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私はただ普通に生きていたいだけなんだと言う事をわかってほしい

作者: 藤江 氷花

私は、今すごく幸せだと言える自信がある。

 でも、最初から今の今までずっと幸せだったかと言われると悲しい事にそうとも言い難い。

 たくさん悩んでたくさん泣いてたくさんの壁にぶつかりながらの今がある。

 

 私の学生時代は、発達障害という言葉を聞く機会が全くと言うほどなくましてや自分が障害を生まれつき持っているなんて知らなかった。後に検査して私には自閉症スペクトラム(ASD)という発達障害だった事が分かった。他にも聴覚過敏や睡眠障害もわかった。だが、障害を持っているとわかり周りの理解や意識も変わった事で生きにくかった私の人生は大きく変わった。


 今思えば両親も私の担任の教師も言ってしまえば私に関わっていた多くの大人が私には手を焼いたことだろう。昔はよく母や祖母から頭が良かった、大人しかった、とても良い子だったと聞かされていた。むしろ手がかかったのは七歳下の弟の方で私は正反対に親離れしていて悪戯をすることもなかったので本当に手が掛からなかったらしい。

 普通の子としてなに不自由なく育ってきたつもりだ。私の家は決して裕福でお金持ちというわけではなかったが私には最高のパトロンがいた。父方母方双方の祖父達だ。

 欲しい物はなんでも買ってくれた。手伝いや片付けをしてもしなくても頻繁に小遣いもくれた。祖父達に怒られた事などないというぐらい甘やかされて私は育った。お金の価値や大切さなど知らなかったがお金をくれる人はいい人だと間違った解釈をして育った私は祖父達はいい人なんだと思い込んでいた。後に優しさや愛情はお金の問題ではないと早々に学習をする事になったわけだが。

 当時すぐ泣いて我儘ばかり言っていた弟に両親と祖母達、周りの大人は付きっきりだったしメロメロだった。

 居場所なんてなかった。祖父達だけが私の味方であり唯一甘えられる心の拠り所だった。

 私は弟に激しく嫉妬していたんだ。

 今思えば本当に酷い事をしてしまったと反省と後悔でいっぱいだ。

 弟が大切にしていた玩具を隠したりわざとゴミ箱に捨てた事もある。

 家族で出かけた時も繋いでいた手をおもいっきり引っ張って転倒させた。

 泣いて泣いてうるさくて仕方ない時首に手を回して絞めた事もある。

 私は弟が嫌いだった。

 大好きだったはずの両親や祖母達、当時遊んでくれていたいとこ達もみんな弟が奪ってしまったと思った私は弟への憎悪だけが膨らみ次第に周りの人間も一人ずつみんな嫌いになっていった。

 祖父達だけが大好きだった。

 そんな祖父達も次第に高齢になり私が中学三年の時父方の祖父、高校三年の時母方の祖父が他界した。

 悲しかったのか寂しかったのかは正直わからなかった。でもお葬式ではたくさん泣いた。ただただ私の味方はもういないんだと思った事は鮮明に覚えている。


 私も両親も大きな勘違いをしていた。

 手の掛かっていた弟は、成長するにつれ自立していき徐々に独り立ちしていった。

 私は成長することが出来なかった。

 元々身体は同年代の子と比べても小さく食べる事が元々嫌いだった私は常に痩せていて免疫力もなかった為よく風邪をひいていた。身体は少しずつ成長していったが精神年齢は三歳児並みしかなく思い通りにならなければ癇癪を起こし机の上の物や目に入るものを手当たり次第に投げてよくいろいろな物を壊しては両親を困らせた。

