義妹の幸福―そんなに泣いたらかわいい顔が台無しだわ
フランベルジュ侯爵が外にいる愛人に生ませたらしい娘を、ルチアの義妹として紹介されたのは実母の葬儀の翌日であった。
「今日からリナリーはお前の義妹になる。仲良くするように」
実母が亡くなったばかりの娘にかける言葉としては、とうていあり得ないものである。しかし、母の死に目にも仕事だと家をあけたこの父らしき男が、そういう人間だということを理解していたので、「そうですか」と淡々と受け止めることができた。
「あの……はじめまして、おねえさま」
父の背中に半分隠れながらもあいさつするリナリーに、ルチアは何の感情も抱けなかった。それよりも、あまりにもみすぼらしいその様子が気になり、近くの侍女にリナリーの身なりを整えるよう命令する。どういう理由でこの娘が生まれたのか、そして自分の義妹になったのか。そんなことよりも、侯爵家にふさわしくないぼさぼさの髪と汚れた肌のほうが気になった。
そんな様子を見て、フランベルジュ侯爵は鼻を鳴らす。
「相変わらず、かわいげがない」
かわいげ?
聞き慣れない言葉に、ルチアの思考が一瞬固まる。……そうか、目の前の男は、ルチアが取り乱すことを願っていたのか。
ルチアはにっこりと笑みを浮かべ、立派なカーテシーを披露して言った。
「まあお父様、淑女たるものいついかなるときも冷静にというのが、フランベルジュ侯爵家の教えではないですか」
父とはその日以来、まともに言葉をかわしたことはない。
リナリーはもとが平民のような生活をしていたからか、言葉遣いや食事のマナーなど最低限のことから教育する必要があった。家庭教師をつける以前の問題だったのと、口の固い家庭教師を探すのにも時間がかかるため、まずはルチア主導で侍女や家令とともにリナリーの教育を務めた。
リナリーは物覚えは悪かったが、一生懸命に取り組む姿勢だけは立派だった。どうしても要領が悪く、なかなかうまくいなかったが、一日でも早くルチアに認められたいと努力する姿に、侍女や家令は胸を打たれたようだ。とうのルチアは、やはり何も感じないようだったけれど。
リナリーがフランベルジュ侯爵家に来て半年が経ったころ、事件が起こった。
勉強の合間に中庭を散歩していたら、どうやら迷い猫が木に登って下りられなくなっていたらしい。リナリーは子どものころに木登りが得意だったこともあり、ドレスのまま木に登ってその迷い猫を助けようとしたようだ。侍女たちの制止も聞かずにさっさと登って猫を腕に抱いたまではよかったが、なんとおろかにも足を滑らせ木から転落したという。さすがのルチアも、リナリーに儚くなってほしいとは思わなかったが、奇跡的に一命は取り留めたものの、そこから一週間一向に目を覚まさなかったのである。
万が一も考えて侯爵にも連絡をしたが、「死んでいないなら問題ない」という実母のときと同じ対応に、ルチアは内心驚きを隠せなかった。あんな侯爵でも、リナリーかわいさに引き取ったと思っていたが、どうもそうではないらしい。
意外な事実に驚いていると、家令からリナリーが目を覚ましたという報告があった。急いでリナリーのもとに向かうと、うまく表現できないのだが、まるでリナリーがリナリーでないかのような錯覚を覚えたのだ。もちろん見た目は、あのころよりきれいになったリナリー本人である。この微妙な違和感を覚えていたのは、ルチアだけであった。
「リナリー、目が覚めたのね」
「あなたは……」
少しぼんやりした様子のリナリーが次の瞬間、驚きに目を丸くする。
「ルチア……?」
いつもはルチアを「おねえさま」と呼ぶリナリーが、不躾に名前を呼んだのだ。ルチアは軽く眉をしかめる。
「リナリー、大丈夫なの?」
「えっと……あたしは……リナリー?」
家令たちは、頭を打ったので記憶が混濁したと思ったらしい。しかしルチアには、やはり目の前のリナリーが、リナリーとは別の生き物であるようにしか見えなかった。
