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第四章 流星の魔法使い(その三)

 調査旅行最終日。今日は午前、研究用植物の種や苗、個人的な土産物などを購入し、昼過ぎにスルイソラ連合国の南都ナギエスカーラへ向けて出立する予定となっていた。

 エリク先生とアンにとっては極めて有意義な調査旅行となった。片や、僕にとっては結局のところ、足代わりを務めて精気視認器を披露して回っただけ。でも、宿代は研究費から出ているし、それなりに楽しかったから、まあいいか。僕はそんな風に割り切っていた。

 宿に荷物を預けて首府メトローナの市場と商店街を回り、購入予定の品は順次揃っていった。ただしその間、僕は街の様子に違和感を覚え続けていた。

 高空高速飛翔をする人の多さ。そのこと自体は珍しいとは言えない。しかしどうやら、大統領府と中地方通商組合に立ち寄る人が多い模様。今は秋に入ったばかりの時期。何らかの手続きの期限が迫っているとも思えない。平日午前にもかかわらず、そこはかとない慌ただしさ。何か突発的な出来事でもあったのだろうか。僕はそんな疑問を抱いた。

 買い物が終わった。あとは宿に戻って荷物をまとめ、軽食を摂っていよいよ出発。僕はエリク先生とアンに、宿へ向かう前に通商組合に立ち寄ってみようと提案した。

 組合事務所では全職員が席を立ち、忙しく動き回っていた。緊急通達の準備。そんな声に僕は驚き、手近な行商人に事情を尋ねた。

 本日早朝、スルイソラ連合国の首都ノヴィエミストでのこと。フレクラントの行商人を頼って、行商人御用達の宿屋にエスタコリン王国中央政庁の職員が運び込まれた。たまたま宿泊していた魔法医術士の資格を持つ行商人が診察したところ、体内の余剰精気の全てと基礎精気の一部が失われていた。

 原因はノヴィエミストの郊外、西の丘の上に建つ施設の内部を覗き込んだこと。改めて複数の行商人が確かめに行くと、その無人の施設の中には巨大な吸収石が設置されていた。巨大吸収石は周囲から膨大な量の自然精気を取り込み続けており、エスタコリンの職員は不用意に近付いて体内の精気を吸われてしまった模様。

 巨大吸収石の影響はその上空、中空帯付近にまで及んでいる。知らずに上空を飛翔して突然大量の精気を吸われたら、最悪の場合には失神して墜落してしまう。現に、確認しに行った行商人たちもそれに近い状態に陥った。

 郊外西側の丘には接近禁止。仮に接近する必要があったとしても、高空帯を高速で素通りするにとどめること。それが通達の内容。首都ノヴィエミストは北限の街ロスクヴァーナに次いでフレクラント人が訪れることの多い街。それが緊急の理由。現在、大統領府常設警邏隊の隊員たちが現地へ向かっている。

 その話を聞き、僕は愕然として確信した。エスタコリンの職員が行なっていたのはおそらく調査。偶然や気まぐれで施設に近付いた訳ではない。そして、その種の調査を行なっていたのはイエシカさん。宿屋に運び込まれたのはイエシカさんに違いない。

 しかし、僕はエリク先生にもアンにも確信を明かさなかった。特にアンに明かす訳にはいかなかった。気が動転したら上手く飛翔できなくなってしまう。そのため、僕は野次馬根性を剥き出しにする振りをして、早くノヴィエミストへ行ってみようと二人を急かした。

 それから約三時間後、首都ノヴィエミストの宿屋に到着した。慌ただしく出入りする人たち。見知らぬ顔。見知った顔。南都ナギエスカーラでも商売をしている行商人を見掛けて尋ねてみると、やはり運び込まれたのはイエシカさん。その報を耳にした瞬間、アンはイエシカさんが休んでいるという部屋へ向かって駆け出した。

 イエシカさんは意外に元気な様子で自嘲交じりに事情を説明してくれた。

 丘の上の施設は二階建て。一階の出入り口の前に立つまでは何の異変も生じなかった。取っ手を握って扉を開け、中の様子を窺おうとした瞬間、体内から精気が吸い出された。慌てて扉を閉めたが、猛烈なめまいと吐き気と虚脱感。その場に倒れ込んでしまった。直後、離れた場所から監視していた同僚がイエシカさんを宿屋に担ぎ込んだ。

 診察によれば、全身の余剰精気を全喪失。両腕前腕の基礎精気もほぼ喪失。頭から胸までの基礎精気を一部喪失。ただし、魂の自己組織化は健全に維持されている。歳も若く、肉体は至って健康。そのため、数週間もすれば元の状態まで自然に回復するだろう。その間、魔法の使用は禁止とのことだった。

 僕たちが精気視認器でイエシカさんの体を確認していると、様子を見に来た宿屋の従業員から話が伝わったらしく、行商人や常設警邏隊の隊員が集まってきた。皆も順次視認器を手に取った後、数人が「視認器で丘の上の施設を見てみよう」と言い出した。

 僕、エリク先生、行商人二人、警邏隊員一人。僕たちは丘の上に降り立った。行商人によれば、丘の裾には敷地を囲うように柵が設けられ、「危険。関係者以外の立ち入りを禁ず。ノヴィエミスト高等学院」との看板が掲げられているとのこと。「空からも見えるようにしておけ」と行商人は吐き捨てた。

 大小二つの立方体を積み重ねたような二階建て。つい最近まで人が手を入れていたらしく、建屋の周囲には背の低い雑草がわずかに生えているだけだった。距離を取って精気視認器で眺めてみると、視認器にもはっきりと映るぐらいに、二階部分周辺の自然精気濃度が高くなっていた。つまり、一階に収められている巨大吸収石は上空からも自然精気を激しく取り込み続けている模様。逆に、一階部分周辺に自然精気の影は無し。エリク先生によれば、一階部分の壁には遮蔽材が使用されているのだろうとのことだった。

 エリク先生をその場に残し、僕たちは一階の出入り口に近付いた。まず、行商人一人が視認器を手に扉の前に立ち、扉を開けて中を一瞥してすぐに閉めた。

 とんでもない。持って行かれた。たまらない。視認器を使う余裕など全く無い。事前に知って身構えていなければ、確かに精気を大きく吸われて大変なことになる。

 それが行商人の感想だった。次いでもう一人の行商人。そして警邏隊員。やはり同様の感想を口にした。最後に僕。僕はこっそりと全身に強制吸入術を掛けて扉の前に立った。

 扉を開けた瞬間、僕はウーンと呻いて力んでしまった。体の前面から余剰精気がどんどん抜けていく。強制吸入術によって体の背面から自然精気がどんどん流れ込む。魂の自己組織化が解けてしまいそうな奔流。体全体が冷えていくような感覚。強制吸入術ではこの事態に対処しきれない。そのことを僕はすぐに理解した。

 建屋の中は薄暗かった。僕は光球を作って送り出した。大人十数人が手を繋いで輪になったぐらいの大きさの球体。そんな巨大な吸収石がはっきりと見えた。僕は光球を消し、精気視認器を通して巨大吸収石を観察した。背後の少し離れた所から「もうやめておけ」と声が聞こえてきた。僕は逆らわずに扉を閉めた。

「サジスフォレ君」と警邏隊員は言った。「君は良く持つな。大丈夫か」

「はい。キーンという甲高い音が聞こえませんでしたか」

「聞こえた。微かに」

「どう見ても、巨大吸収石の中の精気は高密度状態に達しています」

「放っておいたらどうなるんだろう。君は専門家だろう」

「設計図も何もありませんし、構造が分かりませんから、今は何とも……」

 エリク先生の待つ場所に戻ると、警邏隊員は早速先生を背負う素振りを見せた。

「さっさと帰ろう。長居は無用だ」

 僕は皆を呼び止めた。

「多分、高濃度の精気の影響だと思うんですけど、あの吸収石のそばでは魔法が不安定になります。でも今なら、あの吸収石に十分な威力の空爆をぶつけられます」

「待て」と警邏隊員が牽制してきた。

「今なら空爆が効きます。空爆を何発か当てれば、あの吸収石は壊れます」

「待て。勝手なことをするな」

「皆さんはあの吸収石を視認器で見ませんでしたけど、僕は見ました。見てしまいました」

「何が見えたんだ」

 僕はわずかに口ごもった。

「何を見たんだ」

「床下からふっと湧き上がって吸い込まれていきました。霊魂が」

 皆は絶句した。

「あんな不自然な物は直ちに壊すべきです」と僕は強く進言した。

「駄目だ」と警邏隊員が怒鳴った。「そんなことをしたら外交問題になる」

 警邏隊員はエリク先生から離れると、先生を背負うよう行商人二人に依頼し、僕の腕をぐいっと取った。

「帰ろう。君が決めることではない。我々が決めて良いことではないんだ」

 

◇◇◇◇◇

 

 スルイソラ連合国が秋に入り、ナギエスカーラ高等学院の秋学期が始まった。皆に強く促され、僕は大人しく南都ナギエスカーラに戻ってきていた。

 精気視認器があればイエシカさんの状態を目視で確認できる。これは極めて貴重な観察例となるだろう。しかし厳密には、精気視認器は僕の持ち物ではなく学院の所有物。貸し出す訳にはいかず、学院に持ち帰らなければならない。そのため結局、イエシカさんは三週間の傷病休暇を取り、僕たちはイエシカさんをナギエスキーヌの家に連れてきていた。

 三人での賑やかで楽しい家庭生活。さすがに、そういう訳にはいかなかった。借りてきた天幕を庭に張り、中に簀の子をきちんと敷き詰め、僕は独りでそこに寝泊まりする。毎日昼にはイエシカさんに食事を届ける。毎日朝夕一回ずつ、イエシカさんを観察して記録を付ける。そんな手間が増えた上に、何よりも首都ノヴィエミストの様子が気に掛かる。外面はともかく、内心ではそんな重苦しい日々が続いていた。

 秋第一週第二日、巨大吸収石の目撃から四日目の午後。僕とエリク先生で他称いかさま媚薬の製造小屋の改装に取り掛かっていると、そこに学院事務局の職員がやって来た。僕に来客。そのように告げられて、僕は神妙に職員の後を付いて行った。

 学院評議会議長の執務室の二つ隣には、最高級家具を取り揃えた応接室がある。そのことを僕は初めて知った。そして部屋の中には人影が一つ。フレクラント国大統領のジランさんが待っていた。職員が姿を消すと、ジランさんは何の挨拶も無く「座りなさい」と椅子を指さした。僕が会釈して腰を下ろすと、「イエシカの具合は」とジランさんは尋ねてきた。

「気だるい。気力が湧かない。そんな自覚があるそうです。それから基礎精気を吸われた腕ですが、冷たいと感じるそうです。ただし実際には、体温はきちんとあります」

「回復してきているのですか?」

「間違いなく。精気視認器を使えば、素人でもそれが見て取れます」

「きちんと養生するようにと伝えてください」

「はい。口だけは何とか元気です。何もせずに寝てばかりいたら、ぶくぶく、ぶくぶく、完熟してしまうと。完熟イエシカ。ちょっと凄いですよね」

 ジランさんが怪訝そうな表情をした。

「要するに、太ってしまうと」と僕は補足した。

 ジランさんはアアと微かに笑みをこぼした。

 その時、部屋の扉を軽く叩く音が聞こえ、職員が再び姿を現した。職員はジランさんの前に置かれていた杯に飲み物をつぎ足し、僕の前にも杯を置いて飲み物をそそぎ、軽く会釈するとそのまま部屋から出ていった。

「今日は例の巨大吸収石の件ですか」と僕は率直に尋ねた。

「それも用件の一つです」

「大統領が自ら乗り出すほどの状況なんですか」

「笑いも涙も出ませんね」

 強い肯定だった。

「フレクラント人の中では現状、ケイが生命力工学の第一人者です。しかも、実際に現場で現物を見ている。ケイはあの巨大吸収石をどのように評価します」

「直ちに破壊すべきです」

「理由は」

「余剰精気だけでなく、魂を丸ごと吸うからです。あれは禁忌の魔具です」

「霊魂が吸い込まれるのを見たのですね」

「はい。例えば、フレクラントの一万年の累計総人口は大体分かる。すると、人口密度ならぬ霊魂密度も大体分かる。様々な仮定はあってもそれに基づけば、あの巨大吸収石に吸い込まれるフレクラント関係の霊魂はせいぜい一つ。僕が見た霊魂はフレクラント関係ではない可能性が高い」

「そうですか。安堵して良いのかどうかは分かりませんが……。爆発などの可能性は」

 僕は軽くウーンと鼻を鳴らし、首を傾げてしまった。

 僕は転生者や霊魂となった超越派の実在を知っている。ジランさんも少なくとも転生者の存在は知っている。しかし、ジランさんにその観点からの危機感は無い様子。

 僕はジランさんに尋ね返した。

「ノヴィエミスト高等学院はあれで何をしようとしているんです」

「あの施設の基本構造は櫓のようになっているそうです。一階には巨大吸収石。二階には巨大発光石。つまり、全体では巨大照明器」

「地上の太陽……」と僕は呟いた。

「爆発の可能性は」

「細かい話をすることになりますけど……」

「構いません」

 僕は頷いて説明を始めた。

 吸収石は経年劣化する。耐久性は無限ではない。さらには、あの巨大吸収石は高音を発している。つまり、細かく振動している。それが劣化を速めるだろう。

 劣化が進めば、いずれ巨大吸収石は蓄積した精気を保持できなくなる。蓄積された精気は一気に拡散し、それに伴って巨大吸収石も砕け散る可能性がある。

 巨大吸収石が硬くて頑強であればあるほど、どこまでも持ちこたえて最後に激しく砕け散る。逆に頑強でなければ、早々に砕けて崩れ落ちるだけだろう。

「ただし、あの高音が巨大吸収石のどこから出ているのかは不明です。もしかしたら、あの吸収石の内部には穴か空洞かそれに類する構造があるのではないかと思うんですけど」

 ジランさんは大きく息を吐いた。

「さすがですね。その通りです。ノヴィエミスト高等学院の生命力工学専攻から設計図と実験記録の写しを貰ってきました。先ほど、こちらの生命力工学専攻の主任に渡しました」

