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第二章 逃亡の思念法(その二)

 主要作物の収穫が終わって秋が過ぎ、冬第一週がやって来た。これから二週間、十日にわたって断続的に毎年恒例の大普請が行なわれる。各村は水源や水路や道などの点検と補修を行なう。同時に、東南北の三地方は隣接する山岳地帯に点在する避難小屋などの整備、中地方は高原を貫くフレクラント川の整備、西地方は大障壁の整備を担当する。その間、中等学院は閉鎖、各村の初等学院は作業拠点として使用される。

 大普請には原則、四百歳未満、中等学院生以上の全員が参加する。該当者は十日間の作業のいずれかに加われば良いことになっており、今日はルクファリエ村の約七割が参加するとのことだった。そして、僕はアンと共に大障壁の整備を手伝うことになっていた。

 爽やかな朝、と言うよりも、幾分肌寒くなってきた朝。朝食を済ませて大障壁に向かうと、すでにほとんどの人が揃っていた。大障壁組は総勢十六名。男が半数強、女が半数弱。僕とアン以外は全員大人。皆は大障壁の上で他愛のない雑談を続けていた。

 今年の組長は共同浴場の場長さん。僕たちが挨拶をすると、場長さんが尋ねてきた。

「アンの魔法は大丈夫なのか? 途中でへたられたら困るんだが」

「大丈夫です。ちゃんと飛べます」とアンは元気良く答えた。

「威勢がいいな。そうか。飛べるか」と場長さんは笑った。

「はい。飛ぶだけなら、元から飛べます」

 場長さんだけでなく、皆も笑い声を漏らした。引っ繰り返った亀。その悲喜劇は村中に知れ渡っていた。

 程なく最後の一人もやって来て、打ち合わせが始まった。まずは注意点の説明。今日の作業は調査である。地盤のひずみや石材の劣化を見逃すな。問題個所を正確に記録せよ。場長さんは繰り返しそのように強調した。そして班分け。今から大障壁に沿って八人が南へ向かい、八人が北へ向かう。僕とアンは場長さんの班に加わり南へ向かうことになった。

 穏やかな風。頭上には薄い雲。大障壁の西側でも紅葉が終盤を迎えていた。そんな中をのんびり飛び続けること約十分。向こうの方から隣村の人たちがやって来た。簡単に挨拶を交わして、受け持ち区間の確認。そして、いよいよ作業が始まった。

 大人二人が大障壁の上を、大人二人と僕が大障壁の西側の原野を、大人二人とアンが大障壁の東側を、浮揚と徒歩で北へ向かいながら調査する。北からこちらへ向かってくる班と出くわした所で本日の作業は終了。問題が無ければ昼頃には終わるはずとのことだった。

 小一時間が経った頃だった。少し離れた木々の間を、一頭の白狼が付かず離れず付いてきているのが目に留まった。しかし、僕は記録係として作業中。白狼を無視した。

 しばらくした頃、共同浴場の場長さんが「おい」と僕に声を掛けてきた。

「さっきから、気になって仕方が無いんだが」

 僕が「はい」と答えて白狼の方に向かうと、背後で場長さんが「休憩」と声を上げた。

 白狼は逃げ出すこともなく、尻尾を振りながらその場で僕を待っていた。僕は「黙れ」と命じ、こんなこともあるだろうと、あらかじめ用意しておいた砂糖の粒を背嚢から取り出した。「食え」と命じると、白狼はがつがつと食べて最後に僕の手を舐め、満足げな唸り声を漏らした。

 この白狼は僕を絶対的な上位者と認識しており、わずかながらも僕の言葉を理解する。僕の発する「食え」の言葉は白狼にとっても「食え」。「黙れ」は「大人しくしろ」。「怪我」は「怪我を治してやる」。この白狼は一部を曲解しながらもそのように理解している。僕は「怪我」と命じた。

 僕は白狼の体を確かめて回りながら、「お前、随分大きくなったな」と声を掛けた。

 いや。大きくなったと言うよりも、逞しくなったと言う方が適切かも。初めて会った時、この白狼は額から目に掛けて傷を負っていた。そんなことを思い出した時、白狼がわずかに身じろいで低く唸った。見ると、少し離れた所から皆が興味津々な様子でこちらを眺めていた。僕は「黙れ」と命じて、白狼の脇に立った。

「ケイ」とアンが声を掛けてきた。「大丈夫? 怖くない?」

「怖くはない」

「そっちに行ってもいい?」

「全員で来たら、逃げるかも知れない」

「私だけ」

 僕は頷いて白狼の首筋を撫で、「黙れ」と再度命じた。

 アンは白狼の前に立つと、恐る恐る手を伸ばして頭を撫でた。白狼は首を振り、その手を払い除けた。すると、アンは嬉しそうに笑い声を上げ、体のあちらこちらを撫で始めた。

 遂に、白狼が身を震わせて飛び退いた。僕は「行け」と命じた。白狼が駆け去る先には数頭の狼。白狼は群れに戻っていった。

「あんな群れになって……。でもまあ、自然強化魔術を使えないのなら、害獣除けにはちょうどいいか」

 背後から共同浴場の場長さんのそんな声が聞こえてきた。見ると、皆が僕のそばにやって来ていた。

「去年にはすでに群れを作っていました。多分、あの白狼が群れの最上位です」

「あんなに大人しいのなら、なぜ皆は恐れるのだろう」

 誰の声。そう思って確かめてみると、皆の後ろに人影が一つ。僕は目を剥いた。

「おう」と場長さんは僕に言った。「この人は旅行中だと。もう三週間近く、一人でフレクラントを回っているらしい」

「今日は大障壁の大普請と聞き、せっかくだからと来てみたところ、たまたま皆さんを見掛けたもので」

 僕は呆れた。この人はこんな所で何をしているのだ。エスタコリン王国の前国王、アルヴィン・ブロージュス陛下。隠居は謹慎ではない。それは分かってはいるけれど。

 どのように声を掛けようかと迷っていると、陛下は「私のことはアルと呼んでもらいたい」と言った。その瞬間、皆の間から笑いが漏れ、場長さんが陛下に話し掛けた。

「見たところ、あんたはエスタスラヴァ……、エスタコリンから来たんだろう。その話し方は貴族だな。でもフレクラントでは、そういう話し方はしない方がいいぞ。ここでは貴族も平民もないし、多分ここにいる八人の内、四人はあんたよりもはるかに年上だ」

「これは失礼しました」と陛下は会釈した。「私もあちらこちらを回る内に気付きました。フレクラントの方々の三分の二以上は私よりも年長であると」

「おう」と場長さんは笑った。「あんたはそういう歳か」

「はい」と陛下も笑みを浮かべた。「ところで狼のことですが」

「ケイ。説明してやれ」

 僕は少し戸惑いながらも頷いた。

「狼は集団で暮らす獣ですから、人間のものとは違うんですけど、狼なりの秩序があるんです。その秩序の中で、人間は絶対的な強者と認識されているようです。また、狼は人を選んで懐くこともあります」

「エスタコリンでは代々、犬が飼われているが、根本は一緒なのだな。それならなぜ、皆は狼を恐れるのだろう」

「犬は雑食ですけど、狼は基本的には肉食で自分よりも弱い動物を襲って食べます。そして、やはり獣と言うか、食べ方が凄まじい」

 陛下はホウと声を漏らした。

「ガブリ。バキッ。ベリベリ。ガツガツ。ムシャムシャ」

 陛下は顔をしかめながらフフンと鼻で笑った。

「お前、実際に近くで見たことがあるのか?」と周囲から声が上がった。

「はい。よほどの理由が無い限り、狼は人間を襲わないようですけど、襲われたらそんな風になるという連想が働くんでしょうね。僕に言わせれば、犬よりも狼の方が知能は高いんですけど」

「だとすると」と陛下は首を傾げた。「狼を捕まえて、三級屈辱刑を受けた者がいると聞いたのだが……」

 こんな所でその話を持ち出さないでほしい。特にここはあの騒動の現場なのだから。そう思って僕が見詰めると、陛下は鼻で笑った。

「旅の途中で、そんなことになった者がいると聞いてな。君なのだろう?」

 白々しい。そう思った瞬間、陛下は大人たちの顔を見回した。

「刑が重すぎやしないか。大人たちは何を考えているのだ。しかも見たところ、今やあの狼たちは大障壁の番人の役割を果たしている。状況をそこまで導いたのなら、逆に称賛されてもおかしくないと思うのだが」

 その言葉に、僕は意外感を覚え、皆はわずかにたじろいだ。

「い、いや」と場長さんが狼狽交じりに口を挟んだ。「こいつは狼に跨って、高笑いをしながら空を飛び回ったんだ。その声が遠くの村にまで響いて……。あの日は皆仕事を放り出して、何事かと駆け付けて、とんでもない騒ぎになって……。俺たちも三級は重すぎると言ったんだ。でも、正式に決まってしまった後でな」

「なるほど」と陛下は数度小さく頷いた。「概要だけでは良く分からぬが、根拠は無きにしも非ずなのか」

 陛下があっさりと認めてしまって、僕は少しがっかりした。

「おい。ケイ」と場長さんが声を掛けてきた。「その怖い目付きはやめろ」

 僕は我に返った。

「さて。そろそろ作業に戻るぞ」

 さらに小一時間が経った頃、僕たちのそばに西地方政庁の職員が舞い降りた。ここまでの所は異常なし。そのように伝えると、職員は「南の方、一か所で問題あり」と言った。後日、岩の切り出しと交換を行なうことになる。他村の担当範囲ではあるが、皆さんにも手伝いを。その知らせに皆は落胆した。

 昼過ぎには北から南へ向かってきた班と合流し、僕たちの調査は終了した。受け持ち区間に異常は無し。あとは明日以降、岩の微かな隙間に生えた草を丹念に焼き払うのみ。その結果に安堵し、僕たちは大障壁の上で各自持参した弁当を広げた。

 結局、陛下はずっと僕たちに付いてきた。もしやと思って目を遣ると、どこで調達したのか、陛下の手にも水筒と弁当。陛下は申し訳なさそうに僕に目を向けると、「弁当の硬化魔法を解いてくれぬか」と言った。

 食事中の第一の話題は陛下の素性。陛下とアンにも面識は無いらしく、アンは呑気に「アルさん」と陛下を呼んでいた。一方の陛下はのらりくらり。「隠居の身なので」などと自身の素性を隠していた。

 第二の話題はエスタコリン王国の現況。しかし、陛下がもたらした情報は噂話としてすでに伝わってきているものと大差なく、皆はすぐに興味を失ってしまった。

 第三の話題は陛下のフレクラント国に対する感想。色々な所でエスタコリン製品やスルイソラ製品を見掛ける。これまで目にしたことのない物もある。高空高速飛翔がこれほどまでに交易と物流に寄与するとは。陛下はそんな風に何度も感嘆を繰り返した。

 話題が尽きると、皆の中から「場長」と声が上がった。

「この前、そろそろ場長の仕事にも飽きてきたと言っていたが、どうするんだ」

「さあ」と場長さんは首を傾げた。「まだ決めていないが、どうするかな……。妻とも相談しないといけないし……」

「その話、ぜひともお聞きしたい」と陛下が声を上げた。「フレクラントでは人生五百年。皆さんはどう生きておられるのだろう」

「石の上にも三十年と言うが……」

 場長さんは陛下に目を遣りながらそう言うと、おもむろに経歴を語り始めた。

 場長さんは六、七十年おきに仕事を変えてきた。最初は農耕組合に所属して農業。次は村政庁の職員。そのまま村の副統領も務めた。その後は行商人。フレクラント国とスルイソラ連合国を行き来して、それぞれの特産品を相手方へ持って行って良い値で売る。それと同時に旅行業。スルイソラ連合国の人をフレクラント国に連れてきて案内する。そして今は共同浴場の場長。それらの間に高等学院で勉強したり、無人の大地を冒険したり。

「何と」と陛下が声を上げた。「無人の大地を冒険。一体、どこまで行かれたのだろう。この世界は一体どうなっているのだろう」

「あんたも聞いたことはあるだろう。この大地は広い。この大地は東西よりも南北に広い。そして多分、四方を海で囲まれている」

「多分とは」

「過去の文献にそれらしきことが書いてあるが、俺は全部を見て回った訳ではないという意味だ。俺が行ったのは、西へ五回ぐらい、北へ数回、南へ数回。東海と西海はこの目で見たが、北海と南海は見ていない」

「フレクラントやエスタコリンやスルイソラ以外に人は」

「俺が見た限りではいない。原野と森林だ。思わぬ所に人の痕跡があったりするが」

「何と」と陛下は驚いた。

「いや。いつの誰のものかは分からない。そもそも、俺だって痕跡を残している訳だし」

「元々、人ははるか南の大廃墟の辺りに住んでいた。その後、北に隣接するスルイソラ大平原を切り開き、北上してエスタコリン平野を切り開き、西の山に入ってフレクラント高原を切り開き、そこから北のエベルスクラントに到達した。私はそう教えられたが」

「俺もそう教えられた。確かに南の大廃墟は圧倒的に古くて大きいからな。それに人口も土地の開拓具合もその順番で小さくなっていくし」

「ちなみに、海の向こうはどうなっているのだろう」

「分からない。大昔から、水平線の先は魔物の巣窟と言われている。だから、漁師も水平線の向こうへは行かない。現に陸には自然強化魔術を使うような獣もいるんだから、海の沖に予想外の何かがいても全然不思議ではない」

「歴史上、人々が海の先を目指したことは全くないのだろうか」

「あんたも好きだな」と場長さんは鼻で笑った。「それなら、フレクラントなんかを回っていないで、少しは自分で行ってみたらどうだ」

「いや、いや。私にとっては、この辺りでも秘境中の秘境」

 陛下のそのいかにも真剣ぶった冗談に、皆はアハハと声を上げて笑った。

「海の向こうがどうなっているのかは文献にも無いし、俺にも想像が付かない。海の上では、自然精気の密度が極端に低い。好い気になって飛び続けて、余剰精気が尽きて海に墜落。それが怖くて、海の先には誰も行かない。ただし、陸と海の全てを合わせた世界全体の広さは大体分かっている」

「それは私も聞いたことがあるが……」

「世界は球形で、高空高速飛翔をおおよそ四百時間続ければ一周できる」

「誰か成し遂げた者がいるのだろうか」

「違う」と場長さんは失笑した。「地平線までの距離が分かっているのだから、計算すればそういう結論になる」

「計算か……。言われてみれば、確かに昔そんな風に教えられた気もする……。しかしそれは、世界が完全なる球形であると仮定した上でのこと」

「完全かどうかはともかく球形は仮定ではない。お前さんもまあまあ飛べるようじゃないか。空高く昇ってぐるりと四方を見渡せばすぐに分かる」

 陛下は腕組みをして首を傾げ、ウーンと唸った。

「皆さんの中で、場長殿以外にも冒険に出たことのある方はおられるのだろうか」

 数人が頷き、その中の一人が苦笑を浮かべながらフフンと鼻を鳴らした。

「私も西へ行ってみたことがあるけれど、特に面白くはなかった。ガサガサって音がするたびに、熊かと思ってビクッとして。一度疑心暗鬼になったら、もう駄目」

「しかし、強力な魔法を使えるのなら……」

「こちらが相手に気付かなければ、いくら魔法があっても役に立たないでしょう」

 陛下は溜め息をつくと、「確かに」と頷いた。

「それにしても、世界は広いのですな……」

 陛下がそう呟いた時、西地方政庁の職員が再び舞い降りてきた。場長さんが「全範囲問題なし」と告げると、職員は「南の補修の手伝いをよろしく。詳細は後日」と言い残して去っていった。それをもって本日の作業は終了。昼食も終え、そこで解散となった。

 皆もアンも帰っていく中、僕は陛下に引き留められて大障壁に残っていた。皆の姿が遠ざかると、陛下は大障壁の上に座り込み、西の森林を眺め始めた。

「もうすぐ、あれらの色付いた木の葉も散ってしまうのだろうか」

 僕も隣に腰を下ろして「はい」と肯定し、ふと思い出した。今度はぜひとも高原の紅葉を見なければ。クリスタさんはそう言った。しかし、色々と都合があるのだろう。それ以降、特に音沙汰も無く、森が赤と黄に染まる季節は終わりを迎えようとしていた。

「フレクラントにはこれで何度目ですか」

「さあ」と陛下は首を傾げた。「それほど多くはない。全ては公務であり、交渉や視察だ。大障壁も遠目に見たことはあるが、ここまで来たのはこれが初めて。誰も儂の正体には気付かなかったようだな」

「貴族の御隠居で、一人旅の途中。そこまでのようですね」

「この三週間、儂は色々な所を回ってみた。リゼット様の所にも泊めていただいた。リゼット様には、やりたいことをやれば良いと言われた。ところが、自分でも何をしたいのか分からない。とうの昔に忘れてしまった。そう申し上げたら一言、探せと言われた」

 僕には「はい」と相槌を打つことしか出来なかった。

「作業に加わっていたあの女児はヴェストビーク家のアンソフィーであろう」

 僕は思わずエッと声を漏らし、陛下に目を遣った。

「アンソフィーをフレクラントに留学させたとの話は聞いておる。リゼット様の所にはいなかった。他に伝手があるとしたら、まずはサジスフォレ卿。そして、フレクラントの中等学院の一年生にしては魔法が雑だ」

 さすが、一国の王を務めてきただけのことはある。僕はそう感嘆し、正直に「その通りです」と認めた。

「でも、そのことは内緒でお願いします。素性がばれると、日常生活に支障が……」

「分かっておる。儂と同じだ。儂もただの旅人の方が気楽だし安心だ」

 その言葉に僕は安堵した。

「それにしても、アンソフィーはまだまだ幼い。いや。むしろそなたが大人びているのか」

「良く分かりませんけど……」

「エルランドの妃候補……。いや。いずれアンソフィーも大人になるか……」

 僕は言葉に詰まった。アンのいる日常に慣れてしまい、その件は頭の隅に追いやられてしまっていた。

「そなたはエルランドのことをどう思う」

 他人の悪口を言うな。宰相のその言葉が脳裏に浮かんだ。僕はウーンと首を傾げるにとどめた。

「エルランドを言い負かせるのは高等学院の博士たちぐらいかと思っていたら、そなたも言い負かしたそうではないか」

 何のことだろうと思った。心当たりがあるとすれば、数学に関する議論。

「そして、そなたはエルランドのことを頭がおかしいと決め付けた」

 確かにあの時、僕は面倒臭くなってそう言い返した。

「済みません」と僕は謝った。

「そうではない」と陛下は笑った。「エルランドは大層喜んでおったぞ。ただし……、確かに儂にもエルランドの考えが分からなくなる時がある」

 いや、と僕は心の中で否定した。初対面の時、殿下の文脈は支離滅裂に近いと僕は感じた。でも今なら分かる。殿下のほぼ全ての言葉にはきちんと背景がある。唯一の例外は人の存在理由。殿下はなぜ、そんな抽象的なことにあんなにこだわったのだろう。

