第四章 流星の魔法使い(その一)
神話伝説大系・逸話集・三五 歌姫の鎮魂歌
原文
天を仰ぎ、星に願いを。魂の戻り来たらんことを。地に伏して、守の唄を。魂の鎮まらんことを。
注釈
死別の悲哀と鎮魂を描写したものとされる。題名中の「歌姫」は吟遊詩人の一つ。
◇◇◇◇◇
冬休みに入る直前、珍しいことに母から手紙が届いた。今度の年末には必ず実家に戻るように。そんな指示が極めて強い表現でしたためられていた。考えてみれば、実家に帰らなくなってすでに五年半。仕方が無く、今回はきちんと帰省することにした。
年末年始、フレクラント国では通常、子は親に、親はその親に、その親はさらにその親にと順番に挨拶に出向く。僕も両親や姉と共に、父方祖父母と母方祖父母の家に出向いて挨拶。ただし、それは僕にとっては八年振りのことだった。
僕が屈辱刑を受けたのは八年前。あの年の挨拶は気まずすぎた。フレクラントは小さな国。あの事件は国中の噂となり、当然親族の耳にも届いていた。そしていざ顔を合わせてみると、互いに話題に気を遣うばかり。僕はいたたまれなくなり、両親に事情を説明した上でそれ以降、挨拶には出向かなくなっていた。
年末年始の帰省が終わり、昨日夕方ナギエスキーヌの家に戻ってみると、一通の手紙が届いていた。差出人はノヴィエミスト師範学校付属初等中等学院。
スルイソラ連合国の首都から。しかも師範学校から。そんな手紙を訝しく思いながら、僕は読み始めて驚いた。流星の魔法使い。手紙の中で僕はそう呼ばれていた。
ノヴィエミスト師範学校の初等中等学院には寄宿舎がある。寄宿舎の窓から夜空を見上げていると時折、大空を光球が通り過ぎる。寄宿舎の子供たちがしきりに不思議がるので調べてみると、フレクラントの行商人によれば「あれはケイ・サジスフォレ」とのこと。ぜひとも一度、子供たちに会ってやってもらえないだろうか。手紙にはそのようにしたためられていた。
確かに、専業の行商人は急用でもない限り夜空を飛ばない。一方、僕の行商は学業の合間を縫ってのもの。警告用の光球と共にスルイソラの夜空を飛んでいるのは大抵、僕。そして僕はいつもノヴィエミストを素通りする。まさか、そんな姿を地上から眺めている人たちがいたなんて。
その時、時刻を告げるナギエスキーヌ村の半鐘の音が聞こえてきた。僕は物思いを打ち切り、支度を整えて家を出た。
短い冬休みも今日を残すばかりとなっていた。高等学院の寄宿舎では、冬休み中の食事の提供は事前に予約のあった学生のみとなっているらしい。今夜の夕飯は街で一緒に食べようとアンに誘われていた。
待ち合わせ場所は繁華街の一角。しばらく待っていると僕と同様、軽装のアンが現れた。
「待った?」とアンは言った。
「いや。特に」
「暖かいよね。どう考えても、暖かいよね」
突然の楽しげな指摘に、僕は鼻で笑いながら頷いた。
「フレクラントに比べれば、これぐらい。アンも随分鍛えられたんだ」
「それなりに」とアンは笑みを浮かべた。「予約の時刻にはまだ少しあるから、街を歩いてみない?」
僕はすぐに了承した。
街の人々も明日辺りから本格的に仕事が始まるのだろう。街中には、休暇の華やいだ雰囲気と仕事始めの慌ただしい空気が混在していた。立ち並ぶ店々を覗きながら繁華街の道を進んでいくと、ふとアンが足を止めた。見ると、そこは宝飾品店。ちょっとした小物類から高価そうな装飾品までが揃っていた。
女性店員に付き添われてアンが店内を回り始めた。僕も独り商品を確かめていると、店主らしき男性が近寄ってきた。
「何かお探しですか、学生さん」と店主は囁いてきた。
なぜ囁くのか。そう思って店主に目を遣ると、店主は訳知り顔で頷いた。
「あちらのお嬢様は学生さんのお連れ様でしょう? 髪飾りはこちらですよ」
いや。そういうつもりでは。思わずそんな風に否定しかけて口をつぐみ、僕は店主に付いて店内奥の一角に向かった。そこには重厚な陳列棚。棚には鍵付きの硝子の引き戸。多分、この硝子は高強度。僕はそう推測した。
「こちらなどはどうです」
店主が示したのは、棚の中段で華やかに煌めく髪飾り。しかし、僕の目には上品さが足りないように映った。僕が別の商品を指さすと、店主はオオと声を上げた。
「さすが、お目が高い。こちらは最高級品です」
「い、いや」と僕は慌てた。「ちょっと見せてもらおうと思っただけで……」
「いいんです。いいんですよ」
店主はそう言いながら最高級品を取り出した。
「あなた様のお名前は?」
「ケイ」
「それなら今のところ、『愛と真心を。ケイより』と彫り込んでおけば良いのです」
僕は首を傾げた。言葉の真意が分からなかった。
「学生さん。あんなに綺麗なお嬢様を逃してはいけません。まずは挑戦。とにかく挑戦。挑戦しなければ事は始まりません」
「あのう……。『今のところ、良いのです』とはどういう意味ですか」
その瞬間、店主がニヤッとした。
「使い回しが効くんです。相手の名前を入れなければ」
僕はエッと声を上げ、次いで吹き出してしまった。
「いつもそうやって学生に売りつけているんですか?」
「いえ。いえ」と店主は悠然と首を振った。「学生さんの方から、そうしてほしいと言ってくるのです」
「ふざけた連中」と僕は笑った。
「いえ。いえ。当たって砕けろの精神でしょう。何と逞しい」
「店主さんも相当、商魂逞しいですね。僕も見習わないと」
その瞬間、店主は「ん?」と鼻を鳴らして首を傾げ、僕の顔を見詰めてきた。
「商魂……、ケイ……。もしかして高等学院の行商人? 蝗退治の」
僕は「はい」と頷いて、店主の手の中にある髪飾りを魔法でちょっと浮かせてみせた。その瞬間、店主はオオと驚きの声を漏らした。僕が笑いをこらえると、店主は「分かった」と新たに華美な髪飾りと簡素な髪飾りの二つを取り出した。
「どちらもこの店の最高の品。あんたになら信用で売る。代金は後払いで構わない。うちに儲けが出ない所まで値引くから、ぜひ」
僕はエッと呆気にとられた。
「さっきも言った通り、これは将来、絶対に役に立つ。だからぜひ」
店主の押しの強さに、僕は頭を掻きむしった。
「あんたの名前を使わせてほしい。かの有名な蝗退治の魔法使いもこの店で買ったと」
商品を手に取って確かめてみると、間違いなく良い品、紛れもなく最高級品。僕は値札に目を遣った。二つ合わせて高いと言えば高いが、痛手になるような出費ではなかった。
「分かりました。その二つを買います。代金の支払いは商品の受け渡しの際に」
「それでよろしゅうございます。これにてめでたく商談成立」と店主は力強く頷いた。
程なくして店を出ると、アンは手ぶら。早速、アンが尋ねてきた。
「店主さんと何の話をしていたの?」
「閃いたんだ。宝飾品は行商の目玉商品になると」
アンはフーンと鼻を鳴らした。
「ケイはずっと行商を続けるの?」
「一応そのつもり。アンはあの半年間の後、行商は全くしなかったの?」
「全然していない」
「もうしないの?」
「ケイと一緒なら、またやってみてもいいかな……。でも、もうフレクラントの通商組合には登録できないから……」
その時だった。夕方の雑踏の中、向こうの方から三年生のお姉様方三人組がやって来た。そのかたわらには夏祭りで一緒に働いた三年生の男子三人組。あちらも目ざとく僕たちを見付け、すぐに近付いてきた。
挨拶を交わしながらふと見ると、お姉様方の頭の後ろ側には艶やかな髪飾り。僕がにやけながら大袈裟にヘエと声を上げると、お姉様方は三人揃って顔を赤く染めた。
「ケイ君。一緒に夕飯を食べない?」
「僕たち、料理店に予約を入れているんです」
「どの店?」
フレクラントの行商人御用達の旅館に併設されている料理店。そう答えると、上級生六人も「付いて行く」と言い出した。アンに目を遣ると、アンは仕方なさそうに肩をすくめて頷いた。
◇◇◇◇◇
年末年始の休みが終わってすでに二週目。春学期や秋学期とは異なり、冬学期は短い。そのため、前期課程の全学生は短期集中型の共通講義を受け続けていた。
白狼の騎士の逸話には次のような節がある。学堂を建て……、田畑は肥え、街は整い、はやり病は消え……。それに倣ったらしく、専攻に関係なく一年生には基礎衛生学と基礎利水学の二科目が割り当てられていた。
現在、大講義室では基礎利水学の講義が進行中。これまで言葉を交わしたことのない学生や見たこともない学生で室内は埋め尽くされていた。はるか前方の席にはアンの後ろ姿。アンは男子学生たちにそこはかとなく取り囲まれていた。
講義室の後方から教壇の方を眺めると、否が応にも目に入る。それは吉祥の髪飾り。スルイソラ連合国の女は婚約や結婚をすると、吉祥の髪飾りと呼ばれる髪留めを頭の後ろ側に着ける。婚約中は華美な物。既婚者は簡素だがより目立つ物。ナギエスカーラ高等学院に進学して一年弱。今や、一年生女子の半数程度が華美な方を着けるようになっていた。
一方、フレクラント国では髪型が変わる。未婚の女の髪は長く、既婚の女の髪は短く。アンもその慣習に従っているのか、フレクラント風の長い銀髪。ただし髪飾りは無し。
当たって砕けろを実践できない男たちよ。アンを取り巻き、ひたすら幸運を待ち続ける男たちよ。それは徒労に終わるだろう。アンは女系の上級貴族のお嬢様。結婚を決めるのは家長たる母親なのだから。
「君たち。この講義は必修なのだけれども、分かっているのかな?」
教壇からそんな声が飛んできた。確かに、学生の約半数は気を抜いている様子。先ほどから、微かな私語が室内のあちらこちらで続いていた。
この講義は全学生向けの必修科目。そのため、厳しく成績評価を行なうと前期課程を修了できない学生が続出する。だから試験は簡単。いくつかの項目を丸暗記しておけば合格は確実。事前にそんな噂が流れていた。
しかし、いくつかの項目とは何なのか。僕にはそれが分からず、三年生のお姉様方三人組に尋ねてみると、お姉様方は笑いをこらえながら教えてくれた。講義中の先生からの質問に注意。それがそのまま試験問題になると。
「さて。それでは君たちに答えてもらおうかな」
来た、と僕は筆記具を握りしめた。
「雨が降ると地面に水溜まりが出来る。その水は飲めるのか、飲めないのか。飲めないとしたら、その理由は何か」
先生は名簿を片手に学生を選んでいった。当てられているのは、どうやら私語をしていた学生ばかりの模様。それはそうなるだろう。そんな風に高を括っていると突然、僕の名前が呼ばれた。僕は首を傾げて呻きながら立ち上がった。
「講義中の私語もいけないけれど、物思いに耽るのもいけないんじゃないかな」
僕もか、と僕は唖然とした。講義に集中していないとの指摘に、僕は「済みません」と頭を下げて腰を下ろした。すかさず、「まだ。質問への答は」と先生が尋ねてきた。
「飲めません。細菌や微細菌、鉱物などの微細な夾雑物が混ざっているからです」
先生はホウと感心したような声を漏らした。
「それなら、なぜ野生の動物は人間が飲まないような水を飲んで生きているのだろう」
僕は言葉に詰まった。
「まあ、いいや。座って」
先生は室内を見回した。
「実は、この質問には『飲めない』と答えてもらって、その理由を私が説明するつもりだったんだよね」
先生はそのように前置きをすると解説を始めた。
その後、僕は頭の中を空っぽにして講義に集中し、筆記具を走らせ続けた。思い付きを口にするばかりでは、春学期に不合格になってしまった文学芸能史の二の舞。それはまずいと僕は焦りを感じた。
午前の講義が終わり、昼食も済ませた午後。僕は学院の工房に籠っていた。
ここのところ、僕は吸収石の作成を繰り返していた。秋学期の大半を設計と材料選びの勉強に費やし、三週間近くを掛けて作り上げた一個目は自然精気をほとんど吸わずに失敗。作業に慣れて二週間で作り上げた二個目は吸うには吸ったが、フレクラント製品はおろかスルイソラ製品にも及ばず失敗。そして冬学期。一昨日に完成した三個目は何とか物になり、測定用吸収石としての較正の手順を教えてもらう所まで僕はようやく漕ぎ着けた。
そんな僕に対して環境生命学のエリク先生が掛けてきた言葉は、初心者はそんなもの。そんな慰めの言葉に、僕は発奮して決意した。次の長期休暇にはフレクラント国に戻り、そちらの職人さんの技を習得して先生を驚かせてやろうと。
そんな実習を繰り返す中で、僕は理解し始めた。正しい生命力方程式を理解していれば、精気分光器の設計は可能。分光の原理自体は難解というほどではない。ただし、作成は技術的に極めて難しい。どうしても、魔法を併用した精密加工技術が必要になる。
そこまでの確信を持てるようになったのは、ひとえにあの時、エルランド殿下もしくはカイルが精気分光器の実物を見せてくれたおかげだった。分光器全体の大きさや形、分光を行なう素子の大きさ。それらの外形に関する情報が貴重な手掛かりとなった。そして同時に痛感した。あんな物を一から作り出したカイルはやはり天才だと。
学院の工房でそんなことを考えながら、参考用として綺麗に二つに割られたフレクラント製吸収石の内部構造を確かめていると、見知らぬ男性が声を掛けてきた。男性は歴史学考古学専攻の助手と名乗り、専攻の方まで来てほしいと言った。
社会学系の建屋、小講義室には歴史学考古学専攻の教員から学生までが勢揃いしていた。その中には冴えない表情を浮かべたアンの姿。助手の指示通りに僕が教壇に立つと、一番年配の博士が口を開いた。
「昨日、フレクラント国高等学院から紀要が届いたのだが、君は読んだか」
「いいえ。まだです」
そう答えながらも、用件は何となく想像がついた。北の大森林に眠るカプタフラーラの件で訊きたいことがある。そんな話が始まるのだろう。
博士に促されるままに、教卓に置かれていた紀要を手に取って確かめてみると、カプタフラーラに関する論文が冊子の冒頭に掲載されていた。
論文冒頭の調査隊員一覧には、フレクラント国高等学院の人たち、エスタコリン王国高等学院の人たち、アルさんとエスタコリン王国中央衛士隊の人たちの名前が並んでいた。また論文末尾の謝辞には、僕やルクファリエ村共同浴場の場長さんなどの名前、そしてアンの本名が記されていた。
「謝辞にあるケイ・サジスフォレとは君のことだろう?」
「はい」と僕は肯定した。
「君もカプタフラーラに行ったのか」
「行きました」
その後、延々と質疑応答が続いた。カプタフラーラの位置と周辺の地形。地下街の様子。その大きさは北のエベルスクラントの七倍強。地下街の中心には石碑があり、カプタフラーラの永遠性を謳う詩歌や北の大森林の簡易な地図が刻まれていた。南都カプタフラーラ、西都ブシェロエスト、そして北都。驚いたことに、北都の名はフレクラント国の首府メトローナの旧名と同じソロメトローナだった。さらには、それ以外にも小さな村々が点在していたらしく、エベルスクラントはそんな村々の一つだった。
室内の一人が夕暮れに気付き、それを契機に質疑応答は終了した。最後に一番年配の博士がおもむろに口を開いた。
「過去に気温の高い時期があり、その後に気温が下がった。それは調査によってすでに判明している事実だ。大廃墟もナギエスカーラも東海の沿岸から幾分内陸に入った所に位置している。君はその理由を知っているか」
「いいえ。知りません」と僕は首を振った。
「気温が高い頃、大廃墟は東海に面していたのだ。その後、気温が下がって海が後退した。だから、今は内陸にある。連合国の七方域には南東が無い。それも海の後退に伴って南方域が徐々に東側へ拡大していった結果だ」
「大廃墟の周辺で港の遺跡でも見付かっているんですか?」