 やはり、と思いながら僕は頷いた。

「激しく砕け散った場合の威力は」とジランさんは尋ねてきた。

「あの建屋を吹き飛ばして、丘の周囲に破片を撒き散らす。多分、それだけです。あの吸収石は巨大とは言え、物量はその程度のものです。僕の考えがここまでまとまったのは今朝辺りです。当然ですが、今後状況が変われば結論も変わります」

 ジランさんは緊張が解けたように大きく息を吐いた。

「ただし」と僕は付け加えた。「皆さんは物質的な大爆発を心配していますけど、僕が気掛かりなのはそれではないんです。まだ誰も気付いていないようですけど、蓄積された大量の精気はほとんど遮られることなく暴風となって拡散します。人間がそれを浴びたら、魂が吹き飛びます。特に連合国人はまずいでしょうね。魂が弱いので」

「そのことに思い当たったのはいつです」

「つい先ほどです。屋外作業をしている最中に。設計図を確かめてみないことには、これ以上のことは何も言えません」

 ジランさんはウーンと呻いて顔をしかめた。

「なぜ、わざわざ一国の大統領が飛び回っているんですか」

「猛烈な抗議が来たからです。連合国評議会、ノヴィエミスト評議会、ノヴィエミスト高等学院の三者連名で。フレクラントの行商人が大爆発の噂を流布して人心を惑わしていると。今、私と常設警邏隊と各通商組合の幹部とで各地の状況を調べて回っています。私が調べた所では、噂の大本はアンソフィーです。あなたが巨大吸収石を見に行っている間に、スルイスラ壊滅の話をしたようです」

「そんな」と僕は呆れた。「アンのせいだと言うんですか?」

「そこまでは言いません。フレクラント人は精気に敏感なので、ああいう物には本能的に禍々しさを感じてしまう。一方、スルイソラ人は鈍感なので、そこまでの認識には至らない。そこに壊滅の話。だから、両者ともに別の意味で驚きが大きく大騒ぎになった」

「変なことを言わないでください」と僕は不快感をあらわにした。「アンは警告を発しただけ。そもそもアンが話を漏らす前に、すでに大騒ぎになっていた」

「分かっています。状況の推移を述べただけです。アンソフィーの責任を追及する気はありません。今、警邏隊のビエラディエル中隊長が別室でアンソフィーと話をしています」

 ジランさんが飲み物に手を伸ばした。僕も飲んでみると、水やお茶ではなく、口当たりの良い爽やかな混合果汁。さすがに待遇が違うと僕は思った。

「ケイ。あの吸収石はいつまで持つと思います」

「分かりません。設計だけでなく製造技術にもよりますし。でも、今日や明日にもということではないと思います。ただし、遠からず必ず」

「今日や明日ではないとの根拠は」

「何と言えば良いのか……。あの吸収石は澄んだ高音を発していました。つまり、とてもしっかりと作られている。それだけに、逆に怖いと言えば怖いんですけど」

「つまり、緊急ではないが切迫はしている。精気を貯め込めば貯め込むほど、被害は大きくなると……」

「あちらの生命力工学専攻は何と言っているんです。あちらだって専門家でしょう」

 ジランさんはフームと鼻息を漏らした。

「ケイとは全く違う説明をしています」

 既存の照明器では、吸収石内の精気を使い果たすと発光は止まってしまう。つまり、吸収石による精気の吸収よりも発光石による精気の消費の方が速い。新開発の照明器ではその欠点が克服されている。

 吸収石内の精気は高密度状態に達すると、周囲の精気を自ら引き寄せて凝集し始める。この自律凝集によって吸収速度は飛躍的に高まり、発光による消費速度を上回るようになる。それを利用すれば、消えることのない照明器を作ることが可能となる。

 ただし、自律凝集中の精気は極めて危険であり、近傍の人間体内の精気まで吸い込んでしまう。しかし、精気の自律凝集にも吸収石の容量にも限度がある。限度に達すると、精気の自律凝集も吸収石本来の吸収も自動的に停止する。したがって、高密度状態の精気を利用するためには、吸収石が満杯状態になるのを待てば良い。

 吸収石はある程度の大きさになれば、製造途中でも精気の吸収を始めてしまう。製造途中で高密度状態に達するのを防ぐため、新開発の吸収石は従来品よりも低密度状態での吸収が遅くなるよう設計されている。

 仮に吸収石の解体が必要になったら、いったん吸収石を満杯状態にして精気の吸収を停止させ、四方八方から遮蔽材で覆って精気の流入を制限した後に、発光石で吸収石内の精気を消費し尽くせば良い。

「これがあちらの説明です。あなたはどう評価します」

「あちらの説明は従来の生命力方程式に基づくものです。拡張生命力方程式によれば、自律凝集に限度は無く、吸収石の容量を越えても自律凝集は続き、しかも自律凝集は加速する。だから、蓄積し過ぎの状況が発生し、吸収石はいずれ砕けて大変なことになる」

「拡張生命力方程式の方が正しいのですね?」

 僕はわずかに言葉に詰まった。それは速報の審査会でも議論となった部分だった。

「済みません。正確に言います。従来の生命力方程式にせよ、拡張生命力方程式にせよ、高密度状態での有効性は実証されていません」

 僕にとっては初めて目にする光景だった。いつも強気で即断即決のジランさんが頭に手を当ててゆっくりと髪を掻きむしり始めた。

「敢えて訊きますけど、フレクラント国高等学院の生命学専攻の見解は」

 ジランさんは頭から手をのけ、顔をしかめて首を傾げた。

「同じ生命学とは言っても、方向性が違う。それは分かりますけど、こちらに観察にすら来ないんですか?」

「見には来たようです。話は逸れますが、あなたに武闘会への参加を辞退させた者たちは譴責処分としました。調査対象に過誤の説明をして行動を制限した。それが理由です」

 突然の知らせに、僕はエッと声を漏らし失笑した。

「譴責って軽い方ですよね。やはり、その程度で終わりなんですね。あいつらはあれだけ自信と確信を持って僕を罵ったのに、あれはただの手違いだった、勘違いだったと」

「あなたが武闘会で圧倒的な実力を見せ付けたら、不要な魔法開発が始まってしまう。フレクラントの一般人にこれ以上の戦闘力は必要なく、その種の魔法開発は回避しなければならない。その説明にも一定の合理性があると認めざるを得ません」

「連合国評議会議長は僕に言いました。フレクラントにも賞罰の概念はあるのだろうが、実際上は罰しか存在しないと。全く同感です」

 ジランさんの顔に沈痛そうな表情が浮かんだ。

「公的機関の不祥事は官報で公表されます。あなたの魔法技能は当時から平均的な大人の水準をはるかに超えており、競技として成立しなくなるのは明白だった。だから、生命学専攻の調査員たちは無理にでも参加をやめさせようとした。そんな風に官報で告知します。あなたの名誉の件については、それが私に出来る最大限です」

 僕は脱力して溜め息をついた。

「あなたはクレールとマノンに、硬化魔法と強制硬化術は違うと言ったそうですね。やはり、大統領の立場にある者としては知っておきたいのです。どう違うのです」

 その問いはこれで二度目。今はジランさんと二人きり。今回は答えることにした。

「硬化魔法は硬化と強制の二段階からなります。硬化魔法ではその二段階を同時に発動します。一方、強制硬化術では最初に硬化を発動し、あとから強制を加えます。つまり、まずは硬化のみの一段階発動なので、根幹部分の起動と発現が速いんです。かなりの早撃ちが可能になるんです」

 ジランさんは微かに驚く様子を見せた。

「あなたはそれをどこで知ったのです」

「例のカイルの強制硬化術を見て気付きました」

 その時、僕はジランさんの口振りに違和感を覚えた。

「ジランさんは知っていたんですか?」

 ジランさんは答えようとしなかった。つまり暗黙の肯定。

「僕は今、極秘指定の情報を開示しました。ジランさんも答えてください」

 ジランさんはわずかにためらうと、おもむろに口を開いた。

「それは高等学院の極秘指定ですね。大統領府にも独自の極秘指定情報が大量にあります。中には、大統領のみ閲覧可という超極秘文書も存在します。それらの中に同種の話があります。カイルと同じく、エステルも転生を繰り返しています」

 僕は唖然とした。

「あなたなら思念法の気配に気付けるかも知れない。もしエステルを見付けたら、私が話をしたがっていると伝えてください」

「え、ええ」と僕はとにかく了承した。「でも、なぜ急にエステルの話を」

「カイルが現れたから、エステルのことも調べた。エステルはかつて一時期、大統領府の秘密の顧問のような立場にあったらしい。だから大統領の私としては、いるのなら手を貸してほしい。特に今のような時。明かせるのはここまでです」

「この件、他に知っている人はいるんですか」

「私の知る限りでは私だけです。もちろん、あなたは完全に秘匿すること」

 ジランさんは凝りをほぐすかのように肩を動かすと、姿勢を正した。

「次の用件に移ります。法や規則の順守。倫理や道徳の尊重。それらが隅々にまで行き渡った礼儀正しい秩序だった社会。それはどんな社会だと思いますか」

 僕は呆気にとられた。唐突であまりにも大きな話題の転換。こんな時になぜそんな話を。

「平和で穏やかな社会だと思いますけど……」

「理想郷ですか?」

「その一種かも」

「違います。抜け駆けをする少数の者が圧倒的に有利になる社会です」

 僕にとっては全く新しい視点だった。

「でもそれでは、行き渡ったことにはならないのでは」

「行き渡れば行き渡るほど、抜け駆けの効果は高くなる。だから、抜け駆けは決して無くならない。これは数学的にも証明されています」

「ああ。なるほど」と僕は理解した。「極限は超関数。そんな話ですか」

「少なくともフレクラントの専門家の間では常識ですね」

 ジランさんの顔に謎めいた表情が浮かんだ。

「いいですか。ここからは必ず最後まで黙って聞くように」

 僕は頷いた。

「明らかに、あなたは抜け駆けをする人間です」

 僕が反論の声を挙げようとすると、「最後まで黙って聞く」とジランさんは言った。

「白狼の際は指示や合意よりも自分の考えを優先。危険性を指摘されても思念法を追究。蝗退治に使用。あなたは小さな頃から非常に頭が良かったので、教育による無条件の刷り込みが効かなかったのです」

 僕は大きく息を吐いた。その言い方は不愉快。それらは努力や勤勉、創意工夫の一種だろう。だたし、教育による刷り込みなどと意味深長な但し書きを付けられると、一概には否定できないような気もする。

「抜け駆けの例は少数ですが、あなた以外にもあります。例えばあなたへの三級屈辱刑を強要した者たち。誰も怒鳴り返さないのを良いことに、自らは怒鳴り散らす。例えば高等学院の例の生命学博士。誰も言い返さないのを良いことに、自らは皮肉や嫌味を撒き散らす。それをもって他者を圧迫し、心理的に優位に立つ」

 僕は納得して頷いた。それらは間違いなく抜け駆け。

「抜け駆けは逸脱と言い換えても良いでしょう。そして逸脱には二種類あります。自分のための逸脱と、世のため人のための逸脱。あなたは後者の傾向が強い。だから、私たちはあなたを認めているのです」

「要するに」と僕は割り込んだ。「協調的な大勢、趨勢から大きく外れるという意味ですか。でも話の筋が」

「最後まで聞けば分かる」とジランさんは強い口調で言った。「ここからは極秘です。誰にも明かしてはなりません」

 僕は黙って頷いた。

「フレクラント国はこれまで国を挙げてあなたを特別扱いしてきました。ただし、特別扱いを受けた者は、少数ですがあなた以外にもいます。つまり、フレクラント国には一般には知られていないそのような制度があるのです。対象は主に教育による刷り込みが効かない者。あなたの場合は、あの不当な三級屈辱刑によって刷り込みが決定的に壊れてしまいました。あの時に、あなたは国の観察対象に指定されました」

 僕は驚いて、思わず口を挟んでしまった。

「僕はあの時からずっと監視されているんですか」

 その瞬間、ジランさんは溜め息をついた。

「どうしても黙っていられませんか……。まあ、いいでしょう。最後まで聞くのなら。監視ではなく観察です。実は観察という制度以外に、監視という制度もあるのです。例えば、あなたへの三級屈辱刑を強要した者たちは今でも監視対象に指定されています。観察対象は行動を制限されませんが、監視対象は制限されます。観察対象には観察していることを知らせませんが、監視対象には監視していることを知らせます」

「いや。今、知らせているじゃないですか」

「三級屈辱刑の直後に当時のソルフラム大統領があなたを観察対象に指定し、私がそれ引き継ぎ、あなたがスルイソラ連合国に移った時点で指定は解除されました。今回、この件をあなたに明かすよう指示したのはソルフラムさんです」

「何ですか。影の大統領ですか?」

「違います」とジランさんは鼻で笑った。「大統領や副大統領の経験者は、大統領府の公式な相談役であり助言役です」

「でも、国を挙げての特別扱いって……」

「フレクラント人はたった一人で街や村を壊滅させられるほどの魔法力を持っている。だから、一人一人を細かく見ていかなければならない。そういうことの一環です」

「僕はどんな特別扱いを受けていたんですか。冤罪の補償は補償であって特別扱いではないですよね」

 ジランさんは溜め息をついて、呆れたように首を傾げた。

「中地方中等学院にいた間、あなたには無尽蔵に物資を支給しました。例えば筆記具と計算用紙。あなたはたった一人で莫大な量を消費しました。例えば書籍。あなたが興味を示したら、すぐに図書室に揃えました。他には白狼の件。あなたは白狼を看取るために何週間も授業を欠席したでしょう。それでも落第にはならなかった。出欠などは無視して実力自体を評価せよと私が命じたからです。それから、あなたがこの高等学院に提出した推薦書。あなたは中を見ていないはずですが、署名は私と中等学院長が連名で行ないました。一国の長たる大統領がそんな推薦書を書くなんて異例中の異例ですよ」

