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第三章 人の姿と世界の姿(その二)

「職能学校や師範学校と高等学院の違いは分かるか」

 環境生命学の博士はそう言いながら意味不明な笑みを浮かべた。

「職能学校や師範学校は技能を身に着ける場。高等学院は研究を通して学業を修める場。ところが、私が言うのも何だが、環境生命学は学問としてはほとんど進歩していない。だから、君のような留学生がわざわざ来るような所ではない」

 僕はハアと曖昧に答えた。

 秋学期から一年生も研究室に所属する。夏休みの間、一年生は適時、各研究室を回って所属先を検討する。夏休みの序盤、僕が真っ先に門を叩いたのは環境生命学研究室だった。ところが来てみると、研究室には学生も修士もおらず、研究室に所属するのは博士の先生ただ一人。研究棟の隅の隅、物置みたいな一室に先生は籠っていた。

「先生。この研究室出身の人たちは今、どうしておられるんですか」

「私は教員になって以降二人の学生を指導したが、一人は中等学院の教員、もう一人は出身地に帰って農作物の品種改良や農地の土壌改良の指導や研究をしている」

「そうですか……」

 僕はそう相槌を打ちながら訝しく思った。先生の年齢は五十代半ばとの噂。良くは分からないが、これまでの教員人生で担当した学生が二人だけとは、平均よりもかなり少ないのではないだろうか。

「先生。生命学関連が学問として進歩していないのは、なぜですか」

「それはな。ひとえに精気の性質のせいだ」

 例えば空気。誰でも存在を感知できるし、ある程度までの性質は実験的に知られており、理論的にも予想されている。ところが、空気は目に見えず、その正体はほとんど解明されていない。

 精気も空気と似たようなもの。ただし、さらに難しい状況にある。全ての人間が精気を感知できる訳ではなく、魔法使いの魔法使用を魔法使い自身が主観的に評価したものが実験に相当する作業となる。

 だから大昔から、生命学は学問ではなく技能だった。現状では、生命力工学も魔法工芸に毛が生えた程度のものに過ぎない。それらを基盤とする環境生命学は推して知るべし。

「私が環境中の自然精気の濃度を測定しているのは、少しでも濃度を上げたいと考えているからだ。しかし中々、手掛かりが見付からない。その結果、私の研究分野は実質的に地質鉱物学と植物学になってしまっている」

 僕はウーンと呻いて首を傾げた。

 カイルの黙示録には精気分光器という記述があった。あれが真実なら、少なくともカイルは技能や工芸を越えた学問の域に到達していたはず。しかし明かせなかった。明かしたとしても、信じてもらえるとは思えなかった。

「先生。魔法工芸から生命力工学が生まれたのは約五百年前のこと。生命力方程式が導き出されたのが切っ掛けとのことですが……」

「その通り。七百年ぐらい前から数学が進歩し始めて、それを応用した結果だ。環境生命学が始まったのはさらにその後。生命力方程式は今では吸収石の設計などに利用されている。ところが、連合国の職人の技術では中々設計通りの石を作れない。フレクラントの職人は魔法を併用して作るからなのか、合成石関連の出来栄えはあちらの方が良い」

「先生。生命力方程式は間違っているのではないでしょうか」

 その瞬間、「何?」と先生は訝しげな声を上げた。

「どうしても、僕の実感と計算結果が合わないんです」

「計算が間違っているのではないか? 生命力方程式を解くには基本関数や特殊関数を用いる必要があるし、実際の数値を求めるには数表と睨めっこする必要があるから」

「先生。もし精気を直接目で見られるようになったら……」

「革命だ」と先生は笑みをこぼした。「生命学とその周辺分野に革命が起きる」

「例えば精気の色を見分ける精気分光器とか、あとは例えば空気の流れと同じように検知するのなら……」

 僕が敢えて内容だけを口にしてみると、先生は「ん?」と鼻を鳴らした。

「何と言えばいいんでしょう……」と僕は迷った。

「差し詰め、精気流束測定器といった所だろうか」

「はい」と僕は頷いた。

 先生は感心したようにフーンと鼻を鳴らし、首を振った。

「君の構想は大きいな……。それならまあ、私の研究室に来て好きなことをすれば良い。他の研究室はやめた方が良いだろうな」

「どういう意味でしょうか」

「他の研究室では、まずは教員や上級生に付いて見習いだ。好き勝手はさせてもらえない」

 僕はアアと納得した。

「ただし言っておくが、私の研究室に来て、物にならなかったとしても、文句は言わないでくれよ。逆に言えば、堅実に丁稚奉公をすれば何らかの物になるのは間違いない。それを良く考えて決めるように」

「分かりました」と僕は頷いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 夏休みの中盤。夏真っ盛りの炎天下。南都ナギエスカーラの夏祭りが催されていた。

 今日ばかりは街の中心、目抜き通りに馬車や牛車などの姿は無く、そこら中に露店、大道芸や弾き流し、大勢の人たちが通りを行き交っていた。そんな中、僕たちの露店には人だかりが出来ていた。僕、高等学院の女子学生三人、男子学生三人、合計七人。僕たちは氷菓を売りまくっていた。

 事の発端は、性と家庭の社会学だった。お姉様方の純潔は永遠に不滅です。その言葉は痛烈すぎたとあの時に気付き、僕はあの上級生女子三人を探して詫びを入れた。それ以降、あの三人は時折注文を出してくれるお客様となっていた。

 夏休み、あの三人も僕と同様に帰省していなかった。たまたま出くわし、なぜ寄宿舎に残っているのかと尋ねたところ、帰省したら結婚を迫られるからと三人は言った。

 三人は現在三年生、前期課程の最終学年。本年度を最後に学院から去ることになっている。その後は間違いなく、親が探してきた相手と結婚させられる。問題はその相手。親が連れてくるのは学業を中等学院で終えた地元近辺の売れ残りとなるだろう。自分たちとしては、自分たちと同様に高等学院を修了した者が良い。相手を探して最後の足掻き。そのために寄宿舎に残っている。

 そこで僕は思い付いた。共通の危機は団結を生む。夏祭りで露店を出してみようと。僕たちと同じく学院に残っていた行商のお客様の男子学生たちに声を掛けてみると、上級生三人が参加を名乗り出た。

 知り合いのフレクラントの行商人に頼んで届けてもらった大量の果物。それを露店のその場で一口大に切り分け、一つ一つに爪楊枝を刺す。そこからが僕たちの独壇場。僕が片っ端から冷却魔法で凍らせる。氷室も無く、冷却魔法を使える者もいないナギエスカーラでは、こんな魅惑の商品を売っている露店や商店など皆無。お年寄りから子供に至るまでが小銭を落としていってくれた。

「やだ。これじゃ、午前中に全部売り切れちゃう。ねえ、ケイ君。呼び込みはもうやめた方がいいよ」

 僕の背後で必死に果物を加工している男女四人の中からそんな声が上がった。

「フレクラントのあの行商人たちがそこら辺で祭りを見物しているはずですから、探してください。今から果物を追加で仕入れてきてもらいましょう」

「分かった」

 そう言って駆け出そうとするお姉様を僕は呼び止めた。

「誰か男子に付いて行ってもらってください」

 お姉様は真剣な表情で頷いた。僕は露店の前で氷菓を売りまくっている男女二人に声を掛けた。

「呼び込みはもう十分です。ここからはお客様への対応に集中を」

「了解」と二人は声を上げた。

 程なく商品が売り切れ、僕たちは「午後から再開」の張り紙をして休憩に入った。

 太陽が天頂を通り抜け、最も暑くなった頃からナギエスカーラの大行進。それに備えて汗を拭い、冷たい水で喉を潤し弁当を食べ、僕はお姉様方に個別に囁いて回った。

 男子三人は当初、露店の手伝いを渋っていた。ところが、お姉様方も参加すると言った途端に態度が一変。いかにも迷う振りを演じつつ、参加を了承してくれた。気になる人だけでなく、気にしてくれる人にも目を向けてみては。

 天使の囁きに、お姉様方の態度も一変した。何とか強気を演じつつ、そこはかとなくいそいそとし始めた。そんな暑苦しくもほのぼのとした空気になり始めた頃だった。露店の前に人が立った。

 僕は目を見張った。こんなに綺麗な人だっただろうか。噂に聞く姉とも違う、いつも目にしている妹とも違う、理知的な容姿、颯爽とした風貌。

「何でこんな所に」

「休暇で旅行。そうしたら、たまたま見掛けて」

 周囲の空気が変わっていることにふと気付き、上級生たちに目を遣って僕は頭を抱えそうになった。男子たちの目が西の大公家の次女、イエシカ様に釘付けになっていた。僕は慌ててイエシカ様をその場から引き離し、宿の名前を尋ね、今夜か明日にでも伺うからとつれなく追い払った。

 露店に戻ると、お姉様の一人がさりげなく近付いてきた。

「あの人は誰?」

「親戚のお姉さんです」

 お姉様はフーンと冷ややかに鼻を鳴らした。

「男子たちの様子、見た?」

「仕方が無いですよ。どうしようもない奥手で、女性に全く免疫が無いんですから。それにお姉様方も、自分自身もどうしようもない奥手だという自覚を持ってください」

 お姉様は呆気にとられ、脱力する気配を見せた。僕は露店に戻り、皆に声を掛けた。

「あの人は親戚のお姉さんで、僕たちよりもはるかに年上で、結婚の話も出ているんです」

 五分の三は真実の説明に、お姉様方は陽気にヘエと声を上げ、男子たちは落胆をあらわにフーンと鼻を鳴らした。ちょうどその時、行商人たちが見るからに大量の果物と共に天から舞い降りてきた。

「さて。さっさと昼食を終わりにして、果物を洗いますよ。大行進までに売り切ります」

 僕の掛け声に、お姉様方は頷き、男子三人は「よし」と腰を上げた。

 午後、全ての氷菓を売り終え、露店の後片付けを始めた頃だった。遠くから、掛け声が聞こえ始めた。

「どっつん、ばっすん、がってん、まっけん」

 上級生六人にとっては経験済みの祭りでも、僕にとっては初体験。行列を見に行っても良いかと尋ねると、六人はすぐに了承してくれた。僕は後片付けを六人に任せ、目抜き通りに向かった。

 歩道には大量の見物人。皆の手には水を蓄えた桶などの容器と柄杓。一方、車道はがら空き。男たちの野太い声が近付いてきた。

「どっつん、ばっすん、がってん、まっけん」

 見物人の後方で軽く浮き上がって確かめてみると、上半身は裸、下半身を過剰に飾り立てた男たちが列をなし、体を奇妙にくねらせながら、ゆっくりとこちらに向かってきていた。沿道からは水。見物人が男たちに水を浴びせ掛けていた。

「どっつん、ばっすん、がってん、まっけん」

 男たちに続いて女たち。皆、胸と腰を覆うのみの解放的な衣装、顔の上半分を隠すのみの煌びやかな仮面。女たちにも容赦なく水が浴びせ掛けられていた。

 北限の街ロスクヴァーナの大行進と同じなら、これは鬨の声、戦いに臨もうとする男女たちのはず。過去に一体どんな戦いが繰り広げられていたのだろう。

「どっつん、ばっすん、がってん、まっけん」

 恍惚として踊りまくる怒涛の男女。隊列の踊りに合わせて沿道からも怒号のような掛け声。まさに熱狂。皆が熱く狂っていた。

 行列が通り過ぎ、皆の所に戻ってみると、すでに後片付けは終わっていた。全員で学院へ向かい、空いている講義室に入り込んで稼ぎを山分け。まずは、僕の資金で支払っていた果物の購入代金を僕が受け取る。次いで、残りを完全に七等分。

 上級生六人は再度街に繰り出して飲み食いをする算段を立て始めた。そうなると、どう考えても僕は邪魔。丁重に誘いを断り、そのまま帰路に就いた。

 僕にはあの六人の姿は眩しすぎた。もちろん、フレクラント国にも男女の付き合いはある。しかし、それは性別とは無関係な人としてのもの。フレクラント人は血の重複を避けなければならない。だから、恋愛なんて夢想の一形態。結婚相手を好き勝手に選ぶなんてあり得ない。特に初婚の場合は、家長である母親の見解が重視される。

 家に帰り着いて直ちに井戸で水汲み。温めの湯に浸かって汗と汚れを洗い流し、僕は猿の着ぐるみに着替えてのんびりと家を出た。向かう先はイエシカ様が泊まっている旅館。そこはフレクラントの行商人の定宿でもある。そろそろイエシカ様も戻っている頃合いのはず。そう思いながら、僕は中空帯をゆっくりと飛び続けた。

 春の初めの舞踏会。あのしばらく後から、街の一部の人たちが僕のことを噂するようになっていた。ナギエスカーラに在住するフレクラントの魔法使い。鉢巻を締めた行商人。鍋を持って高等学院に通う学生。猿の着ぐるみで踊った男。「あっ。猿のお兄ちゃんが飛んでいる」などと子供の声が聞こえてくることもあった。

 そして蝗退治。あれ以降、僕の噂は街全体に広がっていた。蝗を全滅させた魔法使い。高等学院の一年生。名前はケイ・サジスフォレ。その正体は猿の着ぐるみ。

 事ここに及んで、僕は開き直っていた。僕個人の気ままな時間、着ぐるみ姿で街に出ることにも気恥ずかしさを覚えなくなっていた。何が正体もしくは実体であり、何が属性であるのか、訂正する気も失せていた。

 旅館の正面玄関を平然と通り抜けて受付の前に立つと、係員の顔には困惑、次いで笑みが浮かんだ。訊くと、イエシカ様は旅館に併設されている食堂にいるとのこと。食堂は料理店として宿泊客以外にも開放されており、僕の立ち入りに問題は無いとのことだった。

 店内には規則正しく並べられた小振りの食卓。イエシカ様は庭に面した窓際の席に独りで着いていた。その前には皿に盛られた果物。僕が向かいの席に腰を下ろすと、イエシカ様は目を見開き、口を半開きにしたまま固まった。

「お久し振りです」と僕は声を掛けた。

「その恰好はどうしたの?」

「猿です。最近は大抵これです」と僕は平然と答えた。

「何で? ケイ殿は奇人変人だったの? それとも奇人変人になったの?」

「『殿』はやめてください。ケイ君で」

 イエシカ様は「ん? うん」と軽く頷いた。

「僕にとっては死活問題なんです。フレクラントは高原の国なので、スルイソラより幾分涼しいんです。だから逆に、スルイソラの夏の暑さはちょっと耐え難くて……。この猛暑に何の対処もしなかったら、誇張抜きで僕は干からびて死にます」

「着ぐるみでは、もっと暑いでしょう」

「中で冷却魔法を使っているので」

「あ、ああ……」とイエシカ様は納得の表情を浮かべた。

 強制冷却術を体と着ぐるみの隙間に領域展開し、予備発動ではなく実発動させる。暑さが本格化するにつれて体力と気力が削がれていくのを実感し、急いで開発して習得した技術だった。ただし、これは現代魔法を越える太古の思念法の範疇。内容は秘密としていた。