「海産物の残滓だ。貝殻をまとめて捨てた跡など。つまり、大廃墟の場所にあった街は気温が高い時代から存在していた。気温が下がったから人々が南下したという説は誤りだ」
僕は頭に手を当てて首を傾げた。そんなことを僕に向かって断言されても。
「博士」と僕は反論した。「この論文の主張は、同時代にスルイスラが存在していたという説と矛盾しません。カプタフラーラやエベルスクラントの存在から考えて、北の人々が南下したのも事実なのではありませんか?」
その瞬間、「んん?」と訝しげに鼻を鳴らす音が複数聞こえた。
「君。スルイスラとは何だ」と博士は顔をしかめた。
「大廃墟にあった街の名前です」
「そうではない」と博士は舌打ちした。「スルイスラはスルイソラが訛ったもの。南西方域の方言だ。どこでそんな話を聞いたのかは知らないが、素人が適当なことを言うものではない。地名は歴史の一部だ。正確に扱いたまえ」
僕は溜め息をついた。それならば、素人の僕から話を聞こうなどと思わなければ良い。
「今日はこれで終わりにしよう」
博士はそう宣言した。突然人を呼び付けておきながら、謝辞の一つも無かった。
◇◇◇◇◇
冬学期も中盤に差し掛かった休日の昼過ぎ、僕は北限の街ロスクヴァーナを発ち、首都ノヴィエミストに向かって大空を飛んでいた。
今日は四週に一度の行商の日。いつもなら北限の街ロスクヴァーナと南都ナギエスカーラを往復するだけの所だった。しかし、今回はかなりの大回り。僕のことを流星の魔法使いと呼んでくれる子供たちを喜ばしてやろうと僕は考えていた。
昨夜はフレクラント国の首府メトローナの宿屋に宿泊。今朝一番に近隣の農耕組合で果物を購入。その半分をロスクヴァーナで売却。穴埋めにロスクヴァーナ産の果物を購入。これで準備は整った。商品の一部は子供たちへの土産物。残りは明日の夕方、ナギエスカーラ警察隊本部で隊員の皆さんに販売。今回も皆に喜んでもらえる行商が出来そうだった。
程なく、遠くの眼下に首都ノヴィエミストの街が見えてきた。ノヴィエミスト師範学校と付属の初等中等学院は街の西外れにあるとのこと。上空からは運動場が目印になるだろうと僕は教えられていた。
環境生命学のエリク先生によれば、連合国人の中で明瞭な魔法能力を有する者の割合は約二厘、つまり五百人に一人。その魔法力はフレクラント人には遠く及ばず、エスタコリン王国の貴族よりも弱い。とは言え、実用性は十分にあり、多くは魔法医術士か教員の職に就いている。
スルイソラ連合国の七方域には師範学校が一校ずつある。子供への魔法訓練を行なっているのは主に師範学校付属の初等中等学院。方域によっては、その他の主要な初等学院と中等学院にもそのための教員を配置している。しかし、魔法訓練の制度や組織が整備されていない方域も多く、南西方域などはその典型。逆に、最も整備されているのはノヴィエミスト師範学校付属の初等中等学院。そこにはエスタコリン王国から派遣された教員もいるとのことだった。
また、その教員と事前に手紙のやり取りをしたところでは、現在寄宿舎で生活している生徒は全学年を合わせて合計十名。全員が魔法能力を有する者。今日はその十名、寄宿舎の管理人を務める夫婦二人、魔法実技担当のエスタコリン人の男の先生、合計十三名が僕を待っているはずだった。
上空から見下ろすと、運動場が二つ見えた。おそらく、一つは師範学校本校のもの。もう一方が付属学院のもの。幾分狭い方を確かめてみると、隅に十数人。僕はその前に降り立った。
真冬のさなか、生徒たちは運動着姿で僕を待っていた。僕が「こんにちは」と威勢よく声を掛けると、生徒たちも声を揃えて挨拶を返してきた。教育が行き届いている様子だった。僕は商品輸送用の特大背嚢を下ろして防寒具を脱ぎ、土産の果物を管理人夫妻に渡して生徒たちに呼び掛けた。
「今日はまず魔法を見てほしいということなので、早速いつもの練習を見せてください」
生徒たちが横一列に並び、先生の号令に合わせて練習が始まった。
「はい、吸ってーえ。はい、吸ってーえ」
号令はどの国でも共通のようだった。
「はい、集中ーう。はい、集中ーう」
いきなり光球魔法の練習が始まった。「はい、吐いて」は無かった。
生徒たちの光球はあまりにも弱々しく、しかも宙の一点に静止しきれていなかった。多分、フレクラント国では素質無しと判定されてしまう水準。僕は練習に割って入った。
「おそらく、君たちは自然精気を十分に吸えていません。今から僕が君たち一人一人の体に精気を押し込みます」
生徒たちが不安げに顔を見合わせた。
「大丈夫だから」と僕は笑った。「はい。最初は誰かな」
最年長と思われる男子生徒が僕の前に立った。背丈は僕と同じぐらい。おそらく中等学院の高学年。僕は運動着の下に手を突っ込み、手のひらを背中に直に押し当てた。多すぎず少なすぎず。速すぎず遅すぎず。僕がズズンと精気を押し込むと、生徒はアッと驚きの声を漏らした。
「分かった? これが精気を体内に取り込む感覚」
全ての生徒に感覚を教えると、先生までもが僕の前に立って背中を出した。先生は精気を押し込まれた瞬間、「おっ。おお」と驚きと歓喜の笑い声を上げた。
「ただし、いいですか」と僕は声を上げた。「今、僕がやってみせたことは絶対に真似してはいけません。間違って他人の体の中で魔法を発動させてしまうと、大変なことになります。余剰精気の受け渡しと魔法の発動は全く別なんです」
生徒全員が真剣な表情で頷いた。
「それでは」と僕は声を上げた。「今の感覚を自力で再現してみよう。はい、吸ってーえ」
次は光球魔法の模範実技。僕は光球を作り、宙の一点でぴたりと制止させた。
「いいですか。まずは魔法の出力を安定させる」
生徒たちのものとは比べ物にならない輝きに、生徒たちがどよめいた。
「先生……」と最年少らしき女子生徒がためらいがちに呼び掛けてきた。
「僕のことは『ケイ君』とか『ケイちゃん』でいいから」
「ケイちゃん。いつも、それで空を飛んでいるの?」
「そう。これが流星の正体」
「ケイちゃん凄い。先生より凄い」
幼い子供の無邪気な言葉が飛んできた。僕はすぐにたしなめた。
「違うよ。先生の光球だってピタッと止まるだろう? 力比べをしたら僕の方が力持ちかも知れないけど、技比べをしたら先生だって凄いんだよ。だから、皆も技を磨くこと」
わずかに間が空き、上級生たちから「はい」と返事が戻ってきた。見ると、先生は静かに苦笑していた。
「あのう」と最年長男子が口を開いた。「魔法の出力を一定にしたまま光球を小さくしていくと、光が強くなっていきますよね。どこまでも小さくしたら何が起きるんですか?」
「君はやったことある?」
「とてもそこまでの制御は出来ません」と男子は首を振った。
「それなら、やってみせようか。ちょっと危険だけど、死ぬようなことはないから」
「待った」と先生が口を挟んできた。「危険って、フレクラントの学院ではいつもそんな荒っぽい訓練をしているの?」
「はい。先生たちなんか、いつも平然と『はい、治すーう』って」
先生は鼻で笑いながら舌打ちし、首を小さく振った。
「皆、自己治癒魔法の訓練もしているのでしょう? 問題は目だけです。かなり眩しくなるので、目に気を付けてください。治しきれなかったら、僕が治します」
先生から消極的な許可が下りた。
「眩しくなってきたら、目を伏せて」と僕は注意した。
宙に光球が出現。徐々に大きさを絞っていく。魔法の出力は一定。しかし、出現範囲が絞られていくために、輝度が増していく。僕は目を細めた。
「そろそろ目を伏せて」と僕は警告した。
光球の辺りから微かにキーンと金属的な高音が聞こえてきた。光が強くなり、高音が大きくなってきた。そして、僕の目にも光球が点になったと映った瞬間、甲高い金属的な破裂音が響き、光が弾け飛んだ。
そう。これなのだ。僕がいつも不思議に思うのは。光球でも火球でも、凝集させていくと必ず奇妙な音が聞こえ始め、最後には制御を外れて弾け飛ぶ。これは光爆や炎爆とは似て非なるもの。光爆や炎爆の初期状態は無音の点。それがそのまま大きく弾けるだけ。
厳密に言えば、魔法力は余剰精気を転換したものであり、魔法力は精気ではない。それでも似たようなことが起きるのではないだろうか。つまり、精気を過度に凝集させると、従来の生命力方程式では説明できない現象が発生するのではないだろうか。
そんなことを考えていてふと気付くと、数人の生徒の周りに先生や他の生徒たちが集まっていた。僕も急いで近寄り、念のため全員の目に治癒魔法を施した。
治療が終わると、最年少女子が「ケイちゃん」と声を掛けてきた。
「雲の上って、どんな所?」
「雲の上は青空。ただし、陽の光が雲に反射して、照り返しがとても眩しい」
「雲の中は?」
「雲は湯気みたいなものだから、下手に中を飛ぶと濡れる」
「わたしも空を飛べるようになるかな」
上級生たちの表情が曇った。先生も気落ちしたような表情を浮かべた。
「それなら」と僕は敢えて笑顔を作った。「空を飛ぶよりももっと凄いことを教えてあげる。普通は全然練習しないと思うんだけど、今から自然強化魔術をやってみせる」
僕は運動場の反対側へ駆け出した。飛べ。浮かべ。そう念じながら歩を進める。端に到達して折り返し、皆の所へ走る。飛べ。浮かべ。歩幅は遂に身長の五倍近くにまで伸びた。
生徒たちも先生も唖然としていた。僕は息を整えて説明した。
「今のは滑走魔術。『飛べ。浮かべ』と念じながら走るんだ。飛翔は魔法力だけ。滑走は魔法力と体力の両方。だから見ての通り、特にこういう場所でなら、わずかな魔法力を使うだけで空を飛ぶのと同じぐらいに速く走れる。そして何よりも、墜落の危険が全く無い」
全生徒が頷いた。
「ただし、転んだり、足を挫いたり、何かにぶつかったりしないよう気を付けること。何度も練習すれば、普通に走るのと同じように滑走できるようになる。そして、成長して魔法力が強くなれば、わずかな距離かも知れないけど、宙を飛べるようになる」
先生が繰り返し小さく頷いた。
その時、寄宿舎管理人の奥さんが運動場に現れた。皆でお土産の果物を頂きましょう。その声に、特に下級生たちが歓声を上げた。多分、練習開始からまだ一時間も経っていない頃合い。しかし、先生は練習の終了を宣言した。
寄宿舎の食堂には大きな鍋。そこには果物の盛り合わせが用意されていた。僕が持参したのはメトローナ産とロスクヴァーナ産、二種類の柑橘。メトローナ産は実が小さい代わりに糖度が高い。ロスクヴァーナ産は実が大きく、水分が多く、酸味が強い。
僕の指示通り、二種類とも全ての果実が外皮を剥かれ内皮も除かれ、果肉と果汁だけが取り出されていた。鍋の中にはそれらを混合したもの。鮮烈な甘味と酸味を同時に楽しめる逸品となっているはずだった。さらには、外皮は砂糖と共に煮詰めれば保存がきく。管理人の旦那さんはその作業に取り掛かっているとのことだった。
全員が食卓に着いた。一人一人の前には皿に装われた果実。管理人の奥さんの合図と共に生徒たちが食べ始めた。「美味い」という上級生たちの声。「ちょっと酸っぱい」という下級生たちの声。食堂に笑い声が広がった。
しばらく雑談を続けた後、僕はお暇することにした。寄宿舎の玄関先で生徒たちに見送られながら、南都ナギエスカーラへの飛翔を始めようとした時だった。先生が僕を呼び止めた。僕は促されるまま、先生と二人で付属学院の正門に向かって歩き始めた。
「ケイ・サジスフォレ殿」と先生は言った。
「やはり、先生は貴族の方でしたか。ここはスルイソラですから、『殿』はやめてください。口調も先ほどまでと同様にぞんざいで構いません」
先生は頷いた。
「先生は単身で赴任してこられたんですか」
「いや。妻と二人で。妻は中央政庁の出張所で働いている。子供たちはエスタコリンに」
それならと思い立ち、僕は背嚢を下ろして二種類の柑橘を一個ずつ取り出した。それぞれの硬化魔法を解除して「奥さんに」と差し出すと、先生は首を振った。
「いや。それでは売り物が減ってしまう」
「見ての通り、大々的に浮揚魔法を掛けなければ運べないぐらいに商品はありますから」
僕が軽く笑いながら特大背嚢に手を置くと、「それなら」と先生は柑橘を手に取った。
「サジスフォレ君。今日はありがとう。子供たちもあんなに喜んで……。あの子たちは本当に可哀想な子供たちでな……」
「どういうことですか」
僕がそう尋ねると、先生は事情を説明し始めた。
魔法能力の高さに基づいて序列を付けると、高い順にフレクラント人、エスタコリン貴族、少数のエスタコリン一般民、少数のスルイソラ人、大多数のエスタコリン一般民、大多数のスルイソラ人となる。
大多数のスルイソラ人が使っているのは自然強化魔術とも呼べない程度の微弱な自己治癒魔法のみ。それも無意識に発動させているに過ぎない。そのため一般的には、スルイソラ人には魔法能力が無いとされている。
そんな中、弱いけれどもはっきりとした魔法を使える子供が稀に現れる。例えば深夜、家具が勝手に動く。小物が宙を飛ぶ。どこからともなくパンと破裂音が聞こえてくる。魔法を理解している者であれば、魔法力のおねしょ、眠りながら微弱な浮揚魔法や空爆魔法を発動させているだけとすぐに気付く。
ところがスルイソラ連合国では、田舎に行けば行くほど魔法への理解が浅くなっていく。当然、訓練無しに魔法を発動させてしまう子供の扱い方など全く知られていない。そして、魔法能力が発現し始めた子供たちを「悪霊が憑いた」などと恐れ慄き忌み嫌う。
各方域に一校ずつ設置されている師範学校は教員養成機関。それぞれ独自に初等学院と中等学院を持っている。師範学校は常に魔法の素質のある子供を探し求め、必要とあれば学校付属の寄宿舎に収容して保護し、学校付属の初等学院や中等学院で教育と訓練を受けさせている。
「あの生徒たちはまさに全員、親にも誰にも理解されずに、ひどい虐待を受けていた。だから全員、心のどこかが鬱屈している、魔法への躊躇がある。だから一度で良いから、君のような有名な魔法使いに会わせてあげたかった」
その瞬間、僕の目に微かに涙が滲んだ。まさか、あの子たちがそんな境遇にあったなんて。かつての記憶が脳裏をよぎった。僕は大きく息を吐いた。首を振った。
「流星の魔法使い。今日は本当にありがとう」
先生はそのように謝辞を述べると、僕に向かって深々と頭を下げた。
◇◇◇◇◇
冬も終盤に差し掛かった頃、冬学期が終了した。高等学院の日程は後期課程の三年生と前期課程の三年生の修了式を残すのみ。一年生の僕は春休みに入っていた。
前期課程の学生には年度の変わり目で専攻を変えることが認められている。午後、環境生命学研究室でエリク先生と議論をしている間にも、入れ代わり立ち代わり数人の学生がやって来た。僕と先生が二人きりで差し向い。そんな光景にどの学生もあからさまに怖気づき、先生の説明をちょっと聞いては消えてゆく。そんなことが繰り返されること四度。遂にアンが現れた。
最近、アンは歴史学考古学専攻を辞めようかと迷っていた。アンをそこまで追い込んだ原因は歴史学考古学専攻の体質にあった。
フレクラント国高等学院から届いた紀要。人間は北の大森林から南へ広がったとの記述。それがナギエスカーラ高等学院歴史学考古学専攻の者たちを憤慨させた。スルイソラ連合国は歴史上、長きにわたってフレクラント国よりも下と見なされてきた。そんなスルイソラ人の自負心と郷土愛を支えてきた唯一の要素は、人間の原点は南のスルイソラにありとの学説。それを否定しかねない新説に彼らは感情的に反発し、自称フレクラント人のアンを前にしても、論文に対する皮肉や嫌味を口にし続けていた。