「殿下に何かあったんですか?」

「あやつ、側室を迎えおった。まだまだ混乱が続いておるし、そもそも、なぜ側室からなのだ。まずは正室であろう」

「殿下の言い分は」

「このような時だからこそ、常にかたわらにいて力を貸してくれる者が欲しいと。昼は付き人であり腹心。夜は安心して寝所を共に出来る者」

 寝所を共に。その言葉にドキッとした。体の芯が熱くなった。産ませて産ませて産ませ尽くす。エルランド殿下の言葉遣いはとことん悪趣味。僕は溜め息をついて動揺を抑えた。

「殿下は相手の女性を相当信頼しているんですね。相手はどなた……」

「クリスタ・フルドフォーク。アンソフィーの教育係を務めておった。クリスタもそなたのことを非常に高く買っておる」

 愕然とした。衝撃的な激変。あのクリスタさんが子供を産み尽くす役に選ばれた。

「才媛との評判はかねてより聞いておったが、儂には良く分からんのだ。その才を見込まれて、クリスタには各家から多くの縁談が持ち込まれていたと聞く。結婚をして子を生して血筋を繋ぐ。それも貴族の特権を享受してきた者が負うべき責務の一つ。だが、クリスタは縁談を頑なに受け付けようとしなかったらしい」

 僕は溜め息をついた。陛下もクリスタさんもエルランド殿下も、貴族の人たちは皆同じことを言う。そして、クリスタさんには縁談が殺到。僕の洞察は浅かった。

「そなたはどう思う」

 秋の初め、クリスタさんは私個人からのお礼と言って果醤を一瓶置いていった。今度クリスタさんが来たら皆で食べようと、家の食品置き場に大切に保管してあるのに。

「この話はそなたでも難しいか」

 クリスタさんは貴族社会の外に出て自由になりたいと言っていた。特に側室という立場を貴族社会の象徴のように嫌う様子を見せていた。しかし、そうなってしまった以上、僕が安易に現状を壊して良いとは思えない。最善。次善。ここは言葉を選ばなくては。

「クリスタさんは地位やお金ではなく生き甲斐を重視する人です。それから、クリスタさんは人の表と裏を理解できる人です。ですから、付き人には適任だと思います。殿下もそれを理解していて、そういう人を逃したくないから、とにかく急いでそばに置こうとしたのではないでしょうか。ただし僕としては、妻にするのなら正室にしてあげて欲しいんですけど」

「側室を正室に……」

「無理なんですか?」

「無理ということはないが……」

「クリスタさんにはその価値があると思います」

 陛下はウーンと唸った。

「せめて正室と同様の扱いを」

「クリスタは、そなたにはそういうことを言ったのか?」

 こここそ言葉を選ぶ所。

「いいえ。本来、側室は子供を産むことが仕事の侍女なんですよね。晩餐会を開く時、子供は王族として席に着き、母親は侍女として部屋の隅に控える。そんなことがあっていいんですか。それで子供がまともに育つんですか。僕には到底理解できません」

「帝王学というものを知っておるか」

 大障壁の上を冷たい風が吹き抜けた。陛下は鋭い眼差しで僕を見詰めていた。

「ここはフレクラントですから」

 僕の返答に、陛下は笑みをこぼして鼻で笑った。

「まあ良い。儂らとて無体なことはせん。そなたの言葉は覚えておこう。ただし、そなたも覚えておくが良い。帝王学とは私心を排して世に尽くす道。孫と玄孫は尊属たる儂を退け、世のあり方を正してみせた。さらに言えば、この世には、実子、実母、養子、養母、その他諸々の言葉や制度が存在する。親と子のあり方は一つではないのだ。それはフレクラントとて同じであろう」

 陛下はそう言うと、皮肉めいた表情を浮かべた。

「醜態をさらした儂が偉そうに言うことではないな。そろそろ行くか」

 陛下が腰を上げた。僕もそれに続いた。

「間貸屋を紹介してほしいのだが、どこか良い所を知らぬか」

 アッと思った。クリスタさんの二の舞。

「フレクラントの西地方には宿屋が無くて……」

「知っておる。西地方に入ってからは間貸屋で一間を借りて泊まっておる」

「西地方もここまで来ると、間貸屋も無いんです」

「何と……」と陛下は脱力する様子を見せた。

「あのう……」と僕は仕方なく切り出した。「家に来て、父に会っていってください」

「済まぬ」

 陛下は僕に向かって頭を下げた。

 

◇◇◇◇◇

 

 エスタコリン王国の前国王、アルさんはルクファリエ村に滞在し続けていた。一泊目は僕の家、二泊目は共同浴場の場長さんの家、三泊目は父の跡を継いだ新統領の家、昨夜は再び僕の家。その間、アルさんはルクファリエ村の大普請に参加し続けていた。

 アルさんの素性を正確に知る者は未だ僕と父の二人にとどまっていた。とは言え、アルさんが道の補修でエスタコリン流土木工事の豆知識を披露し指導力を発揮したことで、一部の者はアルさんの正体に勘付いてしまった様子だった。

 僕はアルさんがこんな所にまで来たこと自体に驚いたが、父はアルさんが供を連れずに一人旅を続けていることに驚きを表わした。そんな父に対し、アルさんは「ぞろぞろと供を連れ歩いた方がよほど目立って問題になる」と笑った。

 大障壁の大普請も順調に進んでいた。二日目は雑草の除去。三日目は修復。大障壁を問題個所だけ分解する。交換すべき岩の寸法を測り、石切り場で岩を切り出し、問題個所に運搬する。岩を精密に加工し、大障壁を組み上げ、それをもって本年の作業は終了。その間、僕とアンはひたすら見学。子供たちは手順を覚えろとの指示を受けてのことだった。

 そして今は五日目の午前、僕とアルさんとアンは三人並んで居間の床に座り、母の前でかしこまっていた。

「アン」と母は言った。「私は別の学院に勤めていますから、あなたの現状を正確には知りません。そこで今から口頭試問を行ないます。まず、魔法を分類しなさい」

「はい」とアンは答えた。「フレクラントでは魔法は三種に分類されています」

 基本系魔法とは魔法力をそそぎ続ける魔法。例えば、飛翔魔法、浮揚魔法、治癒魔法、温熱魔法、冷却魔法、光球魔法、火球魔法。

 瞬発系魔法とは魔法力を一気にそそぎ込んで一瞬で発動させる魔法。例えば、光爆魔法、炎爆魔法、空爆魔法。

 自己組織化系魔法とは、最初に一回だけ魔法力をそそぎ込めば、あとは自動的にその効果が維持される魔法。例えば、硬化魔法。

「アン。三つの瞬発系魔法の性質と使い道は」

「光爆は光の爆発。吹き飛ばす力はありません。合図や目くらましに使います。炎爆は炎の爆発。吹き飛ばす力があります。身を守るために使います。空爆は空気の爆発と言うか勢いの爆発と言うか、とにかく吹き飛ばします。合図や土木工事に使います。身を守るためにも使えます」

「よろしい。それで、あなたはどこまで出来るようになったのですか」

「基本系魔法はかなり制御できるようになりました。瞬発系魔法は光爆だけで、自己組織化系魔法はまだ……」

「いくつの魔法を同時に発動できるようになりましたか」

「同時発動はまだあまり……。二つになると乱れてしまって……」

 母は僕に目を向けてきた。アンの言葉の真偽を訊いているのだろう。僕は無言で頷いた。

「アルさん。あなたはどうですか」

「恥ずかしながら、私は基礎的な基本系魔法のみ。発動も一つ。力も皆さんよりも弱いのだが、安定性は皆さんと同等。これは間違いの無い所」

「いいでしょう」と母は頷いた。「ケイはどうです」

 何を偉そうに。そう思いながら、僕は「三つ」と答えた。

「具体的には」

「例えば、自分が飛んで、物も飛ばして、あと何か一つとか」

「瞬発系魔法はきちんと使えるようになったの?」

 僕は無言をもって答えた。

「いいでしょう。中等学院の先生に会ったら、もっと練習させるよう言っておきます」

「余計なことはしないでほしい。力を込めて一気に撃つから、どうしても発現位置がわずかにずれてしまう。それだけだから」

「マノン殿」とアルさんが割り込んできた。「一つお聞きしたい。自己組織化系とは一体どのような……」

 母はアンに目を向けた。

「復習です。説明しなさい」

「はい」とアンは頷いた。

 魔法力は精気を転換したもの。魔法力と精気には類似性がある。生命学の重要な結論の一つに「魂とは自己組織化した精気である」というものがある。自己組織化系魔法はその応用。ただし、肉体という器に収まった魂とは異なり、この種の魔法の効果は時間の経過とともに薄れてゆき、最後には消えてしまう。また、途中で意図的に解除することも可能。

 アンが簡潔に説明を終えると、母は「と言うことです」とアルさんに目を向けた。

「硬化魔法以外にも自己組織化系魔法はあるのだろうか」

「大昔には自己組織化系魔法は強制魔法と呼ばれていて、他にも色々なものが知られていたようですが、現在はありません。実用性や倫理面に問題があったと伝えられています」

「例えば、浮揚魔法を自己組織化系魔法にしたら便利だと思うのだが」

「物が宙に浮かんで勝手にふらふらされたら危ないですし、漂ってどこかへ行ってしまったら困りますね」

「例えば、空飛ぶ船を作る」

「残念」と母は笑みをこぼした。「そういうことを考えたのはアルさんが初めてではありません。乗り物への自己組織化系魔法と言えば筏への硬化魔法がありますが、それがせいぜいです。本格的な大きさの船に自己組織化系魔法を掛けるには相当な技量と力量が必要になります。逆に小舟に乗るぐらいなら、自分の身だけで飛んだ方がよほど便利です」

「なるほど」とアルさんは頷いた。「ならば、飛翔魔法を自己組織化するのは」

「自動的で単調な飛翔では障害物の回避も乱流への対処も出来ません」

 母は僕たちの顔を見回すと、「それでは」と言った。

「ここからが本題です。他の魔法使いの体内に向けて空爆を放ったら何が起こるでしょう」

「マノン殿」とアルさんが声を上げた。「他者の体内に向けて破壊性のある魔法を放つのは禁忌。そんなことをしたら、相手は死んでしまう」

 母が「アンはどう思いますか」と尋ねると、アンも激しく首を振った。

「ケイ。正解は」

「何も起きない」

「何と」とアルさんが声を上げた。「それでは、禁忌とは一体……」

「ケイ。説明を」

 何かを考え込む振りをして黙っていると、母が説明を始めた。

 空気の呼吸と同様、熟練した魔法使いは自然精気の吸入や余剰精気の排出を無意識の内に行なえる。また、魔法を発動する際、魔法使いの体内では余剰精気が魔法力に転換されている。熟練した魔法使いはその転換に慣れている。

 熟練した魔法使いの体内に外部から魔法力がそそぎ込まれると、その力は精気に逆転換されてしまったり、当該魔法使いによる魔法の発動に巻き込まれてしまったりする。

「もちろん、これは魔法使いの力量にもよる話です。私は『魔法使いの体内に』と言いましたが、アルさんは『他者の体内に』と言いました。そこが違います。魔法使い以外の人にそんなことをしたら、その人はもちろん死んでしまいます。だから、禁忌は禁忌」

「なるほど」とアルさんは溜め息をついた。「私は禁忌とだけ教えられて、そこまで考えたことはなかった……。とすると逆に、硬化魔法はなぜ他の魔法使いに掛かるのだろう」

「魔法が単純に具現化するのではなく自律秩序形成を始めるので、自己組織化系魔法を拒むのは中々難しいのです。そして、ひとたび全身に掛かってしまったら意識を失ってしまいますから、もはや自力では解除できません。もちろん、全ては力量次第です」

 アルさんは感心したようにフームと鼻を鳴らした。

「アルさん」と母は笑みをこぼした。「ここからが重要です。アンも良く聞きなさい。相手の体内で魔法を発動させるには、相手がそれを受け入れる態勢にないと駄目なのです」

 アルさんとアンが頷いた。

「超高空まで昇ると空気が薄くなり、息が苦しくなって気分が悪くなります。鼓膜が破れたりすることもあります。しかし、当人が必死に飛翔を続けている以上、周囲の者が治癒魔法で治そうとしても治せないことが多いのです」

 アルさんとアンが同時にアアと納得の声を漏らした。

「超高空で何かが起きたら、その場では余計なことをせず、とにかく降下すること。何なら、敢えて墜落して余剰精気を節約しなさい。超高空からならそれが可能です。そして、地表が迫ってきたら冷静に再び飛翔。いいですね」

 アンが「はい」と答え、アルさんも神妙に頷いた。

「天気は明日の方が良さそうですから、今日は準備に充てなさい。特に防寒。明日、私とクレールには仕事がありますから付いていけませんが、ケイは経験者ですし、三人でも大丈夫でしょう」

 僕たちは頷いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 空は晴れ渡り、空気は澄んでいた。これなら遠くまで見渡せる。ただし、今日は冬第二週。上空はかなり寒いに違いない。家の玄関先でそんなことを考えていると、アルさんが声を掛けてきた。

「ちょっと私の装備を確かめてくれぬか」

 僕もアルさんもアンも上下ともに防寒着。羽毛を織り込んだ服で首元から手首足首までを覆っていた。さらにその上から、全身を固定する留め具。アルさんはしきりに留め具の具合を確かめていた。

 この手順、僕は中等学院の授業で経験していた。僕は二人の留め具を確認し、留め具に綱を通して僕たち三人の体を繋いだ。

 最後に僕たちは水筒などを入れた背嚢を背負い、さらに僕は鉈を納めた鞘を腰に帯びた。

「いいですか。もう一度、手順を確認します」

 アルさんとアンが頷いた。

「これから逆三角形の隊形で上昇します。僕とアンが上、アルさんが下です。僕とアンは横に並んで手を繋いで飛翔魔法をきちんと発動、アルさんは浮揚程度で構いません。飛翔中に用件が出来た場合は、アルさんは綱をクイッ、クイッと引いて合図してください」

 アルさんは「了解した」と答え、アンは頷いた。

「周囲の山の高さ程度までは普通に上昇します。それを越えたら、そこからはゆっくり行きます。最終目標は山の高さの四倍程度」

 アルさんは「よし」と、アンは「うん」と答えた。

「寒くなったら、飛翔を中断して温熱魔法で暖を取ってください。その際は合図を忘れないように。僕が飛翔を支えます」

 アルさんとアンは無言で頷いた。

「超高空の風を浴びるのを避けるため、上昇中は敢えて風に乗ります。そのため、超高空を味わった頃にはどこかへ飛ばされているはずです。そこからは、まずは降下して着地。そして低空低速飛翔で帰る」

「ケイは春に中等学院で経験しておるのだろう。その時もこんな風に」

「一年生全員と先生三人。全員をこうやって綱で繋いで」

「どこまで飛ばされた」

「北に一山越えた高等学院の辺りまで」

 アルさんはフーンと鼻を鳴らした。

 僕たちは目の部分を除いて頭から首までを布で覆い、僕がそれに硬化魔法を掛け、全員が手袋をはめて、いよいよ準備は整った。

「それでは、行きましょう」

 僕たちは上昇を開始した。

 低空帯から中空帯へ。周囲を見回すと、あちらこちらに飛翔する人の姿があった。そして中空帯から高空帯へ。僕は念のために光球を放ち、僕たちの周りをぐるぐると旋回させた。

 何の濁りも感じさせない透き通った空気。今日は遠くまでが見通せた。東の山々、北の山々、西の山々、そして南の山々。全てが眼下の景色となった。僕は光球を消し、アルさんに僕たちの所まで上がってくるよう合図した。

「いよいよ行きます。具合が悪くなったらすぐに合図して」

 アルさんとアンが頷いた。

 逆三角形の隊形を維持しながら、ゆっくりと錐揉み状に上昇。東の山の向こうにエスタコリン平野が見えた。北の山の向こうに山並みが見えた。西の山の向こうにも山並み。南の山の向こうにも山並み。さらに錐揉み上昇。遠方の眼下にはわずかに雲。東の先に東海が見えた。北の先に大森林が見えた。西の先にも森林。南の先にはスルイソラ大平原。

 さらに上昇を続けながらしばらくした頃、アンが僕の手を弱々しくクイッと引いた。

「気分が悪い……。耳が痛い……」

 アンの息遣いはかなり荒くなっていた。上昇をやめると、アルさんがゆっくりと上がってきた。

「調子は」と僕は怒鳴った。

「儂も歳か……。もういい……」

「それじゃ、もう一回だけ周りを見回して、降下のための墜落」

 ゆっくりとぐるりと一周。そして、僕は「墜落」と怒鳴った。風を切って、みるみる地表が迫ってきた。四方の山の頂が頭上に抜けたのを見計らい、僕は三人の体に浮揚魔法を掛けた。

 僕たちが着地したのは丘陵地帯、森林に隣接する小さな草原だった。アンは横たわっていた。アルさんも大の字に寝転がっていた。僕も地面に腰を下ろして深呼吸を繰り返した。程なくして、アルさんが荒い息遣いの中を話し掛けてきた。

