フェチのフェチ
フェチに近いある種の事を
美しいと思う事や感じる人を眺めたり触れるのが凄く好きで。
例えば、美術館。
私はあんまり有名じゃない人でも
なんでもいい。
一人のなんでもない普通の女性の絵。
よく見ると
背景がボヤけているのに気がつく。
でも、棚に上下逆に本が読みっぱなしに乗ってたり、絨毯の柄が変ではないけど、欲しかった時にあった、必要最低限のインテリアの秩序を乱さない程度の無難な色柄の絨毯を買ったんだろうな、と特に凄いこだわりがないのはわかるような、親近感や生活感を感じさせるのには充分な程度の絶妙なボヤけっぷり。
このマルチなピントのあいかたは
人間の目や脳にはできるけど
写真や動画では、まだ、できないだろうな。
と思う。
そんなでやっと人物。
もろに画家の目線で面白い。
私なら目が
女性の場合は
私と同じように目や
服装や
髪型や
全身のバランスが
目に入ってくるんだと思う。
なんとなく合っているピントの中に
一つ
この絵の中で
一番ピントが合った部分を探す。
どこだ?どこだ?と探す
人っ気がなければ離れてみたり近づいてみたりする。
ピントは写真のように
人物に合っている。
ピントがあっているのに
目線が自然といく場所がある。
パァとクリアに見える
なんと
内もも!!
ただのエロじいじゃないか。
と一瞬がっかりしつつ
その質感に本当に好きなんだなあ。
とニンマリする。
でも、まだ終わらなくて
人物画の展示だったから
とても面白い発見があった。
何枚も見ていると
ただ、理由なく内ももピントじゃなかったんだなあ、とボンヤリとわかってくる。
なんかお母さん感。
張った肌ではない感じ。
それは、時に二の腕だったり。
晩年の作品になると、肌や肉質という物質的だった記憶がおぼろげになりだしたのか
今度は、人物をとりまく背景が暖かな感じに変わっていったり、子供の絵が作者自身の幼少期と重ねているような自画像風な感じになったり。
記憶の中にある空気感を描くようになる。
あの温かな感じを纏う自分が見たものを
無意識に表現したのかな?
この人のコアには、この思い出が鎮座しているんだろうな。
とか、この人の幼少期を想像しながら
自分と重ねつつ
ほわんほわんとしながら帰路についた。
私が惹かれてしまうのは、
それは多分
経験や体質やDNAや記憶からくるもので
おおかた被る事のないことだからかもしれない。
全く、自分以外と関わらずには生み出す事のできない、創造しえない世界だからかもしれない。
今は、失敗しないようにと
前もって情報が与えられてしまっている
または
事前に成功例失敗例を探す
恋愛や人付き合いなどにおいても
いかにスムーズに進展させるのか。
自分の現行の経験から打ち出された
自分に合った人とだけ関わる
偶然に好きな人が現れた
心理学や性別や脳の特性を使った
ある程度パターン化された
成功例のアプローチをしていく
こうして
ネットから作られた
傷一つない綺麗な雑味のないパターン化された人間と組み合わせがいくつか出来上がっていく。
そして、
パターンに合わない不器用な歪な人間を排除していく。
人間の種類が少なくなっていく。
きっと、パターン化された人間は
自分がパターン化されたと気がついた時
楽だし、幸せだし、シンプルだし、まあいいか、これも悪くないか。
と小さな世界に自ら収まっていくのだろう。
そうなると私の好きなものは減っていくなあ。
とぼんやり考え、私も小さな世界に収まっていく。
でも、やっぱり、見たいな。
と傷の痛みや味を忘れられない私は、
小さな世界と恐る恐る外を行ったり来たりする。
こりない。