「アン・エペトランシャです。今日は環境生命学のことをお聞きしようと思って……」
そんな風にアンが挨拶すると、先生は「そこに座りなさい」と椅子を指さした。
「話はサジスフォレ君から聞いている。皮肉や嫌味で学生の勉学意欲を削ぐのは間違っている。とは言え、この研究室は専攻どころか学系が違う。まずは歴史学考古学専攻の一つ上、社会学系の主任に相談してみてはどうだろう」
「相談してみたのですが、手応えが無くて……。私から見れば、皮肉や嫌味もあそこまで行くと、もはや耐え難い見苦しさなのですが……」
「かつて、北の大森林は人の居住域だった。その後、大地全体の気温が下がった。現在、北の大森林は無人となっている。それなら、人々は南に移住したと考えるのが自然だと私も思う。地下街を作るほどの者たちが無策のまま絶滅したとは私にはとても思えない」
アンは「はい」と頷いた。先生は溜め息をつき、舌打ちした。
「自尊心が高すぎて、どうしても自説を曲げない、曲げられない。そういう者は多い。特に人文系には……。我々のような基礎自然系やお隣のような応用自然系なら、実験や観測をすればすぐに真偽が分かるのだが……。要するに、彼らの学問は科学ではないのだ。文句を言う前に、まずは自らもカプタフラーラに乗り込むべきなのだ」
先生はそこで黙り込み、アンも何かを考え込んでしまった。
「先生」と僕は口を開いた。「あの論文は何も、元々人が住んでいたのは大廃墟の辺りだったという学説を否定している訳ではないんです」
例えば大昔、人は大廃墟の辺りに居を構えていた。しかし、気温が高すぎたために多くの人は北へ向かい、北の大森林に広く定住した。
「そんな風に考えることも可能です。何しろ、大廃墟にあった街は吹き飛んでしまっていますから、それがどこまで古いのか全く分からない訳ですし」
「それを歴史学考古学専攻の者たちに説明してみてはどうだろう」
僕はウーンと呻いて首を傾げた。
「素人が適当なことを言うなと一喝されて、そういう話は全く出来ませんでした」
僕が目配せをすると、アンはハッとしたように話し始めた。
「環境生命学の最終目標は、自然精気に満ちた環境を復興して維持することと聞いています。そうすれば、人々はもっと健康的に長生きできるようになるだろうと。そのためには、なぜ環境がここまで荒れてしまったのかを歴史的に解明することも重要だと思います」
先生はフームと鼻を鳴らした。
「確かに、過去にはその種の研究も行なわれていた。しかし、中々成果が上がらないので、今は廃れてしまっている」
「私にやらせてもらえないでしょうか」
「サジスフォレ君にも言ったのだが、成果が上がらなければ君の将来に悪影響が出る。もちろん、そういう場合でも研究課題を変えれば研究者を続けることは可能だ。その時に問題になるのは、やはり自尊心だ。もしそうなったら、君は自分の志望を曲げられるか?」
「はい」とアンは力強く肯定した。
「分かった。事務局で所属変更の手続きをしてきなさい」
アンは椅子から腰を上げると、丁寧に一礼して部屋から出ていった。僕は先生に促されて精気分光器の設計図の説明を再開した。
夕方、学院の食堂の隅で料理に手を付けずに待ち続けていると、約束通りにアンが現れた。アンの手には寄宿舎の食堂の夕飯。やはり、量と栄養を重視した大雑把で大胆な料理だった。
「歴史学考古学専攻の方はどうだった? 辞めると伝えた時の様子は」と僕は尋ねた。
「そうか、で終わり」とアンは顔をしかめながら鼻で笑った。
「そういう人って、どこにでもいるんだな……。でも、エリク先生も言っていたけど、あちらで勉強したことは無駄にはならない」
アンも食事を始めながら頷いた。
「ところで、ケイは『人々はスルイスラから北の大森林へ向かった』と言ったけど……」
「うん」と僕は頷いた。「フレクラントの歴史学博士とも議論したんだけど、北の大森林の西都ブシェロエストがこの大地で最も古い街とは限らない」
神話時代よりもさらに前、人の居住域は北の大森林の西側に偏在していた。それを根拠に、人は西海を越えてきたのだと推測されている。
ただし超越派の霊魂は、人は海を越えてきたと言っただけ。最初の入植地が西都ブシェロエストだったとは限らない。さらには、この大地に到達したのは一団ではなく、複数の集団だった可能性もある。もしそうなら、初期の入植地も一か所だったとは限らない。
「だから例えば、スルイスラの南西方向、西海に面した蝗の平原辺りに上陸した人たちがいて、そこからスルイスラに入植した可能性だってある」
「私の記憶違いでなければ、黙示録には、人は北から南へ一方向に移動したと書いてあったはずだけど」
僕は気付いた。アンは黙示録の続きを読んでいない。だから、カイルが転生のたびに記憶違いをしていることを知らない。
「良く思い出して。あの記述は伝聞。『かなり昔のことをそんな風に教えられた』と書いてあった。もちろんあの記述にも真実は含まれているんだろうけど、あれ以外のことがなかったとは言えない」
「そうか……。それなら、蝗の平原辺りも調べないと駄目?」
「西都ブシェロエストが最初の街であると証明したいのなら、少なくとも西海沿い、ブシェロエストから蝗の平原辺りまでを全部」
アンが情けない表情でウーンと呻いた。
「最初の街であると証明することがそんなに重要なの?」と僕は笑った。
「『が』ではなく『も』。ところで、ずっと先延ばしになっていたけど、北のエベルスクラントにはいつ行く?」
今度は僕が呻いてしまった。
どのように説明すれば良いのだろう。華のカプタフラーラはカイルの黙示録以上の発見。てっきり、エベルスクラントの件はうやむやのままに終わったものと思っていた。
「あのう……」と僕は考えを巡らせながら口を開いた。「アンの予想通り、エベルスクラントは歴史的にずっと放置されていたらしい。そして僕の予想通り、その後調査されたらしい。だから、もし例の物があったのだとしても、すでにどこかに回収されていると思う」
アンは呆気にとられたようにエッと声を漏らした。
「誰から聞いたの?」
「フレクラント国高等学院で聞いた。本当に」
「そうなんだ……」とアンは気落ちしたように呟いた。
諦めてくれた様子に、僕は安堵した。
エスタコリン王国の貴族制度は上手く機能している。容易に崩壊するとは思えない。それでも、第二の黙示録の内容が世に知れ渡ったら混乱は免れない。いくら王家と三つの大公家に正義の守護者としての実績があったとしても、カイルやエステルとの相性が家格の根拠になり得るはずがない。西の大公家のアンが知って良い内容とは到底思えない。
第二の黙示録は約四千年前にフレクラント国高等学院に回収された。当然、当時は緘口令が敷かれていたに違いない。そしていつしか忘れ去られた。それでもその後、たまたま目にしてしまった者がいたのだろう。転生に興味を示す娘は野に解き放つべし。そのように西の大公家に伝えた人物とか。百年の眠りにつかされたあの老年生命学博士とか。
西の大公家の記録に残された特記事項。それは約二千年前のものだと言う。書き加えたのは誰なのだろう。相当な高位の者に違いない。いずれにせよ歴史上、背徳のエステルに同情する者もそれなりにいた模様。
その後しばらく、僕たちは無言で食事を続けた。その間、アンはずっと何かを考え込んでいた。僕が食事を終えると、程なくアンも食べ終えてお茶を飲み始めた。
「ねえ、ケイ……。年末に帰省した時に変な噂を聞いたんだけど……。フレクラント国高等学院のあの生命学博士が失踪したって。その失踪にはケイと歴史学のフレスコル先生が関わっているって」
僕はウーンと唸った。アンは僕の返答を待つ様子を見せていた。
あの夜は、歴史学博士が現場に残って監視を続ける一方、僕は深夜の空を飛び回ってジラン大統領を探した。自宅ですでに就寝していたジランさんを無理やり連れ出して現場に戻り、事件の後始末を行なった。
生命学博士が今も高等学院の地下街の最奥で眠っていることは、急遽ジランさんに呼ばれて診察に当たった魔法医術士も知っている。ただし、あの魔法医術士は事件の内容を全く知らない。そして、全員がジランさんから厳重に口止めされていた。
噂になっているのだとすれば、あの夜、珍しくも僕と歴史学博士と生命学博士が一緒にいる所を誰かに見られたのかも知れない。
「生命学博士は失踪していない。今は仕事の都合で高等学院を離れているだけ。その件はジラン大統領も知っている。僕もフレスコル博士も悪事などには関わっていない」
「何が起きているの? なぜ、ケイが知っているの?」
「仕事の都合。それ以上は言えない。言ったら、ジランさんに何をされるか分からない」
「その直後に生命学専攻の組織再編があったと聞いたけど」
「うん」と僕は頷いた。「あそこの生命学専攻には、教育機関や研究機関だけでなく行政機関の側面もあるから、専攻を監督する運営委員会が作られた。僕の母も運営委員に選ばれたらしい」
「マノン様が……。もしかして、あの生命学博士の代わりに高等学院の教員になったとか」
「いや。今も初等学院の教員。初等学院と中等学院の教員からなる教員組合の代表として委員になったらしい。母も博士だから、それなりに発言できるだろうしって」
アンはフーンと鼻を鳴らした。
「あとは……、ケイが王宮に来た時、エルランド殿下に何があったの?」
「僕の目の前から突然いなくなり、次の日の夜に王宮に戻ってきた。妃選定の終了を宣言すると、またどこかへ行ってしまった。僕が知っているのはそれだけ」
「生命学博士の失踪と何か関係があるの? ちょうど同じ頃らしいけど」
「関係ない」と僕は嘘をついた。
「ケイは変なことに巻き込まれていないよね?」
アンは極めて真剣な様子。疑念ではなく気遣いらしき視線を僕に向けていた。
「ない、ない」と僕は笑みをこぼした。「巻き込まれていたら、こんな所でのんびり学生なんかやってない。アンは殿下が今どこで何をしているのか聞いている?」
「噂だけは」とアンは頷いた。
エルランド殿下に王家の仕事は務まらない。殿下は学究の道に進むべき。前国王のアルさんがそのように強硬に主張し、殿下もそれを要望した。その結果、殿下は王家の仕事から外れることになった。将来、殿下に王位が回って来た際には、殿下は直ちに御長男に王位を譲ることと決まった。
殿下はフレクラント国とエスタコリン王国を隔てる山並みの谷間に別荘を構えたらしい。毎週、第四日の平日夜から第五日の休日午後に掛けて王宮に滞在し、それ以外は別荘で独り暮らしをしている。時折、フレクラント国高等学院にも姿を現しているとのこと。
「微妙と言うか絶妙と言うか……」と僕は感想を呟き、考え込んだ。
正室のクリスタさんを始めとする家族を捨てた訳ではない。フレクラント国高等学院の歴史学博士との約束も守っている模様。その点は律儀と言えば律儀なのかも知れない。さらには、リエトを名乗る人物が収容されている精神治療施設にも行きやすい。
「あの人の頭の中はどうなっているんだろう」と僕は疑問を口にした。
「殿下は天才肌だから、何を考えているのか良く分からない。皆、そう言っているね」
僕の疑問は、一つの体に二つの人格がいかに共存しているのかということだった。
「それから、殿下の魔法力には皆が驚いている。私は見たことがないけど、今はそれなりに高空高速飛翔もしているらしい。もしかしたら、別荘でずっと魔法の特訓をしているのかも。あの辺りまで行けば自然精気も濃いから」
「山籠もりをして特訓か。怖い、怖い」と僕は適当に同意した。
「怖い、怖いって」とアンは笑みを浮かべた。
カイルの早撃ちと捨て台詞。あれには痺れた。
「あの人は話が通じるから、別に何でもいいんだけど」と僕は答えた。
アンはお茶を飲み干すと、「ところで」とさらに話題を変えてきた。僕も「何?」と聞き返してお茶を口に含んだ。
「年末に帰省した時にお母様に命じられたんだけど、私は明日からまた帰省するから」
僕は「うん」と頷いた。その話は二度目だった。アンは所属変更の手続きを済ませて研究室に戻ってくると、「所属早々申し訳ないことで」と極まりが悪そうにエリク先生に申し出ていた。
「でも、何だか嫌な予感がする」とアンはこぼした。
「何だかって、どんな」と僕は失笑した。
「ちょうど学年末でしょう」
「アンの身分や立場に変更があるかもという意味?」
「うん」とアンは頷いた。「イエシカ姉様から聞いたんだけど、あの選定が終わってから、結婚の申し込みが殺到しているらしい」
僕はアアと納得の声を漏らし、次いでふと思い出して首を傾げた。アンは貴族社会の外にあるべし。西の大公様のそんな意向は未だあまり知られていないのだろうか。
「アンに関しては、嫌なら嫌と言えば、お母さんが断ってくれるよ」
「ケイにはそういう話、無いの?」
僕は脱力して鼻で笑った。
「無いよ。ある訳ない。フレクラントでもエスタコリンでも色々あったし、スルイソラ人とは寿命が違い過ぎるし」
「それなら、私がしてあげようか」
その言葉に一瞬ドキッとした後、軽口であると認識して僕は笑ってしまった。
「何で笑うの?」
「イエシカさんにも似たようなことを言われたから。イエシカさんには胸倉を掴まれた」
「あのお姉様が?」
「そう。いきなり胸倉を掴んできた。あの人、意外に粗暴だよな」
「そうではなくて、あのお姉様がそういう話をしたの?」
「そう。もちろん互いに軽口であることは暗黙の了解」
軽口や冗談を真に受けたら、僕が恥をかく。そもそも、結婚は僕とアンの意思だけでは決まらない。今の僕が大公様のお眼鏡に適うとは思えない。平凡すなわち大過なきこと。僕はそんなあり方に縁が無く、僕の人間関係はかなり劣悪。
僕が自嘲気味に再び笑うと、アンはフーンと鼻を鳴らした。
「イエシカさんもアンも、今はもっと自由を謳歌したい。そのことは僕もちゃんと承知している」
アンは再びフーンと鼻を鳴らした。
◇◇◇◇◇
冬学期終了後の休みも一週と少しを残すのみとなっていた。そんなある日、フレクラント国の首府メトローナの街に正午を告げる鐘の音が響き渡った。しまった。遅刻。そう焦りながら、僕は歩を速めた。
フレクラントは小さな国。そのため、首府とは言ってもメトローナの人口は少ない。ただし、それでもやはり一国の首府。物流の中心の一つであり、街中には様々な商店が立ち並び、国内各地から人がやって来る。そんな雑踏をすり抜けて、僕はようやく国内最高級とされている料理店にたどり着いた。
係員に案内された先は奥まった場所にある個室だった。部屋に足を踏み入れた瞬間、僕は予想外の光景に立ちすくんだ。
室内四方の内の一方には立派な扉が付いた出入り口。残り三方の壁に窓は無く、その代わりに立派な風景画が掛けられていた。天井からは無数の照明器が吊り下げられ、そこは密室の様相を呈していた。
室内中央には長方形の大きな食卓が設置され、その一方にはすでに僕の両親が着席していた。さらに、父の向かいの席にはアン、母の向かいの席には西の大公様。僕は係員に促されて母の隣、大公様の旦那様の向かいに腰を下ろした。
係員が退室すると、母が「ケイ」と鋭い声を発した。
「何をしていたのです。遅刻ですよ。まずは非礼をお詫びしたらどうです」
僕は思わず顔をしかめそうになってこらえた。事情は分からないが、今日は家族だけの会食ではない模様。不貞腐れるのはやめて大人しくしようと僕は決めた。
