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第四章 流星の魔法使い(その二)

 春学期も後半に入っていた。そして僕とは違い、アンの研究は着実に進んでいる様子だった。午後の環境生命学研究室。部屋の真ん中の長机にはアンの成果が広げられていた。

「中々、面白そうな結果だな」

 エリク先生のそんな声に応えて、アンはまずスルイソラ連合国の歴史を説明し始めた。

 スルイソラ連合国ではエスタコリン王国と同様、約五千年前を境に、それ以前を先史時代、それ以降を歴史時代と呼んでいる。本来、先史時代とは文字記録が残っていない時代を指す用語だが、歴史時代のスルイソラの文献には先史時代の文献からの引用が散見される。つまり、先史時代にも何らかの文書は作成されていたものと推測されている。また、隣国フレクラントには先史時代のスルイソラを記述した文書がわずかに残っている。

 先史時代、スルイソラ人の居住域は現在の区分で言えば、北東、東、南、南西の四方域に限られていた。それらの地域は古くから大きく切り開かれ、当時から自然精気の環境中濃度は低かったと言われている。そして、スルイソラ人とエスタコリン人は東海沿いの経路を行き来していた。

 現在は無人となっている北西地域、および現在も有人の西方域は当時、少数のフレクラント人の居住域となっていた。それらの地域には森林が広がり、小集落が点在し、自然精気の環境中濃度は高かったと言われている。フレクラント人はフレクラント高原から大山脈を越えて南下し、北西地域と西方域を経由して南都ナギエスカーラに至っていた。

 先史時代後期、人口の増加に伴ってスルイソラ人の居住域は西側へ拡大していった。まず開拓されたのは現在の区分で言う中方域、次いで北方域。そして約六千年前、水や木材などの資源を巡って方域間に衝突が起き、西側への拡大と資源の奪い合いが加速した。

 当時のスルイソラ人はすでに魔法力や精気を感知する能力を失っていた。そのため、内陸の森林を無頓着に切り開いてしまい、自然精気の濃度も一気に低下してしまった。北西地域と西方域に住んでいたフレクラント人は居住域へのスルイソラ人の接近に懸念を抱き、最終的には当時未開拓の地が残っていたフレクラント国南地方へ移住した。

 スルイソラでは、約六千年前から約二千年前までを列国時代と呼び、それ以降を連合国時代と呼んでいる。列国時代のスルイソラでは、小国の乱立と衝突、統一政体の成立と崩壊が繰り返されていた。その後、スルイソラ全土を荒廃させた内戦の末に成立した統一政体、連合国が約二千年にわたって安定を保っている。

「ここまでのことはよろしいでしょうか。もちろん、先生は良くご存じだと思いますが」

 そう言って、アンは先生と僕の様子を窺った。

「連合国では中等学院で教わる内容だな」と余裕の先生。

「僕には」と僕は首を傾げた。「一つ初耳のことがありました。今は無人の北西地域にも少数のフレクラント人が住んでいたのは知っていましたが、そこにナギエスカーラへの経路があったなんて……。当時のナギエスカーラの人たちにとっては、『森の奥から魔法使いが現れた』という感じだったんですかね……」

「ところが」とアンは語気を強めた。「その定説には誤りがあると私は思います」

 僕と先生がほぼ同時に「ええ?」と声を上げた。

「分析はまだとても荒い段階なのですが」とアンは本題に戻った。「まずは連合国時代における、魔法への悪感情の強さの等高線図です。一部の例外を除いて、自然精気の濃度の等高線図と良く一致しています。つまり、両者に逆相関があるのは明らかです」

 先生はアンの作成した等高線図を覗き込んでフームと鼻を鳴らした。

「例外は、南都ナギエスカーラ、首都ノヴィエミスト、北方域の大山脈に近い辺り。その三カ所では悪感情が弱いのか……」

「はい」とアンは頷いた。

 連合国時代に入った頃、南都と首都に高等学院が設立され、魔法医術士の養成が組織的に行なわれるようになった。連合国では、魔法能力を持つ者の割合は極めて小さい。とは言え、集まればそれなりの人数になる。さらには、南都と首都にフレクラントの行商人が頻繁に来訪するようになった。

「その結果、南都や首都では魔法に馴染む機会が多くなったのではないかと……」

「そうだな」と先生は頷いた。

「北方域の山沿いの地域については、フレクラント人との友好的な交流が長いから」

「同意する」と先生は答えた。

「そして、それらを除いた資料を基に最小二乗法を用いて、魔法に対する悪感情と自然精気の濃度の変換式を導き出すことが出来ました」

「そうか。出来たか。そこなんだ、重要なのは」と先生は声を上げた。

 先生はアンが差し出した図表と数式を手に取ると、前のめりになって確かめ始めた。

「次は列国時代を飛ばしてそれ以前の先史時代ですが、資料のほぼ全てがフレクラント経由の伝承で、しかも数が少ないので、等高線図までは描けませんでした。ただし……」

 アンはそこで言い淀んだ。先生が「ん?」と続きを促した。

「その変換式を用いると、当時の居住域である北東方域と東方域の自然精気濃度は現在とほぼ同じと推定できるのですが……、南方域と南西方域では、自然精気濃度は零どころか負の値になってしまうんです」

 先生は再び「ええ?」と首を傾げた。

「つまり」と僕は口を挟んだ。「魔法に対する罵詈雑言だらけということ?」

「露骨な罵詈雑言ではないけど、否定的な表現が執拗に出てくる。それから魔法の魔。その言い方は先史時代の南部のスルイソラ人が始めたもの。凄く古い記録にそれらしいことが書いてあった。魔とは本来、災いの元とか人を惑わすものという意味。つまり、当時のスルイソラ南部では、魔法は災いをもたらす忌まわしい未知の技術と認識されていた」

「未知?」と僕は意外感を覚えた。

「当時のスルイソラ南部にも魔法を見聞きしたことのある人はいたんだろうけど、一般にはその実態は良く分からなくなっていたのだと思う。だから、魔と呼ぶようになった」

「分からなくなっていた?」と僕はさらに訊き返した。

「つまり先史時代、フレクラントとスルイソラ南部の間に人の往来は無かった。はるかな太古にはあったのだけれど、何らかの悪い理由で長期に渡ってほぼ途絶えていた」

 先生はフームと鼻を鳴らした。

「それならそれ以前には、魔法は何と呼ばれていたんだ」

「思念法です。フレクラントやエスタコリンの一部の者しか知らないことなんですが」

 アンの返答に、先生は再びフームと鼻を鳴らした。

「私は歴史学の専門家ではないが、君の推論はいかにも弱い」

「先生」と僕は口を挟んだ。「学術的な推論としてはともかく、気持ちは分かります。僕も『南西方域にはもう来るな』と言われて以降、かの地には行っていません。やはり、そこまで嫌われたら行きませんよ」

「途絶えていたのが事実なら、フレクラント側に記録が残っていることをどう説明する」

「あくまでも頻度の問題です」とアンは補足した。「完全にではなく、ほぼです。例えば、統治者間には時折接触があったが、それ以外には無かったとか。現に今でも南西方域はそんな状態です」

「頻度か……」と先生は呟いた。

「先生」とアンは意気込んだ。「先史時代の南方域と南西方域で何があったのかを調べる必要があります。環境生命学の研究と言うよりは、歴史学考古学の研究になってしまうかも知れませんけど」

 先生は腕組みをして考え込んでしまった。

「それを調べておかないと、今後環境が整備されて自然精気の濃度が上がったとしても、また下がってしまうかも知れません。もしかしたら、人々の意識や認識の問題で、そもそも濃度を上げられないかも」

 先生は大きく息を吐いた。

「話が大きくなってきたな……。確かに、魔法工芸の中心地も時代によって異なると言われている。列国時代には北方域と北東方域で細々と続いていたにすぎないと……。分かった。この調査と並行して、そちらもやってみたまえ」

 その時、僕はふとした思い付きに考え込んでしまった。

 人は海を渡ってこの大地にやって来た。北の大森林。南のスルイスラ。二手に分かれて入植したのだとしたら。現代のフレクラント人は大森林の人々の子孫。そして魔法使い。一方、現代のスルイソラ人はスルイスラの人々の子孫。そして先史時代、自然精気の推定値が負となってしまうほどに魔法への忌避感が強かった。

「サジスフォレ君」と先生が呼び掛けてきた。「君の研究の具合は?」

「先生……。魔法は自然強化魔術を発展させたものと言われています。それなら、人はいつどこでその能力を身に着けたんでしょう……」

 先生が「んん?」と怪訝そうな声を漏らした。僕はハッとした。

「いえ。ちょっとした思い付きです。僕の研究の件ですが、工房に吸収石と変換石の原材料が中々入荷しないので、精気視認器の制作が進まなくて」

「そこまでひどい状況か」と先生は呆気にとられた。「どうなっているんだろうな……」

「ですから今は、生命力方程式を色々な条件で解いてみたり、精密加工の練習をしたりしています」

「そうか」と先生は頷いた。「加工の練習をしているのなら、あとは原材料次第か。それでは今日はここまでにして、あとは各自の作業」

 先生の宣言に、僕とアンは「はい」と頷いた。

 僕は独り研究室を後にした。現在、吸収石や変換石の原材料を待っているのは生命力工学の学生数名と環境生命学の僕。一応、割り当ての取り決めは交わしていた。今日は入荷しているだろうか。そんな期待を抱きながら、学院内の小道を散策気分で工房へ向かった。

 午後の院内、そこかしこに学生の姿があった。ただし、すでに春学期も後半となり、一年生も学院の空気に馴染んでしまったのだろう。一目で新入生と分かる初々しい姿は見られなくなっていた。

 研究棟の間を縫う小道を進んでいくと、行く手には生命力工学専攻の主任と女子学生。二人は言葉を交わしながらこちらに向かってきていた。特に珍しくもない光景。一度はそう思った次の瞬間、僕は目を見開いて足を止めた。あれは女子学生ではなくイエシカさん。あの人は一体何をしているのだろう。この景色に馴染み過ぎ。そんな風に呆れながら、僕は近付いてくるイエシカさんを眺め続けた。

 制度上、エスタコリン王国には二種類の調査官がいるらしい。総合調査官は政庁からの指示に基づき、分野を問わずに情報を集めて回る。専門調査官は政庁からの指示が無くとも、特定分野の情報を収集し続ける。そして、イエシカさんは中央政庁の総合調査官。

 別にこそ泥のような真似をしている訳ではない。情報収集は政庁の調査官ばかりでなく民間の商人なども行なっている基本的な作業。それこそ、フレクラントの行商人の中にはそれを生業としている者もいる。そんな仕事だと僕はイエシカさんから聞いていた。

 イエシカさんも僕に気付いたらしく、主任に別れを告げて僕の所にやって来た。

「ちょうど良かった。二人きりで話せる所に行こう」

「いえ。これから工房に……」

 僕がそんな風に断ろうとすると、イエシカさんは僕を真っ直ぐに見詰めてニヤッとした。

「今日も入荷待ちの人たちで大盛況らしいわよ」

 楽しそうな人。僕は苦笑しながら舌打ちし、イエシカさんに付いて行った。

 肩を並べて歩きながらイエシカさんの口から最初に出てきたのは新婚生活の件。アンと上手くやっているかと尋ねられ、僕は「はい」と答えた。

「四週間に一度の家庭訪問ですけど、前回は来ませんでしたね」

「空騒ぎが空しくなってしまった」とイエシカさんは口元に笑みを浮かべた。

「エスタコリンに帰りたいとか言い出さないでしょうね。まだ季節一つ過ぎていませんよ」

「それなら、何か面白い話をして」

 僕はウーンと唸って考え込み、港町モレポゾールでの出来事を思い出した。あの時、食堂にやって来た若い漁師はアンに向かって恥ずかしそうに自己紹介をした。あれにはその場にいた皆が大笑い。あの漁師の声は上擦っていたが、僕は敢えて低い声で恰好を付けた。