「この前、北限の街ロスクヴァーナで兎と狸と牛の着ぐるみも買ったんですよ。フレクラント製よりも安くて、ちょっと手間は掛かるんですけど普通に洗濯も出来るんです」

「さすが……、エルランド殿下が、頭がおかしいと言うだけのことはある」

「いや、いや」と僕は首を振った。「これは死活問題なんです。見た目に拘っている場合ではないんです」

「午後もちょっと見ていたんだけど、ケイ君はふんだんに魔法を使っているでしょう。余剰精気は持つの? 私でもここの自然精気は薄いと感じるのに」

 僕は返答に迷った。僕は今日、自分自身に強制吸入術を断続的に掛け続けていた。しかし、これも太古の思念法の範疇。

「普段の息苦しさは、強く吸い込むことを覚えたら、あとは慣れの問題だと思います」

「あの子は大丈夫なの? アンソフィーは」

 僕はハッとした。

「やっぱり、聞いています?」

「もちろん」とイエシカ様は頷いた。

 アンも強制吸入術をようやく覚えた所。当然、その件も秘密。

「アンはもう大丈夫です。僕の所にも、もう泊まったりは……」

「それはどっちでもいい。どうせ、ケイ君は駆け落ち一つできない紳士だから」

 僕はウーンと呻いた。駆け落ち。確か、六年前の政変の直前に聞いた言葉だった。

「あの子は今どうしているか知っている? 寄宿舎に行ってみたら、とっくに帰省していると言われて……」

 僕は首を傾げた。アンは北の大森林へ向かう途中に西の大公家と僕の姉エメリーヌの家に寄ると言っていた。

「聞いていませんか。アンは考古学調査で北の大森林へ行っています」

「聞いてない。あの子を当てにしていたんだけど……。帰りもどうしたらいいのか……。エスタコリンまで行ってくれる行商人を探さないと……」

 颯爽とした風貌が台無しになりかけていた。

「ここまでどうやって来たんですか」

「フレクラントの行商人に頼んで連れてきてもらった」

「休暇中という話でしたけど、イエシカさんは今どういう立場にあるんですか」

 現況を尋ねてみると、イエシカ様は先の春にエスタコリン王国高等学院の後期課程を修了。現在は、長女のカイサ様に代わって王都の中央政庁に勤務。学院で専攻した経営学の知識を生かせる部署で働いているとのことだった。

「独り旅気分のつもりでいたら、本当に独り旅になりそう」

 そう言うと、イエシカ様は僕をジッと見詰めてきた。

「聞いたわよ。ケイ君はこの前、連合国評議会から物凄い報奨金を貰ったんでしょう?」

 何という早耳。中央政庁、西の大公家、トロンギャアンケ商会。どこで聞いたのだろう。

「物凄くはありませんけど」

「と言うことは、もう行商はしていないんでしょう?」

「いえ。まだ契約が残っていて、それはきちんと片付けないと」

「何とかしてほしいんだけど」

「何とかはしますけど」

「ここの案内もしてくれる?」

「時間の許す限りは」

「私を養ってくれる?」

 僕はうっかり「はい」と了承しかけて、「はい?」と問い返した。

「私、仕事を辞めたい。まだ結婚もしたくない。色々な所に行ってみたい。もっともっと遊びたい」

 颯爽とした端麗なお姉さんが大きなお荷物に見え始めた。予防線を張らなければ。

「ねえ。あまりにも不公平だと思わない?」

「思いません」

「この前、カイサ姉様が言ったの。『あら。そう言えば、イエシカだけはフレクラントにもスルイソラにも行ったことがなかったのね』って。訊いてみたら、お母様まで子供の頃、フレクラントに住んでスルイソラに遊びに行っていたって」

「まさしく深窓の令嬢、箱詰めイエシカ」

「アンソフィーには、北の大森林や、風霜の大地や、氷結の地の話もあるんでしょう?」

「客観的に考えて困難です」

「しかも、あの子の知り合いには偉い人が一杯」

「アンは気配を消す魔法を使うので、無意味だと思います」

「何よ、それ」

「アンは余計な火の粉を被らないよう、偉い人の前では存在感を消すんです」

「ねえ。私がエスタコリンの外に出るのはこれが初めてなんだけど」

「おめでとうございます」

 イエシカ様は几帳面に果物の皿を脇にのけると、突然身を乗り出して食卓越しに僕の胸倉を掴んできた。

「箱詰めイエシカって何?」

「箱入り娘のもっと凄いやつ」

「ねえ。良い知恵は無い?」

 僕はウーンと困惑の声を漏らした。

「例の結婚の件はどうするんです」

「ああ。あれね……。ちょっと雲行きが……」とイエシカ様は声を潜めた。

 先日、クリスタさんが四人目の子を産んだ。これで男児が三人、女児が一人。

 エスタコリン王国にも治癒魔法程度なら使い手が多数いる。緊急時には王国在住のフレクラント人を頼っても良い。そのため特に王家では、即死でもしない限り不慮の死を遂げることは稀。世継ぎ候補は三人もいれば十分。

 ここに正室を迎え、さらに男児が生まれたら、いさかいが発生する可能性は十二分にある。少なくとも、正室とクリスタさんの間に葛藤が生じるのは必至。しかも、クリスタさんは極めて有能と評判の側近兼側室。他の聡明な妃候補は皆、戦々恐々としている。

 クリスタさんの実家、フルドフォーク家の格は高くはないが低くもなく、王家の世継ぎがフルドフォーク家の血筋にあたっていても違和感は無い。さらには、西の大公家はクリスタさんが側室になるにあたり、クリスタさんの後見人になっている。

「だから、当家としてはもう終わりにしたい。それが本音」

「先に生まれた側室の子と、あとから生まれた正室の子。どちらが上なんですか」

「私にも良く分からない」

「『聡明な妃候補は』ということは、その状況でもまだ正室になりたい人がいるんですか」

「愚鈍な人ほど自信過剰。お母様たちはそう言っている」

「家令さんはどう言っているんです。とてつもない意気込みでしたけど」

「あの人は『それなら、他家に嫁ぐ準備を』とか言っているけど……」

「他家って、どの家です」

「西部以外の執政級の家」

「なぜ執政級なんです。大公家ではないんですか?」

「大公家は皆親戚。今のところ、血の重複の度合いが高くて候補にならない」

「とにかく、まずは例の候補を辞退しないと」

 イエシカ様はようやく着ぐるみから手を離すと、大きな溜め息をついた。

「王家との大昔からの契約で、西の大公家だけは辞退を申し込めないの」

 その情報は初耳だった。西の大公家のみの特殊な契約。僕も大きく息を吐いて脱力した。

 エルランド殿下の扇情的な言葉が今でも時折脳裏に浮かぶ。あのアンが殿下の子供を産み尽くす。このイエシカ様が殿下の子供を産み尽くす。どうせなら、僕の子供を産み尽くせば良いのに。ふとそんな邪念が浮かび、僕はすぐに打ち消した。

「ねえ、ケイ君。今日のお祭りはスルイソラの三大奇祭の一つなんでしょう?」

「そうなんですか? 良く知らないんですけど」

「せっかくだからと思って前もって調べてみたら、ナギエスカーラの大行進の起源にはいくつかの説があるらしい。その中にとっても興味深い話があって」

 神話時代、この近隣に存在した大きな街が大災害に見舞われ、この地域で多数の死者が出た。それを切っ掛けに、多産と子孫繁栄を願う祭りが始まった。

「それでね……。あの大行進には夫婦か婚約者同士でしか参加できないんだって」

 イエシカ様の顔が微かに上気していた。その瞬間、僕は理解した。家々では今、こんな時間帯から一斉に夫婦の夜の営みが繰り広げられているのだろうか。まさか、夫婦揃って鬨の声を上げながら。

「ケイ君。目が泳いでいる。口が開いている」

 僕が我に返ると、イエシカ様は大笑いした。

「ケイ君にはこういう話は早かったかな。何しろ、ケイ君は奥手だから」

 これが噂に聞く三大痴女の一つ、妄想系痴女。僕は初めてお目に掛かった。

「自分だって顔を赤くして、そういう経験無いんでしょう?」と僕は言い返した。

「とにかく、そんな凄い祭りを見たからには、残りの二つも見てみたい」

「ちなみに残りの二つとは」

「西方域の姫転がしと彦跨ぎ。あとは東方域の……」

 そのどことなく淫靡な響きに、僕はイエシカ様の言葉を遮った。

「言わなくていいです。飲み物を頼んでいいですか」

 程なく、果汁で満たされた杯が二つ運ばれてきた。僕はさりげなく二つの杯を握って冷却魔法を掛けた。イエシカ様は果汁を口に含むと、ハッとしたように僕を見詰めてきた。僕は黙っているよう、小さく首を振って合図した。

「候補の件はともかく、異国体験については案があります。この街には中央政庁の出張所がありますよね。スルイソラの首都ノヴィエミストやフレクラントの首府メトローナにもあるのではありませんか。大公家には無断で、転属命令を出してもらったらどうです。最低でも出張命令を。あとは他国を巡回する調査官になるとか」

「あっ。なるほど」とイエシカ様は声を上げた。

「今日の晩御飯、奢ってください」

「いいわよ」とイエシカ様は満面の笑みを浮かべた。

 

◇◇◇◇◇

 

 夏休みだというのに慌ただしい八日間だった。でも、それなりに賑やかで楽しかった。そんな感慨に浸りながら今日の午前、僕はイエシカさんを見送った。フレクラント国の女性行商人の背に括り付けられたイエシカさんも高空帯に上昇し切るまでの間、地上の僕に向かって何度も手を振っていた。

 この八日間、僕にも予定があり、イエシカさんの全行程に付き合えた訳ではなかった。それでも色々な所を回った。大廃墟。蝗の撃退地点。少し離れた所にある東の海。その他の景勝地。イエシカさんも低空低速飛翔なら慣れたもの。そうであればこその観光だった。

 中でも最も感慨深いのは肖像画。街中の一番大きな公園を散策していた時のことだった。池の際に絵描きが陣取っているのを見掛け、イエシカさんの肖像画を依頼した。きちんと背景も描いてもらい、きちんと水彩を施してもらい、料金を払って僕はふと思い付いた。

 僕はイエシカさんを連れて高等学院の寄宿舎へ向かい、例のお姉様の一人を呼び出した。その場で紹介状を書いてもらい、直ちに向かったのは少し離れた街にあるお姉様の実家。硝子製品の工房を営んでいると聞いていた。

 肖像画に硬化魔法を強く掛け、高強度硝子への封入を依頼すると、すでに引退していた元職人の御老人が「三日で仕上げる」と引き受けてくれた。

 三日後、特製肖像画は完成した。丁寧な仕事、見事な出来栄え。角も端も表面も滑らかに整えられた濁りの無い硝子板。陽に当てなければ、中の絵画も一万年は持つはず。そこにはナギエスカーラの景色、澄まし顔で兎の着ぐるみを着たイエシカさんの姿があった。

 ナギエスカーラを発つ直前、イエシカさんはしきりに肖像画の具合を気にしていた。僕はイエシカさんの背嚢から肖像画を取り出し、硝子板を爪で弾いて見せた。これが硝子板に掛けた硬化魔法の音。数日後には音が変わるはず。それが硬化魔法の消えた印。僕のそんな説明にイエシカさんは神妙に頷いた。

 順調にいけば、五時間ぐらい後にはエスタコリン王国、西の大公家に帰り着くはず。イエシカさんはさぞかし自慢することだろう。確かに自慢に値する一品。僕にもそんな満足感があった。

 夕方、自宅で独り何となく物寂しく夕飯を食べていると、玄関を叩く音が聞こえた。次いで「ケイ。いる?」という声。突如アンが現れた。

 アンは居間に座り込むなり、僕が差し出した冷えた水を一気に飲み干した。

「どうしたの、急に」と僕は尋ねた。

「あった。見付けた。遺跡と地下街」

「やったか」と僕は声を上げた。「遂に見付けたのか」

「でも……、でも……」

 僕は首を傾げ、「何?」と続きを促した。

「幽霊がいる」

 ギョッとした。アンによれば、今回の調査隊は二十二人。半数が異様な気配を感じ、数人は微かな声を確かに聞いた。怯えたり腰が引けたりする者多数。現在、調査隊は砦に引き上げ、閉じ籠ってしまっている。

「アンも声を聞いたの?」

 アンは身震いをするように首を振った。

「私は気配だけ。幽霊は超自然の不可思議ではなく、自己組織化が解け切っていない魂だということは皆も理解している。でも、声が聞こえるような強い魂にどう対処したら良いのか分からなくて」

「フレクラント国高等学院には連絡した?」

「していない。連絡したら、きっとあの生命学博士たちが乗り込んでくる。そうなったら、調査がどうなるか分からない。だから、まずはケイに来てもらおうということになった」

「何で僕」

「皆には言っていないけど、ケイは太古の思念法を使っている。だから、様子を確かめることぐらいなら出来るのではないか。私とアルさんでそういう話になった」

 僕は呆気にとられて考え込んだ。

「ねえ。来てよ」

「行商の契約も一段落ついて、ちょっと顔を出してみようかとは思っていたんだけど……」

「明日の朝、出られる?」

「幽霊とか禁忌とか、そういうのはちょっと苦手……」

 アンはエーッと声を上げ、「ねえ」と上目遣いで縋り付いてきた。「ねえ」は西の大公家の特技なのだろうか。しかし、さすがに気乗りしなかった。

「ねえ。幽霊なんて私も初めてなんだから」

 そう言いながら、アンは僕の腕を掴んで揺さぶった。

「ねえ。白狼の騎士。ねえ。太古の魔法使い」

 僕はアンの両の二の腕を掴んで押さえた。

「ここから砦までは片道何時間?」

「休憩を入れて片道十時間」

「アンは夕飯、食べたの?」

 アンはエッと唖然とすると、おもむろに首を振った。僕はアンの夕食を準備しながら、仕方が無いと腹を括った。

 

◇◇◇◇◇

 

 アンが家に現れたのは一昨日の夕方。北の大森林の砦に到着したのは昨日の夕方。調査隊員の表情は暗く、かなりの者が精神的に参ってしまっている様子だった。

 訊いてみると、アンが僕の所へ向かうのと同時に、数人がフレクラント国高等学院へ向かったとのことだった。ただし、それは生命学専攻に助力を求めるためではなく、類似の出来事に関する資料が無いかを調べるため。あくまでも調査続行。それが基本方針とのことだった。

 久し振りに会ったアルさんは意外に溌剌としていた。どうやら、不穏な気配も感じず、不気味な声も聞かなかったらしい。儂は鈍いのか、昔からこういうことには縁が無い。アルさんはそう言って苦笑した。