「皆さん。遅れて済みませんでした」と僕は頭を下げた。「それで、これはどういう組み合わせ? 今日は一家三人だけだと思っていたのに」
「ケイ。それよりも先に、遅刻の理由を説明しなさい」
「マノン」と父が口を挟んだ。「そんな無粋なことは、あとにしたらどうだろう」
「それは違います」と母は決め付けた。「今日ばかりは、この種の事柄はきちんとしておかなければなりません」
何なのだろう。この厳格さは。僕はそう思いながらも事情の説明を始めた。
昨夜は東地方の宿屋に宿泊。今朝は東地方とエスタコリン王国西部で宝飾品の流通状況を調査。その後、西地方政庁へ向かい昨年分の税金を納め、政庁内の西地方通商組合で本年分の組合費を払い、ここへ向かった。
「その話のどこに遅刻の要素があるのです」と母が尋ねてきた。
「どの街や村でも振り子時計と日時計を併用して時刻を調べ、鐘や半鐘を鳴らして時を知らせている。僕の体感では、西地方政庁か、ここメトローナの中地方政庁の振り子時計が狂っている」
父がエエッと呆れ声を上げた。
「たまにある話だが……、あとで伝えておく」
「ということです」と僕は母に向かって話を締め括った。
その時、部屋の扉が軽く叩かれ、料理が運ばれてきた。
六年半前、西の大公家の晩餐会で出された料理は目を見張らんばかりの立派なものだった。一方、この料理もそれに引けを取らないほどのもの。さすがフレクラント国の最高級店と唸らざるを得なかった。エスタコリン流の晩餐会は、一品食べ終わると皿が下げられ、次の料理が運ばれてくるという形式だった。一方ここでは、各自の目の前に二十以上の皿や小鉢が一気に整列。見た目には、フレクラント流の方が華やかだった。
会食中、母と大公様は饒舌に言葉を交わしていた。そして時折、アンが相槌を打ったり口を挟んだり。フレクラント国は母系社会、ヴェストビーク家は女系一族。やはり、このような場では男の存在感は極めて薄い。そのことを僕はしみじみと実感した。
どうやら今回、大公様たちはフレクラント国内で挨拶回りをしているようだった。その合間に観光など。アンが二人の手を引きながら空を飛び回っているとのことだった。
話の内容から察すると、ここのところ、長女のカイサ様とその旦那さんも時折フレクラントを訪れているようだった。ヴェストビーク家を挙げて、フレクラントで何かを行なっている模様。一体何事だろうと訝しく思いながら、僕は独り黙々と食事を続けた。
会食も終盤に差し掛かった頃だった。大公様が僕に話し掛けてきた。
「ケイ殿は最近、宝飾品も扱っているのですか。どんな具合です」
「経緯も含めて正確に話しなさい」と母が口を挟んできた。
一体何事。今日に限って、母はなぜか異様に口やかましい。そう思いながら母を一瞥し、僕は説明を始めた。
事の始まりは今年の年始。南都ナギエスカーラの宝飾品店で宝飾品を目にし、行商の商品に出来ないかと考えた。調べてみると、首府メトローナではすでにスルイソラ製の宝飾品が販売されている。競合を避けるためには、中地方に次いで人口の多い東地方でと思い立ち、それならついでに王国西部でもと考えた。しかし王国内の各地では、すでにトロンギャアンケ商会が取り扱っているとのことだった。
「宝飾品の新規参入は中々に難しい。特にまさか、家令殿の息子さんたちが競争相手になるとは思ってもみませんでした。僕としては信用と速さで勝負するしかないと考えている所です」
「宝飾品って、どういうやつだ」
父にそう尋ねられ、僕は出入り口の脇に置いておいた背嚢から二つの髪飾りを取り出した。皆は髪飾りを手に取ると、一斉に感嘆の声を上げた。
「これは見事な……」と大公様。
「手が込んでいるな」と大公様の旦那様。
「その二つはナギエスカーラ製の最高級品です」
「吉祥の髪飾りですか……」と母。
「お前、大丈夫なのか?」と父。
「大丈夫って何が」
「こういう物には盗品や偽物が紛れ込んだりするだろう」
「ナギエスカーラ警察隊で色々教えてもらって、宝飾品取り扱いの免許を取った。そして全部調べた。製作から店頭に並ぶまでの全過程を」
「ケイ殿は立派ですね」と大公様が話し掛けてきた。「異国へ行っても、着々と人脈を広げて商いを拡大していっているのですから」
「いや、それほどでも」と僕は謙遜した。
「それに比べてアンソフィーときたら……」
ふと見ると、まるで自分の物と言わんばかりに、アンは髪飾りを納める入れ物二つを目の前にきちんと並べて置いていた。
いや、いや。そういう話ではないから。それらは僕が携帯する見本品。そんな風にアンに釘を刺しておこうとした瞬間、「ケイ」と母の鋭い声が飛んできた。
「こういう物には相手の名前も彫り込むものではないのですか」
「そうではないんだ。スルイソラにはスルイソラの流儀があって」
「どんな流儀です」
今日の母は執拗だった。僕は面倒になって適当に答えた。
「スルイソラ連合国は男系社会。男には男の流儀があって、女には明かせない」
母は疑わしそうな目付きでフーンと鼻を鳴らした。
程なく食事が終了し、食器が全て下げられ、食卓が整え直された。
「さて。いよいよ本題に入りましょうか」
母のその声に、皆は着席したまま姿勢を正した。本題とは何だろうと、僕は皆の様子を窺った。
「では、フレクラント国の流儀に則って」と大公様が言葉を続けた。「今回こちらに伺いましたのは、お願いの儀があってのこと。それでは当人より申し述べさせます」
母は鷹揚に頷き、アンに目を向けた。
「マノン様。ケイ殿を下さい」
「良いでしょう。認めます」
僕は呆気にとられた。今、何が決まったのだろう。そう思って見回すと、皆の視線が僕に集中していた。その瞬間、僕は理解した。
「ケイ」と母が呼び掛けてきた。「何という顔をしているのです」
僕は半開きになっていた口を閉じた。
「ケイ。きちんと受け答えをしなさい」
僕はエッと声を漏らした。
「アンがケイと添い遂げると言ってくれているのです。ケイと生涯を共にし、ケイの子を産むと言ってくれているのです。こんな有り難い話に何か不満でも?」
見ると、アンは顔を真っ赤に染めて俯き加減になっていた。
「い、いや。急なことで実感が……。結婚なんてずっと先の話だと……」
「はっきりと答えなさい」
「不満はありません」
「それなら返事は?」
なぜ先の年末年始だけは強く帰省を促されたのかを理解した。つまり、あれは親族への結婚前の挨拶回りだったのだ。次いで、いつからこの話が進んでいたのかも理解した。つまり、この話は昨年の秋から始まり、年末頃には大方決まっていたのだ。
「不届き者ですが、よろしくお願いします」と僕は頭を下げた。
「不届き者か……」と父の呟きが聞こえてきた。
「不束者ですが、よろしくお願いします」と僕は頭を下げ直した。
「こちらこそよろしくお願いいたします」と大公様が応えた。
「全てが整いました」と母は宣言した。「カイサ殿に何度か足を運んでいただき、すでに確認済みとなっている事柄ではありますが、念のために最終確認を行ないます」
僕は椅子の背凭れに身を預け、呆然と天井を見上げた。不満は無い。異存も無い。むしろ僕の密かな願望通り。しかしいきなり。しかも強制。人生五百年。これからずっとアンと一緒。これが人生。もう好き勝手は許されない。でも、これからずっとアンと一緒。
良く見ると、天井にはうっすらと小さな染みが浮かんでいた。国内最高級の料理店とは言え、建屋は古く、さすがにわずかばかりでも染みは残ってしまうのだろう。僕は天井の染みを数えながら、全てが終わるのを呆然と待ち続けた。
母たちは大統領府が発行した書類を元に血の重複に関する確認を始めた。
フレクラント国は人口が少ない。そのため、血筋は厳重に管理されている。婚姻に際しては、なるべく血縁の薄い者が相手に選ばれる。その結果、それぞれの血は社会に満遍なく拡散し、ほぼ全ての国民の間にわずかながらも血縁がある。大統領府の発表によれば現在、その最短距離は最長で三十一親等。
アンとジラン大統領の息子さんの距離は五親等。一方、僕と息子さんの距離は最短で二十親等。つまり、僕とアンの距離は最短で二十五親等。世代で言えば、僕はアンの三世代上。僕とアンの間にそれ以上に近しい血縁が無いことは確認済み。親等に基づく分析は簡便な手法に過ぎないが、血の重複が十分に回避されていることは間違いない。
次に家名問題。フレクラント国の慣習に従えば、僕はサジスフォレ家を出て、妻の家名を名乗ることになる。一方、西の大公家の慣習では、ヴェストビークの名は本家のみのもの。家を出る者は他の家名を名乗らなければならない。そのため今回は、アンが新しい家名を名乗ることとする。その候補一覧もすでに準備済み。あとは選ぶだけとなっている。
そして家計問題。僕とアンが高等学院の後期課程を修了するまでは従来通りとする。つまり、僕は連合国評議会からの報奨金と行商の収益で生計を立てる。アンはヴェストビーク家から仕送りを受け続ける。
最後に国籍問題。アンはこれを機にエスタコリン王国から離脱し、フレクラント国に帰属することとする。アンはフレクラント国東地方中等学院の魔法教育課程に合格しており、フレクラント人たる資質に問題は無い。現在、僕とアンはスルイソラ連合国に居住しているため、僕たちのフレクラント国内の登録地は差し当たりルクファリエ村の実家とする。
「これでよろしいですね」と母は言った。
「よろしゅうございます」と大公様が答えた。
天井から皆に視線を移すと、アンは顔を赤く染めたまま書類を覗き込んでいた。片や、父は腕組みをしながら手近な風景画を眺め、旦那様はあらぬ方向を呆然と見詰めていた。
突然引き合わされて淡々と始まる家族関係。おそらく、かつて父親二人の結婚もこんな風に決まったのだろう。いや。決められてしまったのだろう。そう言えば、首府メトローナの旧名はソロメトローナ。かなりの古語らしく、その意味は「太陽と月」。「月になった太陽」の逸話にもある通り、しょせん男なんてこんなもの。僕はそう悟って脱力した。
「私はホッとしました」と母は大きく息を吐いた。「ケイにはもう結婚相手など見付からないと思っていましたから」
「いえ、いえ」と大公様が応えた。「それはアンソフィーも同じです。私も結婚が決まってホッとしました」
「それはどういう意味でしょうか」とアンが尋ねた。
「何を呑気な。妃の選定が終わって以降、イエシカには結婚の申し込みが殺到しているのに、あなたには問い合わせの一つも無いのですよ」
僕は吹き出しそうになった。アンの完全なる誤解と自信過剰。先日、アンは自分にも申し込みが殺到しているとほのめかしていた。
「それはお母様が、私を貴族社会の外に置くと宣言されたためではないでしょうか」
「それは違います。貴族から一般民に転じるのは良くある話です。貴族家の当主かその配偶者にならなければ、大抵はそうなるのですから」
僕は黙って数回頷いた。
「ケイ殿」と大公様が噛んで含めるように話し掛けてきた。「笑い事ではありませんよ。責任の一端はケイ殿にもあるのです。ケイ殿はアンソフィーに着ぐるみを着せましたね。それは良いのです。私も認めましたから。ところが何と狸の着ぐるみ」
「いや。何となくアンは狸かなと……。アンは全然答えないんですけど、結局アンは踊ったんですか?」
「王宮内をひたすら歩き回ったそうです」
「私は、ケイがやれと言うのなら何でもやります」とアンが反論した。
「問題はやり方です。踊ったのであれば変わり者と思われただけで済んだはず。ところが、あなたは『着ぐるみに硬化魔法を掛ければ無敵の戦士』と宣言した上で王宮内を黙々と歩き回り、その姿に思わず笑ってしまった者たちを片端から睨み付けて黙らせた。つまりあなたは、逆らう者を敢えて炙り出して威圧する人間と思われてしまったのです」
さすがにそれは歪曲と誤解だろう。ここはアンの弁護をしなければと思った。
「大公様。それはどう考えても真実には程遠い。アンはいかにも恥ずかしそうに歩き回ったに違いありません。睨み付けたのは、ささやかな抵抗ですよ」
「私もそうは思うのですが、噂ではそうなっているのです」
その時、珍しくも旦那様が口を開いた。
「いや。私は『良くぞやってのけた』と思っているよ。貴族社会の外にあって貴族や王国に睨みを利かせるのであれば、多少怖がられるぐらいがちょうど良い。あの政変の時のジラン閣下のように。私はアンソフィーの将来が楽しみだ」
「お父様……」とアンが感極まったように呟いた。
責任は重大だと僕は改めて認識した。
アンは活発、積極的。時には暴走までもしてしまう。清楚で優美な御令嬢は表の顔。格上の人たちの前では一応借りてきた猫のようになるが、それでも僕がけしかければ何らかのことはしてしまう。御両親はさすがにその程度のことはお見通し。
「このたびの御縁は陛下のおかげでもあります」と大公様は言った。「ケイ殿もアンソフィーもそのことは忘れないように」
「陛下というのは……」と僕は尋ねた。
「前国王のアルヴィン陛下が『ケイとアンソフィーを夫婦とするが良い』と勧めてくださったのです」
僕は微かに眉をひそめた。なぜアルさんが。エルランド殿下とアンの件が破談になったからと言って、その後すぐに僕とアンの婚姻を勧めるなんて。カイルとアンを引き離す。そこまでであれば理解できるが。
「さて」と母が割り込んできた。「あとは家名を決めて、書類に署名をして終わりです」
「エペトランジュにする。これは由緒正しい家名」と僕は即答した。
「マノン様」とアンが声を発した。「私もそれで良いと思います。エペトランジュは華のカプタフラーラにあった家名で、現代のエペトランシャに繋がっているようです」
その瞬間、父がホウと声を漏らした。
「そうですか……」と母は呟いた。「分かりました。それでは今日から、アンはアンソフィー・エペトランジュ、ケイはケイ・サジスフォレ・エペトランジュです」
「今日から?」と僕は訊き返した。
「そうです。今日から」
「これは婚約ではないの?」
「何を言っているのです。これは結婚です」
「僕が言いたいのは普通、婚約と結婚は別の段階ではないのかということ」
「どこの普通です。フレクラントでは普通、婚約即結婚です。『エステルの二つの約束』の教訓がありますから。さっさと署名しなさい。済んだら、すぐに大統領府に行って神統譜と人統譜に登録してもらいますよ」
僕は納得半分で頷き、懐疑半分で首を傾げた。
「でも、年末までには話が決まっていたのなら、その時に教えてくれれば良かったのに」
母はアアと納得したような声を漏らした。
「今回は特殊でした。順序としては、両家間の基本合意の成立、次に国籍変更の手続き。その手続きに時間が掛かってしまいました。そして先日、大統領府から国籍変更の内諾が届き、本日この場で最終合意に至りました」
「でも、せめて基本合意の段階で教えてくれれば、僕もアンも色々できたのに」
「『でも』が多いですね。他国の遠方で二人きり。しかも、あなたは実質を重視して形式を無視しがち。基本合意をもって結婚と認識して色々先走られたら困ります。これは名誉の問題。サジスフォレ側からは想像もつかないほどに、ヴェストビークの名は重いのです」
婚前の不名誉。僕は愕然と妄想して固まった。
「ケイ。スルイソラは楽しいですか」
突然の話題の転換に、僕は幾分呆気にとられて「ん? うん」と頷き、率直かつ微かに皮肉を込めて答えた。
「今までの人生の中で一番楽しい」
「それは良かった。人生で最も楽しい時を独りで過ごしてしまったら、あなたはその後もずっと独りでしょうね。最も楽しい時であればこそ、アンと二人で過ごしなさい」
