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第二章 逃亡の思念法(その一)

 あれは二年前のことだった。西地方政庁から通達が出た。フレクラント川の北側、大障壁のすぐ西側に野生の狼が居付いている模様。目撃証言によれば、群れに属さぬ単独の狼。自然強化魔術を使えるようなら大障壁を越えてくるかも知れない。そうなると面倒なので、見掛けた者は森林地帯の奥へ追い返せと。

 あの時、僕は十歳、初等学院の五年生だった。独自に狼のことを調べてみると、狼は肉食、牧畜にとっては害獣だが、農耕にとっては益獣とあった。ルクファリエは農耕の村。それならば、捕まえて飼い馴らせば役に立つ。僕はそう判断し、独りで森林地帯を探し回って白狼を捕まえた。誰が上位者であるのかを理解させ、怪我を治してやり、餌を捕まえてやり、僕は白狼を従わせた。

 僕は嬉しかった。誇らしかった。村の領域内には農耕にとっては害となる小動物がわずかながらも住んでいる。それらへの対処がこれで容易になる。皆も喜んでくれるはず。僕はそう予想した。しかし、村の大人たちは僕の言葉に耳を貸してくれなかった。

 大人たちは言った。狼は犬とは違う。ルクファリエ村でも少数ではあっても家畜が飼われている。そもそも誰が狼の面倒を見るのだと。当然、僕が率先して面倒を見るつもりだった。農耕組合も手を貸してくれるだろうと僕は期待していた。ところが、僕なりの善意と思慮の報いは、初等学院生には異例の三級屈辱刑だった。

 嬉しさと誇らしさのあまりの高笑い。その声が近隣の村々にまで響いたことは大問題。そのこと自体は僕も直ちに理解した。しかし、僕の主張は一切認められずに全否定。そして、異例の三級屈辱刑。僕にはどうしても納得がいかなかった。

 僕は体中に吸収石を着けられ、村政庁の玄関前に独りで立たされた。一見したところ、僕を取り囲むのは村の住人の約四分の一、百五十人程度の大人たち。僕は反省の弁を述べさせられた。次いで、大人たちから一斉に罵声と嘲笑と水を延々と浴びせ掛けられた。

 それ以降、僕は精神状態に異常をきたし、魔法を上手く制御できなくなった。無意識に魔法力を漏らしてしまうような、いわゆるお漏らしではない。魔法を発動しようとすると雑念や怒気が入り込む。その結果、光球が空爆になってしまったり、火球が炎爆になってしまったり、魔法の発現位置が狂ってしまったり。さらには、大出力の魔法を発動したいという衝動に頻繁に駆られるようになった。

 その結果、僕は村外れの小屋に独り隔離された。魔法医術士を名乗る人は、気が済むまで地中に向けて光爆を撃てと言った。光爆ならば害は無い。光爆を撃ち続けて、余剰精気の蓄積量を極力減らせ。さらには、就寝の際には吸収石を身に着けろと。

 僕は初等学院を休み続け、連日昼夜を問わずに撃ち続けた。光爆に次ぐ光爆。光爆が失敗した結果としての炎爆や空爆。三級屈辱刑の場にいた大人たちを何としてでも全員吹き飛ばし、僕自身も死ねば良かったと後悔しながら。

 そして遂に、僕は誤って自分の体を焼いてしまった。最低限の自己治癒を施した後に集落へ向かうと、大人たちは僕の姿に驚き、処刑に加わった者たちはおぞましいものを見るような目を向けてきた。

 報は首府メトローナの大統領府にまで届き、大統領が自らやって来た。眼光鋭く藪睨み。余計なことは一切口にせず、見るからに強面。ソルフラム大統領はそんな老年男性だった。

 大統領は多忙のため、西地方政庁からの最新の報告書にはまだ目を通していなかったらしい。世を騒がせて三級屈辱刑を受けた者がいる。そんな単純な事実関係しか把握していなかった。大統領は僕の説明を聞くと、刑罰が科された経緯を調べてくれた。

 当時、父は西地方の副中統領であり、ルクファリエ村の統領だった。しかし、身内が起こした事件であったため、公私混同を防ぐ規定のせいで審議には全く加われなかった。制度上、異議を申し立てることも出来なかった。

 当時、母は初等学院の教師であり、規則の順守を教え込む立場にあった。規則に沿った手続きによって刑が決まった以上、やはり職業倫理上、異議を申し立てることは出来なかった。

 そして当時、僕は初等学院の五年生、じきに十一歳になろうとする十歳。刑罰における級の違いも分からず、三級屈辱刑が村の権限で科せる最高刑であることも知らなかった。

 僕への罰は教育的な非公開刑である五級屈辱刑が妥当。当初、村の審議会はそのように認識していたらしい。なのに、結論は公開刑である三級屈辱刑。他村からの抗議を勘案して量刑の重加算を行なったと公表されていた。

 ところが大統領の調査によれば、周囲のどの村も抗議など行なっていなかった。審議員はルクファリエ村から選ばれた大人三人。その三人に対する嫌がらせのつもりで、他村のごく一部の者が執拗に過度な苦情を入れ続けた。それが実態だった。

 三級以上の屈辱刑は公開刑。集団私刑を禁じるためのもの。集団私刑の形態だけを残して制度化したものが三級以上の屈辱刑。その制度から逸脱している以上、僕に加えられたのは単なる集団私刑。

 あまりのでたらめ振りに、大統領は村の上空に飛び上がって拡声魔術を発動し、村全体を「衆愚のルクファリエ」と罵倒した。

 審議員三人は不当な威力に屈して刑罰に関する法を曲げて運用したとして、短期の懲役刑に処せられた。その後、三人は家族と共に村から出ていった。

 他村の五人は威力をもって刑罰に関する法の運用を曲げさせたとして、短期の禁固刑に処せられた。その後、その内の数人は理性の欠損や精神の異常を疑われて高等学院付属の精神治療施設に収容された。

 程なく僕の心は安定を取り戻し、魔法力の制御不全も治まった。僕の処刑に加わったのは村の約四分の一。それらの者たちからは謝罪も何も無く、互いに無視し合うようになった。それら以外の中には、当初から僕への刑を批判していた人たちもいた。そういう人たちとは以前と同様の付き合いをするようになった。

 二年前のあの時、大統領は最後に僕に言った。自身の見識の水準を認識し、見識に見合った行ないを心掛けよと。行ないによっては今後、二級や一級の刑を受けることもあり得るのだと。

 

◇◇◇◇◇

 

 秋第二週第四日。アンが背後からべったりと僕に覆いかぶさる。留め具でアンの体を僕の体に繋ぎ止める。「早く、早く」とアンが僕の後頭部に軽く頭突き。僕は「亀は亀らしく黙れ」と命じて上昇、低空低速飛翔に移る。ここのところ、それが平日朝の恒例行事となっていた。

 自宅の庭先から飛翔開始。広葉樹の並木道を道なりに進むと、そこには仕事場に向かう大人たち、学院に向かう子供たち。明らかに、皆は僕たちをこっそりと一瞥していた。しかし、僕たちに構おうとする者はもはや一人もいなくなっていた。

 二本の脚で立ち続けるのと同様に、二本の脚で歩き続けるのと同様に、空を飛ぶのも無意識に行なえなければならない。フレクラント国では初等学院入学と同時に飛翔の訓練が本格的に始まる。

 飛ぶだけなら誰でも出来る。問題は真っ直ぐに飛べるか、正確に曲がれるか、確実に止まれるか。低空飛翔と中空飛翔では地上の道路や川に沿って飛ぶこと。さらに急ぐ者は高空へ。すれ違う際の手順。交差する際の手順。飛翔に関する様々な規則。

 調べるまでもなく、アンの飛翔は精度を欠き、フレクラントの空を飛べる水準には達していなかった。そのため毎朝、僕がアンを背負って隣村の中等学院に登院していた。

 あれは今から八日前、秋第一週第一日、秋学期初日のことだった。ここでは知り合いの目も多いし、男子と女子で何となく気恥しい。僕はそう感じ、アンの体を背中合わせに繋ぎ止めて学院に急いだ。ところがはたから見れば、亀の上に引っ繰り返した亀を乗せたような見栄えだったらしい。多くの人が僕たちの姿に失笑。その間、アンは「馬鹿なの? 馬鹿なの? ケイは馬鹿なの?」と天に向かって罵り続けていた。

