第一章 宿命の輪(その二)
月明かりに照らされた庭園。今夜は三女様と。三女様はどんな子だろう。そんな期待と興味を覚えながら自然精気を取り込み続けていると、程なく侍女に付き添われて三女様がやって来た。
僕と三女様は庭園の椅子に。侍女は立ったまま少し離れた所に。三女様は僕の隣に腰を下ろすと、「今日はありがとうございました」と言った。
気だるそうな弱々しい声だった。夕食前、三女様は余剰精気を使い過ぎたと言っていた。体内の精気は魔法の源以前に生命の源。使い過ぎると虚脱感と倦怠感に襲われる。僕にもその経験はあった。
僕はふと思い付いた。月明りに照らされているのはこの庭園だけではない。
「余剰精気を補充しに行きませんか」
三女様と侍女が同時に呆気にとられたような顔をした。
「あの山並みの稜線の上まで」
僕は街の西にそびえ立つ山々を指さした。
「あそこまで行くと、環境中の自然精気もかなり濃くなります。三女様は僕の手に掴まって浮揚魔法を発動する程度で構いません。あなたの方は僕が背負います」
三女様が可否を問うように侍女に目を向けると、侍女はウーンと呻いて首を傾げた。
「良い眺めですよ。この辺りに危険な獣はいないのでしょう?」
三女様が「行ってみたい」と侍女に告げると、侍女は気乗りしない様子ながらも頷いた。
訊くと、意外なことに侍女も貴族の子弟、他の貴族家の出。弱いものではあっても魔法を使える。低空低速飛翔くらいであれば可能とのことだった。つまり、三女様も侍女殿も不意の墜落の恐れはない。結局、三女様は僕の背に、侍女殿は僕の片腕にしがみつき、僕は稜線を目指して一気に空を飛んだ。
午後に訪れた見晴らし台のような場所に降り立った。僕は光球魔法を直ちに発動。頭のすぐ上に灯り代わりの光球が出現した。眼下には月明りに照らされたエスタスラヴァ平野。涼しい風が山上を吹き抜けた。
三女様も侍女殿も立ったまま夜の景色を眺めていた。僕は岩に腰を下ろして声を掛けた。
「この場所は初めてですか」
「はい」と三女様は答えた。
「座りませんか。そして、落ち着いて自然精気の取り込みを」
侍女殿は独自に光球を作って周囲を巡らせ、辺りの様子を窺い始めた。エスタスラヴァ平野はフレクラント高原に比べてはるかに開けた土地。そのため、夜の大自然に慣れていないのだろう。一方、三女様は手近な岩に腰を下ろすと、「あのう」と話し掛けてきた。
「お国のことをお聞かせください」
その瞬間、僕の背筋を衝撃が駆け抜けた。まさに深窓の令嬢。ここまで丁寧な話し方をする女の子など見たことがなかった。
「例えば、どんなことを」
「大障壁、大森林、エベルスクラント……」
僕は思わずアアと声を上げてしまった。
「僕の家はフレクラントの一番西のルクファリエという所にあるんですけど、大障壁はすぐそこです。エベルスクラントには、次の冬に学院の遠足で行くことになっています」
「冬に遠足ですか」
「その頃には危険な獣も冬眠に入っているので」
そこから雑談が弾み始めた。三女様からは次々に質問。僕からは身振り手振りを交えながらの説明。
年に一度の大障壁の手入れ。大障壁の上からの眺め。その向こうに広がる森林地帯。フレクラント高原を囲む山々。北の山をいくつも越えた所にあるエベルスクラントの遺跡。僕はまだ行ったことはないが、その太古の遺跡は森林に埋もれてしまっているらしい。
そんな雑談が一段落ついた頃には、三女様の声は抑揚を取り戻し、僕の耳に心地良く響くようになっていた。三女様は余剰精気をかなり回復した様子だった。
「神話と伝説の地……。サジスフォレ殿はそういう所に住んでおられるのですね」
「いや。神話や伝説はどこにでもあるでしょう」
「例えば、『リエトとレダの悲劇』の舞台はフレクラント国の西地方と聞いていますが」
「その神話というか伝説、どこで聞きました?」
「神話伝説大系に載っていました。逸話集・六二三です」
驚いた。番号まですらすらと。僕は神話伝説大系という書物の存在は知っていても、今日まで実物を目にしたことはなかった。
「凄いですね。暗記しているんですか。でも、その話はかなり歪曲されているそうです。僕たちの所では、その話は『エステルの二つの約束』と呼ばれています」
「エステル?」と三女様は首を傾げた。「逸話集・六四一ですか?」
また番号。僕はさらに驚いた。三女様は相当な歴史愛好家、本の虫。
「本の内容は知りませんけど、エステルはレダの生まれ変わりと言われています」
「そうだったのですか……。私はてっきり、リエトやカイルという名前は決まり文句のように使われているだけだと思っていました。ただ……」
三女様の言葉はそこで止まった。僕は「ただ?」と続きを促した。
「サジスフォレ殿も神話と伝説の区別はきちんとされた方が」
僕は唖然とした。三女様は相当な愛好家なのに、少々抜けた所がある模様。
「僕は学院の授業で、一万年前までを神話時代、一万年前から五千年前までを伝説時代、それ以降を歴史時代と教わったんですけど、『エステルの二つの約束』は神話なのか伝説なのか微妙なんだそうです」
「そうだったのですか……。私はてっきり伝説だとばかり。どんな時代だったのでしょうね……。神話伝説大系は本当に面白いです。吟遊詩人が色々な所を巡って話を集めて、その後も多くの人が書き足し続けて……。それから、アデリナという名前に心当たりはありませんか」
「神話や伝説の登場人物ですか? 今でも使われている名前だと思いますけど」
「神話伝説大系には全く登場しないのですが、どこかで見聞きしたような覚えがあって……。アデリナは海を背にして独り大軍を迎え撃つ……」
その時、侍女殿が「そろそろ」と声を掛けてきた。三女様は「もう少し」と粘った。
「前から気になっていたのですが、そもそも神話と伝説はどう違うのですか」
僕は微かに緊張した。神の概念。それは僕の得意分野ではない。
「伝説は昔から伝えられてきた話。神話は神の時代の話です」
「それは同じ言葉の繰り返しです」
確かに三女様は僕に似ている。質問が終わらない。父に言わせれば詰問まがい。でも、同い年同士でこんな会話を出来るなんて初めてのこと。何となく嬉しい。何となく楽しい。
「僕はあまり詳しくないんですけど、神とは知性を持った超越的な存在。現代とは異なり、神話時代には様々な種類の魔法使いがいたらしい。伝説時代になって、そういう人たちのことを神と呼ぶようになった。だから歴史時代に入って、神話時代のことを神話時代と呼ぶようになった」
三女様はフームと鼻を鳴らした。相槌を打たれたことで、興が乗ってきた。
「例えばフレクラントの神統譜と人統譜。神統譜は最初からその名前で伝説時代に作られ始めたもの。神話時代からの全フレクラント人の一覧で、実在非実在を問わずに記載、逆に記載漏れも多数ある。そんな名前の記録が存在することからも、神が魔法使いを意味する言葉なのは明らか。要するに、神話も伝説も人の話、時代が違うだけです」
三女様はウームと意味不明な呻きを漏らした。
「ただし、神という言葉には元々は別の意味があったらしいとのことです。僕が思うに本来、神は悪い意味を持つ言葉だったのではないかと」
「神統譜は分かりましたが、人統譜とはどのようなものなのでしょう」
「人統譜は歴史時代に入って作られ始めたもの。実在の人物のみを網羅した記録。神統譜も人統譜も基本的には血筋を明らかにするためのもので、伝記のたぐいではありません。そして、どちらも国の最重要文書なので、国は延々と硬化魔法を掛け直して保存してきた」
三女様は「ん?」と訝しげに鼻を鳴らした。
「サジスフォレ殿は中等学院の一年生ですよね」
僕が「はい」と頷くと、三女様は再びフームと鼻を鳴らした。
「逸話集などに時々出てくる『目覚める』という言葉の意味が良く分からないのですが」
僕は拍子抜けした。話はあまり広がらなかった。深くならなかった。
「カイルの目覚めは普通の起床です。リエトとレダの目覚めは『前世の記憶を取り戻す』という意味です」
「そうですか……。サジスフォレ殿は詳しいのですね」
「いえ。人から聞いているだけで。歴史学や生命学の本格的な勉強は高等学院に行かないと。フレクラントの高等学院に」
「生命学ですか。転生は本当にあるのでしょうか」
「あるそうです。ただし、全ての人に前世がある訳ではなく、全ての人に来世がある訳でもない。それは数学的に証明されています」
「数学的に」と三女様は驚きの声を漏らした。
「証明は簡単です。中等学院一年生の僕でも出来ます」
その時、侍女殿が再び「お嬢様。ケイ殿」と声を掛けてきた。三女様が腰を上げ、それに合わせて僕も立ち上がった。最後に三女様は西の山々に目を向けた。
「あの向こうにフレクラント国があるのですね……。行ってみたい……」
「旅行で来れば良いのに。エスタスラヴァの中等学院にも長期の休みはあるのでしょう」
三女様は黙っていた。侍女殿に目を遣ると、侍女殿が代わりに答えた。
「大公家では家庭教師を雇っていますので、中等学院までの勉学は全てそちらで」
驚いた。さすが上級貴族。妃候補の筆頭はやはり深窓の令嬢。同時に、僕は話をはぐらかされたことにも気が付いた。
「一年中、休み無しに勉強ですか」
三女様からも侍女殿からも返事は無かった。
「王都にいる長女様はフレクラントの高等学院に留学して卒業。その婚約者様はフレクラント人。長女様や婚約者様に連れて行ってもらったら良いのに」
「大公家には大公家のいわれと仕来りがありますから」と侍女殿は答えた。
妙な言い方に、僕は首を傾げた。妃候補の件と関係があるのだろうか。
「まさか、三女様はお屋敷に閉じ込められているとか」
侍女殿は「いいえ。決して」と断言した。その語気の強さに、僕はわずかに怯んだ。今度揉め事を起こしたら即刻強制帰国。そう思って直ちに詫びを入れると、侍女殿は「いえ」と簡潔に応えた。
僕は右手で三女様の手首を、左手で侍女殿の手首を掴み、稜線から少し上昇した後に山の斜面に沿って一気に降下を開始した。その瞬間、思わず声を上げそうになってこらえた。
下手くそ。あまりにも。三女様の飛翔は。侍女殿の飛翔魔法は力強くはなくとも安定している。一方、三女様の飛翔魔法は力強いのに不安定。僕との相対的な位置関係がフラフラと揺らいでいる。僕と同い年の三女様。しかし、魔法の訓練は全くもって不十分。魔法力を制御しきれていない。これが暴発の原因と僕はすぐに理解した。
程なく大公家のお屋敷に着地した。この侍女殿は貴族の子弟。あの家令も。それならと思い、母屋の正面玄関へ向かって歩き始めたところで侍女殿に尋ねた。
「大公家で働いている皆さんは、もしかして貴族の出ですか」
「そうですね。職人や下回り以外はほとんどが貴族の出です」
「貴族って難しいんですね。家を継ぐとか継がないとか」
「家を小分けにする訳にはいきませんから、継がない者はいずれ外へ出されます。その代わりに、後々も生きてゆけるよう、貴族の家では教育を重視しています。大方の貴族は高等学院まで進み、少なくとも前期課程までは修了しています」
僕が「あなたも」と訊くと、侍女殿は「ええ」と頷いた。
「私は高等学院で教員の資格を取りましたので、近隣の学院に教員の空きが出たら、お嬢様の家庭教師を辞してそちらへ移ることになっています」
「もしかして、エスタスラヴァでは貴族と一般民の通う学院は別……」
「そうですね。よほどの田舎でなければ中等学院までは」
僕には実感が湧かない話だった。僕たちのフレクラント国には貴族も一般民も無く、莫大な資産など持たずとも、皆が普通に働き、普通に暮らしている。なぜ、エスタスラヴァ王国では物事がこんなにも面倒なのだろう。