「そうよ、あなたはリナリー・フランベルジュ。一週間前に木から落ちて頭を打ったの」
「リナリー・フランベルジュ……」
「わたくしはあなたの義理の姉、ルチア・フランベルジュよ」
「ええ……と、そう……そうだった……あたし……わたしは、リナリー」
「ええそうよ。まだ疲れているみたいね、ゆっくり休みなさい」
「……はい、そう、します」
この日を境に、リナリーは少しずつ様子がおかしくなった。
体調が回復しても、理由をつけては勉強をサボるようになり、何かにつけてルチアに対して「ずるい」と言うようになった。ルチアのドレスのほうがきれいでずるい、ルチアの持ち物のほうが高価でずるい。フランベルジュ侯爵家に来たころの、要領が悪くも一生懸命なリナリーはそこにおらず、小賢しい知恵の働く怠惰な人間へと成り下がっていたのである。
きっと頭を打ったせいで、一時的に性格が変わったのだろう。医者も、家令や侍女も、楽観的に考えていた。いつかまたあのころのリナリーに戻るはずである、と。
しかし、ルチアだけは、どこか冷めた目でこの状況を見ていた。
自分が世話をしてきたリナリーはあの日死に、別の人間になってしまったのだと。
ルチアが十五歳になるころ、第一王子の婚約者選定が始まった。将来の国王となるかもしれない第一王子。噂でしか聞いていないが、大変な美形であるとのことである。ルチアはまったく興味がわかなかった。
高位貴族の令嬢で、第一王子と年齢が近いこともあり、ルチアは王宮主催のお茶会に招待された。言うなれば、第一王子の嫁探しである。この日ばかりは招待状を持ち、上機嫌でフランベルジュ侯爵も久々にルチアの前に顔を見せた。
「お前が第一王子の手付きになれば、フランベルジュ侯爵家はますます栄えるだろう。必ず第一王子を射止めろ」
ルチアは何も言わず、ただ笑みを浮かべるだけである。リナリーがやって来たあの日のように。
ところが、それを隣で聞いていたリナリーが、顔を真っ赤にして「ずるい!」と叫ぶ。
「ずるいわ!わたしも第一王子のお茶会に行きたい!」
フランベルジュ侯爵は、リナリーを見て目を丸くする。
「お前は招待されていないぞ?」
「でもでも!わたしだったら、きっと第一王子の婚約者になれると思うの」
リナリーの言葉に、フランベルジュ侯爵も驚きを隠せないようだったが、やがてめんどくさくなったのか、気だるげにルチアを見た。
「……ルチア、あとのことはお前に任せる」
「ええ、お父様。お任せください」
相変わらず気持ちが悪い娘だと、フランベルジュ侯爵はそそくさと屋敷をあとにした。
リナリーは何も状況を理解しておらず、お茶会に着ていくドレスはどうしようとはしゃいでいる。
「リナリー、お茶会にあなたは招待されていないのよ?それでも行きたいの?」
「いやだ、おねえさまったらまたわたしに意地悪するのね!自分が見初められたいからってあんまりよ」
下品な言葉をはいて、下品に頬をふくらませるリナリーに、ルチアは嫌悪を覚える。
「……そう、わかったわ。なら、当日はわたくしの侍女として参加することを認めてあげる」
「侍女!?」
「当然でしょう。あなたは招待されていないし、それに招待状には侍女の同伴を認める一文があるから、侍女としてなら連れて行ってあげるわ」
リナリーの顔が怒りで真っ赤になる。これでもなお納得しないようなら、当日はリナリーを縛って部屋に監禁するしかないだろう。次の命令を考えていたが、意外にもリナリーは大きく頷いた。
「……わかったわ。おねえさまの侍女として参加する」
「聞き分けがよくて助かるわ。当日はよろしくね」
ルチアがにこりと笑みを浮かべると、リナリーは淑女としてはあり得ない険しい目でルチアをにらみつけた。