 お嬢様ぶっていると素性がばれる。そんな警告をしたら、あっという間にこのありさま。お嬢様引っ繰り返せばただの亀、馬鹿なの早くと朝頭突き。そんなことを心の内で反芻しながら低空低速飛翔を続けること約二十分。村と村を隔てる森林を抜けて隣村の領域に入り、並木道の先に西地方中等学院が見えてきた。

 フレクラント国は想像していた以上に田舎だとアンは言う。僕に言わせれば話は逆。

 エスタコリン王国では、貴族の平均寿命は約百九十歳、一般民の平均寿命は約百六十歳。片や、フレクラント人の平均寿命は約五百歳とはるかに長い。その一方で、エスタコリン王国の人口はフレクラント国の約十七倍。つまり、エスタコリン王国では年齢ごとの人口が格段に多く、世代交代もどんどん進む。

 その状況を実際にこの目で確かめてみると、賑やかと言えば賑やか。しかし、何だか慌ただしくて騒々しい。それがエスタコリン王国に対する僕の印象だった。

 学院の正門を入った所に着地すると、近くに降り立った同級生の男が声を掛けてきた。

「今日もケイが二人いる」

 恒例のちょっかい。僕は無視して留め具を外し始めた。

「お前たち、本当にただの従兄妹なの? 双子に見えるんだけど」

 留め具が外れた。アンが僕から離れた。僕は同級生に目を遣り、鼻で笑った。

「頭が糠床なのか? その冗談には笑いも涙も出ませんね」

 同級生の男が舌打ちした。

「ひどい言い方。誰の真似だよ」

 リゼット・ジラン新大統領。それは言わずに、僕は同級生の男に釘を刺した。

「アンのことがそんなに気になるのか? でも、駄目だからな」

 僕は前に抱えていた背嚢を後ろに背負い直した。その時、予鈴が鳴った。僕はアッと声を上げた。同級生の男が駆け出した。見ると、木造平屋建ての学舎の玄関には学院長の姿。アンはとっくに学舎に向かって走っていた。

 

◇◇◇◇◇

 

 午前四時限、午後二時限。それをもって放課後となり、補習や追加訓練のある者を残して一斉に帰宅。その後は家事や親の仕事の手伝い、自宅で自習。それが中等学院生の一般的な日常だった。ただし最近、僕の生活には一つだけ変化が生じていた。それはアンを村の初等学院へ送り届けること。アンは毎日、魔法の基礎訓練を受けていた。

 放課後、僕はアンを背負って村に飛び戻り、初等学院に降り立った。学舎からはいつも通りに生徒たちの声。僕はアンを先生に引き渡し、日課が一つ片付いた。

 次の仕事は水汲みと買い物。準備のために自宅に戻ってみると、敷地の入口に人の影。意外なことに、アンの家庭教師役の侍女殿が立ち尽くしていた。

 侍女殿によれば、西の大公家がアンの暮らし振りを気に掛けており、その様子を覗きにきた。また僕の父の意向で、西の大公家は僕の家に必要経費だけを納めている。やはりそれでは失礼に当たるだろう。そのため謝礼も用意し持参した。

 両親が帰宅するのはおそらく二時間ぐらい後。僕がそう伝えると、それを待つと侍女殿は答え、父の現状を尋ねてきた。

 ジランさんは中統領と副中統領による信任投票で大統領に就任。父は西地方の統領と副統領による信任投票で西地方の中統領に就任。さらにはジランさんの任命で副大統領に就任。僕がそう告げると、侍女殿はアアと感嘆の声を漏らした。

「もはや、お父様も我が主よりも格上。まことに、おめでたいことと存じます」

 僕は祝辞に頭を下げながら思った。やはりこの人も貴族の出。どうしても、まずは格の上下を確かめずにはいられない様子。

「ところで」と僕は切り出した。「まだ、名前を伺っていないのですが……」

 侍女殿はハッとする様子を見せ、クリスタ・フルドフォークと名乗った。聞き覚えのある名前だった。確かエルランド殿下から。この人のことだろうか。

「フルドフォークさんは王家のエルランド殿下とお知り合いですか?」

「ええ。少しだけ」とフルドフォークさんは意外そうな表情をした。

 唐突に余計な詮索をしたせいか、そこで会話は途切れ、一瞬見詰め合ってしまった。僕はすぐに話題を変えた。

「アンは今、初等学院で魔法の訓練をしています。行ってみますか?」

「ぜひ」とフルドフォークさんは頷いた。

 僕は家の中に荷物を置き、飲料水用の甕を持ち出した。僕の脇には宙に浮かぶ大きな甕。フルドフォークさんは驚いたように「それは何のために」と声を掛けてきた。

「今日の家事です。村の井戸へ行って、飲料水を汲んでくるんです」

 フルドフォークさんは感心したように首を振った。

「浮揚魔法もそこまで出来るようになれば、やはり便利ですね」

 その言葉に、僕は純然たる疑問を抱いた。

「そちらでは、一般民の方々はともかく、貴族の方々でも難しいんですか?」

「個人差があって、持ち上げることは出来ても、安定させられない者もいると思います」

 僕は実情を理解してフーンと鼻を鳴らした。僕が先に立って歩き出すと、フルドフォークさんは「それにしても」と声を掛けてきた。

「ここは良い所ですね。まるで森の中の別荘地。他の家も全て村の方々の住まいですか」

 僕が肯定すると、フルドフォークさんは溜め息をついた。

「高等学院で勉強はしたのですが、私は初めて見ました。離散しているように見えて、実はほぼ全ての家や施設が一か所に集中している。道も水路も全て合理的に配置されている」

「そういうのを指揮監督するのも父の仕事です。全員が集まって住めば、共用の設備は最小限で済む。仕事場へは飛んで行けば良い。フレクラントの特徴の一つですね」

 僕はそう答えて足を止め、フルドフォークさんの方に振り返った。

「そこから村の大通りですけど、その前に。その話し方では素性がばれます。僕のことはケイ君と呼んでください。それから、アンソフィーはアン・エペトランシャです」

 フルドフォークさんはアアと納得の声を漏らした。

「私のことはクリスタとお呼びくだ……、呼んでくださいね」

 僕は頷き、再び歩き始めた。

「クリスタさんはいつこちらに着いたんですか」

「つい先ほどです……、先ほどかな」

「向こうからここまで、どれぐらい時間が掛かりました?」

「道に沿って休み休みに飛び続けて一日半。途中、メトローナの宿屋で一泊して」

 やはり、エスタコリン王国の貴族の飛翔では、一日を掛けて中地方に到達するのがせいぜいの模様。僕が「大変でしたね」と労うと、「ところが」とクリスタさんは言い出した。

「国境の山に入ってしばらくした頃から、休むたびにどんどん飛べるようになって。これが環境中の自然精気の密度の違いなのかしら」

「そうだと思います」と僕は肯定した。「ところで、そちらの国の様子は」

「騒ぎはまだ続いているけれど、かなり治まったかしら」

 勢力図が大きく書き換わって、現在はフェリクス殿下たちが全てを掌握。国王陛下はもちろん宰相も不正を行なっていた訳ではないので、二人はそのまま引退、隠居。クリスタさんはそんな概要を教えてくれた。

 少し歩いて初等学院に着いてみると運動場の中央辺り、人の背丈ほどの空中に小さな光球が七つ浮かんでいた。運動場の端には学院の全生徒八人とアン。先生二人の指導の元、横一列に並んで魔法の訓練を始めていた。

「はい、吸ってーえ。はい、吸ってーえ」

 一々語尾が上がる独特な口調。そんな掛け声と共に、アンの光球は微妙に揺らぎ、光が弱くなった。

「はい、吐いてーえ。はい、吐いてーえ」

 光球が安定し、光が強くなった。

「ケイ君。あれは何をしているのかしら」

「準備運動です。光球魔法を発動しながら、環境中の自然精気を取り込んだり、吐き出したりしているんです」

「お嬢……、アンは上手く行っているのかしら」

「いいえ。自然精気を取り込む時に、光球への出力が弱くなっています」

 多分、この件は話し始めたら切りが無い。そう感じて、僕は断りを入れた。

「僕はこれから水汲みに行きますので」

「あの先生方のどちらかがケイ君のお母様かしら」

「いいえ。初等学院の教員は全員、住んでいる所とは別の学院に務めているんです」

「そうですか」とクリスタさんは首を傾げた。「アンの訓練はどれくらい掛かるのかしら」

「普通ならあと一時間ぐらい。それから、『かしら』ばかりで何だか変です」

「それなら、ケイ君に付いて行こうかし……、行こうかな」

 日暮れまであと数時間。集落には人影が増え始めていた。仕事帰りの人。商店を覗く人。共同浴場に向かう人。夕飯の支度が始まるまでくつろぐ人。その四分の一は僕の敵。

 敵たち、あの審議員たち、審議に圧力を掛けた他村の連中。いつかまとめて吹き飛ばす。時折ふと、そんな夢想に近い思いが湧き上がる。特に先日の政争以降、僕の怒りはより鋭くなったような気がする。