「とてつもない景色であった……。やはり世界は広い……」

「はい」と僕は同意した。

「はるかかなたの景色がゆがんで見えた。あれが世界が球形であることの証しか……」

「西海を見ました? わずかに見えていたんですけど」

「気付かなかった……。さすがに、ケイは二度目の余裕か……」

 僕はアンににじり寄って手袋を外し、アンの頭と顔を覆う布の硬化魔法を解いて「大丈夫か」と尋ねた。

「ちょっと休みたい……」

 僕はアンの背嚢から水筒を取り出し、温熱魔法で温めてアンに渡した。

「儂の方も頼む」

 アルさんは起き上がって地面に座り込み、手袋を外して自分で水筒を温めていた。僕が布の硬化魔法を解くと、アルさんはゴクリと飲んでハーッと大きく息を吐いた。

 僕も水筒に口を付け、白湯を半分ほど飲んだ頃、ようやくアンが身を起こした。「具合は」と尋ねると、アンは弱々しく首を振った。

「もう少し休もう」とアルさんが提案してきた。「座り込んでいても大丈夫だろう?」

「そう思いますけど、あまり座り込んでいると、獣に遭遇する可能性が高くなります」

「危険なのか?」

「大丈夫です。ただし、気が付かない内に死角から襲われることだけは避けないと。ですから、アルさんも周囲への警戒を」

「ここはどこなのだろう」

「フレクラント高原の西の端です。ルクファリエまでは中速飛翔で一時間ちょっと」

 周囲を確認するために僕が立ち上がると、アルさんも僕の脇に立った。時折吹き抜ける風に草木が揺れるだけで、周囲に獣の気配は無かった。西に目を遣ると、尾根筋、谷筋、雄大な山。僕は視線を下げ、木々の間に目を留めた。

「ケイ。あそこに横穴があるな。洞窟だろうか。それにしては妙に整った形を……」

「アルさん。熊がいます。気配を消している。こちらを見ている。大きい。小屋ぐらい」

 アルさんは「何?」と驚くと、僕の視線の先に目を凝らした。

「落ち着け。大きいが、小屋は大袈裟だ」

「アン。すぐに飛べるか?」

「アンは無理だ」とアルさんが否定した。「ケイが浮揚魔法を掛ければ……」

「あの熊はまずい。多分、自然強化魔術を使えます。もたもた浮揚していたら、何かされるかも。向かって来たら、拡声と光爆を使います。その時は耳と目に注意」

「追い払うだけか?」

「人の住む地以外では追い払えと言われていて。でも、いざとなったら空爆を使います。その時は伏せて」

「硬化魔法は」

 その問いに、僕はわずかに言葉に詰まった。遠くで俊敏に動かれたら狙いが定まらない。近くに引き寄せる必要がある。これが戦闘時における硬化魔法の欠点。魔法の欠点を無暗に他国の者に明かしてはならないと学院で教えられていた。

「近くに来られたら、アルさんとアンを守り切れません」

「洞窟に逃げ込んで落ち着こう。どう見ても、あの入口はあの熊には狭すぎる」

 どうせ再び空を飛ぶのだからと、体を綱で繋いだままだった。手早く荷物をまとめて、僕は綱を抱え、アルさんはアンに肩を貸した。そんな態勢でゆっくりと洞窟に向かい始めると、邪魔とばかりに熊が前脚を振った。立派な太い木が千切れて薙ぎ倒された。紛れもなく自然強化魔術。熊は僕たちを弱々しい獲物と認識したようだった。

「あいつ、やる気だ。こっちからやる」

 僕は熊に向けてウワッと拡声魔術を放った。熊がよろけた。僕は熊の顔の辺りに光爆魔法を放った。「走れ」と僕は叫んだ。僕たちは何とか洞窟に逃げ込んだ。

 上下左右全て岩。光球の灯りを頼りに、狭い通路のような穴を抜けると、中は意外に広い空間となっていた。さらにその奥には暗闇。洞窟はかなり先まで続いている様子だった。背後では、掻くような音、叩くような音、時々唸り声。すぐ外に熊が陣取っている模様。僕たちはほどほどに進んだ所で地べたに腰を下ろした。

「アン。大丈夫か?」と僕は声を掛けた。

「大丈夫。吐き気は治まったけど、でも、まだ少しふらふらする」

「ゆっくりじっくり自己治癒魔法を」

「うん」とアンは小さな声で答えた。

 アルさんが「安全なようだな」と言った。見ると、アルさんは周囲を見回していた。

「余計な獣は入り込んでいないようだ。ところでケイ。今のそなたには、宰相をやった時のような決然とした所が見られぬ。『いざとなったら』とはいつのことだ。いざの時を正しく判別できるのか。物事の大小にそれぞれ違いはあるにせよ、逡巡して失敗した者を儂は数多く見てきた」

 僕は言葉に詰まった。

「儂が方針を決めるから、そなたは説明をせよ」

「はい」と僕は了承した。

「超高空への上昇は中等学院の恒例行事となっている。マノン殿も儂ら三人で大丈夫と太鼓判を押された。つまり、これは予想外の事態なのだな?」

「はい。フレクラント高原にも西の山にも北の山にも熊がいることは知られています。でも、あそこまで大きくて気の荒い熊の話は聞いたことがありません。どこか遠くから入り込んだとしか思えません」

「つまり、人への恐れを失ったのではなく、そもそも人を知らないのかも知れんな。あの熊はどれぐらい危険だと予想する」

「あの熊は自然強化魔術を使っています。どれぐらいの種類を使えるのかは分かりませんが、あそこまで成長する過程で自然に身に着けたのだと思います」

「対処は可能なのだな? 例えば殺してしまう」

「空爆で殺せます。僕独りで立ち向かうのなら、硬化魔法を掛けて鉈で首を切ることも可能です」

「それはやめておけ。どれぐらいの自然強化魔術を使えるのかは分からないと言う。なのに、鉈で切り殺せると断言する。その判断もそなたの混乱の証拠だ。今は近接戦闘で命のやり取りをするような場面ではない」

 僕は「はい」と答えて深呼吸した。

「殺さずに追い払う理由は」

「一般論ですけど、食物連鎖の頂点に近い獣を無暗に殺していったら自然が長期的に壊れてしまう。空爆や炎爆で無暗に吹き飛ばしたら自然が直接的に壊れてしまう。そして、自然が壊れると、自然精気の密度が低下してしまう」

「殺しても良いとする理由は」

「緊急時の防御。自然への影響が一番少ないのは、その獣だけを殺すこと。例えば鉈で」

「分かった」とアルさんは頷いた。「殺さぬのなら、余計なことはせずにさっさと逃げ出すべきだ。殺すのなら、どのような手段を使ってでもさっさと殺してしまうべきだ。そこで良く考えよ。今は緊急時なのか?」

 僕は腕組みをして俯いた。しかし、それほど考えるまでもなく結論は出た。

「緊急時ではありません。先ほども、アルさんとアンに硬化魔法を掛けて絶対的に防御して、あとは僕独りで気兼ねなくとことん追い払ってしまえば良かったんです。考えが足りませんでした」

「なるほど」とアルさんは頷いた。「落ち着けば、知恵は湧いてくるものだな」

「これからのことですが、まず僕が光爆を撃ちながら一人で外に出ます。その後、熊を適度に遠ざけたら、二人にも出てきてもらいます。その際は一気に上昇してください。あの熊は岩や木をかなりの高さまで弾き飛ばせます。ぴょんぴょんと飛び跳ねるかも知れません。今からアルさんとアンは体調を整えて、自然精気を十分に取り込んでください」

「常識的な案だ。それで行こう」とアルさんは頷いた。

 その頃には、アンも身を起こして座り込んでいた。体調を尋ねると、アンはそれには答えず、周囲を見回した。

 アンは光球を作り出すと、ゆっくりと周囲を巡らせた。洞窟の壁も天井も剥き出しの岩。壁を良く見ると、窪みもしくは小さな横穴が規則的に並んでいた。

「ケイ。ここは何だろう。どう見ても、人の手が入っているよね」

 その瞬間、アルさんがウーンと唸った。

「儂はこういう洞窟を見たことがある。かなり古い形式の……。いや。はっきり言えば、太古の墓地だ」

 僕はウッと呻いて、思わず身を縮こまらせた。

「見たところ、この墓地はからのようだ。多分、いつの時代にか全てを移転したのだろう」

 アンは意外に平然とその言葉に応えた。

「だから、人知れず、ずっと放置されてきたんでしょうか」

「まあ」とアルさんは鼻で笑った。「用済みではあるのだろうな」

「ここには歴史学的な価値があるのでは」

「さあ」とアルさんは首を傾げた。「こういう墓地は他にも見付かっておるからな」

「どこで見付かっているんですか」

「例えば、北のエベルスクラントの遺跡の地下。若い頃、一度だけ見学したことがある」

 アンはヘエと声を上げると、多少ふらつきながらも腰を上げた。

「中を回ってみませんか」

 アルさんも腰を上げた。

「もう少し落ち着いて体調の回復を」と僕は引き留めた。

「ケイは独りで待っていたら?」

 墓地の暗闇の中で僕独り。その光景が脳裏をよぎり、背筋に冷たいものが走った。

 奥行きはかなりのものだった。三人それぞれが光球で辺りを照らしながらゆっくりと歩き回ること、おそらく十分程度。遂に行き止まりとなった。かつて遺体か遺骨が安置されていたと思われる横穴の位置は、どれも腰の高さか目の高さぐらい。そんな中、洞窟の一番奥の足元付近に小さな横穴が開き、その前の地面には横穴をちょうど塞げそうな平らな石が転がっていた。明らかに他とは異なる特徴に、アンは「何だろう」と四つん這いになって覗き込んだ。

「何かある。箱みたいなもの」

 僕とアルさんも覗き込んでみると、確かに平べったい材質不明の箱状の物。

「アルさん」とアンは言った。「取り出してみてもいいでしょうか」

「遺骨とも副葬品とも思えんな」とアルさんは小首を傾げた。「良かろう。浮揚魔法でゆっくりと壊さぬように」

 箱はかなり古いものらしく、埃にまみれていた。三人寄り添って地面に座り、埃を払ってみると、石製の文箱、手紙入れ。

「あっ。開いた」と僕は驚いた。

 中に納まっていたのは十枚程度の硝子の板。硝子板と硝子板の間にはいかにも几帳面に布が挟み込まれ、それぞれの硝子板には、何かがびっしりと書き記された紙が一枚ずつ封じ込められていた。

 アルさんがウームと唸りながら、一番上の硝子板を慎重に手に取った。

「これはどうやって作ったのでしょう」とアンが訊いた。

 アルさんはフームと鼻を鳴らした。

「以前にも似たような物を見たことがある。ケイならばすぐに分かるだろう。硬化魔法だ」

「あっ」と僕は思い当たった。「紙に硬化魔法を掛けて、その後に硝子で覆ったんだ。硬化魔法はそのまま放置。いずれ勝手に消えるから」

「それにしても、これは古い。この書体は伝説級……。いや、神話級かも……」

「何て書いてあるんでしょう」と僕は訊いた。

「ちょっと待て。大抵はつまらぬことだ。他人への恨み辛みであったり、貸し借りの記録であったり……」

「二度目の生における……」とアンが読み解いた。

「そなたは読めるのか?」

「私にはそこまでしか」

「ちょっと待てよ」とアルさんは目を凝らした。「二度目の生における……。私には、これが二度目の生であるとの……がある。つまり、私は一度転生し、そして……した……。これ以上は腰を据えて掛らぬと無理だな」

 その内容に悪寒が走った。どう考えても「見たな?」のたぐい。一方、アンは嬉々として僕に話し掛けてきた。

「持って帰れるよね。ケイは一度に三つの魔法を使えるもんね」

「何だよ。急に元気になって……」

「ケイ。儂もそう思う。これは凄い。残していくには惜しい」

 二人とも歴史や古いものには目が無いのかも知れないが、何と残念で、何と張り合いの無い人たちだろう。墓荒らしに夢中になって、超高空からの絶景のことも、自然強化魔術を使う熊のことも忘れてしまったかのような調子だった。

 中身ごと文箱に硬化魔法を掛けて僕の背嚢に仕舞い込む。背嚢に浮揚魔法を掛けながら僕が背負う。三人を繋いでいた綱はいったん外して、アンの体に巻き付ける。そして、僕たちは洞窟の出入り口付近に立った。

 僕は出入り口を出た辺りに光爆を立て続けに放ち、飛翔しながら洞窟から飛び出した。急いで周囲を見回すと、少し離れた所に熊の姿。「しつこい」と罵りながら、熊にめがけて光爆、光爆、さらに光爆。熊がかなり後退した。「出てきて」と僕が叫んだ次の瞬間、アルさんとアンが現れ、一気に上昇を開始した。

 熊が前脚を振り回して岩を弾き飛ばした。僕はそれを浮揚魔法で受け止め、熊に向かって投げ返した。全く見当違いの所に着弾。しかし、熊は動きを止め、僕は鼻で笑った。

 僕の左にはアルさん、右にはアン。三人で手を繋いで帰投の飛翔を始めると、アンが「早く、早く」と僕を急かした。明らかに熊への危機感ではなく、古文書への期待感。僕は溜め息をついた。

 

◇◇◇◇◇

 

 冬第二週第二日、大普請の七日目。古文書を見付けた翌朝、僕とアルさんとアンは周りを取り囲まれながら、フレクラント国高等学院へ向けて高空高速飛翔を続けていた。何の説明も無く古文書を取り上げられ、全員の体を綱で繋いで飛翔。どう見ても、これは連行だった。

 僕たちを取り囲むのは四人。内三人は高等学院の後期課程を修了し、現在は博士を目指して勉学中の修士と名乗った。そして、最後の一人は僕の母。母にせよ三人の修士にせよ相当な魔法の使い手に違いなく、「とにかく」と母に言い包められて僕たちは従わざるを得なかった。おそらく、古文書を発見した経緯などについて取り調べを受けることになるのだろう。アルさんは出発の直前、僕とアンに向かってそう囁いた。

 眼下には、高等学院と西地方を結ぶ山道。少し離れた東の方には高等学院と北地方を結ぶ山道。僕たちはフレクラント高原の北の限界となる山並みを越えようとしていた。西方のはるかかなたに目を遣ると時折、光爆の閃光。あの熊を追い立てる作業が続いている模様だった。

 北の山並みを越えた瞬間、東西に広がる高原が見えた。とは言っても、フレクラント高原とは比較にならないほどに狭い山間の丘陵地帯。その中心には一つの集落と高等学院。先頭を行く修士は一直線に高等学院を目指し始めた。

 フレクラント国高等学院は、エスタコリン王国高等学院やスルイソラ連合国の二つの高等学院よりもかなり小規模らしい。それでも、僕の目には大きく立派に映った。

 複数の建屋の全ては、フレクラント流の木造建築ではなく、どちらかと言えばエスタコリン流に近い石造建築。伝説時代に建造されたものと言われている。僕たちはそんな建屋の一つ、部屋の一つに連れていかれた。

 資料が積まれた机の向こうに座るのは、しかめ面をした偏屈そうな男性。生命学博士であり生命学専攻の主任と男性は名乗った。

「先生。お久し振りです」と母は神妙に挨拶した。

「マノン・サジスフォレ。久しいな。最後に会ったのはいつだっただろう」

「一昨年の夏の研究講評会です」

 博士はフーンと鼻を鳴らしながら僕たちの方に目を向けてきた。

「そちらの男子がケイ・サジスフォレ。そちらの女子がアン・エペトランシャ。そして、そちらはエスタコリンの貴族のご隠居、アルさんとしか聞いていないが……」

「私のことはそのままアルと呼んでもらいたい」

「その件は後にしよう」と博士は答えた。「今から三人には個別に口頭および筆記の試問を受けてもらう」

「古文書を見付けた経緯などに関してだろうか」とアルさんは尋ねた。

「その通り。それ以外にもいくつか」

「不当な扱いを受けるようなら、私は断る」

「我々がそんな人間に見えるかね?」と博士は皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 僕一人に修士一人。僕は別室に連れていかれ、様々なことを尋ねられた。古文書発見の経緯、場所、発見時の古文書の状態。僕の物の考え方や死生観、転生に対する興味や感じ方。さらには、何枚か絵などを描かされて一時間程度が過ぎた頃、意味不明な試問はようやく終了した。

 その後、修士の人に連れていかれた先は会議室のような広い部屋だった。長い机の一方には母と博士。僕が机を挟んで二人と向き合う席に着くと、修士の人は二人の側に腰を下ろした。程なくアルさんとアンもそれぞれ修士の人と共に現れ、五人対三人で向き合う形となった。

 博士は三人の修士から簡潔に報告を受けると、僕たちに向かって「さて」と言った。

「いや」とアルさんが遮った。「まずは事情を説明してもらいたい。あの古文書を持ち帰ったことが罪になるとは私には到底思えない。また、私たちにあの古文書を秘匿する意思は無かった。だからこそ、話が伝わり、このようなことになったのだ」

「あの古文書を読んだのかね?」と博士は尋ねた。

「手元に辞書が無かったので、詳しいことは分からなかった。しかし、あれは『エステルの二つの約束』に登場するカイルが記した物ではないか?」

「今、歴史学の博士が精査しているが、概要を聞いた限りではどうやらそのように読めるらしい」

「精査が終わったら、あの古文書を返してもらいたい。何も所有を主張するつもりは無い。程なくそちらに引き渡す。我々も読み解いてみたいのだ」

「古文書の話、マノン・サジスフォレとクレール・エペトランシャ以外にしたのだろうか」

 アルさんは「していない」と答えると、母に向き直った。

「マノン殿。説明してもらいたい。マノン殿が高等学院に通報したのであろう?」

 母が博士の様子を窺うと、博士は軽く頷いた。

「マノン・サジスフォレ生命学修士。手順に従って説明せよ」

 母は「はい」と答え、僕たち三人の顔を順にゆっくりと見回した。

「今から話すことを他人に明かしてはなりません。明かすには資格が必要なのです。理由はすぐに分かるでしょう」

 自然精気は大地の底から沸き上がり、地表面を抜けてそのまま上昇し、世界のどこかで下降に転じて再び大地の底に戻っていると推定されている。これを精気循環仮説と言う。

 基礎精気すなわち魂は、肉体という器の中で自己組織化した精気である。肉体が崩壊しても自己組織化は直ちには解消されず、魂はそのまま残る。弱い魂は程なく自己組織化が解消されて自然精気に戻る。一方、強い魂の自己組織化が解消されるには時間が掛かる。