 僕は呆気にとられた。どれも全く知らなかった。

 ジランさんはそこで言葉を切り、杯に手を伸ばした。僕も混合果汁を一口含み、口と喉の渇きを癒した。確かに大統領は雑用係みたいなもの。決して華やかな地位や職業ではないのだと僕は知った。

「ケイ」とジランさんは穏やかに言った。「実を言えば、私も未成年の間、観察対象に指定されていました。自分で言うのも何ですが、私も頭の回転が速くて、周囲と話が噛み合わずに苛立つことが多かったのです」

 僕は思い出した。確かに、ジランさんは苛立つことが多い。

「ケイの場合は学院の先生に時々注意されるぐらいで、あとは放任だったでしょう。ケイにとっては、標準化された教育など抑圧でしかない。ケイにとっては、躾という教育法など反知性主義以外の何物でもない。そう判断された結果です。それに比べて、私の場合は笑いも涙も出やしません」

 ジランさんは何かを思い出したかのように、ゆっくりと首を振った。

「ケイ。ざまを見ろとでも言ってみなさい」

「ざまを見ろ」

「あとで覚えておきなさい」

 僕は舌打ちした。

「でも、ジランさんは大統領にまでなったじゃないですか」

「法や規則を盲目的に順守する者は中統領以上、特に大統領にはなれないのです。だから、私に椅子が回って来た」

「規則上、そうなっているんですか」

「暗黙の了解です。反知性的形式主義は発展の阻害要因です。そういう者たちが力を持ったら、国は停滞し衰退してしまいます。私の言っていることは分かりますか」

「はい。でも、刷り込みの件とは話が逆になっていませんか」

「安定のためには、まずは盲目的順守が必要なのです。そしてどうしても、多くの者はそこから建設的に脱却できない。建設的に脱却できないのなら、安易に脱却させる訳にはいかない。世を平穏に保つことと発展させること。相反する面があって、両立は本当に難しい。歴史上、その種の社会構造を発展的減衰振動に持ち込むことに成功した指導者は白狼の騎士ぐらいです。今の世にいたら教えを乞うてみたいものです」

 ジランさんは随分と聞き慣れない話をしていた。僕はふと思って尋ねた。

「もしかして、ジランさんも社会学か何かの博士ですか?」

「知らなかったのですか? スルイソラには統治者の資格に関する規定があります。それを押し付けたのはフレクラントですよ」

 僕は肩をすくめた。

「マノンやクレールとは上手くやっていますか。以前の二人は逸脱など到底出来ない善良で平均的な人間でした。だから三級屈辱刑の時、大人しく傍観してしまった」

「もしあの時、僕が両親の立場にあったら、僕は規則や職業倫理なんか無視して、調べて回って、訴えて回ったと思います」

「そうでしょうね。あの後、クレールはソルフラムさんに呼び付けられて散々罵倒されました。お前は実直だけが取り柄の小心兎かと。私もその場にいましたが、あれは怖かった。でも、あれでクレールは変わりました。エスタスラヴァの政変の際は立派でしたね。いかにもソルフラムさんを手本としたことが分かる大活躍でした」

「母は何も変わっていませんけど」

「マノンは高等学院を頂点とする研究教育機関の一員ですから、ソルフラムさんが直接に指導する訳にもいかず、マノンに忠告する者はいなかったのでしょう。それでも、マノンが善良であることは間違いありません」

「正直に言って、僕には親子関係というものが理解できないんです」

 ジランさんは怪訝そうに僕を見詰めてきた。

「僕はもはや両親を中立の第三者と同列にしか認識できないんです。これは客観的な分析であって、怒りや不快感の表明ではありません。そこは勘違いしないでほしいんですけど」

「反知性的ですが、敢えて言います。何も考えずに私の言葉を信じなさい。クレールとマノンは善良な人間です。二人と上手くやりなさい」

「一般論として、その忠告に異存はありません」

「全く、もう」とジランさんは苛立ちをあらわにした。「あなたの頭は糠床ですか。あなたは誰のおかげで結婚できたのです。アンソフィーがエメリーヌに漏らし、エメリーヌがマノンに伝え、マノンがクレールに持ち掛け、クレールがソルフラムさんに相談し、ソルフラムさんが私に頼み、私がエスタコリン側に働き掛けた。全員に感謝しなさい。さっさとひれ伏して回りなさい」

 僕は愕然としてウッと呻いた。

 そして、ジランさんがアルさんに働き掛け、アルさんがアイナ様に勧め、アイナ様がアンに命じた。全員にひれ伏して回るべきはアンだろう。あの狸。やはり狸。薄々感じてはいたけれど、アンのやる事なす事、結局は全てがアンの望み通りに進んでいく。

 そんなことを思いながらも、僕は椅子に座ったまま深々と腰を折り、眼前の長机の上面に額をぶつけた。

 何となくジランさんの言葉に鋭さが無くなってきた。用件は済んだのだろうか。僕は額をさすりながら尋ねた。

「ところで、今の話と巨大吸収石の件には何か関係があるんですか」

「もちろんです。あなたは現在、間違いなく生命力工学の有力な研究者の一人です。それだけに、言動に影響力があるのです。しかし、一言『言動に注意』と言ったところで、あなたには効かない可能性がある。だから、逸脱と観察の件を明かしたのです。今、スルイソラ連合国は揺れています。場合によっては内乱が発生します。あなたが善意の人間であることは知っていますが、独断、抜け駆けは絶対にしないでください。しばらくの間、ナギエスカーラにビエラディエル中隊長以下数名の常設警邏隊員を配置します。何かを思い付いたら、必ず隊員たちと話し合ってください」

 事の重大性は理解できた。僕は素直に了承した。

「さて」とジランさんは言いながら腰を上げた。「私はもう行きます。ノヴィエミストを避けて迂回路を設定するとしたら、どこが良いでしょうね」

 僕も腰を上げた。

「西方域の中心都市クスヴィシュトロームはどうです」

 エッとジランさんは動きを止めた。

「そこまで迂回しないと駄目ですか」

 これが僕の発言の影響力。そう気付いて、すぐに補足した。

「いや。そういう意味ではなく。ついこの間、西方域評議会の議長と通商関連の話をしたんです。議長はとても真剣に言っていました。フレクラントの行商人にはもっとクスヴィシュトロームにも来てほしいと」

 ジランさんは溜め息をつき、「分かりました」と言い残して部屋から出ていった。

 

◇◇◇◇◇

 

 秋第一週第三日、ジランさんの来訪の翌朝。イエシカさんは薄着姿で大の字になり、アンの箪笥にへばりついていた。

 家に持ち帰った精気視認器を用いて、一定の距離から僕が観察そして記録。次いでアンも別個に観察そして記録。巨大吸収石に魂を吸われかけてからちょうど五日。イエシカさんは腕も含めて、それなりに人型に映るようになっていた。

「イエシカさん。順調です。完熟も近い」

 僕がそんな軽口を叩いた時だった。玄関を叩く音が聞こえた。出てみると、エスタコリン王国中央政庁ナギエスカーラ出張所の職員を名乗る男。職員はイエシカさんとの面会を求めてきた。

 僕とアンが朝食の準備をするかたわら、玄関口ではイエシカさんと職員が少々深刻そうに話し込んでいた。そんな中、退避命令という言葉が聞こえてきた。

「あのう」と僕は話に割り込んだ。「中に入ってください。さっきから話は聞こえていたんですけど、イエシカさんは今日付でナギエスカーラ出張所に転属となる。それはノヴィエミストからの退避なんですか。訊いてもいいですよね。巨大吸収石の件については、エスタコリンとフレクラントはお互い様でしょう」

「いいでしょう。サジスフォレ殿」と職員は応えた。「その通りです。本日早朝、本国から緊急に命令が届きまして……」

 スルイソラ連合国中方域に在住するエスタコリン人は全員、二日以内に首都ノヴィエミストを離れ、五日以内に中方域の外へ出ること。退避先としては北東方域もしくは南方域を推奨。そこには中央政庁の出張所がある。その際、エスタコリン王国のために働いているスルイソラ人も希望すれば同道すること。北東方域と南方域の出張所は受け入れの態勢を整えること。

「うちの所長からの伝言ですが、体調に支障が無ければ、ヴェストビーク殿は今日中にノヴィエミストから私物を持ち帰り、明日から出勤してもらいたいとのことです」

「分かりました」とイエシカさんは力強く答えた。

「今日の往復のために、すでにフレクラントの行商人の手配を済ませてあります。ノヴィエミストに着いたら、あちらの状況の確認もお願いします」

「あのう」と僕は声を掛けた。「退避命令を出したのは誰ですか」

「王家のエルランド殿下です。中央政庁と王家を合わせても、生命力工学の専門家は殿下しかおられません。そのため、この件に関しては殿下が全権を握ることとなったようです」

 僕は感嘆した。さすが白狼の騎士。とてつもなく速い権力掌握。とてつもなく速い決断。疑いようもなく統治者としての格が違う。そして、殿下も拡張生命力方程式の方が正しいと認識している。

「サジスフォレ殿。フレクラントの方ではどうなっているのでしょう」

「まだ、巨大吸収石への接近禁止だけです。今は南北の行き来の迂回経路を策定している段階のようです。中央政庁はフレクラントの第一種行商人と専属契約を結んで働いてもらっているでしょう。中央政庁からその人たちへの指示は」

「詳しいことは分かりませんが、エスタコリン本国から南都ナギエスカーラまでは内陸に入らず東海沿いをと指示されているようです。所長から訊いてくるよう言われたのですが、サジスフォレ殿も専門家。どう判断されます。被害は本当にそんなに大きくなるのでしょうか」

「多分、とにかく安全第一。そういう意味だと思います。現状では、仮に巨大吸収石が爆発したとしても、中方域全体が壊滅するとは僕には思えません」

「しかし、少なくともノヴィエミストからは避難した方が良いのですね」

「少なくとも徒歩で一日の圏内からは退避して、しばらく様子見。もちろん、エスタコリンの方々は殿下の指示に従うべきだと思います」

「様子見の期間は」

「正確なことは言えませんが、例えば六週間。その間、随時再検討」

「事態は切迫しているのでしょうか」

「今日や明日にもという状況ではないと思います。昨夜イエシカさんに話しましたから、詳しいことはあとでイエシカさんの方から」

「分かりました。ヴェストビーク殿は準備ができ次第、出張所の方へ。それでは」

 職員はそう言うと、そそくさと去っていった。

 僕はこっそりと舌打ちした。昨日、ジランさんに長々と厳命されてしまった。勝手に動くなと。例えばノヴィエミスト師範学校付属初等中等学院。魔法実技担当のあの先生はエスタコリン人だから退避する。子供たちはどうなるのだろう。寄宿舎の管理人夫妻も。

 午前の講義をすっぽかしたら、勝手に動き始める前兆と疑われて、僕は本格的に行動を制限されてしまうだろう。仕方が無い。午前の講義にはきちんと出て、午後になったら常設警邏隊の中隊長に相談しに行こう。僕はそう思った。

 しかし午後。エリク先生に断りを入れて、フレクラントの行商人御用達の宿屋へ行ってみると、隊員は全員不在。警察隊本部かも知れないと示唆されて行ってみても、一人も見当たらず。ならばナギエスカーラ評議会。やはり同様。全員、忙しく飛び回っているようだった。仕方が無い。いったん学院に戻って、夜になったらもう一度宿屋へ行ってみよう。僕はそう思った。

 そして夜。ようやく会ってみれば、返って来たのは冷静ともつれないとも言える言葉。現時点では学生の僕やアンが動き回る必要は無い。皆だって無能ではないのだから。言われてみれば、それはその通り。仕方が無い。家に帰ろう。僕はそう思った。

 

◇◇◇◇◇

 

 秋第一週第四日、巨大吸収石騒動の勃発から六日目。家の中はイエシカさんが持ち帰って来た荷物で足の踏み場も無い状態になっていた。とは言っても、荷物の半分以上はスルイソラ連合国各地の民芸品。イエシカさんは仕事のかたわら収集に励んできた様子だった。

 イエシカさんによれば、南都ナギエスカーラに避難してくるのは二十人前後。エスタコリン関係者の多くは本国に近い北東方域へ、もしくは民間の伝手を頼って東方域へ向かう見込みとのことだった。この程度であれば、住居の手当ても容易。自分の住処も早急に探してくる。そう言って、イエシカさんは朝早くに出勤していった。

 午前の講義が終わり、環境生命学研究室でアンと待ち合わせ。研究室に荷物を置いて二人で学院の食堂へ向かおうとした時だった。エリク先生が現れ、会議室に集合と声を掛けてきた。

 生命学系の会議室には、生命学専攻、生命力工学専攻、魔法医術専攻の各主任、常設警邏隊のビエラディエル中隊長が待っていた。皆の手元には弁当。僕たち三人の分も用意されていた。

「時間が惜しいので、食べながら話を進めましょう」と中隊長は言った。「皆さんをお呼び立てしたのは精気視認器の件です。誰でも使える改良型が四台完成したと聞いたのですが、一台使わせていただけないでしょうか」

「用途は」と生命力工学専攻の主任が尋ねた。

「例の巨大吸収石を毎日定時に観察し、状態の変化を調べます」

 先生方の顔に困惑の表情が浮かんだ。

「皆さんもノヴィエミストの混乱を聞いておられるはず。対処するためには、とにかくまずは観察。事の重大性は御理解いただけると思いますが」

「それは分かります」と生命力工学専攻の主任が答えた。「ただし、使い物になるかどうかは分かりません。サジスフォレ君は蓄積された精気の噴出を懸念しています。我々も同意見です。となると、観察はかなり離れた場所から行なうしかありません。しかし、そこまでの感度があるかどうか」