お茶会当日に向けて、ルチアは準備で忙しくなり、リナリーのことに構う時間が限られていった。家令や侍女の報告で、ルチアよりも華美なドレスや宝石をつくらせようとしているらしいが、侍女が主人より派手にしてどうするというのだろう。家令や侍女には、リナリーの要求を呑んだふりをさせ、裏でルチアがその発注をひねり潰した。見た目よりも、あの野蛮人のようなマナーのほうが問題だ。あの状態では、文明のない猿を連れているのと同じである。リナリーには、第一王子に見初めてもらうためだと言い聞かせ、なんとか人間に近づけてもらうよう家令と侍女に労を割いてもらった。それでもギリギリ間に合えば奇跡である。
第一王子に見初められたいと微塵も思っていないルチアは、自分のことは最低限に、フランベルジュ侯爵家の家名に泥を塗らないようリナリー対策に奔走した。会場には入れないが、護衛騎士の随行も認められていたため、万が一のときにリナリーを強制的に退場させる方策も練った。報告のためにフランベルジュ侯爵にも連絡をしていたが、「ルチアに任せる」のみであの父が動いてくれる望みはない。
それでもルチアの心は、不思議と静かなものであった。リナリーが問題を起こそうが、結果的に家名に泥を塗ることになろうが、ルチアはしょせんただの侯爵令嬢だ。最後に責任を取ることになるのは、ルチアではない。ルチアはたびたび、死ぬ間際の実母の言葉を思い出しては、自らのやるべきことを粛々と進めていたのである。
お茶会当日は、侯爵家の馬車に乗り王宮に向かう。馬車の向かいにはリナリーと護衛騎士が少し窮屈そうに座っている。リナリーはどうやら馬車の揺れが苦手らしく、あまりしゃべらなかったのはありがたかった。会場に到着する前から疲労困憊になるところである。
定刻より少し早めに着くと、王宮を見あげたリナリーが感嘆の声をあげる。
「わあ……!本当に、『ラブパニ』の世界なんだ」
頭を打って以来、リナリーは時おり意味不明な単語をつぶやくようになった。「テンセイシャ」「デキアイルート」「ラブパニ」「アクヤク令嬢」ーー他にもいろいろあるが、ルチアが覚えているのはそのくらいである。まったく聞き馴染みのない単語に、それがどういう意味なのか想像すらできなかったが、リナリーの頭をおかしくさせた原因なのだろうという推測はできた。リナリーはそれらの言葉に踊らされ、「ルチアに虐げられるリナリー」をつくりだそうとしている。いっそ涙ぐましいほどに。
王宮の侍女に案内されて到着したお茶会会場は、王妃陛下自慢の薔薇が咲き誇る庭園であった。すでに招待された令嬢のほとんどは到着しており、心なしか高揚しているように見える。第一王子に見初められれば、未来の王妃候補だ。さらに美貌の第一王子ということで、色めき立つのも無理からぬことである。
そして、侍女であることも忘れて一番浮かれているのがリナリーだ。ルチアは短くため息をつく。
定刻になり、まずは王妃陛下が登場する。優雅な仕草であいさつをすると、恐れ多くも招待した令嬢一人ひとりに声をかける。ルチアの名は呼ばれ、リナリーの名は呼ばれなかったのだが、リナリーは何も理解していないようだった。こういうとき、変に教養がないほうが助かる。
「……それでは、わたくしの自慢の息子を呼ぶわ。ディオン、いらっしゃい」
令嬢たちは臣下の礼をとったまま、顔も上げず第一王子の登場を待つ。
ーーそのときだった。
「きゃあ!」
いきなりリナリーが大声を上げ、なぜかルチアの隣で盛大に転んだのである。
もちろんこの場所に転ぶようなものは何もない。王妃陛下と第一王子以外の人間は臣下の礼をとり、当然リナリーには近づけない。さすがのルチアもここまでは予想できず、さっと顔が青ざめた。
「……君、大丈夫?」
なんと、第一王子がリナリーの前に来て声をかける。ルチアは次に自分が取るべき行動を必死で考えた。とはいえ、無礼にも声をかけるなどできはしない。逡巡している間にも、第一王子とリナリーの会話は続いていく。