 私は外面だけはいい方で家の中でしか暴れることはなかったので周囲の大人は気づいていなかったかもしれない。

 実際一緒に住んでいなかった祖母は私のもう一つ顔を知らなかったと言っていた。


 私は普通の子供ではなかった。


 あまり記憶はないが幼稚園の時はとても楽しかった気がする。それも曖昧だが苦労した記憶はない。

 小学校からは苦労しかなかった。

 長い時間席に縛り付けられ興味もないしよくわからない話をひたすら永遠に聞き何を書いていいかもわからない事をノートに見様見真似でとりあえず書くが字の大きさや形やカラーペンの色が気になりその不満を解決することに夢中になると黒板を消されまた新しい事を書かれるが途中の文章が気になりそれ以上が書けないなんて事が毎日で、苦痛でしかなかった。教科書などの長くまとまった文章は読もうとすればするほど文字がくるくると回りだし読むことは困難だったし眩暈すら感じるほどだった。私にとって授業はただの拷問でしかなかった。

 私の教室にはよく授業中に脱走する子や突然腹を立て暴れ出す子もいたからその子達が普通ではない事がなんとなくわかっていた為あの子達と私は違うんだと思いながらただただ時間が過ぎるのを待っていた。でも、本当はこんな退屈な場所、窮屈な時間から解放されて自由に逃げ出したかった。そんな事しか考えていない私の頭に知識なんか入ることもなく私の成績は常に悪かった。テスト中は静かな空間に鉛筆や時計、教師の足音ばかりが気になり全く集中出来なかった。

 私の悩みは誰にも理解されず点数が低いとみんな大きなため息を吐きどうしてこんな簡単な事も出来ないんだと呆れられ責められた。

 でも、私には何が簡単で何が難しいのかもこの問題が私に何を問いかけているのかすら理解するのは困難だった。周りの大人達はいつでもそれ以上の要求をしてきた。やればできる。次こそは。私にはそれが堪らなく苦痛でストレスでしかなかった。

 頑張れ。頑張れ。頑張れ。

 周りの大人は口を揃えて同じ事しか言わなかった。私は頑張っている。何を頑張ればいいんだ。どこまで頑張ればいいんだ。といつも心の中で叫んでいた。

 悩んだ末に私は一つの答えにたどり着いた。

 カンニングだった。

 悪い事だとはわかっていた。

 でもそれ以上に求められる期待と叶えられない惨めさが嫌だった。それにカンニングをすればするほどよくわからない達成感と高揚感を得ることが出来ていた為一問二問だけだったカンニングは数が増えていった。

 他の人がカンニングをして怒られている時も自分はばれなかったという自信と謎のスリルが堪らなく私を興奮させた。そして点数が上がれば周りは褒めてくれた。小学校、中学校はほぼカンニングで私は点数を取っていたかもしれない。

 高校では小学校、中学校のように甘くはなかった。見つかれば即何らかの処分があった為流石に恐怖を覚えた。一度だけ改ざんがばれてしまい停学処分になる宣告をされた事がある。あの時の教師の顔は今も覚えている。それからはわからないなりに勉強したが基礎知識がほとんどない私には赤点を取らないようにするのが精一杯だった。

 私が唯一学校で集中して取り組めたのは作文だけだった。自分の意見や思いを相手に訴えかける事ができる。意見の言えない私が唯一素直になれる瞬間だった。作文を書いている時は何時間でも座っていられたし楽しく心が弾んだ。

 他の勉強はとにかく嫌いだった。特に体育は嫌いどころの話ではなかった。なぜ必修科目なのかなぜ他の人には容易に出来ることが私には出来ないのかただただ謎でしかなかった。飛べない跳び箱、回れない鉄棒、動けないマット。出来ない姿を教師や周りが見て笑っているようで体育は屈辱的だった。

 勉強は相変わらず嫌いだったが夢だけはしっかりと持っていた。当時私は看護師という仕事に憧れていた。私の母親は重度の視覚障碍者でたくさんの苦労をしてきた人だ。そんな母親を私は助けたかったんだと思う。