正面玄関に着いた。ここで解散。そう思った時、三女様が「もう一つお詫びを」と言い出した。
「昨夜、姉のイエシカが失礼なことをしたようで申し訳ありませんでした」
心当たりが無かった。何のことかと僕は問い返した。
「初対面の他家の方に向かって一人で話し続けて先祖自慢など……。ヴェストビーク家の者は決してそのような人間ではありませんので……」
「各貴族家では会話の作法もきちんと教えています。普段通りなら、イエシカ様もそのような品の無いことはなさらないのですが」と侍女殿が補足した。
そう言えば昨夜、次女様は僕に会うために帰ってきたと言っていた。しかし晩餐会以降、全く姿を見掛けなかった。
「次女様は今日はどちらに。次女様ともまた会えると思っていたんですけど」
「ずっと西部政庁へ行っていたようです」と三女様は答えた。
「申し訳ございません」と侍女殿が詫びを入れてきた。「今回は多忙のようで。明日も朝一番に王都へ向けて発つとのことです」
正面玄関から屋敷に入り、今度こそ本当に解散。その時、僕はふと思い出した。
「飴ちゃん、舐めます? 部屋から取ってきます」
「いえ」と侍女殿が断ってきた。「就寝前の菓子の習慣はございませんので。お気持ちだけ頂いておきます」
僕は落胆した。飴はもうやめようと思った。客室へ向けて独り階段を上りながら、僕は考え込んでしまった。
昨日、僕はジランさんの挙動と立ち位置に疑問を感じた。挙動と立ち位置。おかしな人がもう一人いた。高等学院生。王家の妃候補第二位。今回は多忙。今回は普段通りではない。そして一日中、西部政庁。僕と同様、誰かの指示で動いているのだろうか。もしかしたら、王都から何らかの情報を持ち帰ってきたのではないだろうか。
◇◇◇◇◇
神話伝説大系・逸話集・六二三 リエトとレダの悲劇
原文
古のフレクラント。男が目覚める。我が名はリエト、我が許嫁はいずこにあると。女が目覚める。我が名はレダ、我はここにあると。邪な愛に男が狂う。我が名はカイル、レダは我がものと。リエトとレダは逃げ惑う。カイルはリエトを切り殺す。カイルはレダを焼き殺す。何と哀れなとわの恋人。良きえにし。後々の世にて再び巡り合わんことを。
解釈
昔々、フレクラントに男がいました。ある日、男は目を覚ますと言いました。「私はリエト。私の許嫁は今どこに」と。リエトは許嫁を探し回りました。しかし、いくら探しても見付かりません。リエトは許嫁が目を覚ますのを待つことにしました。
しばらく経ったある日、女が目を覚ましました。女はリエトの元に駆け付けると言いました。「私はレダ。私はここにいる」と。そして、二人は西の果てで一緒に暮らし始めました。
しかし、二人の幸せが長く続くことはありませんでした。レダの美しさにカイルという男が邪な心を抱いたのです。カイルはリエトの首を切り、レダに求婚しました。しかし、レダはリエトの亡骸に縋り付いて泣くばかり。カイルは嫉妬に狂い、レダを焼き殺してしまいました。
何と哀れなリエトとレダ。良きえにし。後々の世にて再び巡り合わんことを。
◇◇◇◇◇
神話伝説大系・逸話集・六四一 エステルの二つの約束
原文
即物派の地にて男が目覚める。我が名はカイル、我が許嫁は今いずこと。エステルは最果ての地にて花嫁の衣に身を包む。不貞のエステル。妄執のリエト。カイルは二人を誅し、自らも弑される。何と哀れな孤独な魂。良きえにし。後々の世にて巡り合わんことを。
解釈
昔々、ある所にカイルという男がいました。ある朝、カイルは目を覚ますと言いました。「私の許嫁は今どこに」と。カイルはあちらこちらを探し回り、最果ての地でようやくその姿を見付けました。
エステルはカイルの許嫁。それなのに、エステルは花嫁衣裳に身を包み、リエトという男と結婚しようとしていました。カイルはエステルの不貞に怒り狂い、不埒な二人をその場で殺し、自らも周りの者たちに殺されてしまいました。
何と哀れなカイル。良きえにし。後々の世にて巡り合わんことを。
◇◇◇◇◇
朝一番、朝食を摂り終わろうとする頃、王都から中等学院の六年生五人が到着した。六年生たちがもたらしたのは、王都での交渉が行き詰まっているとの報だった。残る問題はただ一つ。両国通貨の交換率の改定。両者の主張に大差は無いが、互いに譲れなくなってしまっているとのことだった。
事前の交渉ですでに大方の合意が出来ていたにもかかわらず、本交渉でそこまで揉めてしまうのは異例のことらしい。また、通貨の交換率は両国の全体にかかわる問題。そのため急遽、王国西部でも意見交換が行なわれることになった。
西部政庁の幹部も呼んで西の大公家で再び協議。その直前、ジランさんは僕と六年生五人を集めて、僕たちの顔を見回した。用件は王都への伝令。意見の調整後、ジランさんと父も王都へ向かう。それまでは無理に交渉を進めないようにと。
しかし、六年生たちは先ほどから帰国の算段を話し合っていた。六年生たちはそれぞれ個人でこの街を訪れたことがある模様。ここで解散して別々に帰国しようと言う者。フレクラント国までは行動を共にしようと言う者。意見は二つに割れていた。
六年生たちはジランさんの要請に困惑の様子を見せた。その微かな躊躇を見逃さず、僕はすぐさま立候補した。ジランさんは六年生たちに全員揃っての帰国を命じると、仕方が無さそうに僕に出立を促した。
僕は母屋の正面玄関を出た所で飛翔魔法を発動し、特に誰に見送られることもなく低空帯を低速で飛び始めた。まずは地上の道に沿って街中を船着き場まで。昨日よりもさらに早い時刻とあって商店街に客の姿はほとんど無かった。
街中には、ぽつりぽつりと宙を飛ぶ人の姿があった。その数はフレクラント国とは比較にならないほどの少なさ。わずかな人影は皆、低空帯をゆっくりと飛んでいた。
エスタスラヴァ王国の一般民は弱い魔法しか使えない。と言うことは、飛んでいるのはおそらく貴族。僕から見れば残念ながら、その飛翔はフレクラント国の初等学院生並み。中には自然強化魔術の水準にとどまっているものもあった。
船着き場に到達し、フレクラント川の上に出た。どこまでも快晴、穏やかな向かい風。僕は中空帯まで上昇し、川に沿って中速飛翔を開始した。
少し前に次女のイエシカ様も出発していた。今朝、大公家の使用人から聞いた話によれば、次女様は川に沿って低空低速飛翔を続けているはずだった。川の両岸には堤と並木、草原や畑。程なく低速飛翔をする颯爽とした身なりの人影が見えてきた。
僕が低空帯まで降下して次女様の隣に並ぶと、次女様は驚いた表情で、堤に着地すると合図してきた。人気の無い堤の上の並木道。どこからともなく野鳥のさえずり。着地した瞬間、次女様は「何で」と尋ねてきた。
「王都への伝令を命じられて。一緒に行きましょう。僕が次女様を背負って高空高速飛翔します。次女様は浮揚だけで構いません」
僕は頭全体と顔の下半分を覆う頭巾をかぶり、目には風除けと虫除けの眼鏡を掛ける。次女様は手拭いで顔と首筋を蔽い、帽子をかぶる。頭巾と眼鏡、手拭いと帽子に僕が硬化魔法を掛けて、首から上を完全防御。背嚢を背中から腹の側に移して次女様を背負う。予備の荷造り用の紐で次女様の体を僕に括り付け、紐に硬化魔法を掛ける。
そして上昇を開始し、僕は次女様に率直に尋ねた。
「街で噂を聞いたんですけど。王都で騒乱か反乱が起きるかも知れないと」
僕の背中で次女様がわずかに身を強張らせた。
「なぜ、私にそんな話をするの?」
この人は何かを知っている。知らなければ、こんな反応にはならないはず。
「次女様だけ通商交渉とは無関係に忙しく動き回っているから」
「なぜ、通商交渉とは無関係だと思うの?」
「だって、交渉は大公家で行なわれているのに、次女様は西部政庁へ行っていた」
「ケイ殿こそ、通商交渉とは無関係にずっと単独行動している。何だか怪しい」
その認識に僕は少し慌てた。
「僕は怪しい人間ではありません」
僕の頭の後ろで次女様が大きく息を吐いた。
北には平原と丘陵。地平線の先には山並み。西のすぐそこにはエスタスラヴァ王国とフレクラント国を隔てる国境の山々。南にはエスタスラヴァ王国とスルイソラ連合国を隔てる壮大な山脈。東には果てしない平野。はるか先には地平線。未だ高度が低いからなのか、その先にあるはずの東海はまだ見えなかった。
しばらく上昇を続けた後、僕はもう一度尋ねた。
「何か知っているんでしょう?」
「私はただの伝令」
「騒乱か反乱が起きるんですか? ソルフラム大統領もジラン副大統領も中々口が堅くて」
「ケイ殿。止まって」
僕が上昇を停止すると、次女様はフフンと鼻で笑った。
「呼び止めて、縛り上げて、担ぎ上げて、言葉責め。ケイ殿も中々のやり手ね」
「そういうつもりでは。それに言葉責めという単語、初めて聞くんですけど」
「問い詰めることでしょう? 高等学院で聞いたんだけど」
「もしかして、大貴族のお嬢様が口にして良い言葉ではないのでは」
次女様が「そうなの?」と尋ねてきた。「そんな語感ですけど」と僕が答えると、ウーンと微かなうめき声が聞こえてきた。やはり、何だか無邪気で楽しい人。
「私は伝令役を任された時に厳命されたの。世の中には、はかりごとに長けた人がいる。陥れられないよう伝令は伝令役に徹し、余計なことに首を突っ込んではいけないと。ケイ殿もそうした方がいい」
「教えてくれないと、王都で訊いて回ることになります」
「ケイ殿は誰の命令で何をしているの? 私は答えた。ケイ殿も答えて」
少し迷ったが、次女様の要求ももっともだと思った。
「大統領です。僕独りで呼び出されて命じられたんです。とことん見て回れと」
「そして、大公家の娘をさらってこいと。いいわよ。大統領閣下のお墨付き。このままフレクラントに駆け落ちしよう」
僕がエッと驚くと、次女様は鼻で笑った。からかわれたのだと僕は気付いた。わずかに間が空いた後、次女様は「政変」と言った。
「ただし、動きがあるだけ。その種の事柄には適切な時機と良い切っ掛けが必要。今はまだ時機でもなく切っ掛けも無い。だから、ケイ殿も王宮では大人しくしていること」
想定内の返事だった。そしてつまり、おそらく西の大公家の長女、中央政庁勤めのカイサ様が情報収集役で、次女様はそれを王国西部に伝えている。
その時、次女様の妙な口振りに僕はふと気付いた。
「王国西部は政変に賛成の立場ですか?」
「西の大公と西の執政殿とフレクラントの大統領閣下が政変の後ろ盾。これは絶対に秘密」
僕は絶句した。次女様が飛翔魔法を発動して自力で飛翔しようとした。僕は「浮揚程度でいいです」と声を掛けて上昇を再開した。
いよいよ高空帯に到達した。ヴェストビークの街は、西から流れ出るフレクラント川が作った大きな扇状地の終端辺りに位置している。その事実をこの目で直に確認し、僕は背後の次女様に声を掛けた。
「いきますよ。高空高速飛翔」
僕たち以外には誰もいない自由な空。丘を越え、川を越え、林を越え、畑を越えて集落を越え、その速さは普通の徒歩の約二十五倍。僕たちは王都へ向けて一直線に風を切り続けた。
半時ほどが経った頃だった。前方に大きな街が見えてきた。次女様が「あそこ」と声を上げた。街の中心には遠方からでもそれと分かる大きな屋敷。多分、あれが王宮だろう。それを取り巻く街並み。やはり、ヴェストビークの街とは規模が違った。しかし、巨大というほどでもなく、僕は遠目に拍子抜けした。
ところが王都が目前に迫った時、僕はその真の大きさに気が付いた。街を取り囲むように点在する集落。その数がヴェストビーク周辺とは桁違いに多かった。そんな郊外にいったん着地し、高空高速飛翔の装備を解除し、僕たちはそこで別れることにした。
「最後に一つだけ確認しておきたいんだけど、常設警邏隊に何か動きは。フレクラント国大統領府常設警邏隊」