「奥様。魚屋です」

 イエシカさんは半笑いで「何、それ」と言った。

「面白いでしょう。あとは自分で妄想を膨らませてください」

「私としては、純真無垢な美少年が徐々に汚れていくのを妄想する方が楽しいかも。私がケイ君の汚点になってあげられなかったのが本当に残念」

 さすが三大痴女の一つ、妄想系痴女。

「汚点に夢を見すぎ」と僕も笑った。

 次にイエシカさんが持ち出してきたのは蝗退治の話題。当然、イエシカさんはその顛末を知っていた。

 今回から、フレクラント国とスルイソラ連合国で分担するのではなく、フレクラント国がほぼ全面的に対処する。その代わりにスルイソラ連合国からは報奨金。それを討伐団の参加者だけで山分けする。その決定にフレクラント国大統領府常設警邏隊は発奮し、蝗の平原とスルイソラ大平原の間の山岳地帯で全ての蝗を退治してしまった。

 僕の出番は無かったのかと尋ねられて、山分けには参加できなかったと答えると、イエシカさんは「あら。残念」と笑った。

 次いでイエシカさんが尋ねてきたのは常設警邏隊員の実力。例えば、僕と彼らが武闘会で闘ったらどうなるか。まずは目潰し。光爆魔法の撃ち合いになるだろう。そして、僕はあの巨人の足跡の魔法で抑え込まれ、次から次に硬化魔法を浴びせ掛けられ、結局はおそらくそのまま僕の負け。見るからに彼らの実力は尋常ではない。僕がそう答えると、イエシカさんは「あら。謙遜」と首を傾げた。

 しばらく歩き続けた後にイエシカさんは足を止めた。学院の敷地の隅も隅。そこから先は雑草だらけ。そして学院の敷地を囲う塀。人影は皆無にもかかわらず、イエシカさんは声を潜めた。

「今、私が調べているのは吸収石と変換石の原材料の件なんだけど」

「何か変なことが起きているんですか?」

「ノヴィエミスト高等学院の生命力工学専攻が買い集めている」

 僕はエエッと驚いた。

「あそこは一体何をしているんです」

「私も行って直接訊いてみたんだけど、大量に買っていることは認めても、何をしているのかまでは教えてくれなかった。研究内容は正式発表まで明かせないって」

 言われてみれば、それはそう。正式発表の前に下手に明かすと、業績を横取りされてしまう場合がある。

「それでこちらに来て、主任の見解を聞いていた訳ですか。主任は何と言っていました?」

「主任は『分からない。魔法工芸の職人を大量に養成しているのだろうか』って」

 僕は溜め息をついた。

 あり得ない話ではなかった。魔法工芸の発祥地はスルイソラ連合国。しかし現状、実用水準にあるのはフレクラント製のみ。スルイソラ製の吸収石や発光石は性能が低くて手間が掛り、それほど普及していない。エスタコリン製に至っては商品にもならない水準。

「何なんだろう。どっちにしても、はた迷惑な話ですよ」

 イエシカさんは同意するように小刻みに何度か頷くと、「それでね」と言った。

「これまでは、いつもアンソフィーがいて中々話せなかったんだけど、私の仕事の、秘密の現地協力者になってくれない?」

 思わぬ要請に、僕は「ん?」とイエシカさんの顔を見詰めた。

「現地協力者はいいんですけど、秘密のって何ですか」

「実は、私は二つの所から指令を受けているの。一つは中央政庁、それが本来の仕事。もう一つは前国王のアルヴィン陛下、そちらが秘密の仕事」

「要するに、イエシカさんはアルさんの手の者で、そちらの仕事に手を貸せと」

「そう」とイエシカさんは頷いた。「この前、陛下からお手紙が届いて、ケイ君にそう伝えるようにって。ケイ君なら意味が分かるはずだって」

 その種の話に意外感は無かった。例えば、フレクラント国大統領が第一種行商人の一部をそのように使っているのは公然の秘密。また例えば、七年前のエスタスラヴァ王国の政変の際、フェリクス殿下は手の者の存在を公言していた。とは言え、妙な話だった。アルさんはとっくに政治の表舞台から遠ざかっているはずなのに。

「アンは抜きで?」

「そう。陛下がおっしゃるには、どう見てもあの子はそういう柄ではないから」

「これまで、アルさんはどんな指示を送ってきたんですか」

「吸収石と変換石の原材料の件。需給関係が大きく崩れてエスタコリンやフレクラントにまで影響が出ているから、原因を調べろと。もう一つはフレクラント国常設警邏隊の件。現在の実力はいかほどのものだろうと」

 それを聞いて、察しがついた。アルさんがそんな事柄に興味を持つはずがない。

「ああ。それから」とイエシカさんは言った。「自身の存在理由を見出したかとケイ君に問うようにと。ただし答を聞く必要は無いと」

 やはりあの人。エルランド殿下つまりカイルが背後にいるのだ。ただし、アルさんが無条件でカイルの指示通りに動くとは思えない。アルさんなら必要とあれば尋ねるだろうし問い質すだろう。つまり、二人の間には意思疎通と了解があるに違いない。

 イエシカさんにスルイソラ連合国への転属命令が出た際、イエシカさんを送り出すよう西の大公家に勧めたのはアルさんだった。また、西の大公家に僕とアンの結婚を勧めたのもアルさん。多分、それらは全てカイルの指示。

「イエシカさんは、その手紙の『意味』とやらを理解しているんですか?」

 イエシカさんはウーンと首を傾げた。

「良くは分からないけど……、陛下は変なお方ではないし、あらかじめ『陰謀のたぐいや危険な仕事はお引き受け致しかねます』と伝えてあるし、私としては一応信頼している」

 カイルとしては、さらにはアルさんとしても、事情を知る僕を自身の側に繋ぎ止めておきたいのだろう。カイルは時折フレクラント国高等学院の歴史学専攻に顔を出している模様。つまりおそらく、歴史学のフレスコル博士もすでに一味。大統領のジランさんはどうなのだろう。

 その時、僕はふと思った。フレクラント国大統領の仲裁によってスルイソラ連合国が成立したのは今から約二千年前。その際、当時の大統領は連合国内各地に「いいかげんにしろよ」の石碑を建てさせた。

 諧謔では済まないその趣味の悪さはエルランド殿下やカイルを連想させる。四度目の生でエスタスラヴァ王国を建て、もし五度目の生でスルイソラ連合国を建てたのだとしたら、六度目の生の今回は。

 いや。さすがにその推測は強引すぎる。カイルの転生が二千五百年おきなら、五度目の生は約二千五百年前のはず。時期が微妙にずれている。いや。やはり、何らかの影響は与えたのかも知れない。

 いずれにせよ、カイルは意思の疎通が可能な人。思わぬ大きな恩を売られてしまったようでもある。今ここで齟齬が生じるのは僕としても望む所ではない。

「分かりました。イエシカさんと同じ条件で」と僕は了承した。

 

◇◇◇◇◇

 

 春学期の期末考査が終了した翌週、平日の午後。生命学系の小講義室は教員と学生で満席となっていた。生命学専攻、生命力工学専攻、魔法医術専攻。三専攻の見覚えのある顔も多い中、エリク先生が教壇に立った。

「本日はお忙しい中、先生方や学生諸君に集まっていただいたのは、すでに連絡してある通り、環境生命学研究室で画期的な発明がなされたからです」

「ヴェドレゼリナ君」と生命力工学専攻の主任が声を上げた。「前置きはいい。早速、現物を見せてほしい」

 僕はエリク先生に促されて教壇に立ち、胸を張って高らかに宣言した。

「皆さん。これが精気視認器です」

 片手で持ち運べる大きさの円筒を僕が掲げると、室内にオオと感嘆の声が上がった。

「こちらの端から望遠鏡のように覗くと、向けた先の精気の濃度に応じて白い像が見えるはずです。それでは回しますので、順番に試してみてください」

 最前列の席に着いていた生命力工学専攻の主任が手を伸ばしてきた。主任は精気視認器を目に当てると、ウームと力んだ。

「これが精気か。サジスフォレ君が真っ白に輝いている……」

 主任は席から立ち上がって教壇に背を向けると、精気視認器を通して教員や学生を眺め回した。

「そうか……。やはりそうなのか……」と主任は大きな溜め息をついた。「サジスフォレ君とエペトランジュ君はそれなりに人の形に映るのに、連合国人はかなりぼやけて……」

 主任はそのように感想を漏らすと、「ん?」と訝しげな声を漏らした。

「サジスフォレ君。部屋の一番後ろにいる者たちが映らないのだが」

 エッと驚きの声が上がり、皆が部屋の後方に目を遣った。僕はアアと声を上げた。

「心配しないでください。人間の問題ではなく、精気視認器の問題です。まだ感度が低いので、部屋の後ろの方までは感知できないんです」

 室内に安堵の溜め息が漏れた。

「それから、皆さんの姿がぼやけているのは、まだ解像度が低いからです。もう少し調整を続ければ、設計通りの性能を発揮できるようになると思います」

 精気視認器が教員と学生の間を回り始めた。皆、順番に受け取っては覗き込み、溜め息をついたり感嘆の声を漏らしたり。そんな中、僕は教壇に立って解説を始めた。僕が考案した拡張生命力方程式とその解。精気視認器の構造。休憩や皆からの質問を挟みながら、解説は約二時間にわたって続いた。

 僕の解説が終わると、生命学専攻の主任がおもむろに口を開いた。

「私もしばらく前からサジスフォレ君の拡張生命力方程式を解いているのだが……、サジスフォレ君は良くそこまで解いたものだな。定常解、線形振動解、非線形振動解、指数関数的発散解、超関数的発散解……」

「はい」と僕は肯定した。「条件次第では他にも解が出てくるはずです」

「そうなると、やはり拡張生命力方程式には問題があると言わざるを得ない」

 生命学専攻の主任の第一声はお褒めの言葉ではなく問題点の指摘。僕の成果は大して評価されていないのだろうか。僕はかすかに落胆してこっそりと溜め息をついた。

「問題は発散だ。従来の生命力方程式に発散する解は無い。一方、拡張生命力方程式には発散してしまう解がある」

 発散とは無限大である。しかし、無限大は現実世界には存在しない。例えば無限に重い物。例えば無限に大きい物。そんな物は現実世界には存在しない、存在し得ない。つまり、発散する解は現実を表現しておらず、拡張生命力方程式の有効性には限界がある。

「その限界はどこなのか。それを明らかにする必要がある」

 生命学専攻の主任に応えるように、生命力工学専攻の主任も「そうなのだ」と頷いた。その言葉に僕はさらに落胆した。せっかく開発した精気視認器。玩具程度にしか認識されていないのだろうか。

「我々の方でも解いてみたのだが」と生命力工学専攻の主任は話を続けた。「拡張生命力方程式には精気の密度に関して特異性がある。先ほどの解説にはその説明が無かったが、サジスフォレ君はどう考えているのだろう」

 僕が一年以上を掛けて続けてきた研究。エリク先生はともかく、他の専門家には評価してもらえないのだろうか。そう思いながら僕は口を開いた。

「すでに知られていることではありますが、精気の塊には低密度と高密度の二つの状態があります」

 吸収石に蓄えられた精気しかり、人間の魂しかり、自然界に存在する精気の塊は全て低密度状態にある。一方、高密度状態は理論的に存在が予想されているだけのものであり、おそらく人為的にしか実現し得ない。

 高密度状態では精気の自律凝集が発生すると予想されている。つまり、高密度状態の精気の塊は自ら周囲の精気を引き寄せて取り込み、さらに高密度になっていく。

 従来の生命力方程式によれば、自律凝集はいずれ停止して飽和状態に至る。一方、拡張生命力方程式によれば、自律凝集は加速度的に進行し、最終的に密度は無限大となる。

「いずれにせよ、我々が今対象としているのは低密度状態です。また低密度状態では、拡張生命力方程式は従来の生命力方程式を完全に包含しています。ですから、今回の僕の研究においては、加速度的無限凝集は何の問題にもなりません」