 看護師になりたい!その思いで嫌な勉強にも必死に喰らいついた。高校では卒業するのが精一杯だったため私は一年浪人して予備校に通っていた。受験という最大のミッションに挑む受験生の気合いや勉強量は予想を超えるほどで基礎のない私には予備校の授業についていくのは難しかった。ある人が言っていた様々な教科書や参考書、問題集に手を付けるのではなく一つの教科書と問題集を何度も反復するのが一番覚えられると言っていたのを思い出した私は授業に出ることを辞め一人で黙々と決めた問題集を反復した。最初は意味も分からなかったし法則や規則も理解出来なかった。だが、やってくにつれ問題が解けるようになっていき応用は最後まで解けなかったが簡単な基礎問題は人並みに出来るようになっていた。その時私は気づいた。誰かと集団でしかも無理矢理勉強させられても苦痛だし覚える事は出来ないと。自分のペースで好きな時に取り組めば嫌いな勉強も苦痛なくすることが出来た。結局、高看になれる大学や専門学校には合格出来なかったが准看になれる学校にはなんとか合格することが出来た。もちろん、入ってからは全然ついていけず一年半という短い時間で自主退学したが学校に入れた事は私に大きな自信を持たせてくれた。

 

 私が学生時代最も悩んだのは人間関係だった。

 元々話すのは好きだったが誰かに合わせて話す事がとにかく苦手で自分の事しか話す事は出来なかった。家族の事、夕食の事、大好きなアニメの事、とにかく話したい事を話していただけだったが周りにはつまらなかったみたいで次第に自慢話と捉えられるようになってしまい話していても楽しくないとよく言われた。だが、何がこの人には楽しくてなにを話してはいけないのかもよく分からないので話す事を辞め周りの話を聞くだけになっていった。人の話をひたすら聞くのも私にはすぐ飽きてしまい内容が全く入って来ず聞いてるの?と何度聞かれたかわからない。

 怒っている時もなぜ怒っているのか何に対して怒ったのかもわからないので余計に怒らせてしまったり絶交だ!と怒鳴られる事も度々あった。泣かせてしまう事もよくあったがなぜ泣いているのか、なにがいけなかったのか私には全く分からなかった。

 教師が怒る時は不思議でしかなかった。早口でここが悪いあれはなんだと怒鳴り散らし面倒なのでとりあえずすみませんでしたと謝ってみるがそれも駄目だと余計に怒る。私には教師が怒っている内容よりなぜ謝ったのに駄目なのかという疑問で頭がいっぱいだった。次第に親でもないのになぜこうもムキになるのだろう、疲れないのだろうかそんな事しか考えてはいなかった。

 自分ではなく他の人が怒られている時は関係ないので違う事をしたり、お腹がすいていれば気にせず給食やお弁当を食べていると何故かふざけるな!と八つ当たりされる事もあった。私は何もふざけていないし自分の事ならともかく他の人が怒られているのを見て聞いてどうしろというのだろうとよく思った。散々怒鳴り散らして満足すると教師はいなくなりやっと終わったかと安堵していると今度は周りから余計な事をするな、空気読めないKY!とよく言われた。また始まったと私は本当にいつも疲れていた。

 周りからは変わっている、変な奴、不思議とよく言われ大人から普通にしていなさいと責められたが私には大人達の言う普通が分からなかった。

 試しに当時仲の良かった友人に私って変かな?と聞いてみた事がある。友人は個性的なだけだよ!そんなところ私は面白くて好きだよ!と言ってくれた。だから特に気にすることもなく小学校六年を終えた。

 

 中学校、高校の思春期の同年代との暮らしはまさに地獄だった。

 私は女性らしさという意識が人より欠如していて服装も身だしなみも全く気にしていなかった。冬場なら二、三日同じ服や靴下でいようが毎日お風呂に入らなくても自分は気にしていなかったしどうでもよかった。

 だが、周りはそれを許してくれなかった。

 汚い、臭い、不潔。

 私は次第にクラスでいじめられるようになり仲の良かった友達もみんな離れていった。自業自得といえばそうなのだが身だしなみを気にして直してみたがもう周りの印象と頭にこべりついた記憶が私の全てを否定していて何をしてももう手遅れだった。

 毎日罵倒され暴力は振るわれなかったが教師の見えないところで黒板に悪口を書かれ教科書や筆記用具といった私物を隠されたり大勢の前で臭い!臭い!と笑いながら言われるなどは日常茶飯事だった。やめてほしい、もういじめないでと心では叫んでいた。でも、少しでも違う行動、発言をすれば全て笑いの対象にされる。それが堪らなく恥ずかしく惨めで苦しく辛かった。