 強い魂はそのまま大地に戻った後、新たな無垢なる肉体に入り込んでしまうことがある。これが転生である。ただし、強い魂においても崩壊は徐々に進み、転生する頃には以前よりも小さく弱くなってしまっている。そのため転生の際には、魂だけでなく不足分を補う自然精気も肉体に取り込まれ、新たな自己組織化が始まることになる。その結果、元の魂は新しい魂の中で眠ったような状態になる。

 新しい魂の中で突然、元の魂が活性化することがある。これが覚醒である。覚醒を引き起こす要因は解明されていない。全ての転生者が覚醒する訳ではなく、覚醒せずに肉体の生を終えた場合は転生しなかったのと同じことになる。

「マノン殿」とアルさんが口を挟んだ。「私は生命学を本格的に勉強したことがないので目新しい話ではあるのだが、話の筋が見えない」

「もう少しです」と母は遮った。

 転生しやすい魂には二種類ある。一つは精気量の多い魂。もう一つは妄執にとらわれた魂。どちらも自己組織化が大きく進み、その解消には時間が掛かる。

 妄執にとらわれた魂の自己組織化が解消されていく過程では、妄執が最後まで残りやすい。そのため、妄執にとらわれた魂が転生を繰り返すと、妄執が凝縮されていき、運が悪ければ、覚醒すると程なく廃人と化してしまう。これを魂の劣化障害と言う。

「ここからが話の核心です。転生があり得ることは、特にフレクラントでは広く知られています。しかし、その証拠の存在が知れ渡ってしまうと、転生に期待して天寿を全うしようとしない者が出てきてしまうのです。ところが、実態は今説明した通り、転生は必ず起きる訳ではありませんし、容認し得るものばかりでもないのです。ですから、あの古文書の存在は秘匿しなければなりません」

 アルさんがフームと鼻を鳴らした。僕も考え込んでしまった。

「ですが、マノン様」とアンが口を開いた。「今の話と、私が受けた試問にはどのような関係が……」

「三人の魂が妄執によって転生したものではないかを調べたのです」

「何と」とアルさんが声を上げた。

「結果は」と僕も驚いて尋ねた。

「三人とも大丈夫」と母は力強く頷いた。「調べることが可能なのは兆候ぐらいなのだけれど。いずれにしても、転生して覚醒すること自体がそんなに起きることではないし」

「僕が転生者かどうかは分かるの?」

「分かりません。覚醒して初めて分かるのです」

 僕は安堵と不安の溜め息をつき、次の疑問を口にした。

「転生の証拠を隠す理由は分かったけど、かなり抽象的で現実味が無いように思える」

「社会への影響の話をしているのだから、一般論になってもおかしくないでしょう」

「でも、全てを隠す理由が分からない」

「秘匿すべきなのは核心と言った部分、転生の証拠です」

「こういう説明を行なうためには資格が必要って大袈裟に聞こえる」

 博士が「分かった」と割り込んできた。

「これは確かに大変だ」と博士は鼻で大袈裟に笑った。「色々と話は聞いている。三級屈辱刑、通商交渉団の随行員、エスタコリンの政変、そしてこの問答。マノン・サジスフォレは実に育てがいのある息子を持ったものだ」

 唐突な皮肉に僕は唖然とし、次の瞬間、異様な不快感が湧き上がってきた。なぜ無関係な話を嫌味たらしく列挙するのか。特に三級屈辱刑の件。初対面の時のアルさんが「うむ」と鷹揚に頷いたのとは大違い。三級の認定は冤罪であった以上、あの刑罰は批判され否定されなければならない。そう思って、僕は博士を睨みつけた。

「ここからは私が説明しよう」

「資格の件は」と僕は再度尋ねた。

「この学院で生命学を専攻した者や教員資格を取った者には、同時にその資格が与えられる。通常、その資格は大した意味を持たない。しかし、資格制度を設けておけば、異端の思想を広めようとする者が現れた際には、資格が無いことを理由にその者を拘束できる」

「異端の思想とは」

「例えば、今から皆で一緒に死んで転生しようと呼び掛けるとか」

「そんな頭のおかしな奴が」

「いるのだ」

 僕は絶句した。

「いや。かつていたのだ」と博士は訂正した。

 そこにアルさんが「ちょっと良いだろうか」と口を挟んできた。博士はアルさんに向き直ると「その前に」と言った。

「やはり、あなたの素性を確認したい。『どこかの隠居のアル』などと記録に残されて嬉しいのかね」

 アルさんはフームと鼻を鳴らすと周囲を見回し、僕に目を止めた。僕はそれを合図と受け取った。

「この方はエスタコリン王国の前国王、アルヴィン・ブロージュス陛下です」

 皆の間からエッと驚きの声が漏れた。見ると、アンは口を半開きにして固まっていた。

「いかにも」とアルさんは胸を張った。「今回は若き二人の従者と共に隠密に冒険の旅。最後まで余人に邪魔されたくなかったのだ」

 このいい加減で大袈裟な言い回し。僕が初めて会った時のアルさんが戻ってきた。

「この件は御内密に」と従者役の僕はわざとらしく皆に念を押した。

「いや、いや」とアルさんは首を振った。「偉そうに高圧的に迫るつもりは無い。特に博士殿は私よりもはるかに年長で優れた見識をお持ちに違いないのだから」

「いかにも。私は古くはあなたの八代前の国王陛下とも知り合いだった」

 アルさんは「何と……」と呟いた。アルさんの胸を張った姿勢が幾分萎れて見えた。

「それで、何だろうか」と博士は続きを促した。

「少し休憩を」

 アルさんの申し出に、博士は余裕で頷いた。

 人気の無い厠に僕とアルさんの二人きり。並んで用を足していると、アルさんが「どうにもいかん……」と呟いた。

「フレクラントではすぐに鼻をへし折られてしまう。その上、あの博士には中々に口汚い所があるようだ」

「三級屈辱刑とか、育てがいがあるとか、博士のあの言葉は僕への侮辱ですよね」

「マノン殿と博士は顔見知り。それであれば軽口で通るのかも知れぬが、そなたと博士は初対面。そういう相手に向ける言葉ではないな」

「八代前と知り合いということは、あの博士は四百歳ぐらいですかね。こんな所にいたら、もっととんでもない人が出てきそうな……」

「歳の差も寿命の違いも如何ともしがたい。儂も今度はフレクラントに生まれたいものだ」

「転生ですか? そんな話はまだ早いです。気付いていますか。今朝の高空高速飛翔でアルさんは自力でかなり飛んでいたじゃないですか。魔法力が上がっている証拠です。多分、フレクラントで魔法を使い続けている内に実力が上がったんです」

「おお」とアルさんは同意した。「それは儂も感じる。自己治癒魔法の効きも良いような気がする。この地の自然精気は濃いからな」

「その分だけ寿命も延びます」

「そうだな。そうあってほしいものだ」

 洗った手を拭きながら厠から出てみると、そこには直立不動のアン。アンはいきなり畏まってアルさんに挨拶を始めた。

「陛下とはつゆ知らず、これまでの不埒な言をお許しください。私は西の大公……」

「知っておる。これからもアルさんと呼ぶが良い」

「はい……」とアンはきょとんとしながら神妙に頭を下げた。

「ちょうど良い。この件の落としどころだが、古文書の写しで良いから持ち帰る。現代語訳でも構わぬ。それが最低限だ」

「しかし、秘匿すると言われてしまいましたが……」とアンは困惑気味に答えた。

「誓約書を書こうが何をしようが持ち帰るのだ。そうでなければ治まりが付かぬ。あの場に戻ったら、二人も大袈裟に誓って見せよ。何かに懸けてでも必ず秘匿すると」

「はい」とアンは意気込んだ。

 床が所々擦り減った石造りの廊下を進んで会議室に戻ってみると、人の数が七人に増え、騒ぎが起きていた。言い争っているのは生命学の博士と見知らぬ男性。

「あれは間違いなく大発見だ。歴史を書き換える可能性が十分にある」と男性。

「いや。社会への影響も考えてもらいたい」と生命学博士。

「歴史学の立場からは公開しない訳にはいかない」

「生命学の立場からは賛同できない」

「生命学教育を強化すれば良い」

 僕とアルさんとアン。三人で呆気にとられていると、見知らぬ女性が僕たちに杯を手渡してきた。中には発酵乳。女性は歴史学専攻の助手で修士と名乗った。

「あなたたちがアルさんとケイ君とアンさんね。あれは凄い。物凄い。人手が足りなくて調査なんて全然出来ていなかったんだけど、本当に良く見付けてくれました」

 言い争っている男性の素性を尋ねると、「歴史学のフレスコル博士」と女性は答えた。

「三人とも、今から私たちの研究室に来ない?」

「現代語への翻訳は済んだのだろうか」

 アルさんがそう尋ねると、女性は嬉しそうに大きく頷いた。

「分かった。さっそく」

 その時だった。アルさんの声が届いたのか、生命学博士が「待て」と怒鳴った。

「全員、とにかく座れ」

 その怒気に気圧されて全員が手近な椅子に腰を下ろすと、生命学博士は立ったまま話し始めた。

「この集落の外れには生命学専攻が管理する施設がある。今からその実態を話す」

 治癒魔法の発達のおかげで、もはや怪我や病気は脅威ではなくなった。それでも二つだけ、未解決の医術的問題がある。その一つが精神の病。施設にはその種の患者が収容され、治療を施されている。

 患者の中には転生者を名乗る者もいる。その半数強は明らかに転生者ではなく、半数弱は転生者かどうかを判別できないほどに病んでいる。

 ごくまれに本物の覚醒した転生者が送られてくることもある。廃人と化している場合はそのまま収容する。理性を保っている場合は、前世の人格が支配的な者に対しては心理療法と教育を施し、それ以外の者には心理療法を施す。

「それは知っている」と歴史学博士が話を遮った。「精神治療施設には患者の家族が見舞いに来ているし、そもそも通いの患者もいるのだから、秘密は秘密でも公然の秘密の部類だろう」

「収容されている患者の中にリエトを名乗る者がいるのだ。しかも複数名」

 生命学博士の言葉に、エッという声が上がった。

「転生の話を聞くと、心身にわずかな違和感を覚えただけですぐに転生に結び付けて考えてしまうようになる。そこから妄想が始まり侵食が進む。いわゆる覚醒不安障害だ。リエトやカイルの話は有名なだけに影響が大きいのだ」

 しばらく沈黙が続いた後、アルさんが口を開いた。

「その中に本物のリエトのいる可能性は」

「一名だけ転生者かどうかを判別できない者がいる。他は明らかに転生者ではない」

「エステルやカイルの転生者を名乗る者もいるのだろうか」

「現状ではいない」

「ちなみに、二つの医術的問題のもう一つとは」

「老いだ」

 アルさんが口を閉じた。代わって、僕が質問をぶつけた。

「その施設に行くのは強制ではないんですね」

「錯乱がある者は強制だ。でたらめに魔法を使われたら困るからな。それ以外は任意だ」

「つまり、街中で何食わぬ顔で暮らしている覚醒した転生者もいるかも知れないんですね」

「その通りだ。その問いをもって、ケイ・サジスフォレは何を知りたいのだ」

 僕は口ごもった。

「相手が何食わぬ顔で普通に接してくるのなら、君も何食わぬ顔で普通に接すれば良い」

 生命学博士はそう言うと、歴史学博士を睨みつけた。

「あの古文書一つでは実証的研究とは到底言えない。エベルスクラントのさらに北を調べて遺跡の一つでも見付ければ、それこそ大発見になるだろう。だから公開はやめてもらいたい。これ以上、患者を増やさないでもらいたい」

「しかし」と歴史学博士は渋い顔をした。「生命学や農耕畜産学や一般工学の者たちは簡単にそういうことを言うが、知っているだろう。歴史研究などはいつの時代でも細々と行なわれてきたに過ぎない。だから、未だにあんな古文書が残っていたりする。歴史学専攻には前期課程の学生を入れても三人しかいない。とても北の大森林の調査など……」

 その瞬間、アルさんが「おお」と嬉しそうに声を上げた。

「それならば、エスタコリンの高等学院に協力を頼めば良い。私なら確実に仲介できる。ただしそのためには、どうしても古文書の写しぐらいは必要になる。内容は必ず秘匿する。余計な者には明かさない。だから、写しを欲しい」

 生命学博士はしばらく考え込んだ後、「仕方が無い」と認めてくれた。

 

◇◇◇◇◇

 

 二度目の生における黙示録

 

 私には、これが二度目の生であるとの認識がある。つまり、私は一度転生し、そして覚醒した。前世が最初の生だったのか、その前にも生があったのか、それは分からない。しかし、私の魂にとってはそんなことはさしたる意味を持たない。

 

 私が一度目の生に在った時、すでに偉大なる歴史の多くは忘れ去られていた。

 かつて、人々は北の大地に広がっていた。そこは水と緑に満ちた豊穣の地。人々の暮らしは黄金のごとくに輝いていた。しかし幾千幾万の年を経る内に、大気は冷め、大地は凍り、黄金の時代は終焉を迎えた。人々は暖を求めて徐々に南へと移り住み、南の辺境であったはずのエベルスクラントはいつしか北の辺境になっていた。

 黄金の大地への郷愁を断ち切れぬ者は、エベルスクラントやその南のフレクラントに根を下ろした。新たなる黄金の大地を夢見る者はさらに遠方を目指し、エスタコリンやスルイスラを切り開いた。

 ところが、遠方を目指した者たちは大地の豊かさに心を奪われ思慮を失った。大地を雑然と平らげた結果、自然界の精気は失われ、自らも短命に甘んじることとなった。さらには、スルイスラを切り開いた者たちは強欲が過ぎた。自らスルイスラを壊滅させるに至った。

 それが一度目の生に在った時に学堂で教えられた歴史の概要だった。

 

 私が一度目の生に在った時、エベルスクラントの者たちは超越思想に傾倒していた。飢えや渇きを思念法によって超越する。寿命さえも思念法によって超越する。つまり、魂の器たる肉体の制約を極限の思念法によって超越する。それはある程度までは成功を収めていた。

 超越思想はフレクラントの西地方にも浸透し、東地方の者は西地方の者を超越派と呼び、西地方の者は東地方の者を即物派と呼んでいた。

 即物派は超越派を忌避しなかった。極限の思念法の実用性を否定する者はいなかった。超越派の地では、人々の寿命は六百歳に届こうとしていた。

 超越派は即物派を忌避しなかった。黄金の時代から続く暮らしのあり方を否定する者はいなかった。完全なる超越は未だ実現していなかった。

 

 私が一度目の生に在った時、私には婚姻を約束した女がいた。

 婚姻の儀式を翌日に控えた朝、エステルは失踪した。私は探した。私の集落の者たちも探してくれた。エステルの集落の者たちも探してくれた。

 数日が経ち、エステルはフレクラントの西の果てにいるとの知らせが届いた。エステルと共にいるのはリエトを名乗る男。男の噂は私も数年前から聞いていた。

 数年前、ある男が自分は転生者であると主張し始め、リエトと名乗り始めた。自分には前世でとわの愛を誓い合ったレダなる許嫁がいる。リエトを名乗る男はエベルスクラントやフレクラントやエスタコリン中にそのように触れ回っているとのことだった。

 西の果ての集落に駆け付けてみると、エステルはレダと名を変え、見知らぬ男と婚姻の儀式を執り行なおうとしていた。私は男に向かってエステルは我が妻と主張した。男は私に向かってリエトと名乗り、先にとわの愛を誓い合ったのは自分であると主張した。集落の者たちも、これはリエトの正当な権利であると容認した。しばらくの間、無益なやり取りが続いた後、私は全てを理解した。

 無規範な婚姻と生殖は血の重複をもたらし、魂の器たる肉体を損なう。奔放な交合を容認し得るほど我々人間の数は多くない。それが学術の成果、肉体の真理。私とエステルの婚姻は血縁を入念に調べた後にようやく許されたものだった。

 思念法は物の理さえも超越する。思念法をもってすれば、魂の器たる肉体さえも変容し得る。つまり、肉体は本質的には無意味であり、魂に連続性が認められる以上、前世の約束は未だ有効。それがこの者たちの超越思想、正統から外れた異端の狂信だった。

 あまりのおぞましさに、私はエステルの手を取り、エステルに強制浮揚術を掛けて逃げ出した。無数の光球と火球が行く手を遮った。振り向くと、リエトが鬼気迫る形相で追い掛けてきていた。さらに、その後ろには集落の者たち。

 あの者たちは近親姦をも厭わぬ獣のたぐい。光球の意図は足止め。しかし、火球の意図は結果を問わぬ足止め、殺害も辞さずとの意思表示。殺される前に殺すしかない。古来、妻に不貞を唆した者を殺すのは夫の権利であり義務。リエトだけは何としてでもこの手で殺す。私はそのように覚悟を決めてリエトの前に立ち、リエトに強制硬化術を掛けた。腰の後ろに帯びていた鞘から鉈を抜き、リエトの首を切り落とした。

 次の行動に逡巡した瞬間、私の全身は炎に包まれた。思念法を放つ集落の者たちの姿が見えた。リエトの亡骸に縋り付くエステルの姿が見えた。私はエステルの不貞を改めて認識し、余剰精気の全てを尽くして炎爆術を放った。

 ふと気付くと、私はどことも知れぬ場所に横たわっていた。かたわらにはエベルスクラントの大老や中老を名乗る人たち。大老は私に言った。私の肉体は損傷が著しく、治癒術が上手く効かない。肉体の生ある内に説明せよと。

 私が説明を終えると、大老は言った。ルクファリエの生き残りの供述と一致する。殺傷を厭わぬ術を先に放ったのはルクファリエの者たち。私の攻撃は正当なる反撃。超越派の名誉に懸けて、この件の始末は必ず付けると。

 私は目を閉じた。私の耳に大老の声が届いた。何と哀れな孤独な魂。良きえにし。後々の世にて巡り合わんことを。

 