 そして今朝、僕は朝食を済ませて砦を出た。同行するのは案内役のアン一人。もし何らかの魔法を使う状況に至ったら、周囲に人は少ない方が良い。僕はそのように判断した。

 上空から見渡しても先が分からないほどに果てしない森林。しばらく中空中速飛翔を続けると、わずかに切り開かれた一角が見えてきた。あれが地下街の入り口。アンは手振りでそう伝えてきた。

 山では崩れ落ちた土砂に埋まってしまう。平地では溢れた水に沈んでしまう。太古の人たちにもそのような判断が働いたらしく、地下街の遺跡は堅固な岩盤に支えられた丘陵地帯に隠れていた。

 アンは入り口の前に降り立つと、背嚢から地下街の地図を取り出した。フレクラント国の北にあるエベルスクラントの遺跡を参考に推測すると、地図に記されているのは多分全体の十分の一以下。通気や緊急時への備えのために出入り口は複数存在するはずなのに、まだ一つしか見付かっていない。アンはそう言って気落ちをあらわにした。

 僕とアン。それぞれが光球魔法を発動し、アンを先頭に僕たちは地下街に足を踏み入れた。上下左右は岩の壁。階段を下った先は平坦な通路。中等学院一年生の冬休みに遠足で訪れたエベルスクラントの作りに酷似していた。

 複雑で緻密な上下水道の設備。通路の左右には綺麗にくりぬかれた部屋。その出入り口には、木枠をはめ込んで設置された木製の扉の残滓や、茅の筵を吊るしたと思われる痕跡。

 おそらく、入り口付近の複数の部屋は管理者用だろう。不審者や野獣などが入り込まないよう、警備の人が詰めていたに違いない。もしエベルスクラントと同じなら、それに続いて並ぶ部屋は商業区画。通路はその先で三方向に分岐し、居住区画や公共区画などがあるはずだった。

 真夏にもかかわらず涼しい地下街。パタパタと僕たちの足音だけが響いていた。壁に目を凝らし、手で触れてみると、非常に硬い岩。それにもかかわらず表面は平ら。極めて優れた掘削技術が使用されたことは素人の目にも明らかだった。

 遂に通路が三方に枝分かれした。その時だった。突然『ああ』と聞こえ、僕はギョッとして身を強張らせた。

「何だよ。驚かせるなよ……」と僕はアンに声を掛けた。

「私、何もしてないよ」

 僕は力んでウーンと呻き、周囲を見回した。

「ケイ。どうしたの?」

「声が聞こえた」

 アンもエッと声を上げて周囲を見回した。

「私はまだこの前みたいな気配は感じないけど……。この前はもっと先だった」

 空耳だったのだろうか。僕は力を抜いて、大きく息を吐いた。

「ケイは私以上に怖がりだよね」

「アンはそんなに怖がっていないように見えるんだけど、何で?」

「だって、正体は分かっているんだから。追い払う方法が分からないだけで」

 やはり、アンは僕よりも即物的。恐怖の質が違うのだ。野獣のたぐいとの遭遇。それがアンの認識。禁忌に抵触。それが僕の認識。

「ケイには幽霊の声が聞こえるみたいだから、逃げる時にはケイが合図して」

 アンに先に進むよう促すと、アンは地図を片手に右に曲がった。その先にも部屋、部屋、そして部屋。時折、細い通路が枝分かれ。どの部屋にも特に目立った遺物は無く、ここの住民は南へ移住する際、ほぼ全ての物品を持ち出した様子だった。

 遂に、地図には未記載の領域に到達した。ここから先は、まずは考古学調査を目的に進むべき。そう判断し、僕たちは先ほどの分岐点に引き返した。次は分岐を直進。やはり何も起こらなかった。最後に分岐を左折。何事も無し。三たび分岐点に戻り、僕は呆気にとられて拍子抜けした。

「幽霊、どこかに行っちゃったみたいだよ」

 僕がそんな軽口を叩いた瞬間、『ああ』と聞こえた。背筋が凍り付いた。「誰」と声を上げると、いきなり腕を掴まれた。ギョッとして振り返ると、アンが僕の腕に縋り付こうとしていた。

『ああ。この出会い。聞こえるのだろうか……。聞こえるのだろうか……』

 幽霊。どこにいるのだろう。

『我は人。何と嬉しいことか……。何と嬉しいことか……』

 耳ではない。心の中で聞こえている。

『魂が繋がった。離さないでおくれ……。離さないでおくれ……』

 離すも何も、僕は何もしていない、何も出来ない。

『しばし語り合いたい。付き合っておくれ』

 はっきりと聞こえるようになった。

『分かる。聞こえる。魂が繋がった』

 まさか、体を乗っ取られたりはしないだろうか。

『案ずることなかれ。汝の器は我には小さすぎる』

「ケイ。どうしたの?」

 僕はアンを手で制した。

 幽霊は情念や怨念で動くもの。そんな先入観があったのに、この霊魂には理知的な感がある。少し話をしてみよう。僕はそう思った。

『怨念。なぜ我が汝を恨むのか』

 笑っているのだろうか。そんな感覚。

『おお。分かるのか。楽しや。楽しや』

 僕は壁に寄り掛かろうとした。

『動かないでおくれ』

 楽な姿勢を取りたい。

『動くのならゆっくりと。離さないでおくれ。離さないでおくれ』

 僕はゆっくりと壁に背を付けて床に座り込み、集中するために光球を消して目を閉じた。

『汝の名は』

 ケイ・サジスフォレ。フレクラントはルクファリエの魔法使い。

『おお。何と懐かしい。我の名は……』

 何だか混濁して、良く聞き取れなかった。

『我の名は難しい。我はかつてフレクラントの超越派でもあった』

 驚いた。超越派。肉体の超越。寿命の超越。どうやって。

『魂は器の中で形作られた精気。器の外でも形を保つよう強制する』

 あなたは魂に強制の魔法を繰り返して掛けているのか。

『いかにも。いかにも……。おお。たどり着いたのか。汝も強制吸入にたどり着いたのか。我ら超越派の末裔よ。超越まではあと一息。いや。二息、三息。四息、五息』

 僕はまだ超越は考えていないので。

『ただし、ただし、留意せよ。強制吸入は最後の手順。魂を器から解き放つ。強制維魄を会得せよ』

 どういう意味だろう。不用意に自然精気を吸い込み過ぎるなという警告だろうか。

『現世を見たい。世界を見たい。景色を思い浮かべておくれ』

 求められるままに、僕はこれまで目にしてきた景色を雑然と思い返し続けた。

『おお。これがフレクラント……。エスタコリン……。スルイソラ……。おお。ここはカプタフラーラ。花の都。ここは南都カプタフラーラ。今はいつなのだろう』

 この街の名前はカプタフラーラ。でも待ってほしい。超越派の時代には、この街はすでに放棄されていたはず。廃墟になっていたはず。

『我は転生を繰り返した。最後に肉体を捨て、魂は解き放たれた。今はいつなのだろう』

 待ってほしい。南都ということは、北都や東都や西都もあったのだろうか。

『人は神に示されて海を越えて来た。あとは推して知るが良い。今はいつなのだろう』

 言われるままに、僕は知っている限りの歴史の概要を思い浮かべた。

『おお。白狼の義士から五千年』

 待ってほしい。なぜ白狼の騎士を知っているのか。

『推して知るが良い。我が思念を交わした相手は汝だけなのか』

 僕にも古のカプタフラーラの景色を見せてほしい。

『良かろう。良かろう』

 地上には花が咲き誇る街並み、そして広い田園。地下には夜を知らない街。男も女も働き者。種を蒔いては収穫する。男も女も陽気者。酔いに任せて歌い踊る。

 蝗の到来。天に築いた魔法の壁に追い込んで収穫する。家禽にとっては大の好物。磨り潰して粉にすれば家畜の餌、堆肥に混ぜ込み寝かせれば、いずれは大地の糧ともなる。

『蝗は草の子、大地の子。蝗こそは黄金の大地の礎なり。フレクラントの醜く卑小な岩の壁。大障壁とは片腹痛い。天を覆う温熱の壁こそが大障壁。蝗の将軍は偉大なり』

 蝗の将軍は軍勢を率いた人ではないのか。

『山並みをも超える温熱の魔法を操る者こそが蝗の将軍……。おお。見える。見える。汝も蝗の将軍か。将軍の技は今の世にも受け継がれているのか』

 なぜ、カプタフラーラは打ち捨てられたのだろう。

『蝗が来なくなった。蝗場から消えてしまった。小山ほども積み上がった蝗が失われてしまった』

 大地が冷えた結果だろうか。

『汝も大いなる魔法使い。似ている。似ている』

 何のことだろう。何に似ていると言うのだろう。

『汝の魂。似ているが違う。違うが似ている。もう一度名前を聞かせておくれ』

 ケイ・サジスフォレ。

『もう一つの血の名は』

 エペトランシャ。

『おお。覚えがある。覚えがある。まさにカプタフラーラの血脈。そういうことか。そういうことか。唯一無二のレダ。魂の庇護者たるレダ。レダ・エペトランジュ』

 レダって、エステルのこと? あの神話のレダ?

『ああ。離さないでおくれ……。離さないでおくれ……』

 ちょっと待って。僕ももっと話したい。

『ああ。離れてしまう……。離れてしまう……』

 声も気配も完全に消えた。僕は目を開き、周囲を見回そうとした。しかし暗闇。アンの光球も消えていた。しかも僕はいつの間にか、隣に座っていたアンを抱きかかえ、アンの胸をまさぐっていた。僕が手を離した瞬間、僕の下半身も解放された。アンも僕にしがみつき、僕の股間に手を当てていた。幽霊との接触は禁忌。その理由が十二分に理解できた。

 暗闇の中で身繕いを済ませ、「光球を出すよ」と僕が声を掛けると、「うん」とアンは答えた。

「アンも話を聞いていたの?」

「ううん」とアンは小さく首を振った。「物凄い気配を感じただけ。そのまま何だか酔ってしまって……。それから、街の景色が見えた。花で一杯の街。それだけ」

「それはこの廃墟のかつての景色らしい。この街の名前はカプタフラーラ」

 アンはアアと大きく息を吐いた。

「皆の所に戻ろう。皆に霊魂のことを説明する」

 アンは「うん」と頷いた。

 地下街の外に出てみると、予想外に時間が経ってしまっていた。ここに着いたのは、まだ昼も遠い午前中。空を見上げると、太陽は天頂を越え、すでにかなり傾き始めていた。

 二人で手を繋いで飛び続け、砦に帰り着いてみると、フレクラント国高等学院に戻って調べ物をしていた人たちも揃っていた。その人たちに目ぼしい収穫は無し。僕が「霊魂と話をした」と告げると、皆は僕たちを取り囲んだ。

 広場に並べられた丸太の椅子に皆が腰を下ろし、僕は説明を始めた。順を追ってなるべく正確に。ただし、思念法に関する事柄は僕一人の秘密。僕たちが知らぬ間に行なっていた行為も、アンと口裏を合わせて秘匿。皆は一言も聞き逃すまいと真剣に耳を傾けていた。

 話が終わると、エスタコリン王国高等学院の考古学博士が口を開いた。

「長年の疑問がいくつか解けた。神話伝説大系の断片集に『華のカプタフラーラ』との語句がある。あれは地名だったのか……」

「海を越えてきたということは」とアルさんが応えた。「海の向こうにも大地があり、人が住んでいるということか。行ってみたいものだ。見てみたいものだ」

「いや、アルさん。迂闊なことは出来ません。太古の人たちも将軍という言葉を使っていた。つまり、大規模な集団戦闘を経験したということ。海の向こうが平穏とは限らない。それに、その前にやることがあります。海を越えてきたのなら、海に近い場所にも遺跡があるはず。東都か西都かは分からないけれど」

 僕は「ちょっと待ってください」と口を挟んだ。

「霊魂との会話は言葉というよりも概念のやり取りみたいなものでした。おそらく言葉としてもほぼ正しいとは思うんですけど、正確かどうかは確信を持てません」

「いや」と考古学博士は言った。「相手の名前は上手く聞き取れなかったが、君の名前は伝わった。つまり、概念のやり取りであると同時に言葉のやり取りでもあったということになる。相手の名前は特殊な固有名詞だったのではないか?」

 僕はアアと思い当たって納得した。フレクラント国高等学院の歴史学博士が口を開いた。

「それなら、蝗の将軍という言葉にもそれなりに信憑性がある訳だ。しかし、神話伝説大系に残る解釈とは随分違う。大系の後半はどうなるのだろう。『地に広く』という部分は」

「思い当たることがあります」と僕は答えた。「田畑は使い続けると病むことがあります。エスタコリンやスルイソラでは休耕田にしているようですが、フレクラントでは土に温熱魔法を掛けて、地中に蔓延った害虫や作物の病の元を殺します。蝗の将軍の技術があれば、その作業は今よりもずっと容易だったはずです」

「なるほど」と歴史学博士は頷いた。「しかし、蝗がいなくなったからこの地を捨てたと言うのは、やはり言い過ぎではないだろうか」

「はい。やはり、気候が変わって作物が上手く育たなくなったのだと思います。例えば、フレクラントではスルイソラから持ち込んだ作物も育てています。しかし、育つには育ちますけど、品種改良をしないと収穫量を確保できません。だから、蝗と作物の不作、両方があったのではないでしょうか」

「そうだな。私もそう思う。それにしても、超越派の末路が霊魂とは」

「末路と言っていいのか……。あの人は自分自身のことを『人』と呼んでいました。あれはあれで人の在り方の一つなのかも知れません」

「何とも味気ない」と歴史学博士は軽く笑った。「私はずっと不思議に思っていた。フレクラント高原の西半分には墓地が少なすぎると。黙示録によれば、西半分に残った異端の超越派の血筋は絶えてしまった。しかし居住域の分離程度で、絶大な力を持つ者たちが易々と絶滅するのだろうか。どこかへ移住したのではないだろうか。私はずっとそう思っていた」

 その時、フレクラント国高等学院歴史学専攻の助手の女性が「出来たって」と声を上げた。先ほどから、アンは霊魂から得た心象風景を絵に描き起こしていた。アンが描いていたのは地上の街並み。確かに、僕が見たものと良く似た景色が再現されていた。

 皆それぞれに覗き込み、再び丸太の席に腰を落ち着けると、エスタコリン王国中央衛士隊の隊員が「私としては」と言った。

「霊魂への対処法が気になります。やはり、それが直近の問題。サジスフォレ君は、体の乗っ取りを懸念したら否定されたと言ったが、そこを詳しく聞きたい」

「はい。あの接触からいくつかのことが推測できます」

 僕よりも強い魂にとっては、僕の器は小さすぎる。僕と同程度の強さの魂にとっては、僕の器はちょうど良い。しかしその場合、器と強く結びついている僕の魂を追い出せない。僕よりも弱い魂は当然論外。