 私は学校で完全に居場所を無くした。

 殻に閉じこもり自分が自分でなくなり存在理由すらわからなくなりなぜここにいなければならないのかと毎日思った。笑う事も泣く事も声を出す事すら出来ない。

 体育や調理実習など誰かとペアでする教科は本当に嫌だった。

私の触ったボールや器具は汚いと言って誰も触らないか汚そうに嫌そうに持つ。周りはそれを楽しそうに笑っていた。

 私が一体何をしたというのか。なぜこんなにも惨めで辛い思いをしなければならないのか。

 人の笑い声、視線、行動、全てが恐怖の対象だった。

 私は学校に行きたくなくなった。

 両親や教師は許してはくれなかった。

 学校に来い、休んで家にいてどうすると言われたが私は逃げたかった。この地獄の環境を今すぐどうにかしてくれ、助けてくれと何度訴えても誰も助けてくれなかった。

 思考力は失われやる気も気力も全てなくなり毎日時間が過ぎるのを待った。

 夜は悪夢に魘され寝るのが怖かった。寝たら嫌な事を思い出した。目を瞑ると記憶が蘇った。私の睡眠時間は授業中か家族や誰かと出かける車の中だけになっていた。誰かと居る時は不思議と悪夢を見ることは少なかった。

 いつも何かに怯えていて心は休まらずそのストレスは学校で発散出来ない分家族に矛先は向かった。

 全てが気に入らず毎日のように家で暴れた。家族に殺意すら湧いていた。言葉遣いも荒くなり叫び散らした。

 それでも私の心は常に不安定だった。

 ただの八つ当たりだった。家族は私の為に最善を尽くしてくれた。そんな事わかっていた。わかっていてそれを認めても変わらない環境のほうが腹が立つという感情のほうが勝っていた。

 その頃から私の唯一の拠り所は自傷行為となっていた。

 初めはちょっと腹が立った時床を殴ったり壁を蹴るといった少し身体がジーンと痛くなる程度だった。だんだんエスカレートしていき剃刀やカッターで腕や足、首を切りつける、痣が出来るまで何度も壁に腕を叩きつける、そんな事ばかりしていた。願わくばこのまま死ねたらいいのにと思うようになり自傷行為の回数は日に日に増えていき身体は常に傷だらけだった。全てどうでもいいはずなのに人に傷や痣は見られたくなかった。出来るだけ隠していた。

 身も心もボロボロでいつ死んでも良かった。車に轢かれようか。飛び降りようか。首を吊ろうか。死ぬことばかり考えていた。


 私の人生が変わったのは二人の人物の出会いだった。


 こんな私を好きだというもの好きが現れた。

 彼との出会いは高校だった。

 彼は高校の時に所属していた部活の先輩だった。

 なんとなくで入った部活でやる気もなかったし飽きたら辞めるつもりでいた。顧問とは相性が悪くよく出来ない事を責められた。

 部活は嫌いだった。

 だが、部活の先輩方だけは好きだった。

 無口だけど何でも出来る頼れる先輩。

 明るくて面倒見がよく兄のような先輩。

 頭が良くて真面目で努力家なのにおどけていつも周りを楽しませてくれる愉快な先輩。

 様々な技術を持ち細かく丁寧に何度でも同じことを教えてくれる先輩。

 部活の事だけでなく普段の生活での悩みやいろんな相談を聞いてくれる先輩。

 初めて出来た居場所だった。優しくしてくれて出来なくて怒られる事はよくあったが誰も私の事を見捨てなかった。

 何よりあだ名をつけてもらえた事が本当に嬉しかった。

 でも反面で凄く怖かった。

 いつか見放されたら?クラスでのいじめを知って嫌われたら?と考えると怖くて怖くて仕方がなかった。だから深く関わらないようにした。これ以上好きにならないようにした。微妙な距離を保った。