 生命力工学専攻の主任が「なるほど」と頷いた。しかし、生命学専攻の主任は首を横に振った。

「生命力工学は応用科学だから今の説明で満足なのかも知れないが、生命学は基礎科学だ。もう少し高密度状態に関する説明が欲しい」

「要するに」と僕は執拗な追及に首を傾げた。「精気の高密度状態は観測されたことがない訳ですから、結局は分からない事柄だと思うんですけど」

「まあ、それはそうなのだが……」と生命学専攻の主任は言葉を濁した。

「僕としては、飽和して停止ではなく、加速度的無限凝集の方が発生すると思います。ただし現実問題として、精気が集まるには器が必要です。そして器の耐久性には限度があります。精気が器にどんどん貯め込まれていったら、いずれ限度を超えて器が壊れてしまう。だから無限大の密度は実現しない。僕はそう思います」

 生命学専攻の主任は腕組みをしてウーンと呻いた。

「それなら、やってみますか?」

 僕の提案に、生命学専攻の主任は「ん?」と訝しげに鼻を鳴らした。

「僕が高密度状態を作ってみせます」

「そんなことが出来るのか?」と生命学専攻の主任は驚きの声を上げた。

「厳密には精気ではなく魔法力の高密度状態なんですけど、とにかく高密度状態は常識外れの意外さですよ」

 エリク先生が慌てたように口を挟んできた。

「サジスフォレ君。論点がずれ始めている。先生方も話を元に戻してください」

「いや。せっかくだから」と生命学専攻の主任は食い下がった。

「それはのちほど」

 エリク先生の強い制止に、生命学専攻の主任はばつが悪そうに首をすくめた。わずかに間が空いた後、再び生命力工学専攻の主任が口を開いた。

「それから精気視認器についてだが……」

 精気視認器では、まず気配の場を感知し、その信号を増幅し、それを映像として表示している。その過程に問題がある。増幅と表示には原動力が必要となる。精気視認器では内蔵吸収石に僕自身の余剰精気を蓄え、それを原動力として利用している。

「つまり、サジスフォレ君の精気視認器は道具としては独立しておらず、フレクラントの魔法使いがいなければ使えない」

 またもや問題点の指摘。僕は独り教壇に立ったまま項垂れて頭に手を当てた。

「精気視認器のような道具を作ろうとした者はこれまでにも大勢いる。しかし、それらの試みはことごとく失敗した。そもそも、いかにして精気を感知すれば良いのかが分からなかった。さらには、道具は道具として完結したものであるべきとの考えがあった」

 何だか話の雲行きが変わってきた。僕はそう感じて視線を上げた。

「拡張生命力方程式を基礎として実際に精気視認器が動作している以上、適用限界を越えなければ拡張生命力方程式が有効であるのは間違いない」

「はい」と僕は小声で相槌を打った。

「また、道具は道具として完結したものであるべきとの考えは固定観念に過ぎなかったのかも知れない。完結していなくても良いから、まずは動くものを作ってしまおう。サジスフォレ君はそのように割り切った訳だな」

「はい」と僕は答えた。

 生命力工学専攻の主任は左右を見回すと、「諸君」と呼び掛けた。

「サジスフォレ君の成果は速報に値すると思う」

 速報。その言葉で僕は今頃になって理解した。今日のこの会合は単なる説明会ではなく審査会だったのだ。

 通常、研究論文は年に一度刊行される紀要に収録されて公開される。速報が出されるのは異例のこと。大きな成果が出た場合のみ。数年に一回程度の出来事で、眼前に居並ぶ先生方も速報などほとんど出したことがないはず。

 皆の様子を窺うと、生命学専攻の主任も、副主任のエリク先生も、生命力工学専攻と魔法医術専攻の先生方も頷いた。

「サジスフォレ君」と生命学専攻の主任が声を掛けてきた。「今挙げた問題点を踏まえた上で、直ちに論文にまとめたまえ」

「はい」と僕は背筋を伸ばした。

「皆」と生命力工学専攻の主任が呼び掛けた。「手の空いている者は精気視認器の改良に取り掛かれ。速報が出たら、我々もそれに続くぞ」

 室内のあちらこちらから「はい」と声が上がった。次いで僕も意気揚々と声を上げた。

「今日はありがとうございました。それでは今から運動場へ。魔法の実演。魔法力の高密度状態をお見せします」

 皆一斉に「よし」と腰を上げた。

 

◇◇◇◇◇

 

 夏休みの前半も終わりに近付き、研究室の恒例行事も終盤に差し掛かっていた。それはつまり、自然精気の環境中濃度の測定。本年度、エリク先生は西方域の各地を回っていた。

 その間、僕は高等学院に残って論文の執筆。さすがにアンと先生の男女二人組で何週間も方域内を回る訳にもいかず、アンも学院で自身の研究を続行。アンは適時、僕は行商の無い休日のみ、日帰りで先生の元に馳せ参じていた。

 スルイソラ連合国の医療は一般医術士と魔法医術士によって支えられている。一般医術士の常駐する診療所は各地に万遍なく点在しているのに対し、魔法医術士の診療所は自然精気の環境中濃度が相対的に高い場所のみ。濃度測定は、まず魔法医術士の診療所近辺、次いでその他の地区と二段階に分けて行なわれていた。

 調査第一週前半は、西方域の中心都市クスヴィシュトロームにある西方域評議会本部での準備作業。西方域評議会所有の測定機の性能試験と職員に対する研修。

 調査第一週後半と調査第二週は、西方域評議会職員が各地に出向き、エリク先生もクスヴィシュトロームとその周辺を巡回して測定。

 調査第三週と調査第四週前半は、いったん測定結果を持ち寄って検討。その後、各地で再測定や追加測定。

 そして、今日は調査第四週の第四日、西方域評議会本部にて最終検討会。僕とアンは朝一番に着ぐるみ姿で自宅を出て、西方域に向けて真夏の高空帯を飛んでいた。

 南都ナギエスカーラから一路北西方向へ。眼下には田畑、放牧地、細切れの林、集落や村。そんな田園地帯がどこまでも続いていた。連合国時代に入った直後までは、連合国内の各地に城や砦が点在していたらしい。地上には今もそれらの痕跡が残っているとのことだが、高空帯からではその様子を窺い知ることは出来なかった。

 また、フレクラント国とは異なり、スルイソラ連合国では焼畑農法が広く採用されている。つまり、地力の衰えた田畑は休耕田とし、木の苗を植えて雑木林にまで育てる。地力が回復したら、切り開いて木材を収穫し、焼き払って田畑として再利用する。そのせいで植生に連続性が無く、自然精気の環境中濃度の回復など望むべくもなかった。

 それにしても、スルイソラ大平原には風車が多い。特にこの近辺。そんなことを思いながら北の方角に目を向けて、ふと僕は思い出した。スルイソラの列国時代を終わらせた決戦の地。

 先日読んだ記録によれば、当時の常設警邏隊の大隊長は灼熱の津波と呼ばれる魔法の使い手だったらしい。多分、強力な温熱魔法を領域展開して敵軍に浴びせ掛けたのだろう。そして敵軍の殲滅。しかし、僕は首を傾げざるを得ない。

 巨人の足跡が常設警邏隊の実力。人を殺せる強度の温熱魔法ともなれば、それほど広くは展開できないはず。灼熱の津波に加えて何か別の魔法も使われたに違いない。

 空爆ではない。空爆は中心点付近を殺せるだけ。殲滅戦には向かない。炎爆なら吹き飛ばして焼き尽くせるのだろうが、野火や山火事が発生する。同系統の灼熱の津波を使う意味が無くなってしまう。使われたのは多分、破壊力をもっと純粋に凝縮したもの。

 カイルの黙示録には光裂という未知の思念法の名があった。文字通りに解釈すれば、光をもって裂く。太古には裂と呼ばれる系統の思念法もあったのかも知れない。しかし、試してみたが、皆目見当も付かなかった。

 いずれにせよ、そんな激戦が繰り広げられたのは、南方域と西方域と中方域の接する辺り、おそらくあの一帯。今は眼下と同様の田園地帯となっていた。

 南都ナギエスカーラを離れてしまえば、空を飛ぶ者の姿を見掛けることはほとんどなく、スルイソラ大平原の上には自由な空が広がっていた。そして、高空高速飛翔を続けること約一時間半、西方域の中心都市クスヴィシュトロームが見えてきた。

 スルイソラ連合国の人口はフレクラント国の約六十七倍。その中でも比較的人口の少ない西方域だけでもフレクラント国の約七倍。エスタコリン王国の王都や、スルイソラ連合国の首都や南都ほどではないにせよ、クスヴィシュトロームを核とする西方域中心圏はフレクラント国の首府メトローナなど足元にも及ばないほどに広く大きかった。

 西方域評議会本部の会議室ではすでに最終検討会が始まっていた。僕たちは急いで着ぐるみを脱いで静かに入室し、一番後ろの席に着いた。部屋の前方にはエリク先生と西方域評議会の幹部。それに向き合う一般の席には、現地調査を担当した職員約二十名。僕は改めてエリク先生の隣に目を遣り驚いた。そこには、腕組みをしながら話を聞き続ける連合国評議会議長の姿があった。

 室内前方の壁には大きな地図が貼られ、最新の測定値と等高線図が手書きで加えられていた。そして西方域各所の状況。現地に赴いた職員たちが順次口頭で説明を続けていた。聞いた限りでは、三年前の測定結果と大差ない模様。ただし、いくつかの地点で自然精気の環境中濃度が幾分下がってしまっていた。職員全員の報告が終わると、エリク先生は環境の保全を訴え始めた。

 西方域には十分な食糧生産力があり、食糧備蓄の体制も整っている。したがって、農地をこれ以上増やす必要は無く、自然精気の濃度が高い地点を中心に自然な植生の回復に努めるべきである。

 そのように先生は力説したが、西方域の幹部や職員の反応は鈍かった。議論が途切れた所で、僕は「よろしいでしょうか」と席から立ち上がった。

「久し振りだな。サジスフォレ君」と議長は言った。

「はい。あの時はどうも」

 そう言って僕が頭を下げると、議長も黙って頷き返してきた。

「連合国評議会の夏の会合は……」と僕は曖昧に尋ねた。

「もう終わった。最終検討会に間に合うよう、急いで帰ってきた」

「連合国評議会の議長が西方域代表の方だったとは知りませんでした。でも、それならそれで、せっかくですから聞いていただきたいと……」

「いや」と議長は笑みをこぼした。「今は西方域評議会の議長だけだ。連合国の議長は持ち回り制なので、今は違う」

 僕がアッと呆気にとられると、議長は「それで?」と続きを促してきた。

「話を聞いていて思ったのですが、皆さんは環境の改善に消極的なのですか? 環境が良くなれば、いずれ西方域の人たちも自己治癒魔法を使えるようになるはずですけど」

「我々も治癒魔法の重要性は重々承知している。だから、ヴェドレゼリナ先生の勧めに従って、魔法医術士の住居や魔法医術の診療所に遮蔽材を取り付けて、屋内の自然精気濃度を高めたりもしている。しかしだな……」

 議長はそう言うと腕を組んで首を傾げ、ウームと唸った。僕は指摘を続けた。

「これ以上濃度が下がったら、魔法能力者は完全にいなくなってしまいます。そうなったら、西方域の魔法医術は崩壊してしまいますよ」

 僕の指摘に、議長は溜め息をついた。

「この問題は政治的に極めて微妙でな……」

 話が長くなりそうな気配を感じて僕が腰を下ろすと、議長はおもむろに語り始めた。

 方域評議会の幹部議員や方域評議会本部の幹部職員になれるのは高等学院か師範学校を卒業した者のみ。この統治者規定は連合国の建国時に当時のフレクラント国大統領が強要したものであり、現在も連合国全体で順守されている。

 列国時代のスルイソラに方域という地理的区分は存在しなかった。例えば、当時の西方域にはクスヴィシュトロームという国があり、その周辺には小勢力が点在していた。そして、クスヴィシュトロームにせよ小勢力にせよ、統治者は実質的に血筋もしくは声や態度の大きさで決められていた。