「無理なのでしょうか」

「改良型の感度はサジスフォレ君の原型器の約百倍です」

 中隊長は「素晴らしい」と本音ともお世辞ともつかない声を漏らして首を傾げた。

「我々も知恵を出し、サジスフォレ君もさらなる知恵を出し、そこまで感度を上げました。しかし、それはまずは医術での使用を念頭に置いたもの。例の吸収石の観察にはいかにも中途半端。これが感度千倍なら自信をもって役に立つと言えるのですが」

「感度百倍の厳密な定義は」

「原型器に四十歩の距離から映る物は、改良型には四千歩の距離から映る」

「それなら十分に役に立つと思います」と中隊長は意気込んだ。

「中隊長」と僕は口を挟んだ。「精気視認器は感度の限界ぎりぎりの所で使う物ではないんです。だから、実際にはもっと近付かないと」

 中隊長は僕に向き直った。

「そうではないんだ。精気を貯め込めば貯め込むほど、遠くから見えるようになるのではないか? それなら、見える限界の距離を毎日定時に調べれば良い。そうすれば、貯め込めば貯め込むほど、遠くから観察することになる。問題はそれで十分に離れたことになるのかだが、噴出に備えて遮蔽材で盾を作ってもらえないだろうか」

「現在、あの吸収石は遮蔽材で囲われているので、どれだけ貯め込んでいるのかは良く分からないと思います。分かるとしたら、建屋上部からの吸い込みの勢いでしょうね。それを観察するだけでも意味があるとは思いますけど」

 僕がエリク先生に目を遣ると、先生は黙って頷いた。

「分かりました」と生命力工学専攻の主任が了承した。「とすると、魔法医術専攻の方から一台……」

 僕の聞いている所では、一台は生命学専攻と生命力工学専攻で共用、二台は魔法医術専攻で試用し、最後の一台は連合国西方域評議会へ送ることになっていた。

 魔法医術専攻の主任は渋々ながらも頷き、「ところで」と言った。

「ノヴィエミストの様子はどうです。もし被害が出たら、我々が駆け付けることになる」

「それが」と中隊長は顔をしかめた。

 エスタコリン関係者が退避の準備を始めた。それを知った住民たちは動揺している。ノヴィエミスト評議会と高等学院は、心配無用と告げて回っている。突然のことでもあり、住民の多くは半信半疑で街にとどまり続けている。

 ノヴィエミスト高等学院が恒久照明計画を立案したのは約十年前。ここ二十年、ノヴィエミストの生命学系はナギエスカーラに後れを取っている。それを挽回しようと計画を秘密裏に進めてきた。設計と試作を繰り返した後、あの巨大照明器を製作し始めたのは約一年前。巨大吸収石内の精気が高密度状態に達したのは約二週間前。容量の限界に達するのは約三週間後の見込み。実証実験が済んだら、さらに製作して街中に設置する予定となっている。

 ノヴィエミスト評議会はフレクラント国とエスタコリン王国に激怒している。恐れて逃げ出すのは勝手だが、なぜ騒いで人心を惑わすのかと。騒動による経済的損失は莫大なものになるだろう。実証実験の終了後、その賠償をしてもらう。

「我々に言わせれば」と中隊長は舌打ちした。「それは言い掛かりだ。フレクラントの接近禁止令にせよ、エスタコリンの退避命令にせよ、誰にも知られずに出来る訳が無い。それなら、はっきりと理由を説明した方が良いに決まっている。いや。当然そうすべきだ」

 中隊長はそんな風に吐き捨てると、アンに声を掛けた。

「エペトランジュ君。君の所にエスタコリン中央政庁のヴェストビーク殿がいるだろう。昨日ノヴィエミストに行ってきたようだが、何と言っていた」

 急に指名されて、アンは「あっ。はい」と驚く様子を見せ、すぐに説明を始めた。

「評議会や高等学院に関しては確かにそのような話を聞きましたが、街の様子は少し違うようです。今のところ、真剣にとらえている住民はほとんどいないという……」

 皆の間からエエッと驚きとも呆れともつかない声が上がった。皆のそんな様子を窺いながらアンは言葉を続けた。

「イエシカ殿は中央政庁の出張所と民間のトロンギャアンケ商会などが掻き集めた資金をノヴィエミスト在住のエスタコリン人に無償で貸し付けて回ったそうですが、その際、街のあちらこちらで連合国人の住民からそんな印象を受けたようです。ですから、騒動と言うよりは、大きな噂になっていると言う方が正確かと」

 皆、溜め息をついた。

「中隊長」と生命力工学専攻の主任が言った。「連合国内の他の地域の状況はどうなっているのでしょう」

 その瞬間、中隊長は何かに思い当たったかのようにアアと声を漏らした。

「複数の方域が軍の再編の動きを見せています」

「そんな……。どの方域です」

「動きと言っても検討に入っただけ。実際に人を集め始めた訳ではありません。北方域、西方域、南方域、南西方域……」

「ここもですか」

「軍としか言いようが無いので軍と言っただけです。もし大惨事となれば、大量の避難民がやって来る。その受け入れと治安の維持に人手が必要となる。逆に、救援のために中方域へ人を派遣する必要も出てくる。そのため、警察隊の一時的な拡充を検討する。これは北、西、南が我々の警告を真剣に受け止めた結果です。と言っても、各方域ともノヴィエミストからの退避勧告を出すまでには至っていない。その程度の認識ですね」

「南西方域は」

「あそこだけは本気も本気。巨大照明器を破壊するために、ノヴィエミストに侵攻するつもりだったようです。無理だと説得してやめさせましたが」

「二千年振りの軍事か……。あの人は何をやっているんだ……」

「あの人とは」と中隊長は訝しげに尋ねた。

「南西方域評議会議長。私も南西方域の出身で、あの人とは知り合いです。この高等学院では、あの人は私の二学年上でした」

 生命力工学専攻の主任はそう言うと、溜め息をついて大きく首を振った。

「中隊長」と僕は口を挟んだ。「どうやって破壊すると言うんです。参考までに聞かせてください」

「投射機で金属製の砲弾と銛を撃ち込む。しかし、安全な距離からでは到底届かない」

 魔法ではなく、物理的な力による破壊。僕は納得した。

「恒久照明計画か……」と魔法医術専攻の主任が呟いた。「成功すれば歴史に残る偉業。失敗すれば歴史に残る惨事。一種の過失なのだろうが、たちの悪い話になってしまったな」

「お粗末な話だ……」と生命力工学専攻の主任が呟いた。「ああいう物は常に人の制御下に置かなければならない。それを満杯になるまで放置とは」

「あと三週間……」と生命学専攻の主任が呟いた。「従来の生命力方程式による予想が三週間なら、拡張生命力方程式が正しければもっと早くなる。拡張生命力方程式によれば凝集は加速するのだから。早急に加速の有無を調べる必要がある。それではっきりする」

 程なく話はまとまった。精気視認器の使用に慣れているのは僕とアンとエリク先生。しかし、エリク先生は空を飛べない。そのため僕とアンが観察役となり、これから三日間、毎日午前と午後の一回ずつ、ノヴィエミスト方面へ赴いて巨大吸収石を観察する。その間は学業を疎かにすることになるが、状況が状況。先生方が学院評議会に掛け合ってくれることになった。

 環境生命学研究室に戻って第一回目の観察の準備をしていると、部屋まで付いてきた生命学専攻の主任が注意を促してきた。

 巨大照明器の建屋は円筒形ではない。そのため、観察点から建屋への方位が変わると、見え方も変わる可能性がある。観察時刻や建屋との距離については、多少の誤差は問題ない。凝集が指数関数的に加速するようなら、誤差など関係なくそれは明らかになるだろう。

 第一回目の観察隊は、僕、アン、ビエラディエル中隊長の三人。エリク先生に「くれぐれも気を付けるように」と念を押され、僕たちは学院を飛び立った。

 南都ナギエスカーラから首都ノヴィエミストまでは徒歩で二泊三日強の道のり。どこまでも街道が続き、所々に小さな街や村。地上の様子に特に変化は見られなかった。

 地図と方位磁石を頼りに高空帯を飛び続け、ノヴィエミストまで徒歩で数時間の距離となった時、ようやく精気視認器に巨大照明器が映った。ところがやはり、感度の限界での観察は難しかった。映っているのか、いないのか。その境を中々上手く判別できなかった。

 巨大照明器に近付いてみたり離れてみたり。そんなことを繰り返していると突然、僕たちのそばで小さな光爆が起きた。辺りを見回してみると、弱々しい光球が約十個、地上付近を乱雑に飛び回っていた。

 どこかの集団が僕たちを呼んでいる。そう判断して、僕たちは街道に降り立った。

「ケイちゃん」

 そう叫んで、女子が駆け寄ってきた。その背後には、ノヴィエミスト師範学校付属初等中等学院の生徒たち、魔法実技担当の先生とその奥さんと思しき人、さらには寄宿舎の管理人夫妻。皆、体格相応の背嚢を背負っていた。そして、制服から明らかにそれと分かる警察隊員五名。警察隊員は全員、乗用の馬を連れていた。

「良く僕だと分かりましたね」

 そう声を掛けると、先生たちは安堵の様子を見せた。

「衝突防止の警告用光球を飛ばしていただろう。その色で君だと気付いた」

「皆さんはナギエスカーラへ避難ですか」

「生徒たちが君のいる所の方が安心できると言うので」

 その時、警察隊員が横柄な態度で会話に割り込んできた。

「君は何者かね」

「僕はケイ・サジスフォレ。フレクラントの魔法使い。ナギエスカーラ高等学院の学生で、生命学系の研究者です」

「そうか……。君が例の流星の魔法使いか……。この件は君には関係ない。この者たちには誘拐の嫌疑がかかっている」

 僕が「ん?」と首を傾げると、僕の脇に中隊長が立った。

「穏やかならぬ話だが、事情を聞かせてもらえないだろうか」

「君は?」と警察隊員は忌々し気に尋ねた。

「私はブレソル・ビエラディエル。フレクラントの常設警邏隊で中隊長を務めている」

「中隊長……」と警察隊員は呟き、鼻で笑った。

 どうやら階級や年齢差に対する認識が不足している模様。中隊長は自ら説明するだろうか。そう思って顔色を窺ってみたが、その気配は無かった。代わりに僕が告げた。

「大昔、連合国の七方域にはそれぞれ軍があったでしょう。今は規模を縮小して警察隊になっていますが。常設警邏隊の中隊長はそれら方域軍の総司令官に相当。その上の大隊長は連合国全体の総司令官に相当」

 その瞬間、警察隊員たちの顔に驚きの表情が浮かんだ。

「失礼しました。中隊長殿。我々は連合国中方域警察隊ノヴィエミスト本部所属の……」

 警察隊員たちは次々に氏名と階級を申告すると、中隊長に向かって敬礼した。

「私に事情を聞かせてもらえないだろうか」

「承知しました。中隊長殿」

 状況から容易に推測できる通り、先生夫妻の退避に合わせて皆も付いてきた模様。しかし、先生夫妻や管理人夫妻はともかく、生徒たちは付属初等中等学院の保護下にある。そのため形式上、学院は誘拐として警察隊に届け出たとのことだった。

「ちょっと訊きたいんだが」と中隊長は先生に尋ねた。「生徒たちは勝手に付いてきたんだね?」

「いや。そういう言い方は」と先生は気色ばんだ。「私はエスタコリンの貴族の出。その矜持に懸けて、生徒たちを見捨てることなど到底……」

「言い方が悪かった。付いてきたのは当人の意思であり、強要した訳ではないんだね?」

「強要はしていませんが……」

 中隊長は警察隊員たちに向き直った。

「だとしたら、これは誘拐ではなく、家出のたぐいだろう。嫌疑違いだ」

「ですから、中隊長殿。我々としては生徒たちを返してもらえればそれで良いのです」

 生徒たちの間から、「やだ」、「一緒に行く」などと声が上がった。

「誰か」と中隊長は生徒たちに呼びかけた。「今回の家出の理由を説明してくれないか。どんな細かい話でも良いから」

 その問いに応えて、見覚えのある最年長男子が進み出た。

「以前にケイ君がやってみせてくれたんですけど、魔法力を凝縮させるとキーンという甲高い音が出ますよね。それとそっくりな音が西の丘の方から聞こえてくるんです」

 僕はアンや中隊長と顔を見合わせてしまった。

「ケイ君は最後に魔法力の塊が弾け飛ぶ所まで見せてくれたんですけど、同じことが起きたら怖いし……。それに夜はあの音のせいで良く眠れないんです」

 初めて高音が聞こえたのは三日前の夜。その時は風向き次第で聞こえたり聞こえなかったりと、かなり弱い音だった。しかし、日を追うごとに強くなり、昨夜はずっと聞こえ続けていた。

 師範学校は街の西外れにある。その西方、少し離れた所に巨大照明器の丘。そのため、街中ではそれほどでもないが、師範学校や付属学院ではかなりの噂になっている。寄宿生ばかりでなく、外から通っている学生や生徒たちも浮足立っている。

「それで、自宅から通っている同級生たちも何人か、一緒に行きたいと言っていたんですけど……」

「さすがにそれは無理でした」と先生が言った。「他の生徒たちは親の保護下にありますから、それこそ勝手に連れ出す訳にもいかず……。親たちにエスタコリンの退避命令の内容を説明して、とにかく街を離れて少し様子を見たらどうかと勧めるのが精一杯でした」

 中隊長がウーンと唸った。アンが「凝集が進んでいる」と囁いてきた。

「あの……」と管理人の旦那さんが口を開いた。「この子らには事情があって、この子らの保護者は付属学院議長と私ら寄宿舎管理人ということになっているんです。法的に正式に。だから、議長さんは駄目と言いますが、私らが一緒に行くのなら……」

 中隊長は「なるほど」と頷くと、警察隊員たちに向き直った。

「諸君。私に言わせれば、君たちのやっていることは向きが逆だ。子供たちがノヴィエミストから離れたいと思うのは当然だ。生活に支障を来すほどの環境の悪化。それに対する師範学校の無策を問い質すべきだ」