 誰も信じていなかった。誰かを信じてどうせ裏切られて傷つくなら私には誰も必要ない。そう思っていた。

 きっかけは気まぐれだった。

 一番関わりの浅かった先輩にいじめられてきた事、毎日嫌われるのかと思うと怖いと話してみた。その時の感情は覚えていない。同情してほしかったわけではない。ただ知ってほしかったんだと思う。

 話し終えると彼は泣いていた。

 そして私を抱きしめて辛かったんだねと言ってくれた。

 その時私は思った。

 みんながみんな嫌うわけじゃないんだ、こんな私を受け入れてくれる人がいるんだ。私は泣いていた。何年ぶりだろうというぐらい人前で泣いたのは久しぶりだった。

 そして彼は誰も受け入れてくれなかった私を好きだと言ってくれた。これからは俺が支えると言ってくれた。

 高校一年生の冬、初めて私に彼氏が出来た。

 クラスでは変わらずいじめられていたが彼がいてくれたから耐える事が出来た。

 嫌いだった学校も部活も彼のおかげで好きになれた。

彼には本当に感謝している。

勿論、彼だって全てが完璧な人間ではない。でも、それは誰にでも言える事で全て完璧を求めるのであれば私も同等の立場に立てるだけの価値がある女にならなくてはならない。

私には、そんな価値微塵もない。障害があるだけでもかなりの減点対象になる。それに加えてこだわりが強い。片付けが出来ない。偏食がある。知識も何もない。言い出せばキリがない。

彼は、そんな私でも受け入れてくれる。

では、私も彼の出来ない事、苦手な事を受け入れればいい。それだけの事だ。何も難しい事はない。

元々深く考えない性格の私は、その時仮に腹を立てたとしてもほとんどの出来事を忘れてしまう。

だから正直どうでもいい。

それに彼は、それ以上に素晴らしい人だ。

私の出来ない勉強は周りの誰よりも出来る。出来ない事、苦手な事どんな事でも前向きにとらえ挑戦する。私の事を少しでも理解しようとしてくれる。

彼は、私の掛け替えのない人であり数少ない大切な人だ。少し出来なくても構わない。それが彼であり私はそれで満足している。

今もこれからも、私は彼の横で笑って生きていきたい。


 あることがきっかけで私は死のうとした。

昏睡状態で救急搬送された病院で今の主治医と出会った。主治医は今までの大人とは違っていた。

 上部だけ話をはいはいと聞いてその場をやり過ごすそういう人ではなかった。親身になって話を聞いてくれ両親と私双方の話を聞いた上で改善点や問題点を客観的主体的に話してくれた。

 私は、生まれつきこだわりが強くこうでなければ嫌だとかこれはこうと一度決めるとそれしかしないし出来ない。でもその事について責めたりああしろこうしろとは言って来ない。無理なら無理しなくていいと言ってくれる。とても気が楽だった。

 以前通っていた心療内科の先生はああしろこうしろあれは駄目だこれは駄目だがとても多かった。そして、私の話と親の話を聞いて自律神経失調症と起立性調節障害と診断した為思春期にありがちな症状として捉えられてしまい学校側への配慮など何も指示を出したりはしなかった為学校側も私の精神状態は把握しきれていなかっただろう。

 今の主治医は生まれつきの発達障害、自閉症スペクトラムと診断を出し両親や彼などにもその都度これは出来るけどこうする事は困難、事細かく説明して指示を出してあげれば出来ると明確に説明してくれる為凄く今は配慮され生活が送れている。

 何より驚いたのは誰もが私の腕の傷を見たらまずは引くのに主治医は責める事もなく「先生の腕もやるかい?」と笑いながら腕を出してきた時は私の頭にはこの人は不思議な人だという言葉が浮かんだ。私が本当に切り付けたらどうするのだろうかという恐怖はないのだろうかと思ったが平然と笑っていた。寛大過ぎて驚いた。

 いつも思うのはもっと早くに主治医に出会えていればと思う。IQ74の私は知的障害が全くないわけでもなくグレーゾーンという事もありとても生きにくかっただろうと主治医は言っていた。特別支援学校に行くほど大きな障害が目立っていたという事もなかったが月何回かの支援学級やカウンセラーが常にその都度支援していてくれていたらこんなに捻くれた性格にはならなかったのではないかと思う。学校ももっと楽しめたかもしれない。