 例えば、人が生きていくためには食糧および薪や炭などの燃料が必要になる。一人当たりの食糧と木材の消費量は調べれば分かる。土地当たりの食糧と木材の収穫量も調べれば分かる。すると、人口に見合った農地面積と焼畑農法の規模も推定できる。しかし、多くの者はその程度の知恵すら回らず、資源の浪費や最悪の場合には奪い合いを始めてしまう。

 知性の欠乏。見識を持たぬ者による統治。それが長きにわたるスルイソラの内乱の主因。そのような認識に基づき、フレクラント国大統領は連合国の教育制度を整備し、統治者規定を導入し、さらには連合国評議会に高等学院の代表者を加えるよう強制した。

 方域評議会の幹部議員や方域評議会本部の幹部職員は高等学院か師範学校の卒業者。そのため、魔法を使えなくとも、その概要は知っている。魔法能力を持つ子供たちが真っ先に発現させるのは自己治癒魔法や浮揚魔法、そして空爆魔法。

「つまり」

 議長はそう言うと、僕に目を向けてきた。僕は議長の言わんとすることを理解した。

「つまり」と僕は言葉を続けた。「下手に人々の魔法能力を高めたら、そこら中の人が空爆魔法を使うようになる。そうなったら、声と態度と空爆によって人の上に立とうとする者が出てきてしまう」

「その通り」と議長は頷いた。「声と態度ぐらいならともかく、空爆まで使われたら、もう手に負えない。知性に基づく統治は崩壊し、破壊的な力が支配する世界となってしまう」

「でも」と僕は反論した。「教育をもっと充実させれば良いのではないでしょうか。現に今でも、対象者はごく少数とは言え、連合国の魔法教育は上手く行っているのですから」

 議長は軽く鼻で笑った。

「さすが師匠と弟子だな。ヴェドレゼリナ先生と同じことを言う」

 その時、珍しいことにアンが「はい」と手を上げ、すっと席から立ち上がった。

「私は自然精気の濃度と、人々の魔法に対する認識の相関を調べているのですが……」

「先生から話は聞いている」

「連合国の人々の多くは魔法に対して恐怖心や嫌悪感を持っています。もし皆が魔法を使えるようになったら、破壊的な側面を持つ魔法を忌避するような規範が自然に発生するのではないでしょうか。実際フレクラント国では、そういう魔法は滅多に使われません」

「規範か……」と議長は呟いた。「君は昨年、サジスフォレ君と一緒に南西方域を回ったそうだな。君に絡んできた男たちは魔法を恐れていたかね?」

 アンは返答に窮する様子を見せた。

「魔法使いも無敵ではないだろう。例えば、不意を突かれて背後から襲われたら、いくら魔法使いでも一溜まりもあるまい。なあ。エペトランジュ君」

 アンは曖昧に頷いて同意した。

「ああいう輩は魔法の実態は知らなくとも、そういう事情は理解している。つまり皆が皆、魔法使いに恐怖を抱いている訳ではない。しかも、自分も魔法を使えるようになりたいという羨望もしくは嫉妬もある。本格的な空爆の威力は絶大だ。空爆による破壊は完全に予防しなければならない。しかし、そこまでの厳格な規範が定着するとは私には思えない」

 そこまで言い切られたら、アンも腰を下ろすだろう。そう思って一瞥すると、またもや珍しくもアンは食い下がった。

「自然精気や魔法の話になると、連合国の方々は常にフレクラント国を比較の対象とされますが、エスタコリン王国のことを考えてはいかがでしょうか。エスタコリンでも、貴族も一般民も自覚的に魔法を使用しています。しかし、魔法能力は全般的にかなり低いので、魔法による破壊は一般的な事故や犯罪の一部として扱われています」

「そのような議論もあるにはあるのだが」と議長は首を振った。「君に言うのも何だが、エスタコリンは純然たる階級社会だ。エスタコリンの社会秩序は参考にしづらい」

「はあ……」とアンは曖昧な返答をした。

 僕は議長の言葉の端で気付いた。議長はアンの真の素性を知っている模様。同時に、僕はアンの積極的な発言の理由も何となく理解した。議長は話しやすい人。なあ、何々君。そんな風に声を掛けられると、なぜか親近感が湧いてくる。

「我々も願ってはいるのだ。健やかに長生きしたいと。重労働から解放されたいと。大人にはもっと自由な時間を、子供にはもっと良い教育をと。だから、我々も自然精気の濃度を少しでも上げようと努力はしている。同時に、我々は魔法だけでなく一般医術や一般工学にも期待を寄せている」

 アンが腰を下ろし、この話はここで終わった。

 その後しばらくの間、評議会幹部と本部職員の間で議論が続き、それをもって本年度の調査活動は全て終了した。弛緩した空気が広がり、皆が席を立とうとした。その時、議長が声を上げた。

「諸君。せっかく、フレクラントの魔法使いが二人も来てくれたのだ。少し話を聞こうではないか」

 皆が再び腰を下ろした。

「サジスフォレ君。忌憚の無い所を聞きたい。フレクラントの行商人は中々クスヴィシュトロームまで来てくれないのだが、なぜなのだろう」

「忌憚の無い所ですか……」と僕は探りを入れた。

「そうだ。遠慮なく言ってほしい」

 僕は少しためらった後におもむろに口を開いた。

「フレクラントから一直線に南下して、北限の街ロスクヴァーナ、首都ノヴィエミスト、南都ナギエスカーラ。それが行商の主要経路です。例えば、その東には海があって海産物が手に入ります。一方、西には平原、丘陵、さらに先には山。産物が、つまり商品がフレクラントに似ているんです。農耕畜産にせよ工芸にせよ、もっと珍しい物があれば……」

「西方域には特徴的な産物が無いと……。我々にもその認識はある」

「クスヴィシュトロームの人たちから見れば、フレクラントは商売相手としては小さすぎるのかも知れませんが」

「一般的な通商の観点からはそうなのだが、我々としてはそれ以外の仕事も提供できる。例えば、高等学院はフレクラントの行商人に様々な仕事を委嘱しているだろう」

「それは第一種行商人向きの仕事ですよね。行商人は第二種の方が多いんです」

「昨日ノヴィエミストからこちらに帰ってくる時、フレクラントの行商人に運んでもらったのだが、やはり君と同じことを言う。どの行商人に訊いても、答はいつも一緒だ。忌憚の無い所を聞かせてほしい」

 僕は迷って隣のアンに目を遣った。アンは首を小さく横に振った。前方のエリク先生に目を遣ると、先生は小さく頷いた。僕は現地人である先生の考えを採用することにした。

「議長はもちろん、おそらく他の皆さんもご存じのこととは思いますが、先ほど挙げた主要経路以外の地域には偏屈な人が多いという印象があるんです」

 その瞬間、室内が微かに騒めいた。

「僕は一年以上にわたって連合国に住んでいますが、やはりそれは真実だと思います。ただし、単純な意味での偏屈とは違うと僕は最近考えるようになりました」

「ほう」と議長は声を上げた。「ぜひ、その話を聞きたい」

「例えば、ロスクヴァーナやノヴィエミストやナギエスカーラでは標準語が普通に使われています。しかし、他の地域にはそれぞれに方言があり、標準語の使用を頑なに拒む人も多い」

「連合国人は排他的であると言いたい訳か」

「歴史的な経緯のせいでしょうが、かなりの連合国人には他者を二元論で認識する傾向があります。つまり敵か味方か。そして多くの場合、まずは見知らぬ者は敵かもと疑う。しかし、現代の平穏な社会は明らかに、少数の敵、多数の中立、少数の味方の三元論で成り立っています」

「つまり、連合国人の認識は古すぎると」

 僕が「はい」と頷くと、議長はフームと深刻そうに鼻を鳴らした。

「言いたいことは分かる。連合国には人が多い。にもかかわらず、高等学院は二院しかない。連合国中から優秀な若者を集めて交流させるべしとの趣旨なのだ。西方域からはノヴィエミストとナギエスカーラの両院に学生を送り出している。ちなみに、私はノヴィエミストの卒業生だ。今サジスフォレ君が指摘した点は、確かに私も高等学院に入って初めて実感した。にしても、他国から見ると、近付きたくないと思うほどにひどいのか……」

「現に南西方域評議会の議長には『もう来るな』ときつく言われてしまいましたし……。でも僕としては、全般的に連合国の人たちは好きです」

 室内の数か所から「ん?」と鼻音が聞こえ、議長が「どういうことかね」と尋ねてきた。

「実際に住み続けて分かったのですが、一度親しくなってしまえば、皆さん陽気で気さくで楽しくて、義理や人情に篤くて……」

「そうか。君はそう言ってくれるか」と議長は感じ入ったように言った。

「多分、それは二元論的認識の別の側面だと思うんですけど」

「そうかも知れないな」

「それに比べて、フレクラント人は何だか陰鬱で……」

「それは安易に口にしない方が良かろう。なあ。流星の魔法使い」

 その時、僕はふと思い付いた。

「それならまずは、祭りで見物客を呼ぶのはどうでしょう。西方域には姫転がしと彦跨ぎという奇祭があるそうですが」

 議長は言葉に詰まる様子を見せ、ハハと虚ろな笑いを漏らし、ウーンと首を傾げた。そこで会話は途切れ、わずかに間が空いた。するとアンが「あのう……」と声を発した。

「ケイは……、サジスフォレ君は流星の魔法使いと呼ばれているのですか?」

「ああ」と議長は肯定した。「サジスフォレ君の光球の色は他の魔法使いとは微妙に異なっているそうだな。他の魔法使いは黄味がかった白、サジスフォレ君は真っ白だと。消えることなく夜空を突き切る、真っ白に輝く流星。正体を知らずに、サジスフォレ君の光球に願い事をしていた子供たちもいるそうだ」

 突然、会議室の扉が開き、外から「議長。そろそろ次の仕事に」という声が聞こえてきた。議長は「もう少し」と押しとどめた。

「ところで、サジスフォレ君は速報を出すそうだな」

「はい」と僕は答えた。「今、原稿が発行所に回っています。近々発送されるはずです」

「君は精気を目で見ることが出来る道具を開発したんだって?」

 その言葉に室内がどよめき、皆が僕の方に振り返った。

「はい。まだ原型器の段階ですが、今持ってきています。見てみます?」

「おう」と議長は声を上げた。

 背嚢から精気視認器を取り出して室内前方の議長の席に持って行くと、職員たちも席を立って集まってきた。議長を呼びに来た職員までもが加わり、そこからは、驚き、興奮、感嘆。先日の審査会と同様の光景が繰り広げられた。

 精気視認器が皆の間を一巡すると、議長が僕とエリク先生に声を掛けてきた。

「我々西方域評議会も開発を支援する。だから、実用品が完成したら優先的にこちらにも回してほしい」

 僕とエリク先生は同時に「はい」と頷いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 高等学院二度目の夏休みも残り二週間。相変わらずの研究生活が続いていた。

 エリク先生は僕の精気視認器をほぼ独占し、学院南東隅の遮蔽材を張り付けた小屋周辺を観察三昧。アンはひたすら古聞大全を分析し続け、僕はエリク先生の助手を務めたり、生命力工学専攻に出向いたり。僕は大きな仕事を終えたばかりだった。少しは休みたいとの気持ちもあり、ここの所は幾分弛緩した生活を送っていた。

 せっかくの長期休暇、しかも新婚。少し休んで遊んでくれば良い。先生はそう勧めてくれたが、それでは生真面目なアンの気が治まらなかった。北の大森林では今年も遺跡調査が行なわれている。しかし、あちらははるか遠方。気軽に覗きに行けるような場所ではない。しかも、自分は今や既婚者。独りで勝手な行動を取る訳にもいかない。それなら、こちらで自身の研究を続けた方がまし。それがアンの結論もしくは諦念だった。