「僕はそういうことは全く知りません」
「常設警邏隊は昔から殺戮の魔女とか呼ばれているんでしょう。介入してきたら怖い」
「常設警邏隊は女ばかりではありませんけど。それに、怖い人たちではないと思いますよ」
僕の返事に、次女様は小さく首を傾げた。
「いずれにせよ、今の話は絶対に秘密。大人しくしていること。何かが起きたら、すぐに逃げ出すこと」
晩餐会の時とは異なる真剣な口調で「いいわね」と念を押すと、次女様は低空帯をゆっくりと飛び去って行った。
◇◇◇◇◇
交渉団の団長に伝言した。大人しく待っていろと命じられた。王宮の敷地内、宮殿の正面玄関前で僕は独りぽつんと立っていた。
王宮内に殺伐とした空気は特に無く、警備の人たちがゆっくりと巡回しながら時折、僕に目を向けてくるのみ。おそらくこれが日常の光景なのだろうと思われた。僕は居場所を間違っているのだろうか。政変の舞台は王宮ではなく例えば中央政庁。
ジラン副大統領は政変を警戒している。だから昨夜、僕に帰国を命じた。次女のイエシカ様も警戒を促してきた。ただし同時に、時機でもなく切っ掛けも無いとも言った。多分、その認識はジランさんも同じ。だから昨夜、いかにも当然のように、交渉終了をもって予定通りに帰国すると宣言した。さらには今朝、渋々ながらも僕を王都へ送り出した。
まさか、大統領だけは政変が実際に起きることを知っているのだろうか。もしそうなら、大統領が背後にいる以上、フレクラント国側にとっての厄介事とならないよう政変勃発は交渉の終了後。僕がそこに立ち会うのであれば、政変勃発は交渉団が王都を出立する前。
未だ午前。しかし陽は高くなり始め、夏の陽射しが眩しく熱くなってきた。断続的に衣類に冷却魔法を掛けてしばらく待ち続けていると、王宮の正門付近から職員と思しき人が駆けてきて、宮殿の脇を抜けて敷地の奥へ消えていった。次いで、敷地の奥から二頭立ての箱型馬車が現れて、正門で誰かを乗せて宮殿の正面玄関に到着した。
何ということ。ジランさんと父の出迎えは立派な馬車。降車してきた二人の顔には満足げな納得の表情。僕も乗ってみたかった。そんなことを考えていると、ジランさんが「付いてきなさい」と命じてきた。
僕たちは使用人に案内されて執務室に通された。目の前には、国王陛下と思われる威厳に満ちた、しかし少々老けた感じの男性。それに付き添う側近らしき人が数名。男性は椅子から腰を上げた。
「ジラン閣下。よくぞお越しになられた」
「十年振りでしょうか。元気そうで何よりです。国王陛下」
「閣下こそ、若々しくお元気そうで羨ましい限り」
「いえ、いえ」とジランさんは笑みをこぼした。
「今回の通商交渉、閣下は王都を素通りされるおつもりだったとか。何とつれないと残念に思っておりましたが、思わぬ展開。喜ばしい限りです」
「その言葉、光栄ではあっても一概に喜ぶ訳にもいきません。私としては嬉しいやら悲しいやら、笑いと涙が止まりません」
ジランさんの受け答えに、陛下は豪快に笑った。
「して、そちらは」と陛下は父に目を向けた。
「お初にお目に掛かります。私はクレール・エペトランシャ・サジスフォレと申します。フレクラント国西地方の副中統領、ルクファリエの統領を務めております。どうかお見知りおきのほどを」
「うむ」と陛下は頷いた。「サジスフォレ卿。知恵と土と水の魔法使い。覚えておこう」
「光栄に存じます」と父は頭を下げた。
「して、そなたは」と陛下は僕に目を向けてきた。
国王陛下への返答の仕方など、僕には見当も付かなかった。ジランさんから指示されていたのは二点。自己紹介では格好をつけるべし。公式な場では冗談や軽口などを口にしてはならない。僕は父の名乗りを真似ることにした。
「お初にお目に掛かります。クレール・エペトランシャの息子、ケイ・サジスフォレと申します。フレクラント国の西地方中等学院の一年生を務めて……、一年生です。どうかお見知りおきのほどを」
「うむ」と陛下は頷いた。「白狼の騎士の高名は昨日耳に届いたばかり」
僕はウッと呻いた。陛下はこんな場でも冗談を言える人らしい。
国王陛下との面会はそれで終わり、ジランさんと父は直ちに交渉の場へ向かって行った。別れ際、ジランさんは僕に休養するよう命じてきた。おそらく、交渉はすぐに妥結するだろう。今はまだ午前中、正午にも届かない時刻。妥結となれば予定通りに本日中に帰国する。交渉終了まで、僕は庭園で体を休めつつ余剰精気を補充せよと。慌ただしい一日になりそうな気配に、僕はジランさんの言い付けを素直に守ることにした。
◇◇◇◇◇
青い空。穏やかな風。緑の木々。色とりどりの花々。多分、エスタスラヴァ様式とでも呼ぶべきものが存在するのだろう。西の大公家の庭園と同様、王宮の庭園も構造的だった。
国王陛下の耳にはすでに様々な情報や噂話が届いている様子だった。父は中等学院の元教師、土木と利水の専門家。それを「知恵と土と水の魔法使い」などと洒落た呼び方をする。そして僕には白狼の騎士。
陛下は二年前の事件のことも知っているに違いない。それでも、物事の暗い側面には一切触れずに、白狼の騎士などと冗談交じりに持ち上げる。ジランさんには「社交辞令に舞い上がるな」と釘を刺されてはいたが、陛下は鷹揚で粋な人。そんな風に僕は感じ入った。
それと同時に、僕は疑念もしくは懸念を覚えた。ジランさんは、嬉しいやら悲しいやらと言った。嬉しいやらの理由は明白。ジランさんと陛下は親しい間柄の模様。悲しいやらは交渉の難航と政変関連。フレクラント国は現政権に批判的な立場。陛下はどこまで状況を把握しているのだろう。
辺りに人影が無いことを確かめて東屋の細長い腰掛けに寝転んでいると、突然「いた、いた」という声が聞こえてきた。慌てて身を起こして周囲を見回すと、若い男性が近付いて来ていた。
「君かな。先ほど到着した交渉団の子は」
「はい」と僕は会釈した。
「私はエルランド・ブロージュス」
「僕はケイ・サジスフォレと言います」
僕はそう名乗りながら、ふと気付いた。エルランドという名前。王都の名と同じ名字。爽やかな風貌だが、ちょっと偉そうな物言い。
「政務官たちが噂していたが、良く分からないな……」
間違いない。小首を傾げて僕を眺めるこの人は王位継承順位四位の殿下。
「何が分からないのでしょうか」
「隣に座ってもいいかな?」
僕が了承すると、殿下は腰を下ろしてフームと鼻を鳴らした。
「君は今朝まで西の大公家にいたのだろう。アンソフィーとイエシカとクリスタは元気にしていたか」
殿下の第一の関心事は妻候補のこと。僕はジランさんの警告を思い出した。
「次女様と三女様は元気にしておられました。クリスタという人のことは知りません」
「そうか。アンソフィーの火傷も良くなったか。やはり暴発は怖いな」
僕は呆気にとられた。殿下はすでに知っている模様。情報の秘匿に気を遣わなくても済みそうだった。
「そういう情報はどこから。中々、他人には知られたくない事柄だと思うのですが」
「妃候補のことが気に掛かるのは当然だろう。相手方だって私のことを色々と訊いて回っているに違いない。お互い様だ」
そう言うと、殿下は笑みを浮かべた。その時、僕はふと思い付いた。
「あのう。飴ちゃん、舐めます?」
「おう。一つ貰おう」と殿下はあっさり肯定した。
僕は喜び勇んで背嚢から飴を取り出し、飴に掛けておいた硬化魔法を解除した。飴は会話の潤滑油。飴ちゃんと敢えて砕けて呼ぶのが会話の呼び水。小耳に挟んだ真偽不明の豆知識がようやく役に立った。
「飴の材料は?」
「砂糖だけです。砂糖水を茶色くなるまで煮詰めて固めた物。僕が作ったんです」
殿下は包み紙を取り除くと、気楽に口に含んだ。殿下の右の頬が膨らんだ。
「君は帰り道に西の大公家に立ち寄るのか?」
「予定では、こちらに直接来た交渉団が表敬訪問することになっていますので」
殿下はフームと鼻を鳴らし、何かを考え込んでしまった。僕は先ほどから気になっていたことを尋ねた。
「殿下は通商交渉に加わらなくて良いのですか? まだ懸案が残っているようですけど」
僕の問いに、殿下はアハハと笑った。
「リゼット様がすぐに話をまとめてしまうに決まっている」
その瞬間、ふと疑問に思った。ジラン閣下ではなくリゼット様。西の大公様と同じ呼び方をする。
「今、リゼット様と呼ばれましたが、ジランさんとはどのような関係で……」
殿下は「ん?」と首を傾げた。
「知らないのか? いや。他国の子供が知らないのは無理も無いか。私の父の父の父の父の父の妃はリゼット様の息子様の娘。つまり今の王家にとっては、リゼット様は未だ存命中の御先祖様のお一人。歳の順で言えば上から六番目。外戚の外戚ではあるが」
僕はウッと呻き、指折り数えた。何とかの何とかの。皆、そういう言い方をする。
「数えなくてよろしい」と殿下は軽く笑った。「国王陛下はリゼット様の三代下、私はリゼット様の七代下だ」
「ジランさんが上から六番目というのは……」
「リゼット様の旦那様、リゼット様御夫妻の御両親。皆様、御健在なのだろう?」
僕はアッと声を漏らしてしまった。まだ上がいた。
「僕はそこまでのことは知らないので……。それから聞き違いでなければ、イエシカ様やアンソフィー様は殿下の一世代上では……」
「君は耳が良いな。続き柄ではそうなるが、歳は私の方が上だ。西の大公家の方々は他よりも少しばかり人生を長く楽しまれると評判だからな」
「殿下とお二人は共通祖先の夫婦から六親等と五親等離れておられる訳ですね。と言うことは、血の重複は六十四分の一」
殿下はフフンと鼻で笑った。
「重複については残念ながらわずかに違う。それにしても、フレクラントでは次から次に英才が生まれるという噂は、あながち嘘でもないのか」
西の大公家でも英才という言葉を耳にした。重い言葉の軽い使用。フレクラント国とエスタスラヴァ王国とでは、語感にずれがあるのだろうか。
「僕は英才ではありません」
殿下は訝しげに「ん?」と鼻を鳴らした。
「交渉団の随行員を務めるからには、君は国でもかなりの切れ者なのだろう?」
そういう認識だったのかと僕はようやく理解した。
「本当の随行員は今朝までこちらにいた六年生たちです」
「いや。一年生で同行を命じられた君こそが本命だろう」
僕は本命という言葉に違和感を覚えた。僕の理解では、本命とは候補の筆頭という意味。殿下は何の候補と言っているのだろう。それともやはり語感のずれ。
「いずれにせよ、フレクラントの人口はそれほど多くないので、エスタスラヴァの貴族の皆さんと同じく、血筋の計算をしないと結婚できないんです。例えば、結婚する時には必ずずっと昔の家系図まで調べますし」
「それは知っている。そういう所が我々貴族とフレクラント人の親和性の高さの理由なのだろうな」
「それに一昨日も、西の大公家でそんな話が出て……」
殿下はフーンと鼻を鳴らし、「そういうことか」と独り納得した。
殿下には人の言葉を最後まで聞かない癖がある様子。僕がふとそんなことを思っていると、殿下は僕を見詰めてきた。
「その数勘定の速さ。君は数学が得意なのか?」
「数学を使うのが好きです。将来は数学を使う何かをしたいと思っています」
「それなら一つ、質問と行こう。君の国の高等学院は数学研究で有名だ。十年近く前のその紀要に、『最も論理的であり最も厳密であるはずの数学の体系にも、必ずどこかに不完全な部分が存在する』という証明があった。困ると思わないか。厳密であるはずの数学がその有様では、我々は他の様々な物事に対していかにして確信を持てば良いのだ」
殿下には話の内容が飛躍してしまう癖もある様子。それでも一応、僕は答えた。