 この二度目の生、私は隷属民の子としてエスタコリンに生まれた。そしてある日、突然覚醒し、一度目の生からすでに二千五百年、世が大きく移り変わったことを理解した。

 現在、スルイスラは名も知れぬ大廃墟と呼ばれており、壊滅から逃げ延びた者たちの末裔がスルイソラの名で近隣に国を建てている。

 エスタコリンでは、豪家が隷属民を家畜と同列に扱っている。教養を持ち合わせている者は皆無であり、エスタコリンの者たちは粗野な蛮人に成り下がってしまった。

 エベルスクラントは廃墟となっている。その末裔はフレクラントから北に一山越えた谷間に移り住み、農耕を続けながら、精気や思念法の研究を細々と続けている。

 フレクラントは岩の壁で東西に分断され、人が住むのはその東側のみ、西側は無人の原野となっている。異端の超越派を忌避する正統の超越派が東に移り住み、異端の思想を捨てた超越派が東に移り住み、居住域の境界を明示するために壁は建造されたらしい。それにしても、何と卑小で醜い壁。山脈の雄姿には遠く及ばず、人の往来を妨げるには何の意味も無い単なる象徴。そして二千五百年の時を経て、異端の血統は遂に途絶えた。

 異端の思想とて実現すればそれなりに価値を見出し得たことだろう。しかし、実体を伴わずに観念だけが先行すれば、それは単なる獣への道。それが多数の考えであり、多くの者は理知的かつ現実的だった。

 現在、人々は壁の東側に広く散らばり、昔と変わらぬ農耕や牧畜を生業としている。ただし、それは停滞の証しでもある。思念法の用法は発達し尽くし、もはや日々の暮らしに難は無く、禁忌の術は秘匿され、超越の意気は失われてしまった。

 二千五百年前、あの大老がどのように始末を付けたのかは明らかだった。現在、二つの逸話が広く世に知られている。いわく、リエトとレダの悲劇。いわく、エステルの二つの約束。それら二つの逸話をもって一つの教訓を成している。

 転生した者は、覚醒前に交わした現世の約束を第一とし、前世で交わした約束を第二とし、覚醒後に交わした現世の約束を第三としなければならない。さもなければ、世の秩序が崩壊する。

 これは教訓および規範として広く世に受け入れられており、フレクラントでは掟にまでもなっている。おそらく、全てはあの大老の成したこと。大老はそのようにして私の名誉を守ってくれたのだ。

 

 この二度目の生、私は覚醒の二年前からリエトの噂を耳にしていた。自分には前世でとわの愛を誓い合ったレダなる許嫁がいる。リエトを名乗る男はフレクラントやエスタコリン中にそのように触れ回っているとのことだった。私は思念法を駆使できるよう自らを鍛え上げ、私を拘束して虐げる豪家の蛮人どもを誅してフレクラントに急いだ。

 当然のことながら、男の容姿は私の知るリエトとは異なっていた。さらには、男の言は支離滅裂、妄執そのもの。男は廃人の様相を呈していた。そのため私には、その男が本当にリエトなのか判別できなかった。

 豪家の者どもを弑した以上、エスタコリンには帰れなかった。私は男の動向を容易に知り得る場所で暮らし始めた。すると数年が経った頃、レダを名乗る女が現れた。姿形は違えども、その言動は私の記憶に合致した。

 私は主張した。私とエステルの約束はリエトとレダの約束に優先する。この生は私に全て捧げるべしと。

 エステルは答えた。約束を破った罰として炎爆術を受けて死んだ。それにより約束は無効になったと。

 私は主張した。私の攻撃は攻撃に対する反撃であり、裏切りへの罰には当たらない。私の正当性は二つの伝説と一つの教訓からも明らかだと。

 エステルは答えた。ここにはリエトの様子を一目見に来ただけ。現世においてはすでに夫がいると。

 両の眼から血の涙が溢れんばかりに悔しかった。しかし、リエトの同類に堕ちる訳にはいかなかった。私の主張が正当であることをエステルに認めさせ、この生の全てを今の夫に捧げることをエステルに求め、それをもって私はエステルとの現世での婚姻を諦めた。

 その後、私はエステルの動向を容易に知り得る場所で暮らし続けた。同時に、エベルスクラントの末裔に教えを請い、精気と思念法の研究に精力を傾けた。

 私とエステルとリエトが現世に同時に存在するのはおそらく偶然ではない。私の魂がリエトの魂を追い掛ける。エステルの魂がリエトの魂を追い掛ける。私の魂がエステルの魂を引き寄せる。リエトの魂がエステルの魂を引き寄せる。そのようなことが連鎖的に起きた結果として現状があるに違いない。

 来世では、エステルが他の男と婚姻の約束を交わす前に、私がエステルを見付け出す。そのためには、魂そのものを識別しなければならない。そして遂に、私は精気分光器を開発した。

 精気分光器の構造。エステルの魂の色。それらの記憶を魂に刻み込み、私は来世を待つことにした。ただし、最重要の事柄はともかく、その他の事柄は転生によって記憶から失われてしまうかも知れない。そのため、この文書を残すことにした。

 

◇◇◇◇◇

 

 冬第二週第三日、大普請の八日目。高等学院に連行された翌朝、僕とアンは家の玄関口でアルさんの出立を見送ろうとしていた。

 冬が深まろうとする中、いつまでも旅を続ける訳にはいかない。ルクファリエにも予想外に長くとどまってしまった。そろそろエスタコリンに帰るべき頃合い。昨夜、アルさんは僕たちに向かってそう言った。

 両親は仕事の都合で、アルさんに挨拶を済ませてすでに家を出ていた。その際、アルさんはお金を差し出した。宿代。泊めてもらったお礼。しかし、両親は受け取らなかった。二人の姿が消えると、アルさんはそのお金を僕に押し付けた。

 大普請は実質的には終了しており、僕とアンは暇を持て余していた。途中まで付いて行くと申し出ると、アルさんは「暇あらば自身を鍛えよ」と笑った。

 昨夜、アルさんとアンと両親は遅くまで議論を交わしていた。

 アルさんは何度も現代語訳を読み返しては過去の情景に思いを馳せていた。見たことのない景色をこの目で確かめてみたい。やはり、それが旅や冒険を好む人の志向なのだろう。僕はアルさんの言葉を聞きながら、そんな風に思った。

 アンは現代語訳を自分用に書き写していた。元侍女で現在はエルランド殿下の側室クリスタさんから受けた依頼は、アンが転生などに興味を持たないようにすること。しかし、アンの興味は転生よりも歴史に向かっている様子だった。

 僕には歴史への興味に問題があるとは到底思えず、一般工学関係者の父も同意見のようだった。母は生命学関係者の立場から何度も止めたが、「写しは秘匿する。将来、歴史学を専攻したい」とのアンの熱意に押し切られてしまった。

 高等学院の歴史学博士によれば、おそらくカイルの一度目の生は今から一万二千五百年前辺りのこと、二度目の生は一万年前辺りのこと。太古の記録のほとんどは何らかの理由で失われ、当時やそれ以前の世界の様子はほとんど解明されておらず、それだけにカイルの記録の内容は衝撃的。その言葉に、アルさんとアンの興奮は極限まで振り切れ、冷める気配は一向に見えなかった。

 一方、両親は精気分光器なる記述に魅せられてしまった様子だった。

 母によれば、生命学自体は伝説時代からほとんど進歩していないらしい。進歩を続けているのはその周辺分野、例えば生命学教育、精神医術、生命力工学、環境生命学など。ただし、それらであっても進歩は非常に緩慢。その根本的な原因は精気の特性にある。存在を感じることは出来ても、見ることも測定することも出来ない。

 ところが一万年前、カイルは精気分光器なる道具によってその限界を超えたと記している。それが本当なら、カイルこそは史上最高の天才、史上最高の発明家。両親はそのことについて議論を交わし続けていた。

 昨夜、僕はそんな会話に耳を傾けながら、独り全く違うことを考え続けていた。

 中等学院に進学した直後のことだった。君たちもそろそろ色気づく年頃だから。そんな前置きと共に、先生は「エステルの二つの約束」を解説してくれた。

 フレクラント人の婚姻における最大の課題は血の重複を回避すること。結婚相手を選ぶ余地はとても少ない。そのため、誰と結婚しても夫婦生活が持続するよう、言動は理性に基づくものとしなければならない。さらには、そもそもフレクラント人は魔法使い。感情のままに魔法を使えば破滅は必至。そのため、非理性的な言動は悪行や罪とされ、重篤な場合には再教育や処罰や治療の対象となる。

 カイルの怒りは当然のもの。婚約しておきながら突然、合理的な理由も無しに他者と結婚する。そんなことをされたら、特に人口の少なかった時代にはもはや新しい結婚相手など探しようが無い。その種の事情は現代でも大差なく、エステルとリエトは現代でも死罪になる可能性が十分にある。

 そして、先生は僕たち生徒を脅した。勉強しないとエステルみたいになるぞと。自己治癒魔法の継続的使用によって、頭の機能自体はきちんと発達する。しかし、頭脳がきちんとしていても、勉学を疎かにしたら知性が育たないと。

 僕としても、カイルの執念は理解できる。その一方で、カイルはリエトのことを妄執にとらわれた廃人と評している。執念も度を超すと妄執になる。カイルはその後どうなってしまったのだろう。三度目や四度目の生もあったのだろうか。

 カイルの記述から無理に規則性を見出せば、転生の間隔は二千五百年。エステルとリエトの前世は一万五千年前辺りということになる。その時、二人はどのような非業の別れを迎えたのだろう。あの古文書の背後には、まだまだ人間模様が隠されているに違いない。

 それにしても今回、思わぬ所でルクファリエの名を目にしてしまった。カイルの記述を信じれば、一万二千五百年前の西の果て、ルクファリエは異端の超越派の集落だった。そして、カイルによって壊滅させられ、おそらくその後、わずかな生き残りがこの地に移住してきたのだろう。異端は異端、良いものとは思えない。それでも敢えて良く言えば、究極中の究極を目指した魔法使いたち。それがこのルクファリエの歴史だったのだ。

 とは言え、何なのだろう。この得も言われぬ違和感は。専門家の言を信じれば、この一万年以上、フレクラントはほとんど進歩していない。それどころかカイルの記述を信じれば、むしろ退歩している。かつて人々の寿命は六百歳に届こうとしていたのに。

 魔法によって寿命を超越する。僕に言わせれば、多くを望まなければあまりにも容易。自分自身に硬化魔法を掛けて寝る。硬化魔法は徐々に減衰し、いずれ自然に解けてしまう。解けて目覚めた時に、再び寝るかどうかを決めれば良い。

 もちろん、安全な寝場所を探す必要はあるだろう。でも、あの墓地は少なくとも一万年は持ちこたえた。エベルスクラントの遺跡はそれ以上。当然、寝続けることに何の意味があるとの反論もあるだろう。でも、はるかな未来をこの目で確かめることが出来るのなら、それはそれで意味はあるに違いない。

 そんなことを思い返していると、ようやくアルさんが家の中から玄関口に現れた。

「準備は出来ましたか。忘れ物は無いですか」

 僕がそう尋ねると、アルさんは「うむ」と力強く頷いた。

「ケイよ。アンソフィーよ。世話になった。実に楽しかった。いつかまた三人で冒険に出掛けよう」

「はい。いつかまた」と僕は答えた。

「はい。陛下」とアンは答えた。

 アルさんは無言で頷くと、ふっと宙に浮き、そのまま空を遠ざかっていった。

 

◇◇◇◇◇

 

「残りわずか。フレクラントはルクファリエの苺!」

 春第三週の休日昼前、スルイソラ連合国の北限の街、ロスクヴァーナの市場の隅。僕とアンは「西地方通商組合」と書かれた鉢巻きを締め、周囲に向かって手を振りながら声を張り上げていた。

 僕たちのお金は着実に増え続けていた。冬、僕たちは村の農耕組合の臨時作業に加わり手当を貰った。そのお金で菓子を買おうと思った矢先に出くわしたのは共同浴場の場長さん。場長さんは僕たちに、使い切らずに増やせと言った。

 農耕組合の販売所で特産品の柑橘や苺を買えるだけ買う。高空高速飛翔で南の大山脈を飛び越えて、ロスクヴァーナの市場で売る。帰り道、フレクラント国の首府メトローナの両替所に寄ってフレクラント通貨に変えてもらえば、何とお金は一・五倍に増量完了。

 一回目は西地方通商組合の人を紹介してもらって付いていき、二回目以降は僕とアンの二人だけ。僕たちはいくつかの注意を受けていた。

 スルイソラ連合国で物を買い、フレクラント国で売るのはやめておけ。僕たちだけでは良い品を仕入れられるか分からないし、大抵の物はフレクラント国でも手に入るから。

 僕たちだけでスルイソラ連合国の北限地域よりも南へ行ってはならない。自然精気が地表近くにほとんど滞留しておらず、余剰精気の蓄積に時間と手間が掛り、予定通りに帰ってこられなくなるから。

 そして今日は五回目。売り物は大人の拳よりも大きな苺。仕入れ値の二倍で売り尽くせば、元手は通算で十倍になる予定だった。ところが、休日恒例の洗濯を昨夜の内に済ませて朝から勇んでやって来たものの、未だに半分しか売れていなかった。

 アンが僕の袖を掴み、「ねえ」と囁いてきた。

「朝市が終わっちゃうよ。欲を出し過ぎたんじゃない? 場長さんが言っていたお金儲けの秘訣その三。売りたい値段だけでなく、買いたい値段も考えよ」

「二倍は高いかな……」と僕は不安になった。

「お金儲けの秘訣その八。硬化魔法を掛けて保存し、季節外れの時期に売れ。元手は回収したし、もうそれでいいよ」

 僕はウーンと呻いた。そんな時期はかなり先。

 その時だった。「お前さんたち」という声が聞こえてきた。見ると老夫婦。今日はなぜか、年を取ったお客さんが多かった。

「ルクファリエの苺。見せてくれるかい」

「はい」と僕は喜び勇んだ。

 苺を背嚢から一つ取り出して手渡すと、老夫婦はしげしげと眺め始めた。お金儲けの秘訣その一。常に笑顔と笑い声。僕は余計な声を掛けずに二人の様子を眺め続けた。

 スルイソラ連合国では平均寿命は約百歳、フレクラント国の五分の一。自己治癒魔法を使える人はほとんどおらず、肉体の衰えはかなり速い。と言うことは、一見老夫婦に見えるこの二人は、フレクラント国の基準ではかなり若い人。

 そんなことを考えていると、旦那さんが尋ねてきた。

「この苺はカチカチに硬いけど、元々硬いんじゃなくて……」

「収穫と同時に硬化魔法を掛けてあります。本来はサクッ、ジュワッという感じです」

「色や形は良いけど、味は?」

「仕入れの時に味見しましたけど、中までかなり甘いです。もちろん個体差があって、酸味の強い方が良いのなら……」

 その瞬間、旦那さんが「個体差って」と笑った。

「行商が使う言葉じゃないな」

 僕が「済みません」と苦笑しながら頭を下げると、奥さんが口を開いた。

「二人は中等学院の生徒さん?」

「はい。中等学院の二年生です」とアンが答えた。

「兄妹で家の仕事を手伝っているの? 偉いね」

 アンが言葉に詰まり、僕に目を向けてきた。

「いえ」と僕は正直に否定した。「フレクラントでは、少なくともフレクラントの西地方では、小遣いが欲しければ自分で稼げということになっていて。大抵は農耕組合の手伝いをするんですけど……。それから、僕たちは親戚というだけで……」

「あれ、まあ」と奥さんが声を上げた。「もしかして双子かもと思ったのに」

 僕は笑みを浮かべて首を傾げ、「良くそう言われます」と答えた。

「それじゃ、五つ貰おうかな」

「ありがとうございます」と僕とアンは同時に声を上げた。

 アンが紙袋を取り出し、苺を納める。僕が適当な形ばかりの呪文を唱えながら硬化魔法を解き、奥さんの手提げ袋に慎重に入れる。それを五回繰り返し、代金を受け取って売買は成立。僕は頭の鉢巻きを指さした。

「僕たちはフレクラント国西地方通商組合に登録していますから、商品に問題があった時には、同じ西地方通商組合の人に声を掛けてください。そうすれば、僕たちまで伝わります。僕はルクファリエのケイ、こっちはアンです」

 老夫婦は笑顔で頷くと、そのまま去っていった。それが本日最後のお客さん。僕たちは諦めた。

 市場を見渡してみると、これまでとは異なり、商品を売り切っていない人があちらこちらにいた。近くのおばさんに訊いてみると、おばさんは鼻で笑い、首を振った。今日は春の大行進。街の半分以上がそちらに出掛けているのだから仕方が無いと。

 ここはスルイソラ連合国最北の丘陵地帯。すぐそこから、スルイソラ連合国とフレクラント国を隔てる大山脈が始まる。毎年二回春と秋、獣たちを驚かせて山へ追い返すために、朝から皆で喇叭や笛を吹き、太鼓を叩いて、街の外れの森林地帯を練り歩く。

 おばさんはそのように解説すると、「うっほほい」と声を上げながら奇妙な身振り手振りをちょっとだけ披露してくれた。

「それはさすがに獣たちも引っ繰り返る」

 僕がそんな感想を口にすると、おばさんはアハハと大笑いした。

 これまで四回の行商で昼食を摂るのに使っていた休憩場所には先客がいた。そのため別の場所を探し、僕とアンは並んで腰を下ろした。背後には巨大な石碑。そこには「いいかげんにしろよ」との彫り込み。「ねえ」とアンが声を掛けてきた。

「後ろの石碑は何だろう。何であんな落書きみたいな……」

「違うよ。これは『いいかげんにしろよ』の碑。スルイソラの色々な所にあるらしい」

 アンが「嘘だ」と決め付けた。僕は少々カチンときて「何で」と問い返した。

「だって、『いいかげんにしろよ』なんて、そんないい加減な……」

「あれ、まあ。何と、何たること」と僕はからかった。「まさか、歴史好きのアンさんがスルイソラの歴史を勉強していないなんてことは……」

 アンは「ん? うーん」と唸りながら、小さく首を傾げた。

 昼食の弁当を食べ始めた時、僕はふと思い付いた。僕が話を持ち掛けようとすると、先にアンが話し掛けてきた。

「ねえ。せっかくだから、大行進を見に行かない?」

「うん。お金儲けの秘訣その十四。お祭り気分を盛り上げろ」

 アンは呆れたようにエーッと声を上げた。

「ケイはお金のこと? 私は行進を見たいだけなんだけど」

「だって、場長さんが『絶対に売り時を逃すな』って。商品が売れ残るのではないかと思うとどうしようもなく不安になるって気持ち、良く分かった」

 アンは鼻でフフンと笑った。

 先ほどのおばさんは、大行進は午後の半ばには終わると言っていた。その後は飲めや歌えやの大騒ぎ。そこに紛れ込んで売れば良いのだろうが、帰路を考えるとやや不安。ルクファリエからフレクラント高原を横切り、南の大山脈を越えてここまでは、一回の休憩を挟んで高空高速飛翔で一時間半。途中に首府メトローナの両替所に寄るのなら、さらに加えて半時間。のんびりしていたら日が暮れてしまうだろう。結局、見学だけでも仕方が無いと僕は諦めた。