 その上、アンには未だにイエシカさんを警戒している節があった。僕を放置したら、イエシカさんが僕を夏祭り巡りに連れ出してしまうのではないか。アンはそんな懸念を抱いている様子だった。それならばと僕がナギエスカーラの大行進への参加を持ち掛けてみると、アンはあの全裸に近い開放的な女性用衣装を恥ずかしがった。

 結局この夏休み、休日以外に取った休みはたったの二日。夏祭りの日とその翌日。二人で大行進を見物して熱気に当てられ、超越派の霊魂に酔わされた感覚を思い出し、すぐに自宅に戻って翌々日の朝まで昼夜を問わずに互いを貪り合って終わってしまった。

 来週は夏休みの最終週。そろそろ準備を始めようかと思いながら学院の工房から研究室に戻ってみると、研究室に一人残って作業を続けていたアンが学院事務局からの連絡を伝えてきた。僕宛ての訪問客が来ているらしいと。

 フレクラント国の生命力工学研究者で名前はカイ・ブロージュ。僕の速報を読んで教えを請いにきたらしい。アン自身はその言葉に何の疑問も感じていない様子だった。しかし、僕はすぐに気が付いた。フレクラント国高等学院に生命力工学専攻は存在しない。その上、いかにも雑で嘘っぽい名前。あの人が来た。真っ先に来たのはあの人だったと。

 カイルは事務棟の玄関脇に独りたたずんでいた。学院の若々しい雰囲気に全くそぐわない黒々とした存在感。僕は緊張気味に近寄った。

「久し振りだな。ケイ」

「お久し振りです。空いている講義室にでも行きましょう」

 そう声を掛けて、僕は先に立ってその場を離れた。

 夏休みの高等学院。いくつかの特別講義が行なわれているのみの閑散とした講義棟。僕たちは人影の全く無い講義室で向かい合った。カイルは学生用の座席。僕は教壇に立ち、その配置に居心地の悪さを覚えながらも、求めに応じて解説を始めた。

 拡張生命力方程式の構造、解法と解。精気視認器の設計図と構造。カイルは鋭く真摯な視線を僕に向けながら手帳に記録を取り続けていた。

 約二時間が経ち、僕の説明が終了すると、カイルは大きく息を吐いた。

「たったの一年か、これほどの成果を上げるのに……。そう言えば、君は際立って数学に優れていたな」

「申し訳ありませんでした。あなたの成果も重要な手掛かりとなったのは事実なんですけど、謝辞にどのように書けば良いのか分からなくて……」

「構わない。方法論の提案こそが貴重なのだ。それは君の手柄だ」

「あなたは魔法工芸の水準で、どうやって分光器を開発したんですか。現代数学も生命力工学も演繹的設計も無かった時代でしょう」

「試行錯誤だ。延々と、延々と、二百年以上」

 気の長い話に、僕は虚脱感と倦怠感を覚えた。やはり、この人は執念の塊。

「拡張生命力方程式、演繹的設計、代数的連結と縮約……。私の分光器にも改良の余地がありそうだ……。だが、君のその設計と製造法では感度も解像度も上がるまい」

「教えてくれるんですか」と僕は驚いた。

「何も、一方的に収奪するつもりは無い」

 意外にもカイルは親切だった。その後しばらくの間、いくつかの問題点を指摘し、その改善法を提案してくれた。さらには、自身の手帳から数枚の紙を破り取って僕に差し出し、筆記具までも貸してくれた。律儀と言うよりも公平公正。僕が差し出せば、それに応じて返してくれる。この人はそんな人なのだと僕は感じた。

 指摘が終わると、カイルは座席の背凭れに身を預けて姿勢を崩した。

「これで君も博士だな」

「どういう意味ですか」と僕は呆気にとられた。

「知らないのか?」とカイルは呆れ顔になった。「速報だぞ。制度上、君にはいずれ時機を見計らって博士号が授与されるはずだ。例えば前期課程修了時辺りに」

「全然知りませんでした。あなたは良くそういうことまで知っていますね」

「私もかつて博士だった。政治学と芸能文化学の」

「芸能?」と僕は意外感を覚えた。

「はるかな昔、吟遊詩人を生業としていたことがある。見たこと、聞いたこと。後々の世で素知らぬ顔をして書き記したら、喜んで学位をくれた」

「吟遊詩人」と僕は驚いた。「楽器を演奏しながら歌って、娯楽や情報を提供して回る仕事ですよね」

「歌唱と弾き語りは違う。私は竪琴の弾き語りだった。売りは物語の内容と脚色だ」

 はるかな昔にそうやって各地を巡ってエステルを探し出したのかと僕は気付いた。

「君の行商人としての種別は?」とカイルが尋ねてきた。

「第二種です」

「フレクラントの第一種行商人は吟遊詩人が転じたものだ。君も吟遊詩人の末裔にならなれる」

 カイルの用件は全て片付いた様子だった。僕は完全に話題を変えた。

「ところで、どうしてもいくつか訊きたいことがあるんです。まず、あなたをどのように認識すれば良いのか。カイルか殿下か、僕の中ではどうしても認識が定まらないんです」

「現世の名で呼んでもらいたい」

「それなら殿下。覚醒ってどういうものなんですか」

 エルランド殿下の顔に薄い笑みが広がった。

「君は子供の頃のことを覚えているか。例えば初等学院に入る前のこと」

「いいえ。事実関係の概略は知っています。でも、当時の記憶はほとんど残っていません」

「さぞかし無邪気で陽気な子供だったのだろうな。今の辛気臭い君とは全くの別人」

「そうかも知れませんね」と僕は鼻で笑った。

「別に腐している訳ではない。ある意味では褒めているのだ。にやけ顔が染み付いた男ほど無様なものはないからな」

「確かに」と僕は同意した。

「もし、今ここで当時の記憶が完全に蘇ったら、君は昔の君に戻るのか?」

 僕は理解し、言葉に詰まった。

「ああ、そうだった。私はかつて何々だった。覚醒するたびに、私はそう思った」

「個人差があるんでしょうね」

「そうだろうな。覚醒の前後に人格の統合が弱まってしまう者が多い。そのまま崩壊してしまう者もいる」

 そう言えば七年前の殿下。あの収拾のつかない異様な言動は覚醒の前兆だったのだろうか。あの頃、他の人たちも、殿下は何を考えているのか良く分からないとこぼしていた。

「アンは……、アンソフィーはエステルではないんですね?」

「アンソフィーは転生者ではない」

「ええ?」と僕は驚いた。「一体何が……。去年のあの時、僕に何を見たんです」

「自分で調べろ」

 殿下は僕の要求に無制限に応えてくれる訳ではない様子だった。

「イエシカさんの背後にはアルさんがいて、アルさんの背後にはあなたがいるんですね?」

「その通り」

「殿下の手の者になるのは構わないんですけど、無理難題や無茶なことは嫌ですよ」

「能ある者は敵に回すものではなく、味方に付けるもの。単にそれだけだ」

「それならイエシカさんにはどんな能が。決して馬鹿にして訊く訳ではないんですけど」

「イエシカは慎重かつ大胆であり機転が利く。そういう者にしか任せられない事柄もある」

 僕は何となく納得して、次の問いに移った。

「クリスタさんとは仲良くしていますか」

「それは立ち入り過ぎた問いだろうな」

「去年王宮で会った時も、クリスタさんは王宮を発とうとする僕に食べ物を持たせてくれたり、色々と良くしてくれたんです。それに、お子さんたちにも会いました。殿下の願いの本質は、大勢の家族に囲まれて楽しく平穏な日々を送ることなのでしょう?」

「それは君の主観だろう。君は自分の願望を他人に投影している」

 僕は言葉に詰まり、講義室の天井を見上げた。

「君は黙示録をどこまで読んだ」

 僕は殿下に視線を戻した。

「読んだからといって責めたりはしない。自分の手から離せば他人に読まれることもあり得るだろうとは最初から覚悟していた。ただし、内容を公言されるのは不快だ」

「一度目の生から四度目の生まで読みました」

「君は例えば、幸せそうな者や楽しそうにしている者を見ると、無性にその頬を叩きたくなることはないか」

 僕は「んん?」と強く鼻を鳴らして疑義を呈した。

「もし十年前に戻ってやり直せるとしたら、君はどちらを選ぶ。白狼を追い払ってあの事件を引き起こさない。君を陥れた者たちやあざ笑った者たちを皆殺しにする」

 僕は即答できなかった。

「私は自分自身の狂気を理解している。だから理知的であろうとしている」

 僕は殿下を見詰めた。

「心配するな。クリスタは私の宝物だ。それに、しばらくしたら五人目が生まれる。今度は娘のようだ」

 その臆面の無さに呆気にとられながらも、僕は「おめでとうございます」と頭を下げた。

「忘れる前にもう一つ。殿下がアルさんを通して僕とアンの結婚を後押ししてくださったんでしょう? その件でお礼を言っておかなければと思っていたんです」

 殿下は顔をしかめて舌打ちした。

「なぜ私が。アロイス・ソルフラムだ。アロイス・ソルフラムが発案し、リゼット・ジランがアルヴィン陛下に働き掛けた。私が妃選定の終了を宣言したらすぐにだ。何と手回しの良いこと」

 僕は驚いた。三級屈辱刑の真相を調べてくれたソルフラム前大統領、そしてジラン現大統領が裏で動いていたとは。

「何でソルフラムさんが……」

「ソルフラムぐらいしかいるまい。君の首に鈴を付けられるのは」

 強面で藪睨み。僕と同じく自然強化魔術まで駆使する魔法使い。確かに、僕はあの人の前では直立不動、大言壮語など出来そうにない。

「僕は鈴を付けられたんですか……」

「アンソフィーは良い女か?」

「そう思いますが」と僕は肯定した。

「それなら言ってやれ。君は僕の宝物だと」

「そんな……」と僕は躊躇した。「そんな恥ずかしい台詞は中々言えませんよ」

「何を言っている。フレクラントでもエスタコリンでも夫婦は皆、普通にそう言い合っている」

 僕が「そうなんですか?」と訊き返すと、殿下はアアと平然と頷いた。

「そして、君の方こそアンソフィーに産ませて産ませて産ませ尽くすが良い」

 お馴染みの悪趣味な言い回し。そして、僕は何か引っ掛かるものを感じて、そのまま考え込んでしまった。

 声と足音。どうやら、どこかの特別講義が終了した模様。講義室の外の廊下を学生たちが通り過ぎていった。それに釣られたのだろう。殿下が口を開いた。

「フレクラントは秋に入ったが、ここももうすぐか」

「はい。再来週から秋学期です。でもその前に、研究室全員でフレクラントへ行くことになっているんです。精気視認器でフレクラントの環境調査を行なうことになって」

「ほう」と殿下は声を漏らした。

「それから、先史時代のスルイソラの状況に関する手掛かりも探すことになっていて……。殿下は何か知りませんか。特にスルイスラの街が廃墟になった頃のことを」

「知らない」と殿下は即答した。

「実は、フレクラント国高等学院の精神治療施設にも行くことになっているんです。知っていますか。あそこには今、リエトらしき人物が収容されています。たとえ気が触れていたとしても、訊けば何らかの情報を得られるのではないかと……」

「あれはリエトではない」

 僕はエッと驚いた。

「あれは自分をリエトと思い込んでいる別の転生者だ」

 僕は絶句した。

「まあ、行って聞き取り調査でもしてみれば良い。何か得る所があるかも知れない」

 その瞬間、長年にわたってもやもやと渦巻いていた疑問が解けたような気がした。

「殿下は、今でもリエトとカイルとエステルはほぼ同時に転生していると思いますか」

「私はそう思っているが」

「もしかしたら、三人の繋がりはすでに切れてしまっているのではありませんか」

「何?」と殿下は低い声音を出した。

「僕はずっと思っていたんです。なぜ黙示録の中のエステルはこんなにも影が薄いのだろうと。筆者の心情に関する記述はあっても、生の回数が進むにつれて、エステル当人に関する記述はどんどん減っていく。全ては筆者の主観だったんだ」