「それは誤読です。全体をもって完全となっている論理の体系が存在し、そこから部分的な体系を抜き出したとする。その場合、その部分体系がいかに完全と思えたとしても、その完全性はその部分体系内では証明できない。そういう意味です」
「なるほど……。我が国の完全性は外からもたらされると……」
「いえ。そういうたとえ話では」
殿下は「ん?」と首を傾げ、呆気にとられたような表情をした。
「君は中等学院の一年生なのだろう?」
「はい」と僕は頷いた。
「君の悩みは」
「はい?」と僕は呆気にとられた。
「そうか。まだ悩み事に悶々とのたうち回るような歳ではないか」
「えっと、それなら……。受けた命令の意味や理由が分からず、命令に逆らって、より良いと思われる行動をとった場合、それはそこまで批判されるべきものなのでしょうか」
「そこまでとはどこまで」
「例えば屈辱刑を受けるまで」
「君は三級屈辱刑を受けたそうだな」
僕は言葉に詰まった。国王陛下だけでなく殿下も知っていた。と言うことは、おそらく王宮のかなりの人がすでに知っている。
「君の行ないは独善による独断と見なされた。そういうことだろう」
「でも、意味や理由の分からない命令であっても、それに黙々と従うことだけが善であるとするのなら、上に立つ者は全知全能であるべき」
「自分は大人たちよりも賢いと言いたいのか?」
「いえ。そういうつもりでは」と僕は慌てて否定した。
「それなら、君は暗に王制や貴族制を批判しているのか?」
「ですから、そういうつもりでは」と僕は重ねて否定した。
「分かっている。君の魂には素質があるのだ」
「はい?」と僕はさらに呆気にとられた。
この人はどこかおかしい。思考の奔流。脈絡の欠落。
「皆がそれで良いと思っているのなら、それで良い。それが衆愚の理屈だ」
あっ。話が戻った。何なのだろう、この人は。
「君は何のために存在しているのだ」
「えっ? 飯を食べるため」と僕は適当に答えた。
「冗談を言っているのか? 食事は存在するための手段だろう」
「それなら、光を掴んで人々を救うため」
「君は偉い」
「光を掴もうと思って、間違って光爆ではなく炎爆を放って自爆したことがあります」
「君は頭がおかしい」
「はい。西の大公家の食事は上手かったです」
「そうか。懺悔するが良い」
「頭が糠床で済みません」
「私の高等学院での専攻は生命学と生命力工学だった。君も生命学と生命力工学を学んでみれば良い」
殿下の話は飛躍に次ぐ飛躍。しかし、それを指摘するのは控えた。
「はい。興味はあります。考えておきます」
突然、殿下は重苦しい表情で溜め息をついた。今度はどのように飛躍するのかと僕は身構えた。
「王族や貴族に生まれた者は自分のあり方をそのように自由に語れない」
「殿下はそんなに不自由なんですか?」
「今は政治学と経済学を勉強中だ。我が国のこと。フレクラント国やスルイソラ連合国のこと。中々に難しい。それに比べれば、フレクラント人は本当に自由だ」
これは愚痴。それとも弱音。まさか、王子の地位を捨てたいなどと言い出すのでは。
「自由であるがゆえに君は選択肢に曖昧に向き合い保留するのだ」
殿下はふと我に返ったように穏やかな表情に戻り、僕の顔を見詰めてきた。
「いや。他国の子供に言うことではないな……。いや。やはり言っておこう」
翻意に翻意。僕は「はい」と続きを促した。何か重要なことを言われそうな気がした。
「自由とは個であるということ。そして、多くの個は存在理由を見失う」
その時だった。「殿下」と呼ぶ声が聞こえてきた。政務官なのか使用人なのか、男性が近付いて来ていた。
「殿下。交渉が妥結いたしました。最後の歓談の後、交渉団の方々はお発ちになります」
殿下は「分かった」と答えると、「行こう」と僕に声を掛けてきた。
庭園から宮殿へ向かう道すがら、殿下は歩を進めながら何かを考え込んでいた。殿下の頭の中では思考が駆け巡っている様子だった。一方、僕は両手を広げて最大限に自然精気を取り込みながら、殿下に無言で付いて行った。
殿下の言葉の続きが気になった。ちょっと考えてみた限りでは、当たり前のような言説。しかし、その言い回しは思わせ振り。殿下は哲学的な話をしようとしたのだろうか。それとも社会学的。もしかしたら殿下の専門だという生命学。
目の前を歩く殿下が突然「私の見解では」と言い出した。
「英才とは転生を繰り返した者だ。それぞれの前世で知恵と知識を魂に刻み込み、たとえ現世では目覚めなかったとしても、それが魂の深層から滲み出す」
また飛躍。殿下の関心は英才の件に戻ってしまった。殿下は僕の方に振り返ろうともしない。丁寧に対応するのが面倒臭くなってきた。
「僕の聞いている所では、転生しなくても賢い者はいる。むしろ、そちらの方が一般的」
「知っている。私は専門家だ」
殿下の少し強めの語気に、僕は「はい」と簡潔に応えた。
「肉体から解放された魂は個として存在する。個として存在する魂の多くはいずれ崩壊し、自然に還って自然精気の一部となる。崩壊を回避して転生するためには、曖昧なる保留とは正反対の態度、つまり信念、熱望、執念、妄執などを持たなければならない。君には先鋭化が足りない。君は生死を越えてもっと激烈であるべきだ」
転生に関する一般論。殿下は生命学の話を続けていた。
「要するに、君の知識は聞きかじって得たものか」
意味不明。何が要するに。
「そういうものも多いと思います。特に僕の一族には教師が多いので」
殿下はフーンと鼻を鳴らした。今度は僕が訊き返した。
「殿下の存在理由は何ですか」
殿下はフフンと鼻で笑った。
「種馬に決まっている。男子を産ませて産ませて産ませ尽くす。それが私の役目だ」
あまりの言い方に、僕は「あのう……」とわずかに口ごもった。
「いずれ国王になる方としては、政庁の仕事も大切なのでは……」
「まつりごとは貴族の中から選ばれた宰相の領分だ。馬鹿が世襲で権力を握ったら目も当てられないことになる」
「とすると今、政治学や経済学を勉強しているのは……」
「政治や経済が分からなければ、宰相の行ないの良し悪しも分からないだろう」
僕が「はい」と答えると、殿下は「それにしても」と話題を変えた。
「君にとっては、弟たちの相手は役不足だな」
僕が「相手?」と訊き返すと、殿下はようやく足を止めて振り返った。
「知らないのか? 今回のような交渉に子供を帯同するのは、次世代の交流のためだ」
知らなかった。「そうだったんですか……」と僕は呟いた。
「君は相当な型破りらしいな。何と、白狼に跨って国中に高笑いを轟かせながら空を飛び回ったそうではないか」
「それは大袈裟ですけど……」
「君は野生の獣のような魔法も使うと聞いたが」
「自然強化魔術です。いつの間にか覚えてしまって」
「君は頭がおかしい」
何だかうんざりしてしまって、僕も言い返した。
「殿下も頭がおかしい」
「やはり本命か」
「本命ってどういう意味ですか」
殿下はフーンと鼻を鳴らすと黙り込んでしまい、そのまま歩き始めた。
殿下が再び口を開いたのは宮殿の入り口が目前に迫った時だった。
「西の大公家は……」と殿下は呟いた。「何としてでも魔法の訓練を仕上げなければ、後々大変なことになるだろうに……」
「アンソフィー様のことですか?」
「覚えておくと良い。人を試し、人を陥れ、しかも試し陥れたことを当人の前で平然と口にする。この世には、そんな鬼畜のごとき悪党も存在する」
「はい」
「君の名前は」
「ケイ・サジスフォレ」
「覚えておこう」
そう言うと、殿下は宮殿に入っていった。
◇◇◇◇◇
大広間にはフレクラント国の代表者たちとエスタスラヴァ王国側と思われる人たちが揃っていた。皆の手には杯。皆は立ったり座ったりしながら雑談を交わしていた。室内中央には数脚の長机。果物や菓子が用意されていた。しかし、時刻は朝食からまだ数時間とあって、多くの人は飲み物のみ。食べ物に手を出す人はほとんどいなかった。
そこには父とジランさんの姿もあった。二人は笑みを浮かべてエスタスラヴァ側の人と言葉を交わしていた。一方、フレクラント側もエスタスラヴァ側も、それ以外の人たちの顔には疲労の色が滲んでいた。
部屋の隅で果汁を飲みながらそんな様子を眺めていると、見知らぬ男性が近付いてきた。少し老けた感じのその男性はにこやかに「君が噂のサジスフォレ君か」と言った。
「お初にお目にかかります。それで、あなたは……」
「私は宰相を務めている」
男性は名乗らずに役職のみを答えた。僕は問い質さずに会釈した。
「フレクラントの皆さんは相変わらず手ごわい」と宰相閣下は笑みをこぼした。
「交渉はそんなに揉めたのでしょうか」
「まあ、それなりに。ところで、君は中等学院の一年生か。王家の若君たちと同年配だな」
交渉団に子供を帯同するのは国を越えた交友のため。僕はそれを思い出した。
「エルランド殿下にはお目に掛りましたが、それ以外の人たちとはまだ……」
「まあ、そのうちに。ところで、君の父上はかなりのやり手のようだが、父上はどんな方なのだろう」
「どんなと言われても……」と僕は困惑した。
「良い所。悪い所。人間なのだからどちらも色々あるだろう」
「それはそうでしょうけど……」
「私の見るところ、父上はしっかりと勉強される方のようだ」
確かに、父はこの交渉に備えて色々と調べ物をしていた。父と宰相閣下は今回が初対面のはず。それにもかかわらず、宰相閣下は父のそんな所をきちんと見抜いた。
「父上はお幾つだろう」
「百五十二歳です」
宰相閣下はフームと鼻を鳴らした。
「私や陛下よりも幾分下か……。それにしては経験も豊富なように見受けられる」
「いや、それほどでも」
しつこいほどの誉めように、父に代わって僕が謙遜すると、宰相閣下は「んん?」と興味深そうに鼻を鳴らした。
「何かあるのかな? 父上は普段はどんな方なのだろう」
あまりの執拗さに、僕は返答に困った。
「あまりにも賢く手強い方なので、普段の癖ぐらいは知っておきたいと思ってな」
「いや……」と僕は首を傾げた。
「良い所と悪い所をきちんと見分ける。それが人を見る目というものだろう」
「それなら……。父は時々、お人好しと言われているようですが……」
僕の返答に、宰相閣下はフーンと鼻を鳴らすと、何かを考え込んでしまった。杯の果汁に口を付けながら次の言葉を待っていると、宰相閣下はおもむろに「駄目だな」と呟いた。その冷淡な響きに、僕は緊張した。
「父上は君を産み育ててくれた大恩のある方だろう。そういう方の悪口を言うとは、何たることだ。そういう行為を人の道にもとると言うのだ」
突然の批判に、頭の中が真っ白になった。
「何があろうとも、大恩のある方のことは決して悪く言わない。それが人として守るべき道だ。君は若君たちの相手に相応しくない」
宰相はそう言い残すと、その場を去り、独り大広間から出ていった。
頭の中を様々な思いが駆け巡った。得体の知れない不快感が沸き上がってきた。しつこく尋ねてくるから、僕は仕方が無く答えたのだ。あの男は国王陛下に次ぐ王国第二位の重要人物。そんな人間に執拗に迫られたら、無碍にあしらう訳にもいかないではないか。
僕は大広間の隅に座り込んで考え続けた。あの男は間違っている。何かが決定的に狂っている。あの男にやり返す。その根拠は。
そんなことを考えていると、「ケイ。どうしました」と呼ぶ声が聞こえた。副中統領の女性だった。その瞬間、僕はエルランド殿下の言葉の意味に思い至った。僕は「何でもありません」と答えて腰を上げた。
僕は副中統領を振り切って大広間を後にした。天井の高い広い廊下。使用人と思われる男性に宰相の居場所を尋ねると、男性は怪訝な顔をしながらも教えてくれた。