僕は神妙に頭を下げた。今日の母の言葉の中で最も腑に落ちた助言だった。そして同時に理解した。生物学的にはともかく、社会学的には親子の関係はこれにて終了したのだ。
◇◇◇◇◇
昨日フレクラント国から戻り、今朝七日振りに登院してみると、高等学院の雰囲気は一変していた。至る所に見覚えのない学生の姿。ぎこちなくおどおどしながら院内を散策もしくは徘徊する新入生たち。いよいよ冬も残すところ一週間となり、新年度が迫っていた。
僕が一番に向かったのは学院事務局。結婚の報告をすると、事務員はいかにも慣れた口調で一言「おめでとう」と祝辞を述べ、淡々と事務処理を始めた。訊くと、学年の変わり目に結婚する学生は珍しくなく、ここ数日同様の届け出が相次いでいるとのことだった。
ただし、僕の場合は氏名変更届だけでは済まず、事務長と差し向かいで面接を行なうことになった。用件は学費の免除。例えば、妻の実家からの援助によって僕の収入が増えるようなら免除は取り消される。事務長はそう言いながらも、僕が提示した婚姻の条件を記した書類を一瞥すると、あっさりと免除の継続を認めてくれた。
次いで事務長が持ち出してきたのは高級文房具販売の件。学院の購買部と提携してはどうだろうかとの提案。僕の儲けは幾分減るが、僕自身が雑多な個別対応をしなくても済むようになる。残念ながら、僕はその提案を断った。
先の春から現在までの一年間で、僕は行商の都合でフレクラント国に六回出向いた。内一回は悪天候のせいでフレクラント国とスルイソラ連合国を隔てる大山脈を越えられず、東海沿いを北上し、エスタコリン王国を経由する羽目になった。
先日までは、次の春からも頻度を抑えて同様の行商を続けるつもりでいた。しかし、妻帯者となった現状では、そんな行程不定な行商を強行する訳にもいかない。可能なのはスルイソラ連合国内を行き来する行商程度。文房具の仕入れは専業の行商人に頼るしかない。
そんな事情を説明した後、購買部に知り合いの行商人を紹介する約束をして、事務長との面談は終了した。
事務局での用件を済ませて環境生命学研究室に向かってみると、すでに部屋の奥、窓を背にする机にエリク先生が、部屋の出入り口に近い側、壁際の机にアンが着いていた。二人は僕の入室と同時に各々の作業を中断し、室内中央の長机の席に移動した。
「サジスフォレ君。エペトランジュ君から聞いたのだが……」と先生は言った。
アンと顔を合わせるのはあの日、フレクラント国の大統領府で別れて以来のこと。見ると、アンは以前よりも短めにした銀髪に吉祥の髪飾りを付け、初々しくはにかんでいた。
「はい」と僕は答えた。「このたび、アンと結婚いたしまして……」
「フレクラントの結婚は凄いな。いきなり有無を言わさずか」
「はい。僕も驚きました」
「結婚おめでとう。良きえにし。巡り合えたることを言祝がん」
フレクラント流の祝辞に、僕はハッとして「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。そのまま長机の席に着くと、先生はフームと鼻を鳴らした。
「早速水を差すようで悪いが、こういう話は指導教員がすることになっているので」
先生はそう前置きすると、僕とアンに交互に目を向けながら話し始めた。
人生は長いと思っていても実は短い。だから、一度始めた学業は中断することなく一気に終えてしまうべきである。学生同士で結婚しても、経済的な理由から寄宿舎にとどまる者は多い。寄宿舎を出て、街に住居を探して同居する者は少数である。
学生夫婦の最大の問題は妊娠と出産であり、その結果としての女子学生の学業打ち切りである。寄宿舎は男女別なので、寄宿舎にとどまる者にその問題が生じることは少ない。
「エペトランジュ君は寄宿舎を出て、サジスフォレ君の所に引っ越すのだろう? フレクラント人は妊娠を制御できるから意図せぬ妊娠は無いのだろうが、意図しての妊娠も避けた方が良いだろうな。極めて差し出がましい忠告だとは思うのだが、規則で一応言っておくことになっているのでな」
「はい。今のところ、その意志はありません」と僕は神妙に同意した。
「それで、引っ越しはいつ終わる? 終わったら、季節末恒例の研究室内発表会を行なう」
「引っ越しは今日これからと思っています。今日一日で終わると思います」
「分かった」と先生は頷いた。「それでは、さっさと片付けてきたまえ」
僕たちは先生に促され、ただちに研究室を後にした。
街中の家具屋に向かい、昨日アンが購入したという衣類用の家具を受け取る。硬化魔法と浮揚魔法を掛けて女子の寄宿舎に運び入れ、アンは荷物の整理、僕は寄宿舎の玄関で待機する。僕の行商人用の特大背嚢、アンの背嚢、家具。程なくそれらと共にアンが現れ、二人で僕の家に持ち運ぶ。そんな作業を続ける間、僕は断続的に物思いに耽っていた。
あの時大統領府で、僕たちは二人だけでまるで儀式のような説法を受けさせられた。
いわく、人生は思う以上に長い。添い遂げるためには、互いを慰め慈しみ、会話と交合に励み続けることが肝要である。フレクラント国では、血の制約のために結婚相手を選ぶ余地が非常に少なく、多くの夫婦は何の情も無いまま夫婦生活を始めることになる。そのため、特に結婚当初はそのようにして情を育まなければならない。それは僕たちも同様であり、学生生活と夫婦生活の両立に負担を覚えるようなら、夫婦生活を優先せよ。
つまり、エリク先生の忠告とは正反対だった。こればかりはやってみなければ分からない。僕はそんな風に感じながらも、さらに別のことが気に掛かっていた。
説法の終了後、僕とアンはそれぞれ別個に複数の冊子を渡された。家族に関する法や手続き。家庭生活の知識と知恵。夫婦生活の技術。理想の家族計画。そこには出産に関する項目もあった。
いわく、親は乳児に、出産専門の魔法医術士による検診と必要であれば治療を受けさせなければならない。両親と乳児は、出産専門の魔法医術士による親子関係の判定を受けなければならない。なお、フレクラント国籍を持たない者がフレクラント国籍を得ようする場合、事前に血筋に関する調査を行なわなければならない。
いわく、胎児の肉体は妊娠後期から自然精気を取り込み始める。自然精気は器たる肉体に合わせて自己組織化を開始し、徐々に魂となっていく。乳児の肉体は両親の肉体の特徴を受け継いでいる。その結果として必然的に、肉体に合わせて形成された魂も両親の魂の特徴を受け継ぐことになる。そのため、親子三人の魂の気配を分析すれば、親子関係を判定できる。
それぞれの項目はそんな小難しい書き方をされていたが、内容と主張は明瞭だった。つまり、国民全体の肉体的な健全性を維持するため、血筋は明確に特定され厳格に管理されなければならない。健全性を脅かしかねない者は受け入れない。さらには、不義は容易に露見すると暗に警告していることも明らかだった。
国の規則や勧告に逆らうつもりは特に無く、冊子を何度も読み返す必要性は感じなかった。その中で唯一僕を悩ませていたのは、魂には父親由来と母親由来の特徴があり、それらは別個に識別できるとの内容だった。
エルランド殿下はアンをエステルの生まれ変わりと認識し、後にそれを撤回した。魂は一体のものとしてしか識別できない。そう考えていた僕は殿下のそんな変節を見て、アンは転生者ではなかったのだと解釈した。しかし、事はそこまで単純ではなかったらしい。
以前、フレクラント国高等学院の生命学専攻で聞いた話によれば、転生者であるかどうかは覚醒しなければ分からない。つまり、出産専門の魔法医術士でも魂の奥底で眠る別の魂の気配までは感知できないのだろう。
一方、殿下は魂の識別に精気分光器を使っていた。つまり、精気分光器を用いれば、父親由来、母親由来、奥底で眠る別の魂などを別個に識別できるのだろう。と言うことは、いずれにしてもアンは転生者なのだろうか。
僕は精気分光器を作ろうとしている。それは禁忌の魔具なのではないだろうか。世の中には知らない方が良いこともあるに違いない。仮に転生者であったとしても、生涯を通して覚醒することがなければ、転生者ではなかったのと同じことになる。その考えを尊重すべきなのではないだろうか。
◇◇◇◇◇
環境生命学研究室。室内中央には長机。そこに並んで僕とアン。僕たちの向かいの席にはエリク先生。季節末恒例の研究室内発表会が続いていた。
「禁止だ。禁止」と先生が突然声を上げた。「それは環境汚染だ。研究室では一々思わせ振りな反応をするな」
僕は思わず顔を伏せてしまった。だって、仕方が無いじゃありませんか。夫婦として過ごした初めての夜。様々な意味で余韻が残っているんですから。そんな余計な反論はせずに、「気を付けます」と僕は小声で詫びを入れた。
「サジスフォレ君。話を続けたまえ」
顔を上げて姿勢を正し、アンを一瞥してみると、やはりアンは伏し目がち。その頬は微かに上気していた。
「いや。その前に」と先生は舌打ちした。「二人とも、もう少し椅子を離したまえ。いくら新婚だからと言って、何もそこまでくっ付くことはないだろう」
僕は思わず首を振りそうになった。だって、仕方が無いじゃありませんか。ふと気付くと、アンが僕にくっ付いている。僕はそれを追い払えるような鬼畜ではないんですから。そう思いながらも、僕は椅子を引きずってアンから離れた。
「それでは話を続けます。以上のような理由で、やはり精気分光器の開発は時期尚早であると判断し、計画を変更します」
「そうか……」と先生は残念そうに呟いた。「精密加工はそんなに難しいのか……」
「はい」と僕は肯定した。「先日帰省した際、フレクラントの職人さんに教えてもらうにはもらったんですけど、実用水準で実践するのは中々……。やはり、それが職人芸の職人芸たるゆえんかと」
「なるほど」と先生は溜め息をついた。
「そこで、精気分光器よりも構造が簡単な精気視認器を作ってみようと思います」
「視認器?」と先生とアンが同時に声を発した。
「視認器は僕の勝手な命名なんですけど、精気の気配を単色の光で見る道具です。例えば、人を眺めたら人型の白い像が見え、何も無い所を眺めたら何も見えないような道具」
僕はそのように前置きして、長机の上に広げた紙に構造の概略図を描き始めた。その内容を理解できる先生はフンフンと頷きながら、内容に関係する基礎知識を持たないアンは首を傾げながら、僕の話を聞き続けていた。僕の話が終わると、先生は「なるほど」と小刻みに頷いた。
「気配の場を感知して単純に発光するだけの素子か。確かに構造はかなり簡略化できるな」
「はい。これなら何度か試行錯誤をすれば作れるのではないかと思います」
「分かった。その方向で進めてみたまえ」
僕は大きく頷いた。
「さて」と先生はアンに目を向けた。「エペトランジュ君は研究課題を考えてみたかね?」
「いえ。色々と忙しくて、まだ……」とアンは申し訳なさそうに首をすくめた。
「それなら、君にはこういう調査をしてもらおうか」
環境中の自然精気が薄い地ほど、住民が魔法に触れる機会も少なくなる。また、魔法に触れた経験の少ない者ほど、魔法に対して恐怖や嫌悪、反感などの悪感情を抱きやすくなる。これらは先行する研究によってすでに明らかになっている事実である。
連合国内各地に伝わる伝説、民話、説話などには、魔法に関する記述が多数含まれている。伝説、民話、説話を時代と地域ごとに分析し、魔法に対する悪感情を判定すれば、時代と地域ごとの自然精気の濃度を推定できるのではないだろうか。
「実は、この研究課題は目新しいものではない。しかし、未だかつて目ぼしい成果が上がったためしは無い」
「あのう……。それはなぜでしょうか」とアンは尋ねた。
「全ては私が生まれる前のことだが、伝説、民話、説話の収集に手間が掛り、分析に進む前に研究がうやむやになってしまったのだ。気付いてみたら、環境生命学の研究者がいつの間にか人文系の研究者になってしまっていたとか」
「それはそれで面白いかも……」とアンは興味を示した。
「最初からそのつもりでは困る」と先生は釘を刺した。
「過去に上手く行かなかった研究なら、同じことになりませんか」と僕は指摘した。
「時代が変わったのだ」と先生はニヤッとした。「フレクラントには大昔から神話伝説大系があるだろう。今から約四十年前、ついに連合国にも出来たのだ。古聞大全が。見ての通り、環境生命学は人が少ない。そのため、古聞大全に手を付けた者はまだいない」
僕はアアと感嘆した。
「それでだな」と先生は意気込んだ。「悪感情の強さを文章表現から数値化できないだろうか。例えば、『嫌い』なら一点、『大嫌い』なら二点とか」
「『寄るな。触るな。虫唾が走る』なら表現と語数から五点とか」と僕は追随した。
「そんな感じだ」と先生は笑った。「古聞大全は最新の資料集だけあって、民話や説話の時代や地域もきちんと特定されている。そうやって数値化すれば、時代ごとに地図上に悪感情の等高線を描けるのではないだろうか」
僕はオオと声を上げた。
「自然精気の濃度の等高線図と比較できますね」
「その通り」と先生は頷いた。
「分かりました。やってみます」とアンは答えた。
「まずは数値化の方法の整備からだな。それからエペトランジュ君は、春学期からは一年生向けの生命学系の講義も取るように」
「はい」とアンは頷いた。
アンの案件が終わり、最後は先生の発表の番となった。とは言っても、僕は新米、アンに至っては完全な初学者。前回同様、研究発表ではなく解説が始まった。
「これは環境生命学の講義でも教わることなのだが」と先生はアンに向けて前置きした。
地中からは自然精気が湧き上がっている。妨げる物が無ければ、自然精気はそのまま空中に拡散してしまう。拡散を妨げ、地表付近の自然精気濃度を高めているのは、おそらく植物、特に樹木である。しかし、どのように妨げているのかは判明していない。フレクラント国と連合国では気候が異なり、植生にもそれなりに違いがある。どの樹木がフレクラント国の自然精気濃度を高めているのかも不明である。
地中からは自然精気が湧き上がっている。つまり、精気には物質を透過する性質がある。しかし、人間の体と魂の関係からも明らかなように、精気は自由自在に物質を透過する訳ではない。精気と物質は相互に作用し合い、透過しやすさは物質によってかなり異なる。
「そこで、私は自然精気の流れを妨げる遮蔽材を開発した。小屋を建て、窓以外の天井と壁を遮蔽材で覆い、内部の自然精気濃度を人為的に高め、その中で植物を育てている」
「そんな物があるんですか」とアンは呆気にとられる様子を見せた。
「ほら」と僕は笑いをこらえた。「学院の南東隅の小屋」
その瞬間、先生が舌打ちした。
「何をにやけているんだ。サジスフォレ君」
「この前、学生たちが幽霊小屋とか盗賊の密会場所とか噂していましたよ」
「そんなのはずっと前からだ。小屋の中で変な草を育てていかさま媚薬を作って私は結婚したとか、本当に怪しからん」
「それは本当に失礼です」とアンは共感を示した。「先生の結婚は高等学院の前期課程の修了と同時と聞きました。それなら話の順序が逆ですし、すぐにでたらめと分かりそうなものですけど」
「いや」と僕は口を挟んだ。「この話の落ちは、先生は学生時代に本物の媚薬を作って学院有数の美人と結婚したという……。その先にはさらに落ちがあって、実は香水を……」
「話を本筋に戻すが」と先生は咳払いした。