「確かに、そういうものを妄執と呼ぶのだろうな……。それで何を言いたい」

「妄執を妄執と認識している。それはもはや妄執たり得ないのではないだろうか」

「それなら、筆者が転生を繰り返している理由は何だ」

「気になってこの前、少し調べてみたんですが……」

 スルイソラ連合国を建てたのはフレクラント国大統領。その大統領が生まれたのは今から約二千四百八十年前。スルイソラ連合国が成立したのは約二千三十年前。その時、大統領は約四百五十歳。

 スルイソラ制圧を実行したのはフレクラント国大統領府常設警邏隊。当時の常設警邏隊の規模は現在と同じく二十名強、予備役を入れても約四十名。そんな小規模な部隊を相手に、スルイソラの各軍勢は全く歯が立たず、徹底的に抗戦した者は殲滅されてしまった。

「筆者は四度目の生でエスタスラヴァ王国を建てた。もしかして、五度目の生ではスルイソラ連合国を建てたとか。もしそうなら、生の目的はもはや……」

 殿下は黙って聞き続けていた。

「筆者が現在、常設警邏隊の様子を探っているのは、常設警邏隊が当時の実力を保っているかを知りたいから」

 殿下は僕を睨みながら机の上に手を置き、人差し指でとんとんと机を小さく叩き始めた。

「別に、筆者に対して含む所があってこんなことを言っている訳ではないんです」

 突然、殿下は高笑いした。

「君は頭がおかしい」

「褒め言葉と受け取っておきます」

「違う。妄想も程々にしておけ。君は魂に染み付いた衝動を理解していない。大統領は単なる雑用係だ。仮にフレクラントに転生していたとしても、私はそんなものにはならない」

 僕は呆気にとられた。そんな僕を無視し、殿下はさっさと荷物をまとめてしまった。

「君は自身の存在理由を見出したか」

「存在理由は見出すものではなく作り出すもの。僕はその時々でやりたいことをやるだけ」

「なぜ、そう考えるようになった」

「存在理由の考察と運命論には密接な関係がある。良く考えてみたら、僕は元から運命論など信じていなかった」

「私をからかっているのか? 君の言は戯れ言の域を脱していない」

「どういう意味ですか?」と僕は平然と訊き返した。

「存在理由は優れて個人的なもの。他者の言説との関係性によって決まるものではない」

 殿下は鼻で笑いながら席を立ち、そのまま講義室から出て行った。その後ろ姿を眺めながら僕は思った。やはり殿下はさすがだと。何度も訊くからこちらから試してやろうと思ったら、運命と運命論の違いを殿下はきちんと聞き分けた。

 

◇◇◇◇◇

 

 夏最終週の第一日、僕はフレクラント国の首府メトローナに向けて高空帯を飛び続けていた。僕の隣にはアン。僕たちのわずかに後方には、僕たちに綱で繋がれたエリク先生。僕とアンは行商人用の特大背嚢を、エリク先生は亀の翼と背嚢を背負い、僕とアンがそれらにこっそりと強制浮揚術を掛けていた。

 途中、休憩がてら北限の街ロスクヴァーナで精気視認器を用いて人々や木々を観察。やはり南都ナギエスカーラと大差無かった。さらに途中、フレクラント国とスルイソラ連合国を隔てる大山脈の稜線上でも観察してみたが、さすがにそこは森林限界の上。わずかな草と灌木があるのみで、やはり環境は南都ナギエスカーラと大差無かった。稜線の下方、渓谷には木々が生い茂っていたが、降り立てる場所が見当たらず、僕たちは観察を諦めてフレクラント国を目指すことにした。

 訊くと、エリク先生はこれまで二度ほどフレクラント国を訪れたことがあるらしい。そして、しきりに感心していた。今日の飛翔は非常に速いと。そのたびに僕たちは笑ってごまかした。今日からは、僕はもちろんアンも自力で強制浮揚術を掛けていた。

 午後、首府メトローナに到着した。さっそく宿屋に二部屋二泊を申し込み、僕たちは余計な荷物を置いて街外れの公園へ徒歩で向かった。

 勝手知ったるメトローナ。僕は四年半にわたってこの街に住んでいた。あの頃はいつも独りきり。平日は中等学院で黙々と勉強、洗濯等は夜に済ませて休日は行商。途中、大山脈の稜線に降り立ち、儲けを確かめてみたり、思念法の練習をしてみたり。強制吸入術などはそんな中で身に着けた技術だった。

 雲が出ている際は超高空帯付近にまで上昇し、重りをぶら下げて上下を確認、方位磁石で方向を確認、温熱魔法で雲に穴を開けて突き進む。気流が乱れすぎている場合や稲妻が走りそうな場合は迂回して、エスタコリン王国を抜けてスルイソラ連合国へ。ただし、そんな遠回りは二度でやめた。二度とも結局一日では往復できず、途中の街でやむなく一泊。授業を欠席して中等学院の先生たちに叱られた。

 そんなことを思い出しながら中心街を抜けると、そこから先はルクファリエ村と同様の別荘地のような住宅地。その境に公園はあった。小さな池。それを囲む小道。そして東屋。エリク先生は僕から精気視認器を受け取ると、手近な木を観察し始めた。その瞬間、先生はウッと呻いた。

「どうしました?」と僕は尋ねた。

「サジスフォレ君。木の上の方も見たい。私に魔法を掛けて、ゆっくりと持ち上げてくれ」

 その求めに応じて、僕は先生の体を持ち上げ、再び地上に下ろした。

 先生が無言で僕に精気視認器を差し出した。僕もそれを手に木を上から下まで観察。やはり言葉を失い、そのままアンに精気視認器を手渡した。

 アンが地上に降りてくると、それを見計らったように先生はウームと首を傾げて呟いた。

「既存の学説は全て誤り……」

「先生。池の周りを一周してみましょう」と僕は提案した。

 その後、半時ほど観察を続け、僕たちは東屋の長椅子に腰を下ろして議論を始めた。

 環境生命学の全学説は三つの仮説を前提としている。

 その一。精気循環仮説。少なくともこの大地では、自然精気は上昇している。上昇して大気中に拡散した自然精気は世界のどこかで下降に転じ、再び大地の奥底に戻っていく。

 その二。精気無限生成仮説。大地の奥底では自然精気が新たに生成されて続けている。それらの新たな精気も逐次、自然精気の循環に加わっている。

 その三。植物遮蔽仮説。植物が葉を茂らせれば、不完全ながらもそれが遮蔽材の役割を果たす。だから、樹木が枝を広げて頭上を覆えば、その下では自然精気の濃度が高くなる。

「実際にこの目で確かめてみると」と先生は水筒を片手に首を傾げた。「精気循環仮説の一部と植物遮蔽仮説の全てが誤りなのは明白だ」

「はい」と僕は同意した。「どう見ても、ここの木は精気を四方八方に放射しています。多分、地中から湧出している自然精気をいったん取り込んでいるんです」

「自然精気は上昇一辺倒ではなく、地表近くでも普通に水平方向にも流れ得る。木による取り込みと放射が水平方向の流れを生み、地表近くでの滞留時間を延ばし、地表近くの濃度を上げる。つまり、受動的な遮蔽ではなく能動的な方向転換」

「はい」と僕は相槌を打った。「連合国には常緑樹が多い。だから、木はいつも葉を付けて地表を隠しているような状態にある。そういう景色を見慣れているから、遮蔽と思い込んでしまった。そういうことでしょうか」

「そうだな。そうなんだろうな」と先生は大きく息を吐いた。

「フレクラントでは落葉樹が優勢で、葉を落としてしまう期間もあるのに、なぜか自然精気の濃度は下がらない。逆にそれも長年の謎だった訳ですが……」

「謎は解けた。木の幹や枝が精気を放射していたのだ」

 先生が「頼む」と言いながら、僕に水筒を突き出した。僕は温熱魔法で中のお茶を温め直し、落胆の溜め息をついた。

「概要は分かりましたけど、これ以上の詳細はこの精気視認器では無理ですね」

「そうだな」と先生も残念そうに応えた。「解像度をもっと上げて、像を拡大する機能を付けないと……。それはあとで生命力工学の者たちと一緒に考えよう。ところで小屋の件だが。例のいかさま媚薬の製造小屋」

 先生の冗談に、アンが軽く笑った。

「壁を取り払って東屋に改造しよう。壁の遮蔽材は屋根に付け替えて、上方向の遮蔽を強化して、水平方向の流れを作り出す」

「周囲の草木にその流れを当て続ける訳ですね」とアンは応えた。

「そうだ。やはり、君たちの主張が正しいのかも知れない。人間にせよ草木にせよ、いくら精気に関係する素質を持っていても、体が成長し切るまで自然精気を浴び続けなければ、精気に関係する能力は成長しないのかも知れない、もしくは発現しないのかも知れない」

「はい。私がそうでしたから」

「ところで、君たちはどう思う。私には実感が無くて良く分からないのだが、観察していてふと思ったのだ。フレクラントの魔法使いであれば、誰かが体感でこの種の精気の流れに気付いていてもおかしくないのではないかと」

「いえ」と僕は否定した。「自然精気の濃い薄いは体感で分かります。大地から湧き出してそのまま上昇しているのも何となく分かります。でも、自然精気は魂よりも密度が低いので、感じられるのはその程度です。だから、これほどの詳細は誰も知らないと思います」

「私もそう思います。私の感覚でも同じです」とアンも同意した。

「そうか」と先生は小刻みに数回頷いた。

 先生が水筒の温かいお茶を口に含んだ。それに合わせて、アンも温かいお茶、僕は自分の水筒に冷却魔法を掛けて冷たいお茶で喉を潤した。

「先生」とアンが口を開いた。「上昇した精気は世界のどこかで下降に転じている。そうでなければ、精気の一つである魂は世界を循環せず、転生という現象も起きないことになる。と言うことは、世界のどこかに精気を循環させる何かがあることになりますが」

「そうだな」と先生は頷いた。「精気には気配の場が付随している。つまり、世界全体に精気があるのなら、世界全体に気配の場もあるということになる。その気配の場に世界規模の何らかの構造があるのだろう。これはサジスフォレ君の次の研究課題だな」

 とてつもなく大きな課題に、僕は「はい」と苦笑した。

「今回の発見は三人の連名で発表しよう」

「速報になるんですか?」と僕は尋ねた。

「いや。生命学系で特集を出そうという話が出ている」

 特集発行の件は初耳だった。

 一般の論文は年に一回刊行される学院全体の紀要に収録される。特定の分野で研究が大きく進んだ際には随時、複数の論文をまとめて特集として刊行する。そして、特に大きな成果が上がった場合は単発の速報。

「これから忙しくなるが、楽しみだな」

 先生の言葉に、僕とアンは大きく頷いた。

 僕たちはいったんそこで解散した。夕方に宿屋で落ち合うことを約束して、先生は精気視認器を手に観察を続行。僕は今回の会計係として両替所でスルイソラ通貨をフレクラント通貨に交換。アンはどこかへ向かって飛び去って行った。

 陽が沈み、夕飯時となった頃だった。アンが宿屋に戻ってきた。その背後には僕の両親。僕は目を剥いた。すぐさまこっそりとアンに事情を訊いてみると、アンが事前に手紙のやり取りをしていたとのことだった。

 早速、宿屋の正面玄関を入った所で自己紹介が始まった。一家を代表するのは女の役目。その自覚があるのか、アンが場を取り仕切り始めた。

「先生。こちらはケイの母、マノン・サジスフォレ生命学博士です。現在、初等学院の教員、教員組合生命学部会の副幹事、フレクラント国高等学院生命学専攻の運営委員を務めています」