 アンの食べ方は明らかに普段よりも速かった。アンも気付いたのかも知れない。先ほどの「うっほほい」は古語か何かに違いない。歴史との思わぬ出会いの予感にアンは興奮を隠しきれない様子だった。

「ケイ。早く、早く」

 アンが急かしてきた。見ると、アンはすでに食べ終わり、後片付けを始めていた。

「ちょっと待った。実践、実践、また実践」

 僕の言葉に、アンは脱力する様子を見せた。

 未だ精度に問題はあるにせよ、アンはほとんどの魔法を使えるようになっていた。その中で唯一残っているのは硬化魔法。アンは硬化魔法を解除できる。しかし、掛ける方は中々上手くいかなかった。

 アンが袖をまくり上げて右腕を剥き出しにした。僕も同様に素手になり、右手でアンの右手の甲を掴み、腕と腕を密着させた。対象は脇に置いたアンの水筒とその中の飲み水。

「良く感じて。まず硬化術」

 僕はアンの右手を経由して水筒に硬化術を掛けた。

「そして強制属性」

 魔法力がスッと抜け、硬化魔法が発動した手ごたえがあった。僕はいったん硬化魔法を解き、アン独りで再度掛けるよう促した。

 僕が食事の後片付けを始めると、アンは「なぜだろう」と言った。

「どうして、先生たちはケイのように教えてくれないんだろう。ケイみたいに二段階で発動すれば分かりやすいのに」

「禁忌なのか、先生たちも知らないのか……」

 僕の呟きに、アンは訝しげに「ん?」と鼻を鳴らした。僕は片付けの手を止め、声を潜めた。

「あの古文書を読むまでは、僕も二段階発動なんて考えたことがなかった。きっと、あの時代の人たちは現代人よりもずっと多くのことを理解していて、技術力もずっと高かったんだ。使っている用語だって現代よりもずっと理知的に思えるし」

「うーん」とアンは曖昧に同意した。

「だって魔法だよ。人のやることに対して『魔』なんて変だよ。でも、大昔の人たちは思念法と呼んでいた」

「それはそう思う」とアンは明確に同意した。

「大昔には未知の技術もあったのかも知れないし、三段階発動とか四段階発動とかもあったのかも知れないし、禁忌として隠したのも一応は理解できる」

「理解できる? 禁忌の内容を知っているような言い方」

「人には言うなよ。魔法を要素に分解して組み上げ直せば、例えば強制火球とかも可能になる。実際、強制浮揚って書いてあったし」

 アンはエッと驚きの声を漏らした。

「ケイは試してみたの?」

「魔法使いも瞬殺できるような技術だから禁忌として秘匿され、現在知られている魔法は全てそれぞれ一体のものとして伝えられるようになった。それが僕の推理」

 僕はそのようにはぐらかして、再び片付けの手を動かし始めた。

 スルイソラ連合国の空で人の姿を見掛けたら、それはほぼ間違いなくフレクラント人。とは言え、スルイソラ連合国にそれほど多くのフレクラント人がいる訳でもなく、今も道の上に人影は全く無かった。それでも念のため、僕はアンの手を取り、低空低速飛翔を先導した。

 アンの飛翔は未だに心許ない。それでも、アンは二つの魔法を同時に発動できるようになっており、警告用の光球を自身の周囲で旋回させれば、高空帯は十分に飛翔可能な実力に達している。問題は中空帯と低空帯。そこでは人や物との衝突の可能性が高くなる。そんな所で光球を旋回させたら、はた迷惑にもなる。エスタコリン王国でどんな教育を受けていたのかは知らないが、圧倒的な経験不足、実践の不足。それが初等学院や中等学院の先生たちのアンに対する評価だった。

 しばらく飛んで山の際が迫ってきた頃、遠くから騒音が聞こえてきた。近付いてみると、大勢の人たちが一列になって森の道を進んでいた。

 先頭には笛を持つ人。隊列の所々に喇叭や太鼓。皆、でたらめに音を鳴らしているようで、しばらくするとなぜか曲になり、しばらくすると再びでたらめな音になる。そんな奇妙な演奏振りだった。

「うっほほい、なっほほい、やっほー、わっほー」

 ほとんどの人は何も手にせず、ひたすら声を張り上げ、奇妙な踊りを続けながらゆっくりと前進していた。

「うっほほい、なっほほい、やっほー、わっほー」

 良く見ると、数人の手には弓。矢はつがえず、まるで楽器のように弦を引いては離していた。そんな行列の頭上を飛ぶ気にはとてもなれず、僕たちは少し離れた所を飛翔して行進の最後尾へ向かった。

 最後尾には、背嚢を背負った年配の人たちが十人程度、踊ることも叫ぶこともなく歩き続けていた。僕たちがすぐ後ろに着地すると、一人のおじさんが声を掛けてきた。

「フレクラントからか」

「はい」とアンが威勢良く答えた。「凄いですね。まるで全体から湯気が上がっているみたいで」

「それは大袈裟だろう。湯気は錯覚だ」とおじさんは苦笑した。

 いや、いや。僕は心の中で否定した。春の森林の中は、湿度は幾分高め、気温は幾分低め。顔を真っ赤にしながら行進している人たちの一部は確かに湯気を上げていた。

「おじさんたちは踊らないですか?」とアンが尋ねた。

「いや」とおじさんは首を振った。「俺たちは見届け役だ。踊るのは若い者たちの役目」

「でも、本当に凄いですね。獣を追い払うために、もっと凄い獣の振りをするお祭りなんて。『うっほほい』って猿ですよね?」

 その瞬間、おじさんと見届け役の数人が足を止めた。僕も驚いて歩みを止め、アンの顔を見詰めた。アンは全く見当違いなことを考えていたのだ。

「お嬢ちゃん。何を言っているんだ」

「済みません」と僕は慌てて割って入った。「こいつ、何も知らないんです」

 僕の素早い謝罪に、おじさんたちの雰囲気が和らいだ。

「お嬢ちゃん。あの掛け声は鬨の声だ。右を見ろ。向こうを見ろ。矢を放て。そうすれば我々の勝利。そんな意味だ」

 アンはぽかんと口を開けていた。その様子に、おじさんは笑みを浮かべて鼻で笑った。

「知らないのも無理は無いか。大昔、フレクラントの大統領に『いいかげんにしろ』と怒鳴られて、それからは本気で鬨の声を上げたことなんてなかったからな。でも、お嬢ちゃんもフレクラント人なら、もうちょい勉強しないとな」

 アンが僕の顔を見詰めてきた。僕は「ほら」と囁き返した。

「おじさん」と僕はお世辞半分に話し掛けた。「その頃のロスクヴァーナの人たちは本当に強かったんでしょうね」

「そうかい?」とおじさんの口元が綻んだ。

「森の中から鬨の声が上がって、びゅんびゅん矢が飛んで来たら怖いじゃないですか」

「おお」とおじさんが誇らしげに同意の声を上げた。「だが、大昔はこんな行列なんか目じゃないほどだったらしい。森の軍団と言われて、森全体が震えて、遠くの村にまで響き渡るような物凄い鬨の声を上げていたんだと。と言っても、やっぱり戦なんか無い方がいいけどな」

 僕が力強く「はい」と相槌を打つと、おじさんたちは再び前を向いて大行進の後を歩き始めた。僕はアンの耳元に口を寄せて囁いた。

「大昔、スルイソラでは数百年おきに内戦をしていたんだ。フレクラント人の寿命は長いから、『またやっている』という感覚で呆れていたらしい。そんな地域同士の争いをやめて連合したから連合国なんだ」

 その時、僕の脳裏に偉大なる着想が浮かんだ。僕は懐から鉢巻を取り出して頭に締め、見届け役のおじさんたちに追い付いた。

「おじさん」と僕は声を上げた。

 おじさんが振り返って、僕の鉢巻きに目を遣った。

「西地方通商組合? 坊主たちは行商に来ていたのか」

「ルクファリエの苺が売れ残っているんです。喉の渇きにちょうど良いと思って」

「寄付? ただでくれるの?」

「いいえ。全部、買ってください」

 僕のその言葉に、おじさんは露骨に嫌な顔をした。

「何だよ。こんな所でそんな話はやめてくれ」

「古のロスクヴァーナ、偉大なる森の軍団。僕がやってみせます」

 おじさんは「ん?」と鼻を鳴らして足を止めた。

「森全体が震えて、遠くの村にまで響き渡るような鬨の声。僕がやってみせます」

 おじさんは僕の顔をジッと見詰めると、「分かった。やってみな」と言った。

 僕は宙に飛び上がり、山の方角に向かって叫んだ。

「うっほほい、なっほほい、やっほー、わっほー」

 山の奥の至る所から鳥が飛び立った。僕は向きを変え、人里の上空に向かって叫んだ。

「うっほほい、なっほほい、やっほー、わっほー」

 行進が止まり、皆が僕の方に振り返った。

 エスタコリン王国の前国王、アルさんならこんな風に言うはず。そう思いながら、僕は行列の頭上に向かって叫んだ。

「者ども。鬨の声を上げよ。栄えあるロスクヴァーナ、偉大なる森の軍団の名を世に知らしめるのだ」

 辺りは静まり返っていた。皆、驚いた様子で僕を呆然と見上げていた。皆の視線が痛かった。僕はしずしずと元の場所に着地し、そのまましゃがみこんで頭を掻きむしった。

「ケイ。どうしたの?」

 そんなアンの声が聞こえ、僕の肩に手が添えられた。

「白けた……。行進が止まってしまった……」

「おい。坊主」

 おじさんの呼び掛けに、僕は顔を上げた。

「何だよ、あの声は。とんでもねえな。魔法か?」

「苺、買ってくれます?」

「お、おう」とおじさんは頷いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 春の最終週、第十八週第五日、休日の午後。僕とアンは中地方にある首府メトローナの両替所でスルイソラ通貨をフレクラント通貨に交換してもらっていた。

 今や僕たちの持ち金は元手の六十倍。行商一回の儲けは本業の行商人並みとの評判。全ては春の大行進のおかげだった。栄えあるロスクヴァーナ、偉大なる森の軍団。その呼び掛けがロスクヴァーナの人たちの郷土愛をくすぐったらしく、僕たちの持ち込む商品はすぐに売り切れるようになっていた。

 両替所が開くのは週の三日目から五日目までの合計三日間。複数ある窓口の全てに列が出来ていた。ようやく僕たちの両替が済み、僕とアンでお金を折半していると、奥の方から所長さんが「隣の大統領府に行くように」と声を掛けてきた。大統領府の建物に旗が掲げられている。つまり、今日は休日だが大統領は在庁。大統領の所に顔を出すようにと。

 奇妙だった。父を通せば話は早いのに。ジランさんは僕たちが不定期にここに来ていることを知って所長さんに頼んだに違いない。急ぎや正式な用件ではない。来ているのなら顔を出せ。その程度の事柄だろうか。いずれにせよ、僕たちとしてはこれまで、仕事の邪魔をする訳にはいかないと控えていた。久し振りにジランさんに会える。そう思い、僕とアンは気軽な気分で大統領府へ向かった。

 昨年夏以来の大統領府。休日の館内は閑散としていた。大統領執務室の場所は覚えていた。僕は先に立って迷わず階段を上った。

 執務室の中央には、相変わらず寝台としても使えそうな巨大な執務机。その席に着くのは今やジランさん。僕とアンは机を挟んでジランさんと向かい合った。

「お久し振りです、リゼット様」とアンが挨拶した。

 ジランさんは「ん?」と不機嫌そうに鼻を鳴らした。予想外の反応だった。

「申し訳ございません。お久し振りでございます。ジラン閣下」

 アンが慌てて言い直すと、ジランさんは僕に目を向けてきた。

「お久し振りです。ジラン大統領」

 ジランさんは黙って小さく頷いた。かなり機嫌が悪い様子だった。

「二人は最近、行商で儲けているそうですね」

「はい。何とか」と僕は謙遜気味に答えた。「両替所で聞いてきたんですけど、何の用でしょうか」

「ここは不思議な席で、ここに座っているとなぜか色々な話が聞こえてくるのです。各地の政庁から組合から。そんな所に、つい先日は南地方通商組合の報告書。それに目を通してみると、中々面白い話が書いてあるではありませんか」

 なぜ南。それと僕たちにどんな関係が。そう思い、「どんな話でしょうか」と尋ねた。

「最近、スルイソラの北限の街ロスクヴァーナにとんでもないお馬鹿さんが現れたと言うのです。南地方の行商人がそのお馬鹿さんのお馬鹿振りにたまたま出くわしたと」

 僕は理解した。僕たちは情報収集のために呼ばれたのだ。

「そのお馬鹿さんって、どんな奴ですか。もしかしたら、僕たちも会っているかも」

「おそらく、そのお馬鹿さんはスルイソラの歴史を全く勉強していないのでしょうね」

 僕はアンにちらっと目を遣った。しかし、大統領府に呼び付けられるようなことをアンが仕出かしたとは思えない。

「ケイ。スルイソラ連合国の主要地域と言えば?」

「北、北東、西、中、東、南西、南の七つです」

「その通りです。かつて、それらの地域の間では激しい衝突が繰り返されていました」

「スルイソラの列国時代」と僕は相槌を打った。

「それはフレクラント国大統領の仲裁で治まったのですが、それでも時折小競り合いが起き、二千年以上が経った今でも地域意識はそれなりに残っています。それなのに、そのお馬鹿さんときたら、この平穏な時代に本気で鬨の声を上げて地域感情を煽ったらしいのです。南地方の行商人が二つ離れた村でその声を聞いたそうです」

 僕は息を詰めた。体が硬直した。拡声魔術。大声。あの時と同じ。

「それは、そんなにまずいことなのでしょうか」と僕は声を絞り出した。

「私たちは歴史を千年単位で考えますが、スルイソラ人は百年単位です。つまりかの国では、物事の動きが想像し得ないほどに速いのです。私たちから見れば、例えば私たちが子供の頃に内戦、二百歳の頃にも内戦、四百歳の頃にも内戦。かの国ではかつて、そんなことが繰り返されていました。隣国の現職大統領としては笑いも涙も出ませんね」

 僕はしゃがみこんで頭を掻きむしりそうになるのをこらえた。

「なぜ、かの国では物事の動きが速いのでしょうか」とアンが訊いた。

「アンソフィー。各国の平均寿命と一世代の年数と言えば?」

「各国ですか。フレクラントの平均寿命は五百歳、一世代は百年。エスタコリンでは、貴族の平均寿命は百九十歳、一般民の平均寿命は百六十歳、一世代は一般的には三十五年。スルイソラの平均寿命は百歳、一世代は二十年です」

「今の世代にとっては眼前の現実でも、次の世代にとっては想像上の過去。その繰り返しによって歴史は忘れ去られてゆく。それはどの国でも同じですが、スルイソラでは世代交代が極端に速い上に、その教育制度は世代交代による忘却を十分に補えるほどの水準には達していないのです」

 ジランさんは再び僕に目を向けてきた。

「今度かの国で内戦が起きたら、教育の質の大幅な向上と、個々人の言動の制限を要求せざるを得なくなります。その役目は……、ああ、ちょうど良い所に白狼の騎士がいる」

 心の中で何かがパンと弾けたような気がした。三級屈辱刑の次は二級屈辱刑。

「い、いえ……。その冗談には笑いも涙も出ません」

 その時ふと、昨年夏の光景が脳裏をよぎった。アンのお母さん、西の大公様もこんな風にジランさんにやり込められていた。あの時、僕は笑ったのだ。

 僕は無理にうそぶいた。

「分かりました。多分、そのお馬鹿さんに悪気は全く無いのだと思いますが、見掛けたら僕の方からきつく言っておきます。その結果を見てやってください」

「いいでしょう。ちなみに、そのお馬鹿さんは猿真似が得意だそうです。それが目印です」

 僕はウッと呻いてしゃがみこみ、頭を掻きむしった。

「糠床を掻き回すのは後にして、そこの椅子に座りなさい。本題はここからです」

 僕は思わずへッと声を漏らしてしまった。

 アンが部屋の隅から椅子を二つ運んできた。僕は気疲れして、椅子にぐったりと腰を下ろして項垂れた。アンも腰を下ろすと、ジランさんは本題らしき話を始めた。

「留学期間中のアンソフィーに関しては、私とクレールに保護監督の責任があります。クレールからは時折、アンソフィーの様子を聞いてはいたのですが、最後に聞いたのは春の初め頃です。現状を説明しなさい」

 硬化魔法を掛けることに関しては四分の一程度の成功率。それ以外の魔法は使えるようになった。魔法の精度の改善に関しては実践あるのみと先生たちに言われている。また、その他の勉学にも励んでいる。

 アンがそのように説明すると、ジランさんはウームと唸った。

「先日、西の大公家から私の所に手紙が届きました。もうすぐ留学期間の最低限である一年になるが、その先はどうすべきだろうと。そのしばらく前に、クレールが西の大公家に手紙を送ったようなのです。成長期の全てをフレクラントで過ごして訓練を続ければ、アンソフィーの精気はフレクラント人並みに成長するだろうと」

「でしたら私としても、ぜひともそうしたいと思います」とアンは即答した。

 ジランさんは再びウームと唸った。

「それはそうでしょうね。私たち並みに魔法力が強くなり、寿命も延びるのですから。その点では、あなたの母親のアイナは気の毒でした。アイナはフレクラントで二年間を過ごしましたが、実力はフレクラント人の平均をかなり下回る程度にしか伸びませんでした。そのため、エスタコリンに帰るしかなかった……」