 あの政争は人々の生活と人生を守るための戦い。場合によっては武力衝突に発展していたかも知れない。怒りというものは理由次第であそこまで激烈になり得るのだと、僕はあの時初めて理解した。

 クリスタさんは僕のそんな心中には気付かずに、村の光景を珍しそうに眺めながら色々なことを尋ねてきた。村の人口は約六百。大人の過半は村の農耕組合に所属して郊外の農地で農耕に従事している。主力作物は水稲と砂糖と果物。国内各地に出荷されている。

 僕の説明がそこまで進むと、クリスタさんは「こんな高原で砂糖を」と驚いた。

「かなり昔に南のスルイソラから持ち込んだのだそうです。今でも農耕組合が品種改良を続けています。蜂蜜と違って小さな子供も食べられるので、中々好評だそうです」

 クリスタさんはヘエと声を上げた。

「村の皆さんは働き詰めという印象ではないけれど、農作業にも魔法を?」

「はい。作業の内容自体はクリスタさんの所と大差ないはずですけど」

 クリスタさんは感じ入ったようにフーンと鼻を鳴らした。

 村の共同井戸では、三人ばかりが順番を待っていた。二人は敵ではなく、見慣れぬ人物の出現に興味津々の様子。クリスタさんはアンの身内と名乗った。残る一人は無言で僕に鋭い視線を向けてきた。もちろん、敵たちの主張は知っている。悪いのは審議員、自分たちは悪くない。僕と敵は一瞬の睨み合いの後、互いに目を逸らした。

 僕の番がやってきた。露天掘りの中央、泉の脇に立って甕の蓋を開ける。浮揚魔法で水をどんどん浮かせて流し込む。そして蓋。中の水ごと硬化魔法を掛けて作業は終了。僕が甕ごと飛び上がって露天掘りの外に降り立つと、クリスタさんも飛翔魔法で付いてきた。

「僕はいったん帰宅して、隣村に買い物に行くんですけど、クリスタさんはどうしますか」

「アンの通う中等学院がある村? それなら、ぜひ行ってみたいと思うのだけれど」

「別の村です。中速飛翔で片道十分。徒歩だと普通に歩いて一時間半ぐらいの所です」

 クリスタさんはアアと弱々しい声を漏らした。

「迷惑になりそうだから、私は初等学院に戻ることに……」

 僕は了承し、そこでクリスタさんと別れた。

 

◇◇◇◇◇

 

 客間を覗くと、クリスタさんが申し訳なさそうに声を掛けてきた。

「ケイ殿。突然押し掛けてこのようなことになってしまい、誠に申し訳ございません」

 何度目の謝罪だろう。さすがに可哀想になってきた。しかも、西の大公家の足元にも及ばない小さな家の小さな客間。あちらで受けた厚遇との差に、僕は気恥ずかしさを覚えた。

「もう謝らないでください。村に宿屋が無いのが悪いんです。それを忘れていた僕も悪いんです。色々な意味で、ここはエスタコリンではなくフレクラントなんです」

 部屋の中央、天井から吊り下げられた照明器の光が弱くなり始めていた。僕は吸収石を差し出た。

「照明器が暗くなったら、この吸収石に交換してください。やり方は分かりますか」

「いえ。フレクラントの照明器を実際に見たのは昨夜の宿屋が初めてで」

 僕は照明代わりに光球魔法を発動し、照明器を外して手に取った。片手大の器具。拳大の吸収石と小石大の発光石を組み合わせたもの。吸収石は周囲から精気を吸う。発光石は吸収石内の精気を光に変換する。僕はそんな風に構造を説明し、新しい吸収石を手渡した。

「寝る時には、吸収石と発光石の接触を断つよう、照明器を設定してください」

「フレクラントでは照明は全てこれで?」

「たまに灯火も使います。あとは短時間なら光球魔法を。ちなみに、新しい吸収石にはアンの精気が入っていますから」

「えっ」とクリスタさんは息をのんだ。「お嬢様に何を」

「暴発対策です。吸収石は周囲の精気を容量一杯までゆっくりと吸い続けます。それを利用して、寝ている間に余剰精気を貯め込まないよう、アンは毎晩胸の所に吸収石を着けているんです。フレクラントでは魔法力のおねしょをしそうな子供は皆そうしています」

「おねしょですか……。やはり、フレクラントの対策は厳重ですね……」

 その瞬間、おねしょと言われた時のアンの微妙な表情が脳裏をよぎった。あの頭突き亀。僕に対してももう少し神妙になれば良いのに。

「そんなことをして、基礎精気まで吸われませんか」

「大丈夫です。魂は体に強く結びついているので、簡単には吸われないんだそうです。それにそもそも、吸収石には人間の精気を吸い尽くすだけの容量がありません。ちなみに、発光石は吸収石からしか精気を引き出しません。仕組みは良く知りませんけど」

 すでに日は暮れ、夕食も済み、村の共同浴場で一日の汚れを落とし終え、あとは寝るばかりとなっていた。しかし、僕がその場を後にしようとすると、クリスタさんは「お父様も交えて三人で少し話をしませんか」と誘ってきた。

 何事だろう。でも、今日は秋第二週第四日。明日は五日目、週末の休日。少しぐらいの夜更かしなら問題ない。僕はそう判断して了承した。

 クリスタさんは、月も綺麗なことだし外で涼みたいと言った。父も賛同し、僕たちは庭に椅子を持ち出した。それぞれの手には杯。中には果汁を垂らした水。クリスタさんは美味そうに一口飲むと、溜め息を漏らした。

「冷たくて美味しい。閣下の家には氷室があるのですか。王宮にも無いのに……」

「いや。冷却魔法。基本系魔法の一つに温熱魔法があるが、その逆を行なう派生魔法」

 クリスタさんはハアと感嘆の息を吐いた。

「やはり、フレクラントは違いますね。私の国には派生魔法まで使える者は……」

「君はしきりにフレクラントは素晴らしいと言うが、一般工学などはエスタコリンの方が進んでいる。社会のあり方という観点からは魔法も力だが、人の数も力だ」

「勉強になります」とクリスタさんは頷いた。「それにしても、ここの暮らしは本当に豊かで穏やかで。それに、夜はヴェストビークよりも幾分涼しいような気が……」

「ここは標高が高いから」と父は答えた。「その分、夏は短く、冬は長い」

「はい。秋の始まりはフレクラント国の方が一週間、早いのでしたね」

 クリスタさんは一息つくと姿勢を正し、改まった口調で話し始めた。

「まずは、家令から閣下への伝言を。閣下の訓戒、心に刺さりました。肝に銘じますとのこと。あの後、家令は自身の息子たちからも似たような苦言を呈されたそうです」

「了解した」と父は笑った。「息子たちは商売人だそうだな。さすがに良く分かっている」

「次に、家令からケイ殿への伝言を。僭越ながら一つ御忠告をとのこと」

 僕は呆気にとられながらも、「はい」と続きを促した。

「国王陛下に面会された時、おそらく陛下は閣下には『名前を覚えておく』と言われたはず。ケイ殿には言われなかったはず。それが貴族の流儀。身分というものなのです」

「はい」と僕は了解した。

「一方、エルランド殿下は『名前を覚えておく』と言われたとのこと。あの方は間違いなく切れ者です。殿下との御縁を大切になさいますように。伝言は以上です」

 意外にまともな忠告だと僕は思った。

「家令は決して悪い人間ではありません。そこは理解していただきたいのです」

 僕が簡潔に了承すると、クリスタさんも確かに伝えたと言わんばかりに大きく頷いた。

「ところでケイ殿。中等学院でのお嬢様の様子はいかがでしょうか」

「夕飯の時にアンが話していた通りです。学年に関係なく、女子たちと仲良くしています。それから、今日も歴史の本を一冊借りてきたようです。実家の書室は古い本ばかり。中等学院は新しい専門的な本を取り揃えている。そんなことを言っています。でも……」