「それは私たちの任務では……」

「もし、この生徒たちの方が先に付属学院からの虐待等を訴えていたら、君たちは今頃付属学院の方を調べていたのではないか? 耐え難い高音を聞かせ続けるなんて虐待だろう」

「仮定の話には答えられません」

「中方域警察隊では、自分で考えて上司に具申してはいけないのか?」

「いえ。そういう訳では……」

「君たちにも家族がいるんだろう? 君たち自身と家族の安全。安全策という考え方もあるはずだ」

「それは我々にも逃げ出せと?」

「警察隊員なら警察隊員らしく逃げ出すのは最後だ。ただし念のため、家族や知り合いには退避を勧めたらどうだ」

「本当にあの地上の灯台は爆発するのでしょうか」

「それを今調べている。しかし、音だけでも大問題だろう」

「爆発するとしたら、いつぐらいに」

 その問いに、中隊長は僕に目を向けてきた。

「正確に言います」と僕は前置きした。「ノヴィエミスト高等学院の見解では、あの巨大照明器は爆発せず、約三週間後には正常に作動するようになる。ナギエスカーラ高等学院の見解では、爆発の可能性があり、もし爆発するのならもっと早くなる。フレクラント国とエスタコリン王国はナギエスカーラ高等学院と同意見。つまり、爆発の可能性あり」

「早くなるとは具体的には」と警察隊員が尋ねてきた。

「それを今調べているんです。いずれにせよ、三週間もすれば結論は出る、もしくは三週間もしない内に結論は出る。様子見は離れた所からお早めに」

「お早めにとはいつまでに」

「数日以内。なるべく早く」

「離れた所とはどの辺り」

「少なくともノヴィエミストから徒歩で一日の距離。状況に応じて、追加の退避が必要になるかも知れない。最高の安全策はエスタコリン王国の退避命令に従うこと」

 警察隊員たちは口を閉ざすと、各々考え込んでしまった。

「諸君」と中隊長は言った。「この一行は逃げも隠れもしない。君たちは街に帰って、直ちに上司と話し合った方が良い」

 警察隊員たちは互いに顔を見合わせた。

「命を賭して弱きを守る。古来、それがスルイソラの男の誇りだったはずだ。良く考えたまえ。君たちは今、何を守るべきなのかを」

 警察隊員たちは中隊長の言葉に頷くと、馬に跨り、街の方へ駆け去っていった。

「さて御一行」と中隊長は言った。「退避すると決めたのならさっさと退避すべし」

 先生夫妻と管理人夫妻が僕たちに向かって頭を下げ、生徒たちを急き立てた。最年少女子が僕に言った。

「ケイちゃん。皆も助けてあげて」

 この子はかつて虐待を受けていた。その結果、師範学校に引き取られることになった。そんな子がこんな風に気を遣う。僕は「分かった」と力強く頷いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 そこはかとなく冬の色が見え始めた季節の変わり目。西の地平に陽が沈もうとしていた。周囲の草原には体を休める羊や山羊、そして馬。草を平らげた広場には天幕が点在し、その中央には穏やかな焚火。青き白鳥の一族の大半が集い、先ほどからお婆様の言葉に耳を傾けていた。

「息子たちよ、甥たちよ。その妻たちよ、子供たちよ。昔々、はるかな昔……」

 我が一族に勇者が現れた。

 ある日、勇者は傷付き弱り果てた狼に出くわした。心優しき勇者は狼の飢えと渇きを癒してやり、その精気を蘇らせた。すると、狼は神の使いと名乗り、名無しであった我が一族に青き白鳥の名を授け、いずこへともなく去って行った。

 その後、勇者は近隣の名無しの部族どもを取りまとめ、最後には大平原の全てに秩序と平穏をもたらした。三方を山に囲まれた大平原。人の脚をもって東西には百五十日、南北には五十日。人々は身の危険を感じることなく大平原を行き来できるようになり、物は行き渡り、知識は知れ渡り、血縁は隅々にまで広がった。

 しかし勇者も人の子。老いには勝てず、遂にその時がやって来た。多くの者が見守る中、勇者が最後の息を吐くと、どこからともなく狼が現れた。狼は勇者を背に乗せると、天に駆け上がって姿を消した。皆は勇者が神の元に召されたことを知って安堵した。

「息子たちよ、甥たちよ。その妻たちよ、子供たちよ。それからどれほどの時が経ったのだろう。今や秩序は緩み、もはや平穏とは言えぬ世になってしまった。しかし、我らは青き白鳥の一族。決してその誇りを失ってはならぬ」

 お婆様の戒めに、一族の長たる父が頷いた。

「はい。お母様。我らは決して神より与えられた名を汚しはしません」

 お婆様が大きく頷き、お婆様の独り語りはそこで終わった。

 翌朝、いつも通りの一日が始まった。女たちは母山羊の乳を搾り、男たちは羊やその他の山羊を草原に放つ。そんな中、父と叔父がお婆様と共に馬に跨り、西へ向かって行った。

 夕方、食事の場に父と叔父はいても、お婆様の姿は無かった。誰に尋ねても、皆は僕を無視するばかり。僕は胸騒ぎを覚え、深夜に独りで天幕を抜け出した。

 雲一つ無い大平原の夜。月明りは無くとも、天の川の輝きが大地を照らしていた。目を凝らして中空中速飛翔を続け、灌木が生い茂る丘に差し掛かった時だった。小さな焚火の灯りを眼下に見付けた。頂に近いわずかに開けた場所。僕はその傍らに降り立った。

 大平原の夜は冷える。それに加えて冬の気配。星々の光は寒々としていた。お婆様は毛皮に包まり、独りぽつんと焚火の脇に座り込んでいた。

「お婆様。なぜ一人でこのような所に」

「おや、おや。これでは別れがつらくなってしまうだろう」

 意味が分からず僕が首を傾げると、お婆様は笑みをこぼした。

「せっかく、生まれて初めて独りの時を楽しんでいたというのに」

「お婆様。意味が分かりません」

「人は生まれてから死ぬまで働き続けるもの。私はもうじき六十歳。働けなくなった者を養い続けることなど出来ないのだよ」

 驚愕の返答に僕は身震いした。

「私はこれまでまっとうに生きてきた。きっと遠からず立派なお迎えが来て、神様の元へ連れて行って下さることだろう。それとも、お前さんがお迎えなのかい」

「お婆様。皆と共にあって、天寿を全うすべき。かの勇者がそうだった」

 お婆様は鼻で笑うと、小枝で焚火をつついた。

「私は他所から青き白鳥に嫁いだ身。ましてや、私は勇者様ほど偉くない」

「偉いか偉くないかなど関係ない」

「私は子供を七人産んだけど、残ったのは息子二人と娘一人。他は十五を迎える前に死んでしまい、夫もすでに亡くなった。このように老いを迎えられただけで私は本当に幸せ者」

「そのことと天寿には何の関係も無い」

「お前さんは優しいね。でも、私ももうつらいのだよ。頭が曇って良く考えられないし」

 僕はお婆様に歩み寄り、その頭に手を当てて治癒術を掛けた。

「目も霞んで良く見えないし」

 僕はお婆様の両目に治癒術を掛けた。

「腰も痛むし膝も痛むし」

 僕はお婆様の腰と両膝に治癒術を掛けた。

「それに……」

「ええい。面倒臭い」

 僕はお婆様の全身に治癒術を掛けた。

 その時、少し離れた所から藪を掻き分ける音が聞こえてきた。焚火の灯りに慣れた目に夜の闇はあまりにも暗く、僕は身構えたまま音の正体が姿を現すのを静かに待った。

「おや、おや。キルヌにイリナ。これでは別れがつらくなってしまうだろう」

 僕の弟と妹。弟のキルヌは石斧と背嚢を、妹のイリナは背嚢を背負っていた。

「こんな夜中に馴染みのない原野に分け入って、足をくじいたりはしなかったかい」

「大丈夫です。お婆様」と弟のキルヌ。

「お別れは嫌です。お婆様。帰りましょう」と妹のイリナ。

「夜中に抜け出して、誰かに見咎められなかったかい」

「良く分かりませんけど」とキルヌは首を傾げた。「皆が眠ってからこっそりと抜け出してきましたから……」

「こんな所まで歩いてきたのかい」

「はい」とイリナは頷いた。「東にあった星々も頭の上にまで動いてしまいました」

 お婆様は笑みをこぼして溜め息をついた。

「二人も知っているだろう。これは古くからの仕来り。仕方が無いのだよ」

「お婆様のお世話は私がします」とイリナ。

「僕もお世話しますから、お婆様、さあ帰りましょう」とキルヌ。

 弟のキルヌは石斧で地面を掘ると、焚火に土をかぶせて火を消した。星明りに目が慣れるのを待ち、キルヌは有無を言わさずお婆様を背負った。妹のイリナはお婆様のわずかな荷物を背嚢に押し込み、キルヌの石斧と背嚢も重ねて背負い、その後を追って行った。

 二人は健脚。この場所に心当たりもあったに違いない。それでも、ここまで来るにはかなりの時間が掛かったはず。帰り道、二人の脚は持つのだろうか。夜行の獣も徘徊するこの原野。二人がいなければ、僕が背負って空を飛んでしまう所なのに。僕よりも決断の速い心優しく果敢な二人。仕方が無いと僕は思い、お婆様、キルヌ、イリナ、そして荷物にこっそりと軽く強制浮揚術を掛けた。

 東の空が白み、野営地が見え始めた頃だった。一族の男たちが馬で駆けてきた。

「お前たちは何をしているのだ」と父が大声で詰問してきた。

「お父様」と弟のキルヌは叫び返した。「僕は神の声を聞きました」

 父たちは驚きをあらわにした。

「お父様」と妹のイリナも叫んだ。「お婆様は青き白鳥の一族と共にあり続けるべし。神様はそうおっしゃいました」

「本当か」と父は尋ねた。「本当にお前たちは神から言葉を預かったのか」

 キルヌとイリナは同時に頷いた。僕は呆れると同時に感心した。僕であれば理をもって説得に当たる所。二人で口裏を合わせるなんて、嘘も方便とはまさにこのこと。

 父たちが顔を見合わせた。首を傾げた。溜め息をついた。

「分かった」と父は言った。「夜通し歩き続けて疲れただろう。今日は一日、休むが良い」

 野営地に戻って天幕の中で睡眠を取っていると、しばらくした頃、起きるようにとの声が聞こえてきた。天幕の外へ出てみると、太陽は天頂を越えた頃。母は、夜に眠れなくなってしまうと困るからと言った。

 さすがにお婆様には疲労の色。しかし、弟のキルヌと妹のイリナは十四歳。徹夜の後とは思えないほどに溌剌としていた。四人揃って山羊の乳から作った乾酪を食べ、乳清を飲んでいると、今日はじきに父たちも戻ってくると母は言った。その瞬間、キルヌとイリナから活気が失せた。理由はあまりにも明白。二人は法螺を吹いた。大きく出すぎた。これから神に関する事情を問い質されることになるのだろう。

 午後、まだ陽も高い内に父たちは戻ってきた。

「キルヌ。イリナ。お前たちは神から言葉を預かったと言った。そうであれば、もしかしたら、神の力の欠片も授かったのではないか」

 案の定、神に関すること。父は僕たちを近くの草原へ連れ出した。

 草原に独り立つキルヌ。その背後には、僕とお婆様とイリナ、父と叔父と従伯父や従叔父たち。父に促されて、キルヌは全身に力を込めた。固く握りしめられた拳。ウーンと力む声。しかし、何も起きなかった。

 皆の間から溜め息が漏れ、キルヌは力なく項垂れた。しかし、僕は確かに思念法の気配を感じた。僕はキルヌに歩み寄って真後ろに立ち、左手をキルヌの左肩に置き、右手でキルヌの右手首を握って腕を前に伸ばした。

「もう一度」

 僕がそう声を掛けると、キルヌは力んだ。この気配は間違いなく空爆術。しかし、キルヌは思念の力を体の外へ上手く放てない様子だった。

「もう一度」

 その言葉と同時に、僕はキルヌの手を経由して空爆術を軽く放った。ボンと小さな破裂音。少し離れた地面から微かに土埃が舞い上がった。その瞬間、皆が驚きの声を上げた。僕はキルヌから離れ、「もう一度」と声を掛けた。再び破裂音と土埃。キルヌはこつを掴んだ様子だった。

「キルヌよ」と父は興奮をあらわに言った。「それが神の力の欠片か。人の間にもそのような力を持つ者が稀に現れるとは聞いていたが、私は初めてこの目で見た。かの勇者でさえそのような力は持たなかったと言うのに、遂に我が一族にも現れたか」

 そして、父は天を仰いで叫んだ。

「神よ。偉大なる神よ。心より、心より感謝いたします」

 次いで、父は妹のイリナに向き直った。

「イリナ。お前も試してみよ」

 キルヌに代わり、イリナが皆の前に立った。キルヌとイリナは双子。それならイリナも。僕はそう思い、イリナには最初から肩に手を掛け、手の甲を握った。

 イリナが力んだ。思念法の気配。その瞬間、僕は緊張して身構えた。イリナは得体の知れない術を発動しようとしていた。

 イリナが大きく息を吐いた。やはりキルヌと同様、イリナも思念の力を体の外へ放てなかった。制御不能な事態に至らなかったことに僕も安堵の溜め息をつくと、背後からお婆様が声を掛けてきた。

「イリナ。キルヌがやってみせた通りのことを念じてみてはどうだろう」

 イリナが再び集中し始めた。そして発動。今度は紛れもなく空爆術。僕も力を加えると、少し離れた地面から小さな破裂音と土埃。皆が歓声を上げた。イリナから手を離して「もう一度」と声を掛けると、再び破裂音と土埃。イリナも要領を体得した様子だった。