「成長期の全てとは具体的にはどこまででしょうか」とアンは尋ねた。

「少なくとも中等学院を卒業するまで。つまり、あと五年弱。ところがアイナからの手紙によれば、エスタコリンの王家や各大公家には社会的な責務があると言うのです。アンソフィーもその例外ではないと」

 社会的責務など中等学院卒業後で良いではないかと僕は思った。

「つまり、相手が王家になるかその他になるかはともかく、アンソフィーは嫁ぐための準備をしなければならないと。大公家に生まれ、大公家の特権を享受してきた以上、その役割から逃れることは出来ないのだと」

 僕は俯いたまま「アンは野に解き放つべし……」と呟いた。

「ケイ。それはどういう意味ですか」

 僕は顔を上げることなく黙っていた。多分、西の大公ヴェストビーク家にも石窟のような墓地があり、歴代大公の文書はそこに隠されているのだろう。しかし、今はジランさんとやり合う気になど到底なれなかった。

「まあ良いでしょう……。私にせよアイナにせよ、クレールの指摘の重要性は理解しています。ですから、何とか上手くいく手立てを考えましょう。アンソフィーもそのつもりで考えておくように」

 本日の会談はこれにて終了となった。ジランさんが「気を付けて帰るように」と声を掛けてきた。アンは「はい」と答え、僕は黙って頭を下げ、大統領執務室を後にした。

 ジランさんの叱責の内容は理解できる。だからと言って、あの三級屈辱刑にかこつけることはないではないか。今でも時折、破壊的な衝動に襲われるのに。一国の長たる大統領が敢えてどこまでも蒸し返すのなら、僕もあの怒りと憎しみを決して忘れない。

 あの毒舌。いざ自分に向けられてみると、とてつもなくきつい。ジランさんは執政者としては有能なのかも知れないが、もしかしたら人望はそれほどでもないのかも知れない。ジランさんの口真似はもうやめよう。僕はふとそう思った。

 

◇◇◇◇◇

 

 雲一つなく晴れ渡った真夏の草原。僕は弟と共に山羊の群れを追っていた。

 ムシャムシャ、モグモグ。草は適度に残さなければならない。そろそろ、この草場も休ませてやる頃合い。今朝の話し合いでそう決まり、僕は丘の上に馬を寄せ、東西南北、地平線の辺りを眺め回した。

 緩やかな起伏、際限のない野辺。やはり、北の緑が際立っていた。しかし、父は言っていた。北では今頃、赤き熊の一族が羊と山羊を放っているはず。名無しの一族たる我らでは太刀打ちできぬと。

 仕方が無いか。となると、次に鮮やかなのは西の方。そう思った時、弟がいきなり南へ向かって馬を走らせ始めた。弟の向かう先に目を凝らしてみると、はるかかなたに一頭の獣。何事かと僕も手綱を握りしめて弟の後を追った。

 草むらが途切れた小さな荒地の中、一頭の狼がうずくまっていた。弟は馬上から見下ろすと、おもむろに問い掛けた。

「狼よ。なぜこのような所で力なく伏しているのか」

「人間よ。一つ頼まれてくれぬか。喉が渇いた。水をくれ」

 弟は馬を降り、水を蓄えた革袋を手に狼に近寄った。大きく開けられた狼の口に水を注ぎ込むと、再び声を掛けた。

「狼よ。森へ帰るが良い。山へ帰るが良い」

「人間よ。一つ頼まれてくれぬか。腹が減った。肉をくれ」

 弟は腰の革袋から干し肉を取り出すと、大きく開けられた狼の口に押し込んだ。

「狼よ。草原から立ち去るが良い。留まると、いずれ狩られてしまうだろう」

「人間よ。一つ頼まれてくれぬか。力が湧かない。精をくれ」

 その頼みに、弟はさすがに首を振った。

「狼よ。それは生身を食らいたいとの意味だろう。私の身にせよこの馬にせよ、素性も知れぬ狼に差し出す訳には行かない」

「人間よ。聞くが良い。人の言葉を解するこの我は神の使いなり」

 弟はハッとしたように身を強張らせ、次の瞬間、狼のそばにひざまずいた。

「狼よ。神の使いよ。それならば、この身を汝に捧げよう」

 そのやり取りに僕は呆れ、馬から降りて狼に歩み寄った。弟と狼は僕には目もくれずに見詰め合うばかり。僕は狼の首筋に手を当てて、僕の余剰精気を押し込んだ。

「人間よ。その心掛け、神への敬意、忠誠心。とくと、とくと見届けた。汝から精を奪うのはいかにも惜しい。ここまでの礼に一つだけ、汝の願いを叶えてやろう」

 弟は首を傾げて考え込み、おもむろに口を開いた。

「狼よ。神の使いよ。我らの一族には名前が無い」

「人間よ。分かった、良かろう、授けよう。これからは青き白鳥を名乗るが良い」

 弟は平伏して感謝の言葉を述べると、嬉々として馬に跨り、駆け去った。その後ろ姿を見詰め続ける狼に僕は真実を告げた。

「狼よ。神は虚構だ」

「人間よ。汝には早かったか」

 僕はその場に横たわり、そのまま眠りについた。

 

◇◇◇◇◇

 

 夏休みの二日目、僕は独りゆっくりと飛翔を続けていた。大障壁を越えて西の森林地帯を少し進んだ所に白狼はいた。僕が上空から呼ぶと、白狼は足を止めて僕の方を見上げた。小川の際に僕が着地すると、程なく白狼も駆け寄ってきた。頭と首筋を撫でると、白狼は尻尾を振った。いつも通りに砂糖の粒を食べて舌なめずりをした。

 以前に調べたところでは、野生の狼の寿命は短ければ五年、長くても十年程度らしい。僕とこの白狼が出会ったのは今から三年前。あの時すでに一歳か二歳だったのだとしたら、今は四歳か五歳。と言うことは、この白狼も今や立派な大人もしくは長老級なのだろう。

 僕はひとしきり白狼を撫でまわし、「元気でな」と声を掛けて再び宙に飛び上がった。

 夏が始まったばかりのこの季節、森林地帯は活気に満ち溢れていた。草木は緑に生い茂り、低空帯には虫、中空帯には鳥。僕は幾分高度を上げてのんびりと飛び続けた。

 今朝、アンが家を去った。あまりにも呆気ない別れだった。これ以降、アンは僕の姉の家に居候し、東地方中等学院に通うことになっていた。

 姉のエメリーヌは現在四十二歳、東地方中等学院の教師を務めている。僕が初等学院に入学するまでは実家で同居。その後は、東地方中等学院の近くに一軒家を借りて独り暮らしを続けている。姉の家から西の大公家までは、高空高速飛翔で国境の山々を越えてわずか数十分の距離。アンは、平日は姉の家から東地方中等学院に通い、週末から休日に掛けては西の大公家で過ごすことになるとのことだった。

 アンをフレクラント国に送るにあたり、西の大公家が当初考えていたのは東地方中等学院への留学だった。アンが基礎的な魔法を習得し、フレクラント国の暮らしに順応し、エメリーヌとも何度か会って面識が出来たことで、それが可能になったと判断された。

 でも、と僕は思った。おそらく、そこには不言の真実が一つある。西の大公家の人たちも、ジランさんを始めとするフレクラント国の人たちも、アンが僕の考えや言動に染まってしまうことを恐れたに違いない。

 そんなことを考えながら飛び続けて小一時間が経った頃、僕はフレクラント高原の西の果てに降り立った。ここは昨年の冬、大普請の最中に来た所。着地の直前に地表に向けて威嚇の大声を放ったおかげか、周囲に四つ足の獣の気配は全く無かった。

 僕たちがカイルの黙示録を見付けたことが切っ掛けとなり、あの直後の冬の間、フレクラント国高等学院歴史学専攻の人たちが高原の西の果てを実地に調査したらしい。調査の帰りに一度だけ僕の家に立ち寄り、調査結果を教えてくれた。

 僕の周囲には草原、少し先から森林。てっきり、この辺りが神話時代のルクファリエなのだと僕は思っていた。しかし、博士たちがわずかに残る資料と照合したところ、どうやらここには別の村。ルクファリエはこの北隣にあったらしい。

 博士たちは西の果てに点在する墓地を調べ上げた。大昔から存在が知られている墓地が数か所、新たに見付けた墓地が一か所。結局全ては空っぽで、目ぼしい成果は無しとのことだった。

 僕は草を踏み倒しながら墓地の石窟まで道なき道を進み、入り口の前に立った。入り口付近にはわずかな苔。相変わらず中は真っ暗だった。

 光が全く差し込まない洞窟には植物が生えない。そのため、虫も獣も住みつかない。ただし例外が一つだけ。それは蝙蝠。僕は光球を頼りに石窟に少し入り、天井と床もしくは地面を確かめた。蝙蝠の姿は無し。糞も無し。

 僕はさらに奥に進み、強制光球術で明かりをともし、壁際に腰を下ろして一息ついた。

 伝説のカイルは硬化魔法のことを強制硬化術と呼んだ。つまり、現代では一体のものと見なされている硬化魔法は強制と硬化の二つの要素からなる。そこを読み解いてしまえば、あとは速かった。

 一万年以上も前の時代、ここには偉大なる魔法使いたちが眠っていた。寿命は現代をはるかに超える六百歳。彼らは治癒魔法に強制属性を加え、日常的に自らの身を治癒し続けていたのではないだろうか。

 カイルの黙示録を読んだ時、僕は違和感を覚えた。そして考え続け、しばらく後にようやく理解した。なぜ、ルクファリエの人たちはカイルに硬化魔法を掛けなかったのか。少なくとも、黙示録にそのような記述は無かった。

 おそらく、ルクファリエの人たちは光球や火球でカイルの動きを鈍らせて、硬化魔法を掛けたのだ。しかし、カイルの能力はルクファリエの人たちの能力に勝っていたのだろう。カイルは自身に掛けられた思念法を次から次に無効化したに違いない。

 それなら逆に、なぜカイルはリエトを思念法で殺害しなかったのか。リエトに硬化魔法が掛かるのなら、より直接的に強制火球などでリエトを体の内側から焼いてしまえば良かったのに。その点だけは未だに良く分からない。

 首の部分だけ強制硬化を解いて首を切る。それは狩りや獣退治の手順として古くから伝えられてきたもの。あの瞬間、カイルも慌てていたに違いなく、カイルの脳裏に浮かんだのはその手段だけだったのかも知れない。

 いや。カイルは太古の思念法使いであり、精気分光器を生み出すような天才。もしかしたら、カイルは思念法の限界を理解し、僕には分からない何らかの理由で、身体力を用いた方が確実であると認識したのかも知れない。

 僕は石窟の壁に開けられた、最も綺麗に見える横穴に足からもぐりこんだ。身をかがめれば座れる程度の高さ。寝返りを一回打てる程度の幅。僕は仰向けに寝転がり、枕代わりに頭の下で手を組んだ。

 約一年前、アンが家族に加わり、図らずも家族内の緩衝役を果たしてくれるようになった。そのアンが居なくなって気が抜けた。気が抜けたら嫌な思い出ばかりが蘇ってきた。

 お人好しで能天気。それが僕本来の性格との自覚はある。さらには三級屈辱刑以降、自分を抑えてなるべく人畜無害に見えるように振る舞ってもきた。

 無駄に活発。その自覚は全く無い。自分の頭で考えろと大人たちは言う。それなのに、本当に考えると罰せられる。なぜ、そんなでたらめがまかり通るのか。

 三年前までの僕は秘められた悪意というものを知らなかった。色々と考えて、色々なことをする子供。そんな風に村の大人の一部から評されるたびに、僕は密かに自慢に思っていた。しかしあれは、色々と余計なことを考えて、色々と余計なことをする子供。そんな皮肉や嫌味だったのだ。

 僕は僕なりにずっと頑張ってきた。そして、頑張れば頑張るほど、罵られて罰せられる。なぜ、大人たちは僕にそこまでつらく当たるのだろう。なぜ、次は二級屈辱刑などと怯えなければならないのだろう。

 聞いたところでは、ジラン大統領は今年で三百七十三歳。経験を積んだ年長者たちにとっては、当然であるべき事柄が無意味に紛糾するのがどうしようもなく煩わしいのだろう。だから、皮肉交じりの険しい言葉を容赦なく浴びせ掛けてくる。

 家族こそが第一の味方であり、絶対的な味方である。初等学院ではそう教えているが、それは全くもって真理ではない。あの時、僕が不当な三級屈辱刑を受けている間、両親は離れた場所からその様子を眺めているだけだった。僕が泣きわめき、取り囲む大人たちを罵倒し始めた段になって、両親はようやく動き、僕に硬化魔法を掛けて転がした。二人の社会的な立場については当時も理解はしていたが、僕は二人のその姿に失望した。

 エスタコリン王国の政変の際、父は一応矢面に立ってくれた。一方、アンの件からも明らかなように、父からは情報が外部へ筒抜けになっている。つまり、父は敵ではないが、味方であったり第三者的であったりと状況に応じて立場を変えている。

 フレクラント国高等学院へ連行された際、母は生命学博士に唯々諾々として従っていた。母は一家の代表、家長であるにもかかわらず、一家の子供である僕が侮辱されても傍観を続けていた。特に三級屈辱刑の件。母は全く口を挟もうとしなかった。つまり、母は到底味方ではなく、状況に応じて敵に回ることさえある。

 父は父でジラン大統領と繋がっている。母は母で生命学博士と繋がっている。両親は僕の監視役であり拘束役。その人間関係の構造を明瞭に認識してしまった今となっては、家にいても両親の目が気になって疲れるばかり。僕にはどこにも居場所が無い。

 僕は強制光球を消した。どことなく懐かしい完全なる闇と静寂が訪れた。僕は組んでいた手を外し、体を真っ直ぐに伸ばした。

 もう嫌だ。僕は独りで未来へ行く。知る人が一人もいない未知の世界へ僕は行く。書置きは残してきた。「僕は独りで遠い所へ行く。厄介者は消えるから、これで皆も安心できるだろう」と。

 目覚めたら、そこは五百年後の世界だろうか、一千年後だろうか。そう思いながら僕は目を閉じ、自分の全身に硬化魔法を掛けた。

 

◇◇◇◇◇

 

 次の瞬間、僕は見知らぬ天井を見上げていた。周囲を見回すと、誰もいない狭い部屋。窓が一つ、出入り口が一つ、そして壁際に寝台。僕は寝台の上に横たわっていた。

 僕の服装に変化は無かった。僕の唯一の荷物、背嚢は寝台の上、足元の方に置かれていた。おそらく中身を調べたのだろう。口が開いていた。念のために確かめてみると、奪われた物は特に無い様子だった。

 僕は先ほどまで真の闇の中にいた。そのため、目覚めた瞬間は明るい部屋のように感じられた。しかし、目が慣れてくると、ここはかなり高い位置に窓が一つあるだけの薄暗い部屋だった。

 今、ここには誰もいない。と言うことは、誰かに硬化魔法を解かれた訳ではない。つまり、つい先ほど魔法が自然に消滅した。今はいつだろう。ここはどこだろう。誰に運び込まれたのだろう。

 僕は浮揚して、窓を確かめてみた。建屋の外には無人の庭、その向こうには塀。その先には緑の山、この部屋はおそらく建屋の二階。そして、窓には鉄格子がはまっていた。

 僕は驚き、出入り口の扉を確かめてみた。取っ手を回して扉を押しても開かない。引いてもやはり開かない。それならばと横に引いても全く動かず、引き戸でもない模様。もしかしたらと引き上げてみてもやはり動かず、引き下げてみても動かない。要するに、僕はこの部屋に閉じ込められていた。

 相手にとっては、僕は正体不明の人間。そのためおそらく、僕を一応監禁しておくことにしたのだろう。僕は扉を叩き、「済みません」と声を上げた。しかし、扉の外に人の気配は無かった。「誰か」と声を上げても、誰かが近付いてくることもなかった。僕は少々時間を空けることにした。

 この部屋には上水道も下水道も無い。つまり、水も飲めず、用も足せない。こんな所に監禁されて放置されたら衰弱し、いずれは死んでしまうに違いない。糞尿まみれの衰弱死。いくらなんでも、それでは時を越えた意味が無い。

 寝台に寝転がり、体感で一時間程度が経った頃、僕は再び扉を叩いて声を上げた。しかし、誰もやって来なかった。

 何かがおかしい。直ちに脱出。僕はそう決断した。一見したところ、壁にせよ扉にせよ、僕の魔法で容易に破壊できそうだった。ただし、状況が分からない以上、破壊は最小限にとどめる必要がある。

 念のために寝台の陰に入り、扉の取っ手の内部を狙って小さな空爆。予期しなかったほどの爆発音が響いた。見ると扉には大きな穴。やはり瞬発系魔法の制御は難しいと僕は嘆息した。

 部屋の外へ出てみると、そこは長く薄暗い廊下。その両側には全く同じ形式の扉が並んでいた。その時、廊下の向こうの方から男が駆けてくるのが目に留まった。

「済みません。扉が開かなかったので。ここはどこ……」

 僕がそう呼び掛けた瞬間、僕の体内で硬化と強制が発動しようとするのを感じた。僕が直ちに無効化すると、男は未だかなり離れた所で立ち止まった。

「やめてください。暴れる気はありませんから」

 僕がそのように明言した時、再び硬化魔法が飛んできた。

 僕は問答無用で攻撃されている。男に僕と話し合う気は全く無い。そう判断し、僕は男に反撃した。強制飛翔術で男が廊下の向こうの方に吹き飛ぶのを確認し、僕は廊下を逆方向へ駆け出した。

 廊下の先には階段。一気に駆け下りた。建屋の出入り口を探して一階の廊下を走り回ると、二人の男が駆けてきた。そしてやはり、問答無用で硬化魔法。僕は強制飛翔術で二人を吹き飛ばし、ようやく見付けた出入り口から外に飛び出し、山に向かって飛翔した。

 追って来る者はいなかった。あの建屋では情報が錯綜しているに違いない。三人の手当てをしている所かも知れない。僕はそう推測し、気を落ち着かせた。

 そのまま山の斜面に沿って上昇を続けていると、前方から十人弱の人影が斜面に沿ってゆっくりと飛翔しながら降りてきた。さりげなくすれ違おうとしたその瞬間、その中の一人が「ケイ」と声を掛けてきた。驚いて顔を良く確かめると、エスタコリン王国の前国王、アルさんだった。