「あの人は僕を警戒させないために、正直にそういう事情を明かしたのだと思います。次に霊魂の移動についてです」

 自然精気は大地から湧出している。土地によっては地表近くに滞留している。つまり、自然精気は空気のように流れている。風のように吹いている。霊魂は自力で移動できる模様。しかし、自然精気の風に当たったら流されてしまうのではないだろうか。

 あの人は後世の知識を有していた。これまでにも人との接触があった証拠。つまり、あの人が霊魂になった場所は無人のこの近辺ではなく、多分フレクラント。とすれば、あの人は長期間人里近辺を漂った後、ここまで流されてしまったのだろう。

「霊魂には五感が無いようです。そのため、自由自在な移動が出来ないのだと思います。だから気配を感じたら、とにかくその場から離れる。それで済むと思います。ただし、これだけは注意してください。やはり、霊魂は情念や怨念の塊なんです」

「あの霊魂は、怨念は無いと言ったのだろう?」とアルさんが尋ねてきた。

「はい。それでも、やはり情念の塊です。出来る限り永らえて、世界を見たい、未来を見たい。そんな情念。それから、肉体を取り戻したいという強烈な欲求」

「肉体?」とアルさんは首を傾げた。「自ら魂のみの存在になったのに」

「やはり、肉体が無いのは相当味気ないんだと思います。他の魂との接触が無ければ、世界が存在しないのと同じなんですから。自己組織化を弱めて魂を小さくすれば、いつか転生することもあり得るんでしょうけど……」

「それでは今の自己が失われてしまうと……」

「はい。多分、あの魂は普段は寝たような状態にあるのだと思います。そして、他の魂との接触が唯一の楽しみ」

「確かに味気ない」とアルさんは何度も小さく頷いた。

「それでですね……」と僕はわずかにためらった。「剥き出しの情念や怨念に当てられたら酔います。接触が長かったので、僕は陶酔に近い状態になりました。生物の根源は肉体を永らえさせて自身の子孫を残すこと。そういうことを強烈に認識しました。これがもし破壊的な衝動に酔っていたらと思うと怖い。つまり、怨念に凝り固まった悪霊はまずい」

 皆の間からアアと声が上がった。「確かにまずいな」という声が漏れた。

「確信を持っては言えませんけど、でも多分、さっさとその場から離れれば大丈夫です。先ほど説明した通り」

「しかし、相手が魔法を使ってきたら」と衛士隊員から質問が出た。

「僕は幽霊が明確な魔法や思念法を使ったという話は聞いたことがないんですけど……。あったとしても、闇雲に撃つ形になるのではないでしょうか。だから、相手にこちらの存在を明確に認識される前にその場から離れる」

「あの霊魂にもう一度接触するのは」

「よほどのことがない限り、僕はもういいです。僕以外に霊魂の言葉を認識できた人はいないんですよね。多分、適性や相性があるんです。皆さんは接触など考えない方が良いと思います。おそらく、何も分からないまま情念に当てられるだけです」

 皆、口を閉ざし、考え込んでしまった。アンは俯き加減で絵を描き続けていた。

 しばらくの後、フレクラントの歴史学博士が口を開いた。

「サジスフォレ君。地図の範囲内に悪霊の気配は」

「気配はあの霊魂だけです。悪霊の気配は全くありませんでした」

「状況は理解した。これで冷静に対処することも可能だろう。ここまでは三人一組で調査を行なってきたが、四人一組でどうだろう。そうすれば、どの組にも気配を感じた者が二人は入る。その二人が監視役」

「私もそれで良いと思います」とエスタコリンの考古学博士が賛同した。「サジスフォレ君もこのまま残ってくれるのだろう?」

 僕が「はい」と頷くと、博士たちは皆の顔色を窺った。異論は出なかった。

 対策会議が終了し、夕飯や入浴の準備が始まった。その間、僕は小屋に籠って独り文書の作成。細部を忘れない内に記録するようにと博士たちに指示された。そして、僕は気取られた様子が無いことに安堵していた。

 良く思い返してみればあの時、身を寄せてくるアンを僕は当然のように抱き留めた。アンと手を繋ぐ。アンを背負う。アンに背負われる。そんな一般的な接触など日常茶飯のことだった。

 ナギエスカーラでの再会以降、僕は性的な接触への誘惑にも駆られるようになっていた。しかし、アンは妃候補の筆頭。当然、実行など思い付きもしなかった。それなのに、僕たちは情念に当てられて、いつの間にか無意識の手すさびのように互いの性器をまさぐり合っていた。僕に性交渉の経験は無く、それはアンも同じはず。しかし、抑制が完全に失われ、二人共に全く同じ本能と欲望を抱え込んでいることが剥き出しになってしまった。

 僕たちがそこまで酔い痴れてしまった理由は、僕には何となく想像が付いていた。しかし確証が無く、アンにもまだ話していなかった。脳裏に浮かんだ歌い踊る男女たち。ナギエスカーラの夏祭りと同様の熱気を僕は感じた。多分、人が少ない時代の願いは同じ。多産と子孫繁栄。あの霊魂は僕の求めに応じて、そんな根源的な人の姿と世界の姿を敢えて見せてくれたのだ。

 

◇◇◇◇◇

 

 ナギエスカーラ高等学院の秋学期が始まった。初日、午前中はいつも通りに講義に出席し、午後は所属研究室での顔合わせ。僕はためらうことなく環境生命学研究室に向かった。

「ああ……。来たのか……」と先生は言った。

「よろしくお願いします」と僕は挨拶した。

 予定の時刻になった。結局、研究室に現れたのは僕一人。先生は僕に向かって「それでは始めるか」と言った。

「まずは自己紹介から。私はエリク・ヴェドレゼリナ。生命学博士、生命学専攻の副主任、環境生命学研究室の責任者だ」

 先生の名乗りに僕は会釈し、自己紹介を返した。

「ケイ・サジスフォレです。フレクラント国西地方のルクファリエ村の出身です。よろしくお願いします」

 先生も僕の名乗りに頷いた。

「ところで、先生の家名は随分複雑ですけど、何か由緒のある……」

 その瞬間、先生の顔に笑みが浮かんだ。

「由緒はあるらしいのだが、良くは知らない。フレクラント人と違って、連合国人は血筋にそれほどこだわりが無いからな。言いにくかったら、名前で呼んでもらって構わない」

「分かりました。エリク先生」

 僕の呼び掛けに、先生は笑顔で頷いた。

「まずは、サジスフォレ君の春学期の履修状況を確認したい」

「はい。登録できる限りの講義を受けて、一科目以外は合格しました」

「えっ」と先生は意外そうな声を漏らした。「何を落としたの?」

「一般教養科目の文学芸能史を……」

「何でそんなものを……。あれは不合格になるような講義ではないだろう」

 僕はウーンと呻いてしまった。

 文学や演劇の主題の一つは色恋沙汰。色恋の気分は僕でも分かる。しかし、フレクラント国に沙汰は無い。いや。大昔にはあった。現代でもあるにはあるのだろう。ただし極めて少数、しかも社会的には陰で処理されているに違いなく、僕は実例を知らなかった。

「連合国とフレクラント国とでは世情が違い過ぎて、期末考査で失敗してしまって……」

 先生はハアと溜め息をついた。

「と言うことは、一般科目は一つ取り直しか」

 気まずかった。僕は神妙に頷いた。

「分かった……。君との対面講義の日程はそれに合わせて調整する」

「お手数をお掛けします」と僕は頭を下げた。

「それから、私は毎年夏休み中の四週間、各方域の自然精気の環境中濃度を測定している。君も出られるだろうか。今年はナギエスカーラを中心とする南方域を回った。来年は西方域、再来年は南西方域。そうやって、年ごとに南方三方域を巡回する」

 僕が気乗りしないままに了承すると、先生は「ん?」と鼻を鳴らした。

「別に義務という訳ではないのだが、行商か? 連合国評議会から報奨金を貰って、生活費の蓄えは十分なのだろう?」

「一応、それは大丈夫なんですけど……」

 南西方域に行商に出掛けた際の事件の顛末を明かすと、先生は皮肉っぽく笑った。

「そういう輩には対等などあり得ない。とことん下手に出るか、とことん上手に出るか、二つに一つだ。『お前たち。きちんと自然精気を調べておかないと、魔法医術士の先生方が来てくれなくなるぞ』と脅せば、相手も文句は言えまい」

 僕はハアと曖昧に頷いた。

「それで、君の方からは何かあるかな?」

「先生。やはり、生命力方程式は間違っていると思います」

 先生に「具体的には」と促されて、僕は説明した。

 日常的な言葉で言えば気配。他者の存在を感覚的に察知してしまうことがある。その際、他者の魂そのものと触れ合っている訳ではない。つまり精気には、それに付随し、それを取り巻く何かが存在している。しかし、生命力方程式にはそれに対応する要素が無い。

 僕が簡潔に説明を終えると、先生はフームと鼻を鳴らした。

「それは間違いではなく、適用限界の問題だ。そもそも、生命力方程式は吸収石などの中で起きている現象を説明するためのもの。それを越える現象は記述していない」

「そこで、僕が考えた式なんですが……」

 僕は研究室の壁に掛けられた黒板に偏微分方程式群を書き記し、一つ一つ説明していった。先生は初めの内は悠然と、最後には食い入るように黒板を見詰めていた。

「もちろん」と僕は話を締めくくった。「精気の密度が低い場合には、これらの方程式群は既存の生命力方程式と一致します」

「なるほど」と先生は溜め息をついた。「精気という実体があり、そこに気配という場が付随していると……」

 先生はフームと鼻を鳴らしてしばらく考え込むと、おもむろに口を開いた。

「それなら、君の最初の課題は吸収石の制作にしよう。設計から材料選びから加工に至るまで、全て君自身の手で行なう。身に着けておいて損は無い技術でもあるし」

「分かりました」

「材料選びに関しては私の専門分野の一部でもある。それ以外の技術的な課題に関しては、私から生命力工学専攻に指導を頼んでおく」

「よろしくお願いします」

 僕は十分に納得して了承した。

 

◇◇◇◇◇

 

 秋学期が始まって二週目第一日の朝、いつも通りに登院すると、僕は学院評議会議長の執務室に連れていかれた。執務室には、議長と副議長、事務長、そしてフレクラント国の中地方通商組合の行商人が二人。

「議長。先日のノヴィエミストでは、どうもありがとうございました」

 僕がそんな風に挨拶をすると、議長は軽く頷き、僕に隅の椅子に座るよう促してきた。

 議長は「いつものことですが」と言いながら、二人の行商人それぞれに紙を手渡した。そっと覗いてみると「委嘱状」の文字。これから仕事の依頼が始まるようだった。

 現在、当学院の連合国人学生は全て最遠でも徒歩で四泊五日圏内の出身。学院に通えない者の多くは寄宿舎に入っている。その中で、秋学期が始まって一週間が経つというのに、何の連絡も無く未だに戻ってきていない者がいる。

 議長は「その調査をお願いしたい」と言うと、学生の一覧表らしき物を行商人の二人に差し出した。一瞥したところ十数名。僕の視線に気付くと、二人はさりげなく隠した。

 連合国内には学院と提携している宿屋が点在している。実家と学院の行き来の途中、学生はそこに宿泊することになっている。行商人の二人は宿屋と各学生の実家の位置を地図で確認しながら経路を決め、直ちに議長執務室を後にした。

 そのまま部屋に残された僕は議長に尋ねた。

「学院では、いつもこういうことをやっているんですか?」

「そうですよ」と議長はあっさりと肯定した。

「それで、僕がここに呼ばれたのは」

「アン・エペトランシャ君も戻ってきていません。何か心当たりはありませんか」

 大有りだった。

 高等学院の夏休み終了の一週間前、遺跡の調査がいったん終了となった。皆がフレクラント国やエスタコリン王国に撤収する一方で、アンは妃候補辞退の手段を探すと僕に言い残して、西の大公家へ向かった。妃選定の規則。王家と西の大公家の間で交わされている契約の詳細。それらを調べ上げるとアンは意気込んでいた。

 あの性的な件に関しては、僕もアンも全く口にしなかった。それどころか、あれは事故、無かったことにする。そんな素振りをアンは見せていた。アンが妃候補から外れたい理由はあまりにも明白。僕との関係以前に、とにかく今の暮らしと生き方を続けたいから。もはや、アンは王宮に納まって満足するような人間ではなくなっていた。

 僕はアンに同行しなかった。現状で僕に出来るのは、待つことと見守ることだけだった。

「サジスフォレ君?」と議長が声を掛けてきた。

「心当たりはあります。実家に戻って調べ物をしているはずです。僕も、随分時間が掛かっているとは思っていたんですけど、もう少し待とうかと……」

「君はエペトランシャ君の素性を知っていますね。例えば王家との関係」

「はい。妃候補」

「日当も支給しますので、君が様子を見てきてくれませんか。話を聞いて、手順は分かったと思いますが」

 僕は「ん?」と鼻を鳴らし、議長を見詰めた。

「行くことに異存は無いんですけど、代理人としての契約を交わした者ではなく、学生の僕が行く根拠は何ですか。つまり僕が言いたいのは、家の人に『何をしに来た。帰れ』と言われたらそれで終わりです」

「エペトランシャ君は君を緊急連絡先として登録しています。それに基づいて我々は君に正式に問い合わせ、君にはそれを根拠に会いに行ってもらいたいのです」

 全く知らなかった。南都ナギエスカーラにはエスタコリン王国中央政庁の出張所もあるのに僕を登録していたなんて。

「いや。我々も分かっています。学生は学業に専念すべきであり、このような雑務を押し付けるのは本筋から外れていると……」

 この種の広範囲な外回りの仕事は、高空高速飛翔が可能なフレクラントの行商人の独壇場。ナギエスカーラ高等学院は結構な日当を支払って請け負ってもらっている。ただし本来、この種の仕事を請け負えるのは通商組合の第一種組合員のみ。情報伝達業なども行なえる第一種とは異なり、第二種は物品流通業や人員輸送業しか認められていない。そして、僕は第二種組合員であり学生。

「しかし、今回は特殊で……」

 ヴェストビーク家はエスタコリン王国内では王家に次ぐ高位の家柄。しかも、アンソフィー・ヴェストビークは妃候補の筆頭。そのため、身の危険や学業への支障などを懸念して、偽名の使用を認めるなど要人に準ずる扱いをしている。今のところ、その扱いを変更する予定は無く、安易に外部に情報を漏らせない。

「それに、君はエスタコリン王国の貴族に顔が利くのでしょう? 君が行ってくれれば話は極めて早い。もちろん、君の学業にも配慮します。君には秋学期終了後に補習を受けてもらいます。成績評価にも不利が生じないようにします」

