第一章 2 夫の謎の抵抗
クロエがリオベルトを伴い部屋へと戻り新しく御茶を淹れ直すと部屋を後にした。
二人きりになると沈黙が流れ気不味い雰囲気が漂う。
本当に夫婦なのかと思う程の温度感にアリスの口から溜息が漏れた。
「で、話は何だ?」
淡々と言葉を吐くリオベルトの表情は冷たい。
アリスは、覚悟を決め言葉を紡いだ。
「リオ様。お忙しい時に御呼び伊達して申し訳ないと思いますが、煩わせるのは本意では有りません。
私と離縁して頂きたく思うのです」
アリスの言葉を信じられないと言わんばかりの顔で見るリオベルトの視線と重なる。
「本気で言っているのか?オマエが?
頭を打って記憶と共に人格さえ消え去ったとでも言うのか」
確かに、今迄のアリスなら離縁など考えもしなかっただろう。
「確かに頭を打って記憶が断片的に欠損した様ではあります…。しかし、過去を振り返る良い機会だったと思っていますわ。
私、やはり愛の無い結婚は嫌ですの。
夫に煩わしいと思われながら生涯を終えるなど地獄ですわ。リオ様に、あからさまに嫌な顔をされるよりミシェーレ家に戻すなり何なりして下さった方が気が楽ですもの」
目を見開きアリスの言葉を聞いていたリオベルトは、話が終わった後も口を開かなかった。
そして、大きな溜息を吐くと背をソファーの背もたれに付け、足を組むと宙を見ながら大きな溜息を吐くと話始めた。
「この婚姻は昔から決まっていた事だ。
オマエも分かるだろ?貴族と言う者の役目を。
アリスの我儘だけで離縁など出来る訳が無かろう?
仮に離縁した所でミシェーレ公爵家に帰れる保証さえ無いのだぞ?傷物の娘に価値は無いなどと言われたら、それまで。そうなれば、オマエは平民になるつもりか?貴族令嬢として育ったオマエが?」
リオベルトが呆れるのも無理は無い。
普通の令嬢が結婚し、夫人になったとして離縁にでもなれば普通は家には帰れまい。ただの御荷物でしか無いのだから。
となれば平民となり、普通の平民よりも酷い扱いをされるのは目に見えているのだ。何もかも使用人に世話をされながら生きて来た貴族が、身の回りの事をする事さえ出来ないのだから一人で生きて行ける訳ないだろうと思われるのは当然なのだ。
しかし、前世の記憶があるアリスにとって、身の回りの事など容易い。金の稼ぎ方も、この世界の事を理解すれば容易い事の様に思えたのだ。
「あら?離縁後の心配はして下さるのですね。
興味も無い女が、離縁後にどうなろうと関係ないのでは有りませんこと?そんな優しさを持ち合わせて居るのなら結婚生活も少しは違うものになっていましたものね?」
最大限の嫌味だった。
記憶を思い返しても、アリスは何も悪い事はしていないのだから。
ミリティアに会った事も無ければ、他の女の様に嫉妬で誰かを害した事も無い。ただ、ひたすらにリオベルトに相手にして欲しくて本人に我儘を言っていただけなのだから。
「俺を責めているのか?
妻の心配くらいするのは当然だろう?」
「妻だと思ってらっしゃったのですね?
初夜さえ妻を一人で寝かせ、未だに寝室も別だと言うのに…。それに私が会いに行くか呼び出さなくては会えないなんて夫婦と言えますか?
貴方は義務さえ果たしてませんのよ?」
「じゃ〜抱けば良いのか?」
リオベルトの対応に苛立ちが込み上げたアリスはリオベルトを睨むと呆れた様に言う。
「は?愛が無い結婚は嫌だと言ってる意味を理解しておりますか?
貴方は私を愛してませんわよね?
未だにミリティア様をお慕いしてるんですもの。
なら離縁して終わりにして下さいませ」
リオベルトも呆れた顔で言い返す。
「いつの話だ?
オマエと結婚する前の過去の話だろ?別に何とも思っていない」
「白々しいですわね。
百歩譲って過去の話だとしても私を愛しては居ないでしょうに」
「何故、決めつける?」
「はぁ?」
何を今更と思わず間抜けな声を上げてしまうと、リオベルトは不適な笑みを浮かべ立ち上がるとアリスのソファーまで移動し横へと腰掛けるとアリスを抱き寄せる。
「確かに結婚し今まで愛は無かったかもな…
けれど気が変わった。素を出したオマエには興味がある。今迄のオマエは猫でも被っていたか?」
急に色気を出し誘惑する様な表情を見せるリオベルトにたじろぎ顔を赤く染めてしまうアリス。
この変わり様は何なの!と思いながら目を背ければリオベルトは楽しそうに囁く。
「愛があれば良いんだろ?」
アリスは、今迄の扱いを思い出しリオベルトを力一杯に押し退けて抵抗する。
「今更なによ!サッサと離縁しなさいよ!」
大声を出せば、リオベルトは大きな声で笑い出す。
「いいね。
気の強い女は嫌いじゃない。
ミシェーレ公爵に甘やかされた世間知らずな女だから御飾り妻としてしか考えて無かったが…
ゆっくりダグラス家に染めるのも悪く無いな」
氷の様に冷たく寡黙だったリオベルトの妖しげな笑みを見たアリスは、リオベルトの素を見た気がして少し背中に寒気を感じる。
実はヤバい奴なんじゃ?と思った所で扉からノック音がした。
扉の外からクロエの声がする。
「旦那様。ミシェーレ公爵様がいらっしゃいました」
その声にリオベルトは答える。
「分かった。応接間に通してくれ。直に向う」
御父様が?と思うアリスにリオベルトが反応する。
「記憶が無くなった様だと連絡をしておいた。
まさか、こんなにも早く訪ねてくるとはな。アリスに甘い公爵だとは思っていたが予想以上なのかもな?