「ケイ。目が覚めたのか」

 意味が分からなかった。状況を全く把握できなかった。

「アルさんがなぜここに……。いや。ここはどこです。今はいつです。今日の日付は」

 アルさんの返答に、僕は呆然とした。山の斜面に見晴らし台のような場所を見付けてしずしずと着地し、そのまましゃがみこんで頭を掻きむしった。まだ、五日しか経っていなかった。

 アルさんが僕のそばに降り立ち、手近な岩に腰を下ろした。見ると、他の人たちはそのまま山の斜面に沿って下方へ向かっていた。アルさんに促され、僕も別の岩に腰掛けた。

「ケイ。どうしたのだ。何があったのだ」

「その前に、ここはどこです。なぜ、アルさんがここにいるんです」

 アルさんは軽く溜め息をつき、軽く笑い声を漏らすと、状況を説明してくれた。

 ここはフレクラント国高等学院がある谷間。僕がいたのは、精神を患った人が収容される高等学院付属の精神治療施設。

 アルさんは「ほら」と指さした。その先を良く見ると、確かに高等学院。この方角から高等学院を見下ろしたことがなかったために、僕は今まで全く気付いていなかった。

 アルさんによれば、五日前の夕方、両親が帰宅すると、書置きが残されていた。騒ぎとなり、捜索が始まった。話は東地方のエメリーヌとアンの所にも伝わった。

「するとな」とアルさんは鼻で笑った。「アンソフィーがすぐに言い当てたそうだ。そなたの居場所を」

 深夜、両親とアンが石窟に向かい僕を発見した。その場で僕の硬化魔法を解くと、僕は逃げ出すかも知れない。また、僕の精神状態はかなり悪化しているものと思われる。そのため、そのまま精神治療施設に運び込むことにした。

 施設で僕の状態を調べたところ、掛かっている硬化魔法はかなり弱いもの。一週間もすれば自然に消滅するだろう。そのように判定され、僕はあの小部屋に放置された。

「あの硬化魔法は、弁当が腐るのを防ぐ程度の強度であったらしい。思い切りが足りなかったな」とアルさんは笑った。

 それ以降毎日、両親は僕の様子を確かめに来ている。多忙な中、ジラン大統領も一度だけやって来た。

「アルさんはなぜここにいるんです」

 僕がそう尋ねると、「例の件だ」とアルさんは言った。

 半年前、エスタコリン王国に戻り、高等学院に北の大森林の調査を持ち掛けると、歴史学考古学専攻の者たちは直ちに同意してくれた。頃合いを見計らって王都の中央衛士隊にも話を持ち掛けると、四名が志願し、休暇を取って同行してくれることになった。

 今回の陣容は、エスタコリン王国から十二名、フレクラント国高等学院の歴史学専攻の三名。全員が魔法を使える者。初めてのことなので、予期せぬ事態に備えて魔法を使えない者は連れてこなかった。

 アルさんたち十二名は二週間前からフレクラント国高等学院の寄宿舎に滞在している。現在、魔法の基礎訓練と並行して、北の大森林に関する情報を集めている。数日後には北へ向けて出発する予定となっている。

「それにしても」とアルさんは真顔で尋ねてきた。「なぜ、あんなことをしたのだ。アンソフィーが居なくなって、そんなに寂しかったのか?」

 僕はハッとした。アンは妃候補の筆頭。王家に嫁ぐことになるかも知れない身。

「違います」と僕は強く否定した。「アンは関係ありません」

「それならば、どうだ。儂に話してみぬか。相談に乗るぞ」

 僕は俯いて考え込んだ。

「実は、儂は皆から話を聞いてリゼット様と……、いや、リゼット・ジラン大統領とやり合ったのだ。ケイに対して辛辣すぎやしないかと。おそらく、全ては三級屈辱刑から始まっているのだと。覚えていると思うが、儂はそなたへの三級屈辱刑には懐疑的だった。儂ら王族の常識から考えても、子供を通常よりも厳しく教育することはあっても、不要な刑罰を与えることなどあり得ぬ」

「それに対して、ジラン大統領は何と言いました」

「ジラン大統領は、そなたを大切に扱ってきたと言った。事あるたびにそなたに教えを授けてきたと。それならばと儂は反論した。なぜ真っ直ぐな話し方をせぬのだと。フレクラント人から見れば儂は経験の浅い若輩者かも知れぬが、儂から見ればフレクラント人は帝王学を知らぬと」

 僕がアルさんに目を向けると、アルさんは「どうだ」と再び話を促してきた。

「アルさんは、どうして僕にそんなに良くしてくれるんですか」

 アルさんの顔に笑みが戻った。

「嬉しかったのだ。楽しかったのだ。天空から見下ろした大地。猛獣との遭遇。石窟の探検。思い返せば思い返すほどに胸が躍るのだ。儂とて森林や山岳に足を延ばしたことはいくらでもある。しかし、全ては王家の一員としての務め、多くの供を連れた視察。幼き頃に夢見た冒険ではなかった」

「そうだったんですか……」と僕は感嘆した。

「もう一つ率直に言えば、儂の亡き後、異国から王国に手を差し伸べてくれる者がいれば儂も安心できる。そういう者は多ければ多いほど良い」

「寂しいことを言わないでください」

「じきにエルランドにも初の子供ができることでもあるしな」

「クリスタさんが?」と僕は驚いた。

「うむ」とアルさんは力強く頷いた。

「クリスタさんは妻なんですよね」

「もちろんだ。クリスタは妻であり母となる」

「お子さんの件、おめでとうございます」

 僕の祝辞にアルさんは頷くと、三たび「どうだ」と話を促してきた。

 どこまで分かってもらえるだろうと僕は懸念した。アルさんは帝王学を授けられながら育った人。帝王学とはある種の道徳教育や倫理教育の総体らしい。お前の悩みは小さい。そう言って鼻で笑うのではないだろうか。でも、相談できる相手がアルさんしか見当たらないのも事実。僕は思い切って、冤罪の経緯、家族関係や人間関係、村での生活の内実、それらに対する僕の心情を打ち明けてみた。

 僕の話が終わると、アルさんは大きく息を吐いた。

「全く理解されず、常に監視されて抑圧され、常に脅されて罰せられる。だから、そなたは大人たちに迎合し続けるしかなかった」

「その通りです」と僕は強く肯定した。

 アルさんはフームと鼻を鳴らした。

「クレール殿はジラン大統領の一味、マノン殿はあの生命学博士の一味。もはや、気の休まる暇が無いと……。そなたの優秀さはあまりにも明白だ。だから、注目を集めてしまうのであろうな」

 その時だった。下の方から「陛下」と呼ぶ声が聞こえてきた。見ると、中央衛士隊の制服らしき物を着た一人の男性が飛び上がってきていた。

 男性は僕たちのそばに降り立つと、「大変です」と言った。

「下では騒ぎになっております。ケイ・サジスフォレ殿が施設を破壊し、職員を襲った後に脱走したと」

 僕が「それは誤解です」と否定すると、アルさんは「ちょっと待て」と僕を制した。

「儂とケイがここにいることは施設側に伝えたのか?」

「いいえ。先ほどすれ違った際の様子から考えても、サジスフォレ殿がそのような凶行に及んだとは思えず、まずは陛下に報告してからと」

 アルさんは男性に「腰を下ろせ」と命じると、僕に説明を求めてきた。僕は自分の立場の悪さを自覚し、この数時間に起きたことを事細かに説明した。

 部屋に監禁されて放置され、身の危険を感じたこと。そのため扉を最小限に破壊して外に出たら、いきなり三人の男に襲われたこと。三人に反撃し、それ以上の余計なことはせずに施設から逃げ出したこと。

「僕としては、正体不明の人間として監獄か何かに収容されたのだと思ったんです。最初に襲ってきた男にも、話せば分かると思って、まずは説明と質問をしたんです。でも、全く通じなくて、男は問答無用で攻撃してきました。だから、僕は自分の身を守ったんです」

 アルさんは首を傾げて、フームと鼻を鳴らした。

「襲ってきた三人にはどのように反撃したのだ」

「魔法を使って、廊下の床の上を滑るように吹き飛ばしただけです」

「部屋の扉に鍵が掛かっていたのは間違いないのだな?」

「はい」と僕は頷いた。

「妙だな……。あの扉は施錠されていなかったはずなのだ。現に、儂は毎日様子を覗きに行っていたが、鍵が掛かっていたためしは一度も無い……。監禁されるのは錯乱している者のみ。錯乱している者には吸収石を着けて余剰精気を吸い取り、監禁する場合には昼夜を問わずに一時間おきに見回り。儂はそう聞いた」

「間違いなく、鍵が掛かっていました」と僕は強調した。

「とすると、今日になって誰かが手違いで掛けてしまったのかも知れぬな……」

 そばに座っていた男性が「陛下」と割り込んできた。

「未だ追っ手を出さない所を見ると、独自に警邏隊を組織するつもりかも知れません。そうなったら面倒です」

「うむ」とアルさんは頷いた。「儂は施設へ行ってみる。そなたはケイを寄宿舎の儂の部屋に隠せ。儂が戻るまでは、家族であろうと誰であろうとケイに会わせてはならぬ」

「了解しました」と男性は答えた。

 首尾よく寄宿舎に潜り込み、かなりの時間が経って夕暮れが近付いてきた頃、ようやくアルさんが戻ってきた。

 アルさんは開口一番、「話はまとまった」と言った。

「相手方が手違いを認めた。昼食の配膳係があの部屋を覗いた後、手違いで鍵を掛けてしまったのだそうだ。そなたへの攻撃は、そなたが錯乱したと判断した上でのこと。錯乱した者は問答無用で拘束しないと、大変なことになる場合があるのだそうだ。あの者たちは打ち身と擦り傷を負ったが、すでに治っている。今回の件はこれで終わりと話は決まった」

 僕は直立の姿勢をとり、アルさんに向かって深々と頭を下げた。

「ただし」とアルさんの言葉は続いた。「先方にはそなたに尋ねたいことがあるそうだ」

「分かりました。行きます」と僕は了承した。

「先方とは施設長と例の生命学博士だ。加えて、そなたの両親とジラン大統領も来ている。大統領の所にも脱走の報が届いたらしい。そなたから聞いた話は伝えておいた」

「面倒をおかけして済みません」と僕は頭を下げた。

 僕はエスタコリン王国中央衛士隊の人たちにも挨拶を済ませ、アルさんと共に谷間の丘陵地帯を徒歩で西へ向かった。前方の空には夕焼け。アルさんは口数少なく、穏便に済ませよと言った。

 アルさんは僕の両親とも別個に話をしたらしい。二人のことは悪く思わぬ方が良かろうとアルさんは言った。僕の血縁者は僕の四代上までが健在。中でもサジスフォレを名乗る者の多くは、初等学院や中等学院で教師を務めている。そして、教師を続けていくためには高等学院との関係を良好に保たなければならない。時には、高等学院の博士陣の機嫌を損ねぬよう、追従しなければならないこともある。その結果、母は板挟みになっている。

「全ては良くある、そして避けがたい大人の事情だ」とアルさんは言った。

 精神治療施設の一角、会議室のような部屋にはアルさんが予告した通りの面々が揃っていた。両親は心配そうに、ジラン大統領は沈痛そうに、博士と施設長らしき人は憮然とした表情で僕を見詰めてきた。

 どんな話が始まるのだろうと思っていると、博士が脱走の経緯を尋ねてきた。僕はアルさんに対して行なったものと全く同じ説明を繰り返した。

「自分がいるのはこの施設だと推測できなかったのか?」と博士は尋ねてきた。

「推測できていたとしても同じです。監禁されて放置されれば、いずれは同じように脱出していたはずです」

「君はここが監獄か何かだと思ったと言ったが、なぜ我々が君をそんな所に収容するのだ」

「僕としては、五百年か千年が経ったと思っていたんです。だから、正体不明の不審者と見なされたと思って……」

 博士は鼻で笑った。

「五百年も千年も寝続けて、その挙句に一目散に脱獄か。君はお人好しで能天気と聞いていたが、確かにそのようだな」

「博士」とアルさんが声を荒げた。「あなたはそのような話し方しか出来ないのか。四百歳を越えた大人が十三歳の子供に毒舌を吐くとは、その気分次第の口汚さはもはや個性では済まされぬ。あなたは恥を知るべきだ。否。故無き皮肉や嫌味が口を突いて出るのを抑えられぬとなれば、もはや病気であろう」

「故はある」と博士は否定した。

「否」とアルさんは否定し返した。「今回の件はすでに手打ちとなっている」

「博士」と父も声を上げた。「あなたは私よりも二百五十歳以上も年上の方。私がこの高等学院の学生だった頃には、あなたはすでに博士として名を馳せていた。そんなあなたに言うのも何だが、あなたの物言いは執拗かつ不穏当だ。悪行の域に近付いている」

 博士はわずかに言葉に詰まる様子を見せると、気を取り直したように尋ねてきた。

「ケイ・サジスフォレ。君は正体不明の魔法を使っているようだな。どうやって職員たちの硬化魔法を回避したのだ。どうやって職員たちを吹き飛ばしたのだ」

「それを聞いてどうするんです」と僕は尋ね返した。

「未知の魔法であった場合には、調べさせてもらう」

「絶対に嫌だ。初対面の時からいわれの無い侮辱を続けるあなたには絶対に従わない」

「私にはその権限がある」

 場が静まり返った。博士の顔に満足げな笑みが浮かんだ。次の瞬間、母がおもむろに口を開いた。

「いいえ。先生にその権限はありません」

「何?」と博士が母を睨んだ。

「特殊な魔法技能の存在が確認された場合、生命学専攻は調査を行なうことと定められています。しかし、生命学専攻の各々が独自に調査に乗り出すと、問題が発生したり、責任の所在が曖昧になったりします。そのため、主任には調査員を選定する権限が与えられています。また、調査員に与えられているのは、調査対象に調査への協力を要請する権限です。つまり、調査対象への強制などどこにも無いのです」

 博士はウッと言葉に詰まった。

「現在、我が家の直系、サジスフォレを名乗る者は合計十名。内四名が博士の学位を有しています。ところで、私の博士号の審査はどうなっているのでしょう。博士は博士が選ぶ。審査会は三人の博士によって構成され、全会一致で結論を出す。聞く所によれば、私の審査は先生の都合で延々と引き延ばされているとのこと。もちろん、先生も多忙であるとは理解していますが、一体いつまで待たせるつもりです。職務怠慢は懲戒の根拠になります。審査員を別の方に代わっていただけないでしょうか」

 博士が大きく息を吐いた。僕は拍子抜けした。婉曲な批判。懲戒は単なる脅し。現時点で実際に請求するつもりは無い。母のそんな及び腰に僕は失望した。

「ケイ」とジラン大統領が呼び掛けてきた。「話は聞きました。あの屈辱刑がケイの他者への認識を変えてしまった。それは良く分かりました。アルヴィンには、今博士が罵られたのと同じように、私も罵られました。先日の言い草の件は詫びます。見ての通り、クレールとマノンにも思う所はあったようです」

 僕はジラン大統領を無言で見詰めた。

「やはり、私もケイの魔法が気になります。答を聞くだけ。大統領たる私が確約します」

 室内の視線が僕に集中していた。仕方が無いと思いながら、僕は博士を睨み付けた。

「あらかじめ言っておきますが、今や僕にはあなたを瞬殺できるだけの力がある。だから、僕に向かって二度と偉そうな態度を取らないでほしい」

「何?」と博士は僕を睨み返してきた。

「何も、へりくだれと言っている訳ではないんです。でも、あなたのその口から特にあの屈辱刑の件で馬鹿にする言葉が出てくると、殺意が湧く」

「なぜ、私がそこまで憎まれなければならない」

「あなたは初対面の時、あの屈辱刑の話を持ち出して、『大変な息子。実に育てがいのある息子』と僕を罵った。つまりあの時、あなたはあの冤罪を肯定したんだ。あの百五十人は僕を取り囲んで僕を罵倒した。あなたはあいつらと同じだ」

 博士が口を閉ざした。僕は再びジラン大統領に目を向けた。

「あの屈辱刑が始まった時、僕は確かに反省していたんです。でも刑の途中で、多くの罵声に混ざって『こいつには躾が足りない』という罵倒が飛んできたんです。躾とは知性を期待できない者に対する拘束と強制。まさに屈従。あれで怒りが湧いたんです。僕は笑い声を上げただけ。実害は全く出ていないのに、理解と反省だけでは足りずに屈辱を与えられ、屈従までも強いられなければならないのかと。頭を使わなければ、頭を使えと言う。頭を使えば、頭を使うなと言う。頭を使ったことを反省すれば、お前には頭が無いと言う。もう、何もかもが果てしなく煩わしい」

「落ち着きなさい。生か死か。すぐにそこまで飛躍してしまうような激しさは、あなたの年齢では尋常ではありません。まるで生死を超越した悪霊に憑かれているかのようです」

 違う。僕は感じたのだ。先鋭化が足りない。生死を越えてもっと激烈であるべき。そうでなければ、僕は何者にもなれないと。

「言っておきますが、僕は攻撃して回ったのではありません。逃げ出したんです」

「分かっています。だから、私も説得という手段を採っているのです。とにかく、今は怒りを抑えなさい。あなたには優れた知性があります。あなたはその知性をもって、人間というものをもっと理解しなければなりません」

「ケイよ」とアルさんが穏やかに声を掛けてきた。「儂はそなたのことを高く買っておる。そなたを買う者は他にもいる。それらの期待を裏切ることだけはするな。顔を上げて己を磨き、自ずと輝く時が来るのを待つのだ」

 僕は言葉に詰まった。アルさんの忠告は重かった。僕は気を鎮めて、ジラン大統領のそもそもの問いに答えた。

「僕が使ったのは神話時代の思念法です。神話時代の思念法使い。神話時代の超越派の水準。それが僕の目標です。思念法の構造を理解し始めた今となっては、高等学院の生命学専攻が管理する現代の劣化した魔法などあまりにも幼稚で馬鹿馬鹿しい」


次章予告。ケイは独りスルイソラ連合国に移り住む。新しい土地、愉快な人々、ケイの居場所。そして、ケイは国難に立ち向かう。

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