 僕は「あ、ああ、あああ……」と呻いてしまった。嬉しいような悲しいような知らせ。

「分かりました。行ってきます。ただし、僕にも委嘱状を書いてください。貴族はとにかく格や形式にうるさいんです」

「用意してあります。帰ってきたら、事務長に報告するように」

 話はまとまった。僕は委嘱状を手に議長執務室を後にした。

 

◇◇◇◇◇

 

 やはり秋。僕は高空帯を北上しながらそう思った。明らかに真夏に比べて虫の数が減っていた。そして僕の背嚢は満杯。そこにはアンを妃候補から降ろす秘策が詰まっていた。

 南都ナギエスカーラから西の大公家の街ヴェストビークまでは約四時間。途中に休憩を挟みながら飛び続け、大山脈を越えてすぐの所にフレクラント川とヴェストビークの街。時刻は昼過ぎ。僕は大公家の屋敷の玄関前に降り立った。

 使用人は直ちに大公様の執務室に通してくれた。そこには大公様と家令。あれから六年が過ぎたが、家の様子も二人の様子も全く変わっていなかった。

「大公様。家令殿。お久し振りです」と僕は挨拶した。

「ケイ殿も立派になりましたね」と大公様は言った。

「はい。おかげさまで」

「先日はイエシカが随分とお世話になったようで、私からもお礼を申し上げます」

「はい。楽しんでいただけて良かったです。ところで、今日はスルイソラ連合国ナギエスカーラ高等学院評議会議長の委嘱を受けて家庭訪問にやってまいりました。要するに、不登院状態となっているアンソフィー殿の様子を内密に確かめに来たということです」

 僕が委嘱状を示すと、二人は押し黙ってしまった。

「アンソフィー殿に会わせていただきたいのですが。必ず学生当人に面会することと決まっていますので」

 わずかに間が空いた後、大公様はおもむろに「それが……」と言った。

「アンソフィーは王宮にいます。どうやら、エルランド殿下の正室に選ばれたようで……」

 僕は唖然とした。まさか、こんな中途半端な時期に。

「先日、イエシカと二人で王宮に呼び出され、アンソフィーだけが残されて」

「『ようで』とは随分曖昧な言い方ですが」

「王家からはまだ何の通知も届いていないのです。王位継承権を持つ者の正室決定には王家一族による会議を経なければならないので」

 僕は決断した。とにかく、今はアンを解放する。

「分かりました。お邪魔いたしました。これより王宮へ向かいます」

 その瞬間、家令が「ちょっとお待ちを」と呼び止めてきた。

「ケイ殿は何をされるつもりです」

「とにかく、アンソフィー殿に会ってきます。それが今回の僕の仕事なので」

「正室の件には差し障りが無いようお願いしたい」

 僕はエッと呆気にとられ、家令の顔を見詰めた。

「実は先日、イエシカ殿からこの件に関する大公家の本音を聞いたのですが」

「正室に選ばれるのなら、それはそれでお目出度い話です。クリスタ殿はアンソフィー様のかつての家庭教師。知らぬ仲でもありませんし」

「あのう……」と僕は少しためらった。「率直に言って、アンに王妃は務まりません」

「ケイ殿」と家令の語気が強まった。「その言は踏み込みすぎというもの」

「以前、クリスタ殿からも話を聞きました。アンは野に解き放つべし」

 家令はウッと言葉に詰まった。代わって大公様が口を開いた。

「私たちも理解しています。アンソフィーの精気と魔法能力があそこまで成長するとは想像もしていませんでした。しかしそうなった以上、アンソフィーには貴族の利害の外にあって大公家を見守り続けてもらうのが最適です。また、そういう立場にあればこそ、王国全体に尽くすことも可能となるでしょう」

「あのう……」と僕はためらいがちに切り出した。「正室から降ろす手立てが一つあるんですけど」

「やめてもらいたい」と家令が声を上げた。

「いえ。せっかくですから聞きましょう」と大公様は制した。

「踊るんです」と僕は断言した。

 大公様と家令が同時に「は?」と声を漏らした。

「気が触れたと思われるぐらいに、着ぐるみを着て王宮や王都を踊って回るんです。アンのために着ぐるみを持ってきました。もちろん、アン独りにはさせません。僕もやります」

「やめてもらいたい」と家令が声を上げた。「ケイ殿が謎の歌を熱唱しながら着ぐるみ姿で街中をうろついているのは知っている。しかし、これは子供の遊びではないのだ」

「僕は真剣に言っているんです。奇矯な振る舞いをする者と見なされれば、妃候補から外されるのは間違いない。そう見なされるまで、奇矯な振る舞いを繰り返せば良い」

「そんなことをしたら妃候補から外されるどころか、社会的に死んでしまう。ケイ殿はすでに死んでいるから達観しているのかも知れないが」

「失礼な」と僕は憮然とした。「僕は少なくとも後ろ指は指されていない。蝗を全滅させた猿の着ぐるみ。そう言われているだけ。熱唱はイエシカ殿の冗談。ただの鼻歌」

「イエシカ様にも兎の着ぐるみを着せて、あれはケイ殿の趣味なのか?」

「違います。暑さ対策の話、聞いていませんか?」

「丁寧に扱えば一万年以上は持つという絵画。その題名が『なんとナギエスカーラ・兎のイエシカ』とは何たることか」

「あの絵、良い表情だと思いませんか」

「イエシカ様はこちらに戻ってきてからも時折、ケイ殿に貰ったという着ぐるみを着ておられる。イエシカ様にも『踊れ』と吹き込んだのか?」

「『踊れ』とまでは言っていない。イエシカ殿は踊ったんですか?」

「踊ってはいないが、『フレクラントの勝負服』などとうそぶいて、王都の街中を歩き回ったそうだ。『それは担がれただけ』とすぐに周りの者たちがたしなめたそうだが」

「そうですか。それは良かった。ナギエスカーラで散々予行演習をしましたからね」

 その瞬間、大公様がトントンと机を指で叩いた。

「もうやめなさい。あの絵を見て一番笑っていたのはアルフ、あなたではありませんか」

 大公様は僕に目を向けてきた。

「全てはアンソフィーに任せます。ケイ殿も無理強いはしないでください」

「分かりました。それでは」

 僕はそう言い残して席を立った。

 

◇◇◇◇◇

 

 埒が明かなかった。六年前の滞在時間はわずか数時間。そしてそれ以降、特に関心を持つこともなく、僕は王宮の仕事を全く理解していなかった。王家も貴族。王都やその周辺の村々の大地主。そのためフレクラント国に例えれば、王宮は実質的に王都の村政庁。王宮正門の受付には長い列が出来ていた。

 それでも、多くの人はしばらくすると事務処理を行なう建屋に順次通されていった。一方、僕の用件は家庭訪問、王族およびアンとの面会。「王家の方々は忙しい」の一点張りで、僕は中に入れてもらえなかった。

 ナギエスカーラ高等学院評議会議長の委嘱状には何の威力も無く、係員は僕を軽くあしらうばかりだった。多分、大公様も家令もこうなることを予想していたのだろう。だから、話はあっさりと済み、「とにかく、好きにやってごらんなさい」と言わんばかりの軽い乗りで僕を送り出したのだ。

 係員に尋ねてみると、中央政庁はフレクラント国に例えれば中地方政庁と大統領府を兼ねたものらしい。と言うことは、そちらにはイエシカさんがいるとは言え、出向いてみても無駄足になるだけだろう。

 さらに尋ねてみると、現在王宮内にいる王族は決裁の仕事で忙しく、その作業は受付終了後まで続くとのこと。他の王族は外回り。いつ戻ってくるか分からない。結局、誰がどこにいるのか、そんな具体的な事柄は一切教えてもらえなかった。

 結局、僕はいったん引き下がることにした。街中の料理屋に入って遅い昼食を摂りながら対策を練ることに決めた。

 なぜだろう。食が進む。エスタコリンの料理はやはり美味しい。秘密の香辛料でもあるのだろうか。そんな風に感じながら、僕は考え続けた。

 王家のご隠居、前国王のアルさんに会わせてもらおうか。アルさんなら多忙というほどではないだろう。しかし、どことなく後ろめたかった。

 アンはエルランド殿下の妃候補の筆頭。思い返してみれば、常にそれがアルさんの第一の認識だった。まずはアンを取り戻す。そして正室の件は無かったことにする。それはアルさんの意に反しているのではないだろうか。

 アルさんは事あるたびに僕の後ろ盾になってくれている。そして、アルさんの望みは王国と王家の繁栄。将来、他国の僕が協力者や助力者になることを期待している。アルさんは僕が行なおうとしていることを裏切りと捉えるのではないだろうか。

 その一方で、西の大公家の考えにも一理ある。それはアルさんの望みとも矛盾しない。つまり、エスタコリン人のアンこそが王家や大公家の外にあって、王国と王家と大公家の繁栄を支える役割を果たせば良い。規則や契約や立場上、大公家はその種の話を切り出せない。僕が伝えれば、事態は変わるだろうか。

 いずれにせよ、アンには自身への評価を下げるという手段が残されている。とすれば、やはり気掛かりなのはクリスタさんとお子さんたち。

 クリスタさんは自由でありたいと願っていた。そんな人が側室に選ばれてあっという間に四人の子持ち。もちろん強姦された訳ではないだろう。つまり、クリスタさんは覚悟を決めたに違いない。そんな人が蔑ろにされて良いとは僕には到底思えない。

 また現在、クリスタさんは形式的には側室でも実態は正妻。それが実態としても側室となったら、お子さんたちは何を思うだろう。種類と状況が違うとは言え、無機質な家族関係の汝の果ての実例はここにある。つまり僕。

 僕は料理店を後にし、手近な公園で時間を潰し始めた。猿の着ぐるみに着替え、木製の長椅子に寝転がって待ち続け、約一時間が過ぎた頃だった。鐘の音が街に響き渡った。これで王宮の受付終了から一時間。余剰精気の蓄積は十二分。僕は飛翔を開始した。

 王宮正門の上空で僕は静止した。受付の行列はすでに消え、辺りは閑散としていた。僕は敷地奥の宮殿に向かって拡声魔術を発動した。

「頼もう。私はフレクラント国のケイ・サジスフォレ。スルイソラ連合国ナギエスカーラ高等学院評議会議長の代理として参上した。王家の方への取次ぎをお願いしたい」

 三度叫んだ時、宮殿から人々が飛び出してきた。政務官と思われる人が僕の元に駆け付けてきた。僕はゆっくりとその前に降り立った。

「サジスフォレ殿。どうか、おやめください。特に拡声魔術は」

 政務官の表情はこわばり、声音には哀願の気配が漂っていた。

「すでに受付は済ませてあります。受付終了からしばらくは仕事が続くとのことでしたので、時を見計らって出直してきました」

「フェリクス殿下がお会いになられます。しかし……」

 そう言いながら、政務官は僕の姿を眺めまわした。

「その恰好は一体何です」

「これは僕の本気を示すものとお考え下さい。つまり、面会無しに帰るつもりは無いという意味です。これが評議会議長の委嘱状です」

 政務官は委嘱状に目を通すと、「どうぞ、こちらへ」と言った。

 王宮内の宮殿に続く道。宮殿内の廊下。あちらこちらから抑えた笑い声が聞こえてきた。そして時折、「猿?」という嘲笑交じりの密かな声。そのたびに、政務官は僕に向かって密かに詫びた。尋ねてみると、王宮内の下級職員の多くはこの六年で入れ替わり、もはや六年前の出来事を具体的に知る者は少数とのことだった。

 案内された先は執務室ではなく謁見室だった。上座には、今や王位継承順位一位、あの政変を主導したフェリクス殿下の姿があった。そのかたわらには王家の使用人と思われる人が数名。使用人たちは僕の姿を目にすると、顔を伏せてあからさまに笑いをかみ殺した。

「ケイ・サジスフォレ殿。久し振りだな」と殿下は顔を強張らせた。

「お久し振りです。殿下」

「あの時は世話になった。再度礼を言う」

「いえ。こちらこそ色々とご迷惑をお掛けしました。今日伺ったのは……」

「その前に、なぜ着ぐるみなのだ」

「受付で門前払いを食らいましたので、本気を示すために敢えてこの姿で来ました。ただし、鉈は持ってきていません。今回はその種の事情で来た訳ではありませんから」

 殿下は緊張気味に小さく頷いた。

「現在ナギエスカーラ高等学院では、秋学期が始まったにもかかわらず姿を現さない学生たちの調査を行なっています。今日伺ったのはその一環。安否や状況の確認が目的です。妃候補の件はすでに知っていますが、一度アンソフィー殿にも会わせてください」

 殿下は「良かろう」と言うと、使用人に指示を出した。

 アンを待つ間、僕と殿下は雑談を交わし続けた。特に話題となったのは、アルさんも参加している考古学調査。どうやら、大発見があったとの噂はすでに広まっているらしい。ただし、正式発表までは内容は秘匿されているはずだった。

「サジスフォレ殿も調査に参加したと聞いている。一体、どんな発見があったのだ。少し教えてくれないか」

 殿下がそう言った時だった。謁見室の扉が開いた。

 僕は息をのんだ。清楚な貴婦人。これが気品。高貴で豪華な装いはアンをここまで美しく見せるのか。しかも、このような姿をしているからには、正室になることはすでに決定しているのかも知れない。そう気付いて、胸が締め付けられた。

 アンは数名の侍女を連れていた。侍女たちは僕の姿に気付くと、いきなり笑い声を上げた。それに釣られたのか、殿下のそばに控えていた者たちも笑い始めた。

「皆さん。何を笑っているのです」とアンが冷めた声を発した。

 使用人全員が笑いをこらえようとした。

「ケイ・サジスフォレ殿を侮ってはいけません。ケイ殿は偉大なる魔法使いに認められた蝗の将軍です」

 嘲笑の気配は一向に消えなかった。「猿の将軍?」と笑い声が漏れた。

「フレクラントの方々を見た目で判断してはいけません。着ぐるみは勝負服であり戦闘服です。ケイ殿は真剣なのです」

 数人が小さく首を振って否定した。

「着ぐるみに硬化魔法を掛ければ無敵の鎧。ケイ殿は直ちに無敵の戦士と化すのです。侮辱が過ぎると、ケイ殿に宮殿ごと吹き飛ばされますよ」

 皆が固まった。一瞬で場が冷えた。

「殿下」と僕は呼び掛けた。「いったん、アンソフィー殿と二人で話をしたいのですが」

「あ、ああ……」と殿下は了承した。

 僕は謁見室の隅にアンを連れて行き、改めてその姿を眺めて溜め息をついた。機能性を度外視して美と品位を追求した装い。それは女の色や艶までも演出していた。

「来てくれたんだ……」とアンは呟いた。

「もう、正式に決まったの?」

「まだ。これから一族での話し合いがあるらしい」

「それなら、今ここで何をしているの?」

「王家の仕来りや仕事の説明を受けている」

「それでは……」と僕は大きく息を吐いた。「もう決まったようなものじゃないか……。アンはそれでいいの?」

「いいも何も……」とアンの声は微かに震えた。「家の、大公家の立場が……」

 僕が秘策を伝えると、アンはエッと声を漏らした。

「その前に、僕が正攻法を試してみる」

 僕は再び殿下の前に立つと、「申し上げたいことが三つあります」と切り出した。殿下は真剣な表情で「聞こう」と答えた。

「一つ目。ナギエスカーラ高等学院がこのような調査を行なう理由の一つに結婚問題があります。長期休暇の際、帰省先で女子学生が結婚を強いられることがあります。その場合、学院は学生当人の意思を確認した上で、結婚を保留して学業を継続するよう仲裁に入っています。アンソフィー殿は継続を希望しています。王家はいかがお考えでしょうか」