 僕がわずかにためらうと、クリスタさんは「でも?」と続きを促してきた。

「アンの言動が大公家の時とは全く違うので、ちょっと困惑……」

 その瞬間、クリスタさんはアハッと笑いをこらえた。

「今が素です。あの時は極度に緊張していたのです。随行員に選ばれるような方の話に付いて行けるだろうかと。そうしたら案の定、ケイ殿の話はどんどん難しくなって」

「ケイはどんな話をしたんだ」と父が尋ねた。

「何と、神の概念に関する考察です。お嬢様は頑張り切れずにさりげなく逃げました」

 父がフハハと笑った。あれは逃げの話題転換。そう気付いて僕も笑うと、「お前が笑ってどうする」と父は意味不明なことを言った。僕は笑うことをやめた。

「ケイ殿」とクリスタさんも薄く笑った。「気になっているのは学院での異性関係です」

 僕はアアと納得した。アンは上級貴族の令嬢、王族の妃候補。

「急な転入ですから、注目を浴びるのは仕方が無いと思います。でも、男子たちは僕がそれとなく追い払っていますから特に問題は……」

「分かりました。これからもそのようにお願いいたします。話は変わりますが……」

 その瞬間、父が訝しげに「んん?」と鼻を鳴らした。

「ケイが王宮でやったことについては、そちらではどんな評価になっている」

 クリスタさんは何かに思い当たったかのようにアアと声を漏らした。

「やはり、ケイ殿は前大統領閣下に送り込まれた密偵もしくは試金石役だった」

 前大統領は、エスタコリン側が僕をどのように扱うのかを見ていたのではないだろうか。あの宰相は年を追うごとに独自のゆがんだ言説を他者に押し付けることが多くなり、密かに反感を買っていた。前大統領はそこに僕を送り込み、宰相は見事に不遜かつ不要な干渉をしてしまい、他国人の僕に何のおもねりも無く討ち取られてしまった。

 元々は、あの宰相は非常に有能な人物だった。しかし、その知性も衰えた。そもそも、交渉団の出立を待つばかりとなった段階では次世代交流などあり得ない。若君たちとの接触を妨げるため。やはり、それは後付けの詭弁だろう。真相は単に衝動的に偉ぶってしまっただけ。そんな所を前大統領に見透かされた。

「ケイ殿が鉈を購入したと知った際には皆、ある種の象徴的な行動と感じたそうです。また、方位磁石は逃走の準備かと」

 僕は大きく息を吐いた。それが真相。だから、僕は色々と詮索されて試された。

「もしかして、僕と家令殿との一件は僕を試すつもりで……」

「あれは偶発的なものです。しかし、途中からはその気もあったようです。あれでケイ殿の対人戦闘力は大方分かったそうです」

「どう分かったんですか」

「衛士隊で言えば、上の中、もしくは上の下の水準かと」

 父がホウと声を漏らした。

「首位には程遠いと」

「いえ」とクリスタさんは慌てた。「やはり皆様は子供に至るまで凄いという話で……」

「いや。事実として首位には程遠い。そちらの率直な見解を聞かせてやってくれ」

「はい」とクリスタさんは安堵の様子を見せた。「衛士隊員は、魔法能力はフレクラントの皆様に及ばなくとも、様々な技術や武器を使用しますから」

「もっと具体的には」

「私には詳しいことは分からないのですが、魔法を使える者同士の戦いでは立ち止まっていてはいけない。まずは動かなければならない。あれでは戦法や決め技がいかにも少ないように見える。そんな話を聞きました」

 父がウムと頷いた。僕はクリスタさんに尋ねた。

「僕は密偵とか試金石役とか、そういう指示を受けていた訳ではないんですけど、やはりということは最初からそう思っていたんですか」

「状況が状況でしたし、次世代交流のために来訪されたようにも見えず、いわゆる模範生のように振る舞われる訳でもなく、何をしておられるのか良く分かりませんでしたので」

「だとしたら、今でも僕は警戒されたり嫌われたりしているのでは」

「そんなことはありません。未成年に伝令や情報収集を任せるのは良くある話です。ですから、王国西部の者たちはケイ殿のことを悪く思っていません」

 僕は納得した。しかし、父は「いや」と口を挟んだ。

「それでは説明が中途半端だ。三級屈辱刑の件も聞いているのだろう?」

「その件を知ったのは、皆様が帰国された直後のことでした。その時は、フレクラント国の重鎮の方々がケイ殿を認めておられるのだからと……。今回、私が調べて回った限りでは、どうやら冤罪だったようで。大公家にもそのように報告いたします」

 父は小刻みに数回頷いた。

「君は先ほど、話は変わると言ったが」と父は促した。

「実はここまでは表向きの話で」とクリスタさんは声を潜めた。

「裏の話があるのか」と父は意外感を表わした。

「ここからは内密にということで。と言っても、極秘というほどではないのですが」

 僕は頷き、父は首を傾げた。

「歴代の大公様は……」とクリスタさんは説明し始めた。

 日記というほどではないが日常的に記録を付けており、大公家には歴史時代中期からの全記録が残されている。中でも特に重要な申し送り事項は別冊にまとめられており、そこには「転生に興味を示す娘は野に解き放つべし」との記述がある。

 筆者は不明。その事項には署名が無く、筆跡はどの大公のものとも一致しない。記述の順番から考えて、その事項は今から約二千年前に書き加えられたものと推測される。

 何者かが無断で書き加えたとは考えられない。別冊には歴代大公が目を通してきた。その際、そのような書き込みがあったら、当時の大公が気付いて削除したはず。何よりも、それらの記録はある場所に厳重に保管されている。つまり、当時の大公が何者かに書き加えさせたか、書き加えることを許したか。

 話がそこまで進んだ時、父がウームと唸った。

「裏の話と言えば裏の話なのだろうが、それがどういう……」

 僕は話の途中で気付いていた。

「アンは転生に興味を持っている」

 僕の指摘に、父は怪訝そうにエッと声を漏らした。

「お嬢様が現状への不満を貯め込んでいることは明らかです。不意の暴発。傷跡の放置。突然の家出。そこまで奇矯な振る舞いをする者は大公家の歴史の中でもかなり珍しいとのことです。これ以上妙な方へ向かわぬよう、どうか御配慮を」

「だから、あそこまでフレクラント行きを渋ったのか」と父は顔をしかめた。

「どうかよろしくお願いいたします」

「まあ、いい。分かった」

 父が「お前もいいな」と確認してきた。僕は頷き、首を傾げた。

「でも、『解き放つべし』って、当人は自由になりたがっていて、それをその通りにしてやれという意味だよね」

「どうだろう」と父は首を傾げた。「いずれにせよ、俺は予言のたぐいは信じない」

 その時、玄関の扉が開き、「クレール」と父を呼ぶ母の声が聞こえてきた。

「そろそろ中に入ったら? いつまでもそんな所にいたら、クリスタさんが体調を崩してしまう。クリスタさんも疲れているでしょう。そろそろ寝た方がいいわよ」

 クリスタさんが「はい」と答えて腰を上げた。僕と父もその後に続き、夜の密談はそこで終了となった。

 

◇◇◇◇◇

 

 翌朝、目覚めてみると、空には雲が掛かり始めていた。父によれば、おそらく夕方までには雨が降り始めるだろうとのこと。両親に勧められて、侍女のクリスタさんはさらに我が家に滞在することになった。

 休日朝の僕の日課は家の掃除。クリスタさんは箒を手に僕と行動を共にしていた。クリスタさんが箒でごみを寄せ集め、僕が掃除器で吸い取る。そのたびに、クリスタさんは興味と感心と驚きをあらわにした。

「そんなに単純な物がここまで便利だなんて」

 掃除器はフレクラント国の工芸品。細長い筒と、その一方の端に布製の特殊な袋を付けたもの。筒を握って魔法力を発動し、筒の中に空気の流れを作ってごみを吸い込む。

「便利は便利なんですけど、僕としては中々制御が難しくて……。実際、箒の方が速くて確実な場合もあるんですよ」

「それでも気分が良いでしょう。箒を使うと、最後に細かい埃が残って癪に障る」

「エスタコリンに掃除器は無いんですか?」

「細かく制御できる人がほとんどいなくて、全然普及しなかったらしい」

 そんな言葉を交わしながら手を動かし続け、半時が経った頃に掃除は終了した。いつも通りなら、その後は洗濯の手伝いなどと作業は続く所。しかし、今やそれはアンの仕事。洗濯はアンの訓練の場と化していた。