僕の心は嫌悪と黒い怒りで満たされていた。過大に捏造された罪によって三級屈辱刑を受けたあの時、僕はあいつらを殺しそこなった。皆殺しにして自分も死ぬ。その程度のことさえ思い付かなかった。でも、今は違う。やられたらやり返す。
昨日は西の大公家の家令。今日は宰相。家令との一件では確かに僕にも落ち度があった。一方、先ほどの宰相。僕に何の落ち度があると言うのか。そして僕の人格の否定。絶対に許せない。絶対に許してはならない。
僕は宰相の控室の前に立った。背嚢から鉈と鞘を取り出して腰の後ろに帯びた。買ったばかりの僕の鉈。フレクラントで作られた合成石製の鉈。首を落とすのに十分な大きさと重さ、抜群の切れ味。戦闘になったらためらわずに使う。僕は鉈に硬化魔法を掛けた。
僕が予告なしに扉を開けると、宰相は驚いた様子で「いきなり何だ」と凄んできた。
「お前は僕を陥れ、僕と僕の家族を貶め、僕に罪悪感を植え付けようとした。人を試し、人を陥れる。そんな曲がったことをしておきながら偉そうに人の道を説く。何という偽善。何という悪徳。鬼畜のごとき悪党!」
僕はそう怒鳴り返し、魔法力を込めてウワーと絶叫した。宰相が両耳を抑えてしゃがみこんだ。窓硝子がビリビリと震えて砕け散った。室内の陶磁器が拡声魔術に共振して弾け飛んだ。遂に、宰相が白目をむいて床に引っ繰り返った。
次の瞬間、僕は空を見上げていた。慌てて周囲を見回すと、王宮の庭園。僕は地面に横たわっていた。僕のそばには父の姿。僕は跳ね起きて父に尋ねた。
「硬化魔法を掛けたの?」
「お前、自分が何をしたのか分かっているのか」
「分かっている。明確に」
僕が全ての経緯と僕の考えを説明すると、父は目付き鋭くフーンと鼻を鳴らした。
「分かった。俺も人の道とはもっと真っ直ぐなものだと思う」
「あの宰相はどうなった」
「手当てを受けている所だ。他にも鼓膜が破れた者が多数いる。今、交渉団の全員で治療に当たっている。皆すぐに治るだろう。エスタスラヴァ側はそのことで騒いでいるが、強い治癒魔法を使える我々から見れば、そんなことは大した問題ではない。問題は物の方だ。王宮の建屋に亀裂が入った。かなりの窓や備品が壊れた。お前はやり過ぎた」
「あの男は僕を陥れて、僕に濡れ衣を着せたんだ」
「分かった。俺もお前を通して宰相に貶められた。俺にもお前に似たような気持ちはある。しかし、やり過ぎはやり過ぎだ」
「でも、あの男はこの国で二番目の地位にあるんだよ。権力という意味では、実際は一番なんだよ。そういう男が地位を、つまり国の力を使って僕を陥れ、僕の人格を否定した。あの悪質さは死に値する。でも、いきなり殺したら戦争になるから、まずは出方を見た」
エルランド殿下は生死を越えて激烈であるべきと言った。しかし父は違う。やはり父は当てにならない。そんな風に僕は失望しかけた。
「僕は皆の言い付け通りに大人しくしていた。そうしたら、あの男はそういう所に付け込んできた。もう大人しくするのはやめる。僕は戦う。とことん戦う」
「ケイ。その腰の鉈はすぐに外せ」
「なぜ」
「こんな所でお前が着けていて良い訳が無い。これ以上何かあるようなら、名誉に懸けて、俺がその鉈であの男の首を落とす」
珍しい言葉だった。僕はフーンと鼻を鳴らした。
父が僕の鉈を腰に帯びた時だった。「おーい」と呼ぶ声が聞こえた。見ると、エルランド殿下と見知らぬ男性がこちらに向かってきていた。
エルランド殿下は僕の前に立つと、満面の笑みを浮かべて「君は頭がおかしい」と声を上げた。僕は無言で頭を下げた。
「サジスフォレ卿」と見知らぬ男性は言った。「少し外に出ていたので、挨拶が遅れました。私はフェリクス・ブロージュス。国王陛下の孫で、王位継承順位二位です」
父と僕は第二位の殿下に会釈した。
「皆の治療は終わりました。先ほどから、宰相が国王陛下に色々と訴えています。それを聞いて、大方の事情は察しがついています。宰相がケイ殿に何をしたのかも想像がつきます。ただし念のため、ケイ殿からも事情を聞きたいのですが」
父に促されて、僕は先ほどから続けていた話の内容を全て伝えた。僕の説明が終わると、第二位の殿下は「なるほど」と言った。
「想像していた通りです。今回の件、このまま終わりとせず、出来る限り大ごとにしていただきたい」
「どういう意味です」と父は不審そうに首を傾げた。
「今、フレクラントの他の方々にも急いで根回しを行なっています。ケイ殿を責める気は全くありません。ですから、どうか我々に力を貸していただきたい」
「何をするつもりです」
「中央政庁から宰相の一派を一掃します」
僕はその場にしゃがみこんで頭を掻きむしった。
◇◇◇◇◇
大広間よりもかなり広く、国王陛下の執務室よりもはるかに広い謁見室。上座には立派な椅子に腰を下ろす国王陛下。そのかたわらには直立不動の宰相。僕も含めてフレクラント国通商交渉団は下座に横一列に並び、謁見室の壁際は多くの人で埋め尽くされていた。
通商交渉団には、副大統領のジランさんを含めて三人の中統領がいる。おそらく、三人は事態の急変も想定し、背嚢に入れて密かに持ち歩いていたのだろう。いつの間にか、三人も鉈を納めた鞘を腰の後ろに帯びていた。つまり、いざとなったら血を見ることもやむなし。その覚悟を無言で表明していた。
国王陛下が「ケイ・サジスフォレ」と声を発して、いよいよ審問が始まった。
「何ということをしてくれたのだ。なにゆえに、かようなことを仕出かしたのだ」
「その前に」と父が割り込んだ。「そこにいる宰相閣下の説明をお聞きしたい」
国王陛下は「良かろう」と答えると、脇に控える宰相に説明を促した。
経緯に関する宰相の説明には特に嘘も脚色も無かった。宰相の言葉が進むたびに、周囲からオオと感嘆や同意の声が漏れた。しかし、宰相自身や僕の行ないに対する解釈には同意の声ばかりでなく、「んん?」と懐疑の声も微かに漏れた。
最後に宰相は一呼吸おいて僕を睨んだ。
「私は年長者として若輩者に人の道というものを教えただけだ。なのに、それを逆恨みするとは何たる腐った根性か。ケイ・サジスフォレ。ただで済むと思うことなかれ」
宰相の言葉はそこで終わった。国王陛下は僕に説明を促してきた。
僕にとっては三度目の説明だった。父や第二位のフェリクス殿下、第四位のエルランド殿下にしたのと同じ話を繰り返した。
僕の説明が終わると、沈黙が場を支配した。国王陛下は俯き加減で目頭を押さえていた。その他の多くの者も首を傾げたり、微妙な表情で僕を見詰めたりしていた。
沈黙を破ったのは父だった。父は「宰相よ」と呼び捨てにした。
「汝は我が息子に対して氏名を名乗らず、宰相とだけ伝えた。その上で、人の道を説くと称して無理やりに息子から恥を引き出し、私と息子を貶めた。つまり、国を挙げて我ら親子を愚弄したのだ。この屈辱、ただで済むと思うことなかれ」
「いや。サジスフォレ卿。先ほども言った通り、私は人倫を説いたのみ。教訓を厳しく授けただけ。私は、父上を大切にせよと述べたのだ」
「たかが一国の宰相が何様のつもりだ。汝はこの世の全てを支配しているつもりか。つまらぬ詭弁はやめよ。汝は息子を陥れ、人倫を説く理由を敢えて無理やりに作り出したのだ。このゆがんだ言説。許す訳にはいかぬ。息子でさえも王宮の壁を引き裂いて見せた。それならば、私は汝を中心に王宮を根こそぎ吹き飛ばして見せよう」
「そこまで言うのなら、私も言わせてもらおう。公開屈辱刑を受けた者を王家の若君たちに引き合わせようとは、一体いかなる魂胆か。私は国を代表してその企みを阻んだのだ」
その瞬間、殺意が蘇った。しかし、僕が行動を起こすよりも先に、謁見室の隅から「宰相殿」と大声が響いた。見ると、第四位のエルランド殿下が一歩前に踏み出していた。
「それはいかにも出過ぎた真似。なぜ、宰相殿が我らの交友関係を定めるのだ。他家の宰相殿が王家のあり方までも差配し支配するつもりか」
僕は我に返り、殺意をこらえた。これは政変。殿下たちには筋書きがあるのだ。
上座から「もう良い」と国王陛下の声が響いた。室内の視線が陛下に集中した。
「これは大変な行き違いである。私はこの宰相と共に長年にわたって国を取り仕切ってきた。この宰相には少々人の悪い所があるのだ。それを国王たるこの儂が詫びる。サジスフォレ卿。ケイ・サジスフォレ殿。それで矛を収めてもらえまいか」
「陛下」と第二位の殿下が声を上げた。「それでは事は収まりませんでしょう。宰相殿は説明を尽くしておられぬように見受けられます」
「フェリクス。それはお前が決めることではない。フレクラントの方々が判断することだ」
国王陛下はそのように指摘して溜め息をつき、ジランさんに目を向けた。僕も横に目をやると、ジランさんは渋い表情でフンと鼻を鳴らした。
「宰相の最後の言葉には笑いも涙も出ませんね。宰相は私たちフレクラント国通商交渉団全体を侮辱しました。やはり、ケイ・サジスフォレやクレール・エペトランシャの言う通りです。私たちに向かって何を言う。思い上がりも甚だしい」
国王陛下は目を見開くと、頭に手を当てて項垂れた。
「陛下」と第二位の殿下が声を掛けた。「これは一国に対する非礼、欠礼。ただでは済みません。宰相殿。いかに釈明されるおつもりか」
宰相が口を開いた。しかし、その口からは中々言葉が出てこなかった。すると、室内から「お待ちください」と声が上がった。「刑務長。何か」と第二位の殿下が答えた。
「本来、他国で刑罰を受けた者を王宮に入れるかどうかを判断するのは私の役目。しかし、今回は他国からの特別な代表団。私の代わりに宰相閣下がその役を果たされただけ。王宮には立ち入らせるが若君たちには近付けない。その判断は至極もっともと存じます」
「それと外交非礼に何の関係がある。外交使節を敢えて侮辱する必要がどこにある」
第二位の殿下がそのように指摘すると、刑務長は口ごもった。「もう良い」と国王陛下の声が再び聞こえた。
「フェリクス。お前は落としどころをどこに見ている。ジラン閣下。あなたは我々に何を求めておられる」
第二位の殿下がジランさんに目をやった。ジランさんが口を開いた。
「宰相の退任を」
「何と」と国王陛下が声を上げた。
謁見室がざわめいた。そこまでのことか。言い過ぎだろう。それこそ出過ぎた真似。そんな声がそこかしこから上がった。
「何ゆえにそこまで言われるのか」と宰相が尋ねた。「言い分次第では、ジラン閣下とて許す訳にはいきませんぞ」
「白狼の騎士が命じたことを忘れたのですか。虚言をもって他者を弄する者は人の上に立ってはなりません。魂胆。企み。それらは全て宰相自身の習い性。『人の悪い所がある』で済む問題ではないのです」
「いや」と宰相は首を横に振った。「私はこれでも誠心誠意、仕事に精力を傾けてきたつもりです。そのような批判を受けるいわれはありません」
すると、エルランド殿下が謁見室の中央に小さな机を持ち出してきた。次いで、紙の束を机の上に置いた。「何をしている」と国王陛下が問い掛けた。しかし、殿下は問いを無視して壁際に退き、代わって第二位の殿下が謁見室の中央に進み出た。
「少々お待ちください。陛下には全てを見届けていただきます」
第二位の殿下は「部屋の扉を全て閉じよ」と命じ、謁見室をぐるりと睥睨した。全ての扉が閉じられると、次いで殿下は「法務長。衛士長」と叫んだ。人込みを掻き分けて、それらしき二人の男性が第二位の殿下に歩み寄った。
「口を開くことなく、この資料に目を通してもらいたい」
二人は怪訝そうにしながらも、紙の束をめくり始めた。徐々にめくる勢いが増していった。全てに目を通し終えると、一人が「殿下」と声を上げた。
「これは間違いないのですか」
「法務長。全て真実です」
その時、衛士長と思われる人が資料から顔を上げ、謁見室内の一角に目を向けた。