遮蔽材とは言っても、完全に遮蔽できている訳ではない。それでも、小屋内部の自然精気濃度が外部よりも高くなっているのは検証済み。ところが、フレクラント国から様々な植物の種を取り寄せて、小屋の内部で芽吹かせて、ある程度まで育てて、小屋の周囲に植え替えても、小屋の周囲の自然精気濃度は一向に上がらない。
「何が問題なんだろうな……」と先生は溜め息をついた。
「先生」とアンが声を発した。「連合国の方々は長年にわたって自然精気の低い環境で暮らし続けて、精気に関する能力を徐々に失っていったと言われています」
先生はウムと頷いた。
「遮蔽材があるのなら、それを全ての家屋に取り付ければ……」
「人を何世代にもわたって観察し続けなければ、効果があるかどうかは分からない。そしてそもそも、効果があるかどうか分からない大規模実験などさせてもらえない。だから、まずは植物という世代交代の速いもので試している訳だ」
「なるほど……。難しいんですね……」とアンは呟いた。
「さらに言えば、遮蔽材は大量生産できない。やはり、地道に環境全体を変えていくしかないと私は思う」
アンが「はい」と頷くと、先生は研究室内発表会の終了を宣言した。
◇◇◇◇◇
ほら、見たことか。そう思いながら、僕は首都ノヴィエミストの上空で寝そべっていた。
昨日のことだった。エリク先生が突然、吾輩は犬であると言い出した。意味が分からず尋ねてみると、先生は鼻で笑ってこう言った。夫婦喧嘩は犬も素通りと。僕もアンも先生一流の揶揄と皮肉に恐縮せざるを得なかった。
確かにここ数日、僕は苛立っていた。僕が独りでいると、見知らぬ男子学生が入れ代わり立ち代わりやって来る。そして、彼らは揃いも揃って僕に問う。
「エペトランシャさんは結婚したの?」
その質問は本人にすべき。僕に探りを入れるのなら、「は」ではなく「と」と表現を改めるべき。内心ではそう憤慨しながらも、僕は敢えて誠実に正確に答える。
「エペトランジュさんは結婚したよ」
すると、男子学生たちは皆一様に肩を落として無言で去ってゆく。そんな問答を繰り返していたら、いつの間にか「鬼畜のケイ」とあちらこちらで囁かれるようになっていた。
さらには一昨日、僕が遠距離の行商をやめたとの噂がアンの耳に入った。事情を説明すると、アンは憤慨した。僕にとっては、行商は生活の糧を得るための主要な手段。それを奪う訳には到底いかないと。
大山脈を越える行商では、行程の変更などはごく普通のこと。天候によっては、予定の日に帰れなくなることもある。そしてその間、アンはナギエスキーヌの家で独りきり。そんな光景など想像したくない。僕がそう伝えると、アンは事もなげに言った。最初から自分も行商に付いて行くつもりだったと。
僕も善意。アンも善意。それは互いに理解していた。しかし、もはや意地の張り合い。僕が思わず「アンの飛翔では僕に付いてこられない」と口を滑らせ、南都ナギエスカーラから北限の街ロスクヴァーナまで高空高速飛翔の競争をすることになってしまった。
今日は冬最後の休日、明日からはいよいよ春。しかし、高空帯は未だに凍てついていた。僕は猿の着ぐるみ、アンは狸の着ぐるみ。何か想定外のことでもあったのだろうかと不安になり始めた頃だった。空中で仰向けになったまま南の方角を眺めていると、ようやく空飛ぶ狸が見えてきた。
アンは僕の近くで静止すると、僕に向かって大声を上げた。
「やっぱり鬼畜」
「下に降りて休憩」と僕は怒鳴り返した。
ノヴィエミストの街外れに公園を見付けて降り立ち、僕が行商人用の特大背嚢を降ろして長椅子に腰掛けると、アンは再び罵ってきた。
「独りであんなに先に行っちゃうなんて、やっぱりケイは鬼畜だよね」
僕は軽く鼻で笑ってしまった。
大統領府で貰った冊子の一つ、夫婦生活の技術。夫用と妻用では内容が異なっていたが、項目名は同一だった。いわく、夫婦関係に倦怠感を覚えた際に行なう遊び。奥様と下僕ごっこ、旦那様と女中ごっこ、獣ごっこ、鬼畜ごっこ。それらの記述にアンの目は釘付けとなり、特に鬼畜という言葉にアンは魅了されてしまっていた。
「こういうことはこの一回だけ。とにかく、現状を正確に認識してもらいたかった」
「まるで短距離走のような飛び方。何であれがずっと続くの?」
アンが隣に腰を下ろすのを待って、僕は説明を始めた。
この特大背嚢は極めて頑丈な特注品。商品が背中に直接当たらないよう、内部には軽くて丈夫な仕切り板が入っている。さらには強力な留め具が付いており、袋と仕切り板が肩から腰に掛けて密着するようになっている。
「実は、飛んでいるのは背嚢の方。僕はそこにぶら下がっているだけ」
アンはエッと驚きとも疑念ともつかない声を上げた。
「正確に言えば、背嚢に強制浮揚術を掛けて自動的に浮かせて、僕はそれにぶら下がっているんだ。僕がしているのは方向を決めて前進することだけ。つまり、僕と背嚢で浮揚と前進の役割を分担している」
「思念法か……」とアンは溜め息をついた。「さっきは背嚢の上で寝転がっていたの?」
「そう。この方法の利点は、前進に集中できることと自由が利くこと。宙に浮いたまま休憩できるし、他の作業も可能になる。例えば、自己治癒とか自然精気の取り込みとか」
「欠点は?」
「普通の飛翔よりも手間を掛けている分だけ、結果的に余剰精気の消費量が多くなる。他にも、急な方向転換が難しくなるとか色々あるけど……。でもやはり、魔法の自己組織化、思念法の強制属性は偉大だ。勝手に効果が続いてくれるんだから」
「今、背嚢は空でしょう。袋の布を浮揚させているの?」
アンはかなりの興味を持った様子だった。僕も説明に興が乗ってきた。
「背嚢の中の仕切り板。ある程度の大きさと強度が無いと駄目なんだ。もちろん、中が空でなければ背嚢全体に強制浮揚術を掛ける」
僕は「例えば」と足元の小石を指さした。
「その石を背嚢に入れて、石のみに強制浮揚術を掛けたとする。その場合、同時に僕の体も持ち上げるためには、その小さな石一つにかなりの魔法力をそそぎ込まなければならなくなる。しかし、小さな物に過剰に魔法力をそそぎ込むと……」
僕がいったんそこで言葉を切ると、アンは訝しげに「ん?」と首を傾げた。
「キーンと金属的な高音が鳴り始めて、その内に石が砕け散る」
「へえ」とアンは声を漏らした。「知らなかった。そんな現象があるんだ……。直接、自分の体に強制浮揚術を掛けるのは?」
「同時に他の魔法を使うと、強制浮揚が解けてしまうことがある。だから役割分担」
「以前、アルさんとマノン様が空飛ぶ船の話をしていたけど……」
「ああ」と僕は思い出した。「大船を飛ばすのは大変。小舟は飛ばしても邪魔になるだけ。結局、背嚢と仕切り板で必要かつ十分、最も効率が良い。それが僕の結論」
アンはフーンと鼻を鳴らすと、自身の背嚢から水筒を取り出し、お茶を飲み始めた。僕も自分の水筒に口を付けながら次の言葉を待っていると、アンが「ねえ」と言った。
「ケイはいつからそんな飛び方をしているの?」
「去年の秋の半ばから。カプタフラーラの片道十時間にはさすがに参った」
そしてあの夜、僕よりも力の弱かったはずのカイルがそれほど遅れずに付いてきたから。あの時、なぜかカイルも行商人用の特大背嚢を背負っていた。きっと、カイルもこの飛び方をしていたに違いない。
「私に強制浮揚術を教えて」
「本当にずっと行商に付いてくるの? 別に嫌だと言っている訳ではないんだけど」
アンはしばらく何かを考え込むと、真剣な表情でおもむろに言った。
「海を越えられる」
意外すぎる話の飛躍に、僕は呆気にとられた。
「二人の体を綱で繋いで、二人の背嚢に強制浮揚術を掛けて、交代で休憩や睡眠を取って、強制浮揚が消えそうになったらすぐに掛け直せば、どこまでも飛んでいける」
アンは天才なのだろうか。それとも、ただの夢想家だろうか。未知の土地への冒険の旅。実際に出るかどうかはともかく、習得しておいて損は無い技術ではある。それは普通の野営にも、もちろん日常生活の役にも立つ。
昨年の秋、フレクラント国高等学院の地下でカイルが見せた魔法の多重発動。光球や物品がそこら中に浮いていた。あの時は戦慄したが、あとになって考えてみれば、仕組みは単純。多分、あの光球は強制光球、何もせずとも勝手に光っていただけ。多分、物品に掛けられていたのは強制浮揚術、何もせずとも勝手に浮いていただけ。つまり、全ては強制属性のなせる業。カイルは驚異の多重発動など行なっていなかったのだ。
思念法使いにとっては当然の技術に違いない。太古の人々はあの水準の技術を日常的に駆使していたのだろう。あそこまで実用性の高い技術となれば、秘匿の約束を守っているアンに敢えて隠す理由は思い付かない。
そんなことを考え始めた時だった。離れた所から「猿と狸」という声が聞こえてきた。見ると、公園内の向こう側に親子連れの姿。子供が僕たちを指さしていた。
「そろそろ行こう」と僕はアンに声を掛けた。「朝市が終わる前にロスクヴァーナに着かないと、果物を仕入れられなくなる」
アンは「うん」と頷き、腰を上げた。今のところ、海を越える話にこだわるつもりは無い様子だった。
◇◇◇◇◇
いよいよ春。ナギエスカーラ高等学院の新年度が始まった。そして、新年度最初の行事と言えば舞踏会。今年こそはと意気込んで、僕はアンと共に学院の会堂に乗り込んだ。
会堂の入口には予定表が貼り出されていた。主催者による模範演技、参加者全員で簡単な練習。主催者指定の相手との舞踏。自由に選んだ相手との舞踏。アンによれば、段取りは昨年と同じとのことだった。
会堂内は学生たちで混み合っていた。一見したところ、男女比は二対一。人数から考えて、参加者の多くは新入生。学年に関係なく参加可能となってはいたが、やはり社交舞踊は敷居が高いのだろう。ほとんどの上級生には敬遠されてしまっていた。
僕と同様、新入生の大半にとっても社交舞踊は初めての様子だった。僕も新入生に混ざって上級生から基本の足運びを教わり、案山子のような状態から何とか脱した所でちょうど練習は終了。参加者全員が壁際に退き、いよいよ舞踏会の開始となった。
まずは、籤引きで決まった相手との舞踏。女子は二回、男子は一回ずつ踊ることになっていた。主催者が次々に番号を読み上げ、該当者が会堂の中央に歩み出る。音楽愛好家の学生と学院外の専業演奏者からなる楽団が優雅な曲を演奏し始める。すると、会堂中央のあちらこちらで男女の組がばたばた、よろよろ。壁際からは、歓声、冷やかし、笑い声。そんなことが何度か繰り返された後、いよいよ僕の番号が読み上げられた。
僕の相手は四年生、後期課程に在学中の女子だった。あまりの気恥ずかしさに、顔の火照りが治まらなかった。結局、何をどうしたのかもほとんど記憶に残らないまま、僕の出番は終了した。
一時間以上が経った頃、全員が少なくとも一回は踊り終え、そこから後は自由時間となった。ところが、アンと踊ろうと思ってみても、アンの周りには人だかり。僕が全く近付けないままに曲が始まり、アンは見知らぬ男子学生と踊り始めてしまった。
さすが、エスタコリン王国第二位の貴族家の令嬢。相当な経験を積んでいるに違いなく、アンの舞踏は全参加者の中でもひときわ優美で軽快。辺りを見回してみると、壁際に控える学生たちの多くもアンに目を向けていた。
参加者たちは徐々に、壁際で雑談に耽る者と、積極的に相手を変えて踊り続ける者に分かれていった。アンは踊り続ける側。僕は独り壁際に立ち続ける側。僕は密かに苛立ちと焦り、微かな嫉妬を覚え始めた。
アンの容姿と華麗な舞。アンに群がる男たち。断ることを知らないアン。近寄り切れない僕を無視し続けるアン。育ちと素養の違いを見せ付けられて、何だか嫌になってきた。
何だよ。一回ぐらいは男たちの申し込みを断って、僕の所に来てもいいじゃないか。そんな風に拗ねているのを自覚しながら、僕は会堂を後にして食堂へ向かった。
食堂の中、柑橘系飲料を手に、ゆっくりと独りになれる場所を求めてさまよっていると、突然僕を呼ぶ声が聞こえてきた。僕は呆気にとられて、その向かいに腰を下ろした。
「何でこんな所にいるんですか」
「学院の関係者でなくても、食堂を使えるんでしょう?」
「使えますよ。でも、そういう意味ではなくて」
「ケイ君の言う通りに、この春からノヴィエミストの出張所に配置転換してもらった。そして今は、ノヴィエミストからナギエスカーラに出張中」
「結婚の申し込みが殺到しているんでしょう。それを全部断って?」
「それを全部保留して」
そう言って、西の大公家の次女イエシカさんは鼻で笑った。
「大公様や家令殿は反対したでしょう」
「全然」とイエシカさんはあっさり否定した。「王家のアルヴィン陛下が、ぜひ行かせてやってほしいと口添えしてくださったし」
僕は意外に思った。またもや、寛大なる前国王のアルさん。
「今日は休日ですけど、学院に用ですか?」
「ううん」とイエシカさんは首を振った。「街で、今日は学院と学校で一斉にお祭りみたいなことをしていると聞いて。でも来てみたら、新入生歓迎の舞踏会でしょう。仕方が無いから、ちょっとだけ食べて宿に帰ろうかと思っていた所」
イエシカさんはそこまで言うと、周囲を見回した。
「あの子はどうしたの? アンソフィーは」
「踊り続けていますよ、僕には見向きもせずに。舞踏会ってそういうものなのかも知れませんけど、僕には踊る相手も話し相手もいないし、嫌になってしまって」
「あら、あら」
「こういうのを社交界と言うんでしょう? 僕が居るような場所ではありませんね」
イエシカさんは首を傾げて笑みをこぼした。
「それなら、私と踊ろうか。私が紛れ込んでも大丈夫でしょう?」
思わぬ提案に、僕は絶句しかけた。
「大丈夫だとは思いますけど……」
「あの子は大して踊れもしないくせに、旦那様を放り出して何をいい気になっているのか……。私があの子の鼻を折ってあげる」
イエシカさんはそう宣言すると、急いで料理の残りを頬張り始めた。
会堂に戻ってみると、やはり僕と同様、居たたまれなくなってしまった者もいる様子。人が減り始めていた。それでも、会堂中央には踊り続ける男女たち。そこにはアンの姿もあった。
アンを取り巻く男たちはアンの頭で輝く吉祥の髪飾りをどう見ているのだろう。しかも、それは既婚者用。自分たちにはもはや可能性が無いというのに。いや。それは僕の考え過ぎだろうか。単に上級者に踊りの手解きをしてもらいたいだけだろうか。
程なく曲が終了し、踊り続けていた男女が会釈とともに解散した。
「いよいよ、次が最後です。後悔しないよう、踊りたい人は迷わず前に出て」
主催者たちからそんな呼び掛けが飛んだ。次の瞬間、ぐいっと腕を引っ張られた。イエシカさんは素知らぬ顔で会堂中央に向かおうとしていた。「えっ。何で」とアンの声が聞こえたような気がした。
最後の演奏が始まった。まさに会堂の中心点。イエシカさんが動き始めた。控え目でもなく、ためらいがちでもなく、躍動感に溢れる雄大な踊り。それに引っ張られて、僕の歩幅も広くなった。目が回りそうな勢いで、ぶんぶん、ぐるぐる。衝突回避のためだろう。僕たちの周囲から人がいなくなった。これぞまさしく武闘会。舞踏は武闘の一種だった。
演奏が終わり、僕とイエシカさんが最後の挨拶を交わすと、あちらこちらで溜め息が漏れ、拍手が沸いた。ふと見ると、アンが怖い表情で僕たちに近付いてきていた。これぞまさしく武闘会。姉妹の対面は武闘の一種だった。
「あら、あら。奥様はどちらにいらしたのかしら」とイエシカさんが声を掛けた。
「なぜ、お姉様がここにいるのです」
「皆様に見苦しい所をお見せしないよう、場所を変えましょう」
そう言いながら、イエシカさんは僕の腕を取った。