さあ、行くぞ」
そう言うと、立ち上がりアリスへと手を差し出す。
「私も同席するのですか?」
「当たり前だろう?オマエの父親だぞ」
それもそうかと、差し出されたリオベルトの手を取り立ち上がるとリオベルトが髪を優しく撫でるように整える。アリスは戸惑いながらリオベルトを見上げるとリオベルトは、今迄見せた事も無い微笑みを向けてくる。
「コブが出来た様だな。加減を間違えて突き飛ばして悪かった。もう、あんな乱暴に扱う事は無い。安心しろ」
優しい声色と優しい微笑みを向けられてアリスは、益々困惑するがリオベルトはお構い無しに自分のペースにアリスを持って行く強引さを見せた。
リオベルトのエスコートで応接間に移動すると、アリスの顔を見たミシェーレ公爵は立ち上がると挨拶も無しにアリスを抱き締めた。
「記憶が無いと聞いたが。私を覚えているか?何処か痛む所は?大丈夫なのか?」
余程心配したのか早口で問いただすかの様な父親にアリスは苦笑いが浮かんでしまう。
「御父様…心配を掛けた様で御免なさい。
少し頭をぶつけたショックで混乱しただけなの。
少し記憶も欠損してるけど、お医者様が一貫性のものだから大丈夫だろうって言ってたわ」
「そうかそうか…」と安心した様子の父であるエルロンドをソファーに座らせると隣に座る。
向かいのソファーに座ったリオベルトはエルロンドに視線を向けて口を開いた。
「義父上。アリスが頭を打ったのは私の不甲斐無さが原因でして、責められても仕方ありません。
アリスにも離縁してくれなどと言われてしまいまして…。しかし、私は離縁など考えても居ませんのでアリスから頼まれても許可しないで頂きたくお願いしたいのですが」
リオベルトの言い分にアリスは驚き視線をリオベルトに向けると笑みで返される。
「アリスが離縁を?
余程、ショックが大きかったようだな。あれだけリオベルトとの婚姻を望んでいたアリスが、そんな事を言い出すなんて。
アリス。少しは落ち着いたのか?まだ混乱しているなら一時的にでも家に里帰りするか?パパと過ごせば少しは落ち着くだろう?」
「御心配には及びません。
私の愛の伝え方が足りなかっただけの様ですので。
先程、アリスに誤解だと伝えたばかりですから。ね?アリス。もう落ち着いただろ?」
二人の視線から何故か圧を感じ戸惑うアリスが苦笑いを浮かべればエルロンドが有無を言わさぬ様な態度でリオベルトへと言った。
「理由はどうあれ、アリスが頭を打つ様な事があったのは事実だ。精神的なストレスが原因で記憶が曖昧になったのだろう?
数日はミシェーレ家に里帰りさせて貰うよっ」
リオベルトは困った様な顔で答えた。
「では、今夜は家で過ごして貰いたい。
誤解を与えたまま離れるのは私としても本意では無いので…。明日、こちらからミシェーレ家に送り届けます。3日後には迎えに伺うと言う事で宜しいですか?」
「まぁ〜良いだろう。
今日の所は帰ろうとしよう…」
エルロンドは納得しアリスを抱き締めると名残惜しそうに「待ってるぞ」と言うと帰路に着いた。
終始ベタベタとしてくる父親にアリスの記憶が蘇る。
そう言えば、エルロンドのアリスへの溺愛は凄まじいものがあった。それが当たり前だと思っていたアリスは何も思わなかったが、前世の記憶がある今のアリスからしたら異常とも言える程の溺愛っぷりなのだ。
エルロンドを見送った後、リオベルトは仕事に戻る事も無くアリスの傍から離れなかった。
エルロンドの見送りのついでに庭を散歩すると言えば付いてくる始末だ。
「どんな心境の変化ですの?」
今迄の態度と真逆な態度にアリスが突っ込めばリオベルトは涼しい顔で答えた。
「反省したんだ。それに明日から数日は会えないだろ?ちゃんと帰って来たくなる様にしないとな」
アリスがシド目を向ければ、リオベルトはアリスを抱き上げお姫様抱っこするとアリスの額にキスを落とす。
いきなり持ち上げられ悲鳴を漏らすアリスは、額にキスを落とされると驚きリオベルトを見上げてしまう。
「少し前のオマエとは別人だな。
自分から抱き着いて来たりベットに入って来てた癖に、こんな事で照れるとはな。
今夜とは言わず、これから共にベットに入るか?」
そう言うと共に屋敷へと歩みを進めるリオベルトにアリスは「降ろして」と抵抗するが、リオベルトからしたら可愛い抵抗でしか無い。
屋敷に入ると、そのまま自分の寝室へと向うと控えている使用人を全て下がらせるのだった。