「刑務長。お前もか!」
刑務長はわずかに後ずさると、足早に謁見室の出入り口に向かい始めた。
「刑務長を捕まえろ!」
次の瞬間、刑務長は彫像のように固まり、そのまま床に転がった。「一体何事か」と国王陛下の声が響き渡った。第二位の殿下は国王陛下に向き直り、姿勢を正した。
「現在、中央政庁には不正がはびこっております。この資料はそれらを詳述したものです」
室内の人込みが動いた。いくつもの人影が部屋の扉に向かおうとした。
「フレクラントの皆様!」と第二位の殿下が叫んだ。
騒ぎが収まった頃には、十人を越える者たちが床に転がっていた。全ては硬化魔法によるもの。周囲から僕たちに向けられる視線には畏怖が混ざり込んでいた。
国王陛下が「何たることだ」と溜め息をついた。
「お待ちください」と宰相が口を挟んだ。「フェリクス殿下。何の権限があって、殿下がかような命を下すのです」
第二位の殿下はその言葉を無視して法務長に尋ねた。
「その資料をもってすれば身柄の拘束は可能だと思うが、いかに」
「はい。有罪無罪の判定には未だ不十分かとは思いますが、一時的に拘束して取り調べを行なうには十分かと」
「宰相殿」と第二位の殿下は前を向いた。「見ての通り、権限を持つ法務長が判断を下し、権限を持つ衛士長が拘束を命じた。手順としては曖昧ではあったものの、それは事実です」
「国王陛下。宰相閣下」と法務長が割り込んだ。「この後はいかがいたせば」
その瞬間、人込みの中から「貴様は馬鹿か!」とエルランド殿下の罵声が飛んだ。
「貴様には権限があるのだろう。一々、人の顔色を窺うな!」
法務長は大きく息を吐くと、衛士長に声を掛けた。
「行こう。残る全員を直ちに拘束する」
法務長と衛士長が資料を手に慌ただしくその場を去り、転がる者たちがどこかへ運ばれていくと、第二位の殿下は国王陛下に向き直った。
「陛下。次に為すべきは……」
「待て」と国王陛下は遮った。「状況を説明せよ。まず、何人を拘束するつもりだ」
「今、私の口から述べるのは差し控えたいと思います。ただし、それは時を置かずに明らかになるでしょう」
「ここには中央政庁の者たちが多数残っておるが、これらの者たちに問題は無いのだな?」
「ここにいる者たちに不正の痕跡は見付かりませんでした。ただし、悪評のある者が複数名いると明言いたします。陛下。中央政庁の者たちには、これからしばらくの間は王都から離れることを禁じられた方が良いかと。もし離れたら、逃亡と見なすと」
「分かった。許可なく王都から離れることを禁ずる。政庁にもそのように伝達を」
その言葉に従って、政務官の一人が謁見室から走り去った。
「私からも質問を」と宰相が発言した。「先ほど、フェリクス殿下はフレクラントの方々に協力を仰がれたが、まさか他国の勢力と結んで権力を奪取しようなどと」
その瞬間、アハハとジランさんの笑い声が響いた。
「その冗談には笑いと涙が止まりません。誰が好き好んでそんな面倒臭いことを。ただし、これだけは言っておきましょう。エスタスラヴァ王国中央政庁の悪評は遠くフレクラント国にまで届いています。それを知らぬは王都の者ばかり。何と片腹の痛いこと」
ジランさんの嘲笑が再び響き渡った。それが収まるのと同時に、国王陛下が第二位の殿下に問い掛けた。
「フェリクス。なぜこのような仕儀に至ったのか、知る限りのことを説明せよ」
「はい」と第二位の殿下は胸を張った。「私は今年で九十七。高等学院を修了してからの七十年以上を王家と中央政庁の外回りの仕事に費やしてまいりました」
最初は何も分からぬままに仕事に励むばかりだった。ところが、ある時から疑問を持つようになった。道にせよ橋にせよ水路にせよ、徐々に悪くなっていくばかり。より良くなることがないのはなぜだろうと。
調べてみても、王国や中央地域の財政収入に問題は無い。公共の事業も滞りなく行なわれている。しかしよくよく調べてみると、収入、支出、資産に齟齬がある。事業の質と量が財政の規模に微妙に見合わない。つまり、資金の一部がどこかへと消えている。
さらに調べて遂にたどり着いたのは、中央政庁幹部による不正の疑惑。特にこの十年は巧妙な不正が蔓延している模様。それに気付いて密かに証拠集めを始めると、どこからともなく邪魔が入る。資料や証拠が消失する。手の者が配置転換の命を受けたり、僻地へ飛ばされたりする。
最近ようやくそれなりに証拠が揃ったものの、下手に争えばこちらが陥れられる。そのため、追及の機会を待つことにした。
「今回は十年に一度の通商交渉、フレクラント国の代表団がお見えになる。しかも、代表団には白狼の騎士が帯同されるとのこと。それを頼りに、意を決して事に及んだ次第です」
その言葉に、僕は思わずエッと微かに声を漏らしてしまった。
「フェリクスよ」と国王陛下が疲れた声を出した。「そこまでのことをしていたのなら、なぜ儂に打ち明けなかった」
「陛下は宰相殿を信用しきっておられる。しかし私の見るところ、少なくともこの十年の不正の元凶はその宰相」
「殿下。いや。フェリクス・ブロージュス」と宰相が声を荒げた。「私とて貴族の端くれ。そのような濡れ衣を着せるとあらば、王家の者とて容赦はせんぞ」
「何も、汝が不正を働いた、汝が不正をそそのかしたなどと述べている訳ではない。汝は周囲の者をどのように見ているのだ。ゆがんだ言説をもって他者を言い伏す。最高の権力を握る者がそのような振る舞いを繰り返せば、善き者は去り、残るは悪しき者ばかりとなるのは必定。汝の周りには、汝を手本として他者に悪辣に当たる者か、汝を恐れて汝に追従する者しかいないではないか。そして、汝の前では良い顔をしながら、裏では汝の威を借りて巧妙に不正を働く。容赦せんとは我のせりふぞ」
宰相はウーンと苦しそうに唸った。
「先ほどのジラン閣下の言は正しい。いや。白狼の騎士の命は正しい。虚言をもって他者を弄する者は人の上に立ってはならんのだ」
国王陛下からも苦しそうな呻きが微かに聞こえてきた。
「知っている者もいるだろう。白狼の騎士の伝説は子供向けに色付けされている。真実は違う。真実はより過激であり凄惨である。わずかに残された記録によれば、かつて北に存在した豪族たちは、圧政に慈悲と称するものを加えて暴虐の域に高めた。果てしなく驕り高ぶり、遂には北を訪れたフレクラント人をも暴虐の対象に加えようとした。激怒したフレクラント人は白狼の騎士を先頭に北に攻め入り、豪族たちを即座に皆殺しにした。切り落とした首を街道に点々と並べ、白狼の騎士の軍勢はこの王都にまでも攻め入った。そして、白狼の騎士は我らが祖先に命じた。国が改まるまでエスタスラヴァを名乗るが良いと。かつて、この地はエスタコリンと呼ばれていた。いつになったら、我々は神話の時より続くエスタコリンの名を取り戻せるのだ。いつになったら、栄えあるエスタコリンを名乗れるようになるのだ」
謁見室は静まり返っていた。皆が真剣な表情で第二位の殿下の言葉に聞き入っていた。
「あれからすでに五千年。遂に再び白狼の騎士が現れた。これは戯れ言ではない。そもそも伝説の白狼の騎士とて謎の人。歳も風貌も男女の別も定かではない。そして再び現れた白狼の騎士は、我が国の中枢に潜む悪が何によってもたらされたのかを見抜き、王宮を切り裂いて告発した。これは事実だ」
第二位の殿下が僕の方に振り返った。
「ケイ・サジスフォレ殿。この審問の最初に戻ろう。言いたいことがあれば遠慮なく言うが良い」
これが大人の戦い。それを実感しながら、僕は一歩前へ踏み出した。
「宰相に陥れられたと気付いた瞬間、僕の頭の中は真っ白になりました。そして、すぐに黒い怒りと嫌悪で満たされました。そんなことが長年にわたって繰り返されてきたのだとしたら、中央政庁が腐るのは当然です。たとえ不正を働いていなかったとしても、宰相は政庁の頂点に立つ者として、政庁を腐らせた責任を取るべきです」
「至極もっともな言い分」と第二位の殿下は賛同した。
「それから、皆さんの国の名前は皆さんが好きに決めれば良いのではないでしょうか」
第二位の殿下は呆気にとられたような顔をした。「さて」とジランさんの声が聞こえた。
「そろそろ決着を付けませんか。国王陛下。決断を」
国王陛下は腕組みをしながら俯き加減で考え込んだ。室内の視線が陛下に集中した。
ふと強い視線を感じて一瞥すると、人垣の中に見覚えのある顔が一つ。昨日の常設警邏隊員の一人が普通の服装、何食わぬ顔で紛れ込んでいた。もしやと思って見回してみると、西の大公家の次女様。次女様は人垣の肩越しに国王陛下を見詰めていた。
少し間をおいて、ジランさんは「アルヴィン」と穏やかに呼び掛けた。
「あなたの本当の姿を知る者は、もはやそれほど多くありません。でも、私は覚えていますよ。あなたはとても利発でとても気の好い子供でした。お菓子にせよ、おもちゃにせよ、身分を問わずに喜んで分け与えてしまう。あなたはそんな子供でした。そういうことを知っているがゆえに、私はこのような場には立ち会いたくなかった。あなたはこれまで王として良く頑張ってきました。しかしおそらく、あなたの良さはここでは活きません。正義の守護者。それが王家に課された責務。次の世代が立派に育っています。決断をなさい」
皆が無言で待ち続けると、陛下はゆっくりと腕組みを解き、顔を上げた。
「この場で宰相を解任する。王位継承順位二位を暫定的に宰相に任命する。私はこの場で王位から退く。王位継承順位一位を王の座に付ける。国の名をエスタコリンに改める」
◇◇◇◇◇
僕は王国西部ヴェストビークの街へ向けて高い空を飛び続けていた。周りにはフレクラント国の首脳陣。王都を飛び立つ直前、皆さんは僕に声を掛けてくれた。
僕にとっては初めての長時間にわたる高空高速飛翔。その上、勇ましくも拡声魔術を放ったばかり。疲労を感じたら、遠慮なく直ちに地上に降りること。何なら、体と体を綱で結んで、我々が引いてやろうかと。
初等学院生でもあるまいし、さすがにそれは恥ずかしい。不意の墜落なんて僕も御免。疲れを感じたら必ずすぐに合図する。僕は皆さんにそう約束した。
王都を出発したのは、審問の終了から一時間ほどが経った頃だった。通商交渉は無事に終了しており、国王陛下の裁断によって政変の向かう先も見えた以上、騒然とする王宮や王都にいつまでも居残る理由は無かった。
下方に目をやると、低空帯を低速で飛翔する人影、街道を駆け抜ける馬、走り続ける人。おそらく、国内各地に政変の報をもたらそうとする伝令たち。エスタスラヴァ王国が動き出そうとしていた。
東からの風に乗ったのか、行きよりも帰りの方が速かった。明らかにまだ半時も経っていない頃、前方にヴェストビークの街が見えてきた。あの街を発ってから何日も何週も過ぎたような気がするのに、未だ同じ一日、日暮れには程遠い頃合いだった。
西の大公家は僕たちのために軽食を用意してくれた。会議室には大公様と西部政庁の幹部が数人、フレクラント国の首脳陣六人と僕。それぞれ面識のある人も多いらしく、会話はそれなりに弾んでいた。
政変の報に接しても、大公様たちは慌てる気配を見せなかった。伝信台を通してすでに速報が届いていたらしい。さらにはジランさんたちの予測。大勢は決した。混乱が騒乱に発展する可能性は低い。仮に騒乱となっても、中央の衛士長以下が殿下たちに付いている以上、直ちに鎮圧されてしまうだろう。ただし今後、綱紀粛正の動きは国内各地に広がるだろう。そんな言葉が大公様たちを安堵させたようだった。
西部の人たちとしても、中央の政変に巻き込まれないよう事前に態勢を整えてはいたらしい。フレクラント国大統領の忠告に従い、西部政庁ではすでに不正の有無等の査察を終えている。さらには、中央の貴族が割れる事態となっても、西部の貴族は割れることなく一団となって動く。そんな取り決めを済ませてあるとのことだった。