 玄関から入った所は広い土間。そこは調理場であり、飲料水や食料などの保管場所であり、洗濯の場でもある。そして土間の隣は居間。居間から先は膝丈ほどの高さの板敷となっており、土足厳禁とされている。僕とクリスタさんは桟敷席に並んで腰を下ろし、眼前の舞台で繰り広げられるアンの洗濯劇を鑑賞し続けた。

 家の外から「はい、浮かすーう」と掛け声が聞こえてきた。小振りの桶を宙に浮かせながら、アンが覚束ない足取りで裏口から土間に入ってきた。それに続いて母。

 次いで「はい、そそぐーう」との指示。アンは魔法を用いて小振りの桶をゆっくりと宙で傾け、洗濯用の大きな桶に水を注ぎ込んだ。

 洗濯桶は水で一杯になったらしく、母は洗剤を入れて「はい、回すーう」と指示。クリスタさんは土間に降りて草履をつっかけ、洗濯桶に近付いて中を覗き込んだ。

 洗濯桶の中では、水が左右に回ったり、衣類が捩れたり解けたり、そんなことが繰り返されているはずだった。クリスタさんは居間に戻ってくると、僕の耳元で囁いた。

「洗濯はいつもああいう風に?」

「普段は洗濯桶に洗濯物を入れて、桶ごと裏の上水路の所に持っていきます。そこで洗い終わったら、桶ごと近所の下水路へ持って行って水を捨てて、また上水路に戻って今度はすすぎ。でも、今のアンではそこまでは……」

「お嬢様が下回り……。斬新……」

 クリスタさんはそう呟くと、何かを考え込んでしまった。

 母の号令の下、アンは魔法で黙々と水を回し続けていた。僕はその光景を眺めながら穏やかな気分に浸っていた。

 これまで、この家には気詰まりな空気が満ちていた。しかし、今はアンがいて、臨時にクリスタさんもいる。僕の姉は歳が離れすぎている上に、以前から独り暮らしを続けており、僕にとってはもはや単なる親族、姉と実感するのは難しい。むしろ、クリスタさんの方がお姉さんのよう。僕はそんな風に感じ始めていた。

 僕はクリスタさんに声を掛けた。

「洗濯が終わったら温熱魔法で乾燥です。その間に買い物を済ませましょう」

 いつも通りの休日の午前。多くの人は自宅で家事でもしているのだろう。村内の人影はまばらだった。その一部は僕の敵。閑散としているがゆえに、その冷淡で鋭い視線が僕にさりげなく明瞭に突き刺さる。そんな緊張をはらんだ気配の中、僕とクリスタさんは村の商店や農耕組合の売店を渡り歩いた。目当てはルクファリエ村ならではの土産物。

 西の大公家の実態は主家と使用人とその家族からなる生活共同体。家内に儀礼的贈答の慣習が根付いてしまうと、規模のせいで収拾がつかなくなる。そのため、家内での儀礼的贈答は無用との了解があるとのこと。クリスタさんも自身のために品選びを続けていた。

 それにしても、これがエスタコリン女性の典型なのだろうか。田舎の品揃えごときに何でそんなに迷うのか。僕はそんな風に少々呆れながら品定めに付き添い、クリスタさんの結論が出たのは小一時間が経った頃だった。

 農耕組合食品加工班の苦心の品。様々な果実を砂糖や蜂蜜で原型を留めぬまでに煮詰めた特製果醤。複数の果実を混合し、砂糖と蜂蜜の配合にも工夫を凝らしたものらしく、家庭では中々作れないと評判の特産品。クリスタさんは五種類の商品合計七瓶を籠に入れ、売店の会計係に差し出した。

 会計係の男性は籠を受け取ると、商品の説明を始めた。どの果醤にも防腐効果を十分に期待できる分量の砂糖が加えられている。さらには、各瓶には中身ごと硬化魔法が掛けられている。それは半年もすれば勝手に消えるが、今からもっと弱いものに掛け直す。

 説明がそこまで進んだ時だった。突然、背後から「おい」とどことなく怒気を含んだ男の声が聞こえてきた。驚いて振り返ると敵の一人。男も商品を入れた籠を手にしていた。

「ケイ・サジスフォレ。そういう説明はお前がしろ」

「これは失礼いたしました」とクリスタさんが謝った。「どうぞ、お先に」

「ケイ・サジスフォレ。お前は本当に気が利かない」

「やめてくれ」と会計係の男性が口を挟んだ。「せっかく遠方からお客さんが来てくれたのに、印象が悪くなる」

 男が支払いを済ませて売店を後にすると、会計係の男性は僕たちに声を掛けてきた。

「お嬢さん。見苦しくて済まなかった。それからケイ。その目付きは怖い」

 僕は我に返り、会計係の男性に向かって会釈した。僕たちも間を置いて店を出ると、クリスタさんが早速尋ねてきた。

「ケイ君。あの男性はどういう人なの?」

「三級屈辱刑の時、僕を取り囲んで罵声を浴びせてきた百五十人の一人です」

「それは二年前の話でしょう。なぜいつまでも」

 僕は思わず舌打ちしてしまった。

「刑罰の軽重に無頓着。それを大統領に罵倒されて、馬鹿と公式認定された形になって、あいつらはそれが気に入らないんです。でも、心配しないでください。あいつらはアンや僕の両親には全く絡んできません。良くもなく悪くもない事務的な態度をとるだけ。僕に落ち度のようなものがあった時にだけ、僕にああいうことをする」

「落ち度と言っても、会計の手際はケイ君の問題ではないでしょう」

「あの男は、僕は気が利かないと言っただけ。急げとか、俺を先にしろとか、そういうことは口にしていない」

「でも、暗に言っているし、硬化魔法の掛け直しは会計係の仕事」

「あの男は、説明は僕がと言っただけ」

「あの不躾な態度はないでしょう」

 これが僕の日常。中等学院卒業まで僕だけ祖父母の家に移るという話も無きにしも非ず。しかし僕としては、それでは納得できない。また、クリスタさんにそこまでの事情を明かしたら、別の問題が生じそうな気がする。

「要するに、ずるくて陰湿なんですよ」

「百五十人の全員がああいうことをするの?」

「そうです。ほぼ全員。嫌味、皮肉、無視、暗黙の敵意。僕がこの村から消えるまでああいう嫌がらせを続けるつもりなんです、きっと」

 クリスタさんが盛大に溜め息をついた。僕は「帰りましょう」と声を掛けた。

 

◇◇◇◇◇

 

 昼過ぎ、僕とクリスタさん、母とアンは外出の準備を続けていた。留め具を用いて僕の背中にクリスタさんを、母の背中にアンを固定する。クリスタさんとアンの背中には背嚢。二組の親亀、子亀、孫亀の態勢が整うと、母は「行きますよ」と言った。

 家の庭先から中空帯まで一気に上昇。中空中速飛翔を開始。向かう先はフレクラント国北地方。フルドフォーク家の始祖の地があるとのことだった。

 クリスタさんによれば五千年前、エスタスラヴァ王国の成立時、白狼の騎士の軍勢の一人が監督役として王国南部に根を下ろし、フルドフォーク家の祖となった。当時のフルドフォーク家は南部の執政を次々に輩出する名門だった。現在は南部政庁の幹部がせいぜい。中級の貴族家と見なされている。

 それにしてもと、僕は母を追いながら思った。何と残念な景色だろう。高原を囲む山々の稜線は雲の中。南の大山脈を越えた先にはスルイソラ連合国があり、休日には大空を高く飛んで日帰りする人もいる。しかし、今日はさすがにお出掛け日和とは思えない。

 東に目を向けると、フレクラント国とエスタコリン王国を隔てる山並み。そこにはまだ雲はそれほど掛かっていなかった。どうやら雨は西からやって来る模様。じきに東の山並みも厚い雲に覆われてしまうに違いなかった。

 それにしてもと、僕は風を切りながら思った。クリスタさんは大人の女性。様々な意味でアンとは重みが違う。アンの声色は単色。一方、耳元で聞こえるクリスタさんの声色は二色、透き通った声の中に情念を感じさせる芯がある。また、アンから匂いを感じたことは特に無い。一方、クリスタさんは化粧品を使っているのか微かに甘い香り。