今日は休日。それでも今日に限っては学院内のそこかしこに人の影。僕たちはそのまま運動場の隅へ向かった。周囲に人気が無くなった所で、イエシカさんは歩みを止めた。
「お姉様。ケイから離れてもらえませんか」
イエシカさんはこれ見よがしに僕の腕を取り続けていた。
「アンソフィー。ケイ君をほったらかして何をしていたの?」
「ここでは社交舞踊の経験を持つ者は少ないのです。しかも、皆恥ずかしがって前に出てこようとしません。ですから、経験者が率先して踊り続ける段取りとなっていたのです」
僕は唖然とした。僕にとっては初の参加。そんな段取りがあったとは全く知らなかった。一方、イエシカさんは首を振って溜め息をついた。
「それならなぜ、ケイ君を放っておいたの。どう見ても、ケイ君も初心者でしょう」
「それは……」とアンは言い淀んだ。
「ケイ君には踊る相手がいなかった。だから私が踊った。何か問題でも?」
「いいえ」とアンは渋々認めた。
「ケイ君。フレクラントにも『釣った魚に餌は要らない』という言い回しはある?」
「ええ」と僕は軽く肯定した。「揶揄と戒めの言葉として。特に、家を継ぐ立場にある女がそういう態度を取りがちと言われています」
「アンソフィー。私はお母様に命じられたの。スルイソラに行ったら、アンソフィーの様子を見てきなさいと。ヴェストビーク家の中には家格のゆえにそういう態度を取ってしまう者もいるのだと。そうしたら案の定」
「でも……」とアンは反論しかけた。
「あなたが生真面目なのは知っている」
アンが口を閉ざした。
「ねえ、ケイ君。こんな気の利かない子とは離婚して、私と結婚しない?」
「お姉様。ケイから離れて」
これ以上はまずい。僕はそう思い、組んでいた腕をさりげなく外した。
「冗談よ」とイエシカさんは笑った。「アンソフィー。あなたにケイ君をあげます」
アンは僕に近寄って来ると、僕の腕を取って引っ張った。
「あげますも何も、ケイはお姉様のものではありませんから」
「あら、あら。あなたはケイ君のことを何も知らないくせに。例えば、ケイ君はノヴィエミストで何と呼ばれているか、ちゃんと知っている?」
「知っています。蝗退治の魔法使い。連合国から表彰された魔法使い……」
「違います。流星の魔法使いです」
アンはエッと声を漏らすと、「そうなの?」と僕に尋ねてきた。
「イエシカさん」と僕は呼び掛けた。「気遣いには感謝します。もう十分ですから、終わりにしませんか」
「ケイ君がそう言うのなら」とイエシカさんは頷いた。
せっかくここまで来たのだから、今夜は一緒に夕飯でも。本来ならそう声を掛けるべき所なのだろうが、イエシカさんは先ほど食事を摂ったばかりだった。その上、今は雰囲気が悪く、明日の夕飯を申し出て、そこで解散となった。
後片付けに加わるために僕とアンの二人で会堂に戻ってみると、すでに掃除は終わり、椅子の並べ直しが始まっていた。その作業に加わりながら、僕は大統領府で貰った冊子の内容を思い返した。
いわく、人は魂と器からなる。夫婦の魂の繋がりは主に対話によってもたらされ、夫婦の器の繋がりは殊に交合によってもたらされる。いわく、特に支障の無い限り、夫婦は常に触り合うべし。それらは挨拶代わりの軽いものを良しとする。いわく、特に支障の無い限り、夫婦は毎朝接吻を、毎晩交合を行なうべし。それらは挨拶代わりの軽いものでも可とする。
夫婦の絆の確立と維持を最優先とせよ。それが冊子に記載されている事細かな勧告の主旨だった。理想論と現実論、道徳と倫理、対話による思想の同一化、夫婦間の性解放と性技、その他もろもろ。多分、夫婦の絆は本来脆弱なものだからこそ、様々な側面から多岐にわたって詳述しているのだろう。しかし今の僕にとっては、抽象的な論考も含めて全ては本質を外した単なる方法論としか思えない。
三級屈辱刑の時、僕の両親はひたすら傍観。普段はしつこいほどに僕に関わっておきながら、いざとなったら傍観者。最も近しい血の繋がりがあったとしても、結局はその程度の関係に過ぎない。
僕は何を浮かれていたのだろう。僕とアンは血を分け合った訳でもなく、魂を分け合った訳でもない。あらゆる意味でアンは僕を最優先、僕はアンを最優先。そんな関係など本来的に成立し得るはずがなかったのだ。その時々がそれなりに楽しければそれで良い。それが望みうる最大限なのかも知れない。
◇◇◇◇◇
一週は五日。週の第五日は休日。僕たちは規則正しい生活を続けようと一応は決めていた。最初の休日は掃除洗濯。次の休日は行商。さらに次の休日は掃除洗濯。さらにさらに次の休日はのんびりまったり。今日はのんびりまったりの日のはずだった。朝、布団の中でアンが寝返りを打ち、蹴りと肘打ちが僕を安眠から呼び覚ました。
二人揃って身繕い。顔を洗って口を漱いで挨拶代わりの接吻。その体勢のまま、「今日もまたかな」とアンは言った。
「分からないけど、規則性から導き出される結論は、十分に可能性あり」
僕の勿体ぶった口振りに、アンは拗ねたようにウーンと鼻を鳴らした。
「絶対にのんびりまったりの日を狙っているよね」
「異郷にあって故郷を異常に恋しがるのは懐郷病という心の病。無碍にあしらう訳にもいかないよ」
「ケイは本当にお姉様に甘いよね」
その時、玄関の扉を叩く音が聞こえた。結局、のんびりまったりの日がのんびりまったりしたことは未だ一度もなかった。
「ほら、何をしているの」とイエシカさんは威勢よく言った。「宿でお弁当を三人分作ってもらったから、今日は蝗の平原まで遠出してみよう」
僕は苦笑した。「してみよう」ではなく「連れて行って」の間違いなのは明白だった。
「お姉様」とアンの口調が険しくなった。「いつもの通りに、昨晩からナギエスカーラの宿屋に御宿泊でいらっしゃいますか」
「そう。昨日の昼前にノヴィエミストを発って、夕方ナギエスカーラに着いて。やっぱり、ここは遠いわね。ずっと飛びっぱなしで昨日は疲れた」
「そして、今回も一週間の御予定で御滞在なされるお心づもりでいらっしゃる」
「そう。その御予定であらせられます」
「そのようにお遊び回っておられますと、御失職のお憂き目にお遭いになられますよ」
「あら、あら。これが私のお仕事なのだけれど」
二人にとっては挨拶代わりのいつもの儀式。僕は深刻そうな表情を作って割り込んだ。
「アンもそんなにむきになるなよ。イエシカさんもアンをからかうのはやめて」
イエシカさんは軽く笑い声を漏らした。
「違うでしょう。ここは懇願しなさいよ。『ねえ、やめてよ。お願いだから、僕のことで喧嘩するのはやめてよ』って」
僕は思わず吹き出してしまった。
「アンソフィー。私は敢えてあなたに危機感を持たせているんです」
「お姉様。だからと言って、しつこすぎます」
その瞬間、イエシカさんは真顔になった。
「私が定期的にナギエスカーラに来ているのは正式な出張なの。今回は中央政庁の命により、今年の蝗害発生の可能性を探っています。少額だけど報酬も出すから手伝って」
僕は猿の着ぐるみ、アンは狸、イエシカさんは家にあった予備の牛。さらに、僕の背中には行商人用の特大背嚢、アンの背中には板。板には数か所に穴があけられ、そこを通した平たく細長い帯で、板はアンの両肩と腹と両太腿に固定されていた。
高空高速飛翔で強制浮揚術を併用するためには、術を受け切れるだけの大きさと強度を持つ物が必要になる。ただし、材質は何でも良く、形状も空気抵抗が増えなければそれで良い。そう思って手作りしておいた、名付けて亀の翼だった。
さらには僕とイエシカさん、アンとイエシカさんを綱で繋ぎ、出発の準備が整った。蝗の平原の方角は知っていた。距離は通常の高空高速飛翔ならば休憩抜きで正味三時間強と聞いていた。家の戸締りを確認し、玄関口で僕は二人に声を掛けた。
「それでは出発」
二人が頷くのを確認し、僕はイエシカさんに気付かれぬよう、さりげなく特大背嚢と亀の翼に強制浮揚術を掛けた。
「イエシカさんは浮揚に集中。僕たちが引っ張ります」
僕とアンは手を繋ぎ、二人で飛翔を開始した。
南西方域を一気に通り抜けると、そこから先は木の生い茂る山岳地帯。ただし、それほど高い山並みではなく、蝗でさえ山あいを抜けてしまう程度のもの。途中一回、山頂に降りて景色を眺めながら休憩。そして、ナギエスキーヌを発って約三時間が経った頃、眼下に平原が広がった。
未だかつて目にしたことのない景色だった。フレクラント高原よりも広い平原に北東南の三方向から大河が流れ込む。それぞれ曲がりくねって、あちらこちらに三日月湖。西の海岸線付近で合流し、その近辺には巨大な三角州が形成されていた。
着陸場所を求めて三角州に差し掛かった時だった。突然、僕たちの横方向で光爆が起きた。付近に誰かいる模様。多分、僕たちの存在に気付いて合図を送ってきたのだろう。そう思って高度を下げると、さらに異様な光景が目に飛び込んできた。
まるで透明な巨人が足跡を残していくかのように、草原が円形にずん、ずんと押し潰されていた。呆気にとられて上空から眺めていると、人影が一つ近付いてきた。確かめてみると、見覚えのある男性。昨年の蝗退治で一緒になった常設警邏隊の中隊長だった。
光爆による合図。足跡作りが止まった。中隊長を追ってわずかに木の生い茂る一角に降り立つと、そこは野営地、小さな天幕が五つ。遅れて周囲から男女二人ずつ四人の隊員が集まってきた。
「よう」と中隊長は改めて声を掛けてきた。「君たちは結婚したんだって? 良きえにし。巡り合えたることを言祝がん」
「ありがとうございます」と僕とアンは揃って頭を下げた。
「それで、そっちは……」と中隊長はイエシカさんに目を向けた。
「私はエスタコリン王国中央政庁総合調査官、イエシカ・ヴェストビークです」
「ヴェストビーク……。あなたが西の大公家の次女殿か」
「はい」とイエシカさんは頷いた。
「お初にお目に掛かる。私はブレソル・ビエラディエル。フレクラント国大統領府常設警邏隊で中隊長を務めている。お見知りおきを」と中隊長は会釈した。
「中隊長殿。こちらこそお見知りおきを」とイエシカさんも会釈を返した。
互いにこの出会いを予期していたのか、イエシカさんと中隊長たちは早速情報を交換し始めた。僕は周辺の景色を眺めながら、その会話に耳を傾けた。
毎年この時期、常設警邏隊は少人数の遠征隊を組み、蝗の調査がてら野営と魔法の訓練を行なっている。今年の蝗の調査結果は黒。蝗の大量発生は一度起きると数年にわたって繰り返されることがある。現在、蝗の成体数は推定で昨年の第一波直前の約六割。しばらくすると、もっと増えるだろう。その結果、昨年ほどではないが、今年も群れが飛び立つ可能性が高い。先ほど行なっていたのは大規模魔法の発動訓練。本格的に蝗を駆除していた訳ではなく、今回はその予定も無い。
「去年はぽっと出てきた若いのにあっさり片付けられてしまったからな。今年は我々ももう少し頭を使ってみる予定だ」
そう言って、中隊長は苦笑した。
「この野営地に蝗は来ないんですか」とイエシカさんは尋ねた。
「来る。だが、他の所よりはましだ。やはり、蝗は基本的には野原の虫なのだろうな」
「なぜ、大昔の生態系は全然復活しないんでしょうね」
「いや」と中隊長は首を振った。「森林化は周辺部から徐々に進んでいる。つまり、千年では復活しないほどに、元々の焼け野原は広くてひどい状態だったということだな」
「そうだったんですか」とイエシカさんは意外感をあらわにした。
「鳥や小動物がもっと戻って来れば、蝗も餌になって減るのだろうし、森林化も速くなるのだろうが……、私は生態系の専門家ではないので、詳しいことは分からないが」
その時だった。会話を遮って、隊員から「昼飯にしましょう」という声が上がった。
遠征隊は野性味に溢れる生活を送っている様子だった。今回の訓練は七日間。野草を摘み、魚を釣り、獣を捕まえ、食料とする。足りなければ持参した食材を追加。簡易浄水器を作って飲料水を確保。入浴等は川で済ませる。鍋や食器も現地調達。到着直後に道具と魔法を使って木器と素焼きの土器を作ったとのことだった。
僕たち三人はナギエスカーラから持参した弁当。遠征隊の面々は得体の知れない焼き物と煮物。何となく申し訳ない気分で食事を始めると、中隊長が僕に尋ねてきた。
「去年は訊く暇が無かったが、君は温熱魔法を領域展開して予備発動したんだろう?」
僕はハッとした。確か、その種の能力を潜在的に有するフレクラント人は五十人に一人。この人たちはきちんと理解していたのだ。
「我々も今回試してみたんだが、中々上手く行かなくてな。どうしても、君ほどの広域展開は出来ない」
「先ほど、草原を潰していましたよね。あれはどうやったんですか」
「下向きの浮揚魔法を領域展開して実発動したんだ」
「一気に押し潰すんですから、相当強烈な魔法ですよね。温熱の方は威力を弱めれば、その分だけ広く展開できるはずですけど」
「いや」と中隊長は首を傾げた。「蝗をようやく殺せる程度にまで威力を抑えても、あそこまで広くは展開できない」
僕は思い当たってアアと声を上げてしまった。
「僕は蝗を殺してはいないんです。大部分を動けなくなる程度に熱して落として積み上げて、そこに籠った熱で蒸し焼きにしただけです」
「あっ。なるほど」と皆は声を上げた。
「だから、なるべく積み上がるように落とすのがこつなんです。ただし、それほど積み上がらなかったとしても、墜落するような熱を受ければその内に死ぬとは思いますけど」
「そうか……」と中隊長は呟いた。「直接、殺す必要は無かったか……。それからもう一つ。君は何度も繰り返して魔法を発動していたようだが、良く余剰精気が持つな」
僕は返答に困った。温熱魔法に強制属性を加えて勝手に予備発動させておき、その間に強制吸入術で余剰精気を補充する。この口振りでは多分、この人たちはその種の技術までは知らないのだろう。
明かしてはならないと散々警告されたのだから。そう思って、僕はごまかした。
「とにかく、あらかじめ目一杯に精気を吸っておく。それ以外に手はありませんよ」
中隊長は「そうか」と小刻みに頷くと、首を傾げた。
「それにしても、あれほど出来る君にどうして武闘会では気付かなかったんだろう」
「武闘会を見に来ていたんですか?」と僕は意外に思った。
「もちろんだ」と中隊長は鼻で笑った。「常設警邏隊は学院別武闘会と全国武闘会の運営に協力している。ちなみに常設警邏隊員は全員、全国武闘会の優勝経験者」
「中隊長さんも」と僕は思わず聞き返してしまった。
「私は三百年ぐらい前に」
「他の皆さんも全員ですか」と僕はしつこく聞き返してしまった。
「優勝者は毎年一人ずつ出る訳だから、少ないとは言え珍しくはない」
太古の魔法使い。思念法の使い手。僕は一部に対してそんな風にうそぶいていたが、やはり有能な使い手はそれなりにいるのだと再認識した。
「常設警邏隊には全国優勝しないと入れないんですか?」
「必須の条件ではないが、参考にはしている」
そう言うと、中隊長はアンに目を遣った。
「確か、君は一昨年の全国三位だったな」
僕は改めて認識した。武闘会の優勝には実質がある。単なる名誉ではない。フレクラント国高等学院の生命学専攻は僕から名誉と実質を奪った。
そこでいったん会話が途切れ、食事を再開してしばらくした頃だった。アンがためらいがちに「あのう」と口を開いた。
「私は歴史学と考古学をやっているのですが……」
「おう」と中隊長は嬉しそうに応えた。「聞いている。華のカプタフラーラの発見は話題になっているからな。君も調査隊に入っていたらしいな」
「はい」とアンは小さく頷いた。