また、西の大公家の長女様を始めとする西部の貴族の子弟が二十名程度、中央政庁の中級職や下級職に就いている。それらが不正に関与していないことや余計な派閥に加わっていないことも確認済み。西部の貴族は中央でも一団となって動く。大公様たちは自信を見せてそう言い切った。
いずれにせよ、現状では王都からの続報を待つしかない。詳報が届くのは早くても明朝になるだろう。助力のために西部の衛士隊の一部を王都へ差し向ける必要があるかも知れないが、西部にとってはすでに後始末の段階。大公様たちはそのように達観している様子だった。
同じ国内とは思えないほどに悠然とした雰囲気の中で、僕はゆっくりと軽食を摂りながら独り物思いに耽り続けた。
ジランさんを始めとする中統領以上の通商交渉団参加者は政変の情報を事前に入手していた。そして多分、基本方針はあくまでも直接の関与はせずに後ろ盾のみ。フェリクス殿下はしきりに話をフレクラントに結び付けようとしていたが、客観的にはやはりエスタスラヴァ内部の問題。フレクラント側が口を挟むようなことではなかったに違いない。
王都での通商交渉が長引いたのは、殿下たちからの催促だったのかも知れない。ジランさんにも王都に来てほしいと。事実、ジランさんが王都に到着すると、交渉はすぐに妥結した。朝一番の時点では、ジランさんもあれを催促とは思っていなかったのだろう。その思惑に気付いていれば、ジランさんは僕を帰国させようとしていたに違いない。
エルランド殿下は庭園で僕に警戒を促した。そしてその頃、政変の首謀者フェリクス殿下は王宮の外に出ていた。つまり、殿下たちとしてもあの時点で直ちに事を起こすつもりは無かったのだろう。交渉の終了を待ち、密かに交渉団に接触して相談する。そんな段取りを考えていたのだろう。
それを僕が引っ繰り返してしまった。父からは簡潔に釘を刺された。白狼の騎士の再来は虚構。わずかな類似性があるに過ぎない。フェリクス殿下が虚構をでっちあげてくれたおかげで僕は守られたのだと。経験を積んだ大人は凄いと僕は率直に認めざるを得なかった。
程なく歓談も終わり、皆が席を立とうとした時だった。ジランさんが声を上げた。
「私はここにもう一泊させてもらおうと思います。ちょっと私用で」
皆の視線がジランさんに向いた。そう言えば、ジランさんは先ほどから大公様と二人でひそひそと言葉を交わしていた。
「分かりました。私たちは予定通りに」と中統領の女性が了承した。
「それからケイも残りなさい。もちろんクレールも。やはり私としては、子供の墜落など目にしたくないのです」
「僕は大丈夫です」と僕は断言した。
「初めての長距離飛翔でしょう。念には念を入れなさい」
そこに副中統領の男性が口を挟んできた。
「我々が担ぎながら飛ぶことは普通に可能ですが、何か事故の報でも入ったのですか」
「いいえ。特に事故の報が届いている訳ではありません。あくまでも念を入れるため」
僕が父の顔色を窺うと、父は首を傾げた後に小さく頷いた。
◇◇◇◇◇
母屋の正面玄関前で交渉団の出立を見送り、西部政庁の人たちが屋敷を後にするのを見届けると、大公様は執務室へ向かうと告げてきた。大公様の声音は重苦しく、顔から笑みは消えていた。
執務室には、大公様、ジランさん、父、そして僕。全員が椅子に腰を下ろすと、大公様は溜め息をついた。ジランさんはすでに何らかの事情を聞いている様子。大公様に尋ねた。
「アンソフィーは今どこに」
「自室で待機するよう申し付けています。何たる軽挙と言い聞かせて」
僕は脱力し、椅子からずり落ちそうになった。今日という日はまだ続く。ここでも何かが起きていたのだ。
「尋常ではない話のように聞こえますが、一体何が」と父が口を挟んだ。
「突然、家出の準備を始めたのです。フレクラントへ行くと」
「それは出奔。いや。やはり家出か……」と父は首を傾げた。
「昨日、ケイ殿の話を聞いて決めたのだと思います」と大公様は溜め息をついた。
三人の視線が僕に集中した。僕は慌てて首を振った。
「僕は唆したりはしていません」
「そうは言っていません」と大公様は否定した。「昨日の午後と昨日の夜。アンソフィーとどのような話をしたのか、詳しく聞かせてもらえませんか」
「三女様が『フレクラントへ行ってみたい』と言うので、『たまの休みに旅行でもしたらどうか』とは言いました。それだけです」
「常識的な受け答えだと思います。それ以外にはどんな話を。例えば転……」
その瞬間、ジランさんが「アイナ」と鋭く声を掛けた。
「ケイからはそれを聞ければ十分。ケイが殊更に誘った訳ではないのなら、アンソフィーは以前から家出の気分を貯め込んでいた」
「いえ。ケイ殿に残っていただいたのは……」
「あとは当人に尋ねるべき。アンソフィーをここに呼びなさい」
険しい口調。ジランさんは苛立っている。王都であんな過激な争いに立ち会ったばかりなのだから無理もない。僕はそう感じて、さらに疲れた。
三女様が執務室に現れ、僕のすぐ隣の椅子に腰を下ろした。
「アンソフィー。説明しなさい」とジランさんが命じた。
「ケイ殿の魔法を見て思いました。フレクラントへ行かなければ上達しないと」
「分かりました。行きなさい」
大公様の表情が変わった。
「ち、ちょっとお待ちを」
「アンソフィーの訓練はどうするつもりだったのです。私としては、その話もしなければと思っていたのです。私は外の者ですから、ここまで口出しは控えていましたが」
「御配慮には感謝いたしますが……」
「アンソフィーは現在十二歳、近々十三歳。その年齢で暴発させてしまうようでは、訓練が上手く行っているとはとても言えません。このまま成長期を過ごしてしまったら手遅れになります。将来、夢の中で魔法を使い、眠りながら大爆発ということもあり得ます」
「その場合」と三女様が口を開いた。「そうなる前に私は死ぬしかないのでしょうか」
「あなたは暴発の瞬間、何を考えたのです」
「あ、あの……」と三女様はわずかに口ごもった。「光は掴めるのだろうかと……」
僕はウッと呻いた。皆は呆れたような表情をした。
「子供にありがちな夢想です。光は掴めるのだろうか。掴めるのであれば、光の剣の一つでも作れるのではないだろうか」
ジランさんはそう言うと、魔法発動の気配を見せた。ジランさんの目の前に小さな光球が浮かんだ。ジランさんはそれを手で払った。しかし、光球は消えず、光球の位置は変わらず、手をすり抜けただけだった。
「光はただ存在し、ただ照らすだけ。試してみる子供はいますが、あなたは明らかに制御不全です。ただし、死ぬ必要はありません。自然精気が薄い地へ行けば良いのです。そういう場所であれば、無暗に余剰精気を貯め込んでしまうこともありませんから。魔法の素質のある者が適切な訓練を受けなかった場合、そういう場所で一生を送ることになります。具体的には南のスルイソラ連合国」
ジランさんはそのように言い切ると、大公様に向き直った。
「アイナ。ちょっと、訓練の状況を説明しなさい」
そう促されて、大公様は深刻そうに話し始めた。
エスタスラヴァ王国の魔法訓練は、この地の自然精気の濃度とこの地の人々の平均的な素質に合わせたもの。ヴェストビーク家の子弟の指導者はこの地の中等学院を定年退職した元教員。長女様と次女様の訓練には何の支障も無かった。しかし三女様の場合、成長に伴って素質の違いは明らかとなり、現在は良い指導者を探している所。
「リゼット様。フレクラント国からどなたかを派遣していただけないでしょうか」
大公様の願いを聞き、ジランさんは父に目を向けた。
「クレールは以前、中等学院の教師をしていましたね。そして、妻のマノンは今も初等学院の教師」
「我が家の娘、ケイの姉も現在中等学院で教師をしています。しかし、派遣は難しいでしょう。魔法指導の技能を現役で有する生命学系の者は皆、教職に就いています。数年間の家庭教師のために今の職を捨てる者がいるとは思えません」
「それに見合う報酬は用意いたします」と大公様は言った。
「教師の職は順番ですから、一度離れたら簡単には戻れません。それ以前に、大公家の歴史の中で過去に似たような事例は無かったのですか?」
「かなり昔、フレクラント国に送って訓練を施していただいたと記録に残っています。しかし、今回はただの訓練不足ではありません。今フレクラントに送ったら、余計な詮索を受けて暴発の件が知れ渡ってしまうかも知れません」
「訓練にはそれに適した地というものがあるのです。ふんだんに自然精気を使えればこそ、強い魔法の訓練は進むのです。現実的にはフレクラントに行くしかないと思います」
ジランさんは腕組みをしてフームと鼻を鳴らした。
「そうですか。教職の経験者がそう言うのなら、やはり仕方が無い」
ジランさんはすぐに腕組みを解いた。
「アイナ。アンソフィーをフレクラントへ送りなさい。出来る限り速やかに」
「待ってください」と大公様は慌てた。
「あなたは決断が遅いですね」
違うと僕は思った。ジランさんが速いのだ。僕に一言、やっておしまいと言った時と同じような割り切り方。
大公様は苦しそうに首を振った。
「私たちの立場も御理解ください。アンソフィーは妃候補の筆頭です。ですから、内密に事を運ばなければ……」
ジランさんが呆れ顔になった。僕は「ん?」と首を傾げた。
「仕方が無いでしょう。きちんと訓練をすれば問題は解決。むしろ、優れた魔法使いになって帰ってくれば評価は上がるというもの」
「いえ。いくら優秀になっても、他の者にとっては暴発の過去の方が脅威に。二度と暴発しないとは証明できませんから」
僕は「あのう……」と口を挟もうとした。
「それなら、ケイはどうなるのです。少ないとは言え、子供の暴発は稀ではありません」
「やはりそれは黙っていた方が。エスタスラヴァでは稀ですから。皆、魔法力が弱いので」
僕は「あのう……」と口を挟もうとした。
「実際上、答が一つしかないのなら、そうするしかないでしょう」
「よほど気が合わないのならともかく、そうではないのなら、殿下との結婚はとても良い話です。何とか上手く行かせたいのです」
「頭が固いですね。上に立つ者には、熟慮だけでなく即断即決も必要なのです」
これは一種の家族喧嘩。父は黙って見守るつもりの様子。僕も諦めて待つことにした。
「誰であろうと結局は有りのままに実力を示し続けるしかないのです。上手く行かせたいのなら、上手く行かせる手立てを考えなさい」
「それなら……、しばらくの間、アンソフィーとケイ殿を入れ替えるとか……」
ジランさんが鼻で笑った。僕もエッと懐疑の声を漏らした。
「アイナ。冗談も錯乱も墓あなを掘ってからにしなさい」
「いえ。ちょっと思い付いただけで……。まだ死にたくはありません」
「墓穴を掘るという言い回しを知らないのですか?」
ジランさんは苛立ちを通り越して不機嫌になってきている。僕はそう感じた。
「そういう抜けた所は昔のままですね。そもそもこの件、あなたにアンソフィーを叱りつける資格があるのですか?」
突然、「リゼット様」と声が響いた。珍しいことに三女様が声を上げていた。
「その話、ぜひともお聞かせください」
「どうしましょう……。アイナ。自分から話しますか?」
大公様は呆然とし、頭を抱えて項垂れた。
「良いでしょう。私が話します」とジランさんは言い渡した。「六十六年前、息子の妻が亡くなりました。その喪が明けた時、息子はしばらく独りになりたいと言ってフレクラントに戻ってきました。その時にこの娘は何をしたと思います。息子と妻にべったりだったこの娘は、息子に泣いて縋ってかじりつき、一緒にフレクラントにやって来たのです。もちろん大騒ぎになりました。なのに、この娘ときたら、持ってきた背嚢を覗いてみたら、入っていたのはお気に入りの縫い包みと小さな財布だけ。何とお馬鹿でお気楽な」