「皆の者」と父が呼び掛けた。「神への感謝を。捧げものの準備を」

 その時、僕の背中に手が添えられたのを感じた。見ると、僕の脇にはお婆様。

「お前さんは優しいね」

 僕はその場に横たわり、そのまま眠りについた。

 

◇◇◇◇◇

 

 秋第二週第二日、巨大吸収石の観察開始から四日後の午前。僕は独り首都ノヴィエミストへ向けて高空帯を飛んでいた。

 すでに昨日午前をもって三日分六回の観察は終了していた。その結論。自然精気の凝集に特段の加速は見られない。

 ただし、巨大吸収石の発する高音は大きくなり続け、首都ノヴィエミストと近隣の村々の住民は退避を余儀なくされていた。その面からは、実証実験は完全なる失敗。今回の騒動が終息したら、ノヴィエミスト高等学院に計画の放棄を強く求めることとなった。

 昨日午後、ノヴィエミスト師範学校の一行が南都ナギエスカーラに到着した。僕とアンはそれを出迎え、受け入れを表明していたナギエスカーラ師範学校まで同行した。イエシカさんも新居への引っ越しを済ませ、昨夜は久々に僕とアンの二人きり。僕たちは溜まっていた肉体的鬱憤を晴らすことに没頭してしまった。

 しかし、僕にはどうしても納得がいかなかった。何か重大な見落としをしているのではないだろうか。何か基本中の基本で失敗しているのではないだろうか。そんな思いに苛まれていた。とは言え、そんな思いを口にしたら、自尊心の高さゆえに自説を曲げられないと嘲笑され軽蔑されてしまうだろう。そんな思いにさらに悩んでいた。

 そして今朝。やはり念には念を入れるべきと僕は決断した。僕はいったん高等学院に登院し、魔法医術専攻から改良型精気視認器を勝手に持ち出し、午前の講義を欠席して南都ナギエスカーラを飛び立った。

 行程を半分ほど進んだ辺りから、街道沿いには点々と天幕。ノヴィエミストに近付くにつれてその数は増えていった。遠からず大過なく帰還できるだろう。そんな楽観的な判断が働いているか、ノヴィエミストから徒歩で半日程度の辺りにまで天幕は点在していた。

 昨日までと同じ観察をするのでは、結論は変わらない。納得がいかないのなら、もっと近くで観察するしかない。僕はそんな風に腹を括り、そのままノヴィエミストに接近した。

 遂に街外れの上空に到達した。耳障りな高音が空間を満たしていた。うるさい。これはたまらない。こんなことで本当にあの巨大吸収石は持つのだろうか。そう疑った時だった。北東方向、かなり遠方の高空帯で光爆が起きた。こんな時にあんな場所で光爆。何らかの合図に違いなかった。

 エスタコリン貴族の弱々しい光爆ではなかった。とするとフレクラント人。行商人だろうか。しかし行商人は、フレクラント人御用達の旅館関係者を北限の街ロスクヴァーナへ避難させたのを最後に、この辺りにはやって来ていないはずだった。まさかこんな時に物見遊山のフレクラント人。さすがにそれは無いだろう。そんなことを考えながら、僕は光爆の元へ向かった。

 その人は独り高空帯で僕を待っていた。

「ケイ。やはり来たか」

 エルランド殿下の声は弾んでいた。その一方で、殿下の出で立ちはあまりにも物々しかった。白狼の着ぐるみ。片方の手には精気分光器。もう片方には望遠鏡らしき物。背中には体全体を蔽えるほどの大きな板。精気の暴風から身を守るための盾に違いなかった。

「地上に降りて話そう」

 殿下はそう言うと、ノヴィエミストから距離を取るつもりなのか、北東へ向かって飛び始めた。

 殿下が降り立ったのはノヴィエミストから徒歩で一日半ほどの距離。ちょっとした雑木林に囲まれた無人の荒れ地。そこには一張りの天幕が設置されていた。

「ここが殿下の拠点という訳ですか」

「ああ。毎日、ここと王都を行ったり来たりだ」

 殿下は盾を地面に横たえ、天幕からさらにもう一枚の盾を持ち出してくると、「座れ」と言った。

 盾の上に腰を下ろして、殿下と二人で差し向かい。殿下が出してくれた飲み物に口を付けていると、殿下は嬉しそうに笑みをこぼした。

「君は頭がおかしい。普通の服装に普通の背嚢。良くもそんな気楽な格好で来たものだな」

「高等学院からそのまま出て来たもので」

「いよいよだな。今日の深夜か明日の未明。それが私の予想なのだが、君の予想は」

 ギョッとした。まさかと思った。

「日没までにはアルヴィン陛下も到着する予定だ。千年紀、いや、万年紀に一度の出来事だ。さすがに見逃す訳にはいかない」

 殿下の推論は正しいのだろうか。一体、どんな観察をしていたのだろう。

「殿下は精気分光器で観察していたんですよね。性能はどれぐらいあるんですか」

「君の速報を読んで、すぐにフレクラントの職人に君の設計図通りに視認器を作ってもらった。それと比較すると、感度は約千倍、解像度は約三十倍だ」

 僕は感嘆して大きく息を吐いた。殿下の精気分光器は、僕の原型器はもちろん、皆で作った改良型よりもはるかに高性能だった。

「ここ数日、毎日午後に君が飛び回っているのを見掛けた。一緒にいたのはアンソフィー。もう一人は見掛けるたびに異なる者」

「はい。常設警邏隊員です」

「それで、君の予想は」

 僕は答えられなかった。殿下は怪訝そうに尋ねてきた。

「君たちは私よりもかなり遠方から観測していたようだが、何をどう観測していたんだ」

 観察手順。その趣旨。その結論。それらを説明すると、殿下は顔をしかめた。

「愚かだ。愚かすぎる。まるで素人の浅知恵だ……。あの吸収石は主に大地の底から精気を吸い込んでいる。君たちの方法では、その肝心な部分を観測できない」

「あの……」と僕は言葉に詰まった。「言われてみればすぐに分かるんですけど、僕も皆も気が急いていたんだと思います」

 殿下は呆気にとられる様子を見せ、次いで「まあいい」と力を抜いた。

「我々も君たちもやるべきことは全てやった。あとはどんな結果になろうとも、全てはあの者たち、ノヴィエミストとスルイソラの者たちの問題だ」

 僕の体に微かに悪寒が走った。この冷徹な割り切り方。そして気楽に物見遊山。これがこの人の狂気なのだろうか。

「僕にはそんな風に割り切ることは……」

「我々の警告は全ての者に伝わったはずだ。死の危険が迫っていることを、実際に死んでみることによって確かめようとする。そういう者は多いのだ。当然、責任は当人にある」

 僕は顔をしかめて目を固く閉じ、頭に片手を当てて髪を掻きむしった。

「今の私にはエスタコリン人とその関係者に対する責任がある。私はその責任を果たした。私にそれ以上の責任は無い。そしてそもそも、君には何の責任も無い。お人好しのケイ。頭を掻きむしる前に、その厳然たる事実を客観視せよ」

 僕が黙っていると、殿下は「もう一杯飲むか」と尋ねてきた。僕は首を振った。

「それにしても中途半端な避難だな。いつの間にか住民の間に、徒歩で一日程度の距離を取れば十分との話が出回っていたらしい」

 僕はハッとして顔を上げた。僕と同様の判断をした者がいる模様。ただし、あまりにも緻密さに欠けている。一日の距離は最低限。程度という表現も十分という表現も不適切。

「一日程度の距離と具体的に指示している以上、おそらくそれなりに知識のある者が基準として示したのだろう。しかし、十分と言ってしまっては、無謀な者は勝手に判断して一日の距離も取らない。現に、半日程度の所にとどまっている者がかなりいる」

「どこからそんな情報が出たんでしょう。ノヴィエミスト高等学院でしょうか」

「警察隊らしい」

 僕は思わず息を詰めてしまった。

「もしかしたら……、『少なくとも一日の距離』が『一日程度の距離で十分』に変わってしまったとか……」

「情報の伝達過程で? もしそうなら、元々の情報の提示があまりにも稚拙だ。簡潔明瞭でなければ伝わらない」

 僕は頭に両手を当てて髪を掻きむしった。

 僕が中方域警察隊の隊員に聞かせた話。あれが広まったのだろうか。ジラン大統領から言動に注意と厳命されたのに、僕は失敗してしまったのだろうか。もしそうなら、あれが最大かつ致命的な失敗となり得る。

「科学的な判断として、一日の距離では不十分でしょうか」

「科学的な判断としては、おそらく何とかなるだろう」

「半日程度の距離では、拡散による希薄化は不十分ですよね」

「特にスルイソラ人では耐えられないだろうな」

 そうなれば今夜には大惨事。体全体に嫌な汗が滲み出た。

「スルイソラ人の多くはそこまで科学的ではない。精気が物質を通り抜けることも、通り抜けやすさに差があることも知らない。だから、何でも良いから物陰に入れば大丈夫とでも思っているのだろう」

 僕は腰を上げた。

「もう行きます。やはり、今の話を持ち帰らないと」

「飛び回るのか?」

 殿下は眉をひそめて僕を見詰めていた。僕が「はい」と答えると、殿下は鼻で笑った。

「無理だな」

「僕はそこまで冷徹に割り切れません」

「それなら、やり方を教えてやる。無能な責任者を可能な限り残虐に血祭りに上げろ。ノヴィエミスト評議会議長とノヴィエミスト高等学院議長の首を切り落として両手に掲げ、あちらこちらに空爆を撒き散らし、君自身が殺戮の凶魔となって暴れ回れ。そうすれば、住民たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出すだろう」

「そんな……」と僕は唖然とした。

「冗談だ」と殿下は笑った。

 違うと僕は感じた。この人はかつてやったのだ。白狼の騎士として。

「それなら、その盾を持って行け。精気を遮蔽できる。一つ、やる」

「いいんですか?」

「こちらは何とでもなる。君は思念法を使えるのだろう?」

「はい。まだ初心者の段階なんでしょうけど」

「その盾は強制浮揚術を受け切れる。存分に使え」

「ずっと前から一つ疑問に思っていたことがあるんですけど」

「また疑問か。何だ」

「第一の黙示録にありましたけど、リエトを殺した時、なぜもっと直接的に思念法を使わなかったんですか」

「リエトもどきに会ったのか」

「会いました。首を絞められました。両手で、何度も」

 殿下は愉快そうに鼻で笑った。

「荒々しい時代があったのだ。何もかもが荒々しい時代が」

「今の疑問ですけど、無理に訊くつもりはありませんから」

「初めての人殺しとなれば、誰でも上手くはいくまい」

 僕はウッと呻いて大きく息を吐いた。

「一般論として良く覚えておくが良い。魔法には発動にも効果にも不確実性がある。だから、魔法使いは鉈を持ち歩く。発動はともかく効果が確実と言えるのは超越派の破壊性思念法ぐらいのものだ。しかし、それらは失われてしまった」

 体の前面に背嚢、体の背面に盾。僕は礼の言葉を残して飛び立った。

 

◇◇◇◇◇

 

 未だ午前、生命学系の会議室は満員となっていた。生命学系の先生方、高等学院評議会の幹部、常設警邏隊員、フレクラントの行商人、そしてアンソフィー。南都ナギエスカーラの上空から拡声魔術で呼び付けたら、皆全てを放り出して慌てて集まってきた。

 室内前方、司会の席で僕が黙って待ち続けていると、とうとう学院評議会議長が「これは懲戒処分もの」と言い出した。

「分かりました。まだナギエスカーラ評議会と警察隊が来ていませんが、話を始めます」

 僕はそう言って椅子から腰を上げた。

「今朝しばらく前まで、僕はノヴィエミストにいました。そこでたまたまエスタコリン王国の観測隊に出くわしました。僕たちだけでなく、あちらも毎日観測していたようです。あちらの結論は、巨大吸収石では加速度的無限凝集が起きており、本日深夜から明日未明までには爆発する。あちらは今、爆発を観測する準備を進めています」

 皆がどよめいた。

「こちらの観察方法と結論を説明したところ、大いに罵られました。地下から湧き出す自然精気を観察せずしてどうすると」

 先日の会議の出席者たちがウーンと呻いた。

「かなりの住民がノヴィエミストから徒歩で半日程度の距離しか離れていません。彼らは今夜には壊滅します」

「ちょっと待て」と中隊長が怒鳴った。「あちらの話はどこまで信用できるんだ。そもそも、エスタコリンの出張所の連中は何も言っていなかったぞ」

「あちらの観測隊は毎日本国から通っていたとのことです。連合国内の退避作業とは完全に別の作業として続けていたようです」

「話の信憑性は」

「あちらの話を聞いた後、僕は巨大照明器の丘の麓まで行ってみました。キーンという高音が絶叫のように響いています。あれでは、あの巨大吸収石は到底持ちません。さらには丘を中心にかなりの範囲で、環境中の自然精気濃度が上がっています。フレクラント高原の自然精気が希薄と感じられるぐらいに」

「吸収石から漏れ出しているのか?」

「いいえ。吸収石の吸収量をはるかに越える膨大な自然精気が地下から上がってきています。改良型の精気視認器で地下を見てみたら、巨大な火柱のような精気が見えました。それが地上で拡散しているんです」

 絶句する者。首を振る者。呻く者。動揺が止まらなかった。

「サジスフォレ君」と学院評議会議長が口を開いた。「ナギエスカーラまで被害が及ぶ可能性はあるのですか」

「爆発時の最大の問題は、地表近くを水平方向に広がっていく濃密な自然精気の暴風にあります。それに曝されたら、魂が吹き飛びます。しかし、暴風は中心から離れるほど拡散して希薄になっていく。さらには、地表近くの自然精気には空中へ上昇していく性質がある。ですから、ここまでは届かないと思います」