「ああ」と殿下は溜め息をついた。「その件は検討中だ。アルヴィン陛下は『今は婚約にとどめ、結婚は高等学院の前期課程修了を待って』とおっしゃっている。一方、エルランドは『できる限り早く』と主張している。『何なら、エスタコリン王国高等学院に転院すれば良い』と。いずれにせよ、学業の打ち切りは考えていない」

「二つ目。西の大公家の考えをお伝えします。アンソフィー殿は今やフレクラント人と同等の精気と魔法能力を持ち、その寿命もフレクラント人と同等になるものと予想されています。また、この世界の北から南までを行き来しており、王宮に納まるような人間ではなくなっています。そのため、西の大公家はこの結婚に反対しています」

「アイナ殿がそう言ったのか。当主たるアイナ・ヴェストビーク殿が」

「はい」と僕は頷いた。「ただし、王家に嫁がないとなれば、通常であれば他の貴族家に嫁ぐ所。しかし、アイナ様はそれにも反対しておられます。アンソフィー殿はそのようなものの外から王国や王家や大公家を支える役割を果たすべき。そう言っておられます。つまり、言葉の内容から考えて、アイナ様は私心からそのように言っておられるのではありません。どうか、その点だけは勘違いなさらぬようお願いいたします」

 殿下はウーンと唸ると、視線を足元に落として考え込んでしまった。

 あの政変の時、アイナ様は殿下の後ろ盾となった。だから、殿下はアイナ様の意向を無碍には出来ないはず。そう思いながらしばらく待っていると、殿下の視線がさまよい始めた。黙々と考え続ける殿下に僕は声を掛けた。

「二つ目についてはいかがでしょうか。僕は一理ある考えだと思います」

「アイナ殿の考えも分からなくはないが、王家にとっては、そういう有能な者が一族に加わるのは歓迎すべきこととも言える。いずれにせよ、決めるのは当人たるエルランドだ。妃候補に問題が無い限り、我々王族とて無暗に反対は出来ないのだ」

「三つ目ですが」と僕は話題を変えた。「フェリクス殿下にも側室がおられるのですか?」

「いや。いない」

「これは僕の疑問なのですが、クリスタ殿と四人のお子さんはどうなるのですか?」

 その時だった。謁見室の脇の出入り口の方から「久し振りだな。ケイ」という声が聞こえた。見ると、半分だけ開いた扉の所にエルランド殿下が立っていた。

「エルランド」とフェリクス殿下が声を上げた。「いつからそこにいたのだ」

「ケイとアンソフィーがひそひそと言葉を交わしていた辺りから。その後の話は全て聞きました。あとは私とケイの二人で話し合います」

 エルランド殿下が「付いてこい」と促してきた。僕はアンに背嚢を手渡し、エルランド殿下の後を追った。

 

◇◇◇◇◇

 

 エルランド殿下は僕の着ぐるみ姿を見ても、笑み一つ浮かべなかった。以前は、いきなり喜びを表わしたり、いきなり気難しくなったりしていたのに、目の前にいる殿下にそんな起伏は一切見られなかった。以前と同じなのは、僕が付いてきていると確信しているかのように、振り返りもせずに無言で歩き続けていることだけだった。

 着いた先は殿下の執務室のようだった。殿下は扉を開けて部屋に入ると、執務机の向こう側に腰を下ろした。僕も入室して扉を閉じると、殿下は「そこに座れ」と扉付近の椅子を顎で指し示した。

「高等学院評議会議長の代理人。ヴェストビーク家の代弁者。君も偉くなったものだな」

「恐縮です」と僕は軽く頭を下げた。

「そして、私の婚姻を壊そうとする」

「決して殿下に恨みがある訳ではありません。やはり、僕の最大の疑問はクリスタ殿の件です。クリスタ殿は僕の実家に滞在したことがあって、お姉さんのように親しくしていただいたもので」

「君は蝗を全滅させたそうだな。どうやったのだ」

 僕は呆気にとられた。やはり殿下は殿下。いきなり話題が変わった。

「温熱魔法を広く展開して一網打尽に」

「ただの温熱魔法ではあるまい」

「少し工夫をしました」

「自然精気の薄いスルイソラで、良くもそんな巨大な魔法を使えたものだな」

「自然精気を強く吸い込む訓練を散々しましたので」

 殿下は僕をジッと見詰めながらフーンと鼻を鳴らした。その視線の強さに気圧されて、僕は目をそらした。ふと見ると、執務机の上には片手大の筒状の物。玩具だろうか。小さな望遠鏡、それとも万華鏡。殿下にそんな趣味があるとは知らなかった。

「これ見よがしに着ぐるみか」

「気合を入れるために着てきました」

 殿下はフフンと鼻で笑った。

「なぜ猿なのだ。さすがに白狼は畏れ多いか」

 僕は殿下を見詰めた。視線と視線が衝突した。フレクラントの着ぐるみの意味。どうやら、エルランド殿下もフェリクス殿下と同様、とっくに知っていた模様。白狼の騎士の正体は白狼の着ぐるみを着たフレクラント人。殿下はそんな連想をしたのだろうか。

「君は嘘つきだ」

 僕はエッと声を漏らした。

「いいえ。嘘は全くついていません」

「なるほど。確かに嘘と秘匿は違う。要するに、君は詭弁を弄するようになったと」

「いいえ。常に真正面から。それが僕の信条です」

「君は嘘つきだ」

 僕は首を振った。

「君はヴェストビーク家の娘を欲しいのか? それなら、イエシカをくれてやる」

 僕はウッと呻き、「くれてやるって……」と言い返した。

「イエシカも私の妃候補だ。今ここで候補から外し、君をヴェストビーク家に強く推薦してやると言っているのだ」

 ぎりぎりと締め付けられていくような気がした。

「イエシカは良い女だろう。しかも、君のことをとても気に入っている。先日の面接でも君の話ばかりだ」

 それは多分、妃候補から逃れたい一心。

「当然、君も『エステルの二つの約束』の逸話を知っているな。今の君の立場はどちらなのだ。カイルか、リエトか」

 僕は悟った。殿下は見抜いている。僕の言動の根底には私心もあると。しかし、アンにそこまでの気は無い以上、アンはエステルではなく、僕はリエトになり得ない。

「アンソフィーには妃選定開始以前から誰かとの結婚の約束があるのか?」

「無いと思います」

 殿下はフフンと盛大に鼻で笑った。

「それならば、何の問題も無く私が最優先だ。私はアンソフィーを選ぶ。アンソフィーは私の子を産んで産んで産み尽くす。アンソフィーは私の子供たちに囲まれて生涯を送る。これは私の地位に伴う私の正当な権利なのだ」

 体中が熱くなった。あのアンがこの人のものになる。あのアンがこの人の子供を産み尽くす。しかし、王国の制度まで持ち出されては反論のしようが無かった。

「君の頭は錆びたな。もし君が『自分は嘘つきです』と言っていたら、論理的に極めて興味深いことになっていたのだ。もう、帰るが良い」

 僕は椅子から腰を上げた。

 錆びてなどいるものか。僕はイエシカさんに言った。全てはあなた次第。僕の立場では、あなたの結婚話にこれ以上の関与は出来ないと。そして、僕はイエシカさんに兎の着ぐるみを渡した。

 アンに渡した背嚢には狸の着ぐるみが入っている。ここから先はアン次第。でも、アンが踊り狂うのなら僕も付き合う。改めてそのように覚悟を決め、僕は扉の取っ手を握った。

 その時だった。背後でガタッと音がした。振り返ってみると、殿下が脱力したように椅子の背凭れに身を預け、ゆっくりと天井を見上げようとしていた。机の上に目を遣ると、玩具の位置が変わっていた。殿下は僕が背を向けている間に玩具を手に取った様子だった。

 何事だろうと思って見詰めていても、殿下は僕を追い出そうとはしなかった。そのまま立ち尽くして様子を窺い続けていると、しばらくした頃、殿下はようやく口を開いた。

「間違っていた……」

 殿下は未だに天井を見上げ、何かを考え込んでいた。僕は静かに机に歩み寄り、玩具をそっと手に取り覗き込んだ。その瞬間、息が止まった。目を疑った。

「君にはそれが何か分かるのか」

 殿下が身を起こした。まさかこの人が。僕は机の上に丁寧に戻した。

「どうなんだ。分かるのか」

 この人はまずい。この人は危険。

「万華鏡でしょうか」

「君は嘘つきだ」

 体全体から嫌な汗が滲み出るのを感じた。

「僕は嘘つきです」

「それは知っている」

 僕はウッと呻いた。クソと心の中で罵った。

「精気分光器でしょうか」

「ほう」と殿下は低い声を漏らした。「君はその名称をどこで知った」

 黙示録。しかし、そんなことは到底言えなかった。

「僕は環境生命学を専攻しているんですが、必要に迫られて生命力工学も勉強しています。まだ着想に過ぎないんですけど、その関係で精気流束測定器を作ってみようかと考えているんです。そういうことをしているので、自然に精気分光器という名が……」

「口数が多いな」

 殿下の言う通りだ。僕は詭弁を弄している。

「君の名は」

「ケイ・サジスフォレ」

「違う。君の真の名は」

 僕は似たようなやり取りを思い出し、試しに敢えて口にしてみた。

「ケイ・エペトランジュ」

 殿下は僕を値踏みするようにフーンと鼻を鳴らした。

「君はエベルスクラントに行ったことはあるか」

「中等学院の遠足で一度だけ」

「君はフレクラント高原の西側へ行ったことはあるか」

「頻繁に」

「イエシカが自慢していたぞ。特製の肖像画を作ってやったそうだな。初めての異国で一人きり。そこに颯爽と現れた男となれば、好意を抱かぬ訳が無い」

 話題が変わった。少しホッとした。

「イエシカ殿には喜んでいただけて幸いでした」

「硝子板への封入という着想はどこから得た」

 僕は呻きそうになってこらえた。

「世界の各地で、たまにその種の遺物が見付かるのだそうです。それを思い出して……」

 殿下はフーンと鼻を鳴らすと、再び背もたれに身を預けて天井を見上げた。

 僕がそのまま待ち続けていると、殿下は突然身を起こし、精気分光器を手に立ち上がり、窓を開けてどこかへ向かって飛び去った。驚いて窓に駆け寄ると、西の空には夕焼け。殿下の姿はすでに視界から消えていた。

 急いで誰かにこの件を伝えなければ。僕はそう思い立ち、次の瞬間、ふと考え直した。

 殿下もしくはカイルが破壊的な行動を取ることはあり得るだろうか。現状では、攻撃対象になるとしたらリエト役の僕だろう。しかし、殿下もしくはカイルは僕を攻撃するどころか口止めさえもしなかった。きっと、それよりも優先順位の高い事項があるに違いない。それならば、こちらとしても慌てる必要は無い。

 殿下もしくはカイルは「間違っていた」と言い、「君の真の名は」と訊いてきた。つまり、あの精気分光器を通して眺めた僕の魂の色は、殿下もしくはカイルの目にはあり得ないものと映ったに違いない。

 多分、殿下もしくはカイルはアンにエステルを見ていたのだ。そして、何らかの間違いに気が付いた。魂の色に関する記憶違いだろうか。それとも精気分光器の制作の失敗。いずれにせよ、正確な記憶を取り戻さなければと考えたに違いない。

 明らかに、殿下もしくはカイルは黙示録のことを気にしていた。最初に尋ねてきたのは、エベルスクラント訪問の有無だった。おそらく、アンの推理は正しかったのだ。黙示録には続きがあり、カイルは北のエベルスクラントの遺跡に隠したのだ。

 カイルは三度目の生にあった時、フレクラント高原西端の黙示録を見付けられなかったに違いない。だから、三度目の生では隠し場所を変えたのだろう。と言うことは、エベルスクラントへ向かったのだろうか。

 その時、部屋の扉を軽く叩く音が聞こえ、返事をする間も無く扉が開いた。

「ケイ。来ていると聞いたのでな」

 前国王のアルさんはそう言うと、不審そうに「ん?」と鼻を鳴らした。

「エルランドはどうした」

 アルさんは黙示録の存在を知っている。アルさんには明かすべき。僕はそう判断した。

「カイルがいます。あの黙示録のカイルです」

「何と」とアルさんが驚きをあらわにした。

「エルランド殿下です。殿下がカイルです」

「何と……」とアルさんは言葉に詰まった。「その証拠は」

「殿下の筒状の玩具みたいなもの。あれは精気分光器です。殿下はいつからあれを持っていたんです」

「先の春辺り……。他に証拠は」

「殿下自身は明確には言いませんでしたが、明らかに黙示録のことを気にしていました」

「何と……」

「そしてつい先ほど、どこかへ飛んで行ってしまったんです。この窓から」

「どういうことだ。もうすぐ夜であろう」

「良く分かりませんが、黙示録を探しに行ったのではないかと。殿下は『間違っていた』と言いました。アンのことをエステルだと思っていたようです。ところが、確信を持てなくなってしまった。殿下の人柄が変わったとか、何か兆候は無かったんですか」

「その前に、その話は俄かには信じられぬ。まさか、エルランドとアンソフィーの件を壊すためにそのようなことを言っているのではあるまいな」

「違う。違います」と僕は断言した。

「いずれにせよ、そのような告発をする以上、確実な証拠を提示せよ。ケイよ。エルランドを探せ。そして、まずは儂の所に出向くよう伝えるのだ」

 告発という言葉で僕は気付いた。アルさんの目には転生は悪と映っている。そして、僕がエルランド殿下に濡れ衣を着せようとしていると映っている。

 フレクラント国には、極めて少数ではあっても覚醒した転生者がいるらしい。そして、そういう人たちも社会に受け入れられている。つまり、転生自体は善でもなく悪でもなく中立的な現実。アルさんの認識はその水準に達していないのだ。

「分かりました。少し休憩を取ってから出ます。気が変わって、程なく帰ってくるかも知れませんし」

「良かろう。もうすぐ夕飯時だ。簡単に食えるものを用意させよう。その時までにエルランドが帰ってこなければ、そなたも出立せよ」

 僕は黙って頷き了承した。

 