「あの、わたしったら……ごめんなさい。でもうれしいです、こんなすてきな方に声をかけて……いただい……て?」
どうやらリナリーは第一王子に手を差し出され、その手を取ってしまったらしい。
そのとき、王妃陛下が軽く手を叩き、令嬢たちはみな面を上げた。そうして隣を見たルチアは、なるほどと心の中で首肯する。
どうやらリナリーは、第一王子の美貌に固まってしまったようだ。周囲の令嬢たちが息を呑むのがわかる。もしもルチアが、第一王子との婚約を望んでいたらまったく同じ反応をしていただろう。
「君のように可憐な方に、『すてき』と言ってもらえてうれしいよ。名前を聞かせてくれる?」
「あの……」
リナリーがなぜかルチアに助けを求めるような目を向ける。ルチアは小さく頷くと、にっこりと笑みを浮かべた。
「お声をかける無礼をお許しくださいませ、第一王子殿下。彼女は、リナリー・フランベルジュと申します」
「フランベルジュ侯爵の?」
「ええ、そうですわ」
第一王子はリナリーの手を握ったまま、うっとりとリナリーを見つめている。当のリナリーは、憧れの第一王子を目の前にして顔を赤くしたり青くしたりと忙しそうだ。
「この秋には、正式にフランベルジュ侯爵家の養女となりますの。そのときには、第一王子殿下のお相手も問題ないかと存じます」
ルチアが助け舟を出すと、第一王子の頬がさっと赤くなる。そうしてリナリーの手を握ったまま、ずんずんと王妃陛下のもとへ向かった。
「ママ!」
「……まあ、ディオン。人前ですよ」
「あ、そうでした。お母様。ぼくは、リナリーと婚約したいです!」
「あら」
「えっ、ちょっと……」
「まあ、よかったわね、リナリー!」
ルチアもさっと高貴な集まりに近づき、心から嬉しそうに声をかける。
「あなた、第一王子殿下に憧れていたもの!本当にもったいなく、ありがたいお話だわ」
ルチアの言葉に、第一王子はますます興奮する。対してリナリーの顔は青ざめていた。
とはいえ、王妃陛下の目の前で第一王子が「婚約者にしたい」と言ったのだ。二人の婚約はほぼ確定だろう。招待された令嬢たちも、祝福するような拍手を送る。
美貌の第一王子は、年齢の割に背丈が低く、丸く肥え太っていた。国王夫妻が甘やかした結果である。そのくせ、勉強も嫌いで、家庭教師からいつも逃げ回っているらしい。太っているので目も細く、鼻も上向きでまるで豚である。「美貌の第一王子」と言われながらも、その姿を噂でしか聞いていないときから、ルチアは何かきな臭さを感じていた。そして亡くなる寸前の母の言葉で、すべてを察したのである。
「……わたくしがお父様と結婚したのはね、現国王陛下と、どうしても結婚したくなかったからなの」
どうしてここまで愛のない結婚をしたのか、ルチアは不思議で不思議でしょうがなかった。しかし、母の言葉と、現国王陛下の不思議なまでに誇張された絵姿、さらには姿を見ない「美貌の第一王子」に、なんとなくであるが、推測を立てることはできた。
たしかにこれなら、まだフランベルジュ侯爵のほうがマシと言える。
婚約がほぼ内定した帰り道、リナリーは一言も声を発さず、下を向いてぷるぷると婚約の栄光に打ちひしがれているようだった。
ルチアはにっこりと笑みを浮かべ、リナリーに祝福を送る。
「よかったわね、リナリー。あなたの望んだ「デキアイルート」とやらがこれで手に入ったのではなくて?わたくしはこれでも、義理の姉としてあなたには相応の幸せを与えるつもりだったのよ?それなのに、あろうことか、あなたは第一王子との婚約を望んだ。悩んだけれど……やはりここは義姉としてその望みをかなえてあげるのは当然よね」
リナリーが涙を目に浮かべ、うつろな目でルチアを見つめる。
「嫌だわ。うれしいからって、そんなに泣いたらかわいい顔が台無しよ?」