「議長」と生命学専攻の主任が口を挟んだ。「そういう話はあとで我々がして差し上げますから、今は話を先に進めましょう」

 学院評議会議長が口を閉ざすのを見届けると、生命学専攻の主任は話を続けた。

「サジスフォレ君。丘の近辺に地割れや地盤隆起や地盤沈下は無かったか。つまり、地下の物質的構造に変化が生じ、精気の通り道のようなものが出来てしまう可能性は」

「僕が見た限りでは、そういう異変はありませんでした。つまり、過剰な精気が巨大吸収石に呼び寄せられるように地下の土石を通り抜けて上がってきている」

「と言うことは、すでに上がってきている精気はそのまま地上に出てしまうのだろうが、巨大吸収石が壊れれば、その内に事態は収まり状態は元に戻る」

「そう思います。多分精気には、生命力方程式にも拡張生命力方程式にも取り入れられていない未知の性質があるんです。膨大な精気が集まってそれが現れている」

「それではまた別の問題が」

「いえ。拡散してしまえば、また元通りです。未知の性質は隠れてしまう」

「そうか。なるほど」

「そう思わないと、もう対処のしようが無いという話でもあるんですけど」

 溜め息をつく者。首を振る者。項垂れる者。皆が沈黙した。

「今回の件で僕はいくつかの失敗をしました。このまま座視して大量の犠牲者が出たら、あまりにも寝覚めが悪い。いや。これからずっと後悔する。今、そんな気持ちなんです」

 中隊長が「それは私も一緒だ」と応えた。皆も頷いた。

「まだ午前です。退避の時間は十分にあります。これから現地を回って呼び掛けましょう」

「そうだな。人手が必要だ。十分に空を飛べるのはフレクラント人だけだ。フレクラント人でやるしかない。エスタコリン側はすでに何かやっているのか?」

「いいえ。その種の活動は全く」

「なぜ」と中隊長は声を荒げた。

「その点はとても厳しく言われました。エスタコリンの退避命令は皆に伝わっているはずだ。エスタコリンはすでに十分に警告した。エスタコリンにそれ以上の責任は無い。あとは警告を無視した者たちの問題だ。フレクラントもやるべきことは全てやった。それ以上の責任を負う理由は無いと。僕はお人好しと笑われました。それでも、僕が『やる』と言ったら、その盾をくれました」

 僕は部屋の隅に立て掛けておいた盾を指さした。

「ああ。その盾は良く出来ている」とエリク先生が感嘆した。「遮蔽材を軽い金属の板と木板で挟んだ三層構造になっている。金属板で物理的な衝撃も受け止められる」

「先生の盾は出来ましたか」と中隊長が尋ねた。

「三枚。ただし、遮蔽材を木板と木板で挟んだ物。物理的な衝撃には耐えられない」

「十分です」

 学院評議会議長が席から立ち上がり、「皆さん」と声を上げた。

「概要は分かりました。議論を切り上げて、行動に移りましょう。フレクラントの皆さんは呼び掛けを。連合国人は救助活動と後方支援の準備を。フレクラントの皆さん。どうかよろしくお願いします」

 そう声を上げると、議長は深々と頭を下げた。

 そこからはフレクラント人と連合国人に分かれて打ち合わせ。フレクラント人は、僕、アン、常設警邏隊員三人、行商人六人の合計十一名。

 行商人はノヴィエミストから徒歩一日圏外に分散し、住民と避難者たちに説明、出来ればもう少し離れるよう勧告して回る。常設警邏隊員はエリク先生の盾を携帯して徒歩一日圏内に分散して警告。僕は殿下の盾を携帯して徒歩半日圏内で警告と巨大吸収石の観察。

 そのように順次役割が決まっていく中、アンも興奮気味に意気込んでいた。そんな様子をそれとなく窺っていると、ふと行商人の一人と目が合った。以前からの知り合いで、高級文房具の仕入れを引き受けてくれた男性。その隣で話に聞き入っている行商人女性は男性の奥さん。男性はいかにも「分かった」と言いたげに、僕に向かって小さく頷いた。

「それで中隊長。私の受け持ちは」とアンが尋ねた。

「いや、いや」と行商人男性が口を挟んだ。「現場はもう十分だろう。誰かが伝令としてクスヴィシュトロームとロスクヴァーナとフレクラントの大統領府に行かなければ」

「私ですか?」

「我々は住民への警告が済んだら、あとは何とか逃げ出すだけだ。大変なのはその後。それに備えて他の所にも事前に知らせておく必要がある。つまり、君の任務が最重要」

「分かりました」とアンは力強く頷いた。

 僕は密かに落胆した。アンは上手く乗せられてしまった。

 

◇◇◇◇◇

 

 南都ナギエスカーラの北端上空。首都ノヴィエミスト方面へ向かう十人が集まった。時刻はほぼ正午。普段通りなら、昼食の献立が気になり始めている頃合いだった。しかし今日は、高等学院の食堂が急遽用意してくれた弁当。各々適時適所で摂ることになっていた。

 行商人六人は通常の服装と装備、頭に鉢巻き。常設警邏隊の三人は熊の着ぐるみ、体の背面には盾、体の前面には背嚢。僕は猿の着ぐるみ、背中に盾、前面の背嚢には改良型の精気視認器と小型の望遠鏡、弁当、水筒、さらには身元証明書。説得の際に必要になるかも知れないからと、学院事務局が僕たち十人分を急いで作成してくれた。

 スルイソラ大平原の空。僕にとっては久し振りの大規模編隊飛翔だった。眼下にはいつもとさして変わらぬ秋の景色。当然、緊急の報が広がっている気配はまだ無かった。しかし程なく騒ぎとなる。その様子を容易に想像できてしまうのが薄ら寒かった。

 徒歩で一日の距離。朝から日暮れまで大人が普通に歩き続けた距離のこと。そんな俗な表現法など科学的とは到底言えない。しかし、そんな素朴な慣用表現にも合理性があると初めて感じた。今必要なのは最大でも半日の距離の追加退避。そして現在は正午過ぎ。つまり、最長でも日暮れのしばらく後まで歩き続ければ良いだけ。

 爆発は深夜から未明とエルランド殿下は言った。それがいつなのか、正確なことは分からない。殿下自身にも分からないに違いない。でも、深夜ならまだ間に合う。普通に歩き続けるだけで十分に間に合う。

 程なく、ノヴィエミストまで徒歩で一日の距離に到達した。ここで散開。多くの者はそれぞれの担当地区へ向かっていった。僕を含めて残りは三名。中隊長と行商人女性の担当地区はノヴィエミストの北側。僕たちはそのまま北上し、ノヴィエミストの東の街外れに着地した。

 生気の失せた無人の首都。あまりにも耳障りな高音の中、僕たちは余剰精気を補充しながら装備を整えた。中隊長も行商人もしかめ面。僕は耳に鈍い痛みを感じ始めた。

 三人の準備が整い、僕が背嚢から精気視認器を取り出し、僕たちは再度上昇。街の西側、巨大照明器の丘に接近した。

 行商人は精気視認器を通して丘を眺めると、泣き出しそうな表情を浮かべて首を振った。中隊長から離脱の指示。行商人はそのまま担当地区へ向かって行った。

 続いて、中隊長と僕も精気視認器で丘を確認。もし感度がもっと高ければ、丘全体から湯気のように立ち上る自然精気が明瞭に見えていたに違いなかった。その後、丘の周囲を一周、地盤を目視。異変は見当たらなかった。

 中隊長が飛び去った。僕は丘から離れてさらに上昇。大きな空爆を二発。間を開けて大きな光爆を一発。状況に急激な変化は無しの合図。それに呼応して、了解を意味する光爆があちらこちらの空で点々と輝いた。

 次の作業は拡声魔術を用いた呼び掛け。巨大照明器を中心とし、徒歩で二時間の距離を半径とする円の上空を一周。僕は活舌に気を付けながら、円の外側に向かって絶叫した。

「大爆発! 今夜! 間に合う! 歩け! 一日の距離まで!」

 円に沿いながら繰り返し拡声魔術。きちんと聞こえたら光爆一発。上手く聞き取れなかったら光爆二発。呼び掛けの方角にいる常設警邏隊員が知らせてくれることになっていた。しばらく進んだ頃、光爆一発。僕は安堵した。

 しかし、さらに進んだ所で光爆が三発輝いた。あの辺りは中隊長の担当地区。何事だろうと思いながら、僕は作業を中断して駆け付けた。

 他の隊員に伝えてくれと中隊長は言った。

 治安維持のために中方域警察隊の一部が分散して残留している。治安維持の任務を放棄させ、真剣に退避しようとする者のみの支援に当たらせろ。同時に自らも退避するよう強く促せ。住民の中には我々の活動や他人の退避を妨害する輩がいる。そのような輩は硬化魔法を掛けて放置せよ。

 その種の輩の特徴を尋ねると、中隊長の声が怒気を含んだ。初歩的な知識すら持ち合わせていないにもかかわらず、独自の奇説に基づき、爆発しても大丈夫と触れて回って従わせる。つまり、愚昧かつ狂信の精神的指導者。それに盲従する行動的愚者。そんな輩が跋扈している。生死にかかわる緊急時に人心を惑わすとなれば、もはや看過できない、すべきではない。

 硬化魔法は精気の暴風を防ぐものではない。精気の暴風を受けたら魂が吹き飛ぶ。僕がそう指摘すると、中隊長は皮肉めいた笑みを浮かべた。爆発しなければ、硬化魔法はいずれ自然に解けるのだから問題なし。爆発したら、いずれにしても死ぬのだから問題なし。

 中隊長の用件は終了。急げと促されて、僕はすぐに飛び立った。

 常設警邏隊員二人に伝言し、周回を終えた頃には、警告開始から約一時間が経っていた。僕は余剰精気の欠乏による倦怠を感じ、ノヴィエミストの東の街外れに降りて休憩を取ることにした。

 僕にとっては、長時間にわたる魔法の使用は稀なことではない。しかし、全力での連続使用は初めての経験だった。

 例えば北の大森林、華のカプタフラーラまでの片道十時間。あの時は長時間とは言え、適時休憩を取っていた。しかも、そもそも全力ではなかった。全力を出せばもっと速く飛べる。しかし、風圧に対抗するために特別な装備が必要になる。それが無ければ、目が乾き、息が出来なくなってしまう。

 例えば蝗退治。あの時は巨大魔法を立て続けに放ったとは言え、アンの助力もあり、余剰精気には十分な余裕があった。

 一方、ここまでの約一時間は全力で拡声魔術を使用。さらには断続的に、高速飛翔を越える全力飛翔。余剰精気の消耗は著しかった。余剰精気を使い果たすと飛べなくなる。飛べなくなると、逃げ出せなくなる。アンはおらず、僕は独り。僕はやり過ぎを実感した。

 約一時間前と同様、やはり物陰に入っても高音はかしましかった。同時に環境中の自然精気が濃くなりつつあるのを肌で感じた。低音ならともかく高音がこんな所にまで届くなんて。そう思いながら、強制吸入術を使って精気を補充。背嚢から水筒を取り出して水分を補給。弁当に目が留まったが、硬化魔法のおかげで腐りはしない。今はまだ食べようという気にはなれなかった。

 常設警邏隊員二人との会話はそれぞれ数分ずつではあったが、それでも様々な人間模様を耳にした。

 住民の大多数は退避の意思を示している。ただし、老人、子供、傷病者など脚力に難のある者がおり、警察隊は主にそれらの者たちに付き添って退避を急いでいる。一方、退避の意思を示さない者たちの考えは多種多様。

 ノヴィエミストで生まれ育って暮らし続けてきたのだから、街と運命を共にする。そんな風に諦める老人。死ぬのは早いと、警察隊に拘束されて強制退避となった。

 十分に離れているからと高を括り、のんびりしている者。怖いもの見たさや度胸試しのつもりなのか、興奮気味に残留している者。財産を気にして退避を渋る村や集落の有力者。説得は一回限りで、そのまま放置。

 中隊長の言う精神的指導者。さすがにそこまで特殊な者は珍しい模様。ただし、無人となった地区では何らかの陰謀が進んでいるのではないかと疑う者たちがいるらしい。やはり、説得は一回限りで、そのまま放置。

 孤立した避難民を襲う者や、無人となった集落を破壊し略奪して回る者には、警察隊が生死を問わない物理的な攻撃を容赦なく加えている模様。非常事態下でのその種の犯罪には現場で厳罰と規則で決まっているらしく、常設警邏隊にせよ中方域警察隊にせよ、エルランド殿下と同様の極めて冷徹かつ苛烈な姿勢を見せていた。

 休憩開始からしばらくの後、何とか態勢が整った。再び西の丘に接近して観察。状況に急激な変化は無しの合図。そして今度は、徒歩で半日の距離を半径とする円上に移動して警告を開始した。

「音は徐々に大きくなっている! 状態は徐々に悪くなっている! 全部徐々に! まだ間に合う! 歩け! 一日の距離まで!」

 一周目は短文の羅列による単純な警告だったが、今回は文章による情報の提供。上手く伝わっているだろうかと懸念していると、離れた所で光爆が一発輝いた。

 望遠鏡で眺めてみると、眼下遠方には移動する人々の姿。肉眼で確認してみると、僕の直下は閑散としていた。つまり、ほとんどの者は退避を続けている模様。未だに残っているのはどういう者たちだろう。訝しく思って低空帯まで降下してみると、僕よりも幾分年長に見える男たちの小集団がたむろしていた。

 男たちは頭上の僕に向かって罵声を浴びせ掛けてきた。僕が問い掛けても、男たちは奇声を発しながら拳を振り上げるばかり。こいつらは馬鹿なのだ。僕はそう悟って上昇しかけ、ふと思い付いて呼び掛けた。

「おーい。皆はもう逃げちゃったぞ」

 男たちの動きが一瞬止まり、互いに顔を見合わせ、次の瞬間、男たちは脱兎のごとくに駆け出した。

 僕は作業を再開した。遠くに向かって情報を提供。合間に眼下に向かって「皆はすでに逃げてしまった」と呼び掛ける。これが意外に効果的だった。何が殺戮の凶魔だ。暴れ回る必要など全く無いではないか。時代と場所と時と場合が違うのだ。僕はそんな風に安堵し始めた。