◇◇◇◇◇

 

 三日月の夜。仄暗い光を浴びながら、僕は猿の姿のまま高空帯を独り飛び続けていた。僕の背中には背嚢。使用人が返してきた時、そこに狸の着ぐるみは残っていなかった。

 結局、殿下もしくはカイルは戻ってこなかった。その間、軽食を摂りながら僕が考え続けていたのはその行き先だった。

 第一の候補は隠れ家。おそらく王宮のすぐ近くに秘密の工房があり、殿下もしくはカイルはそこで精気分光器を作ったのだろう。そこに籠って善後策を検討中。もしかしたら、そこで準備を整え、すでにどこかへ向かったのかも知れない。

 第二の候補は北のエベルスクラントの遺跡。やはり、第二の黙示録の隠し場所はそこに違いない。それをこの機会に回収しに行った。

 現在の殿下もしくはカイルの魔法力はどの程度のものだろう。その能力をもってエベルスクラントに到達するには、どれぐらいの時間が掛かるのだろう。エスタコリン人として生まれ育った以上、フレクラント人と同等の基礎的能力を持っているとは思えない。ただし、すでに忘れ去られた多彩な技術を駆使できる可能性は十分にある。

 そんなことを考え続けて僕が出した結論はフレクラント国高等学院。殿下もしくはカイルはいずれそこにたどり着く。なぜなら、フレクラント国内やその周辺で発見された歴史的遺物は全てそこに運び込まれているのだから。

 事実、第一の黙示録はすでに高等学院にある。僕の推測が正しければ、第二の黙示録もすでに誰かに発見され、高等学院に運び込まれているはず。殿下もしくはカイルも遠からずそのことに思い至るに違いない。

 それにしても、カイルはともかく、殿下はクリスタさんのことをどう思っているのだろう。六年振りに会ったクリスタさんは妻と母の顔になっていた。殿下もしくはカイルの言葉をそのまま使えば、まさにクリスタさんこそ良い女。僕は心の内で殿下を罵らずにはいられなかった。

 三日月の光にほんのりと照らされた大地。地形を確認しながら飛び続け、一時間近くが経った頃だった。フレクラント国高等学院が見えてきた。僕は一直線に高度を落とし、歴史学専攻が入っている建屋の前に降り立った。

 夜は夜。ただし遅いとは言えない頃合い。誰か残っているだろうか。そう思いながら暗い廊下を研究室に向かってみると、独り歴史学博士が北の大森林から持ち帰った史料の整理を続けていた。

「急にどうしたのだ」と博士は驚きをあらわにした。

「お伝えしたいことがあって」

 博士は「まあ、待て」と言いながら、発酵乳を出してくれた。僕は半分ほど飲んで大きく息を吐いた。

「緊急か? わざわざ着ぐるみを着込んで、超高空でも飛んできたのか?」

「伝説のカイルに会いました。黙示録を求めていずれここにやって来ます」

「本当か」

「はい」と僕は大きく頷いた。「そうなると、ちょっとまずいことになるかも」

「それで、誰がカイルだったのだ」

 僕は意外感に包まれた。

「驚かないんですか? 他の人は信じてくれなかったのに」

「いまさら」と博士は苦笑した。「超越派に遭ってしまった今となっては全然」

 僕はアアと納得した。

「誰がカイルだったのか、それはちょっと明かせません。素性の怪しい人ではありませんが、それだけに安易に明かしてしまうと問題になりそうで……」

 博士はフームと鼻を鳴らした。

「それなら、それはまあいい……。黙示録に記された通りのカイルであったら、黙示録を返さなかったら力尽くでも取り戻そうとするだろうと言う訳か。確かにあり得るな」

「黙示録は今も生命学専攻が管理しているのでしょうか。それからもしかしたら、あの黙示録には続きがあって、それも生命学専攻が管理しているのではないでしょうか」

 博士は「ん?」と鼻を鳴らした。

「黙示録に続きがあるという話は初耳だ。カイルがそう言ったのか」

「それを匂わせるようなことを。どうやら、エベルスクラントに隠していたようです」

 博士はウーンと唸り、「生命学専攻に行こう」と席を立った。僕も慌てて発酵乳を飲み干し、あとに続いた。

 高等学院の在り方はどこも似たようなものらしい。所々から人の声、照明器の光。ナギエスカーラ高等学院と同様、夜も人の残っている研究室がある様子。例の生命学専攻の博士も居残っていた。

 生命学博士は僕の顔を見るなり険しい表情を浮かべた。

「何をしに来た。しかも何だ、その物々しい格好は。こんな所に着ぐるみで来るな」

 歴史学博士はそれを遮り、僕の代わりに事情を説明し始めた。生命学博士の視線は徐々に僕から歴史学博士に向かうようになり、最後には歴史学博士に釘付けになっていた。

「それで、どうなんです。黙示録の続きがあるのですか?」

 歴史学博士にそう迫られて、生命学博士はとうとう「ある」と認めた。

「どこに」と歴史学博士は迫った。

「地下の保管庫に。今から四千年近く前の生命学専攻の責任者がそこに収めたらしい」

「見せてもらいたい」

「開示するかどうか、ここでは決められない」

「カイルがやって来たら、そんなことは言えなくなる。今すぐに見せてもらいたい」

「カイルであろうと一緒だ。カイルとて現世の法や規則に従うべきだ」

「待ってください」と僕は口を挟んだ。「あの人の頭の切れは半端ではありません。黙示録通りなら、カイルは大量殺人も厭わない。口実を見付けたら何をするか分からない。その前に、少なくとも状態などは確認しておくべき」

「ケイ・サジスフォレ。君が指図するようなことではない」と生命学博士は言い切った。

「あなたはサジスフォレ君の言葉にもっと耳を傾けるべきだ」と歴史学博士が反論した。

 生命学博士は僕を睨んで溜め息をつくと、「良いだろう」と言った。

 生命学博士は研究室を後にすると、建屋の地下へ向かった。三人それぞれが光球で辺りを照らしながら進むと、そこも地上と同じ構造の石造り。廊下があり部屋が並んでいた。生命学博士は一番奥まで進んで扉を開け、さらに階段を下りていった。その先はエベルスクラントやカプタフラーラの地下街と同様の作りになっていた。

 岩盤を綺麗にくり抜いた通路。扉の無い部屋、また部屋。生命学博士はかなり奥の一室の前に立つと、「ここだ」と言った。中を覗き込んでみると、確かに見覚えのある石製の文箱。そしてもう一つ、それよりも幾分大きい石製の箱。僕たちは部屋に入り、大きい方の蓋を開けた。

 現代語訳が記されていると思われる古びた紙が十数枚。僕がそれらを手に取ると、その下には硝子板。僕は紙を確かめ、歴史学博士は硝子板を覗き込んだ。

 三度目の生における黙示録。僕がその文言を目にした時だった。背後で「ほう」と低い声が聞こえた。博士たちが振り返った。僕は声ですぐに悟り、手に取った十数枚の紙を首の所から着ぐるみの中に押し込んだ。

「君は誰だ。ここで何をしている」と生命学博士が尋ねた。

 僕も振り返ってみると、全身黒ずくめの着衣に行商人用の特大背嚢を背負ったあの人が自然体で立っていた。

「私の名はカイル。私の持ち物がここに保管されていると考え、受け取りにやって来た。そこにあるのは確かに私の物だ。長年にわたり大切に保管してくれてどうもありがとう」

「なぜここが分かった。我々の後を付けてきたのか」

「私は転生を繰り返し、すでに総計で二千年近くをこの現世で過ごしてきた。当然、この建屋の存在も知っている。この建屋辺りかと思ってやって来たら、たまたま汝ら三人を見掛けたという次第だ。長年にわたり大切に保管してくれてどうもありがとう」

「その話を進める前に、いくつか確認したいことがある。まず、君がカイルであるとどうやって証明する」

「それならば私も訊こう。汝がここの責任と権限を持つ者とどうやって証明する」

「それは皆が証言してくれる」

 生命学博士の返答に、カイルは鼻で笑った。

「それならば、私の身元についてはそこのケイ・サジスフォレが証言するだろう。汝は不満か。考え違いをするな。汝の学はあまりにも浅い。本質的には、存在の同一性や固有性はそのような手段では証明し得ない。それにもかかわらず、汝がその論法を採ったのだ」

 生命学博士が力んだ。むきになってもカイルには勝てない。下手をしたらカイルを怒らせるだけ。まさか、生命学博士は魔法発動の機会を窺っているのだろうか。

「仮に君がカイルだったとしよう」と生命学博士は食い下がった。「それでも問題がある。長期にわたって放置されていた物品は国の所有物となる。ここにある古文書も同様だ。国の委託を受けて高等学院が保管しているのだ。これはフレクラント国の法によって決まっている。君も現世にあるのなら、現世の法に従うべきだ」

「それならば言おう。私は放置などしていない。人目に触れぬよう意図的に大切に隠したのだ。そもそも、私が一つ目の黙示録を作成したのは今から約九千七百年前のこと。二つ目の黙示録を作成し始めたのは約七千百年前のこと。今、汝が挙げた法はいつ出来たのだ」

 生命学博士は言葉に詰まり、微かに首を傾げた。

「汝は知らないのか。やはり汝の学は浅い。その法が出来たのは今から約四千年前のこと。つまり、汝はあとから勝手に作った法を過去に遡って勝手に適用しているのだ。そんな無法は許されない」

 生命学博士が低く唸り始めた。はた目にも怒りの蓄積は明らかだった。

「無法ではない。根本を定めた法だけでなく、手続きを定めた規則などもある。それら全てが一つの体系をなし、私の主張を裏打ちしている」

「それならば、その全ては悪法だ」

「悪法とて法なり。まずは順守から始めよ」

「悪法は法にあらず。速やかなる訂正の無きことを咎めるべし。汝の言はまさしく悪逆圧政の論法なり」

「そもそも、君が第二の黙示録を隠したエベルスクラントは高等学院の管理下にある。そんな場所に勝手に隠した君に問題があるのだ」

「汝は詭弁を越えて嘘までつくか。当時はエベルスクラントの管理を行なう者などいなかった。エベルスクラントこそ長きにわたって放置されてきたのだ。これを言うのも三度まで。長年にわたり大切に保管してくれてどうもありがとう」

 まずい、と僕は焦った。この種の言い回し。ジラン大統領の口からも聞いたことがある。あの時、ジランさんは僕に向かって「やっておしまい」と言った。僕ごときの思念法を見抜けなかった生命学博士が魔法でカイルに敵うはずがない。

「博士」と僕は口を挟んだ。「この人の言葉の意味を良く考えるべき」

 生命学博士は僕を一瞥すると、「君は黙っていろ」と言った。魔法の撃ち合いになる。僕はそう判断して着ぐるみに硬化魔法を掛ける時機を見計らった。

「カイルとやら。君があのカイルであるとの証明も無く、しかも法や規則の定めもある。学院の管理する貴重な史料を渡す訳にはいかない」

 その瞬間、「この盗賊が」とカイルが怒鳴った。同時に魔法発動の気配。場を照らしていた光球が一つ消えた。生命学博士が硬直し、ゴトッとその場に転がった。カイルの早撃ち。とことん速かった。

「盗人猛々しいとはまさにこのこと」

 カイルはそう吐き捨てると、歴史学博士に目を向けた。

「汝はどのような立場にあり、どのように考えるのか」

「私はジスラン・フレスコル、歴史学の博士、歴史学専攻の主任だ。私は仕事の都合上、遺跡に立ち入ることが多い。特に墓所に立ち入る際には、いつも最初に御霊に向かって非礼を詫びている。だから、あなたの主張は理解できる」

「なるほど。汝は墓荒らしとは違うようだ」

「硝子板は持って行けば良い。ただし、長きにわたる保管の対価を払ってほしい」

「ほう」とカイルは低い声を漏らした。

「歴史学研究に協力してほしい。転生者ともなれば、居場所を見付けることが難しくなる場合もあるだろう。表舞台に立たずに暮らせるような居場所を我々が用意しよう」

 カイルはフームと鼻を鳴らした。

「それが汝の落としどころか。良かろう。たまには汝の元を訪れて、話し相手になってやろう。居場所の件は感謝するが、返答は保留させてもらいたい」

 歴史学博士が頷くと、カイルは背嚢を下ろし、魔法を発動する気配を見せた。

 僕たちの足元にあった箱の蓋が閉じられた。次いで、二つの箱が宙に浮かんで停止し、それぞれに硬化魔法が掛けられた。そして、カイルは背嚢の口を開くと、その中に箱を入れた。それらは全て浮揚魔法による作業。しかもその間、カイルの周囲にはカイルの作った光球が二つ。僕はその異常な光景に戦慄した。カイルは一体いくつの魔法を同時に発動したのだろう。

「その盗賊は汝らに預ける」

 カイルはそう言い残して立ち去ろうとした。僕は慌てて「待った」と声を掛けた。

「今日、あなたは僕に一方的に質問を繰り返した。今度は僕が質問したい」

 カイルは足を止めて振り返ると、「良かろう」と言った。

「忘れる前に一つだけ伝えておく。あなたの肉体の四代前に当たる人があなたに会いたがっている。引退したあの人が」

「ほう。私の素性を明かしたのか」

「明かした。でも、あの人は事の重大性を理解している。『まずは私の所へ来るようにと伝えよ』と僕に言った。だから当然、秘密にしているはず」

 カイルはフフンと鼻を鳴らした。

「あなたは黙示録のありかを探っていた。なぜ、ここにあると分かったのか。僕はてっきり、あなたはエベルスクラントに向かったと思っていたのに」

「ケイ」とカイルは薄い笑みを浮かべた。「精気分光器を通して夜空を眺めたら何が見えると思う。今夜は月の光が特に弱い。宮殿の屋根から眺めた君の姿は実に輝いていたぞ」

 僕は驚いた。僕は嵌められた。僕は良いように使われた。

「あなたは屋根の上でずっと僕を待っていたのか」

「君が核心の場所に直行するであろうことは容易に予想がついた。それなのに、中々出立しないものだから、私は待ちくたびれた」

 僕は呆れた。カイルの方が何枚も上手。僕は小さく舌打ちした。

「君は英才だが、愛すべきお人好しでもある。だから昔、私は言ったのだ。君は何のために存在しているのだと」

「あなたは今日、間違っていたと言った。何が間違っていたのか」

 その問いに、カイルはしばらく考え込み、おもむろに口を開いた。

「存在の同一性や固有性の問題だ。魂の色でさえ識別子にはなり得ないのかも知れない」

「つまり、あの精気分光器の分解能では判別できないほどに、僕の魂に良く似た別の魂を知っているということか」

「あとは自分で考えろ」

 カイルが立ち去ろうとする気配を見せた。僕は急いで最後の問いをぶつけた。

「これが最後の質問。あなたは第一の候補をどうするつもりか」

 カイルは険しい目付きで僕を睨んできた。

「あなたにはもういるじゃないか。あの人を大切にしてほしい。どうか、お願いだから」

 カイルは僕をジッと見詰めると、ゆがんだ笑みを浮かべた。

「君は頭がおかしい」

 カイルはそう言い残して去っていった。

 