 主治医は私の理解者であり何でも相談出来る大切な人だ。

 

 彼と今の主治医に出会えた事で私の人生は大きく変わった。


 私は、言われた事された事誰に何を言われたか何をされたか覚えているしこれからも忘れられないだろう。私の中には癒える事のない大きな傷がある。未だに悪夢で魘される夜がある。好きな人と未だに手を繋いで歩くことが周囲の目が気になり出来ない。服装も出来るだけ目立たない黒が多くおしゃれが出来ない。あの目が、声が、私を恐怖でがんじがらめにする。私は永遠にいじめられた事実から解放されない。でも、私に何をしたか何を言ったか誰も覚えていないし忘れてしまっている事だろう。まだ、陰で笑いものにされているかもしれないという現実が堪らなく悔しく腹立たしい。

 もし、法律で裁けるのなら一人一人の罪を告発し償ってもらいたい。

 でも、それが出来ない。

 書いていいのなら全ての人の名前を晒したい。

 憎んでいるし恨んでいるしこれからも許す事は出来ない。

 いじめていた当事者達はもちろん許す事は出来ないが何より許せないのは当事者達の親だ。

 私の親がいじめを学校側に報告した時親達はうちの子の将来に関わるから公にしないでほしい、と言ったと聞いた。

 私はへえーと怒りを通り越して笑いが込み上げた事を今でも覚えている。いじめの事実を知ってなお自分の子供の将来を心配するのか。では私の将来は考えてくれたのだろうか。私は他人だからどうでもいいのか。なんとご都合主義なことかと笑えた。

 私の両親に平気な顔で近づき私に元気だった?と言ってくる親達の心情も理解が出来ない。私は自分の親に何度か「お宅のお子さんが私に何をしたかわかりますか?」と言っていいか聞いたことがある。親はあの子の親は関係ないと言うが私の気持ちは収まらない。

私のいじめはクラス全体で行われていたため余程学校に興味がないか不登校だったかそれ以外は絶対に知っているはずだった。知らなかった、うちの子は関係ないというのは虫が良すぎるのではないか。もし、私がいじめをしていた当事者だったなら親は逆上し私を殴る勢いで責め立てるだろう。

 私の気持ちとは裏腹に接してくる親達に怒りを感じる。

 だが、私にはどうする事も出来ないんだ。

 凄く悔しい。


 だから、心からお願いしたい。


 今いじめをしている人、いじめを見て見ぬふりをしている人

 あなたがつけた傷はあなたには残らないかもしれない。でも、その人には見えない傷が永遠に残り続ける。

 あなたの罪も消える事はない。

 いつか罰があたるとかそんな迷信はどうでもよくてその場が楽しいからとかストレス発散が出来るからという理由で犯罪に手を染めている事だろう。

 あなたのしている事はただの自己満足で殺人だ。

 そんな自己都合で泣いている人がいる、傷ついている人がいる、死のうとしている人がいるという事をどうか知ってほしい。

 そして、さっさと下らない行為を辞めてほしい。


 今いじめを受けている人

 もう我慢しなくていいんだよ。

 いっぱい我慢したね。もう辛い、苦しいって叫んでいいし泣いていいんだよ。

 誰かがきっとあなたの声を聞いてくれる。

 あなたの頑張り、あなたの努力を見てくれている人が必ずいる。

 死のうとしているのならもう少しだけでいい、踏み止まってもうひと頑張りしてみよう?

 きっと誰かが助けてくれる。

 諦めるのはまだ早いよ。

 大丈夫、勇気を出して一歩踏み出してみよう?