 次いでアンは父を指し示した。

「こちらはケイの父、クレール・エペトランシャ・サジスフォレ一般工学博士です。現在、フレクラント国の副大統領、フレクラント国西地方の中統領を務めています」

 それらの紹介に、エリク先生は背筋を伸ばした。その顔には驚きの表情。

「エリク・ヴェドレゼリナと申します。ナギエスカーラ高等学院の生命学系生命学専攻の副主任、環境生命学研究室の責任者を務めております」

「博士」と母は笑みをこぼした。「堅苦しいことは抜きにしましょう。かの有名なヴェドレゼリナ博士がお越しになるとのことで、とても楽しみにしておりました」

「いや。有名というほどでは……」と先生は謙遜した。

「スルイソラ連合国は物質的生命学の本場。ナギエスカーラ高等学院はその中枢。博士の開発された精気遮蔽材はフレクラントでも大いに活用されていますよ」

「ほう」と先生は嬉しそうな声を漏らした。

「例えば、魔法力を漏らしてしまう児童の隔離施設。例えば、精神治療施設の入院病棟。他にもいくつかの種類の施設で。それぞれ室内の自然精気を下げるために」

「下げるために……」と先生は微かに不審げに相槌を打った。

「それでは行きましょう。今夜は私たちに持て成させてください」

 母はそう言うと、宿屋の玄関を出ていった。

 行き先はどうやら僕とアンの結婚が決まった高級料理店の模様。そこまでの道中、「いつもアンとケイがお世話になっておりまして」などと在り来りな会話が続いていた。そんな言葉を耳にするたびに、親とは何なのだろうと僕は抽象的な疑問を感じた。

 料理店に着いて通されたのは、表通りに面した二階の個室。窓の外には日が暮れたばかりの街並みが広がっていた。円形の大きな食卓には結婚の際のものと同水準の料理、ただし種類は幾分違うもの。食前酒を口にしたためか、皆はいつになく饒舌になっていた。

「ところで博士」と母は言った。「アンとケイの様子はどうでしょう。何か粗相などはしていませんか」

「研究室の環境汚染が深く静かに進行中です」と先生は冗談で応えた。

「環境汚染?」と父が半ば笑いながら怪訝そうに尋ね返した。

「仲が良すぎて、全くもって目の毒です」

 アンが「先生……」と抗議の声を漏らすと、エリク先生はアンに笑みを向けた。

「半分は冗談だ。夫婦仲については心配する必要は無いと言いたいだけだ。君のケイ君への溺愛はあまりにも明白だからな」

 アンが絶句して俯くと、「あまりにも明白、ですか……」と母が呟いた。

「アン。その種の事柄については、時と場所を良く弁えるように」

 アンは顔を伏せたまま、無言で頷いた。次いで、母は僕に声を掛けてきた。

「先ほどから何を他人事のように黙っているのです。あなたはどう思っているのですか」

 その問いは予想外という訳ではなかったが、僕は特に答を用意しておらず、首を傾げた。

「ケイ。どうしたのです」

「連合国の皆さんは言葉の端々で冗談を言う」と僕は適当に答えた。

「そういう話ではなく」

「上手い冗談は連合国の教養の一つ」

「あなたはアンのことをどう思っているのです」

「アンは僕の宝物」

 その瞬間、皆の呆気にとられたような視線が僕に集中した。

 そんなことだろうと思った。エルランド殿下は僕を軽く嵌めるつもりで、あんなことを言ったに違いない。幸せそうな者を見ると頬を叩きたくなるとか、殿下はかなり不穏なことを言っていた。恥ずかしい台詞。今回は敢えて嵌められてみただけ。アンが喜ぶのなら、多少揶揄されるぐらいは構わない。

「良く言った」と父が声を発した。

「環境汚染だ」と先生は笑った。

「ケイ……」とアンは顔をさらに赤らめた。

「吟遊詩人ですか?」と母が尋ねてきた。

「えっ」と僕は意外感を覚えた。

「大昔の吟遊詩人の歌集に良くそういう言い回しが出てくるでしょう。ケイはそういう物も読むようになったのですか?」

「いや。まあ……。文学芸能史の講義も取ったし」と僕はごまかした。

「ケイの場合は当然本心なのでしょうが、人前で気軽に口にしてはいけませんよ。歌集の中では、その種の台詞は移り気を暗示する常套句です。知っている人が聞いたら勘違いしますからね」

 知らなかった。僕は神妙に頷いた。講義は取ったが不合格。やはり、殿下の方が一枚上手。予想を超えて巧妙に遊ばれてしまった。

 その後も他愛のない雑談と共に食事は続いた。僕の両親はフレクラント人としては未だ若年の範疇。ところが、スルイソラ人の視点からは信じられないほどの高齢者。エリク先生は両親を前にして恐縮し続けていた。

 僕にとっては意外なことに、両親には南都ナギエスカーラにかなりの土地勘がある様子だった。父は土木と利水の施政者として、母は生命学教育の実務者として、それぞれナギエスカーラ評議会とナギエスカーラ師範学校を訪問したことがあるとのこと。そして話題になったのは、フレクラント人とスルイソラ人の違い。

 僕の言葉に触発されたのか、皆は気質や物の考え方の差異を語り合っていた。一方、僕は独り黙々と別のことを考えていた。するとしばらくした頃、父が僕の見解を尋ねてきた。

「顔立ちが少し違う」

 僕がそう指摘すると、父は怪訝そうに「ん?」と鼻を鳴らした。

「髪の色か? それとも肌か? 確かにスルイソラ人の方が日焼けをしているが、それ以外は俺には大差無いように見える」

「耳の形。連合国人は耳の下側、耳たぶが少し大きい。逆に、フレクラント人は耳の上半分が少し大きい。それから、耳の凸凹具合も連合国人の方が少し複雑。エスタコリン人はその中間。どの違いもほんのわずかで、もちろん個人差もあるけど」

 皆がヘエと声を漏らした。

「だからもしかしたら、音の聞こえ方も少し違っているのかも知れない」

「お前、良く見ているな」と父は感心する様子を見せた。

「そう言えば……」と母は呟いた。「吟遊詩人の歌集に、魔法使いは森の中で兎のように耳を澄ますとかありましたね……」

 料理が尽きて会食もほぼ終了となった頃だった。母が「ところでケイ」と言った。

「速報を読みましたよ。立派な仕事です」

 珍しい誉め言葉に、僕は黙って頭を下げた。

「今回の調査では精気視認器を使っているのですか?」

 手荷物の中から精気視認器を取り出して手渡すと、母も父も興奮気味に確かめ始めた。

「ケイ。一度、フレクラント国高等学院の生命学専攻で講演をしてもらえませんか。あの速報は難解で、まだ誰も完全には理解できていないのです。そもそも名前は同じ生命学でも、フレクラントの生命学は魔法的生命学ですから」

 その瞬間、僕は不愉快になり、俯いて首を傾げた。

「ケイ君」とエリク先生は言った。「良い機会だ。ぜひ行ってきたまえ」

 僕はウーンと呻いた。

「講演をしても、どうせ返ってくるのは皮肉や嫌味や批判に決まっています」

「ケイ」と母は言った。「今はそんなことはありません」

「運営委員会の管理下に置いたとは言え、専攻内部の顔触れは変わっていない」

「話が良く分からないのだが」と先生が尋ねてきた。

「去年の蝗退治の直後、あの連中はわざわざ僕を糾弾しに来たんです。お前のあの蝗退治に肯定できる点など何一つ無い。お前のしたことは独善であり自己満足だと」

「なぜ」と先生は呆気にとられた。「当の連合国が功労者と認めているのに」

「蝗を殲滅するに当たって、連中の定めた魔法の使用法から逸脱する必要があったからです。権威主義的な管理者的発想。一国の災難よりも規則の順守。僕は連合国評議会議長に言われました。フレクラントは連合国の田舎にも劣ると」

 僕はふと不審に思い、母に尋ねた。

「講演の件、お母さんが思い付いたの?」

「いいえ。あちらから話があって」

「お母さんは知らないんだろうけど、こんなこともあった。あの屈辱刑は冤罪だった。なのに、それが悪評として国中に広まって、一部には根付いてしまった。だから、僕は武闘会に出て少しでも払拭したかった。でも、あの連中は僕を騙して参加を辞退させた」

「騙した?」と母は驚きの声を上げた。

「僕には並の硬化魔法など効かない。だから、僕の全国優勝は間違いなかった。もし、あの連中が僕の所に二年分の全国優勝の盾を持ってきて、あの二年間の最優秀魔法使いは僕だったと国中に告知するのなら、講演の件を考えてもいい」

「それは無理でしょう。話は専攻内部だけでは済まなくなります」

「分かっている。あの連中には絶対に使われたくないと言っているだけ」

「騙したという話は初めて聞きました。運営委員会で調査します」

「調査は不要。水掛け論になるのは分かっている」

 母は少しの間、何かを考え込むと、「それなら」と言った。

「フレクラント国高等学院でも毎年、武闘会を開いています。希望者のみの小規模な大会ですが、それに参加してみたらどうです」

 知らなかった。意外な提案だった。しかし気乗りしなかった。

「国の全員が参加しなければ意味が無い。それに結果は分かっている。並の魔法使いでは僕に勝てない」

「お前。凄い自信だな」と父が口を挟んできた。

「現代の硬化魔法と思念法の強制硬化術は、結果は同じでも過程が違う。僕と良い勝負になるのは多分、常設警邏隊員ぐらい」

 父は怪訝そうに、かつ感心したようにフーンと鼻を鳴らした。

「いずれにしても」と父は言った。「精気視認器の発明は国中で大変な話題になっている。あの冤罪に関わった者たちとお前とでは、頭の出来が根本から違ったのだと大きな噂になっている。名誉のことを言うのなら、これ以上を追い求める必要は全く無い。かつて、アルヴィン陛下はお前に言った。輝く時が来るのを待てと。お前は成し遂げたんだ」

 そこで言葉は途切れ、ややあって父が席から立ち上がる気配を見せた。

「明日もあることだし、そろそろお開きにするか」

 

◇◇◇◇◇

 

 調査旅行二日目。今日は朝から大障壁の西側、無人の森林地帯で草木の観察。やはり、結果は昨日と同様だった。さらには昼前、いったん首府メトローナに戻って大統領府の環境保全担当者に聞き取り調査を行ない、僕たちは問題の全貌をおぼろげながらも理解した。

 同種の木であっても、精気に関する能力には個体差がある。そして原因は不明だが、能力が高ければ高いほど、成長には年数が掛かる模様。この点が焼畑農法や植林事業にそぐわない。スルイソラ人は無自覚に能力の低い個体を選好して高い個体を排除し、その結果として自然精気の環境中濃度が下がってしまった。

 この新しい知見に、先生は独り黙々と考え込んでいた。メトローナの料理店で昼食を摂っている最中も、フレクラント国高等学院へ向けて飛翔を続けている今も。

 昼食時、僕を悩ませていた疑問を打ち明けると、先生はあっさりと解答を提示してくれた。自然精気の濃い環境が精気能力の高い木々を育てる。精気能力の高い木々が自然精気の濃い環境を作る。それなら、何も無い所からどうやってそんな状況が実現したのだろう。先生いわく、大きく異なる複数の要素が互いに影響を及ぼしながら同時に徐々に進展、発展、変化する。自然界には良くある話。

 そんなことを思い出していると、程なく眼下に高等学院が見えてきた。

 精神治療施設の玄関にはすでに歴史学専攻の主任、ジスラン・フレスコル博士の姿があった。今回のリエトらしき人物への聞き取り調査はエリク先生の名前で施設に申し入れたもの。その際、アンが歴史学博士に口添えを依頼していた。

 早速、僕たちは挨拶を交わして施設に乗り込んだ。すると通された先は見覚えのある会議室。そこにはやはり見覚えのある顔。施設長が待っていた。

 施設長はエリク先生と如才なく自己紹介を済ませると、「ところで」と僕に冷めた目を向けてきた。

「そこにいるサジスフォレ君ですが……」

「ケイ・サジスフォレ・エペトランジュです。どうぞよろしく」と僕は白々しく名乗った。

「彼も先生の学生ということでしょうか」

「その通りです」と先生は力強く答えた。

「彼は暴れ回ったりしていませんか。そういう者は困るのですが」

「私は、彼が蝗を相手に暴れ回ったことしか知りませんが」

「分かりました……。それでは事前の約束通り、患者の準備が整うまで建屋の視察をお願いできますか」

 案内された空き病室では、床板と壁板の一部が取り外されていた。先生は僕の光球の灯りを頼りに床下に潜り込んだり、壁を覗き込んだりを繰り返した。さらには建屋の設計図と照合。小一時間ほどそんな作業を続け、先生は施設長に遮蔽材設置に関するいくつかの改善点を指摘した。