◇◇◇◇◇

 

 三度目の生における黙示録

 

 私には、これが三度目の生であるとの認識がある。つまり、私は二度転生し、そして二度とも覚醒している。その前にも生があったのか、それは分からない。しかし、私の魂にとってはそんなことはさしたる意味を持たない。

 転生するたびに、記憶の核心は保たれても、記憶の末梢は曖昧になっていく。二度目の生、つまり前世においてそれを痛感し、私は記録を残した。しかし三度目の生、つまり現世において覚醒した時、その記録はすでに失われていた。

 記録の秘匿場所として選んだのはフレクラントの西の果て、ルクファリエの外れに位置する洞窟の中だった。ところが現在、フレクラントは岩の壁によって分断され、その西には誰も住んでいない。ルクファリエは森林に飲み込まれ、洞窟は崩壊して跡形も無い。

 ルクファリエを名乗る集落は現在も存在する。その集落がかつてのルクファリエを継承しているのか、同じ名称を使用しているだけなのか、それは分からない。その程度のことが分からなくなるほどに、すでに時は過ぎている。そして、その集落の住人が私の記録を見付けて保持している気配は無い。

 

 私が一度目の生に在った時、私にはエステルという名の許嫁がいた。ところが、婚姻の儀式を間近に控えたある日、エステルは失踪した。

 数日が経った頃、エステルはルクファリエにいるとの報が届いた。エステルと共にいるのはリエトを名乗る男。リエトの噂は私も数年前から知っていた。

 数年前、ある男が自分は転生者であると主張し始め、リエトと名乗り始めた。自分には前世でとわの愛を誓い合ったレダなる許嫁がいる。リエトを名乗る男はフレクラントやエスタコリン中にそのように触れ回っているとのことだった。

 ルクファリエに着いてみると、エステルとリエトが婚姻の儀式を執り行なおうとしていた。私がエステルを連れて逃げ出すと、無数の火球が行く手を遮った。振り向くと、リエトが迫ってきていた。さらに、その後ろにはルクファリエの者たち。

 火球は殺害も辞さずとの意思表示。殺される前に殺すしかない。私はそのように覚悟を決めてリエトに立ち向かい、光裂術を用いてリエトの首を切り落とした。

 次の瞬間、私の全身は炎に包まれた。術を放つ集落の者たちの姿が見えた。リエトの亡骸に縋り付くエステルの姿が見えた。私はエステルの不貞を改めて認識し、余剰精気の全てを尽くして炎爆術を放った。

 

 私が二度目の生に在った時、私はやはりリエトの噂を耳にした。その数年後、私も覚醒して噂の意味を理解し、リエトの元に駆け付けた。その時には、リエトは廃人と化していた。その魂は妄執に濁り、不快に瞬いていた。いずれエステルも覚醒し、リエトの元に駆け付ける。私はそう確信し、リエトの動向を容易に知り得る場所で暮らし始めた。

 数年後、遂にエステルが現れた。私とエステルの約束はリエトとレダの約束に優先する。直ちに私との約束を履行すべし。私のその主張にエステルは答えた。私は現世ですでに結婚している。それは覚醒前のこと。その契約が優先すると。

 体中の穴という穴から血が噴き出さんばかりに悔しかった。しかし、炎爆術を放って全てを消し去る根拠が見当たらなかった。私の主張が正当であることをエステルに認めさせ、この生の全てを今の夫に捧げることをエステルに誓わせ、それをもって私はエステルとの現世での婚姻を諦めた。

 その後、私はエステルの動向を容易に知り得る場所で暮らし続けた。同時に、精気と思念法の研究に精力を傾けた。来世では、エステルの覚醒を待つのではなく、私がエステルを見付け出す。そのためには魂そのものを識別しなければならない。そして遂に、私は精気分光器を開発した。

 

 この三度目の生、私は覚醒と同時に精気分光器の作成を開始した。作成の完了と同時に探索の旅に出た。私は未だ覚醒していない子供のエステルを見付け、その動向を容易に知り得る場所で暮らし始めた。

 私とエステルとリエトが現世に同時に存在するのは必然である。リエト、私、エステルの順に転生する。リエト、私、エステルの順に覚醒する。それらは全て魂の結び付きによって説明できる。

 エステルは覚醒しないまま婚姻が可能な年齢に達した。私は直ちに婚姻を申し入れた。しかし、エステルは未だ婚姻を受け入れるほどには成長していなかった。婚姻はおろか婚約にすら至らず歳を重ねることとなった。

 ある日、エステルは失踪した。私はエステルの覚醒を確信し、リエトの元に向かった。リエトの魂は病み過ぎており、前世と同様、自身の存在を触れ回った後に廃人と化していた。

 なぜ、エステルはそこまでリエトにこだわるのか。なぜ、何の非も無い私が蔑ろにされなければならないのか。私の疑問にエステルは何も答えず、リエトの前からも私の前からも姿を消した。

 魂はそれに適した器にしか納まらない。だから必ず、私もエステルもリエトも、フレクラント人もしくはエスタコリン人に転生してきた。

 スルイソラ人の器はもはや小さすぎる。エスタコリンの隷属民の器も小さくなり続けている。おそらく、次の転生先はフレクラント人かエスタコリンの豪家の者となるだろう。

 魂はそれに適した器にしか納まらない。だから必ず、私は男に、エステルは女に、リエトは男に転生してきた。

 大きさや性別への適性がある以上、他にも何らかの条件があるに違いない。自身の魂に手を加えれば、確実にとは言えないまでも、望みに沿った転生が可能となるのではないだろうか。超越派が自身の魂に手を加えて超越を実現したように。

 今や、この三度目の生も終わりに近付いている。結局、生涯を懸けてもエステルを探し出すことは叶わなかった。私に出来たのは魂に関する考察を進めることだけだった。

 この世の在り方を考察し、エステルに約束の履行を強制しなければならない。そのことを私は痛感した。しかし、もはや残された時間は多くない。

 

 四度目の生における黙示録

 

 この四度目の生、私はエスタスラヴァを支配した。

 私の見るところ、この世には時代や場所を問わずに受容される普遍的な正義の概念が存在する。その概念を堅守するための社会制度であれば、長きにわたって維持され続け、変容や崩壊を免れる。その社会制度、ひいては正義の概念を守護する者たちを選定し、多大な義務を課す代償として特権を付与すれば、その者たちの血筋も永続する。

 私は手始めに、悪法を根拠に悪逆の限りを尽くすエスタスラヴァ北部の豪家の者どもを殲滅した。その威勢をもって、他地方の豪家の者どもをエスタスラヴァの中央、ブロージュスの集落に召し出した。豪家の者どもに法と秩序を示して強制し、正義の守護者となるべく倫理と道徳を叩き込んだ。その対価として、豪家の者どもには特権を与え、貴族を名乗らせた。正義を理解しない者。正義を実践しない者。それらはことごとく成敗した。その結果、正義は国の隅々にまで行き渡り、エスタスラヴァは繁栄への道を歩み始めた。

 私の魂と最も相性の良い血筋にはブロージュスを与え、長らく育てて引き立てた後、貴族の長たる王家を名乗らせた。エステルの魂と相性の良い三つの血筋にはそれぞれ東西南の中心を与え、長らく育てて引き立てた後に大公家を名乗らせた。

 特に、エステルと最も相性の良い血筋は西に置き、女たちが王家に供され続けるよう、西の大公家は女系とした。魂の器の大きさが維持されるよう、西の大公家はフレクラントから定期的に婿を迎えることとした。

 男の夢を具現したような魅惑の女たち。貴族たちはこぞって求め、その血は婚姻を通して秩序正しく貴族全体に浸透し、その器の大きさをも維持してくれることだろう。年ごとにフレクラントに生まれる子供の数は多くない。これでエステルがエスタスラヴァの貴族に転生する可能性も高まることだろう。

 この四度目の生の間、リエトを名乗る者は現れなかった。しかし、この私が存在する以上、リエトもどこかに存在しているのは間違いない。おそらく、リエトは自身の存在を触れ回る以前に、覚醒と同時に廃人と化してしまったのだろう。

 また、私の覚醒からかなりの時が経った頃、私が下級に分類した貴族家の当主の妻にエステルを見付けた。そして二度目の生と同様、私はエステルを諦めざるを得なかった。

 それでも今、私は誇りと希望に満ち溢れている。私はエスタスラヴァの繁栄の礎となった。その中で、エステルに約束を履行させる手筈も整えた。

 私は自身の魂にわずかに手を加えた。これで来世は王家に生まれることになるだろう。あとは、エステルがエスタスラヴァで生を受けるだけ。私は全ての貴族の女の中からエステルを探し出し、王家の権威をもって妻となるよう命じれば良い。

 来世こそ、私はエステルに子供を産ませて産ませて産ませ尽くす。そして、エステルは多くの子供に囲まれながら幸せの中で覚醒するのだ。

 

◇◇◇◇◇

 

 カイル襲来。その後始末はジラン大統領が直々に内密に行なった。

 生命学博士には強力な硬化魔法が掛けられていた。無理に解こうとしたらその途中、例えば内臓だけが硬化したままとなりかねない。そのため、魔法が自然に消えるのを待つことになった。おそらく、その時期は約百年後となるだろう。それが診断の結果だった。ジランさんが生命学博士の家族や親族にどのような説明を行なったのかは秘匿され、僕などでは知りようが無かった。

 よほどの特殊な例でもない限り、法や規則は制定以前に遡って適用されない。そんな初歩的かつ根源的な原則を生命学博士は頑なに否定した。カイルはそれを窃盗犯の強弁と見なし、生命学博士に硬化魔法を掛けた。つまり、傷一つ付けることなく拘束した。その行為には一定の正当性があるとジランさんも認定せざるを得なかった。

 ジランさんは僕の手紙を黙殺したことをしきりに悔やんでいた。フレクラント国高等学院生命学専攻の体質。過大な自負心がそんな傲慢な行為につながった。強権を発動してでも介入しておくべきだった。ジランさんは僕に向かってそんな懺悔めいたことを口にした。

 僕は生命学博士の現状に何の哀れみも覚えなかった。強弁や詰まらない嘘はあの人の習い性。今回はカイルに対して嘘をつき、カイルの怒りを買ってしまった。殺された訳ではない。一時的に時を止められただけ。ただし、その状態では失職はやむを得ない。地位を笠に着た果ての自業自得。僕にはそうとしか思えなかった。

 あの事件の丸一日後、殿下もしくはカイルは王宮に戻ったらしい。秘書官クリスタ・フルドフォークを正室とし、それをもって妃の選定を終了する。そのように宣言し、殿下もしくはカイルは姿を消したとのことだった。

 現在、エルランド殿下がカイルであると知っているのは、僕と歴史学博士、ジランさんとアルさんの四人のみ。僕は伝令役として飛び回り、意見の調整を図った。その結果、殿下が殿下として振る舞い続けるのであれば、黙認してそれに同調すると決まった。

 現在、第二の黙示録の内容を知っているのは、僕と歴史学博士の二人のみ。おそらく生命学博士も知っているのだろうが、現状では確かめるすべが無かった。事件の後始末の際、生命学専攻の中に第二の黙示録に関することを口にした者はいなかった。第二の黙示録が高等学院の地下に秘匿されたのは約四千年前。かなり古い時代のことでもあり、僕たち以外にその存在や内容を知る者がいる可能性は低いと思われた。

 第二の黙示録の内容は衝撃的かつ異様だった。特に白狼の騎士の件。

 どのような基準をもって法を悪法と見なすのか、その問題は極めて難しい。しかし長年にわたる歴史研究によれば、白狼の騎士がエスタスラヴァに持ち込んだ知恵や倫理はフレクラントに由来するもの。当時もエスタスラヴァとフレクラントは隔絶していた訳ではなく、当然エスタスラヴァでも以前からある程度は知られていた。それを豪家の者たちが私利私欲のために抑圧していたのは紛れもない事実。その抑圧を取り除き、国全体を繁栄に導いたのが白狼の騎士。

 白狼の騎士にも私心があったのだとしても、実際上その私心が害となった例は見当たらず、やはり総体としては稀代の英雄、正義の騎士。それが歴史学博士の見解であり、僕もそれに賛同した。

 第二の黙示録には四回目の生までしか記されていなかった。もし約二千五百年おきに転生と覚醒を繰り返しているのなら、五回目もあり、現在は六回目ということになる。つまり、第三の黙示録も存在しているのかも知れない。しかし到底、探そうという気にはなれなかった。

 ただし、五回目の内容は容易に想像がついた。それは六回目が続いていることからも明らか。上手く行かなかったのだ。例えば、カイルは王家に転生できなかったのかも知れない。例えば、エステルは貴族家に転生しなかったのかも知れない。例えば、婚姻が許されないほどに血の重複度が高かったのかも知れない。

 僕はカイルの妄執を理解した。カイルとエステルと大勢の子供たち。大きな家族と共に過ごす平穏な日々。神話時代の有り触れた願い。それが妄執の核なのだ。しかしかつて、エベルスクラントの大老はカイルに言った。何と哀れな孤独な魂。良きえにし。後々の世にて巡り合わんことを。カイルの目は節穴なのだろうか。まさに今、クリスタさんと子供たちが待っているではないか。

 二つの黙示録を比較してみれば、度重なる転生の影響はあまりにも明白。まだら模様に記憶が欠落し、それを想像で補った結果なのだろう、内容が変わってしまっている。

 例えば、第二の黙示録によれば、第一の黙示録の秘匿場所は旧ルクファリエ。しかし、実際の発見場所はその隣村だった。第一の黙示録によれば、リエトの首を切り落としたのは鉈。一方、第二の黙示録によれば、光裂という現代では未知の魔法となっている。

 また、時代が下るにつれて、エステルへの妄執が濃くなっている。黙示録によれば、リエトに至っては魂の劣化障害が進行し、もはや悪霊の域に達している。理性を保っている内に悟らなければ、カイルもいずれ悪霊に堕ちてしまうに違いない。

 それにしても、エステルの存在感と責任感の薄さには驚くばかり。肉体に連続性が無くとも、魂の連続性から同一人物と見なされる以上、現世にある限り、カイルとの契約からは逃れられない。とわの愛を誓ったがゆえに、とわの罪に問われることになってしまったエステル。カイルの妄執に応える気が無いのなら、せめてそれに代わる何らかの償いをすれば良いものを。


次章予告。ケイは子供たちに祈られる存在となり、流星の魔法使いと呼ばれるようになる。連合国に壊滅の危機が迫っていることを、まだ誰も知らない。

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