 中空中速飛翔を半時ほど続けて北地方に入ったと思われた頃、見知らぬ村が見えてきた。中心集落、農地、森林。村の構造はルクファリエ村と良く似ており、母は木々に囲まれたとある民家の前に降り立った。

 体を繋ぐ留め具を外しながら母は言った。ここは知り合いの教員の家。まずはその知り合いに尋ねてみると。そんな会話をしていると、呼び出すまでもなく玄関口に女性が現れた。母は女性に事情を説明し、クリスタさんを紹介した。

「私はクレール・エペトランシャの親族で、クリスタと申します。事情があって現在はエスタコリン王国に在住しておりますが、親しくしている者の中にフルドフォークを名乗る者がおり、その者から始祖の地を見てきてほしいと依頼されまして……」

「あら、あら。わざわざエスタコリンから」と女性は応えた。

「何分にも五千年も前の話であり、全ての情報は口伝によるものなので、どこまで正しいのかは良く分からないのですが……。ただし約三千年前、フレクラント国の大統領府で神統譜と人統譜を調べた者がおり、確かにそれらしき人物の記載があったとのことです」

「この辺りにフルドフォークという家名は無いと思うけれど……」と女性は首を傾げた。

「はい」とクリスタさんは肯定した。「神統譜と人統譜によれば、フルドフォークの名はこの地では約三千五百年前に途絶えたようです」

「他に何か分かることはある?」

「五千年前からの言い伝えによれば、その村には方状列石があり、そのすぐそばに始祖の生家があったと。三千年前の者も方状列石を見たとの言い伝えが残っております」

 母と女性がほぼ同時に「方状列石?」と尋ね返した。クリスタさんが肯定すると、二人はウーンと怪訝そうに呻いた。

「環状列石なら知っている」と女性は言った。「上空へ向けての道標。神話時代に作られた物と言われている。東地方にあるでしょう」

「いえ。環状列石ではなく方状列石です」とクリスタさんは強調した。

 フルドフォーク家の口伝によれば、方状列石とは八本の石柱を正方形の各頂点と各辺の中点に規則正しく立てたもの。ただし、柱の太さや高さや石材の種類は不明。設置の目的も不明。三千年前にはすでに朽ち果てた状態にあったらしい。

「この村で間違いないの?」と女性は念を押した。

「はい。言い伝えられている村名は」

 母と女性が意見を交換し始めた。家屋の柱みたいなものかしら。もしかしたら大昔の建屋の名残かも。それなら、なぜ方状列石などと大袈裟な名前を付けるのか。神話時代や伝説時代の遺物だから。クリスタさんとアンはそんな会話に熱心に耳を傾けていた。そのかたわらで、僕は独り考え込んでいた。

 風化した石柱。角も丸くなり、文字などが彫り込まれていたとしても読み取れなくなってしまっている物。きちんと立っているのだろうか。もしかしたら、すでに倒れて今は地面に転がる細長い岩。いかにもそんな光景が連想されるが、果たしてそれを朽ち果てたと呼ぶのだろうか。でも、しょせんは大昔からの伝承の言葉尻。

 結局、女性に付き添ってもらい、村を回って人に訊いてみることになった。まずは村の副統領。しかし、副統領は知らないと言う。次は副統領に紹介された年長の人。やはり心当たりがないと言う。次は年長の人に紹介されたさらに年長の人。

 あちらこちらを回ること小一時間。相手の年齢が上がっていくばかりで、何の手掛かりも得られなかった。その頃には、クリスタさんは恐縮を通り越して委縮していた。方状列石という名称が伝わっている以上、何らかの専門的な情報は残っているのだろうし、事前に調べておくべきだった。思い付きに付き合わせてしまって申し訳ないと。

 女性が最後に向かったのは、村で最年長の老人の家。しかし、老人も知らなかった。

「それにしても」と老人は首を傾げた。「朽ち果てたとの言い回しが気に掛かる。朽ち果てるとは腐るという意味だろう。腐った石とは」

 僕はハッとした。そうなのだ。やはりそこが気に掛かる。見るからに五百歳に近い御老人の語感が最も鋭敏とは。

「もしかしたら」と老人の目付きが鋭くなった。「原型など全く無いのではないか。人工物とは思えないほどに崩壊してしまっている。だから、柱と言われても誰も分からない」

 その指摘に、僕は考え込んでしまった。石の柱ではなく、規則正しく並ぶただの岩。それならどこかで見た覚えがあった。どこだろう。大障壁の東側、人の居住域。大障壁の西側、無人の森林地帯。僕の中に残る心象風景では、森の中、岩など存在しそうもない場所になぜか孤立して鎮座する大きな岩。

「あっ」と僕は声を上げた。「大障壁の西で見たことがある。柱とは違う。直径はこれぐらいの岩」

 僕はそう言いながら両腕を左右に広げた。

「大障壁の西」と母は呆れ顔になった。「あなたは一体そんな所で何をしているのです」

 老人はそんな母を悠然と無視して僕に言った。

「それなら、あれかも知れない」

 知り合いの女性を先頭に、老人に教えられた通りに低空低速飛翔を続けること約十分。森の別荘地のような住宅街を抜けた先にそれはあった。木々と下生えの中、大きな岩としか見えない物が六つ。家一軒分程度の間を空けて規則正しく並んでいた。

 ただし、残りの二つは見当たらなかった。女性によれば、この村では千年単位の間隔で集落の大規模整備が繰り返されており、かつてこの近辺もその対象になったはず。これが方状列石の名残であれば、二つは整備の際に除去されたのかも知れない。

「間違いない」と僕は断言した。「岩の質も大きさも並び方も、僕が見たものとそっくり」

「念のために訊くけれど」と女性は言った。「西の森林地帯では、ありふれた物だったりはしない? つまり、一つの村に複数あり得るとか」

「いえ」と僕は否定した。「僕の知る限りでは、どう考えてもそこまで多くはありません」

「それならこれでしょうね」

 その瞬間、クリスタさんは大きく息を吐いた。

「皆様。感謝……、感謝いたします」

 クリスタさんは言葉に詰まりながら謝辞を述べると、僕たち一人一人に深々と頭を下げて回った。僕はその姿を眺めながら、この人も立派なお嬢様なのだと思った。

 始祖への祈り。クリスタさんはそう言うと、方状列石の周辺を回り始めた。草むらを掻き分け、あちらこちらで祈りの姿勢。生家の位置は分からなくても、そうやって祈って回れば一回は当たりのはず。僕がそう提案してのことだった。

 女性は素知らぬ顔をしてくれているが、どう見てもクリスタさんの素性はばれている。そんなことを思いながら、僕は暇つぶしに岩を観察し続けた。

 見た目も手触りも硬い岩。しかし、同じく太古の物とされている大障壁や環状列石が現在も本来の形を保っているのに対して、方状列石の劣化具合はひどすぎる。つまり、この石材は脆いのだ。

 大障壁や環状列石が永続性や永遠性を念頭に置いて作られているのは間違いない。しかし、方状列石も同様とは思えない。永続性を求めるのなら、大障壁や環状列石と同じ石材を用いれば良いのだから。

 母たちの推理では建屋の痕跡。それは違うような気がする。例えば、大障壁は一つの岩ではなく、適度な大きさの岩を組み上げた物。その方が建造も保守も容易に決まっている。

 それにしても心地良い。この岩に額を付けると、古木や巨木からと同様の懐かしさと安心感のようなものが流れ込んでくる。そして稀に、どことなく懐かしい微かな幻影が脳裏に浮かぶ。しかし、現実に思い当たることは何一つない。つまり、この岩には架空の想念を掻き立てる力がある、もしくはあったのかも知れない。

 程なく、クリスタさんの巡礼は終了した。

「さて」と母は言った。「雨が降り出す前に帰りましょう」

 見上げると、雲が厚くなっていた。クリスタさんは買ったばかりの果醤一瓶を背嚢から取り出し、案内のお礼にと女性に差し出した。

 帰り道、クリスタさんが僕の背中で呟いた。

「始祖が飛んだ空……。始祖が目にした景色……」

「多少の違いはあっても、基本的には今も昔と同じでしょうね」

「ケイ君。今日はありがとう。国に帰ったら、久し振りに実家に帰ってみようかな。良い土産話も出来たし」

「災い転じてですね。雨のせいで、いや、雨のおかげで滞在が伸びて聖地を巡礼」

 僕が軽く笑うと、クリスタさんも僕の耳元で笑い声を漏らした。

 

◇◇◇◇◇

 