 二周目の作業量は一周目に比べて格段に多かった。そのため、半周もしない内に余剰精気の欠乏を感じ始めた。背中の盾に掛けた強制浮揚術は今も有効。僕は空中で上下反転、盾の上で仰向けになり、全身に強制吸入術を掛けて休憩を取り始めた。

 一見普通の秋の空、所々に薄い雲。しかし、鳥も何も見当たらず、生き物の気配は全く無かった。

 知性や知識の不足、想像力の欠如、不合理な猜疑心。それらは否定的な特性とは言え、他者に害を為さない限り、悪とは言えない。例えば、罵声を浴びせてきた男たち。あの男たちの実態は知らないが、連合国には陽気に馬鹿話をする気の好い人が多いのは紛れもない事実。こんな騒動が無ければ、あの男たちも今頃街中で普通に馬鹿話をしながらじゃれ合っていたに違いない。

 この事態の責任はノヴィエミスト高等学院とノヴィエミスト評議会にある。仮に死者が出るのなら、まずは生命力工学関係の幹部たち、高等学院の幹部たち、ノヴィエミスト評議会の幹部たちであるべき。それ以外の者たちにここで死ぬべき理由は全く無い。死んだとしても自業自得なんて、そんな見切りや割り切りなど本来的にあり得ない。

 そんなことを考えている内にも余剰精気は溜まっていき、程なく僕は作業を再開した。

 二周目を終えた頃には、西の空はすでに赤く染まっていた。これ以上の情報提供は無意味だろう。日が暮れたら、地上の退避状況も分からなくなる。それなら、僕は巨大吸収石の監視に専念、頃合いを見計らって離脱するのみ。今から巨大吸収石の状態を確認して合図を送り、その後すぐに弁当を食べよう。僕はそう思い立った。

 首都ノヴィエミストの東隣の小さな集落。もちろん無人。高音は風向き次第でこんな所にまで届くようになっていた。しかしここでは、まだ癇に障るという程度。僕は装備を外し、民家の軒先に腰を下ろした。

 やけに大きな弁当箱だと思っていたが、蓋を開けて驚いた。分量は多分三食分。しかも、学院食堂の品揃えの中でも高級高額な物ばかり。無償提供なのに随分と張り込んでくれたようだった。最後の晩餐。ふとそんな言葉が心に浮かび、僕は鼻で笑って打ち消した。

 美味いと思った。皆はもう食べたのだろうか。退避を実際に指揮、支援しているのは中方域警察隊。住民たちが動き始めれば、常設警邏隊員の仕事は一段落。一日圏外を回っている行商人にはさらに余裕があるに違いない。

 結局、エルランド殿下は姿を現さなかった。爆発観測の準備を進めているのだろうか。それとも、もっと遠い場所から一応は見ていたのだろうか。もしそうなら、今頃苦笑しているに違いない。お人好しのケイが凶魔にならずにやり遂げたと。

 スルイソラ連合国を建てたのもカイル。その推測を殿下は即座に否定した。殿下は自身が建てたエスタコリン王国のためには尽力しても、スルイソラ連合国に対しては冷淡に傍観を続けている。つまり多分、否定は真実なのだろう。

 それなら、殿下が常設警邏隊の内情を探っていた理由は何だろう。もしかしたら前世では、エステルは常設警邏隊にいたのかも知れない。だから現世でもと。当時の大事件と言えばスルイソラ制圧。壮絶な殲滅戦になったと聞く。エステルも太古の思念法使い。エステルが実行したのだろうか。スルイソラ制圧の件、もっと詳しく調べておけば良かった。

 それにしても、魔法の全力使用による疲労は想像を超えていた。大量の自然精気を急速に吸い込み、大量の魔法力を急速に吐き出す。その繰り返しによる倦怠感がここまで厳しいとは。これが僕の精一杯。やり尽くしたと実感した。

 あっという間に半分を食べ終えた。残りの半分はあとでゆっくりと。そんなささやかなことを楽しみに、弁当箱を背嚢に仕舞い込む。集落の井戸へ行って水筒を満たす。再び元の軒先に戻って座り込む。そして、僕は休憩がてら考え込んだ。

 僕も物質的生命学の研究者。今回のノヴィエミスト高等学院生命力工学専攻の失敗は他人事ではない。

 彼らは複数の過ちを犯した。第一。完全に制御できるように巨大照明器を設計製造しなかった。第二。問題が発生したにもかかわらず、大丈夫とだけ言い続け、結局は一度も適切に情報を開示せず、対処も試みなかった。第一の失敗は過失だが、第二の失敗は故意。

 やはり、責任追及を免れないだろう。今後の被害次第では、重罪に問われることもあるだろう。物質的な被害は実質的にノヴィエミストの街の西側だけにとどまるはず。問題は人的被害。盗賊のたぐいは別として、その他から死者が出たら極刑の可能性もある。最悪の場合は私刑としての死刑。そんな状況を想像すると寒気がする。

 ジランさんは、両親と上手くやれと言った。あとでその件も良く考えてみよう。アンは今どこにいるのだろう。北限の街ロスクヴァーナ辺りだろうか。そして、アンも弁当を食べたのだろうか。魂を分け合った僕の半身。こういう時にこそ近くにいてほしかった。でも、人手が足りないのだから仕方が無い。

 こんな騒動はもう御免。血沸き肉躍る冒険には程遠い。抜け駆け、逸脱、お人好し。挙句に僕はそしられる。イエシカさんの趣味は各地の祭りを見て民芸品を集めること。それならば、僕たちは各地の名物料理を食べて回ろうか。あちらへ行って、あれを食べる。そちらへ行って、それを食べる。そういうことを楽しみとする気楽で平凡な日常の方がずっと良い。港町モレポゾールの飯は美味かった。

 両親とも上手くやり、僕がいて、アンがいて、子供たちが大勢いて、皆で楽しく賑やかに。エルランド殿下の指摘の通り、それが僕の本来の願いなのだろう。それなら昨夜、あれだけアンの中にそそぎ込んだのに、自己治癒魔法を使わずにそのまま妊娠してほしいと頼めば良かった。

 しばらくしたら、巨大吸収石の丘へ行って最後の観察。そして、空爆二発、光爆二発。観察を終えて離脱するから、あとは各自で判断せよ。その合図で終わりにしよう。

 西に夕焼け、陽が沈む。年に四回、季節の変わり目。大隊長が特注弁当を手土産に我が家にひょっこり現れる。あなたは観察対象ですから。でも、そんなことはどうでもいいんだけど。大隊長は挨拶代わりにそう言って、ニコニコ、フフンと鼻で笑う。そしていつも、二人で食べて、二人で飲んで、二人で話して、夜は更ける。

 三方を山に囲まれた大平原。性の別を問わず、ある者は魚を捕まえ獣を狩り、ある者は羊を追い山羊を追い、ある者は穀物を育てていた。

 強き男たちが多くの女を占めて子を生すようになった。弱き男たちは徒党を組んでわずかな女を奪い合うようになった。略取の連鎖、暴力、奸計、征服、果てしなき争い。

 不可知の存在への信奉はあらゆる不条理を運命として受忍させる。強き女たちは思念の力を手に入れ、男たちを太陽の座から追い落とし、不可知の存在への信奉を禁忌とした。

 強い思念の力は器に変容をもたらす。未開の蛮族、原始の崇敬。赤き熊の一族は赤き熊の名のゆえに赤い熊に変容した。紫の鷹の一族は紫の鷹の名のゆえに紫の鷹に変容した。

 強い思念の力は魂に転生をもたらす。血の繋がり。魂の繋がり。それら二つが入り乱れ、家族も血族も意味を失った。血の繋がりに重きを置く者。魂の繋がりに重きを置く者。そして、強い思念の力は忌避され抑圧された。

 久方振りの弾き語り。青き白鳥のイリナ。条理と簒奪のアデリナ。魂の庇護者たるレダ。そんなはるかな思い出話も大隊長にとっては大冒険。四百を越える良い歳をして子供のように目を輝かせる大隊長。ちょっとからかってやろうと思って尋ねてみる。例えば、太古から世界の至る所で天然の精気が湧き出し続けている。それはなぜだろう。

 自然精気の根源など誰も知らない、知っている訳が無い、と大隊長は答える。

 何と詰まらない答だろう。大隊長は結局常識人。そんな風に揶揄しながら、厳かに正解を披露する。大地の奥底で巨人が精気の種を石臼で挽き続けているから。何が神話伝説大系か。こういうものを神話と呼ぶのだと。

 それならばと食い下がる大隊長。神話伝説大系の冒頭、神の石柱は神話ではないのか。その問いに、大いに頷き解き示す。石柱の神とは光と石の魔法使い。今や見る影も無い方状列石は合成石。かつては自然精気を導いていた。人々はその周囲に若木を植えて時を待ち、高原を濃密な森に育て上げたのだと。

 大隊長は今どこにいるのだろう。また久し振りに夜を通して語り合いたい。愉快で実直な常識人。その心もあの大殺戮で傷付いた。時折悪夢にうなされるようになったとこぼす大隊長。元気でやっているだろうか。元気だろうか。元気……。元気?

 目が覚めた。ふと我に返った。失神したのか気絶したのか単なる睡眠か、いつの間にか横になり、気付くとすでに日は暮れていた。慌てて空を確認すると、宵の一つ星は地平に沈み、大地を照らし始めた月明り。おそらく、日没から三時間近くは経った頃。

 盾を体の背面に装着する。背嚢を体の前面に回す。盾に対して精密思念法。外側の金属板に強制反射硬化術を掛ける。内側の木板に強制反射浮揚術を掛ける。安物の着ぐるみは脆いので、頭と胴の部分のみに単なる強制硬化術。涙を拭って飛翔を開始した。

 何と愚かなことだろう。事象の全過程を完全に人の制御下に置くべき。そう認識していながら、なぜ巨大吸収石が勝手に爆発するのを待つのだろう。

 何と愚かなことだろう。光球を小さく絞っていくと、光が強くなって高音を発し、最後には制御を離れて弾け飛ぶ。つまり、光球には二回の変化、三つの状態がある。精気と魔法力の類似性。その意味を理解していれば、精気には低密度、高密度、超高密度の三状態があると容易に思い至るはずなのに。

 直ちに巨大吸収石を破壊しなければならない。高密度状態から超高密度状態への臨界点を越えたら、自然精気は器の有無にかかわらずそれ自体で凝集してしまう。そして、いずれ空間自体がゆがみ、自然精気は爆散する。

 臨界点を越えたら全てが終わる。中方域全体が壊滅する。場合によってはその外も。間に合うだろうか。精気はまだ高密度状態にとどまっているだろうか。フレクスランティアの盟友、誇り高きスルイスラン。スルイスランの壊滅を繰り返してはならない。スルイスランは二度と壊滅してはならない。

 臨界点を越えていなければ、警告に従って直ちに退避を始めた者たちは助かるだろう。遅れて退避を始めた者たちも急いでいれば助かるだろう。それ以外の者たちを待ち受けているのは死。でも、それは自業自得だ。愚かさは悪。自分自身に対する悪なのだ。

 願いを叶えるために魂を実像と理想像の二つに割ったというのに、なぜこんなことに関わってしまったのだろう。魂に染み付いた衝動。どうやっても逃れられないのだろうか。どうやっても払拭できないのだろうか。愚かさは悪。自分自身に対する悪なのだ。

 どこかで見ているのだろうか。存在の否定とのそしりは理解する。しかし、ひとたび目覚めて向き合うと、その存在は若さのゆえに軽すぎた。いかに逃げても拭いきれない存在理由。今度こそ見ているのなら、かつて神と呼ばれたこともあるそのありようを、しかとその目に焼き付けるが良い。

 ノヴィエミストの街の西、巨大吸収石の丘に到達した。自然精気の異常な流れ。濁り始めた悲鳴のような高音。状況は着実に悪化していた。

 空爆二発、間を開けて光爆三発。緊急退避の合図。誰からも応答は無かった。この合図に応答は無用ということになっていた。一呼吸おいて身構えた。全身に力を込めた。最強の破壊性思念法、空裂術を放った。

 巨大な閃光。瞬時に背を向けて魂に強制維魄術を掛けた。背後で爆音。背中に轟音。盾が物理的な打撃を浴びた。盾の脇から自然精気の暴風が回りこんできた。体内の精気が千切れて飛んだ。着ぐるみの強制硬化術が呆気なく消えた。意識が一気に遠のいた。

 ふと我に返った。猛烈な目の痛み。眼の奥底に眩い光の残像が残っていた。さらには体の至る所で体感が狂っていた。これはおそらく精気の喪失。残っているのは基礎精気のみ。しかも頭と胸の辺りだけ。

 朦朧、呆然としながら何とか自然精気を取り込み、自己治癒魔法で目の治療。徐々に視力が戻ってきた。僕は知らぬ間に地面に横たわっていた。目の前には立派に育つ稲か麦。ここはどこかの農地のようだった。

 邪魔だ。突然、僕はそう感じて盾と背嚢を外した。いつの間に装備を整えたのだろう。一体何が起きたのだろう。その時、異様な気配を感じた。めまいを覚えながら身を起こし、背嚢から精気視認器を取り出して辺りを見回した。

 いくつもの星が夜空をゆっくりと流れていた。流星群だろうか。そう思って、すぐに気付いた。流星はもっと速い。流星が精気視認器に映るはずはない。あれは魂。爆発したのだ。吹き飛ばされたのだ。未だに自然精気が噴出しているのだ。愚かさは悪ではない。自業自得なんてあり得ない。

 僕は天を仰いで絶叫した。

「戻れ! 戻ってこい! 戻ってくるんだ!」

 僕は地に伏して絶叫した。

「もうやめろ! 頼むから! お願いだから!」

 全身から力が抜けた。僕は大地に突っ伏した。終わりだ。終わった。僕はそう悟った。


次章予告。背徳の魔女エステルの最期の願いとは。

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