その名を呼ぶ際には、二人称が用いられている。
――従女たちの過去には、悲惨な経験が多い。
孤児であった者、身寄りのない者。疫病、貧困、暴力、差別といった扱いを受けてきた者たちばかり。
それらがこの神殿に拾われて、現在はその役目に殉じている。
世の中は、力を持たない者にとって厳しい。だから、その痛みを知る者は、似た境遇にある者を放っておけないし、助けるために力を尽くしている。
今も凄惨な状況にある人物を運んでいるのも、そのためだ。
彼女たちはある部屋を目指して、台車を走らせていた。
頭に思い描くのは、神殿内の構造である。
内部はおもとして、三つの部屋に分けられていた。
ひとつは、正面入口から入って前室と呼ばれる部屋。
もうひとつは、その部屋を通った先にある神像が置かれている神室だ。
ここは来訪者の対応をしたり、捧げ物を受け取る、神殿の中枢を成す空間であった。
三つ目は、後室と呼ばれる部屋。
神室と壁を隔てており、通り抜けは出来ない仕組みとなっている。
また、一般にも開示されていないため、神殿に仕える者のみが出入りを許された部屋でもあった。
もし後室に行きたければ、外側の柱廊を通って迂回する他にない。
それら三つの部屋を合わせて、神殿の内部は構成されている。
――というのは、あくまで通常の神殿の話である。
実はこの神殿には特別にもうひとつ、隠された第四の空間が存在した。
そこは処女の間と呼ばれる、後室の先にある部屋だ。
本来であれば神室の裏側に位置する部屋が、この処女の間であった。
その場所を目指して走らせていた足がようやく、目的の場所の前で止まる。
従女の一人が扉を叩いて、中へと入室の許可をうながした。
「〈白の神官女〉さま。お連れしました」
すると、扉の向こうから声が返ってくる。
「どうぞ。お入りください」
許可を得て、扉を開くと、中は既に夜の色に染まっていた。
その中で、ぽつんとランプの灯火が室内の闇を照らしている。
部屋の中に、ぼんやりと浮かび上がる人の影がひとつ。先ほど答えたのは、この人物だろう。
〈白の神官女〉と呼ばれたその相手は、少女と大人の中間ぐらいの女性だった。
黄金の雨を思わせる油色の髪が、頭部の両端から地上に流れ落ちている。
その身にまとっているのは、真っ白な亜麻布の肌衣と、それを締めるための鮮やかな黄色の帯。
衣服で隠し切れていない大胆に入った縦の線は、夜の闇にあっても目に痛いぐらい眩しかった。
同性である〈神殿従女〉たちですら、一瞬気を取られるほどに。その女性は美しかった。
と、気を取り戻した従女たちは、自分たちが運んできた台車を部屋の中へと入れる。
「そちらの女性は、やはり?」
運ばれてきた台車を目にして、〈白の神官女〉はそう問い掛けた。
「はい。近くを見回りしていたところ、迷宮の入り口で発見し、保護しました」
従女の一人が答える。それを聞いた神官女の、夜明けの空を思わせる紺碧の瞳が、わずかに伏せられた。
「……そうですか。それは、大義でしたね」
労いの言葉を掛け、その足を近くの三脚椅子に向ける。