 いよいよ、患者の準備が整ったとの連絡が入った。施設長は患者の個人情報の秘匿を強く求めた後、僕たちを施設の中庭に連れ出した。

 小さな木立の向こう側、屋外の長椅子には背を丸めて座る男の姿があった。顔も体全体もやつれ、胸元には吸収石の首飾り。まるで操り手のいない操り人形。かたわらに立つ介護職員に促されて、聞き取り役のアンが男の前に静かに立った。

 この男は転生者だがリエトではない。エルランド殿下は僕にそう言った。しかし余計な詮索を避けるため、皆には明かしていなかった。いずれにせよ、大昔の話を聞ければそれで良いのだから。僕はそう割り切って、筆記具と手帳を手にその様子をわずかに離れた場所から静観した。

 アンが会釈をすると、男はアンに目を向けた。男がアンに手を差し出し、アンがその手を取った。

「レダ? レダ?」

 生気の無い、か細い声だった。アンは穏やかに話し掛けた。

「今日はお話を伺おうと思って、やって来ました」

 男は手を放して俯いた。アンが声を掛けても、男は何の反応も示さなくなってしまった。

「この患者はいつもこんな感じなのです」

 施設長のそんな囁きが聞こえてきた。エリク先生が顔をしかめて首を傾げると、アンが途方に暮れた様子でやって来た。先生とアンが小声で善後策を話し合うのを脇目に、僕は筆記具と手帳を歴史学博士に手渡し、ゆっくりと男の前に立って会釈をした。

「リエト。お久し振りです」

 僕の呼び掛けに、男が顔を上げた。生ける屍としか言いようのない弛緩した表情だった。

「レダ? レダ?」

「リエト。お元気ですか?」

 男が僕に手を差し出してきた。僕は男の手を取り、男の隣に腰を下ろした。

「レダ? レダ?」

「見ての通り、私は元気です。リエトも元気を出してください」

 男が手を離し、ゆっくりと両手を伸ばしてきた。何だろうと思っていると突然、男は僕の首を絞め始めた。ギョッとして思わず手を振り払おうとした次の瞬間、僕は男の腕の細さに気付いた。皆に目配せして押しとどめ、そっと男の両腕に手を添えた。

「リエト。ごめんなさい」

 僕がとにかく適当に謝罪をすると、男は手を離した。

「リエト。昔の話を聞かせてください」

 男は「ん? ん?」と弱々しく鼻を鳴らした。

「忘れてしまったのです。私はほとんど覚えていないのです」

 男が再び両手を伸ばしてきた。僕は首を掴まれないよう、深々と頭を下げて「ごめんなさい」と謝った。

 男は手を引っ込めて俯いた。そして、アンの時と同様の沈黙。僕も失敗したのだろうかと諦めかけた時、男は意外にしっかりとした声で「わたった」と言った。

「海を渡った……。狩猟の野人。遊牧の蛮人。果てしない戦……。疲れた。逃げた。海を渡った。スルイスラは太陽の楽園を見付けた」

 僕は愕然とした。これは予想外の内容。神話を越える太古の話。

「リエト。人は大地の北の方にも逃げたのではありませんか」

 男は勢い良く両手を伸ばし、僕の首を強く締め始めた。僕は男の手を引き離し、咳き込みながら「ごめんなさい」と謝った。

「兎のごとき腰抜けども。フレクスラントは森の奥に隠れた。スルイスラは海を見た。スルイスラは迎え撃つ……。蛮族は追ってこなかった」

 僕は無言で頷いた。

「スルイスラは太陽を作った。夜を照らす太陽。闇を打ち消す太陽。太陽は弾け飛んだ」

 僕はふと気付いた。神話伝説大系に収録されている「月になった太陽」に酷似した言い回し。僕は深く頭を下げて「ごめんなさい」と謝った後に尋ねた。

「スルイスラは月になったのですか?」

「フレクスラントが太陽になった」

 男はしっかりと顔を上げ、背筋を伸ばした。体格自体は僕よりも幾分大柄だった。

「お前のせいだ」

「えっ」と僕は呆気にとられた。

「お前が太陽を砕いた」

 男はそう言うと、僕の首に手を掛けて伸し掛かってきた。あらかじめ施設長に釘を刺されていたため安易に応戦する訳にもいかず、僕は男と共にそのまま長椅子から地面に転げ落ちた。急いで近寄って来る皆の気配。介護職員が男を羽交い絞めにすると、男はすぐに気力を失い脱力してしまった。

 聞き取り調査は終了となった。介護職員に付き添われて去っていく男に僕は声を掛けた。

「リエト。お元気で」

 男からは何の反応も戻ってこなかった。

「君は一体何なんだ」

 その声に振り返ると、施設長が僕を睨み付けていた。

「何だと言われても」

「君はいつから女になった」

「変なことを言わないでください」

「初めて見た。あの患者があんな話し方をするのを。あの患者とは意思の疎通は困難。最近は特にそういう状態だったのに」

 どうやら、施設長は僕を批判している訳ではない様子だった。僕は首に自己治癒魔法を掛けながら施設長に尋ねた。

「あの患者はいつもああやって人の首を絞めるんですか」

「いや」と施設長は否定した。「あの患者に際立った暴力性があるとの報告は無い」

 そこに歴史学博士が慌てたように「ちょっと黙ってくれ」と口を挟んできた。歴史学博士は手帳を手にせわしなく筆記具を動かしていた。

「雑談はやめてほしい。雑談をしたら忘れてしまう。速記をしたのだが、細かい所までは書き切れなかった。言葉尻も含めて完全な記録を残したい」

 しばらくの間、僕たちはその場で記録の作成を続けた。それが済むと、施設長は僕たちに強く注意を促した。転生者の実在を世に知らしめることの弊害。中等学院一年生の時に聞いたものと全く同じ内容だった。そして、施設長は僕に目を向けてきた。

「最後に一つだけ、この施設の責任者として訊いておきたいことがある」

「昔のことを蒸し返すつもりですか」と僕は牽制した。

「そのつもりは無い。君はどうやって全身への硬化魔法を回避しているんだ」

「やはり蒸し返すんですね」

「そうではない。この施設での硬化魔法の重要性は知っているだろう。全身への硬化魔法の回避は標準の技術のみで可能なのか?」

「可能です」

 施設長は目を見開いた。

「それは技量の問題か? それとも技術の使用法の問題か?」

「技量です」

 施設長は「そうか……」と呟くと、エリク先生と歴史学博士に別れを告げ、何かを考え込みながら建屋の方へ去っていった。

 僕たちは歴史学博士に誘われて、博士の研究室へ徒歩で向かった。山間の小さな盆地を貫く田舎道。歩き始めてすぐに、エリク先生は極まりが悪そうに切り出した。

「畑違いで良く分からなかったのですが……。フレスコル主任。あの患者はどういう話をしていたのでしょうか」

「私が説明します」とアンが申し出た。

 僕と歴史学博士が肩を並べて歩き、その後ろに少し離れてアンとエリク先生。僕は歴史学博士に話し掛けた。

「先ほどの内容ですけど、二つの時代の話が混ざっていますよね」

「確かに」と歴史学博士は肯定した。「スルイスラの壊滅は今から約一万五千年前のこと。海を渡ったのが事実なら、それは壊滅よりもさらに数千年以上は昔のこと」

「人々は海を渡ってこの大地にやって来た。その話は信憑性不足で、一般にはまだ公表していないんですよね。とすれば、あの患者が考古学調査の内容を知り得るはずはなく、あの患者は確かに転生者。それも、信じられないぐらいの転生を繰り返してきた者」

「その可能性はある。確かに先ほどの話には『海を渡った』以上の未知の情報が含まれていた。話を聞いていて思ったのだが、渡ったのは西海ではなく東海なのだろうか」

「はい」と僕は同調した。「多分、フレクスラントはフレクラントの旧名ですよね。そして国ではなく民族や部族の名前」

「フレクスラントという名称は初耳だが、そうかも知れないな」

「フレクスラント族は東海沿いの北の陸地に到達し、追っ手を恐れて森の奥へと分け入った。スルイスラ族は南の陸地に到達し、海沿いに街を作って追っ手を迎え撃つ準備をした」

「しかし結局、追っ手は現れなかった。私の知る限りでも歴史上、そんな記録は皆無だ」

「蛮族の話が本当なら、その連中は今どうしているんでしょう。二万年近くが経っても現れないということは、今も未開のまま野蛮な争いを続けているのか、それとも滅んでしまったのか」

「分からない。我々の文明は間違いなく進歩を続けている。しかし、海を渡る技術に関しては今でも全く駄目だろう。と言うよりも、むしろ退歩している。それを考えると……」

「興味深い話ですね。狩猟民。遊牧民。僕たちの祖先は農耕民だったのでしょうか。そして折り合いが付かずに、『こんな所で農耕なんかやってられるか』となって逃げ出した」

 後ろで話し込むアンとエリク先生に気付かれぬように僕は声を潜めた。

「あの人からは何も聞いていないんですか。先生の所にたまにお茶を飲みにやって来る例のあの人」

「いや」と歴史学博士も声を潜めた。「神話時代については例の記録以上のことは。それどころか、当人によれば古い方から順に記憶が曖昧になってしまっているらしい」

 ふと、歴史学博士が鼻で笑った。

「それにしても、彼は人たらしだ。つい数日前にもナギエスカーラの土産物を持ってきた。やはり、人の頂点に立つ者ともなれば、厳しいだけでなく気配りも相当上手いのだろうな」

 その時、背後からアンが声を掛けてきた。

「フレスコル先生。あの患者さんは『太陽を砕いた』と言いました。つまり、あの患者さんの言う太陽は人工の何か硬い物」

 歴史学博士は歩みを止めずに背後を一瞥した。

「そうだな。魔法工芸の発祥の地はスルイソラ。しかも、起源は全くもって不明なぐらいに古い。当時の技術で大きな照明器でも作ったのだろうか」

「スルイスラの壊滅と関係があるのでしょうか。そんな口振りでしたけど」

「私も確かにスルイスラの壊滅を連想したが……」と歴史学博士は首を傾げた。

「標準的な解釈とは違いますが、どう考えてもあの話は『月になった太陽』です。太陽と月は相対的な力関係を表わす隠喩で、人工の太陽が弾け飛んだ結果、この大地の主導権はスルイスラからフレクラントに移った」

「あの話のその部分は、現時点ではあまり真に受けない方が良いと思う」

「なぜですか」

「そもそも、リエトとレダはとわの愛を誓い合った仲だろう。それならなぜ、『お前のせいだ』などと罵りながら首を絞めるのか。あれはまさしく怨念による転生だ」

「自然精気を利用した人工太陽が爆発して、スルイスラが壊滅した。そのせいで、この大地の主導権は魔法使いの国フレクラントに移ってしまった。そう考えれば説明がつくんです。先史時代の連合国南方域と南西方域に、精気や魔法に対する強い嫌悪があった説明が」

「エペトランジュ君。別の説明も可能かも知れない。そのことを失念すべきではない」

「嫌悪の起源や根源を理解できれば、連合国でも環境改善の意欲を高められるようになると思うんです」

 歴史学博士はエリク先生に目を向けた。

「今回の聞き取り調査はエペトランジュ君の研究のためとのことでしたが、これまでエペトランジュ君には私の仕事も手伝ってもらいましたし、話を聞かせてもらえれば私もお役に立てるかも知れません。もちろん、研究上の秘密は守ります」

「よろしくお願いします」とエリク先生は頭を下げた。

「それでは、こんな所で話し込むのはやめて、さっさと研究室に向かいましょう」

 そのように歴史学博士に促されて、僕たちは歩みを少し速めた。


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