 秋第三週第一日、週初の平日。小雨が降り続く中、クリスタさんは僕たちと一緒に中等学院に登院していた。まずは二時限目までの授業を参観。その後は学院の図書室で読書。中等学院の図書室は住民のためのものでもあり、クリスタさんは図書室に籠り続けていた。

 昼食休憩の時間、弁当を食べ終えて様子を覗きに行ってみると、父の紹介状が効いたのか、クリスタさんは許可者のみ閲覧可の希少図書を手にしていた。内容はフレクラント国北地方の歴史。クリスタさんは始祖の地に思いを馳せている様子だった。

 放課後、雨具を着込んでアンをルクファリエ村の初等学院に送り届け、それで本日の日課は終了となった。水汲みと買い物は一昨日と昨日に済ませたもので十分。僕はクリスタさんを誘ってみた。

「アンには悪いけど、僕たちだけで大障壁に行ってみませんか。クリスタさんは今回を逃したら、次はいつになるか分からないでしょう」

 低空低速飛翔だけとは言え、クリスタさんは空を飛べる。つまり、不意の墜落の恐れは無い。そして大障壁はすぐそこ。そのため留め具は使用せず、僕はクリスタさんの手を引いて宙を飛んだ。

 西に向かって集落を越え、田園を越え、林を越え、そして田園、また林。最後の田園を越えた少し先からは森林。背の高い木々を越えるために高度を取ると、岩を積み上げて作った巨大な壁が見え始めた。

 高さは二階建ての家を三つ重ねたほどのもの。断面はかなり切り立った台形。精密に整形された岩を緻密に積み上げた巨大な壁。その上に降り立つと、クリスタさんは感慨深げに深呼吸をした。

「これが大障壁……」

「そうです。大障壁が無かった時代には、この先にも人が住んでいたそうです。魔法使いの本拠地だったと言われていますね」

「どんなだったんだろう……」

 クリスタさんはその場に立ち尽くし、遠くの景色に目を遣っていた。僕はその脇に立ち、早速解説を始めた。

 フレクラントは東西に細長く伸びる高原。北の端から南の端までは、歩くのは日中のみと仮定して、普通に歩いて二日の距離。東から西までは四日の距離。ただし、大障壁の西側に道は無く、東から西まで実際に歩いたら十日は掛かると言われている。

 大障壁は高原の北端から南端まで伸びており、高原を完全に東西に分断している。人が住むのは高原の東半分。西半分は野生の動物が住む無人の地となっており、そのほとんどは森林、所々に草原や池。そんな中を西から東へ向かってフレクラント川が流れている。

「大障壁は川の所ではどうなっているの?」

 クリスタさんの声は興奮気味に弾んでいた。

「さすがに川の所では切れていますけど、その近くには堰があって、その西側は利水目的の湖になっています」

「フレクラントは木造の国と言われているけど、大昔の物はどれも石造よね」

 僕は思わず笑ってしまった。

「木造の物はそれこそ朽ち果てて、何も残らないんじゃないですか?」

 僕の指摘に、クリスタさんも極まりが悪そうに笑みをこぼした。

「ここから先には猛獣がいるって本当?」

「猛獣というほどではありませんけど、狼とか熊とか」

「近くにいるかな」

「さあ」と僕は首を傾げた。「獣にもそれなりに知性があって、大障壁とか堰とか人工の物には中々近寄ってこないんです。だから、大抵は森の中の方にいるようです」

「狼や熊も魔法を使うって本当?」

 クリスタさんの興奮は治まらない様子だった。

「本当です。でも、もっと原始的なもの。自然強化魔術です」

 例えば狼の滑走魔術。四つ足で原野を駆け抜ける際、歩幅が異様に広いものがいる。超低空を滑空することを自然に覚えてしまった狼がそのような走り方をする。

「ただし、自然に身に着けてしまうものなので、個体差が大きくて……」

「そういう獣の魔術、見たことある?」

「あります。滅多に見られませんけど……。あっ。いた」

 クリスタさんがエッと声を上げた。大障壁と森林の間には、大障壁が木に侵食されるのを防ぐための緩衝地帯、ほんのわずかな草原がある。その中ほどに狼が一頭。しかし、僕がどれだけ正確に指し示しても、クリスタさんは見付けられない様子だった。

 僕はクリスタさんの腕を取り、クリスタさんに浮揚魔法を、僕自身には飛翔魔法を掛けて宙を飛んだ。かなり若い狼。狼は僕たちの接近に気付くと、森へ向かって走り出した。

 ほんの一瞬の出来事だった。狼はあっという間に姿を消してしまった。それでも、クリスタさんは大きく息を吸い、大きく息を吐き、興奮を隠し切れない様子。これだけでも来た甲斐があったと僕は嬉しくなった。

「少し先に方状列石があります。行ってみましょう」

 小雨が降り続く中、僕はクリスタさんを背負い直して中空帯を飛んだ。そして数分。

「ほら。木の間。規則正しく八つ」

 クリスタさんには見分けがつかない様子だった。木々の枝葉の隙間を縫って岩の前に着地すると、クリスタさんはアアと感嘆の声を上げた。

「ほんとだ。昨日のとそっくり」

「方状列石という言葉は初耳だったんですけど、言われてみれば確かに方状ですね」

「学院で調べてみたら、方状列石はフレクラント高原で最も古い石造物なのかも知れないらしい。その次が環状列石と各地の石窟。大障壁はさらにそのあと」

「そんなに古いんですか」と僕は驚いた。

「方状列石は神話伝説大系の神の石柱と関係があるのかも知れないらしい。この森林地帯は魔法使いの本拠地だったんでしょう。もしくは神の本拠地。それなら、地面を掘ったら色々なものが出てきたりして」

 この人も面白いことを言う。そう感じて僕は軽口を叩いた。

「宝探しですか? 僕としては、むしろ見てはいけないような物が出てきそうな気がするんですけど」

「例えば」とクリスタさんは笑みをこぼした。

「得体の知れない謎の石板とか。それを目にした者は否応なく何かに巻き込まれていく」

「何だか怖いけど、何が書いてあるんだろう」

「『見たな?』とか」

 クリスタさんはフフンと笑って首を振った。

 頭上を蔽う木々の葉を雨粒が叩き、その音が折り重なって重低音となり、森の中をしんしんと満たす。零れ落ちてくる水滴が僕たちの雨具を断続的に叩く。そんな無人の森林地帯。のんびりするような場所でも日和でもなく、僕たちは程なく大障壁に舞い戻った。

 せっかく来たというのに、今日の景色も残念だった。高原を囲む山々は雲の中。晴れていれば、西の奥には森林の地平線、その先には西の山並みが見えるはずだった。

「随分前に学院で習ったんだけど、この大障壁は伝説時代にはすでに存在していた。それを年に一度、近隣の村々の人たちが手入れし続けてきた」

「そうです。毎年、作物の収穫が終わったら、年に一度の手入れです」

「大障壁が作られた理由には諸説ある」

「はい。猛獣除けなのは明らかですけど、根本的な理由は、人が散らばり過ぎて効率が悪かったので、フレクラント高原の東半分に集めて今のような街に作り直した」

「その説も知っているけど、それだと大事業になるわよね」

「昔は相当、人が少なかったんじゃないですか?」

 クリスタさんはフーンと鼻を鳴らすと、「ねえ」と言った。

「ここで少しのんびりしてもいい?」

 僕が了承すると、クリスタさんは足元の大障壁上面を温熱魔法で乾かし、そのまま腰を下ろした。そんな様子を眺めながら、もっと泊まっていってくれると嬉しいと思った時だった。「ケイ君も座らない?」とクリスタさんが声を掛けてきた。僕はハッとして、クリスタさんと同様に腰を下ろした。

「話は全く変わりますけど、クリスタさんはエルランド殿下と親しいんですか? 王宮で殿下に訊かれたんです。西の大公家のクリスタは元気だったかと」

 クリスタさんはウーンと軽く呻き、「親しいというか」と小首を傾げた。

 エスタコリン王国高等学院でエルランド殿下はクリスタさんの二学年上。専攻は異なるものの、時折顔を合わせ、言葉を交わしたりしていた。殿下は後期課程に進学。クリスタさんは前期課程の三年間をもって学業終了。西の大公家で働くようになった。