 そして今だから言いたい事をある人達に伝えたい。


 私の担任をしてくれていた先生方へ

 私は当時先生方を恨んでいた。助けてもくれず自分のクラスの現状からも目を背けてただ学校に来いとだけ言ってくる先生方が嫌いだった。

でも、今なら先生方が影で支えていてくれた事、見捨てず守っていてくれていた事がようやく分かった気がする。

 友達もいない環境で先生方が友達のように接してくれていたから私は孤立したクラスでも居れたんだと思う。

 たくさんの迷惑をかけてしまった謝罪と心からの感謝を伝えたい。

 本当にありがとうございました。


 私はただ認めてほしかった。ただ生きていていいよ、そう言ってもらいたかった。

 本当に辛く悲しい学校生活だったがその中で出会えた人達もたくさんいる。

 その人達のおかげで卒業でき今もこうして生きているのだと思う。


 憎しみの対象だった家族を今は大好きだ。

 喧嘩をする事もある。変わらず泣き喚いて暴力を振るう事だってある。

 それでも家族は決して私を見捨てないしいつもいてくれる。

 家族の為毎日働いて何歳になっても努力し続けている父を誇りに思っている。

 心配性で一言二言多いがいつも明るく元気で誰に対してでも全力で向き合う母は本当に逞しい。

 姉貴姉貴とこんな私を慕ってくれる弟は今では凄く可愛い。

 幾つになっても元気で優しくどんな時でも支えてくれる祖母達にはいつまでも長生きしてほしい。

 みんなみんな大好きだ。


 自分の子供の事で悩んでいる家族も世の中にはたくさんいると思う。どうしてうちの子だけ、育て方を間違えたと悩み苦しんでいる人もいるだろう。

 

 今お父さんの人へ、これからお父さんになる人へ

 子供はお父さんに憧れます。

 厳しく時には優しく家族という存在を支えてくれるいなくてはいけない存在です。

 辛い事、苦しい事から逃げず戦っている姿を子供はしっかりと見ています、誇りに思って下さい。

 お金を稼ぐ事に囚われずもっと周りをゆっくりと見て下さい。

 お母さんとは違う、いつでも大きな手で腕でその子を抱きしめ守ってあげる事が出来るのはお父さん、あなただけでしょう?

 笑顔でその子の名前を呼んであげて下さい。その子もきっと微笑み返してくれます。


 今お母さんの人へ、これからお母さんになる人へ

 子供はお母さんが大好きです。

 不安な時、寂しい時、悲しい時、怖い時、どんな時でも一番落ち着くのはお母さんの声、姿、匂いです。

 嬉しい時、楽しい時、褒めてほしい時もお父さんより先にお母さんに一番に見てほしい、聞いてほしいんです。

 難しい小細工は必要ないしいらない。

 ただ優しくその子のを受け入れてあげて下さい。

 そしてその子が今生きているという事の素晴らしさを感じれるように共に寄り添って歩んであげて下さい。それは、お母さんにしか出来ません。

 世界で唯一その子に嘘偽りない愛してると言えるのはお母さん、あなただけでしょう?


 自分の子供を信じてあげて下さい。

 他と違うかもしれない。出来ない事も人より多いかもしれない。なんでと自分を責めてしまうかもしれない。

 でもその子は今を必死にがむしゃらに頑張っています。

 それをお父さんお母さんが否定してしまうと子供はもう誰も頼れなくなります。甘えられなくなってしまいます。

 まずは他と比べる前にその子だけをみてあげて下さい。

 どんな子にもいいところや誇れる素晴らしい才能が必ずあります。

 それを否定しないであげて下さい。


 あなたには無限の可能性がある。

 出来ない事だけをみて悲観せずもっと大きな世界を見てほしい。

 その気になれば人は何でも出来る。

 諦めないでください。

 

 私は人とは違う。

 出来ない事だらけだし苦手な事や嫌いな事も多い。

 そして、自閉症スペクトラムという障害だってある。

 たくさん泣いてたくさん苦しんで何度も死のうとした。

 でも、こんな私にも見捨てないでいてくれる家族がいる。

 ありのままの私を受け入れこんな私を大好きだと言ってくれる大切な人がいる。

 支えてくれる主治医がいる。

 多くの経験をした分私には人々に伝えたい、訴えたい思いがある。

 私の人生も捨てたものではないと今なら思える。

 不幸の中から見つけた数々の思い。

 だから私は今、胸を張って言える。


 私は今、凄く幸せだ!


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