「北の大森林に砦を作ったんだろう? そこに宿屋を開いたら儲かるぞ。フレクラントから見物客が押し寄せて。我々も今年の秋の訓練はあちらまで行ってみようと思っている」
「そのカプタフラーラに関連するのですが、この蝗の平原に遺跡は無いのでしょうか」
中隊長は「さあ」と首を傾げた。他の隊員たちも「聞いたことがない」と言った。
「スルイソラ連合国とこことの間には山脈がありますが、徒歩で十分に通り抜けられる地形です。ここもかなり広い平野ですから、過去に人が入植していたとしてもおかしくないと思うのですが」
「それはカプタフラーラと同時代の話?」と中隊長は尋ねた。
「はい」とアンはゆっくりと頷いた。
「どうだろう。人がここまで到達した可能性は当然ある。現にこうやって我々もいるのだから。しかし、ここには暴れ川が集中している。よほどの治水技術が無い限り、大規模な定住は難しいのではないだろうか」
アンはそこであっさりと引き下がってしまった。元々、ここにも遺跡があるかも知れないと言い出したのは僕。アンは遺跡など無いという立場だった。代わって僕が質問した。
「ここよりもさらに南はどうなんですか」
その瞬間、数名の隊員がウッと呻いた。
「南は駄目だ」と中隊長は吐き捨てた。「動植物の生態が全く違う。徐々に密林が増えていき、降り立てる場所が見付からなくなる。見付けても、降り立ってふと足元を見ると、無数の蛇が日向ぼっこ。びっくり仰天、慌てて逃げ出すのが関の山。南はそんな所だ」
僕とアンとイエシカさんが同時にウーンと呻いた。
昼食を終え、しばらく周囲を散策し、ナギエスカーラへの帰り支度を始めようとした時だった。中隊長が真剣な表情で僕に近寄ってきた。
「今回も蝗が群れで飛び立つようなら、我々が新しい方法で対処してみるが、手に負えないようなら、また手伝ってくれ」
僕が返答をためらうと、中隊長は怪訝そうに首を傾げた。
「去年、君はスルイソラ連合国からかなりの報奨金を貰っただろう。それはそういう奉仕活動も込みの額だと思うぞ。少なくとも十年分の」
僕はアンとイエシカさんから離れ、中隊長と二人きりになった。
「連合国評議会で聞いたんですけど……、フレクラント国は敢えて蝗の群れを殲滅しない方針なのだと。敢えて残して、スルイソラにも対処させているのだと」
中隊長はアアと何かに思い当たった様子だった。
「君がやってしまったものだから、大統領が方針を変えたんだ。連合国評議会に『我々の有難味を忘れたら、また半分残すぞ』と伝えて、これからは退治に掛かる経費と報酬を払うよう要求したんだ。次も参加したら、君にもその分け前はあるはずだ」
僕は鼻で笑った。
「多分、評議会の議長さんが愚痴っていますよ。何でそんなに高圧的なんだと」
「誰かが高圧的に押さえ付けないと、スルイソラは分裂してしまうのだそうだ。あの者たちは決して純真無垢な子供ではない。そのことは良く理解した方が良い」
その時、生暖かい風が草原を吹き抜けた。徐々に崩れていきそうな空模様。僕は中隊長に別れを告げ、アンとイエシカさんの所に戻った。
◇◇◇◇◇
僕に背を向けて立つ全裸のアン。僕も裸のままアンを背後から抱き締める。アンが両腕を前に伸ばす。僕も両腕を伸ばしてアンの両手首を掴む。夫婦だからこそ出来ること。
「行くよ。全身で感じて」
僕の囁きにアンは無言で頷く。僕も集中。そしてアンの中に注ぎ込む。
僕の強制浮揚術がアンの全上半身を経由して、床に置かれていたアンの下着に掛かった。フワッと宙に浮かぶアンの乳押え。僕はアンから離れて、強制浮揚術を解除した。
「はい。感覚を忘れない内に」
僕の声に続いて、アンが強制浮揚術を発動させた。ふらふらと宙を漂うアンの下穿き。
「はい。今度はアンが解除。そしてもう一回、強制浮揚」
下穿きが床に落ちた次の瞬間、アンの髪がブワッと逆立った。次いで両の乳房がグイッと持ち上がり、最後に下穿き。僕が「残念」と宣言すると、アンは大きく息を吐いた。
最近の起床直後の日課と言えば強制浮揚術の練習。しかし、中々上手く行かなかった。強制浮揚の感覚が完全に残っていれば、アンも発動できる。しかし途中、強制浮揚の解除など他の魔法を使用すると、それによって強制浮揚の感覚が損なわれ、次は誤発動となってしまう。今回は単なる浮揚術が頭から胸を通り抜けて下穿きに到達しただけだった。
今朝も凄いものを見てしまったと密かに感嘆しながら、僕は「大丈夫」と断言した。
「事実として、アンには強制浮揚術を発動させる能力があるし、硬化魔法や強制吸入術を身に着けた時よりも進歩が速い」
僕の激励に、アンはウームと何となく頷き、浮揚魔法で下着を引き寄せた。僕も衣類を身に着け、その後しばらくアンは強制浮揚術の練習、僕は家事を開始した。
強制浮揚術の練習台は軽くて柔らかい物でなければならない。初めての時、アンは僕の下着を選んだ。宙を飛んで壁を突き抜けようともがく僕の下穿き。僕は慌てて掴み取り、それ以降の練習台は全てアンの衣類となっていた。
普段、魔法使いは浮揚魔法と飛翔魔法を無意識に切り替えながら発動している。そのため、浮揚と飛翔という語の使い分けも曖昧。しかし本来、両者は似て非なるもの。浮揚は浮くこと。飛翔は浮くことと移動すること。強制浮揚術では移動を厳格に排除しなければならない。さもなければ、目を離した隙に漂ってどこかへ行ってしまう。
そんな水準の厳格さを身に着けていた太古の思念法使いはやはり素晴らしい。僕のその感想をアンも最近実感し始めている様子だった。
今日は休日、掃除洗濯の日。僕にとっての楽しい時間はこれで終わり、アンの時間が始まった。アンの指示の下、僕はひたすら水汲みと洗濯、アンは掃除。アンは四年半、姉のエメリーヌの家に居候していた。その間にかなり鍛えられたのだろう。掃除器の扱いも手際良く、あっという間に作業を終えてしまった。その後は、僕が洗い終えた衣類をアンが温熱魔法で乾かしていく。二週間分の洗濯物も小一時間で全て片付き、いつも通りに掃除と洗濯は終了した。
そしていよいよ、ここ最近の頭痛の種。朝食の時間がやって来た。
ナギエスキーヌのこの家で独り暮らしをしていた昨年、僕は学院の食堂に鍋を持ち込み、そこで休日の食事を調達していた。しかしアンは、それを続けるのは体裁が悪いと言う。自分もここにやって来ては、散々それを食べたくせに。僕はそう反論したが、今後のこともあるのだから自炊も覚えなければと、結局はアンに押し切られてしまった。
そこで直面した問題は、僕たちには調理の腕が無いこと。僕は中等学院二年生の途中から寮に入り、ほとんど調理をしなくなってしまった。アンは僕の姉エメリーヌから一応調理を教わったらしい。とは言っても、味付け等はエメリーヌが担当していたらしく、アンが身に着けたのは煮る、焼く、炒める等のまさに根本的かつ原始的な作業だけだった。
結局、座卓の上には、白米、街の市場で買った小魚の振り掛け、漬物、お茶。休日朝の軽食だからと一応は納得したものの、夜はこれでは涙目不可避。そう思った瞬間、「ねえ」とアンは言った。
「突き詰めれば味付けの問題だよね」
「うん。味が良ければ、調理の形式や見栄えや食感なんて二の次」
「常設警邏隊の人たちには、野性味が足りないと叱られそうだけど」
アンのその冗談に、僕は含み笑いをしてしまった。
「何でもかんでも火を通せば食べられるなんて無理。そんなのは到底続かない。あの人たちだって、調味料とか色々持ち込んでいたし」
「それなら」とアンは真剣な眼差しで僕を見詰めてきた。「これからモレポゾールに行ってみない? あそこの食事は感動的なぐらいに美味しかったんでしょう?」
僕はそこはかとなく嫉妬の気配を感じて「はい」と神妙に頷いた。
東へ向かって中空中速飛翔を続けて半時間弱が経った頃、眼下に港町が見えてきた。その向こうには果てしなく続く東海。漁の最中と思われる船が点在し、はるかかなたの水平線は霞んで茫漠としていた。
昨年の夏、イエシカさんと来た際に聞いた所では、モレポゾールの街は漁業の拠点の一つであり、朝には出漁、午後には帰投、そんな光景が一年を通して見られるらしい。さらには、海岸線に沿った地区では海藻や貝が収穫されている。モレポゾールからナギエスカーラまでは徒歩で約四時間の距離。日干しにされたり塩漬けにされたりした海産物が連日、ナギエスカーラなどへ向けて出荷されているとのことだった。
アンは内陸育ち、僕は純然たる山育ち。僕たちにとって海は珍しく、僕たちは船着き場に立ち尽くして海を眺め続けた。磯の香り、波の音。間近な海面に目を遣ると、高い日差しが水面に反射してきらきらと輝き、その下を小魚がちょろちょろと泳ぎ回っていた。
「東地方中等学院でも水泳の授業はあったんだろう? どれぐらい泳げるようになった?」
アンはフフンと鼻で笑った。
「犬掻きと平泳ぎと背泳ぎぐらいなら。エスタコリンでその話をすると、皆驚く。エスタコリンでは普通、水泳なんて習わないから」
「でも」と僕は海の波を見詰めた。「フレクラントでは、そこらの小川を掘って川幅を広げて水泳場にしているだろう。そこで身に着けた泳ぎ程度では、海は無理だよな」
「先生たちは『とにかく、慌てて溺れたりしなければそれで良い』と言っていたけど。落ち着いて浮揚魔法を使えば良いのだからって。そして、はい、泳ぐーう。はい、泳ぐーう」
僕は「そう、そう」と笑い、やはり大海を越えるのは並大抵のことではないと思った。ここは入り江の奥、波打ち際の桟橋。自然精気の環境中濃度は極めて低かった。
遠く小さくなっていく船団。その姿を見送りながら簒奪の魔女は時を待つ。そんな情景がふと脳裏に浮かんだ。本で読んだ物語だろうか。それとも誰かから聞いた話。
飽きることなく海を眺め続けた後、僕たちは船着き場近くの食堂へ向かった。街の住人の多くは漁師や海産物加工業者、ナギエスカーラを始めとする南方域の各地に商品を出荷する商人。いわゆる勤め人らしい勤め人は多くなく、決まった時間帯に皆が一斉に食事を摂る訳ではないらしい。そのため、昼食時にもかかわらず、食堂の客入りは程々だった。
僕とアン。古ぼけた木造の食堂の隅で差し向い。食事中、アンの顔には笑みが浮かび続けていた。海の幸を中心とする料理を美味そうに頬張るアン。その姿を僕はほのぼのとした気分で眺めながら食事を続けた。
エスタコリン王国の料理にも共通する、フレクラント国には無い味わい。何が違うのだろうと思って、調理場で料理を続ける親父さんに声を掛けると、親父さんは「ひしを」と言った。
「俺が前に聞いた話では、草びしをや穀びしをはどの国にもあるが、フレクラントにだけは魚びしをが無い。特に魚醤油。穀びしをの醤油とはこくが違う。あとは魚や海藻からとった煮出し汁かな」
「あのう」と僕は恐る恐る尋ねた。「ひしをって何ですか」
「しようがねえなあ」と親父さんは鼻で笑った。「塩漬けにして発酵させたもの」
僕たちの食事が終ろうとする頃だった。手がすいたらしく、親父さんと奥さんが僕たちのそばにやって来た。
「よう。蝗の。また来てくれたのか」と親父さんは言った。
「覚えていてくれたんですか。いきなり『フレクラントにだけは』とか言うから、もしかしたらとは思っていたんですけど」
「忘れるもんか」と親父さんは豪快に笑った。「去年の夏、兄ちゃんは着ぐるみを着ていただろう。『蝗退治の魔法使いの正体は猿の着ぐるみ』なんて、そんな訳の分からん話があるかと思っていたら、本当だったんだから」
「いや。いや」と僕は苦笑した。
「で、そちらのお嬢さんは」と親父さんはアンに目を向けた。「吉祥の……。兄ちゃんは結婚したのか」
僕が「はい」と答えると、親父さんはヘエと首を振った。
「前世でどんな徳を積めば、こんな美人さんと……」
「ケイの妻のアンです。どうぞよろしく」とアンは神妙に挨拶した。「昨年はケイと一緒に私の姉もこちらに伺ったようで……」
「お、おう」と親父さんは言葉に詰まる様子を見せた。「あの兎は姉さんだったのか……。姉妹でも随分違うんだな。姉さんの方は賑やかできりっとした美人さん。妹の方は大人しくて色っぽい美人さん……」
「あんた」と奥さんが親父さんを牽制した。
「親父さんも前世で随分、徳を積んだようですね」と僕はとにかく取り成した。
親父さんは溜め息をつくと、「よう。蝗の」と声を掛けてきた。
「取っ替え引っ替えかと思ったぞ。くれぐれも変な気を起こすなよ」
「いや、いや。何を言っているんですか」と僕は慌てた。「今日こちらに来たのは、実はお願いがあって。料理の作り方のこつを教えてほしいんです」
その瞬間、親父さんは笑みを浮かべながら軽く舌打ちした。
「面倒臭いな。こっちも仕事でやっている訳だし、そこまで暇じゃないんだ」
「そう言わずに話だけでも聞いてください。親父さんの料理、忘れられないぐらいに美味しかったから、わざわざまた来たんです」
僕が目配せすると、アンも慌てたように「あ、あの」と声を発した。
「御主人。奥様。どうか話を聞くだけでも」
「御主人か」と親父さんは相好を崩した。「そんな風に頼まれたら、しようがねえなあ」
食事を終えて、僕たちは親父さんたちの手伝いを始めた。僕は厨房に入って、出来上がった料理をアンに渡す。アンはお客さんの所に料理を運ぶ。しばらくすると、僕たちがいるとの噂が広がったらしく、店が混み始めた。男たちの目当ては明らかに給仕役のアン。まだ日が高いのに、酒を注文する客も出始めた。
遂に満席になった。あまりの注文の多さに面倒になり、僕たちは料理や空いた食器を浮揚魔法で飛ばし始めた。僕とアンが合図代わりに適当な呪文を唱える。皆が固唾を呑んで注目する。皿が宙を漂い、オオと歓声が上がる。食堂は見世物小屋の様相を呈してきた。
定時を過ぎて午後の一時閉店時間に入った。親父さんたちは今から休憩を取りながら遅めの昼食。夕方の開店に備えて追加の仕込み。それが日常の段取りとのことだった。
「今日は客の入りがすげえな。看板娘と看板蝗の威力か」と親父さんは感嘆した。
アンがお茶を吹き出しそうになった。
「親父さん。その言い方は……」と僕は苦笑した。「親父さんたちには息子さんや娘さんはいないんですか?」
「いるにはいるが、看板にはならねえな」
親父さんと奥さんによれば、息子さんは現在漁師。いずれは陸に上がって店を継ぐと言っているらしい。娘さんは商家に嫁ぎ、そちらの商売を手伝っているとのことだった。
「娘がもう一人いるんだが、そっちは今ナギエスカーラ師範学校の学生だ。初等学院か中等学院の先生になりたいんだと」
そんな雑談を続けている内にも、親父さんはさっさと食事を終えてしまい、「さて」と言いながら厨房に入っていった。
「今から下ごしらえをしながら教えてやる」
親父さんのその声に、僕たちも腰を上げた。
結局、僕たちが店を後にしたのは、日没からかなり経った頃だった。別れ際、親父さんは未使用の魚醤油を一瓶くれた。それを背嚢に大切にしまい込み、二人で手を繋いで高空高速飛翔を続けること十分強。あっという間にナギエスキーヌの自宅に着いてしまった。
土間の食糧置き場に瓶を並べ、次いで風呂の準備をしていると、アンが「ねえ」と声を掛けてきた。
「モレポゾールの街って意外に近いんだね。あれなら、また行ってもいいかも」
「うん」と僕は同意した。「親父さんたちの店だけでなく、普通に海産物を買いに行ってもいいな」
その時、僕はふと思い出して含み笑いをしてしまった。アンが「何?」と訊いてきた。
「アンのこと、色っぽい美人さんだって」
アンは絶句する様子を見せて頬を赤らめた。