大公や母親の威厳など雲散霧消。大公様は未だ頭を抱えて項垂れていた。
「お母様……」と三女様がこぼした。
僕は思わず吹き出しそうになった。
「結局、アイナは初等学院の五、六年生の二年間を我が家で過ごすことになりました。大公家の者は全く知らないと思いますが、アイナは息子にねだって二人で色々な所に出掛けていました。休日ともなればスルイソラ連合国などは当たり前。行き付けの店が出来てしまう始末。さらには、スルイソラのさらに南の大廃墟。そんな家出娘が家出のことで家出娘に説教など、笑いと涙が止まりません」
「お母様。あんまりでございます」と三女様が不満を漏らした。
「アンソフィー。あなたも同類」とジランさんは決め付けた。
出奔、遁走、家出娘。大公様と三女様は似た者同士。その上、次女様までもが駆け落ちなどと言う。久しく忘れていた感覚。多分二年振り。喜劇か悲劇か良く分からないやり取りに、僕は笑ってしまった。
「ケイ」とジランさんが僕を一瞥した。「そんなに楽しいのですか?」
僕は笑うことをやめた。
「リゼット様。もう御勘弁を。西の大公家は私だけの物ではなく、ヴェストビーク家だけの物でもありません。大公家の名誉にかかわることは私の一存では決められないのです」
「いずれにせよ、訓練するしかありません。そして、フレクラントへ送るのが一番とのこと」
家族喧嘩は一段落したようだった。僕は改めて「あのう」と口を挟んだ。「何か」とようやくジランさんが気付いてくれた。
「エルランド殿下は暴発の件を知っていましたけど」
大公様がへッと間の抜けた声を漏らした。「説明しなさい」とジランさんが命じてきた。僕は殿下との会話の概要を再現してみせた。皆は興味津々な様子で聞き続けていた。
僕の話が終わると、父はフームと鼻を鳴らした。
「知ってはいるが、候補からは外さない。それが王家の意向か」
「そのようですね」とジランさんも同意した。「殿下はケイがここに立ち寄ると聞き、ケイを試した上で、ケイにそれとなく伝言を託したのでしょう」
「僕を試していたのは確かですけど、あの話し振りはちょっと異様です」
「そうですか? わざとでしょう」とジランさんは鼻で笑った。
「殿下も悪党」と僕は舌打ちした。「でもあれでは、僕が伝言するとは限りませんけど」
「それでも構わないということなのでしょう。妃候補は他にも大勢いる訳ですし」
大公様が首を振りながら大きく息を吐いた。父が念を入れるように尋ねてきた。
「殿下は『何としてでも訓練を』とおっしゃったのだな?」
「間違いなく」と僕は頷いた。
「話は決まりだ」と父が宣言した。
◇◇◇◇◇
薄い明かりの無音の中、僕は独りぼんやりと立ち尽くしていた。白い荒野に白い霧。おもむろに一歩を踏み出すと、ジャリッという音、ザクッという感覚。起伏に乏しい無人の大地は小石交じりの砂で埋め尽くされていた。
不意に視界の先に門が現れた。石造りの巨大な門。扉も無く、連なる塀も無く、ただひたすらにそびえ立つ孤高の門。僕は門を潜り抜けて未知の異界を先に進んだ。
しばらく歩き続けると、遠くの方からゴリゴリ、ゴリゴリと重低音が聞こえてきた。当てどのない彷徨の中、僕は行き先を見付けて嬉しくなり、足早に音の源へ向かってみた。
腰蓑一つの巨人の姿。巨人の前には巨大な石臼。巨人は地面に腰を下ろして胡坐をかき、退屈そうに石臼で何かを挽いていた。ゴリゴリ、ゴリゴリ。そのたびに上臼と下臼の隙間から白い粉が零れ落ちた。
「巨人さん、巨人さん」
ゴリゴリ、ゴリゴリ。僕の呼び声は重低音に掻き消されてしまった。僕がその場で飛び跳ねながら両手を振ると、巨人はようやく気付いたらしく、手を止めてじろりと僕を見下ろした。
「巨人さん、巨人さん。何を挽いているのですか」
「精の種」
ぶっきらぼうな返事だった。僕を見下ろす視線には何の感情も込められていなかった。
「精の種とは何ですか」
「精の種は精の種」
辺りには臼で挽かれた白い粉が積もっていた。目を凝らしてみると、それはこれまで踏みしめてきたものと全く同じ白い砂。
「巨人さん、巨人さん。なぜ、精の種を挽いているのですか」
「毒気を抜くため。小僧も挽いてやろうか」
「いいえ。結構です」と僕は深々と頭を下げた。
「好意の分からぬ愚か者」
「巨人さん、巨人さん。ずっと挽き続けるのは退屈でしょう。僕が挽いてみましょうか」
無表情だった巨人の顔に薄い笑みが浮かんだ。
「やれるものならやってみろ」
僕が魔法を掛けると、上臼が勝手に回り始めた。巨人は手を叩いて笑い声を上げた。
「これは便利だ。この礼に早速小僧も挽いてやろう」
「いいえ。結構です」
僕は深々と頭を下げ、その場を後にした。霧に遮られて巨人の姿が見えなくなり、ほどなく笑い声も聞こえなくなった。
霧の中、白い荒野をしばらく進むと、ふと老婆が現れた。僕よりもかなり小柄なその老婆は何の驚きも見せずに僕に尋ねてきた。
「今日も巨人は精の種を挽いていたかい」
「はい」と僕は頷いた。「あまりにも退屈そうに挽いているので、石臼に魔法を掛けてあげました。今は石臼が勝手に精の種を挽いています。巨人さんは大喜びでした」
「おや、おや」と老婆は笑みを浮かべた。
「あのう」と僕は切り出した。「飴ちゃん、舐めます?」
「おや、おや。何と贅沢な」
老婆は僕が差し出した飴を受け取ると、小躍りするように大笑いした。
「何という大きさ。まるで小振りの饅頭」
「僕独りで作ったんです。砂糖水を一生懸命に煮詰めて。人の家に泊めてもらうのだから、僕もお土産を用意しなければと思って。一人しか貰ってくれませんでしたけど」
「おや、おや。真心の空回りは寂しいね」
「ところで、お婆さん。精の種の毒気とは何ですか」
僕の疑問に、老婆は首を傾げた。
「お前さんも知っているはずだよ。精の種の毒気。精の毒気。精の気。精気」
「精気は毒なんですか」
「どうだろうね。巨人には魔法の解き方を教えてあげたのかい」
「いいえ」と僕は首を振った。
「おや、おや。何といううっかり者」と老婆は小さく笑った。「それでは、地の底から精気が湧き出し続けることになってしまうだろう」
「それは良かった」と僕も笑った。
「良かった、良かった」と老婆も笑顔で頷いた。
程なくして笑いも治まり、老婆は僕を残して霧の中へ去って行った。そして声。
「お前さんの夢は光を掴んで人々を救うことなのかい」
「いいえ。それは寝ている間に見た夢です。僕には夢なんてありません」
「それなら、逃げなさい。どこか遠くへ。ずっと遠くへ」
僕はその場に横たわり、そのまま眠りについた。
◇◇◇◇◇
夏の朝日に照らされて緑に輝く木々と山。眼下にはフレクラント国とエスタスラヴァ王国を隔てる山岳地帯が広がっていた。
目を凝らすと、峰筋や谷筋を縫うように走る一本の道。人と馬らしき隊列がフレクラント国へ向けて歩を進めていた。学院で教えられた通りなら、あれはおそらくエスタスラヴァ王国の商人たち、積み荷は塩。国境の山並みを徒歩で越えると二泊三日の行程となるらしい。あの人たちは所々に設置された避難小屋に寝泊まりしながら先を目指すのだろう。
一方、高空帯を飛翔できる僕たちフレクラント人は滅多にあの道を使わない。一つ目の稜線から西はフレクラント国。山中のわずかに開けた場所には職人の工房が点在しているとのこと。と言っても、日常的にそこで暮らしている訳ではなく、西のフレクラント高原から通っているらしい。それは空を飛べればこその生活のあり方だった。
前方の空に目を向けるとジランさんの姿。その背中には三女様が括りつけられていた。
昨夜の夕食は初日の晩餐会ほどの豪華さではなかったが、ヴェストビーク家の皆さんと御一緒に。大公様が全員に事情を説明し、フレクラント国の秋学期に間に合うよう、三女様は僕たちと一緒にフレクラント国へ向かうことになった。
一つ揉めたのは受け入れ先。大公様は三女様に侍女を付けて東地方中等学院へ送ることを提案した。エスタスラヴァ王国にも、低空低速ではあっても飛翔できる者はそれなりにいる。エスタスラヴァ王国西部に隣接するフレクラント国東地方であれば、丸一日を掛ければ往復できるし安心だと。
その案はジランさんが一蹴した。フレクラント国の生活は強い魔法の使用を前提としている。侍女がいても暮らしはほとんど成り立たない。そもそも、エスタスラヴァ王国から頻繁に見知らぬ人の往来があったら無用な注目を浴びてしまうのは必至だろうと。
父は中地方中等学院への留学を勧めた。そこには国内で唯一寄宿舎がある。しかし、ヴェストビーク家の人たちは三女様の人見知りと孤立を懸念した。
ジランさんは自宅への受け入れを断った。波乱が無ければ近々、大統領に就任することになる。そうなれば、子供の面倒を見る余裕など皆無となる。ジランさんのその説明は至極当然と皆が認めた。
ジランさんの息子さんも受け入れ先の有力な候補と僕には思われた。しかし、そのことを口にする人はいなかった。現在、息子さんには新しい家庭がある。ヴェストビーク家の人たちはフレクラント人とエスタスラヴァ人の平均寿命の差を理解しつつも、息子さんに対して複雑な感情を抱いている様子だった。
結局、昨日午後の話し合いで「話は決まり」と宣言した父に矛先が向いた。
両親と僕。それが今の一家の構成だった。家の母屋には、以前に姉が使っていた部屋や、以前から物置として使われている部屋がある。さらには、母屋とは別に物置小屋。それらを整理すれば、三女様の受け入れは十分に可能。最終的に話はそのようにまとまった。
留学期間は最低でも一年、おそらく数年。父はそのように宣告した。フレクラント国と同様、エスタスラヴァ王国でも初等学院入学の年齢から魔法の訓練が始まる。しかし、その訓練は三女様にとっては不十分だった。三女様には素質と力がある。それなのに、技量はフレクラント国の初等学院中学年辺りの水準。その遅れを完全に取り戻さなければならない。父のそんな説明に皆さんは納得せざるを得なかった。
後方の空を一瞥すると父の姿。前を向けと父は手で合図を送ってきた。
昨夜、父は頭を悩ませていた。母にどのように説明すれば良いのだろうと。エスタスラヴァのお土産はお嬢様。母は善くも悪しくも初等学院の教師。本質的には子供好きということになっている。僕がそのように雑に答えると、父は無言でそっと溜め息をついた。
そして今朝、久し振りに就寝中に奇妙な夢を見たような覚えがあって、僕の寝覚めは悪かった。二年前の魔法医術士による診断では、それは心に澱を溜め込みすぎた結果とのこと。家に帰ったら、ひとまず自室に籠って布団を被ろう。僕はそんな気分に浸っていた。
気流の乱れを警戒しながら高空帯を中速で飛び続け、ヴェストビークの街を発って半時間が経った頃だった。一つ目の山並みを越え、二つ目の山並みを越え、最後の山並みが迫ってきた。
当初の予定通り、ジランさんは峠に着地すると合図してきた。そこで三女様を父の背中に括りつけ直し、そこから先は、ジランさんは中地方にある大統領府に立ち寄った後に自宅のある南地方へ、僕たちは大統領府には寄らずに直接西地方へ向かうことになっていた。
峠に降り立った。三女様は眼下に目を遣り呆然と立ち尽くしていた。僕にとってもここからの眺望は初めてのもの。深緑の森林、薄緑の田園、煌めく細流、雄渾な川。水と緑のフレクラント高原が広がっていた。
次章予告。アンソフィーを迎えた生活が始まる。ケイは仲間たちと共に冒険に出る。そして、世界の秘密の一端に触れてしまう。