「良く殿下のような高位の人とお近付きになれましたね。僕独りでは多分門前払い……」

「学院の中で殿下の周りだけ人払いという訳にもいかないでしょう」

「それはそうかも」と僕は鼻で笑った。

「でも、案外いるのよね。王妃になりたい人が。私は嫌だな」

 僕はヘエと声を漏らした。クリスタさんは意外に庶民的。

「普通に考えて、王妃の座は魅力的でしょう。夫は最高の地位にある大金持ちですよ」

「私は、お金は程々でいいし、地位も要らない。フレクラントが理想かも。何と言えばいいんだろう。生活の質が全く違う。フレクラントの生活は簡潔で、集約度や機能性が圧倒的に高い。だから余裕があってとても豊か」

 不明瞭な表現ではあったが、感覚的には何となく分かるような気がした。

「フレクラントも理想郷ではありませんけどね」

「理想郷とまでは行かなくても、人生に自由がある」

「貴族だとそういう訳にはいきませんか」

 クリスタさんはフフンと鼻で笑った。

「それなら、クリスタさんもこちらに来ればいいのに。こちらで教師になるとか。アンの家庭教師が無くなったら、大公家での仕事の内容も変わってしまうんでしょう?」

「今は先代大公様の秘書を務めているけど、こちらの生活は強い魔法の使用が前提でしょう。私の魔法では苦労しそう」

「首府のメトローナなら、問題なく暮らせると思いますよ」

 クリスタさんは笑みを浮かべて小首を傾げた。

「クリスタさんが来たら遊びに行きます」

 無人の森林地帯で狼と遊んだり川魚を捕まえたり、色々な所に連れて行ってあげよう。何なら宝探しにも。そんな期待に心が躍った。

「ケイ君は王家の妃選びの制度をどこまで知っている?」

 西の大公家でジランさんから聞いた話をすると、クリスタさんは首を振った。

「ジラン閣下はフレクラントの方だから仕方が無いけど、それは正確ではない」

 王家の妃選びには、大昔に定められた規則がある。貴族家とそれに準ずる各家は、娘が生まれたら王家に届け出なければならない。王家はその中から正室と側室を選ぶ。側室の人数は無制限で、選ばなくても良いし、複数を選んでも良い。

「規則はそれだけ。他の決まりごとは全て慣例」

「随分と大雑把な規則ですね」と僕は首を傾げた。

「規則の上では、貴族側に辞退の権利は無いし、正室と側室を選ぶ順番も決まっていないし、次から次に側室を選んで結婚して、次から次に離婚しても良い。要するに、規則上は全ての女性を好きにして良いの」

「そんな……」と僕は唖然とした。「その規則だと、女性が既婚であっても選べることになってしまいます」

「さすがに、そこまでしたという話は聞いたことがないけど。本当にそんなことをしたら、きっと造反者が出る」

「皆さんは良くそんな規則を認めていますね。誰がそんな規則を作ったんですか」

「大昔の白狼の騎士。正義の守護者の血筋は絶対に絶やしてはならないからと。確かに王家は責務をきちんと果たしているし、規則以外に慣例もあるし、今さら誰も規則に異議を唱えたりはしない」

 白狼の騎士。何という存在感。その名前はこういう所にも出てくるのだ。

「フルドフォーク家の人の前で言うのも何ですけど、白狼の騎士の話には一種異様な執念がありますよね。皆殺しとか、街道にさらし首とか、全ての女性をとか」

「そうね……。でも、白狼の騎士のおかげで国が良くなったのは確かだし……」

 僕は大変な勘違いをしていたことに気付いた。ジランさんの話によれば、妃候補は評価点の上位二十名。僕はてっきり、クリスタさんは候補ではないのだと思い込んでいた。しかし、今の話の通りなら、順位に関係なくクリスタさんも候補。

「過去に慣例を破った実例はあるんですか。妃候補の上位二十名以外を選んだ例は」

「あるわよ。側室として。少ないけれど稀ではない」

「規則ではなく慣例の方では、妃候補の上位二十名とそれ以外はどう違うんですか」

「それ以外は候補の予備。王家側が候補者を候補から外したり、候補者側が辞退を申し出て認められたりすると、その分だけ予備が繰り上がる。と言っても、その時点で予備の人の結婚が決まっていたら話は別だけど」

「クリスタさんは何位なんですか」

「今は十二位。予備から徐々に繰り上がって、今回の政変で大きく上がって」

 僕は呻いてしまった。クリスタさんも立派な候補だった。そして予備の時期があったということは、意外にもクリスタさんにはこれまで結婚話が無かった模様。こんなにしっかりとした良い人なのに。

「微妙な順位ですね。でも普通に考えれば、選ぶのは上位の三人や五人の中からでしょう」

 その時、湿り気を含んだ生暖かい風が穏やかに吹き抜けた。気付くと雨粒はまばら。雨は上がる気配を見せていた。

「貴族って本当に大変ですね。エルランド殿下も、王位を継ぐ者の第一の使命は種馬とか言っていました」

「フレクラントの人たちは何か勘違いをしているようだけど、種馬役がいるのなら、それと対になる役割もある。規則の上では側室は子供を産むことが仕事の侍女なの。普通は側室が粗雑に扱われることはない。でも、どこまで正室と同じように扱われるかは夫次第」

「そんな……」と僕は絶句した。

 正室にせよ側室にせよ妻は妻。僕はそう思っていた。正室から世継ぎが生まれない場合に追加の妻を側室として迎える。エスタコリン王国にはそんな結婚の仕方もあると授業でも教わった。

 ところが実は、側室は侍女。と言うことは、子供を産めば任務完了。産めなかったら、それこそ任務不完了でお払い箱。しかも王家では、最初から正室と側室の座を用意しており、そこに適宜女性たちを当てはめていく模様。

 ふと、晩餐会の光景が脳裏に浮かんだ。子供は当主の子として席に着き、母親は侍女として食堂の片隅に控える。そんなことも起こり得るのだろうか。

「ケイ君には知っておいてほしいことがあるんだけど……。アンソフィー様は家出を止められた時に私には一言だけ言ったの。ケイ殿と一緒にいなければいけないような気がしたからって」

 僕は呆気にとられて脱力し、大障壁の上に大の字に引っ繰り返った。

「うちの娘が側室なんてあり得ない。それが全ての大公家の本音なの。だからヴェストビーク家としては、王家に嫁ぐのはイエシカ様でもアンソフィー様でも良いのだけれど、出来れば年長のイエシカ様を正室として嫁がせて、それで終わりにしたいの」

「それは理解できます」

「ケイ君が真剣に考えるのなら、ケイ君がアンソフィー様を選んでもいいのよ」

 僕はエッと驚き、慌てて身を起こした。

「それは飛躍でしょう。王家でなければ、どこか別の貴族家ではないんですか」

「大公家の考えはそうだけど、アンソフィー様の行動から考えれば飛躍はしていない。それにお父様は友好国の副大統領、王国の宰相相当」

「そこまで格が重要なんですか?」

「それはそうよ。特に妃候補の筆頭が辞退するとなれば」

 僕は再び大障壁の上に引っ繰り返った。

「十五年の選定期間はあとどれぐらい残っているんですか」

「あと九年半」

 アンは僕と同じくつい先日十三歳になった所。つまり、九年半後は二十二歳の春。

「長いですね……。僕は結婚なんて考えたことがなかった……。いや。考えたことはありますけど、具体的な問題として考えたことは一度もありません」

「それなら考えたら? 貴族では中等学院生にもなれば結婚の話が出るのは普通のこと」

「クリスタさんは貴族のそういう所が嫌なんでしょう? それにフレクラントでも、結婚相手は本人の希望とは関係なく決まることが多いんです。家長である母親が相手を探してくることも多いそうですし」

「お父様がおっしゃっていたわよ。『アンが来てから、ケイが笑うようになった』と」

 その時、光球が一つ、僕たちの頭上を飛び回った。辺りを見回すと、誰かがこちらに向かってきていた。滑らかさに欠ける雑な飛翔。おそらくアン。雨天のせいで人影が少ないのを良いことに、アンは独りで飛んできたようだった。

「やはり、クリスタさんもこちらに来たらどうです。九年半ぐらい」

 クリスタさんが「考えておく」と鼻で笑った時、アンの声が耳に届いた。

「やっぱりいた。おいていくなんてひどい」

 その声に、クリスタさんは立ち上がって手を振った。

 

◇◇◇◇◇

 

 神話伝説大系・逸話集・一 神の石柱

 

 原文

 はじめに神は光をもって石の柱を立てた。

 

 注釈

 意味は不明。解釈には多数の説あり。


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